ぶらあび

クラシック・ジャズ・タンゴ・邦楽・民族音楽等の音楽、オペラ・バレエ・ダンス・ミュージカル・能楽・歌舞伎・文楽・日本舞踊等の演劇、落語・講談等の芸能、茶道・華道・香道等の芸道、絵画・彫刻・陶芸・書画等の美術、古典文学・思想書・宗教書等の文学の感想等をメモ帳代りに書き綴って行きます。Copyright (C) 2007-2018 Administrator All Rights Reserved.

【固定記事】お詫び

芸術家の皆さんから演奏会や舞台、展覧会等へのお誘いを頂戴しますが、長らく某通信会社による(電波等も使った)企業ストーカーにつきまとわれ(当方には何の落ち度もなく某通信会社(このブログを見ていた某通信会社の従業員が発端)の一方的かつ偏執的な思い入れによるもので本当に気持ち悪く迷惑しています)、このままの状態で静粛が求められる演奏会や舞台、展覧会等へ赴くと不本意にも皆さんにご迷惑をお掛けすることにもなり兼ねませんので、未だ演奏会や舞台、展覧会等へ足を運ぶことができません。皆さんがどんな気持ちで演奏会や舞台、展覧会等の準備をされてきたのかに思いを馳せると、そのような事態だけは絶対に避けなければならないと思っています。できるだけ早く解決して演奏会や舞台、展覧会等へ足を運ぶことができる状態に戻りたいと切望していますが、それまでの間はご理解、ご容赦下さいますようお願い致します。

なお、FaceBook等でご招待を頂いた演奏会や舞台、展覧会等に関する情報を右のメニューバーの『オススメ公演』で紹介しておりますので、是非、一般の方でご都合のつく方は足をお運び頂き、宜しければ感想等をお聞かせ下さい。上述のような事情で人生を無為にしている、せめてもの慰めにしたいと思います。

管理人 敬白

【注】拙ブログと同名の音楽教室があるそうですが、拙ブログや撲とは全く関係がありません。偶に、一般の方からお問い合わせを頂きますが、返信致し兼ねますのでご承知置き下さい。

 

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シネマ歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」

来る3月21日(321)は春分の日で祝日(自然を讃え、生物を慈しむ日)。丁度、この日はバッハの誕生日で、しかも今年はバッハ、ヘンデルスカルラッティ生誕333年目(色々な意味で三位一体!)なので、全国で様々なイベントが目白押しです(この日、磯山雅さんのブログが更新されないことは心から残念でなりませんが…合掌)。バッハの誕生日に野暮な話題ではありますが、春分の日が彼岸の中日(祖先を供養する日)であることに因んで…バッハは肖像画を見てもメタボ体型であったことが分かりますが、実際も大食漢であったという記録が残されています。晩年、バッハは脳卒中を発症し、また、白内障を罹患して視力が衰えていたことは知られていますが(バッハの直接の死因は白内障の手術失敗と言われており、この手術を執刀した世界的に著名なヤブ医者ジョン・テイラーヘンデル白内障の手術にも失敗してその翌年にヘンデルが他界していますので、次々と偉大な音楽家の寿命を縮めた名うての音楽家キラーと言える存在です。)、これらの特徴的な症状からバッハは糖尿病(食事で作られるブドウ糖によって血管が詰まり脳卒中白内障等の合併症を発症する病)であった可能性が高いことが指摘されています。一般に、糖尿病は生活習慣(高カロリー・高糖質の食生活や運動不足など)によって罹患すると言われていますが、そのためにフーガの技法を含む晩年の傑作が損なわれてしまったという恨みが残ります。正月のブログ記事にも書きましたが、日本では明治維新に伴う和製洋食の誕生と高度経済成長に伴う飽食の時代を迎えて、日本人は(現在では世界無形文化遺産に登録されて世界から高い評価を受けている)和食文化をあまり省みなくなり、食による身体の破壊が社会問題化するに至って「医食同源」という言葉まで生まれました。近代合理主義を背景として食の即物的な面のみに興味を惹かれて五感(味覚、視覚、嗅覚、聴覚、触覚)に訴える「消費としての食文化」だけを持て囃すのではなく、食の本来的な意義である「生命の営みとしての食文化」という文脈から日本の食文化を捉え直し、今一度、現代における食の豊かさとは何なのか日本の食文化の質を問い直す時期が来ているのではないかと感じます。因みに、来る3月20日、日本橋に食事をしながら能楽を鑑賞できる劇場型レストラン「水戯庵」がオープンします。人間国宝の能楽師、大倉源次郎さんが「古より芸と食とは切っても切れない関係にあり、芸で心を、食で身体を育む」と語っていますが、能楽の源流である申楽や田楽は生命を育む自然の恩恵への感謝(又はその生命を奪う神の威光への畏敬)を歌舞音曲で表現したものであり、「芸(藝)」という漢字の語源を紐解けば「植える」「種を撒く」という意味を持っていることからも、人々の心に何かを芽生えさせる営みに他なりません。劇場型レストラン「水戯庵」の野心的な試みは「芸で心を育む」体験を通して「食で身体を育む」意義を捉え直す契機にもなるもので、非常に興味深く感じます。

suigian.jp

さて、先日、シネマ歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」を拝見したので、自分の備忘録として簡単に感想を残しておきたいと思います。その前提として、「籠釣瓶花街酔醒」の主要登場人物である花魁八ツ橋は遊女ですが、現代の日本では「芸者」や「私娼」(但し、非合法)は存続していますが、いわゆる「遊女」は絶滅してしまいましたので(但し、遊郭が育んできた良き伝統や文化を保存する活動はあります)、この「遊女」というものをより良く理解するために、(冒頭で「芸と食」について触れましたので)今度は「芸と色」について「遊女」の発生史からごくごく簡単に触れてみたいと思います。丁度、大河ドラマ「西郷どん」で品川宿の旅籠「磯田屋」(女優の高梨臨さんが演じる“およし(源氏名ふき)”は飯盛女という設定)において薩摩藩の西郷吉之助や福井藩橋本左内らが密会するシーンが登場しますが、「北の吉原、南の品川」と言われるほどの二大歓楽街だったようです。「北の吉原」は幕府公認の遊女屋を集めた「遊郭」であったのに対し、「南の品川」は東海道の宿場町に幕府非公認の私娼屋が集まった「岡場所」で、前者は上級の武士、豪商、歌舞伎役者(西洋の貴族階級)などの遊び場、後者は中級以下の武士、商人、農民(西洋の市民階級)などの遊び場でした。この点、遊郭は、岡場所と異なって単に色事に興じるだけの場所ではなく、芸事による風流な遊びを楽しむ場所として発展しました。この背景には、武士は自由恋愛の末に好きな相手と結婚するのではなく、家同士の政略的な理由から結婚相手を決められるケースが殆どだったので、金銭的に余裕があった武士は理想の恋愛を求めて遊郭へ通ったと言われています。しかし、江戸時代後半になると武士は経済的に困窮し、岡場所だけではなく遊郭にも自由恋愛が許されていた裕福な商人等が増え始めると、遊女に理想の恋愛や高い教養等は求められなくなり、芸事が廃れて色事のみを求める風潮が生まれましたが、それでも江戸時代には現代のように女性の処女を尊重する西洋的な価値観はなく遊女を蔑視する社会的な風潮は希薄だったので、現代人が想像するほど遊女の社会的な地位は低くなかったと言われています。

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洋の東西を問わず、芸術が発展する過程で「遊女」(前近代的な存在である「遊女」が特定の男性に性を支配されない自由な女性であったのに対し、近代的な存在である「愛人(妾)」は特定の男性に性を支配される不自由な女性で、遊女と比較すればキリスト教的な価値観に親和的)が果たしてきた役割は看過できませんので、以下では遊女の発生史について簡単に頭の中を整理しておきたいと思います。

 

歌劇「タイス」に登場するヴィーナスの巫女にして高級娼婦である舞姫タイス

能「江口」に登場する普賢菩薩の化身にして江口の遊女の霊である江口の君

 

現在、執筆中。

 

ttcg.jp

 

【題名】シネマ歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」
【脚本】河竹新七
【出演】<佐野次郎左衛門>中村勘三郎
    <八ツ橋>坂東玉三郎
    <九重>中村魁春
    <治六>中村勘九郎
    <七越>中村七之助
    <初菊>中村鶴松
    <白倉屋万八>市村家橘
    <絹商人丈助>片岡亀蔵
    <絹商人丹兵衛>片岡市蔵
    <釣鐘権八坂東弥十郎
    <おきつ>片岡秀太朗
    <立花屋長兵衛>片岡我當
    <繁山栄之丞>片岡仁左衛門
【公開】2012年
【感想】ネタバレ注意!

 歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」は三代目河竹新七の作で、江戸時代の享保年間に実際に行った事件「吉原百人斬り」を題材として戯曲化しています。下野国佐野の豪農であった佐野次郎左衛門は江戸町一丁目にあった大兵庫屋がお抱えの花魁八ツ橋に惚れ込んで通い詰めますが、花魁八ツ橋が他の客と情を通じる様子に嫉妬して籠釣瓶という銘の妖刀で花魁八ツ橋とその周囲に居た者約60名を殺傷したという事件で、歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」 の他に歌舞伎「青楼詞合鏡」や歌舞伎「杜若艶色紫」 に脚色されています。

 

籠釣瓶花街酔醒の感想を簡単に書きます。四谷怪談に登場する民谷伊右衛門の「色悪」に対し、籠釣瓶花街酔醒に登場する花魁八ツ橋は「悪女」にカテゴライズされますが、数々の歌舞伎、オペラやその他の芸術作品に描かれている「悪女」を題材に悪女論(とりわけ最もタチが悪く男をダメにする「悪女の深情け」)に簡単に触れてみたいと思います。

 

現在、執筆中。

 


シネマ歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』(かごつるべさとのえいざめ)

男達を魅了する花魁が着飾る衣装やアクセサリーは庶民の羨望の的となり、吉原が江戸時代の流行の最先端を行くファッションの発信地となりました。当時は身分の高い公家や武家のみが化粧をしていましたが、歌舞伎役者や花魁を真似て身分の低い庶民も化粧を楽しむようになり、江戸に世界初の庶民向けの化粧品店が誕生しました。やがて花魁のファッションに見られる奇抜なデザインや色彩感はジャポニズムの潮流に乗って海を渡りゴッホなど西洋の芸術家に多大なインスピレーションを与えることになりました。昨年から今年にかけて東京都美術館京都国立近代美術館等で開催されていた「ゴッホ展~巡り行く日本の夢~」ではゴッホが花魁を描いた油絵「花魁(渓斎英泉による)」(1887年、ファン・ゴッホ美術館所蔵)が展示されていましたがその代表例です。

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三代目河竹新七の代表作
落語「怪談牡丹燈篭」(三遊亭圓朝)☞歌舞伎「怪談 牡丹燈篭」
能「猩々」(作者不詳)☞歌舞伎舞踊長唄「寿二人猩々」

 

現在、執筆中。

 


シネマ歌舞伎『怪談牡丹燈籠』

▼画像をクリックすると解説があります。


 裏浅草寺の古地図(黒船が来航した1853年当時)を見ると、新吉原に隣接して中村座市村座守田座河原崎座)の江戸三座の芝居小屋が並び、江戸三座の裏手には人形浄瑠璃の薩摩座や結城座が名前が見えますので、裏浅草寺は江戸民にとっての一大歓楽街であったことが分かります。また、山谷(日雇労働者が集まるドヤ街)が隣接していますが、江戸時代には会社組織がありませんでしたので必然的に日雇いで働く人の数が多く、例えば、毎朝、親方のところに出向くと初心者でも道具一式を貸し与えられて直ぐに仕事に就くことができるなど、現代の会社組織を前提とする時間労働型ではなく課題労働型(フリーランス裁量労働制)のワークスタイルが普及しており、ライフスタイルに合わせて多様な働き方が可能であった柔軟な社会であったことが伺えます。また、当時の西洋人の書物を見ると江戸には完全失業者がいないと書かれているものがありますが、ワークシェアリングが上手く機能していた社会とも言えそうです。これからAI革命の時代(シンギュラリティ)を迎えるにあたって非常に多くの仕事が人工知能に置き替わって失業する人が増えると言われていますが、この人類的な課題を克服して社会全体の調和を図る方法として山谷で育まれた江戸の知恵は1つのソリューションを示唆するものと言えるかもしれません。

 

▼おまけ
娼婦(遊女)が描かれている芸術作品として、先ずは、高級娼婦(踊り子)サティーンと青年貴族(詩人)クリスチャンの恋物語を描いたミュージカル映画の名作「ムーラン・ルージュ」をどうぞ。このミュージカルにはムーラン・ルージュのポスターを描いて有名になった画家のロートレックも登場しますが、ロートレックモンマルトルの娼婦を描いた作品を数多く残しています。


Moulin Rouge! ムーラン・ルージュ Your song japanese

ミュージカル「ムーラン・ルージュ」やその他の芸術作品の創作に影響を与えたヴェルディ―の歌劇「椿姫」をどうぞ。この歌劇の台本である小説「椿姫」は 作者のデュマ・フィスが恋仲にあった高級娼婦のデュプレシーパトロンが7人も居て音楽家のリストとも恋仲であったそうなので、数多くの男を魅惑する悪女の1人と言えるかもしれません。芸術は「良」ばかりでなく「悪」によっても育まれる1例であり、芸術文化を育むためには毒も必要ということですな。)を肺結核で亡くした経験を元に創作され、その戯曲のために画家のミュシャポスターを描いています。


Verdi, La traviata‬‬ - Preludio all'atto 1 (Sir John Eliot Gardiner)

日本でも高級娼婦である花魁を描いた歌舞伎や日本舞踊等の芸術作品は多く、そのうちの1つである日本舞踊/長唄「傾城」 をどうぞ。なお、「傾城」(けいせい)とは遊女の最高位を意味する花魁の別称で(遊女の最高位は「傾城」→「太夫」→「花魁」と呼称が変更されていますが、元禄時代の吉原に居た約3千人の遊女のうち太夫になれたのは4人だけの超エリート)、幼い頃から歌舞音曲、茶華道、和歌等の教養を仕込まれ、主君が色に溺れてくほど入れあげる才色兼備の美人を意味しています(芸は売るが色は売らないのが芸者(芸妓、舞妓)、芸も色も売るのが花魁)。花魁と遊ぶには一晩で最低でも400万円程度(+ご祝儀)は必要で、必然、大名クラスの武家、豪商や歌舞伎役者等の裕福層が主な客層であったので、これらの客を手懐ける高い教養が求められたようです。


日本舞踊_藤間流_長唄_傾城

 

◆おまけのおまけ

彼岸の中日に因んで、大切なあの人の面影に想いを寄せながら、チェット・ベイカーのアルバム「Diane」に収録されている“Every Time We Say Goodbye”をどうぞ。


Chet Baker ~ Every Time We Say Goodbye

 

 

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【訃報】国立音大教授の磯山雅さんが急逝

2月22日、バッハ研究の第一人者で国立音楽大学招聘教授の磯山雅さん(享年71歳)が急逝されました。磯山さんの御命日であるバッハ生誕333年目の2月22日(333と222)は数字の象徴に関する謎掛けのようでもあり、生前の磯山さんが偲ばれます。個人的な思い出としては、磯山さんが持ち前のユーモアを交えてバッハの深遠な音楽世界を素人にも分かり易く興味深く解説されていらっしゃったレクチャーコンサートシリーズ「磯山雅 presents バッハの真髄を探る バッハの宇宙」(相模原市文化財団主催)で過ごした至福のひとときが印象深く心に残っています。磯山さんの数々のコンサートや著書、評論、ブログ記事等に触れて大いに感化され、数多くのことを学ばせて頂いた非常に大切な方であっただけに、大変に残念でならず追慕の情に絶えません。バッハはもとよりクラシック音楽の素晴らしさ、面白さを色々と教えて頂き、本当にありがとうございました。安からにお休み下さい。心から慎んでご冥福をお祈り申し上げます。

http://prof-i.asablo.jp/blog/


J.S.バッハ: マタイ受難曲:我ら涙流しつつひざまづき[ナクソス・クラシック・キュレーション #切ない]

Nr.68 Chor(第 68 曲 合唱)
Wir setzen uns mit Tränen nieder(私たちは涙を流してひざまずき)
und rufen dir im Grabe zu, (墓の中のあなたに呼びかけます。)
Ruhe sanfte, sanfte ruh!(お休みください安らかに、安らかにお休みくださいと。)
Ruht, ihr ausgesognen Glieder!(お休みください、苦しみ抜いた御体よ、)
Ruhe sanfte, ruhet wohl!(お休みください安らかに、お休みください心地よく。)
Euer Grab und Leichenstein(あなたの墓と墓石こそ、)
soll dem ängstlichen Gewissen(悩める良心にとっての)
ein bequemes Ruhekissen(くつろいだ憩いの枕、)
und der Seelen Ruhstatt sein. (魂の憩いの場となるべきもの。)
Ruhe sanfte, sanfte ruh!(お休みください安らかに、安らかにお休みください。)
Höchst vergnügt schlimmern da die Augen ein
(そのときこの目は、こよなく満ち足りて眠りにつくのです。)

Wir setzen uns mit Tränen nieder(私たちは涙を流してひざまずき)
und rufen dir im Grabe zu, (墓の中のあなたに呼びかけます。)
Ruhe sanfte, sanfte ruh!(お休みください安らかに、安らかにお休みくださいと。)
磯山雅著「マタイ受難曲」(東京書籍)より抜粋

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新年のご挨拶

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昨年は大政奉還150年、今年は明治維新150年(戊辰戦争の名前の由来にもなったとおり明治維新があった1868年も戌年)と日本にとって大きな節目の年を迎えています。明治維新(日本における第一次産業革命)によって日本では色々なものが変革されましたが、そのうちの1つである明治改暦によって「旧暦」(月の満ち欠けが12回繰り返す期間(354日間)を1年間として暦を作り、地球が太陽を1回公転する期間(365日間)との差分(11日間)を13月目として調整する太陽太陰暦  ※毎年、この差分を調整しないと、少しづつ、暦と季節がズレて行く)から「新暦」(地球が太陽を1回公転する期間(365日間)を1年間として暦を作る太陽暦)へ改められました。但し、月の満ち欠けが12回繰り返す期間を1年間とする旧暦を前提とした年中行事(例えば、毎月15日に満月を迎える十五夜などの様々な風習やしきたり)はそのまま残されており、現在まで「新暦」と年中行事との間にズレが生じたままになっています。昨年の正月のブログ記事で書いたように、これによって「あけましておめでとうございます」という正月の挨拶も季節外れの空々しい言葉になってしまい、正月から心無い挨拶を交わすのも気が引けるので、敢えて、この言葉を使わないことにしています。因みに、旧暦では大晦日にあたる節分に豆を撒いて鬼を追い払い、その翌日の正月にあたる立春に神様を迎えるという段取りになっていました。節分に数え年の個数だけ豆を食べる風習は、その翌日の立春で新年を迎えることから新年の健康を祈願して新年の誕生日に向かえる数え年の個数だけ豆(鬼を追い払った有り難い福を呼ぶ豆)を食べる(体に入れる)という実質的な意味がありましたが、新暦ではその実質的な意味は失われて形式的な風習のみが残されています。「皮相上滑りの開化」(夏目漱石)は、西洋文明の表面的な物真似に留まらず、それまで培われてきた日本文化まで侵食し、その傷跡が150年後の現代にも残されています。なお、明治改暦と共に、江戸時代までの不定時法(日出から日没までの時間を昼間、日没から次の日出までの間を夜間とする。このため、夏は冬に比べて昼間が長いので夏の昼間の1時間の長さは冬の1時間の長さよりも長くなる。)から定時法(季節によって日出や日没の時間が変わっても、1時間の長さを均一に保つ。このため、夏は冬に比べて昼間が長くなるが、夏の1時間の長さと冬の1時間の長さを同じにする。これによって必ずしも明け六つが日出、暮れ六つが日没ではなくなる。)に変更されたことに伴い、江戸時代まではルーズであった日本人の時間意識が現代のような厳格な時間意識に変革され、日本経済の国際競争力を築く礎の1つとなりました。常に物事には2面性があり、何か(例えば、立身出世など)を得るということは同時に何か(例えば、自分のために使える時間など)を失うということであって、何を得て何を失うかは人生の選択の問題である、即ち、詰まるところ自らの死の床にあって人生を後悔する(=この世への未練と共に死を恐怖に感じる、即ち、地獄)ことなく「まずまずの人生であった」と自分自身と折り合いをつけられる(=この世への感謝と共に安らかに死を受け入れる、即ち、極楽)ようにするために、自分にとって本当に大切なことは何かを見極めることが重要であると痛感しています。その文脈で言えば、明治維新150年目の節目を迎えた今年にあって、これまでの日本人の選択がどうであったのかを振り返ると共に、現代の日本人が第四次産業革命を迎えて迫られている様々な選択を考えるにあたり次世代人の子孫に対する責任を強く意識しなければならないような気がしています。そのような意味において、年頭にあたり、自分の年嵩が増してきたことや美食家として知られるロッシーニのアニバーサリーでもあることなどから、今年は日本の「食」又は「食文化」について考え直す年にしたいと抱負を抱いています。ついては、その契機として、先ずは、日本の正月の風物詩である「お屠蘇」、「注連縄」、「門松」、「鏡餅」、「お雑煮」や「お年玉」など(本当は、これらの正月の風物詩も「旧暦」の正月の時期でなければ意味がありません....)について、少し書いてみたいと思います。(「お屠蘇」については一昨年の正月のブログ記事に書いたので省略します。)

遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成

遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成

 

縄文時代は狩猟・採取社会で食糧確保(供給)が不安定な時代でしたが、弥生時代に大陸から稲作が伝わると農耕(稲作)社会へ変わって食糧確保(供給)が安定するようになり、平安時代に入ると年中行事として現在に伝わる稲作に纏わる様々な風習やしきたりが生まれました。例えば、新春(旧暦では立春が正月)になると春の到来を告げる初日の出と共に五穀豊穣を司る神様(年神様)が米作りを見守るために山から里へ降りて来て(即ち、御来光)、秋の収穫を終えると山へ帰って行くと考えられていましたので、正月(春)には「注連縄」(左最上の画像)、「門松」(右最上の画像)や「鏡餅」(左直上の画像)を飾って年神様をお迎えする風習が生まれました。因みに、「注連縄」は年神様が見守りながら育った稲の藁には「稲魂」(霊力)が宿り(即ち、現代の科学技術でも人間が「無」から「有」を作り出すことはできず、人間が「生産」や「創造」と称している営みは神様が創った自然資源を変形又は変質させているだけの破壊や消費に過ぎませんが、古来、土(無)から稲(有)が育まれるのは年神様の霊力によるものであると信じられてきました。)、その稲の藁を編んで作った縄を張ると、そこに神様をお迎えするための神聖な空間ができると考えられていました。また、「門松」は神様が宿る神聖な木(神様が憑依するための「依代」)と考えられていた松を山から伐採し、年神様が山から里へ降りて来るための目印として門の前に置くようになりました。これと同じ理由で能舞台の鏡板には神様の「依代」として松の絵が描かれています。さらに、「鏡餅」は「稲魂」が宿っている稲から作った餅を三種の神器の1つである円形の鏡と同じ形に象って、この世(八百万)を成り立たせている太陽(陽)と月(陰)を表す2段重ねにして神様へお供えするようになりました。そして、神様へお供えした後、人間が「稲魂」(神様が授けられた稲→これを略して年魂年魂と固くなった鏡餅をちぎって食べ易いように煮汁に入れたをかけて)が宿っている稲から作った「鏡餅」を「お雑煮」にして食べることで1年間の無病息災を祈願するようになりました。江戸時代には自分の周囲の人達(例えば、主人が家来、大家が店子など)の無病息災を祈願して「お雑煮」を分け与える風習が生まれ、やがて「お雑煮」の代わりに品物やお金を振る舞うようになって、これを「お年玉」と呼ぶようになりました。その後、時代は下って戦後の高度経済成長を経て、大人から子供へお金を渡す風習へと変化していきます。毎年、寺院(仏教)では大晦日に「除夜の鐘」を108回撞いて心を整えることで108の煩悩を追い払おうとしますが、年が明けると一転、我先にと神社(神道)へ押し寄せてお賽銭で神様を買収して何とか煩悩を叶えようと試みる煩悩まみれの人間を目の当たりにしますし、お年玉も本来の趣旨から離れて子供達の心に煩悩を蓄えるさせるための風習でしかなくなってしまったように感じられますが、陽が強ければ陰を濃くするだけなので仏教と神道は心のバランスを図るための上手い仕組みなのかもしれません。 

炭水化物が人類を滅ぼす?糖質制限からみた生命の科学? (光文社新書)
 

日本では、弥生時代から農耕(稲作)社会になりましたが、675年に天武天皇が殺生を禁じる仏教の思想を採り入れて農耕期における牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じたことなどにより日本人の肉食離れが進み、それから約1200年後の1872年に明治政府が獣肉食の禁止を解くまでは米を主食(デンプンによる糖質摂取)、魚貝類や野菜を副食とする一汁三菜に代表される和食文化(フランス料理、地中海料理キューバ料理、トルコ料理等と並ぶ食の無形文化遺産)が築かれます。縄文時代は狩猟・採取社会であったので食物を求めて移動しながらの半定住生活を送っていましたが、その後、弥生時代に向って農耕(稲作)社会に変っていくと土地を耕して稲を育てるために完全な定住生活が促進され、不作や自然災害等の事態に柔軟に対応できるように稲等の穀物の備蓄に有利な集落を形成するようになりました。縄文時代の移動しながらの半定住生活では集落を形成することなく自由な生活を送っていましたが(ジプシー、ボヘミアン)、弥生時代には定住生活となり集落を形成するようになると他人とのコミュニケーションを円滑にするための言葉が発達し、他人との揉め事を生じさせないための様々なルールや仕組みなどが必要となって徐々に社会性(集団主義的な思想性)が芽生え、その集落を統治する権威として上述のとおり稲作の神様が祀(祭)られることになりました。また、江戸時代までは朝食と夕食の1日2食を習慣としていましたが、1657年に江戸城天守閣を焼失させた明暦の大火が発生したことで江戸の町を復興させるために集められた大工や職人達の体力が持つようにと1日3食が振る舞われたことから朝食、昼食、晩食の1日3食が習慣として根付いたと言われています(デンプンによる糖質摂取✖多食)。因みに、世界各国の1日の標準的な食事回数は国によって区々(1日に2~5回程度)ですが、イギリスでは産業革命による長時間労働に労働者が耐えられるように1日の食事回数を増やすのではなく栄養価が高く披露回復を促進する健康食品と信じられていた砂糖を摂取するようになり、これに伴って紅茶に砂糖を入れて飲む習慣が生まれ、この習慣が明治政府による欧化政策によって日本にも流入することになりました(デンプンによる糖質摂取✖多食+砂糖による糖質摂取)。なお、江戸末期に日本を訪れた外国人が僅かな量のおにぎりだけで東海道を往来する飛脚の体力に驚いたという記録が残っていますが、炭水化物の塊であるおにぎりはスピーディーに作れて携帯性にも優れ、高カロリー・高糖質なので僅かな量でもエネルギーを効率的に摂取できるファーストフードとして実用性は高かったようで(最近は日本のアニメの影響で寿司だけではなくおにぎりも外国人に人気)、さしずめ日本のおにぎりはアメリカで大陸横断道路(R66号)を往来する忙しいドライバーが僅かな量で効率的にエネルギーを摂取できる食事として誕生したスピーディーに作れて携帯性にも優れ、高カロリー・高糖質なハンバ-ガーと同じ食文化を育んでいたと言え、寧ろ、明治維新の交通革命(馬車、電車、車の普及)によって日本人があまり歩かなくなるまでは、米(おにぎり)が高カロリー・高糖質な食品であったことが重宝されていたと言えるかもしれません。

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明治政府が欧化政策により獣肉食の禁止を解いて洋食の普及に努めたことで、とんかつ、コロッケ、牛鍋(すき焼き、牛丼)、カレーライス、オムライスあんぱん(菓子パン)などの新しい和製洋食が生み出されて人気を博するようになり、これに伴って日本人にも徐々に洋食が受け入れられてパスタ、コーヒー、紅茶、ビール等の洋食やラーメン等の和製中華も普及し始めます。これによって、これまでの和食に含まれる炭水化物(デンプン)の糖質だけではなく洋食や中華に含まれる炭水化物(デンプン)の糖質に加えて、さらに洋食に多く含まれる砂糖の糖質など多種多様な食品から糖質が摂取されるようになりました。なお、日本では(和菓子のほかに)比較的早い時代から南蛮菓子や中華菓子等が輸入されたいたので菓子については割愛します。また、戦後にアメリカが日本へ小麦を輸出するために学校給食に「パン食」を採り入れさせたことにより、学校給食で育った世代(現在の60歳前後以下の世代)にとって忙しい朝などに重宝されるお手軽で美味な「パン食」(+マーガリン、ジャム)が「米食」を凌ぐ新しい「主食」として爆発的に普及し(やがてマクドナルドのハンバーガーが日本を席捲)、日本食は「和食」のみではなく世界に類例を見ない「雑食」へと変化していきました(和食+洋食・中華=雑食による多糖摂取)。これにより戦後の高度経済成長に伴う飽食の時代と相俟って、この数十年間に亘って日本人が歴史上で経験したことがない高カロリー・高糖質な食品を過剰に摂取し続けており、この急激な食生活の変化に人体(生物学的な進化)が対応できずに生活習慣病をはじめとした様々な人体機能の障害を生じ始めている時代と言えそうです。因みに、人間の体で最も糖を多く消費するのは脳と言われていますが、仮に飢饉や絶食などで糖が不足すると脳の活動は低下し(意識が無くなり)、やがて脳が完全に停止して死んでしまうことから、日頃から人間の体は糖を脂肪に変えて体内に蓄積しておき(収穫の秋を迎えた冬眠前のタネキ、キツネや熊などが冬眠に備えて食糧を食べ溜めて丸々と太っている状態と同じ)、万一、糖を外部から摂取できないときは体内の脂肪を糖に変えて脳の活動を維持する仕組み(人類の進化の過程で選択された種を保存するための方法)になっています。しかし、この仕組みは人間が適度に体を動かしてエネルギーを消費し又は過剰にエネルギーを摂取していなかった時代には上手く機能していましたが、交通機関の発達等によって体を動かす機会が少なくなり、また、雑食(和食+洋食・中華)の浸透等によって高カロリー・高糖質の食品を過剰に摂取する食生活が続いている結果、糖から変えた脂肪を体内に蓄積し続けて肥満になり、却って、現代では上記の仕組みが種の保存を難しくしてしまっている側面があると言えそうです。

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これに輪を掛けるように、明治維新の交通革命(馬車、電車、車の普及)によって日本人が殆ど歩かなくなったことが事態を一層と悪化させることになっています。即ち、日本人は高カロリー・高糖質の食事を過剰に摂取し続けながら、その膨大なエネルギーを殆ど消費することなく体の中に溜め続ける常況(生活習慣)に身を置いていることで血管機能や肝機能の障害等を引き起し易くなり、脳卒中心筋梗塞、糖尿病(失明、合併症)等を発症するリスクが上昇しています。また、獣肉食の禁止が解かれて洋食が普及したことにより日本人も赤肉、加工肉や乳製品等の動物性脂肪を多く摂取するようになったことで癌になるリスクも上昇しているなど、明治時代以後の急激な食生活の変化(洋食革命)とライフスタイルの変化(交通革命)によって細菌、ウィルスや飢餓等ではなく摂食による体(健康)破壊という新しい生命危機とも言い得る状況(日本人の年間死亡者のうち約60%は生活習慣病が原因)に直面していると言えそうです。「和食」が世界無形文化遺産に登録されましたが、和食文化の古き良き伝統を後世に受け継いで行くと共に、高度経済成長によって日本でも飽食の時代を迎えた時代背景から「医食同源」という言葉が生まれたように、食による体(健康)破壊という新たな生命危機とも言い得る状況に直面し、日本の「食」や「食文化」をどのように守り又は育んで行くべきなのかということが問われる時代になっているように感じられます。この点、我が身一つのことであれば人生の選択の問題として片付けられるかもしれませんが、日本の「食」や「食文化」(和食に限らない日本食)はどうあるべきかという視点から後世に対する責任として、例えば、(加齢に伴う基礎代謝の低下などの要因も踏まえた)米や麺等の炭水化物や肉等の動物性脂肪の摂取を控える食生活への見直し、野菜、魚介類、豆類や海藻等を主体に摂取する食生活への改善など日本食(和食に限らない)の在り方や、カロリーや糖質を消費し易いように基礎代謝をあげる筋肉質の体(車に例えれば、排気量の大きなエンジン)になるための体作りの方法(ライフスタイル)とそのための食事内容などについて、もっと強い関心を持たなければならないのかもしれません。なお、今年の干支である犬(戌)は人間の最も古いパートナーとして愛されてきましたが、明治維新後の日本人の食生活やライフスタイルの変化に伴って、ペットの犬も人間と同様に生活習慣病(心臓病、関節疾患、腫瘍など)のリスクに晒されているようです。最近はドックラン(犬のフィットネス)などが流行していますが、犬も日々の適度な運動による運動不足解消やストレス発散と食生活の改善などが生活習慣病のリスクを予防するために重要になってきています。

今年の初詣は、花園神社(東京都新宿区。前回のブログで紹介した追分だんご本舗の近く。)の境内にある芸術の神を祀る芸能浅間神社へ参詣しました。何年か前に参詣したときと比べて玉垣の芳名が一新されていましたが、日本舞踊、三味線、落語、俳優、歌手、宝塚、声優、芸能人など様々なジャンルで芸道に携わる方々の名前が並びます。撲は芸の道に生きている訳ではありませんが、芸道は人生の道にも通じている、芸術を通じて人生を豊かにしたいという想いから「芸道成就守」を購入してきました。

アニバーサリー(※当世流の10年刻みでは節操がないので、半世紀を一昔と捉えて100年以上50年刻みでリストアップ。)

 

【音楽】

 ジュリオ・カッチーニ   没後400年

 フランソワ・クープラン  生誕350年

 シャルル・グノー     生誕200年

 ジョアキーノ・ロッシーニ 没後150年

 ヴィットーリオ・モンティ 生誕150年

 クロード・ドビュッシー  没後100年

 レナード・バーンスタイン 生誕100年

 ハンク・ジョーンズ    生誕100年

 

【画家】

 横山大観         生誕150年 
 グスタフ・クリムト    没後100年 

 フランソワ・ブレ     生誕100年

 

【茶道】

 松平不昧         没後200年

 

【写真】

 ユージン・スミス     生誕100年

 

【偉人】 

   平清盛                                  生誕900年

 

【その他】

 ハンガリー独立        100年

 チェコスロバキア独立     100年

 日本スペイン外交関係樹立   150年

 明治維新           150年

【番外】

 バッハ、ヘンデル、スカルラッティ 生誕333年

 

    東京2020大会beyond2020に向けた芸術文化プロジェクトが本格的に始動(オリンピックはスポーツだけではなく芸術文化の祭典という性格も持ち、オリンピックを契機として日本の芸術文化を発信する気運が高まっています。IT革命によって世界がボーダーレスになったことにより世界の人々が日本の芸術文化に一層の感心を寄せるようになりましたが、これらのプロジェクトが単に過去の芸術文化の遺産を消費するという非創造的な取組みに留まらず、新しい芸術文化を育むという創造的な取組みであれば応援したいです。)

 

 東京2020Nipponフェスティバル

 アーツカウンシル東京 (世界にHello! Tokyo Tokyo Festival企画公募

 京都文化力プロジェクト

 東京芸術祭構想

【お年

“お雑煮”とかけて、“ベタベタな曲紹介”と解く。その心は、どちらも“ツマラナイ”。

ベタな曲紹介ですが、今年没後400年を迎えたジュリオ・カッチーニアヴェ・マリアをどうぞ。


ave maria Caccini

今年生誕200年を迎えたシャルル・グノー(J.S.バッハ編曲)のアヴェ・マリアをどうぞ。


Omo Bello sings Ave Maria, Bach-Gounod

三位一体とマリア信仰に因んで3曲目として、現代の作曲家ミヒャエル・ローレンツのアヴェ・マリアをどうぞ。


The Most Beautiful "Ave Maria" I've ever heard (with translated lyrics / english subtitles)

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シネマ歌舞伎「四谷怪談」

11月11日は「四弦楽器の日」だそうです。誰が決めたのか知りませんが、1111が四弦を連想させるので駄洒落でそうなったようです。四弦楽器と言えば、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、琵琶、ベースなどが挙げられますが、ベース以外にはこの記念日に便乗したイベントや弦のフェアなどが行われている様子はなく、伝統音楽のノリの悪さ、商売っ気の無さを露呈した結果となっています(笑)西洋では、11月11日はキリスト教の聖名祝日「聖マルティヌスの日」で、ヨーロッパ各地ではその前日に悪魔払いが行われ、日本の五穀豊穣を祝う新嘗祭(もともと日本では皇室が宗教儀礼上の重要な祭事を行う「祭日」として11月23日が休日に指定されていましたが、敗戦後、日本から神道的な色彩を排除するために祭事を行う「祭日」を休日とすることが廃止されたので、その代わりに歴史的な出来事や功績のあった人物を祝う「祝日」として勤労感謝の日が定められました。このために日本の休日(祝日)は西洋のように宗教儀礼的な意味を持たない日となり、そこから差し障りのない語呂や洒落に掛けて記念日を設定する風潮が生まれたのだろうと思います。因みに、11月24日は東京藝大で日本初のオペラ公演が行われたことを記念して「オペラの日」とされています。)に相当する一年の豊作に感謝する収穫祭(冬の始まりの日)にあたります。収穫祭と言えば、日本では11月11日は1111が房の中に豆が並ぶ姿に見えることからピーナッツ(落花生)の日とされていますが(日本における落花生の収穫量の約8割は千葉県産!)、ピーナッツは悪玉コレステロールを下げて動脈硬化を予防し、血糖値の上昇を抑えるなど生活習慣病に効能があり(ハーバード大学等の研究)、美肌効果もあるそうなので、健康診断の結果が気になる方やお肌がくたびれで来てしまった方はお茶菓子代わりに香ばしい風味豊かな千葉県産のピーナッツ(素煎り)をオススメします。因みに、今年で500周年の記念年を迎えた宗教革命(プロテスト)を行ったマルティン・ルターは11月10日に生まれたことからその翌日の「聖マルティヌスの日」に因んでマルティンと名付けられたそうですが、一般に聖人崇拝を行わないプロテスタントでは11日11日を聖マルティヌスではなく宗教革命を行ったマルティン・ルターを記念する日とされていることは実に皮肉です。因みついでに、皮肉と言えば、この言葉の語源は達磨大師の「皮肉骨髄」という言葉から来ており、「皮肉」が「骨髄」(本質)よりも表面にあることから「本質に及んでいない」という非難の言葉として使われ始め、やがて他人の欠点を非難し又は期待や予測に反して思い通りにいかないときに使われるようになったそうです。麗しき姫君、佳子さまの英国留学でも話題になりましたが、近年、日本でもこの物事の本質を理解し、人生を豊かにする学問としてリベラル・アーツ(人が自由=リベラルであるために学ぶべき技芸=アーツ)の重要性が認識されるようになり、そのうち芸術の分野では「芸術教養」(総合文化学)や「比較芸術学」などの学問領域が注目を浴びて、ボーダーレス・ジャンルレスに芸術を理解し、その背後にある本質に迫ろうとする学問的態度が評価されています。このトレンドは従来はクロス・カルチャーという言葉で表現されていたと思いますが、このブログを開始したころからの趣意の1つでもあります。一般に日本では西洋と比べてリベラル・アーツの普及や理解が遅れていると言われていますが、「芸術教養」(総合文化学)や「比較芸術学」などの学問領域では「京カレッジ」(大学コンソーシアム京都)「手のひら芸大」・「週末芸大」(京都造形芸術大学)「藝術学舎」(京都造形芸術大学)、各種の聴講生制度(成城大学文芸学部など)公開シンポジウム(東京大学比較文学比較文化研修室など)など学生だけではなく一般人にも開放される形で「芸術教養」(総合文化学)や「比較芸術学」などを学べる社会環境が整いつつあることは歓迎すべき傾向であり、これらに「放送大学」「朝日カルチャーセンター」などを加えると社会人でも働きながら芸術の分野の周辺にある学問領域も広範に学習することが可能になります(但し、日本の大学では研究者確保や採算性の問題などがあるのかもしれませんが、ヨーロッパ、アメリカやアジアの芸術文化などをカバーしているところは増えてきましたが、中東やアフリカの芸術文化などを十分にカバーしているところは未だに少なく、その意味では十分な教育環境が整備されているとは言い難い状況にあることは非常に残念であり、佳子さまが英国に留学したくなった気持ちがよく分かります。)。前回のブログ記事と文脈的につながりますが、このリベラル・アーツ(その一部としての「芸術教養」(総合文化学)や「比較芸術学」)への潮流は色々なボーダーが崩れてきた現代(コンテンポラリー)という時代性に適った要請(即ち、現代における人間の意識変化(人間の飽き易い性質が進化や退化を生む源)等によって近代に確立した既定の価値観に従っているだけでは上手く対応できない(不備、不足や不満等を生む)時代になったことで、芸術の分野でもモダニズムからポスト・モダニズムへの潮流が生まれて近代に確立された芸術表現の様式的又は内容的な分類(ジャンル)が意義を失ってきていることに留まらず、例えば、近代までは哲学や宗教が時代の最先端の世界観を提示してきたのに対し、現代は科学技術の進歩によってテクノロジーが哲学や宗教を越えて最先端の世界観を提示するようになり、哲学や宗教だけではなくテクノロジーも芸術表現の対象(例えば、バイオ・アートなど)になり得るようになったことなどに端的に表れているように感じます。)であり、丸山眞男さんの言葉を借りれば、「タコツボ型」(壷の外に目を向けることなく狭い壷の中に閉じ籠っているので捕獲されてしまう蛸のように、物事の本質を捉えることができないという意味で役に立たない狭い知識)ではなく「ササラ型」(1つの根元で束ねられ又はその根元から拡がる簓のように、物事の本質を捉え又はこれに迫って行くことができる幅広い教養)がこれからの時代には求められているとも言えそうです。この点、個人の嗜好なので他人が口を挟むべき問題でないことは承知のうえで、芸術を嗜む日本人には「タコツボ型」(~なら分かる、~しか興味がないというタイプ)が多いのではないかと感じますが、リベラル・アーツの普及に伴って、この状況は少しづつ変化してくるかもしれません。「分かる」とは、物事の本質を捉えて様々な切り口で物事を「分ける」ことができる力のことであり、そのためには色々なボーダーを取り払って物事を内側からだけではなく外側からも多角的に捉えることができる広い教養が必要です。 「芸術教養」(総合文化学)や「比較芸術学」などの学問を通じて物事の本質を捉える力を養い、それによって芸術作品をより一層深くかつ多角的に観賞することができるようになれば、どれだけ心が豊かになり、今までよりも人生を達観することができるようになるでしょうか。そもそも学問や芸術は心を養って人生を豊かにするために存在するものだと思いますので....(英語の「culture」(教養、文化)という言葉はラテン語の「colere」(耕す)に由来し、本来、「心を耕す」という意味を持っています)。

本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ

本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ

 

【題名】シネマ歌舞伎「四谷怪談」
【監督】串田和美 
【脚本】鶴屋南北
【出演】<民谷伊右衛門中村獅童
    <直助権兵衛>中村勘九郎
    <お袖>中村七之助
    <小仏小平>中村国生
    <お梅>中村鶴松
    <四谷左門>真那胡敬二
    <仏孫兵衛>大森博史
    <小汐田又之丞>首藤康之
    <伊藤喜兵衛/お熊>笹野高史
    <按摩宅悦>片岡亀蔵
    <お岩/佐藤与茂七>中村扇雀

【演出】串田和美 
【美術】串田和美
【公開】2017年
【感想】ネタバレ注意!

松竹系映画館MOVIXなどで月イチ歌舞伎が上映されていますが、今月は鶴屋南北東海道四谷怪談」が新作上映されるというので観に行くことにしました。約20年前に先代の中村勘三郎さんを中心にしてコクーン歌舞伎が始まりましたが、その第一回目が鶴屋南北東海道四谷怪談」でした。昨年、これを串田和美さんによる「北番」(お岩さんが登場しない「三角屋敷の場」を省略する「南番」ではなく、これを省略しない上演機会の少ない「北番」を上演)の新演出で公演した模様を収録した作品です。ご案内のとおり「東海道四谷怪談」は東京都新宿区左門町(幕府の御手先組頭の諏訪左門の組屋敷があったことから「左門町」という地名)に住んでいた幕府の御先手組同心の田宮又左衛門とその娘お岩をモデルとして創作された戯曲ですが(田宮又左衛門の屋敷跡に於岩稲荷田宮神社がありますが、このリンク先にある江戸時代の古地図の真ん中に赤地で「於岩イナリ」とあります)、当時話題になった殺人事件等を採り入れて創作したことから、江戸町奉行の検閲を交わすために新宿ではなく江戸町奉行の管轄外にある雑司ヶ谷四谷(家)町(このリンク先にある江戸時代の古地図には東京音大校舎の近くに「四家町」とあります)に舞台を移してカモフラージュしたと言われています。本来であれば、左門町は甲州街道沿いにあるので「東海道」ではなく「甲州街道」と命名すべきところですが、上述のとおりカモフラージュする必要があったことや鶴屋南北仮名手本忠臣蔵をパロッて作った戯曲なので江戸と赤穂を結ぶ「東海道」を戯曲名に使いたことなどがあったと言われています。因みに、「新宿」という地名は高遠藩内藤家の土地があったところにしい宿を設けたことから四谷大木戸(四谷四丁目交差点)から追分(新宿三丁目交差点)までの一帯を内藤新宿と呼ぶようになったことに由来し、また、追分(新宿三丁目交差点)に旅人が休息するための4軒の茶屋があったことから「四つ屋」→「四谷」という地名が生まれたそうです。因みついでに、追分(新宿三丁目交差点)に茶屋が多くあったのは、15世紀に江戸城を築城した太田道灌が鷹狩の帰りに高井戸宿で献上された団子を大そう気に入り(現在の「追分団子」の発祥)、その後、内藤新宿新宿三丁目交差点)に茶屋を移転したところ繁盛したことによるもので、現在でも新宿三丁目交差点には「追分だんご本舗」など名物茶屋が多く存在しています。内藤新宿ができる前は四谷見附(外堀の外側)から高井戸宿までの間は武蔵野の荒れ野が広がっているだけでしたが、その中間地点に新しく内藤新宿ができたことで四谷大木戸から追分までの一帯(田宮家があった新宿区左門町の周辺)は大そうな賑わいだったようです。

 

さて、この映画は鶴屋南北の作品(虚)を通して人間の本性(実)を炙り出し、そこに現代を重ね合わせて時代の往還を演出することで、この作品と現代との接点を強く印象付けた意欲作になっています。四代目鶴屋南北が活躍した化政文化(江戸末期)の時代は長い平和な世の中が続いたことで、商人が富を蓄えて力を持つようになった一方で、その存在意義を失った武士は低い給料で清貧を極めて力を弱めるなど、それまでの社会秩序を構成していた様々な価値観(身分階級、その階級に基づく社会的分業とその頂点にある幕府、雅と俗、江戸文化と上方文化など)が揺らぎ始め、幕末を通して色々なものがボーダレスになっていった時代であることから(その意味で現代と時代状況が似ています)、そのような世相を鋭敏に感じ取っていた鶴屋南北の作品は既成の価値概念の対置と倒置が錯綜して社会風刺的な性格の強いものになっているように感じます。歌舞伎「東海道四谷怪談」に登場する民谷伊右衛門(塩冶判官の家来/赤穂側)は伊藤喜兵衛(高師直の家来/吉良側)の孫のお梅が見染めるほどの色男でありながら、主家の公金を横領し、これが露見しそうになると口封じのために舅の四谷左門を殺害し、そのうえ、金に目が眩んで妻のお岩を見捨て死に至らせたばかりか、その罪を着せるために使用人の小仏小平を殺害するなど数々の悪行を重ねる「色悪」の代表格です。「色悪」と言えば、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」を思い出しますが、丁度、歌舞伎「東海道四谷怪談」が商人(市民)が台頭して様々な価値観が揺らぎ始めた江戸時代末期に創作され、己の欲に溺れる武士の民谷伊右衛門(権力)がお岩の亡霊(宗教)によって地獄に堕とされるという物語になっていますが、オペラ「ドン・ジョバンニ」も市民社会が台頭するフランス革命期に作曲され、己の欲に溺れる貴族のドン・ジョバンニ(権力)が騎士長の亡霊(宗教)によって地獄に堕とされるという物語になっています。いずれも芸術作品を借りて、時代の転換期を反映するように時の権力が宗教(市民の権威)によって葬り去られるという価値観の対置・倒置が描かれており共通点が多い作品と思われますが、民谷伊右衛門は伊藤家の思惑に翻弄されながらお岩への想いを断ち切れずに良心の呵責に逡巡する姿が描かれている一方で、ドン・ジョバンニはそのような良心の呵責に逡巡する姿は描かれておらず、その点については対照的な違いがあるように感じられます。ここでステレオタイプの議論に陥って安易な二分論に逃げ込むと物事の本質が見えなくなってしまいますが、あくまでも素人の与太話と割り切って多少強引でもシンプルに分かり易く考えるとすれば、歌舞伎や能楽の作品(化物、怨霊)には東洋哲学の陰陽一元論的な考え方が背景にあるのに対し、オペラの作品(悪魔、怨霊)には西洋哲学の善悪二元論的な考え方が背景にあることが芸術表現の違いとなって現れることが比較的に多いのではないかと感じます。キリスト教一神教)は神(善、正当)を唯一絶対化するための対概念として天国を追放された堕天使や異教の神を悪魔(悪、異端)と観念し、神の善に対する悪を外に求めて排斥してきました。昔、ブッシュ元大統領がイラクに侵攻する米軍を現代の十字軍であると失言したことにその心理が現れているように感じられます。これに対して神道多神教)や仏教では、神や仏を唯一絶対化するのではなく、神や仏は万物に宿るものであると考え、昔から怨霊(荒魂)を手厚く祀れば強力な守護神(和魂)になるという怨霊信仰(例えば、秦河勝菅原道真など)が存在し、また、冥界で死者を裁く閻魔大王は(悪魔ではなく)神と考えられているなど、神や仏は己の内に宿る陽や陰によってその姿を変えるものであると考えられてきました。これは鬼(その語源は「隠ぬ」から転じたもの)の思想にも端的に現れており、心に陽が射しているときは己の内に隠れていますが嫉妬心や怨念など心に陰を落とすと己の内に隠れていた鬼が現れて人が鬼に化けると考えられています。(因みに、能「鉄輪」は嫉妬心から鬼と化した女性の話ですが、嫉妬心などによって人が鬼などに化けることを「化生」といい、ここから女性が美しく装うことを「化粧」というようになりました。他人より美しくなりたいという願いは嫉妬心などから生まれますが、その意味では女性の化粧は恐ろしい営みであるとも言えそうです。)よって、多神教では一神教における悪魔のような概念はなく、例えば、仏教では煩悩を捨てて悟りを開くことを邪魔するもの(出来心、魔が差す)を悪と捉えています。このため、例えば、歌舞伎や能楽に描かれる化物は陰と陽の両面が描かれ(よって、化物は共感の対象にもなり得る)、その陰の面が供養の対象となることが多いのに対し、オペラで描かれる悪魔は神の善に対する悪として描かれ、天国を追放された堕天使のように排斥の対象となることが多いという特徴的な傾向(短絡的に全てがそうだと言っている訳ではありません)があるのではないかと思います。この点、オペラ「ドン・ジョバンニ」に登場する騎士長の亡霊は悪魔とは逆でキリスト教的な価値観を体現する善の象徴として登場しますが、これに対置される存在としてキリスト教的な価値観に反するドン・ジョバンニの悪が二項対立的な関係として描かれているのに対し、オペラ「ドン・ジョバンニ」と同じような物語構成をとりながら、歌舞伎「東海道四谷怪談」に登場するお岩さんは恐ろしい悪霊ではありますが、浮気相手であるお梅を嫉妬心から祟り殺す憎(陰)と浮気していた夫の伊右衛門を祟り殺すことはできない哀しい女の性としての愛(陽)の両面を併せ持っており(源氏物語光源氏との恋に身を焦がした六条御息所が嫉妬心から生霊となって葵の上を祟り殺すのと同じです)、これと同様に民谷伊右衛門も金に目が眩む欲(陰)とお岩への想いを断ち切れない愛(陽)(...それを感じていたからこそ伊藤喜兵衛は民谷伊右衛門の心変りを期待してお岩に顔が崩れる毒を飲ませることを計画)の両面を併せ持つ者として描かれているという違いになって現れていると言えるかもしれません。

 

歌舞伎「東海道四谷怪談」は、御先手鉄砲組同心の田宮又左衛門と娘のお岩は伊右衛門を婿養子に迎えて四谷左門町で暮らしていましたが、伊右衛門が上役の娘と子供を儲けてしまったので、お岩は嫉妬の果てに失踪し、その祟りによって伊右衛門の関係者等に次々と不幸が起こったという伝承を題材にし(但し、於岩稲荷田宮神社の案内板によれば、実際には伊右衛門とお岩は夫婦仲が良く家勢を再興して円満に暮らしたとのことです。)、既に当時評判になっていた「仮名手本忠臣蔵」の外伝という形で話を絡ませることでその人気に肖っています。また、歌舞伎「東海道四谷怪談」には、例えば、旗本の妾と中間が密通したことの報復として戸板の裏表に釘付けされて神田川に流された事件や鰻掻きが抱き合い心中の男女の死体を引き上げた事件などは砂村隠亡堀の場に採り入れられており、また、直助と権兵衛という2人の下男が主殺しの罪で鈴ケ森刑場で処刑された事件は浅草裏田圃の場に採り入れられ、その2人の下男の名前をくっつけた名前(直助権兵衛)を登場人物の一人とするなど、当時話題になった実際の事件を題材とすることで戯曲に話題性と迫真性を持たせる工夫を怠っていません。

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【序幕】「浅草寺境内の場」及び「藪之内売春宿の場」において主要登場人物の境遇紹介と細かいキャラクター設定が行われ、これに続く「浅草裏田圃の場」では、塩冶家の騒動に乗じて公金を横領した事実が露見することを恐れた民谷伊右衛門(藩の公金を横領したうえに、仇討ちに加わるつもりもない大不忠義者。金欲に溺れ、身勝手な理由で次々に人を殺害する大悪人。)は舅の四谷左門(仇討ちを志す忠義者)を殺害し、また、直助伝兵衛(高師直の屋敷替えの情報を入手しようと画策するなど完全に忠義心は失っていないが、仇討ちには加わるつもりがない小不忠義者。愛欲に溺れ、お袖から身分の違いを理由に求愛を断られたので許婚を殺害する小悪人。)はお袖を手に入れるために許婚の佐藤与茂七(仇討ちを志す忠義者)を殺害しようとして人違いにより元主人の息子である奥田庄三郎(仇討ちを志す忠義者)を殺害します。偶然、そこへ通り掛かったお岩とお袖は、親や許婚の敵であるとも知らずに民谷伊右衛門と直助伝兵衛に仇討ちの助太刀をお願いする見返りとして同棲することを承諾します。この場面は、仮名手本忠臣蔵が描く江戸時代の伝統的な武家社会の価値観に対するアンチテーゼを提示するもので、不忠義が忠義を滅ぼし、武家の娘が敵と誼を通じるという価値観の倒置が行われており、東海道四谷怪談が創作された江戸時代末期にそれまでの価値観が揺らぎはじめて武家社会が衰退又は終焉しつつあることを予感させる時代感覚(ムード)を伝える作風になっています。なお、この舞台映画の冒頭ではサラリーマン姿の現代人と東海道四谷怪談の登場人物が時代を超えて同じ場所を行き交うシーンが登場しますが、舞台上で時代の往還を演出することにより鶴屋南北がこの戯曲(虚)により描いた人間の本性(実)が江戸人だけではなく現代人にも共通するものである(即ち、誰でも東海道四谷怪談の登場人物になり得る素地がある)ことを強く印象付ける効果を生んでいます。

【二幕】「雑司ヶ谷四谷町の場」では、上述のとおり伊藤喜兵衛が孫のお梅の想いを叶えて民谷伊右衛門と添い遂げさせたいと考え、民谷伊右衛門を金で買収しようとしますが、お岩への未練を捨て切れない民谷伊右衛門に踏ん切りを付けさせるために、産後の肥立ちに良い薬と偽ってお岩に容貌が崩れる毒薬を飲ませます。お岩役の中村扇雀さんは、お岩が思いも寄らない突然の不幸に襲われて冷静に現実を受け入れられませんが、やがてその現実から逃れられない悲運を悟り、切々と哀しみと恨みを募らせて、心の陰を濃くして行く繊細な心理描写を巧みに演じており見応えがあるシーンになっています。後述する五幕もそうですが、この舞台映画は現代人の感覚に配慮した演出的な工夫が施され、「お化け」の不気味さよりも、現代人にも共感できる人間の情念の恐ろしさやそのような恐ろしい情念を抱かせるまで他人を追い込んでしまう人間の欲深さ(お化けよりも始末が悪い人間の業)に重きを置いた描き方をされており、この作品に鑑賞の深みが増しているように感じられました。

【三幕】「砂村隠亡堀の場」では、民谷伊右衛門が川で釣りをしているところにお岩と小仏小平の遺体を括りつけた戸板が流れ着きます。この場面は戸板の表裏に括りつけられたお岩と小仏小平を1人の歌舞伎役者が早替りで演じる「戸板返し」が見所の一つになっていますが、この舞台映画では舞台上の制約があるためなのか歌舞伎役者による早替りは行われず、その代りに戸板にお岩と小仏小平の姿を映写する演出がとられており、この作品に限らず、これからの歌舞伎においてメディア・アートを利用した新しい演出、表現の可能性を感じさせるもので興味深かったです。

 【四幕】「深川三角屋敷の場」では、直助権兵衛とお袖が暮らす三角屋敷に佐藤与茂七が訪ねてきて、直助権兵衛と佐藤与茂七との間で口論になります。この場面では、直助権兵衛役の中村勘九郎さんと佐藤与茂七役の中村扇雀さんによる軽妙洒脱な台詞回しの言立てに江戸の粋を感じる非常に魅力な場面になっています。平安時代から京都には共通語が存在していたので上方歌舞伎は「台詞」を中心とした舞台として発展しましたが、元禄時代以前の江戸には共通語が存在せず文語や武家語(現代のように交通機関やマスコミ等がなかった時代は各地方間で人間や文化の流通が活発ではなく各地方で独特の方言が発達しましたが、江戸時代になると参勤交代で各地方の武士が江戸に出府した際に他藩の武士と会話するための共通語が必要になったことから武家語が発達したと言われています。)しか存在しなかったので「所作」を中心とした舞台として発達しました。その後、元禄時代以後には江戸の経済発展に伴って武士ばかりではなく町人も利用する江戸の共通語として江戸語が生まれ、これにより江戸語による江戸落語が町人文化として花開くことになります。丁度、東海道四谷怪談が初演された化政時代は江戸落語が隆盛期を迎えていた時期にあたり、このような時代背景から東海道四谷怪談にも「台詞」で魅せる場面が設けられたと考えることができるかもしれません。なお、この場面では、時代を往還する演出として江戸時代の瓦版と現代の新聞記者が登場してお岩さんの死因を取材するシーンが設けられていますが、世間の下世話な好奇心(欲)に晒される被害者とその遺族の問題は江戸時代に瓦版が誕生したことによって発生し、世間の好奇心(欲)の過熱と経済優位主義が結び付いたことで、その質量を増して現代まで引き摺っている深刻な社会問題であり、この作品に潜む現代的な意義を見出し、新しい魅力を掘り起こそうとする意欲的な試みに関心します。最後に、お袖は佐藤与茂七への操と直助権兵衛への義利をいずれも立てることができずに自ら死を選択します。これはオペラ「蝶々夫人」で蝶々夫人が「女としての幸せ」(エロスとしての生)よりも「名誉のための自決」(倫理としての死)を選択して潔く身を引くシーンで描かれている、肉体を捨て得る強い精神性を尊ぶ(第二次世界大戦までの)日本人のメンタリティを良く表現しています。この点、天皇が政権を担っていた平安時代(貴族社会)は神道多神教)を中心とした社会秩序が形成され、八百万の神々がこの世の万物に宿っているという「生の文化」を基調とした(即ち、死の象徴である精神と生の象徴である肉体に等しく価値を見出し、それらの調和を尊ぶギリシャ神話的な価値観に近い)時代であったのに対し、これらの作品の社会背景にもなっている武家が政権を担うようになった鎌倉時代武家社会)以降は仏教を中心とした社会秩序が形成され、戦に敗れてあの世を彷徨っている敵の怨霊を鎮魂するという「死の文化」を基調とした(死によっても失われない精神を死によって失われる肉体よりも優位に置き、精神による肉体の克服を尊ぶキリスト教的な価値観に近い)時代であったと考えられます。これは武家にとっては戦に臨んで死と向き合わなければならない強い精神性が必要とされたことに加えて(♂)、婚外子家督相続の争い(家の滅亡)の火種になることから肉体(欲)を克服できる強い精神性(理性)も必要とされ(♀)、それらを背景として名誉(精神、理性を尊ぶ)のためであれば死(肉体、欲を滅ぼす)をも厭わないという独特の文化を育み、これらの作品の底流に脈打っていると解することができるかもしれません。

【五幕】「蛍狩り・蛇山庵室の場」では、串田さんの演出によってアクロバティックな見せ場やお化けの不気味さなどエンターテイメント性に重きを置いた「提灯抜け」(お岩の幽霊が燃えさかる提燈から登場する場面)や「仏壇返し」(仏壇の中に人を引き入れる場面)のシーンは大胆にカットされ、民谷伊右衛門が自らの欲深さ(業)によって心に迷いや不安を生じ、当て所もなく彷徨う姿を印象的に描くことで人間の本性やその現代性を炙り出そうとする意欲的な演出(例えば、バレエダンサーの首藤康之さんが扮する現代人が時代を往還して自らの便として民谷伊右衛門と見つめ合うシーンなど)によって、現代人にも共感できる新たな作品の魅力を引き出すことに成功しているように感じられます。最後に、民谷伊右衛門が天へ向かって伸びる梯子から堕落するシーンで終わります(映画「リング」映画「オルフェ」で印象的なシーンとして描かれているように、昔から井戸や鏡は冥界への入口と考えられ、例えば、井戸へ身投げすると人間界から冥界へ堕落すると信じられてきました)が、他人を蹴落として自分だけが天へ昇ろうとする人間の欲深さ(業)が自らに地獄を見せることになる人間の愚かしさ(因果応報)を象徴するシーンで締め括られ、この作品が持つ現代的なテーマ性に焦点を当て怪談物の魅力とはひと味違う彫りの深い作品に仕上がっており見応えのある舞台映画になっています。

本所深川繪圖(1858年)には三角屋敷が載っています(国立国会図書館所蔵)。三角屋敷は四世鶴屋南北の住居跡の近所ですが、敢えて、この三角屋敷を舞台に選んだ南北の意図に思いを馳せてみると鑑賞が深まります。なお、京都で猿若舞を創始した中村勘三郎1624年に京橋で猿若座の櫓をあげましたが、猿若座の人寄太鼓が旗本の登城太鼓と紛らわしいという理由から、1651年に猿若座は日本橋人形町3丁目へと移転を命じられ(当時、人形町は吉原遊郭(元吉原)があった歓楽街)、このときに猿若座から 中村座へ改名しています。その後、天保の改革により倹約令が発せられ、風俗が厳しく取り締まられて庶民の娯楽にも制約が加えられ始めていたところに、1841年に中村座が火災で焼失したことを奇貨として城下から悪所(庶民の娯楽)を一掃しようという幕府の思惑から1842年に中村座は城外(外堀の外側)にある浅草六丁目への移転を命じられています。当時、浅草寺裏手は1657年に明暦の大火で人形町から移転した吉原遊郭(新吉原)で栄えた歓楽街で、歌舞伎と吉原遊郭が相互に影響し合いながら花魁(おいらん)が着飾る最新ファッションや歌舞、音曲などの芸能、歌舞伎や講談等の題材となるドラマ(吉原百人斬り等)を育む庶民文化の発信地となりました。因みに、この翌年に奢侈禁令に違反したという理由で七代目市川團十郎が江戸所払いになっています。中村座江戸城からどんどん遠い場所へと移転させられていますが、武士の芸術である能楽(式楽)が手厚く保護されてあたのと比較して庶民の芸術である歌舞伎は(その庶民的な人気に反比例するように)幕府から疎んじられていたことが伺われます(却ってそのことで歌舞伎は明治維新パラダイムシフトによって能楽ほど深刻なダメージを受けずに済むことになりましたが)。次回のシネマ歌舞伎「め組の喧嘩」ですが、これは今年で5周年を迎えた東京スカイツリー開業記念として平成中村座で旗揚げされた公演で、十八世中村勘三郎さんによる平成中村座の最後の公演となった作品でもあります。

なお、お岩さんの墓がある妙行寺に東京鰻蒲焼商組合がうなぎ供養塔(高村光雲作)を建立したのは直助権兵衛が隠亡堀の底からお岩さんの髪梳きの櫛をうなぎ掻きに引っ掛けて引き上げるシーンに肖ってのことだろうと思いますが、東海道四谷怪談が如何に人々から恐れられ、そのことが人々の信心(倫理感)を育む作用を担ってきた(当時、芝居は風紀を乱すと考えられていた一方で、人々の鬱憤を晴らし、モラルを支えていたという意味で江戸のモラルシステムとしての側面も同時に持っていた)ことが伺えます。また、同じくお岩さんの墓がある妙行寺には浅野内匠頭の正室である遥泉院の供養塔も建立されていますが、これは遥泉院が実祖母の高光院の永代供養を妙行寺に三十両(約300万円)で依頼した(その書状が残されている)ことから高光院の供養塔の隣に遥泉院の供養塔も建立されたようです。赤穂事件の陰の犠牲者である遥泉院の供養塔が妙行寺にあることで、(戯曲とは言え)刃傷事件の陰の犠牲者であるお岩さんと重なって感慨を深くします。因みに、赤穂浅野家は浅野内匠頭の祖父の長直の代に茨城県笠間市(笠間は座頭市の生誕地でもあります)から兵庫県赤穂市へ国替えとなり、孫の長矩の代に赤穂事件(1701年の刃傷事件、1703年の討入事件)がおきますが、その後、1710年に(来年の干支でもある犬公方綱吉の逝去に伴う赦免により)弟の浅野大学が旗本として千葉県館山市に所領を与えられて浅野家を再興しています。この点、敢えて大石内蔵助泉岳寺切腹しなかったのは、ただ赤穂義士が忠義心に事寄せて無頼無法の徒と化し仇討ちに及んで亡君の恨み(私恨)を晴らしたということ(ヤクザな復讐)には終わらせず、徳川幕府をして(浅野内匠頭の処断のときとは異なり)天下の御法に則って赤穂義士を公正に裁かせることが御政道を正すこと(武士の大義)につながるという信念、覚悟があったからなのだろうと思いますが、あくまでも大義に殉じたことが(赤穂)浅野家の再興にもつながったのだろうと思います。その意味では、大石内蔵助という男の人物の大きさに感銘を深くします。

 

◆おまけ

四弦楽器の日を記念し、ブルックナーが作曲した2つの室内楽曲のうち、弦楽五重奏曲ヘ長調より第三楽章の四弦尽くし(弦楽合奏版)を今年2月21日(お岩さんの命日の前日)に他界し、とりわけブルックナーの演奏では定評があったスタニスラフさんの編曲・指揮でご堪能下さい。


Anton Bruckner - Adagio from Quintet, orchestral transcription, Skrowaczewski

 

今度は薩摩琵琶奏者の坂田美子さんが主宰する琵琶ユニットびかむの演奏で平家物語より敦盛をどうぞ。圧倒的な坂田さんの歌唱力と伝統邦楽の表現力に恍惚としてしまいます。因みに、次々回のシネマ歌舞伎は平敦盛を討った熊谷直実が主人公の「熊谷陣屋」ですが、義に殉じた息子の短い人生を儚み、世の無常を嘆きながら出家する熊谷直実を演じる中村吉右衛門の名演技が見物となっています(最前列のお客さんが感極まって涙している姿が映されています)。仮名手本忠臣蔵の外伝としての性格を持つ東海道四谷怪談も同じテーマ性を持っていますが、ご興味のある方は映画館の大きなスクリーンでどうぞ。


びかむ「敦盛 ~平家物語より~」 (琵琶 尺八 箏 和楽器)

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映画「天心」

今年は1867年に明治維新(大政奉還)が行われてから150周年ですが、奇しくも、この節目となる年が世界では人工知能(AI)が実用化フェーズに入ったAI革命元年と位置付けられています。この時代の転換期とも言える年に、明治維新(文明開化)による極端な西洋化のうねりの中で壊滅的な危機に晒されていた日本の伝統美を守り、また、新しい時代の日本の美を生み出すために人生を捧げて「日本近代美術の父」と称される岡倉天心の半生を描いた映画「天心」Amazonビデオ)を観たので、明治維新が日本の伝統美に与えた影響とこれに対して日本の芸術家がどのように向き合ったのかを振り返り、これからAI革命が日本のみならず世界の芸術に与えようとしている影響について考えてみたいと思います。その前提として、明治維新からAI革命までの状況を軽く俯瞰し、簡単に映画の感想を残しておきたいと思います。

【文明開花】文明国(西洋)非文明国(東洋)の対立(近代化)
1730年代から1830年代にかけてイギリスで第一次産業革命が興り、「工業革命」(工場制機械工業による大量生産)や「交通革命」(蒸気機関による大量輸送・高速輸送)による社会変革が生じた結果、文明国(西洋)は大量生産した工業製品を安定的に輸出し、また、産業革命後の社会を支える天然資源(鯨油など)を安定的に確保するために非文明国(東洋)の植民地政策を拡大。文明国(西洋)による非文明国(東洋)の植民地支配に対する恐怖が日本で明治維新を興す契機となり、その後、日本は文明国(西洋)による植民地支配を防ぐために、狂信的な西洋化と殖産興業、軍事大国へと盲進。
☞ 移動手段の高速化:人・物のダイナミックな流通
☞ 維新で時代の主役が「武家」から「天皇」に交代
※ 西洋では印刷革命による楽譜のメディア化によって作曲家と演奏家が分化し、交通革命によるコンサートホールの誕生によって演奏家と聴衆が分化


【世界大戦】文明国(植民地主義文明国(植民地主義の対立(軍事大国化)
文明国同士の覇権争いによる文明国の国力衰退とそれによる植民地(帝国)主義の崩壊。
☞ 敗戦で時代の主役は「天皇」から「国民」に交代

【経済成長】国家の規制による調整型社会・経済と護送船団(経済大国化)
植民地主義に代わる新しい社会・経済秩序(自由資本主義、社会民主主義共産主義等)による世界再編。

規制緩和企業の自由による競争型社会・経済と自己責任(巨大企業化)
自由による経済混乱(バブル経済)と自律による秩序回復(コンプライアンス)。

【IT革命】インターネットによる社会・経済のボーダレス化(グローバル企業化)とパーソナル化(大資本による同品種大量生産から小資本による多品種少量生産化)
☞ 情報のデジタル化:金・情報のダイナミックな流通
☞ 戦後は時代の主役が「国家」→「企業」→「個人」へと徐々にダウンサイジング

【AI革命】AIによる産業革命で実現した社会・経済体制の変革(パラダイムシフト)
人間が持つ全ての機能(知情意や身体能力)を持ち、その全てが人間よりも圧倒的に優れているAIロボットは科学的生命体とも言うべき存在であり、これに比べてその全てが遥かに劣る生物学的生命体である人間の存在意義が問われる時代。
☞ 将来は時代の主役が「生物学的生命体」から「科学的生命体」に交代?

【題名】映画「天心」
【監督】松村克弥
【脚本】我妻正義
    松村克弥
【出演】<岡倉天心竹中直人(少年時代:大和田健介
    <菱田春草平山浩行
    <下村観山>木下ほうか
    <木村武山>橋本一郎
    <横山大観中村獅童
    <九鬼男爵>渡辺裕之
    <狩野芳崖温水洋一
    <船頭>本田博太郎
    <菱田千代>キタキマユ
    <九鬼波津子>神楽坂恵
    <アーネスト・フェノロサイアン・ムーア   ほか
【美術】池谷仙克
【編集】川島章正
【音楽】中崎英也
【主題歌】石井竜也
【公開】2013年
【感想】ネタバレ注意!
この映画は岡倉天心の生誕150年、没後100年を記念して2013年に公開され、東日本大震災の復興支援プロジェクトとして津波被害で消失した六角堂を再建して撮影された記念碑的な作品と言えます。この映画は横山大観が1937年に第一回文化勲章を受章し、岡倉天心と共に自らも創設に参加した日本美術院茨城県北茨城市)で新聞記者のインタビューに答えながら過去を述懐するところから始まります。

天心 [DVD]

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明治政府は日本の植民地化を回避し、欧米列強と対等な関係を築く必要に迫られるなか、日本の社会体制を急速に近代化する必要から“実用を貴て無駄を除く”という社会風潮が生まれ、神仏分離令等を契機として古い日本の社会体制を支えていた寺院、城郭、各勝旧跡や日本の伝統文化等が次々に破壊(廃仏毀釈など)され、日本古来の壮観(自国の美)が失われていきました。このような社会潮流のなかで壊滅的な被害を受けた法隆寺興福寺を復興させた東大講師のフェノロサとその助手である岡倉覚三(天心)は明治15年に日本美術の再興を図るために狩野派の最後の絵師となった狩野芳崖を訪ねます。狩野芳崖木挽町狩野家の狩野画塾(以下の写真)に学び、狩野画塾随一と言われた天才絵師で長府藩の御用絵師を務めましたが、廃藩置県後は長府藩パトロン)から支給されていた禄(給与)を失い、また、明治政府による極端な欧化政策の中で生活の糧を得るのも難しく生活は困窮を極め、持病の肺炎に効くと言われる生ニンニクを齧りながら筆を握るという不遇な創作活動を強いられることになりました。狩野芳崖の才能を高く評価していたフェノロサは「どうしても日本の絵画を復興させたい。それには日本独自の真正な画術を超えて新しい魂をイディアを吹き込まなければならない。それはあたなにしかできない。」と説得し、これまでの日本画に足りないものを西洋画から採り入れて新しい近代日本画(新しい日本の美)の創作を試みるように働き掛けます。狩野芳崖フェノロサのアドバイスを受けながら西洋画の技法を採り入れ、西洋から取り寄せた絵具を使って完成させた「仁王捉鬼」を見たフェノロサは「ミケランジェロラファエロにも匹敵する無類の彩色だ。世界でもこれだけの極彩色はないだろう。狩野派の、日本の絵画の枠を完全に脱した。」と称賛します。「仁王捉鬼」には産業革命により開発された合成無機顔料が使われていますが、従来の日本画に使われていた顔料のように岩石、土、植物等の天然物を素材とする日本の顔料は色料が不均質となり複数の顔料を混ぜて多様な中間色を作り出すことに不向きでしたが、合成物を素材とする西洋の顔料は色料が均質となり複数の顔料を混ぜて多様な中間色を作り出すこと(混色技法)が可能になった結果、「仁王捉鬼」に見られるように中間色のバリエーションの豊かさによる鮮やかな色彩表現が可能になったと言えます。フェノロサ伊藤博文狩野芳崖の「仁王捉鬼」を見せることで新しい近代日本絵画の可能性を示し、東京美術学校(現、東京藝術大学)を設立する足掛かりとしました。しかし、当時の日本では明治維新後の極端な西洋化に反発して自国の文化を守ろうとする国粋主義が台頭し、狩野芳崖のような西洋画の構図等を参考にした前衛的な絵画は久しく評価されませんでしたが、徐々に近代化が進むにつれて正当に評価されるようになったことで狩野芳崖の晩年の傑作「悲母観音像」が近代日本画の記念碑的な作品と位置付けられるようになりました。日本における西洋画の父を高橋由一とするならば、近代日本絵画の父は狩野芳崖と言えます。


【注】撲と同様に小さい物が見え難くくなった世代の方へ、写真をクリックすると拡大表示されます。神様は、人間が年をとるにつれて小さいことに囚われ惑わされるのではなく、もっと大きな視野で遠くまで見据え、物事の本質を見極められるようにと小さい物が見え難くくなるようにお造りになられたのだと思います。宛ら、年端も行かない子供が自然に肺や筋肉、骨を鍛えて健やかに成長するようにと、(一見無意味に)大きな声で泣き叫び、走り回るように造られているのと同じです。神は人間から何かを奪われているのではなく、人間に必要なものを全てお与えになられているということですな。尤も、AIの時代になると、このように色々なことに折り合いを付けて行く生物学的な「考え方」そのものが意味を失うことになりそうですが。

フェノロサの志を受け継いで1890年に東京美術学校(現、東京藝術大学)の初代学長となった岡倉天心は、横山大観や下村観山らの一期生に対し、狩野芳崖の「悲母観音像」を前にして「悲母観音は普遍なる母。観音である。人生の慈悲は母が子を愛するものに勝るものはない。観音は理想の母である。それはまた創造の源である。私はその観音の姿を描こうと願い続けてきたが、いまだ最良な姿を完成することができない。芳崖先生はそう語られ、この名作を残された。私は芳崖先生によってこの手を、フェノロサ先生によって魂を与えられたのです。西洋化の狂乱の中で千数百年を超える日本の美がどれだけ姿を消したことか、しかしそれを守り蘇らせる新たな日本の美を作り、文化が本当の人間の世界を作ることを世界に示す、それこそが諸君のなすべきことである。諸君、この東京美術学校の初代学生としてこの世に咲き誇るべき新たな日本画を生み出し、野蛮でイントレランスな世界から人間を解き離せんことを願う。」と建学の精神を語ります。その後、1893年に岡倉天心を批判する怪文書に端を発した“東京美術学校騒動”により岡倉天心東京美術学校の校長を辞任しますが、この背景には日本画、木彫、彫金など日本の伝統美術の振興を目的として東京美術学校を設立した旧幕府側の岡倉天心に対し、東京美術学校に西洋画科等を設置して早急に近代化を推進したい旧討幕側の明治政府が岡倉天心の女性問題(九鬼男爵夫人とのスキャンダル)を奇貨として更迭まで追い込んだ権力闘争というのが真相のようです。岡倉天心は新たな美の創造の場を作るために茨城県北茨城市日本美術院を開設(移設)しますが、これに下村観山、横山大観菱田春草及び木村武山らが従います。岡倉天心は「画家たる前に日本人たれ、東洋人たれ」を口癖として弟子達を熱心に指導しますが、日本美術院の開設(移設)にあたって「奇なることを恐れるるながれ。奇なるもよし、怪なるもよし、奇ならざるもよし、怪ならざるも不可なし、生存の一つは新境遇に応ずるの変化力にあることを忘るるなかれ。」と挨拶しており、単に古式を復活させるのではなく西洋画の優れた点を採り入れながら新しい時代に相応しい日本画(日本の美)を創り出そうと志していたことが伺えます。菱田春草横山大観らは日本画の伝統であった線描を止めて西洋画(印象派)の表現技法を採り入れ、ハケを使って明確な輪郭を描かずに色彩の濃淡によって対象を描く朦朧体という新しい日本画の表現技法を生み出します。これによって日本の伝統的な画題(和魂)を西洋の新しい表現技法(洋才)を使って描こうとしますが、なかなか当時の社会には受け入れられず試行錯誤を重ねるうちに徐々に生活が困窮を究めて行く苦悩が描かれています。これに対して岡倉天心は「無用の用を知る。これが芸術だ。」「芸術家っていうのは本来ボヘミアンというものだ。真の芸術のために乞食になるのが嫌ならばやめちまえばいい。」「生活することがすべてだったなら美はいらねえよ。生きて、生きて、それでも生き切れないから美があるんじゃないのか。」「(魚が)釣れる釣れないは只の事実だ、自らの個性をかけて理想の釣りを求め、その現実を生きることこそが人生なんだ。人生の、人間の、自然の雄大なドラマの中で、悲劇であれ喜劇であれ一個の独創的な個性を役割を演じる。そのことを喜ぶ者が芸術家なんだ。」などと弟子達を叱咤し続けます。その甲斐もあって、第一回文展(1907年)では、朦朧体を改め、点描を使って色調により遠近感や立体感を構成する新しい表現技法を生み出した菱田春草の「賢首菩薩」が2等賞(1等賞なし)、優れた写実描写と色彩感覚によって独特の表現様式を生み出した木村武山の「阿房劫火」が3等賞を受賞します。日本美術のコレクションで有名なボストン美術館の東洋部長を務めた岡倉天心は1913年に他界しますが、その直前に横山大観に対して「美校は日本画よりも西洋画科の学生が多いそうだ。過去は現代(近代)文明の貧しさを憐れむ、未来は現代(近代)芸術の不毛さを嘲り笑うことだろう。俺たちは暮らしの中の美を破壊することによって芸術を破壊してるんだ。この自己中心的な世紀の中で俺は一体どんな未来をもたらすことができるのか、俺にも分からない。利休は好んでこんな歌を引用した。『花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや(藤原家隆)』」と語りますが、春に咲く花だけではなく雪間の草にも春の気配(風流)を感じ取り、その雪間の草の息吹に生命の美しさ(仏性)を悟る日本的な美(和魂)が捨て去られようとしている現状を憂いていたことが伺われます。最後に横山大観は新聞記者に対して「五浦時代は辛い苦難の時代だった。」と述懐し、映画の冒頭シーン(五浦の海の荒波)に象徴される明治維新(文明開化)による西洋化のうねりの中で時代の流れに抗うように新しい近代日本画(新しい日本の美)の潮流を生み出そうと試み続けた辛苦を滲ませます。時代の変革期にあって「変わらないために、変わり続ける」こと(伝統と変革)の難しさが我が身に染みて共感させられる映画でした。因みに、ボストン美術館のアジア部門には美術品と同じ扱いで鑑賞できるようにと依頼されて設計、作庭された枯山水の庭園がありますが、岡倉天心ボストン美術館に運んで保存していた灯籠と石塔が使われていることから「天心園」と名付けられています。



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AI革命元年と言われる節目の年なので、明治維新(文明開化)が日本画以外の日本の伝統文化にどのような影響を与えたのかについて、もう少し幅広く振り返ってみたいと思います。夏目漱石は著書「現代日本の開花」の中で文明開花について「西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的」であり、「皮相上滑りの開化」であると悲観したように、明治政府が急速に進めた近代化(西洋化)は、その妨げになる日本の伝統的な社会体制を破壊することによって何ら創造的な営みを経ることなく西洋の文明を表面的に模倣する形で進められました。例えば、平安後期に天皇政権から武家政権へと移行するに伴って東洋的な思想を体言した仏教(武家の武力闘争を背景とした怨霊鎮魂・鎮護国家の思想。その意味で「仏」は死者のための存在)がインド・中国から伝来して普及し、日本古来の神道(農耕民族である日本人は作物を育む大地を信仰し、大地にある万物を神聖なもの(恵み)と崇拝。その意味で「神」は生者のための存在)と結び付いて行きましたが(神仏習合)、明治維新によって再び武家政権から天皇政権へと移行すると、王政復古による神道国教化(神の子孫である天皇を中心とした国家統治を確立するための思想的バックボーン)と欧化政策による近代的(西洋的)な思想の吸収を推進するために、日本古来の神道から東洋的な思想を体現する仏教を分離する神仏分離令が発布され、これに伴って寺院や仏像、経巻等を破毀する廃仏毀釈の社会風潮が生まれて数多くの仏教美術(日本の美)も破壊されることになりました。この動きは仏教美術以外の日本の伝統文化でも同様で、明治政府が殖産興業や富国強兵などの近代化を推進するなかで日本の伝統文化は実用的ではなく低俗で日本の近代化を阻害する「国家に益なき遊芸」として毛嫌いする社会風潮が生まれ、1871年には江戸時代に按摩、針灸又は芸能(地謡、三味線、琵琶や筝等)を独占的に営むことを許されていた盲人組織「当道座」(この座には「検校」「別当」「勾当」「座頭」という階級があり、京菓子「八橋」の名前の由来にもなっている八橋検校(近代筝曲の祖)は最高位の「検校」です。また、映画「座頭市」は最下位の「座頭」で“市”という名前の按摩が主人公であり、千葉県旭日市に実在した人物(住居跡あり)です。因みに、映画「座頭市」では800両(現代の価値で約1億円)を払えば「検校」の地位が買えることから、市が金稼ぎに明け暮れるシーンが登場します。)が近代的な社会制度として好ましくないという理由で廃止されます。これにより日本の伝統文化が日本人(庶民)に広く解放されることになりましたが、西洋楽器と相性が良い筝は西洋の音階に調弦できるように楽器の改良が進んで西洋の楽器と頻繁に合奏させるようになり文明開化の流れに上手く乗って普及し、さらに、ジャポニズムを背景として筝曲「さくらさくら」がプッチーニの歌劇「蝶々夫人」(1904年作)の第一幕(YouTube:25:04~)に引用されるなど西洋でも注目されるようになりました(因みに、葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にインスピレーションを受けて作曲したと言われている交響詩「海」は1905年作)。その一方で、三味線や浄瑠璃常磐津、清元、新内等)等は前近代的であるとして廃止論が盛んになり不遇の時代を迎えることになりました。また、江戸時代に諸藩に召し抱えられていた能楽師廃藩置県後に天皇の臣下として明治政府から扶持を支給されていましたが、これも同様の理由から1871年に政府の支援が打ち切られて衰退します。しかし、1879年に来日した前アメリカ合衆国大統領グラントから「貴国には固有の音楽アリヤ」と問われた岩倉具視能楽を「高尚優美ノ技芸ナリ」と紹介したところ、これを受けて実際に能楽を観賞したグラントから自国文化の保護も政府の重要な使命であることを示唆され、元公家や大名等の華族に働き掛けて能楽保護へと取り組むことになります。日本画フェノロサの尽力によって再興したのと同様に、能楽もグラントという外国人の力によって再興を後押しされたことになり(このような外国人が邦楽の分野に現れなかったことは不運)、如何に明治維新(文明開化)が文明の意義を履き違えた浮足立ったものであったのか、また、(岡倉天心が映画の中で嘆いているように)それによって西洋(文明)に十分に認められ、受け入れられる価値を持っていた日本の伝統文化(日本の美)がどれだけ破壊され又は破壊されようとしていたのかということに思いを馳せれば、夏目漱石が「皮相上滑りの開化」であると悲観した言葉の重みが痛感されます。時代の変革期にあって、その時代に生きる人間の選択は同時代に生きる人間に対してのみではなく、未来に生きる人間(子孫)に対しても重い責任を負っているということに思いを致さざるを得ません。AI革命元年にあたって、AIが本当に人類に幸福をもたらすのかその副作用(AIが戦争やテロ、犯罪に悪用されないかという初歩的な問題もさることながら、知情意や身体能力のすべてが人間よりも優れ、人間のコントロールに服さずに自発的に自らの意志によって思考、行動することができ、かつ、生殖ではなく生産によって繁殖することができる科学的生命体とでも言うべきAIロボットを前にしたとき(即ち、これまで神が創造したものを漠然と“生命”と観念してきましたが、人間がそれと同じ又は上回るものを創造したとき)、そもそも“生命”とは何なのかという根源的な問いに始まって、AIロボットよりもすべてが劣る生物学的生命体である人間の存在意義をどのように捉え直せば良いのかという人間存在の本質に係る深刻な問題を突き付けられること)について十分な議論が行われないままに経済原理に従って技術開発競争が繰り広げられている現状に少なからず危惧を覚えます。

“ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする”....岡倉天心は横浜の貿易商の次男として生まれて英語を学びながら育ちますが、以下のとおり当時の横浜は文明開化によって西洋から新しいものが次々と流入していたので、そのような環境の中で岡倉天心は早くから日本人としてのアイデンティティを意識し(その意味で国際人たりえ)、だからこそ「皮相上滑りの開花」には違和感を覚えたと言えるしれません。

上述のとおり日本の伝統美術(とりわけ日本画)はその再興が試みられた一方で日本の伝統音楽は衰退の一途を辿ることになりますが、その後の日本音楽の近代化について簡単に触れておきたと思います。日本の音楽教育の研究機関として文部科学省に設置された音楽取調掛は日本の伝統音楽を「雅楽」(宮中の音楽)と「俗楽」(庶民の音楽)に分けて、俗楽は「無学ノ輩」(身分の低い者)の芸であり、その「淫奔猥褻ナル風教」(下世話に流れるきらい)は善良な風俗を害し、文明国としての品位を損なうものであって、とりわけ三味線や浄瑠璃等は俗楽の中でも最も卑しい「淫楽」(お座敷芸)であるという卑屈とも言える偏見に満ちた見解を示したことが1つの要因となって、2002年の和楽器の義務教育化まで日本の音楽(邦楽)教育に暗い影を落とすことになります。音楽取調掛は伊澤修二がアメリカに留学していたときの音楽教師メーソンを招聘して西洋音楽の普及に取り組みますが、丁度、明治維新による欧化政策の一環としてキリスト教の布教が解禁されたことに伴って、メーソンはキリスト教の布教に最も効果的であるという理由から讃美歌の普及に意欲を示したのに対し、伊澤修二は子供達の道徳心愛国心を育むことが音楽教育の目的(尤も、これは子供達の道徳心愛国心を育むために音楽を有効に活用するという意味であって、音楽が道徳的又は愛国的であるべきだということまで意味している訳ではないと思います)であり西洋音楽の良いところを採り入れながら和洋折衷による新しい日本音楽(西洋楽器が十分に行き渡っていない状況を踏まえ、器楽ではなく声楽を中心とした唱歌)の創作を試みました。そのような状況のなか、1881年に東京女子師範学校(現、お茶の水大学)で催された唱歌の台欄演奏会に岡倉天心(当時、岡倉天心は外国人教師の通訳として音楽取調掛に勤務し、メーソンとも親交があったと言われています)も参加して「ルソーの夢」が歌われたという英文報告書を残していますが、これはルソーの歌劇「村の占師」(1752年作)の第8場舞曲「パントマイム」(YouTube:51:40~)が讃美歌「グリーンヴィル」に編曲されたもので、日本では唱歌「むすんで ひらいて」として一般に普及しました。当初、古今和歌集の和歌「見渡せば 柳桜を 扱き混ぜて 都ぞ春の 錦なりけり」(素性法師)を基に作られた歌詞「見渡せば 青柳 花桜 扱き混ぜて 都には 道も瀬に 春の錦ぞ 佐保姫の 織りなして 降る雨に 染にける」が添えられ、後に「むすんで ひらいて、てをうって...」のお馴染みの歌詞に改作されましたが、日本音楽の近代化は讃美歌の旋律(西洋の技法=洋才)を借りながらその歌詞に日本的な詩情(日本の思想=和魂)を盛り込み、(神ではなく)国を賛美する唱歌を創作することで子供達の道徳心愛国心を育もうと試みました。丁度、近代日本画が画題を東洋的なもの(日本の思想=和魂)に求めながらその描画は西洋画の良いところ(西洋の技法=洋才)を採り入れたことと相似しており、「皮相上滑りの開花」の中にあって日本の伝統文化を承継する芸術家達は西洋文化の良いところを採り入れながら日本の伝統文化を新しい時代に相応しい形に改良し、再生しようと試みていたことが伺えます。なお、唱歌遊戯(唱歌のリズムにのせて集団で体を動かす運動)は子供達の身体能力を向上するために利用されますが、日本舞踊のように腰を落として足を擦りながら行う回転運動(農耕民族が田植えをするときの動き。大地=八百万の神々に向けられた下へのアピール。)だけではなく、バレエやダンスのようにスキップやジャンプなど足を高く振り上げ又は跳躍する上下運動も採り入れること(狩猟民族が獲物を狩るときの動き。太陽=唯一絶対神に向けられた上へのアピール。)により子供達の身体能力を開発、強化することも試みられていたようです。

国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代

国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代

このように日本の伝統文化(とりわけ日本画と声楽)は和魂洋才という手法で近代化を指向しましたが、これを分かり易い例で言い換えるとすれば、「明治維新」ではそれまで裸同然だった日本人が西洋人の立派な服装を見て恥ずかしく感じ、外見を“洋服”で装って恰好良く見せようとする一方で、その中身はやはり履き慣れた“フンドシ”が一番ということに落ち着きましたが、「第二次世界大戦敗戦後」はGHQ占領政策の1つである日本洗脳プログラム(WGIP)によって“オイナリサン”がチラチラと見え隠れするような“フンドシ”は無理矢理に脱がされ、もう二度と“オイナリサン”が見えないように西洋人も履いている“パンツ”をあてがわれました。これによって自分が何人なのか分からなくなってしまいましたが、元来器用だったので“洋服”や“パンツ”を自分達の身の丈に合わせて再加工し西洋人よりも恰好良く着こなすようになったので、今度は自分達にしか着られない独自の寸法ではなく西洋人の寸法に合わせろ(「規制緩和」)と生活指導が入ったので、とうとう“洋服”や“パンツ”を恰好良く着こなせなくなり、自分が何人なのか分からない只の恰好悪い人に成り下がってしまいました。ところが、最近、お前は何人なのかと問われる機会が増えてきたので、本来の自分は何人だったのか興味を持ち始め、書店やコンビニ等には“神社仏閣”、“しきたり”、“江戸”、“古事記”、“伝統”など懐古趣味をくすぐる本や雑誌が並ぶようになったというのが現代日本の時代観だと思います。

江戸時代には「美術」という言葉やこれに概念的に包含される「絵画」「彫刻」「工芸」という言葉(ジャンル)は存在せず、「絵師」(武家文化の御用絵師及び庶民文化の浮世絵師を含む)「塗師」「仏師」「陶工師」等に留まらず「瓦師」「畳刺」「経師(表具師)」「鳶(仕事師)」「屋根葺」等に至るまで熟練した技術を身に着けて手作業により物を作り出すことを「職能」と呼んでいましたが、明治政府がウィーン万博(1873年)へ参加するにあたって出品分類区分22“Kunstgewerbe”(ドイツ語)の翻訳として「職能」ではなく初めて「美術」という言葉を使いました。その定義として「西洋にて音楽、画学、像を作る術、詩学などを美術と言う」と添えられたことから、当時は「職能」よりは狭く(現代的意義の)「美術」よりは広い(現代的意義の)「芸術」に近い概念として「美術」という言葉を使ったようです。この点、(当時の)「芸術」という言葉には稽古事や技という語感があり、“文”だけではなく“武”を含む幅広い技術(ギリシャ語の“techn”(テクネー))を意味していましたが、そこから“武”を捨象して“美”に関する芸術に限定する意味を持つ「美術」という言葉が造られたようです。また、第3回内国勧業博覧会(1890年)からは西洋に倣って、それまでは「書」と「画」(画には線描という語感があり、そこから筆の一線を一画と数えるようになりました。)を組み合わせた「書画」(文字+線描=水墨画、東洋画)という出品分類区分が設けられていましたが、新たに「絵」(絵には色描という語感があり、多彩な“糸”を縫い“会”わせて創る刺繍模様を示していました。)と「画」を組み合わせた「絵画」(線描+色描=大和絵、西洋画)という出品分類区分が設けられて「絵画」が「書」から独立したものとして確立します。これにより「書」は内国勧業博覧会から姿を消すと共に、明治政府が主催する官展や東京美術学校の教科からも除外され、1948年に日展で「書」が復活するまで全く顧みられることはありませんでした。この点、西洋では古代ローマ時代からカリグラフィーギリシア語の“CALLI”(美しく)と“GRAPHEIN”(書くこと)から成る言葉で、文字を美しく見せるための手法という意味では日本の書道と共通していましたが、日本の書道のような精神性は持っていませんでした。丁度、日本では緑茶=道(精神的なもの)として発展したのに対し、西洋では紅茶=薬(実用的なもの)として普及したのと同様です。)の伝統は存在していましたが、活版印刷技術の発達により手書きの必要性が薄れたことに伴って徐々に脚光を浴びなくなり廃れて行ったのに対し、日本では(早くから活版印刷技術は輸入されていましたが)写経に代表されるように手書きの書は精神を修養するための有効な方法(座禅や茶道と同じように心を整える術)であると捉えられていたことから廃れることはなかったという違いがあります。しかし、上述のとおり既に西洋ではカリグラフィーが廃れていたことから、日本の「書」は文明開化(西洋化)の流れの中でその居場所を失って不遇の扱いを受けることになりました。ご存知のように、その後、Apple社の創業者であるスティーブ・ジョブズがMacの開発にあたってカリグラフィーに着目しパソコンにフォントを導入したことで、再び、西洋でもカリグラフィーが脚光を浴びることになりましたが、これはメディアアート(アート、デザイン、テクノロジーやサイエンス等を融合した創作)の走りと言えるかもしれません。このような経緯を経て「美術」や「絵画」を始めとして「彫刻」「工芸」「写実」「様式」「伝統」等の美術用語や「歴史画」「戦争画」「風俗画」「風景画」等の絵画ジャンルが創られ、また、「美術史」「博物館」「美術館」「展覧会」「美術学校」等の西洋の学問分野や社会資本が整備されて日本美術の近代化が図られましたが、その一方で、西洋の日本文化ブーム(ジャポニズム)を見ると、浮世絵や工芸品など日本の伝統美術(庶民文化)に高い評価が集まり、国是として取り組んできた日本の近代美術は暫く注目されませんでした。指揮者の小澤征爾さんが著書「小澤征爾 音楽ひとりひとりの夕陽」の中で作曲家の伊福部昭さんの言葉「民族という個別性を通り抜けなければ、世界という普遍性に辿り着けない」を引用して日本人が西洋音楽に取り組む意義について考察されていたのを思い出しますが、明治維新、日本敗戦及び規制緩和という3度の黒船来航(外圧)によって否定、破壊されてきた日本人の民族という個別性=日本人のアイデンティティは、インターネットの普及によるボーダーレス化(時代性・地域性・ジャンル等の崩壊)によって、再び日本人の拠り所(新たな芸術的創作の源泉を含む)としての意義が見直され、それが懐古趣味という緩やかな社会現象になって現れているのかもしれません。なお、一般に「近代」(モダン)とは明治維新から第二次世界大戦敗戦までの期間(明治維新大正ロマン→昭和モダン)を示し、「モダン」(近代)=「モード」(流行の様式)+「モデル」(模範の型式)から成る言葉で、“新しいこと=良いこと”というドグマ(進歩主義近代主義)のもとに様式や型式(洋才)への傾倒をもたらし(様式や型式が重視された時代性は同じ規格の商品を大量生産する経済活動にも結び付き)ましたが、「現代」(コンテンポラリー)とは第二次世界大戦後の時代を言い、「コンテンポラリー」(現代)=「コン」(共有)+「テンポ」(時間)から成る言葉で、進歩主義や近代(≒西洋)主義の呪縛から解放されて懐古趣味(その根底に息衝く日本人の民族という個別性=日本人のアイデンティティ)も許容、評価される時代になり、近代的な既成概念に捕らわれずに時代性・地域性・ジャンル等を超えたクロスカルチャーな創作(とりわけ日本では日本の伝統芸術と他の芸術分野とのコラボレーションによる新しい創作)が多様な芸術表現を生む時代になった(様式や型式など既成の枠を超える多様さが重視される時代性はユニークな規格の商品を多品種少量生産する経済活動に結び付いた)と言えるかもしれません。そのような時代を経て今年はAI革命元年と言われ、AI革命が芸術に与えようとしている影響についても注目が集まっていますが、これまでの変化が芸術の客体に生じたもの(即ち、明治維新が日本の伝統美に与えた影響とこれに対して日本の芸術家がどのように向き合ったのか)であるのに対し、これからの変化は芸術の主体に変化が生じ、それによって芸術の客体にもどのような影響がもたらされるのかということに関心が移っているように感じられます。ここでAI革命が芸術に与えようとしている影響について、僕の知り得る限りで少しだけ概観してみたいと思います。

明治国家と近代美術―美の政治学

明治国家と近代美術―美の政治学

先日のNHKスペシャル「人工知能 天使か悪魔か 2017」で、プロ棋士最高位である名人の佐藤天彦さんと人工知能(AI)の電王戦2番勝負の模様が放送されていました。結果は、ディープラーニングで飛躍的な進歩を遂げた人工知能(AI)が佐藤名人に2番とも圧勝しましたが(この勝負が決した瞬間は時代の転換点と言えるかもしれません)、この対戦を見た三冠王羽生善治さんは人工知能(AI)がプロ棋士の常識では考え難い手筋を指すことに驚きを隠せない様子でした。人間の脳はできるだけ迅速に情報を処理し判断するために予め経験値や常識等で選択肢を絞り込んだうえで思考するように造られていますが、圧倒的な処理能力を有する人工知能(AI)は予め経験値や常識等で選択肢を絞り込む必要はなくあらゆる選択肢の中から最適解を導き出すことができるという意味で、もはや人工知能(AI)は人間の脳による思考を凌駕し、これを超越する存在になっていると言えそうです。このことは将棋の世界だけではなく、例えば、ビックデータを利用したマーケティングや商品開発などビジネスの世界にも当て嵌まり、既に幅広い分野で人工知能(AI)が実用化されています。今後、人工知能(AI)が普及、進化するにつれて、そう遠くない将来に人間が働く必要がない社会(資本主義経済の終焉)が到来すると予測されています。人類は初めて自分達よりも知能が高いものに遭遇したことになりますが、これによって自分達の限界に気付かされ、自分達の存在意義について考え直さなければならない羽目に陥るかもしれません。また、上記のTV番組では、人工知能(AI)が中途退職を希望する兆しがある従業員を探知し早期にケアすることで人材(ノウハウ)流失を防止することに役立てられている実例が紹介されていましたが、人工知能(AI)が人間のちょっとした表情、仕草、言葉使い、性格や環境等を分析し未だ本人ですら気付いていない一定の感情や思考を抱く予兆のようなものを探知して、それがマイナスの感情であればその心的要因を除去し又はプラスの感情であればそれを育むように促すなど、人間よりも木目細かく巧みな気遣い、おもてなし、カウンセリングなどができるようになるかもしれません。AIロボットと言うと非人間的なイメージがつきまといがちですが、自らは感情を持つことなく、しかし、人間の感情を探知・理解し、これに共感を示し又はこれを良き方に導くことができるという意味で、人間にとって(人間以上の)最良のパートナーになり得る可能性を秘めています。この点、人工知能(AI)が発達した世界は、現代の我々がイメージしている世界とは随分と違ったものになり得るのではないかと思います。

このような人工知能(AI)によるイノベーションの波は音楽や美術などクリエイティブな世界にも迫っており、先日のNHKクローズアップ現代+「進化する人工知能 ついに芸術まで!?」でも採り上げられていましたが、やがて人工知能(AI)は人間よりも遥かに巧みに作曲や演奏を行い、絵画やデザインを描き、或いは小説を執筆するAIロボットが登場することになるかもしれません。ややもすると芸術は人間の独壇場であるかのような根拠なき迷信(センチメンタル)にしがみ付きたくなる傾向があり、俄かに受け入れ難いことかもしれませんが、そう遠くない将来にバッハの音楽やオイストラフの演奏でも、或いはレンブラントの絵画でも味わうことができなかった奥深い感動をAIロボットによって味わされる日が来るかもしれません。この点、既に人工知能(AI)が執筆した小説が文学賞(星新一賞)の第一次選考を通過したことや人工知能(AI)が描いた絵画がカンヌライオンズで2冠を受賞したことがニュースになっていますが、世界コンピューター将棋選手権と同様に、近い将来、人間に代わってAIロボットによる音楽コンクールや人工知能(AI)の創作によるアート作品の展覧会などが脚光を浴びることになるかもしれません。ここでクイズを1問...

【問題】この曲はある讃美歌を基にして作られた4声コラールですが、誰の曲だか分かりますか?これに正解することができれば、あなたは相当な音楽通と言えるかもしれません。

【回答】この曲はゲオルク・ノマイクの讃美歌「愛のみ神にこそ」(434)を基にしてバッハの音楽をディープラーニングしたAIプログラム「DeepBach」が作った曲です。バッハの曲と言われて聞けば、どれくらいの愛好家がこの曲を贋作と見抜けるでしょうか。因みに、この讃美歌はバッハのカンタータ第93番(BWV93)映画「Vaya con Dios」でも使われいる有名な曲なので、(AIプログラム「DeepBach」のことは知らなくても)愛好家なら知っておきたい1曲です。やはりバッハの真作と比べてしまえば全く筆致が及んでいないことは明らかですが、同じくバッハの音楽をディープラーニングしたGoogleのAIプログラム「Magenta」や米カリフォルニア大学コープ教授のAIプログラム「EMI」等も含めて、近い将来、これらのAIプログラムが進化してバッハの真作と疑って止まないようなバッハのエッセンス(DNA)が詰まった「フーガの技法」の補筆完成版を作曲してくれることを心待ちにしたいものです。なお、昨年に日本で公開された映画「The Forger」(邦題:天才贋作画家 最後のミッション)は、ある画家が組織犯罪集団からモネの「散歩、日傘をさす女」の贋作を作るように依頼され、それを真作とすり替えて盗むというストーリーですが、もし人工知能(AI)が発達して真作と何一つ変わらない作品をいくつも複製(≠複写)することができる時代(即ち、もはや人間の再現能力の低さを前提としない時代)になった場合、果たして真作(オリジナル)の価値や存在意義はどのように変質して行くのかという問題を考えさせられる作品であり、AI革命の進展によって芸術的な創作活動を含む人間存在の本質について相当深刻な問題を突き付けられる時代がやってくることを予感させます。

◆おまけ
未だ撲よりも下手ですが、将来有望なヴィルトゥオーソに成長すると目されているAIロボットによるヴァイオリン演奏をご堪能下さい。単なる演奏技能だけではなく、音楽解釈や音楽表現も人間を上回る時代がやってくるかもしれません。なかなか名古屋にあるトヨタ産業技術記念館まで足を運ぶことはできないので、来店誘客も兼ねて全国のトヨタ販売店を演奏旅行で巡業して貰えないものでしょうか。因みに、AIロボットは、弦楽器よりも鍵盤楽器や打楽器、管楽器の演奏の方が得手のようです。

シンギュラリティ(2045年問題)を含めて、人工知能(AI)が自ら行う美学と芸術(≠人間が人工知能を使って創る芸術)について本格的に研究している人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)の研究会の動画をアップしておきます。

人工知能(AI)だけではなくロボット工学の進歩も目を見張るものがあります。滑りやすい雪道を上手にバランスをとりながら歩く姿はもはや人間の身体能力と比べても遜色がないレベルですが、人間のように「歩く」「走る」「跳躍する」「踊る」「水面を泳ぐ」等だけではなく、鳥や虫にように「空中を飛ぶ」、魚のように「水中を泳ぐ」など人間の身体機能を遥かに上回るAIロボットも既に開発され、実用化レベルにあります。

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映画「花戦さ」

【題名】映画「花戦さ」
【監督】篠原哲雄
【原作】鬼塚忠
【脚本】森下佳子
【出演】<池坊専好> 野村萬斎
    <豊臣秀吉> 市川猿之助
    <織田信長> 中井貴一
    <前田利家> 佐々木蔵之介
    <千 利 休> 佐藤浩市
    <吉右衛門> 高橋克実
    <専  伯> 山内圭哉
    <専  武> 和田正人
    <れ  ん> 森川葵
    <石田三成> 吉田栄作
    <浄 椿 尼> 竹下景子   ほか
【音楽】久石譲
【劇中絵画】小松美羽
【題字】金澤翔子
【協力】表千家不審菴
    裏千家今日庵
    武者小路千家官休庵
【監修】華道家池坊
【公開】2017年6月3日
【場所】京成ローザ10 1,800円
【感想】ネタバレ注意!
昨日から封切られた映画「花戦さ」を観てきたので、その感想を残しておきたいと思います。映画は人生を教えてくれると言いますが、この映画は心からオススメできる映画なので、是非、多くの方にご覧頂きたいと思います。映画「花戦さ」は花僧・池坊専好の生き様を通して華道の本質に迫った映画ですが、千利休の生き様を通して茶道の本質に迫った映画「利休にたずねよ」をご覧になられてから映画「花戦さ」をご覧になられると一層と鑑賞が深まるのではないかと思います。昔から「一芸は万芸に通じる」(世阿弥)、「一道は万芸に通じる」(宮本武蔵)と言いますが、華道、茶道、香道、書道等の芸道、柔道、剣道、弓道等の武道、そして仏道と、それぞれの態様は異なっても、いずれの道を究めるということも、人の生きるべき道のようなものを探究することに他ならないと思います。正しく映画「花戦さ」は花僧・池坊専好の生き様を通して華道の本質に迫ることで人の生きるべき道のようなものを諭されている(即ち、映画という器に池坊専好の心を活けることで、観る者の心も活け(整え)られている)ような映画で、久しぶりに深い感動と清々しい充足感を味わうことができる作品でした。以下では、少し映画の具体的な内容に触れながら感想を書きますので、これから映画を観る方はご注意あれ。

花戦さ (角川文庫)

花戦さ (角川文庫)

この映画の冒頭では池坊専好が河川敷に横たわる死者に菖蒲の花を手向けるシーンがシンボリックに用いられています(カキツバタは水の中に咲く花、アヤメは陸に咲く花ですが、菖蒲は水際=あの世とこの世の境目に咲く花)。ややもするとラストの花戦さのみに関心が向けられがちですが、このシーンで登場する天才絵師無人斎(画号)の遺児れん(蓮)に非常に重要なテーマ性が持たされていると思います。池坊専好は河川敷に横たわる者の中に未だ息のある遺児れんを見付けて助けますが、すっかり生きる気力を失った遺児れんは食事すら受け付けず、その様子に心を痛めた池坊専好は水桶に入れた蓮の花を遺児れんの傍らに添えます。やがて遺児れんは蓮の花が「ぽん」と音を鳴らせて花開く姿にインスピレーションを受けて、お寺の襖に奔放闊達とした荒々しいタッチで息吹迸るような蓮の花の絵を描き出します。仏教では、蓮の花が開くときに鳴る「ぼん」という音を聞くと悟りが開けると言われていますが、蓮の花が泥水の中から生じて清らかで美しい花を咲かせる力強い生命力に触れることで遺児れんは再び生きる気力を取り戻して親譲りの才能を開花させていきます。さしずめ池坊専好が蓮の花の力を借りて遺児れんの心を活けたシーンと言えそうです。この映画の中で池坊専好は「花の中に仏がいたはる。宿る命の美しさを、生きとし生けるものの切なる営みを、伝える力がある。」と言って花の中に仏性を見出していますが、これは山川草木悉皆成仏という仏教の教え(世界観)が背景にあるものと思われます。法華経では「南無妙法蓮華経」という題目を唱えますが、(ここでは詳しく触れませんが)この「蓮華」という言葉には蓮のように美しい花(ここでは「花」ではなく「華」=「悟り」というべきか)を開くという祈りが込められており、上述のとおり泥水の中から美しい花を咲かせる蓮の花の姿に人の生きるべき道のようなものを見出していたのかもしれません。また、生け花には万物の基礎である天・地・人のうち、天を体現する「真(しん)」と呼ばれる部分があって神が天下る「依代」と考えてられていますが、これは八百万の神々という神道の教えが背景となっており、その思想は、例えば、能楽堂の鏡板に描かれている松や三番叟で舞台の四隅に植えられる小松として能楽の中にも息づいています。この点、能楽には、例えば、人間の霊が草木に化体する「東北」(和泉式部の霊が化体した梅)・「半蔀」(源氏物語の夕顔の霊が化体した夕顔)・「女郎花」(入水自殺した婦の霊が化体した花)など、神仏が草木に化身する「高砂」(神が化身した松)・「龍田」(神が化身した紅葉)・「梅」(神が化身した梅)・「花月」(仏が化身した柳)・「杜若」(仏が化身した杜若)など、草木が成仏する「芭蕉」・「西行桜」・「藤」・「遊行柳」(それぞれの草木の精霊)などの曲目が存在し、神道や仏教の教え(思想)は日本人の自然観や死生観として心に根付き、華道だけではなく様々な文化として花開いていると言えます。昔の日本人は暗闇、風音、空模様など森羅万象が織り成す神の御技にインスピレーションを受けて豊かな精神世界を営み、それが昔の日本人の創造力の源泉になっていましたが、いつしか唯物的世界観に心を支配されて精神世界の営みを失い、心の逃げ場を失って窒息しかけているのが現代という時代性ではないかと感じますし、それが何やら滑稽ですらあります。

茶の湯の大事とは人の心に叶うこと」…映画「利休にたずねよ」では千利休のもてなしに羽柴秀吉が心を裸にされて落涙するシーンがありますが、これと同様に、映画「花戦さ」では千利休のもてなしに池坊専好が心を裸にされて落涙するシーンが印象深く描かれています。二畳隅炉の空間は心静かに自分自身と向き合うことができる広さであり、躙り口から腰を屈めて見上げる茶室、草庵風に仕上げられた荒壁や花本来の素朴な美しさや生命力を際立たせる一輪挿しは心のこわばりを解いて、自然の音の中に息づく茶の湯の三音(湯釜の蓋をずらして開ける音、茶筅の穂を茶碗の湯にとおす音、茶碗に茶を入れたあと茶碗の縁で茶杓を軽くはたく音、湯釜の湯の煮え立つ音(松風)、湯を茶碗に汲み入れる音、柄杓の中の残り湯を釜に返す音)が心を整えてくれる不思議な時の流れ(さながら座禅を組んで心を整えているときのような平らかで澄まされた感覚)を体験できます。池坊専好は大名家に出入りして花を生けているうちに、きちんと花を生けなければならないという気持ちが強くなり花を生けることが楽しくなくなったと悩みを吐露しますが、その待庵での体験を手掛りに花本来の素朴な美しさや生命力を見詰め直すことで精神の自由な飛翔や解放が感じられる「夏に跳ねる」(花本来の素朴な美しさが持つ輝きや生命力が漲る息づかいの一瞬一瞬を活写したような型破りで斬新な作品)を創作して自分の生け花を取り戻します。これと同様に、天才絵師無人斎の遺児れんも絵が評判になるにつれて池坊専好が「絵が丸くなった」と感じたように奔放闊達な画風は影を潜めて自分本来の絵を描けなくなりますが、茶室ではなく洞窟に籠って自分自身と向き合うことで(父無人斎の画風とは違う)自分の絵を取り戻します。ここでは安土桃山時代だけではなく現代にも通じる創作者、表現者の心の葛藤として、世評に惑わされず、創造に大切な自由な心を保ち続け又は創作意欲に忠実であり続けることの難しさが描かれています。

利休にたずねよ [DVD]

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もう1つ千利休豊臣秀吉を待庵に招いて茶を点てるシーンが印象深く描かれています。映画「利休にたずねよ」では織田信長から切腹を申し付けられるかもしれない羽柴秀吉が利休のもてなしに心を裸にされて落涙するシーンが登場しますが、それと対局をなすように、豊臣秀吉が黒楽茶碗(自分との深い対話を求める器)を投げ捨て千利休に黄金の茶室(茶道で志す茶禅一味とは異なる世界)の建築を命じることでその心を捻じ伏せようとします。“猿”こと豊臣秀吉を市川之助さんが演じられていたのは実にアイロニカルで洒落ていますが(笑)、市川猿之助さんの豊臣秀吉の腹のうちを映す目の演技と千利休を演じる佐藤浩一さんの息を呑む間の演技とが白眉で、これほど豊臣秀吉千利休の人間模様(“羽柴秀吉”の心を裸にできた千利休の茶がいまは“豊臣秀吉”の頑な心を解くことができず、徐々に心が離れ始めているその心のあや)が見事に描かれている名シーンだと思います。「茶の湯の大事とは人の心に叶うこと」と言いますが、その一方で、茶人としての美意識(道)に忠実であろうとする千利休の心の葛藤が巧みに描かれています。戦国時代ほど極端な形では現れませんが、現代でも才能が乏しい上司と才能が豊かな部下との間の微妙な関係はあり得るものなので、その意味でも面白いシーンでした。

花道古書集成(全5巻セット) 第1期

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ラストシーンに並ぶ印象深いシーンとして、千利休切腹により創作意欲を失っていた池坊専好が花の力によって創作意欲を取り戻すシーンがあげられます(生け花によって自らが活かされるシーン)。このシーンで野村萬斎さんは脚本・演出にはなかった涙を流しますが、華道を究めるということは人の生きるべき道のようなものを探究することに他ならず、花を生けることによって、その人も生かされるという意味で一種の精神修養のための行(心を整えるための術)のようなものであることを教えられます。生け花で使う花器を「花生け」、茶の湯で使う花器を「花入れ」と言いますが、千利休が「花は野にあるように」と言ったとおり、茶の湯の花は自然にあるがままを挿し入れ、茶室の設えとの調和を大事にして、茶事の束の間に蕾がほころぶ姿を楽しめるように命の短い花材を使うことを特徴とします(時間芸術よりも空間芸術に重きを置いた考え方)。これに対し、生け花はそれぞれの花の美しさを最大限に引き出すように技巧を駆使して「花を生かす」ことを大事とし、できるだけ長くその姿を楽しめるように寿命の長い花材を使うことを特徴とします(空間芸術よりも時間芸術に重きを置いた考え方)。尤も、第4代目池坊専好さんが「野山を、自然の中を歩いて、どのような環境でどのような草花があるのかを自分でよく見極め、知っておくことが大切だと思います。人間の勝手な思い込みで生けるのではなく、あくまでも自然にある草木の姿を生かす」ことが大切だと仰られているとおり(花は足で生けよ)、生け花も茶の湯も花も華美のみを追い求めるのではなく、その自然の姿、即ち、侘びや寂びの精神にも通じる移ろい行く花の命の美しさを写し取っているという意味で、花に見ている美しさの本質は共通しているのだろうと思います。花は自分を映す縁でもあり、花の美しさとは何か、花に何を見るのか、その感じ方は人それぞれだと思いますが、白洲正子さんが川瀬敏郎さんの生け花を見て「この壷にはただ綺麗なものを入れても詰まらない。寒菊はちょっと野暮ったいからいいのよ。」「この板に瑞々しい花は合いません。“冷え枯れる”美しさというか、命の凝縮したような枯牡丹じゃないと。」と感じたとおり(白洲正子著「美の種まく人」より抜粋)、これが花の美しさ(生き様)であり、花を生ける(愛でる)という意味ではないかと個人的には感じています。武田信玄が「人の使ひようは 人をば使わず 能(わざ)を使ぶぞ」という名言を残していますが、これは人の上に立つ者は人を使うという狭い了見であってはならず人を活かすという心掛けこそが肝要であるという帝王学です。生けられない花がないように活かせない人もいない、生(活)ける人の心掛け(即ち、生け(活かし)方)1つで、どんな花も、どんな人も、その美しさ(能力)を発揮するということであり、花も人も全く同じということです。

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ところで、日本人が移ろい行く儚いもの(その象徴としての自然、地上界、多神教)に美を感じ取る傾向(侘びや寂びに通じる精神)があるのに対し、西洋では永続する完璧なもの(その象徴としての太陽、天上界、一神教)に美を感じ取る傾向があり、これは日本と西洋における庭園造りの思想の違いに端的に現れています。(分かり易くするために、誤解を恐れずに荒っぽいことを書きますが)日本人は農耕民族であり、無から有(命の恵み、農作物)を生み出す大地(自然、万物)を崇拝し、その命の恵み(農作物)を生み出す大地(自然、万物)には神仏が宿っているという思想(多神教)が生まれます。自然は畏敬、崇拝の対象と観念され、日本庭園は神仏が宿る大地(自然、万物)のありのままの姿を写し取り、その縮景として神仏が説く世界観を表現するようになります。このため、日本庭園内にある建物(茶室を含む)は庭園の中に溶け込むように設えられ、人間が庭園(自然)の中を回遊する(即ち、人間は自然によって生かされ、その一部として同化している)という基本的な考え方が背景にあります。日本庭園は季節によって移ろい行く自然をアシンメトリー(平面的又は立体的な位置関係が不平等三角形)になるように設えることで3次元的な奥行きを感じさせる自然的な調和美のある空間に造り上げています。この点、華道でも「右長は諸神、左短は諸仏」と言ってアシンメトリーな構図(「真・副・体」「天・地・人」等からなる不平等三角形)を用いているのは同じ思想的な背景があるものと思われます。これに対し、西洋人(の多くの民族)は狩猟民族であり、狩猟の対象である動物は太陽から人間に下賜された恵みであって、その恵みを下賜する太陽を崇拝する(一神教)一方で、その太陽から下賜された恵み(動物、自然)は人間にとっては支配の対象であるという思想が生まれます。このような思想を背景として、西洋庭園(但し、イギリス式庭園を除く。)は、人間(支配)と自然(被支配)とを明確に分離し、人間が支配し易いようにで庭園(自然)をシンメトリー(幾何学的でシンプルな空間)に加工することにより人工的・機能的な意味での完璧な美しさを追求するようになります(音楽における十二平均律も人間が音をコントロールし易いように人工的・機能的に1オクダーブを十二等分し、その十二音に収まらない自然音を切り捨てたのも同じ発想)。また、自然を支配の対象と捉えることから、庭園と建物は非連続的に設えられ、庭園は建物の“バルコニー”(天と地の間)から眺めるものとして造られたので、(自らを自然の一部として同化し同じ目線から庭園(自然)を愛でることを前提とした)3次元的な奥行きは必要なく、バルコニーから庭園を俯瞰(支配)し易いように2次元的な空間が好まれるようになります。因みに、ベートーヴェン交響曲第九番の第四楽章は、いかにも“バルコニー”的な音楽を気取って人間中心(優位)主義的な発想(思慮の浅い少女趣味的な理想)が濃厚に漂い、“バルコニー”にあがってこない者は去れと言い放っているあたりはどこかナチズムの片鱗すら伺わせる胡散臭さ(底の浅い理想が早々に行き詰まる破綻の予兆)が見え隠れしているようで、この酒盛りの歌を聴く度にシラーとした気分にさせられます。或いは、堕天使ガブリエルよろしく、「天上の音楽」(第三楽章)から一気に「俗世の音楽」(第四楽章)へと聴衆を叩き落とすことで人間の増長を戒める教訓音楽と悟るべきなのでしょうか?いずれにしても、どのような曲にも良さはあるもので、誰でも原語で歌えてしまうお手軽さがクラシック音楽を身近なものにしているという意味では、この曲も生けられないことはないのだろうと思います。毒花を生けてしまいましたが、些か毒が過ぎましたでしょうか...。

いけばなの根源池坊展「花の力」札幌花展丸井今井札幌本店で開催中。週末は映画「花戦さ」をご覧になった後、本物の花の力に触れて自分自身を生け直してみるのも一興かと。

閑話休題。先述のとおり、この映画の中で池坊専好が「花の中に仏がいたはる。宿る命の美しさを、生きとし生けるものの切なる営みを、伝える力がある。」と言っていますが、この言葉には仏教的な世界観と共に老荘思想にも通じる非常に奥深い哲学が感じられます。老子の言葉に「道常無為、而無不為」(道は常に何事もなさないが、それでいて全てを成し遂げている)というものがありますが、自然の営みは何も変化していないように見えてその実は長い時間の流れの中で絶えず変化を繰り返し、自ずと定まるべきところへ定まって全体との調和が保たれているという、生命の営み(生き様)の本質に触れる教えです。花のあるがままの姿には長い時間の流れの中で絶えず変化を繰り返して自然全体との調和を保っている姿、即ち、自然的な偶然の積み重ねが生み出すその存在の必然性が持つ力強さ(生命の輝き)が息づいており、その生命の営み(移ろい)の瞬間、瞬間の中に唯一無二(一期一会)の美しさを見出し、その瞬間を写し取って生かすことが花を生ける醍醐味ではないかと感じています。このような花本来の美しさに身を委ね、自分自身も自然の一部として同化し、その命の営み(移ろい)、息づかいに調和する(その花の命の営みに同化して自分自身の存在本質を問い直す)という精神的な営みが「花一輪に飼い馴らされる」ということではないかと感じています。このように華道には花の見た目の美しさの向こう側にある存在の本質(命の輝き)を感じ取る日本人の自然観や感受性が強烈に打ち出されており、それが西洋のフラワーアレンジメントとの圧倒的な違いになって現れているのではないかと思われます。池坊専好が花の力によって創作意欲を取り戻すシーン(生け花によって自らが活かされるシーン)ではこのようなことが象徴的に描かれていると思われ、非常に印象深く心に残っています。なお、この映画では千利休切腹する際に梅蕾をつけた枝が茶室に生けられていましたが、千利休切腹したのは新暦で4月21日のことであり、劇中でもよくこの時期に梅があったと驚かれています。この点、明治時代になって日本に渡来した「利休梅」というバラ科ヤナギザクラ属の花は、桜の花に遅れて、丁度、千利休の命日の頃に花を開くことから「利休梅」と名付けられ(...と言うことで「利休梅」は茶花としてよく利用されますが、千利休が愛した七種の花木「利休七選花」に含まれているという訳ではありません。)、また、千利休が愛用していた黒漆塗の棗の仕覆と伝わる裂「利休緞子」に施されている梅紋様のことも「利休梅」と言いますので、何やら心憎い演出意図が感じられます。梅の花言葉は「厳しい美しさ」や「忠実」ですが、最後まで茶人としての美意識に忠実であった千利休の生き様が生けられていているようで、感慨深いものがあります。そう言えば「利休梅」で思い出しましたが、「四十八茶百鼠」の中に千利休が好んで用いた色「利休鼠」(緑みがかった灰色)があります。「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる」という北原白秋の歌を思い出しますが、千利休切腹した日も豪雨だったそうなので「利休鼠の雨」が降っていたかもしれませんな。夏休みも近いことですし、果たして「専好花火」という気の利いたものがあるのかも調べておきたいと思います(笑)。


大河ドラマ「おんな城主 直虎」からオープニングの場面

最後に、池坊専好は専横を極める豊臣秀吉に「花戦さ」を挑むことを決意します。「花戦さ」と言っても、池坊専好が死を覚悟した真剣勝負という意味合いで、豊臣秀吉のように力で人の心を捻じ伏せるのではなく(即ち、剣術としての殺人剣と同じ)、生け花の美しさによって人の心を開かせること(即ち、武道としての活人剣と同じ)を本旨とした勝負です。池坊専好は、冒頭シーンで登場した菖蒲の花(河川敷で命尽きた名も無き民の花)や蓮の花(天才絵師無人斎が豊臣秀吉に猿の絵を献上して斬首されたことにより命を狙われることになった遺児れんの花)を生け、豊臣秀吉にどの花が美しいかと問い掛けますが、豊臣秀吉は見事な生け花を前にしてどの花もそれぞれに美しいと答えます。その答えを受けて、池坊専好千利休が金色の茶器にも黒楽茶碗にもそれぞれの美しさがあるということを秀吉に伝えたかったのだと諭します。そして、天才絵師無人斎が描いた三幅の掛け軸(猿猴図)を掛けさせますが、はじめは怒りに顔色を変えた豊臣秀吉池坊専好の生け花と三幅の掛け軸が織り成す生き生きとした世界に圧倒され、三幅の掛け軸に描かれた水墨画の猿の芸術的な価値に目覚め(即ち、豊臣秀吉が自分自身と向き合うことで)、自らの曇った心によってそれらの美しい花々を枯らせてきた治世の誤りに気付かされます。昔から愛嬌のある手長猿や山猿の水墨画狩野山雪長谷川等伯伊藤若忠等の絵師が好んで描き、劇中で天才絵師無人斎(実在した絵師か分かりませんが、武田信虎無人斎と号していたので“甲斐の山猿”に掛けられているとすると実にこってりとしたアイロニーです)が描いたとされる手長猿の水墨画のなかに「猿猴取月図」(猿が井戸に映った月を取ろうとして水におぼれるという故事)と似た構図のものがありますが、月までも我が物にしようとした猿と同様に豊臣秀吉の傲慢増長はやがて身を滅ぼすもとであるという諫めの意味が込められているようで、花戦さとは池坊専好の生け花の美しさに化体した千利休、天才絵師無人斎(豊臣秀吉によって歴史の闇に葬られた芸術家達の象徴)や名も無き民の心が豊臣秀吉の心を裸にし、その心を整えた(生けた)と言えるかもしれません。茶の湯ではなく生け花で豊臣秀吉の心を裸にするラストシーンは「芸は道に通じる」ということを思い起こさせます。最後に、豊臣秀吉に捕らえられた遺児れんが無事に解放され、池坊専好が河川敷で死者に手向けた花を指して「この花をええように書いたって」(専好)/「この花には毒があっても?」(れん)/「それでも花やろ」(専好)と語るシーンがありますが、華道はどんな花(人を含む万物)にもそれぞれの美しさがあり、そのような花(人を含む万物)の多様性とその調和が世の中に奥行きのある美しさや面白さを生むのであって、この世には生けられない花(人を含む万物)はないということを教えられているようです。当世流に言えば、ダイバーシティということになりましょうが、翻って自分の人生をどのように生けるのかは自分の心掛け次第とも言えるかもしれません。因みに、池坊専好と同時代を生きた井伊直虎の半生を描いた大河ドラマ「おんな城主 直虎」のオープニングでは弓矢に椿の花で応戦するシーンが登場しますが、このドラマも花の戦いがテーマになっていますので、どのような花の戦いが描かれるのか興味深いです。

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【上段】1枚目:頂法寺(六角堂)の山門。頂法寺(六角堂)聖徳太子が淡路島に漂着した如意輪観音像を祀るために建立されました。なお、聖徳太子推古天皇摂政でしたが、丁度、推古3年に同じく淡路島に香木が漂着し、後に香道が誕生することになります。2枚目:頂法寺(六角堂)の本堂(拝殿)と六角柳。3枚目:頂法寺(六角堂)の本堂(拝殿)。向かって右側に「華道発祥の地」という銘が刻まれていますが、遣隋使に派遣された小野妹子頂法寺(六角堂)聖徳太子の菩提を弔うにあたり、仏前に献花する大陸の風習に感化されて聖徳太子の墓前に花を供えたことが華道の始まりと言われています。4枚目:六角堂と池坊会館。頂法寺(六角堂)は「六根清浄を願う」(即ち、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲を捨て去って角を無くし、円満になる)という祈りを込めた形と言われています。5枚目:池坊御用達の老舗の刃物店「金高刃物老舗」。頂法寺(六角堂)と向かい合うように店を構えており、その小さいながら威風堂々たる佇まいに店主の心意気まで感じられるようです。
【下段】1枚目:太子堂聖徳太子沐浴の古跡。この池の隣に僧侶の部屋(坊)があったことから「池坊」と呼ばれるようになったそうです。2枚目:蓮花の立花モニュメント。何代か分かりませんが、池坊専好の立花モニュメントです。3枚目:水仙の立花モニュメント。二代目池坊専好の立花モニュメントです。4枚目:華道の奥義書「池坊専応口伝」(通称、花伝書)のモニュメント。この花伝書で「瓶に美しい花を挿すこと」と、池坊が伝える「よろしき面影をもととする」生け花との違いが説かれています。川端康成ノーベル文学賞受賞記念公演で、この花伝書を引用して“生け花は小さい瓶上に大きい自然を象徴するものである。「野山水辺をのづからなる姿」を花の心として、割れた器、枯れた枝にも“花”があり、そこに花による悟の種がある。”と説かれたそうですが、その“花”を感じ取り、それを生かすこと(よろしき面影)が花を生けるということ(生け花)であると述べられています。5枚目:へそ石。もう直、祇園祭の季節ですが、江戸時代までは祇園祭の山鉾巡業の順番を決めるための籤取り式が京都(洛中)の中心地(ヘソ)と言われていた六角堂で行われていたそうです。

最後に、この映画でも見事な作品が使われていますが、実際に、以下の方々の作品も観に行ってみたいと思います。

   http://www.ikenobo.jp/shodai-senko/

  • 劇中絵画を担当した小松美羽さんの作品

   http://miwa-komatsu.jp/

   http://www.k-shoko.org/
   http://kanazawa-shoko.jp/index.php

華道に因んでブログの枕の代わりに、ブログの尻尾を付け加えておきます。華道の始まりは小野妹子聖徳太子の菩提を弔うために出家して聖徳太子が創建した六角堂(頂法寺)の初代住職となったことに遡り、小野妹子が遣隋使として大陸に派遣された際に死者に献花する隋の風習に感銘を受けて六角堂の住職になってから聖徳太子の墓前に花を供えることを日課としたことに由来すると伝えられています。また、六角堂には聖徳太子が沐浴した池があり、その池の隣にあった小野妹子の住坊(僧侶の部屋)を「池坊」と呼んでいたことが池坊家の名前の由来になったと言われています。小野妹子の子孫は平安時代の初期までは公卿として中央政府で活躍していましたが、その後、藤原氏などが台頭してくると公卿に留まることができず、地方役人として全国各地に赴任し、そこに定住して武士になる者が多かったと言われており、大河ドラマ「おんな城主 直虎」井伊家家老の小野政次(高橋一生)小野妹子の子孫と言われています。大河ドラマ「おんな城主 直虎」には毎回と言って良いほど生け花がシンボリックに登場し、井伊直虎が家臣や領民など周囲の人間を見事に生けて行く名領主振りが見物のドラマになっていますが、奇しくも井伊直虎が奮戦する花の戦さを池坊の始祖である小野妹子の子孫が支えるという構図になり、この大河ドラマの考え抜かれたテーマ設定に脱糞です。視聴率が低迷しているという記事を目にしますが、安易に大衆迎合に走って作品の質を貶めないのがNHKの良いところであり、民放とは一線を画する存在意義があります。もう一人、小野妹子の子孫として忘れることができないのが小野小町です。小野小町能楽の題材として「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」など数多くの作品で扱われていますが、とりわけ「通小町」の題材にもなっている百夜通いの伝説が有名で、その約200年後、西行法師が東大寺再建のための砂金勧進奥州藤原氏に向かう途中で小野小町の所縁の里と伝わる千葉県東金市に立ち寄り、京都深草から持ってきた墨染桜の枝を植樹して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に すみぞめに咲け」と詠んだと言われています。それから約800年の時を経て深草少将の想いは絶えることなく今もなおこの墨染桜に美しい花を咲かせ、百夜を超えて千夜に亘り、その美しい花びらと共に深草少将の儚い恋心を小野小町のゆかりの地に運び続けています。西行法師の想いも込められたその墨染桜は現代の我々の心にも美しい花を咲かせ続けており、西行法師が百夜通いの伝説という器に生けた生け花の傑作と言っても過言ではないかと個人的には思っています。

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【上段】1枚目:欣浄寺京都市伏見区)境内の裏庭。この土地は深草少将義宣卿が桓武天皇から賜った邸宅跡で、この隣には謡曲や歌舞伎等でも有名な墨染寺があり、境内には墨染桜中村歌右衛門が寄進した墨染井があります。歌人の上野峯雄が友人の藤原基経の死を悼んで「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」と詠んだところ、この寺の桜がその心を感じて薄墨色に咲くようになったと言われています。2枚目:欣浄寺境内の裏庭にある「小町姿見の池」と「少将姿見の井戸」(涙の水)。昔、小野小町が深草少将の邸宅を訪れた際にその美しい姿を池の水に映して「おもかげの 変らで年の つもれかし よしや命に かぎりありとも」と詠んだと言われています。「少将姿見の井戸」(涙の水)は小野小町への想いを募らせる深草少将が自分の姿を井戸に映して切なさに涙した井戸と言われており、この井戸の水は今もなお涸れることがありません。「通う深草百夜の情け 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺」(西条八十)。3枚目:欣浄寺境内の裏庭に並んで立つ小野小町の塚と深草少将の塚。4枚目:隋心院(京都市山科区)の山門。小野小町が晩年に身を寄せた寺。夕暮れ時の紅色(暮れない色)に染まる山門はそこに刻み付けられてきた歴史と共に独特の風情を湛えています。随心院の境内には、卒塔婆小町坐像、文張地蔵尊像(小野小町作)、小町白描画、花小町(東野光生作)(以上、写真撮影不可)や小町榧の切り株小町榧の実(小町榧から採れた実)、小野小町歌碑、通小町碑など小町ゆかりの品々を拝見できます。
【下段】1枚目:隋心院の山門前にある「小野小町化粧の井」。ここに小野小町の屋敷があったと言われています。2枚目:随心院境内の裏庭にある「文塚」。小野小町が恋文の束を埋めた塚で、その中には深草少将の恋文も含まれていました。3枚目:随心院境内の裏庭にある「小町榧」。小野小町は求婚を迫る深草少将に「百夜通って契りを結ぶ」と約束します。深草少将は片道5km弱の道程(欣浄寺と随心院との間を結ぶ大岩街道(府道35号線)〜醍醐道)を通い、毎晩、小野小町の屋敷の門前に榧の実を1つづつ置いていきますが、99日目まで通い、いよいよ約束の100日目の晩に大雪の中で凍死してしまいます。それを知った小野小町は大変に悲しんで深草少将が通ってきた道すがらに榧の実を植えたと言われており、今もその一部が随心院の境内やその周囲(西浦の小町榧小野葛籠尻町の小町榧)に残されています。4枚目:西行法師が植樹した「墨染桜」(千葉県東金市)。西行法師は東大寺再建のための砂金勧進奥州藤原氏へ向かう途中に鎌倉の源頼朝に拝謁した後に山辺赤人小野小町のゆかりの地である千葉県東金市に立ち寄って、墨染寺に咲く墨染桜の枝を小町塚(小野小町が愛用していた機織りの「筬」(オサ)が埋められている塚)の向かいの丘陵に植樹して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に 墨染に咲け」と詠んでいます。今もなお西行法師が植樹した墨染桜は春になると花を咲かせ続けており、百夜を超えて千夜に亘り、桜の花びらと共に深草少将の儚い恋心を小野小町のもと(向かいの丘陵の小町塚)へと運び続けています。心より心に伝ふる花なれば...。

◆おまけ
映画「花戦さ」の中で、池坊専好が蓮の花の力を借りて遺児れんの心を活けるシーンに因んで、シューマンの歌曲「ミルテの花」(作品25)より「蓮の花」をアルト歌手の小川明子さんとご主人でピアニストの山田啓明さんの演奏でどうぞ。

花に因んだ曲をもう1曲。クープランの「クラヴサン曲集」第13組曲第1番「ユリの花ひらく」をどうぞ

◆おまけのおまけ
野村萬斎さんがメディア・アーティストの真鍋大度さんとの共同で創作した舞台「F●RM」の画像がアップされていたのでご紹介します。舞台に張り詰める気(エネルギー)の流れや型(フォルム)に込められた思想性をメディア・アートの技法を使ってイメージとして可視化し、そこに景色や趣きを生むことで、観客による精神世界の営みを覚醒しようという面白い試みです。既に完成されている三番叟にこのような演出を加えることは無益又は有害と苦言を呈する方もいらっしゃるかもしれませんが、千利休が言う「不足の美」(完成されているということは、そのこと自体が既に不完全である)のように、なおこの曲目の表現の可能性を探る試みはこの曲目の真価を見直し又は新たな発見を促すという意味でも有効な試みではないかと思います。華道の「よろしき面影」に導くという考え方に通じるものがあるかもしれません。

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