大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

談志 最後の落語論

【題名】談志 最後の落語論
【著者】立川談志
【出版】梧桐書院
【発売】2009年11月
【値段】1890円
【感想】
立川流家元の立川談志師匠が亡くなってから百カ日が過ぎましたが、未だに談志師匠の死を惜しむ声が絶えず、様々な特番が放送されています。生前、談志師匠は自らの戒名を「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわ・うんこくさい・いえもと・かってこじ)」(「雲黒斎」ではなく「雲竹斎」という候補もあったとか..)とつけていたそうですが、あの世でも勝手次第の談志流を貫き通すつもりであることが伺える戒名です。僕にとって「この人がいなくなったら、世の中がつまらなくなるな」と思える1人が談志師匠で、べらんめえ調で舌鋒鋭く物事の本質に切り込んで行く気風の良さは今も懐かしく耳に残っています。昔、TOKYO・MXで「談志・陳平の言いたい放だい」というテレビ番組が放映されていて毎週欠かさずに観ていましたが、時事ネタを題材にして時代を鋭く抉る談志師匠のアイロニーたっぷりのジョークをいつも楽んでいました。近年は、TVドラマ「ちりとてちん」(NHK)や「タイガー&ドラゴン」(TBS)、短編アニメ「頭山」(山村浩二さん作)などの影響もあって空前の落語ブームだそうです(確かに落語を採り上げるTV番組は増えました)が、談志師匠のように江戸落語の“粋”を感じさせてくれる落語家はいなくなってしまいました。

談志 最後の落語論

さて、談志師匠の著書「談志 最後の落語論」(梧桐書院)は、同著「現代落語論−笑わないで下さい」(三一書房)、同著「現代落語論其2−あなたも落語家になれる」(三一書房)の集大成という位置付けのものなので、前二冊と重複する内容も多いです。談志師匠の名言「落語とは人間の業の肯定である」という言葉から落語論が展開されて行きますが、落語とは「非常識」を肯定し、「常識」という名の「無理」から人間を解放するものだと言い放っています。即ち、端的に言えば、「人を殺しても構わない」ものが芸能であり、「人を殴っても構わない」ものがスポーツなのだと..。(更に、同書では「自我」は「非常識」を凌駕するものとして落語論を掘り下げて行きます。)今日日、TVの出演者が少しでも不謹慎な発言をすれば視聴者から苦情の電話が殺到しますが、その一方で、寄席には「不謹慎な笑い」を求めて客がやってくるという現実もあります。この点、江戸落語は江戸庶民の憂さ晴らし(ガス抜き)として上手く機能していたのだろうと思いますが、現代人は(義務教育が整備され、マスメディアが発達したことなどもあって)「常識」というものに雁字搦めにされ、そこからくる「無理」を高度に組織化された社会の中で上手く発散できずに爆発させてしまっている状況(例えば、「常識」があるとされる普通の人が理由もなく無差別に人を殺傷してしまうような奇怪な事件が頻発している状況など)があるのかもしれません。「水至って清ければ、則ち魚なし。人至って察なれば、則ち徒なし。」(漢書宋名臣言行録)という故事がありますが、時には毒をもって毒を制するという発想も必要で、現代のような閉塞感に苛まれる時代こそ、江戸落語、談志師匠のような毒を社会が必要としているのかもしれません。談志さんによれば、(江戸落語における)良い芸とは江戸っ子の「了見」に見合うもの、即ち、ギャグ、自我、反社会的なことを「江戸の風」の中で演じることだと仰っていますが、確かに、この本における談志さんの独特の文体(調子)には「江戸の風」(粋で鯔背な心意気)のようなものが感じられます。ご興味のある方は前二冊も併せて読んでみることをお勧めします。

なお、You Tubeで談志さんの高座の模様(テレビ放映されたもの)がアップされていますので、ご興味のある方はご覧下さい。落語のまくらでは談志さんが世の中の「常識」というものを嘲弄してみせてくれています。

古典落語「薬缶(やかん)」
【落語のまくら】

【本編−1】

【本編−2】

【本編−3】