大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第23番<熱情>」

【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウスベートーヴェン ピアノ・ソナタ第23番<熱情>」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年3月7日(水)18時00分〜18時45分
【司会】筧利夫
    黒川芽以
    小林正寛
【出演】野本由紀夫(玉川大学芸術学部メディア・アーツ学科准教授)
    平野昭(静岡文化芸術大学教授)
    小倉貴久子(ピアニスト)
    清水音和(ピアニスト)
【感想】
お馴染みの名曲探偵アマデウスを視聴しました。今日はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番「熱情」が採り上げられました。この曲は1805年に完成して1807年に出版されていますが、自筆譜のすべてのページに滲み跡があるのは、出版前年にベートーヴェンが知人宅を訪ねた際に突然の雨に遭い、持ち歩いていた自筆譜を濡らしてしまった為だと言われています。また、自筆譜には多くの書き直しの跡があり、書き直したインクの色も異なることから、出版まで改訂を加える為に楽譜を持ち歩いていたことが伺え、この曲に対するベートーヴェンの強い思い入れが感じられます。

【自筆譜】(雨染みが残されています)
http://petrucci.mus.auth.gr/imglnks/usimg/0/06/IMSLP141085-PMLP01480-Beethoven_Piano_Sonata_in_F_minor__Appassionata__-_composer_s_manuscript1.pdf
【印刷譜】
http://petrucci.mus.auth.gr/imglnks/usimg/0/01/IMSLP51795-PMLP01480-Beethoven_Werke_Breitkopf_Serie_16_No_146_Op_57.pdf

◆第1楽章
この曲の真髄は冒頭にあると言われています。静かに始まる曲冒頭の第1主題“ド・ラ♭・ファ”はヘ短調の主和音ですが、“ド・ラ♭・ファ”(下降形の分散和音)→“ラ♭・ド・ファ”(上行形の分散和音)→“ラ♭・ド・ファ”(上行形の分散和音)と2オクターブ離れたユニゾン(右手と左手が同じ動きをすること)で下がって上がる分散和音が奏でられます。これはベートーヴェンが得手とする動機労作(短い動機を変化させながら1つの曲を作ることで、交響曲第5番「運命」等もその典型例)の特徴を示すもので、この曲は“ド・ラ♭・ファ”という分散和音を変化させながら曲を構成して行く動機労作の最高傑作の1つと言われています。これに続く第2主題“ミ♭・ド・ラ♭”は変イ長調の主和音は、ド・ミ♭・ラ♭・ド(上行形の分散和音)→“ラ♭”(下降形の分散和音)と上がって下がる分散和音が奏でられます。さらに、第3主題もメロディーは下がって上がる分散和音、伴奏は上がって下がる分散和音(右手と反対に動く)で構成されており、分散和音に徹底的に拘って作曲されています。動機に拘って作曲すれば全体的な統一感が図れ、その動機が分散し、拡大し又は変容することで作品が有機的に展開されます。ベートーヴェンはこの曲を完成後4年間もピアノ・ソナタを作曲していませんでしたが、この曲が動機労作によるピアノ・ソナタの頂点を極めた傑作であり、この曲を凌駕する曲を書けなかった(別の方法による頂点を目指し、新たな道の模索を始めた)為だと言われています。また、第一楽章の冒頭には交響曲第5番「運命」の動機が使われており(10小節目、12小節目、13小説目の下段)、音楽をドラマチックに感じさせる工夫が凝らされています。交響曲第5番「運命」では運命の動機が襲い掛かるようなff(フォルテッシモ)で奏でられるのに対し、この曲では運命の動機がささやくようなpp(ピアニッシモ)で奏でられますが、この曲には異質の運命の動機が音楽に不穏な空気を漂わせ、大きな爆発を暗示させています。

【運命の動機】
♪♪♪ ♩(ダ・ダ・ダ・ダーン)
●●● ○

なお、この曲は19世紀初頭のピアノの改良の影響が見られ、ベートーヴェンは当時最新のエラール社製のピアノの特徴を活かしてこの曲を作曲したことが伺えます。
【音域の拡大】5オクターブ+半オクターブ
第1楽章最後(印刷譜11ぺージ4段目)では当時最新のエラール社製のピアノで拡大された音域の最高音ドが使われ、その拡大された音域を上下に駆け巡るようなパッセージが設けられています。
【響板の強化】響板の面積が広がり音の力や深み
音の強弱の使い方に変化があり、例えば、第一楽章(17〜18小節)ではpp(ピアニッシモ)とff(フォルテッシモ)の和音を打ち鳴らす部分がありますが、ベートーヴェンは楽器からインスピレーションを得てダイナミックなサウンド、オーケストラ的な発想(拡がり)を持った音響を使って激しい感情をぶつけるようなソナタを書いています

◆第2楽章
この楽章は穏やかに奏でられていますが、途切れることなく第三楽章へと続きます。その直前に最大限の不協和音を生む属九の和音が使われ、第三楽章の最初から聴く人の緊張感を高め、疾風怒濤のように第三楽章へ雪崩れ込んで行く工夫が凝らされています。この曲を作曲していた当時のベートーヴェンは創作意欲が旺盛な時代で名曲を数多く生んでいますが、同時に耳の病を罹患し、日々聴力を失うなか自殺まで考えるという絶望的な状況にありました。

“私はもうすこしで自分の命を絶つところだった
 それを引き留めたのは芸術だった
 自分の持てる全てを出しきってしまうまでは
 この世を去ることはできない”
             (ベートーヴェンの手紙から)

◆第3楽章
第三楽章は大幅に改訂された痕跡があり、改訂前の楽譜は23小節あり改訂後の楽譜の2オクターブ低いところ演奏することを予定していましたが、改訂後の楽譜は17小節に短縮されてきらびやかで輝かしい音域である最高音のドが使われています。クライマックスではヘ短調の主和音“ファ・ラ♭・ド”の分散和音が繰り返し使われていていますが、動機労作の傑作に相応しいクライマックスとなっています。

以上の内容を踏まえて、演奏をお楽しみ下さい。楽譜の読み方(音符の読み方ではなく、音楽の意味の捉え方)がよく分からないという方は楽譜を追いながら音の向こう側に聴こえてくる作曲家の心の言葉に耳を傾けてみて下さい。

【第一楽章】エラール社製のレプリカなのか分かりませんが古楽器の演奏で。<Pf>大井浩明

分散和音による第一主題
ささやくようなppで奏でられる「運命」のモチーフ
やがて大爆発が引き起こされる
第二主題は上がって下がる分散和音
分散和音を巧みに組み合わせ
激しく奏でられる第三主題

【第二楽章】内向的で美しく澄み渡るような演奏をお楽しみ下さい。<Pf>グレン・グールド

穏やかで美しい響き
突然、属九の和音が現れ

【第三楽章】音楽に瑞々しい息吹を吹き込む溌剌とした演奏をお楽しみ下さい。<Pf>ラン・ラン

激しく連打さえる不協和音の衝撃で
第三楽章の幕が開ける
留まることなく疾走する第3楽章
プレスト(急速に)という指示で
更に激しさを増す終結
動機労作にこだわった
ベートーヴェンの集大成
怒涛のクライマックスへ

【オマケ】同じ標題を持つ寺井尚子さんのジャズ“Appassionato”をお楽しみ下さい。