大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

能楽名演集 能「井筒」(観世流)

【題名】能楽名演集 能「井筒」(観世流
【出演】<前シテ/里女>観世寿夫
    <後シテ/紀ノ有常の娘の霊>観世寿夫
    <ワキ/旅僧>宝生閑
    <笛>藤田大五郎
    <小鼓>大倉長十郎
    <大鼓>瀬尾乃武
    <地謡>観世静夫、阿部信之、山本順之、永島忠侈
        浅見真州、浅井文義、若松健史、観世暁夫 他
【販売】NHKエンタープライズ
【録画】1977年
【料金】4,935円
【感想】
能楽は顧客とのインターフェイスが少なく、実際に能楽堂に行って能楽を鑑賞する以外には、DVDの数も少なく、毎週日曜日にNHK-FM能楽鑑賞」がある他は、年に数回ばかりNHK総合テレビで採り上げられる程度です。能楽を理解し、その魅力を味わうためには実際に能楽堂に足を運んで生の舞台を観ること(能楽堂に充満する空気や気魄、能楽師から伝わってくるオーラのような目に見えない感覚に触れること)が他の舞台芸術にも増して重要なので、あまり間接的な媒体が普及することはその弊害(表面的な美しさや形式的な完成度の高さを求める傾向、劇的な空間演出が持て囃される傾向等)も含めてどうなのだろうかという気もしますが、その一方で、(世界無形遺産には登録されましたが)能楽が益々日本人にとって縁遠い存在になりつつ現状を踏まえると、より多くの人に能楽堂へ足を運んで貰う契機として能楽の公演をマスメディアへ意識的に乗せる取組みも必要ではないかと個人的に感じています。

さて、本日は、世阿弥の再来とまで言われた観世寿夫さんが夢幻能の傑作「井筒」を披演しているDVDの感想を書くことにしました。もう何回も繰り返して観ていますが、このDVDを観ると幽玄の世界がどんなものなのか感覚的に掴めると思います。30年前の録画なので宝生閑さんが若いですな。

能楽名演集 能「井筒」 観世流 観世寿夫、宝生閑 [DVD]

ある僧が初瀬詣での途中に在原寺に立ち寄って昔を偲んでいると、優美な里女が現れて在原業平の墓を詣でます。僧は里女の訳有り気な様子が気に掛り色々と尋ねます。里女は「筒井筒、井筒にかけしまろがたけ、生ひにけらしな、妹見ざる間に」「比べ来し振分髪も肩過ぎぬ、君ならずして、誰かあくべき」と歌を交わして結ばれた在原業平と紀ノ有常の娘の愛の物語を語りますが、終には自分は紀ノ有常の娘の霊だと告白して思い出の井戸へと消えていきます。このDVDの中で里女が地謡と言葉を交わしながら何度か体を向き直しますが、その僅かな所作の変化が能面に繊細な表情を生み出し、徐々に里女が紀ノ有常の娘の霊に見えてきます。この場面では能舞台に霊気が漂っているような独特の気配が感じられますが、(セットや照明などを使わずに)これだけの舞台を創り出してしまう観世寿夫さんの芸力の為せる技でしょうか。以下の詞章で語られる景観の中に当時の仏教観と共に紀ノ有常の娘の霊の心情が美しく織り込まれて行きます。

“暁毎の閼伽の水 暁毎の閼伽の水 月も心や澄ますらん 
 さなきだに 物の淋しき秋の夜の 人目稀なる古寺の 
 庭の松風更け過ぎて 月も傾く軒端の草 忘れて過ぎし古を 
 忍ぶ顔にて何時までか 待つ事なくて存へん げに何事も思ひ出の
 人には残る世の中かな たゞ何時となく一筋に 頼む仏の御手の糸 
 導き給へ法の声 迷ひをも照らさせ給ふ御誓ひ 照らさせ給ふ御誓ひ 
 げにもと見えて有明の 行方は西の山なれど 眺めは四方の秋の空 
 松の声のみ聞ゆれども 嵐は何處とも 定めなき世の夢心 
 何の音にか覚めてまし 何の音にか覚めてまし”

そして、僧が次のように語り舞台が一層と深まっていきます。

“更け行くや 在原寺の夜の月 在原寺の夜の月 昔を返す衣手に 
 夢待ち添えて仮枕 苔の筵に伏しにけり 苔の筵に伏しにけり”

う〜ん、何と情緒ある美しい詞章なのでしょうか。井筒に限らず、この詞章の美しさが能楽の魅力の1つです。ここで「昔を返す衣手」とありますが、衣を裏返して寝ると夢の中で想い人に出会えるという言伝えがあり「昔を返す」と「衣を返す」の掛け言葉になっています。この一言で古(いにしえ)の想い人に夢の中で出会いたいという気持ちが実に巧みに表現されています。季節の頃は秋、月夜に照らされる在原寺は風が松を吹き抜けるほかは静寂に包まれ、僧は苔の上に横になりながら衣を返した腕枕でウトウトとしている情景が目前に広がってきます。その夢の中に紀ノ有常の娘の霊が在原業平の形見である直衣を着て登場し、昔の思い出を手繰り寄せるように序の舞を舞います。この静かな舞に愛する夫を待ち続けた女の情念が零れ落ちるようです。それは現実の葛藤というドロドロとしたものではなく、人待つ女の情念が見せる儚い夢物語のように感じられます。

“我筒井筒の昔より 真弓槻弓年を経て 今は亡き世に業平の 
 形見の直衣身に触れて 恥づかしや 昔男に移り舞 
 雪を廻らす花の袖 此処に來て 昔ぞ返す在原の
 寺井に澄める 月ぞさやけき 月ぞさやけき 
 月やあらぬ 春や昔と詠めしも 何時の頃ぞや”

この序の舞で謡われる詞章もことのほか美しいものです。「昔男に移り舞」とは何と気品のあるエロスでしょうか。そして、最後に紀ノ有常の娘の霊が思い出の井戸を覗き見て、水鏡に写し出される自分の姿に在原業平の面影を重ねて思いに浸り、やがて再び思い出の井戸へと消えていきます。“見れば懐かしや”..この一言に紀ノ有常の娘の霊が昔日の在原業平の懐かしい面影と共に、人待つ女の情念が刻んだ歳月の長さを古井戸の中に見ているようで、この世の儚さ、無常観が舞台に広がるようです。

“さながら見みえし 昔男の冠直衣は 女とも見えず 男なりけり 
 業平の面影 見れば懐かしや 我ながら懐かしや”

この舞台で観世寿夫さんは顕在劇の極みとも言うべき名演技を披露しています。まだこの作品の魅力を味わい尽くせている自信はありませんが、この精妙な舞台によって何とも言い様のない感慨が胸を満たし、心から離れません。フランスの著名な劇作家でフランス駐日大使も務めたポール・クローデルさんが「劇、それは何事かの到来であり、能、それは何者かの到来である」(Le drame, c’est quelque chose qui arrive, le No, c’est quelqu’un qui arrive.)という言葉を残していますが、この一言に能の本質が良く現されています。このDVDをじっくりと味わってみると、この言葉の意味が実感できると思います。

なお、井筒の詞章を読んで何を感じるのか、何も感じないのか、それは自分次第だと思います。能楽の詞章には和歌と同様に季節の彩りや風の匂いなど自然(自然を愛でる風流心)が詠まれ、それを通して詠み手(能の登場人物)の心情が零れ落ちるように紡がれていきます。更には、当時の人々の仏教的な価値観や世界観もが洗練された言葉で表現され、それらが一体になって受け手の心に染み込んでくるようです。このように能楽の詞章を読んでいると、中世の日本人が如何に豊かな精神世界を育んでいたのか伝わってきますし、即物的で打算的な日常に追われる現代人が失ってしまったものを満たしてくれる、心地良い充足感を味わえます。人生において何を大切にして、何に価値を置くのかは人それぞれですが、能楽の詞章を読んでいると、日常の些末な問題から解放され、日常の問題に汲々として視野が狭窄し何も見えなくなってしまった自分の心が覚醒され、人間にとってより本質的なものへと心を向かわせてくれます。

http://csspcat8.ses.usp.ac.jp/users/nougakubu/tan8-idutu-zenbun.htm

因みに、本日、東武伊勢崎線の“業平橋駅”(開業当初は“吾妻橋駅”)が“とうきょうスカイツリー駅”に改称されたというニュースを見ました。元々の駅名は、在原業平を主人公とする「伊勢物語」(九段)の「都鳥」がこの付近を舞台にしていることに由来し、その中に出てくる「吾妻橋」の別称として「業平橋」の名称を用いたとされています。どんなに壮観でも東京スカイツリーは100年の歴史も刻めないと思いますが、伊勢物語は1000年以上の歴史を刻み続けており、この地名の由緒を知って貰う意味でも、敢えて、“業平橋駅”のままにして欲しかったと思うのは僕だけでしょうか。この能「井筒」を始めとして、能楽の演目には伊勢物語を題材にした話が多く、また時間を見付けて「時の旅人」も更新したいと思っています。http://tabikore.com/u/862