大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

花の生涯〜梅蘭芳〜

【題名】花の生涯梅蘭芳
【監督】チェン・カイコー
【出演】<梅蘭芳レオン・ライ(青年時代、ユィ・シャオチュン)
    <孟子冬>チャン・ツィイー
    <邱白如>スン・ホンレイ
    <福芝芳>チェン・ホン
    <十三燕>ワン・シュエチー
    <馮子光>イン・ター
    <田中隆一>安藤政信
    <吉野中将>六平直政 ほか
【会場】新宿ピカデリー 13時〜
【料金】2000円
【感想】
少し昔に観た映画になりますが、久しぶりにDVDで「花の生涯梅蘭芳〜」を観ることにしました。梅蘭芳(メイ・ラン・ファン)は京劇最高の女形として「四大名旦」(“旦”とは女形のことで、程硯秋(チョン・イエン・チュウ)、尚小雲(シャン・シャオ・ユン)、荀慧生(シュン・ホイ・ション)と併せて四大女形)に挙げられ、歌舞伎の女形である坂東玉三郎さんなどにも多大な影響を与えた世界的に有名な京劇役者ですが、この映画が出来るまではその生涯についてはあまり知られていませんでした。

花の生涯~梅蘭芳~ (角川文庫)
http://www.tsutaya.co.jp/works/60000507.html

京劇は英語で「北京オペラ」(Beijing Opera)と書かれ、役柄に応じて以下の4種類に大別されていますが、西洋オペラに準えると、概ね、以下の括弧書きのとおりとなります。京劇は“オペラ”と言われるとおり音楽、演劇、舞踊、美術等から構成される総合芸術で、日本の“オペラ”である歌舞伎や能と同じく中国の伝統芸能です(京劇の起源については諸説ありますが、最も有力な1790年説にたてば今年で222年目になります)。京劇で中心的に使われる楽器に「京胡」(ジンフー)というものがあります。これは西洋オペラで使われるヴァイオリンに相当する楽器ですが、京胡とヴァイオリンとは全く異なった設計思想を持っています。ヴァイオリンは250年前の銘器が存在しても、京胡にはそのような長寿の銘器は存在しません。これは京胡が敢えて人間の音域や寿命を越えぬよう緻密な計算に基づいて制作されており、そのような「枠」を設けることで繊細で叙情豊かな表現を可能にしています。このような特徴は日本の邦楽器にも共通していることで、この背景には西洋と東洋における「音」の捉え方(もっと言えば自然観)が根本的に異なっていることに由来すると思われます。西洋では可能な限り人間が操り易いような単純でしかも安定した「(人工的な)音」を追及しているのに対し、東洋ではより自然の音に近い精妙な「(自然な)音」を追及しており、その違いが楽器作りにも色濃く反映しています。以前、某能楽師囃子方)が“一期一会の音”(例えば、小鼓は、毎回、楽器をバラバラに分解し組み立て直しますが、楽器を組み立て直すときは、その時々の自然の音を取り込むという心持ちで楽器に向い、その度に楽器から奏でられる音にも変化が生まれるそうです)を日々模索しているという話をされていましたが、それだけ楽器がセンシティブ(不安定)に作られ、また、弾き手に依拠するところが大きいとい言え、(弾き手に依拠することなく、楽器の構造を強固にすることで)常に同じ音を求める西洋の音の捉え方とは根本的な発想が異なっています。これは「音」だけでなく「リズム」の捉え方にも共通し、更には(先日このブログに書きましたが)「色」使い等にも現れています。

  • 生(せい)  男性の役(≒テノール
  • 旦(たん)  女性の役(≒ソプラノ)
  • 浄(じょう)  顔にくま取りのある男性の役(≒バリトン
  • 丑(ちゅう) 顔の真ん中を白く塗り、コミカルな男性の道化役。

http://www.recordchina.info/kihon/m004-021.html

さて、この映画は波乱に満ちた梅蘭芳の生涯が丹念に描かれていますが、梅蘭芳が京劇に人生を賭ける直向な姿勢に胸を打たれます。表現意欲に目覚めた青年時代の梅蘭芳は師匠である十三燕の伝統的な規範を重んじた保守的な演技を志向する考え方と葛藤しながら、義兄弟の契りを交わした邱白如の「偉大な芸術は古い規範を打ち破るもの」という言葉に触発されて自由で革新的な演技を志向する考え方に徐々に傾倒し、京劇に近代演劇の要素を採り入れて規範(様式性)を尊重する演技から現実感をもった演技を志向する「新京劇」を生み出して行く過程が、梅蘭芳を取り巻く人間模様と共に描かれていきます。また、京劇男形の孟子冬との情事やニューヨーク公演への挑戦等を通じて梅蘭芳の孤独や弱さなど人間的な面も描き込まれていて共感を呼ぶ作品になっています。やがて、日中戦争が勃発し、中国大陸に侵略した日本軍からプロパガンダ的な出演要請を受けるようになりますが、梅蘭芳は京劇女形を演じない意思表示として髭を生やし(旦が髭を生やすことはご法度)、その出演要請には一切応じず、京劇役者の誇りを守り抜いた凛とした姿が描かれています(因みに、梅蘭芳終戦後に来日して日本公演を成功させており、歌舞伎の坂東家とは三代続く仲とか)。この映画の中で師匠である十三燕が「衣装を着たまま現実に戻るのは、舞台で演じた役を汚す行為だ」「負けることは恥ではない、恐れることが恥だ」等の名言を残していますが、方向性は違っても京劇役者の地位向上に取り組んだ十三燕の遺志は梅蘭芳へと受け継がれ、京劇の隆盛期が築かれて行く礎になったことが伺えます。

台上一分鐘、台下十年功(本番の1分間は、 10年間の地味な練習に支えられている)

因みに、演劇にも造詣が深かった芥川龍之介は、著書「侏儒の言葉」の中で梅蘭芳が演ずる京劇「虹霓関」(こうげいかん)を観た感想として「女が男を猟する」という文学的な表現で絶賛していますが、さぞや梅蘭芳の舞台上での存在感は圧倒的であったのだろうと思います。最近の京劇は客離れや後継者不足が深刻で、梅蘭芳の子孫の梅王韋(メイ・ウェイ)さんは「京劇は魂を失ってしまった。でなければ、どんなテレビ番組にも劣りはしなかった。」と語っていますが、このような状況は日本の伝統芸能にも当て嵌まると思います。京劇を観ない中国人や歌舞伎を観ない日本人が多い一方で、京劇に興味を示す日本人や歌舞伎に興味を示す中国人は少なくなく、その意味で伝統芸能の魅力は国や時代を超えても色褪せるものではありません。しかし、マスメディアの氾濫等によって観客がラブリー&イージーな娯楽を求めるようになった結果、舞台表現者大衆迎合的にならざるを得ず徐々にその創造性(魂、活力)が失われてしまった現状があるように思います。京劇にしろ歌舞伎や能楽にしろ伝統芸能が何百年にも亘り時代の風雪に耐えて廃れることなく受け継がれてきたのはそれなりの理由(魅力)があることであって、現代人にとって伝統芸能は(マスメディア等が提供する娯楽に比べると)やや取っ付き難さを感じるのかもしれませんが、単なる食わず嫌いだけで伝統芸能がその魅力を理解されないまま廃れて行ってしまうのは大変に残念でなりません。伝統芸能にはマスメディア等が提供する娯楽(消費される一過性の享楽とでも言うべきもの)では決して味うことができない深淵な魅力(伝統芸能を育んだその土地が営々と培ってきた歴史、思想、習俗や文化等が凝縮され、磨き抜かれてきたもの)があるにも拘らず、現代人の趣味趣向(気分、ムードや流行等)だけで後世に受け継いで行くべき人類の資産を廃れさせてしまって良いものであろうかという疑念と焦燥感を覚えます。どうすればより多くの人に伝統芸能の魅力を理解して貰えるのか、皆さんと一緒に考えて取り組んで行かなければならないような気がしています(非力ながら、このブログもそのような魅力を一人でも多くの方と分かち合えればという気持ちで運営しておりますが..)。以下の梅蘭芳の写真を見てもお分かりのとおり、本物の女性以上に“女性的な魅力”に溢れていますが、スネ毛が生えていそうな気品のない女性ばかりが増えてしまった現代にあって、梅蘭芳のような名旦の魅力は一入胸に染みるものがあります。TUTAYAでは旧作100円でレンタルしていますので、極貧の諸兄の休日のお慰みにも最適かと。因みに、“TuneIn”をインストールすれば、iPhoneやパソコンからインターネットラジオ“Beijing Opera Radio”で京劇が無料で聴けます。

梅蘭芳ー世界を虜にした男ー
実際の梅蘭芳の写真

▼京劇「梅蘭芳」(梅蘭芳を描いた新京劇)

梅蘭芳の歌舞をご堪能あれ。
(3:00〜梅蘭芳の歌舞、4:52〜歌舞伎座での来日公演の模様)