大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

令泉家 王朝の和歌守展

【展覧】冷泉家時雨亭叢書完結記念
    令泉家 王朝の和歌守展
【場所】東京都美術館
【料金】1400円
【感想】
少し昔になりますが東京都美術館で「令泉家 王朝の和歌守展」が開催されていたので見に行きました。ご案内のとおり冷泉家は宮廷や武家の歌道師範を務め、藤原俊成−定家−為家と三代続けて勅撰撰者を排出した由緒ある歌守の家柄です。さながら歴史が時を刻むのを忘れたかのように、現存最古の公家住宅である令泉家の蔵(御文庫)には約800年間に亘って冷泉家が蒐集した勅撰集、私家集、歌学書、古記録等が大切に保管されていますが、今般、これらを編纂した「冷泉家時雨亭叢書」全84巻が完成されたことを受けて、俊成筆「古来風躰抄」、定家筆「古今和歌集 嘉禄二年本」「後撰和歌集 天福二年本」「拾遺愚草」「明月記」の国宝5点や天皇の書「宸翰(しんかん)」を含む約400点もの国宝・重要文化財が公開されました。(これだけの数を一度に公開するのは初めてだそうです。)なお、会場では音声ガイドが有料で貸し出されており令泉貴実子さんの解説などが聞けますので、音声ガイドを借りて見物することをお勧めします。令泉貴実子さんは幼少の頃に令泉家の蔵(御文庫)には俊成卿、定家卿という神様がいるので近付かないようにと言われていたそうですが、大人になって俊成や定家が実在の人物であったことを知り驚いたというエピソードを語られていました。先日、観世家のアーカイブ展で観世清和さんも同じようなエピソードを語られていたことを思い出しましたが、子々孫々に受け継いで行かなければならない伝書を守り抜くためのちょっとした知恵なのかもしれません。

冷泉家・蔵番ものがたり 「和歌の家」千年をひもとく (NHKブックス)

美しい装飾紙に流れるような筆致で書かれた和歌の数々は、その字体を見ているだけで今にも風雅な詠歌が聞こえてくるようですが、令泉貴実子さんが和歌は「黙読」するものではなく「音読」する(声に出して詠む)ものだと仰っていたのが印象的でした。現代人は言葉が持つロジカルな機能面ばかりに着目し、本来、言葉が持っている響きの美しさや情緒的な味わいと言ったものを蔑ろにする傾向があり、まるで新聞でも読むかのように和歌を黙読するようになったことも象徴的と言えるかもしれません。夜な夜な古今和歌集などを読み耽っているとしみじみと感じ入ってしまうことも珍しくありませんが、現代では失われてしまった香気ある日本語とその行間に織り込まれた人間の様々な機微は時代を超えて現代人にも強く訴え掛けてくるものがあります。これほどの優れた文化を有しながら(僕を含めて)最高学府を卒業した現代の日本人が和歌の1つも詠めないというのは文化的な退廃、教養の枯渇と言うべきなのか、遣る瀬無いものを感じてしまいます。なお、定家の直筆を初めて見ましたが、「定家様(ていかよう)」と言われる定家の書風は現代の丸文字のような癖文字で、横に潰れた独特の筆跡は(風流ではありませんが)愛嬌があり癒されます。また、この展示では能の謡曲の基になった宴曲(えんきょく)なども展示されていたのが興味深かったです。


http://www.asahi.com/reizei/

ところで、日本では1000年以上も昔の書物でも状態良く保存されていますが、「洋紙は100年、和紙は1000年」と言われるとおり、洋紙は木材パルプを使い酸性(即ち、親水性がない)であることから経年劣化によって黄ばんでボロボロになってしまう性質がありますが、和紙は天然の植物繊維を漉くことで繊維を複雑に絡ませて作るので強靭で保存性に富んでいるという特徴を持っています。紙は紀元前2世紀頃に中国で誕生し、7世紀頃に日本へ、12世紀頃にヨーロッパへと伝播していますが、日本では多雨多湿の気候風土に堪え得る強靭な紙が求められ、唐紙や洋紙とは異なる日本特有の製法が生み出されたということなのかもしれません。最近では、このような日本特有の製法によって作られる和紙の特徴(親水性があり薄くても強靭)が注目され、例えば、イタリアのフィレンツェ壁画の修復(壁画の表面に付着した長年の汚れのみを下地の絵を損なうことなく吸収)等にも利用されるようになっています。平安時代になると、和紙は貴族が和歌を詠み又は写経するためのものとして煌びやかな装飾が施されるようになり、また、書体も「読ませるもの」から「詠ませるもの」へと工夫が施されるなど、和紙をメディアとした独特の文化が発展してきた歴史があります。現代では紙文化は廃れ、デジタルデバイス時代の寵児として持て囃されていますが、その新しい時代の器からは子々孫々に受け継いで行けるような文化は生まれておらず、一過性のファッションや風俗、流行(創造よりも消費に主体の置かれた刹那的な享楽)だけが蔓延している状況を虚しく感じています。文明が開化して物質的には豊かで便利になりましたが、色々なものが上滑りしている本当にツマラナイ時代に生きています。

平安時代後期(約1000年前)の和紙なので往時の輝きは失われていますが、金銀の下絵と揉み箔を散らした和紙に「古今和歌集」が書写されたものです。

http://www.papermuseum.jp/

なお、古今和歌集の仮名序に和歌の心に触れる大変に好きな一節があるので、以下に抜粋しておきます。現代人は即物的な価値観に雁字搦めにされ、花鳥風月を愛で和歌を詠むことができる「心の種」(心の余裕、風流心、教養、感受性etc,)を失ってしまいました。昔の日本は自然を畏敬の対象として捉え、自然を生活の中に取り込んで自然と共生して行く仏教的な価値観が培われ、それを土壌として日本独特の豊かな文化が育まれてきましたが、戦後の極端な西洋偏重主義によって自然を支配の対象として捉える価値観が導入され、人間界と自然界とを明確に区分するキリスト教的な価値観が蔓延する(それによって心の種も失わる)につれて、和歌を詠むというような豊かな精神的営みはすっかり廃れてしまいました。しかし、近年、このような西洋的な価値観が行き詰まりを見せており、自然との共生を志向していた嘗ての日本的な価値観が見直される動きが見られるようになってきました。例えば、現代の都市設計(日本を含む)は産業革命時のイギリスにおける都市設計がモデルになっていると言われていますが、近年、ヒートアイランド現象、ゲリラ豪雨、洪水、通勤ラッシュ等の様々な都市問題を抱え、この都市モデルは行き詰まりを見せており、改めて人間と自然が共生できるような都市モデルが模索され始めています。現代の即物的な価値観だけに束縛され、狭い世界観の中で人生を無為に消費するような生き方だけはしたくないと常々心掛けています。温故知新。

大和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事(こと)業(わざ)繁きものなれば、
心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。
花に鳴く鴬、水に棲む蛙の声を聞けば、生きとし生ける物、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、
男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

長らく愛聴してきたNHK「日めくり万葉集」が先月で放送終了となりました。とても良い番組だったので「日めくり古今和歌集」などシリーズ化して欲しいです。

東儀秀樹さんの演奏と共に、新古今和歌集をお楽しみ下さい。