大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

観世家のアーカイブ 講演会 第二回「世阿弥を世界にひらく」

【講題】東京大学教養学部創立60周年記念
    観世家のアーカイブ ―世阿弥直筆本と能楽テクストの世界―
    講演会 第二回「世阿弥を世界にひらく」  
【講師】小林康夫東京大学大学院総合文化研究科教授)
    松岡心平(東京大学大学院総合文化研究科教授)
【会場】東京大学駒場Iキャンパス 18号館コラボレーションルームI
【開演】18時30分
【料金】無料
【感想】
以前、東大(駒場)で世阿弥の直筆本を含む観世家のアーカイブが公開されていましたがその一環として「知の技法」でお馴染みの小林康夫さんと能楽研究家の松岡心平さんによる対談形式の講演会が行われ、非常に面白い議論が聴けたので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。なお、両氏の発言の趣旨を正しく理解できていない可能性がありますのでご容赦下さい。(今日は掲載する写真がないので、能楽雅楽の祖と言われる秦河勝を祭る坂越の船祭りの写真をアップしておきます。)

先ず、松岡さんが「花の世阿弥」から「風の世阿弥」へというテーマで話されました。「風姿花伝」は、当初「花伝」というタイトルが付され、晩年に「風姿」が付け加えられて「風姿花伝」になりましたが、晩年の世阿弥は「花」に加えて「風」(至花道で説かれる皮肉骨の「皮」に関することで、皮とは安く美しく極まる風姿を意味します。)に強い関心があったようです。また、当初、世阿弥は「音」の世界を伝えることに主眼を置いて「花伝」をカタカナ表記にしたそうですが、その後、「二曲三体人形図」にみられるような漢文体表記に改め、「音」の世界を伝えることから内面作用を伴った身体論を言葉で表現することに主眼が移って行ったようです。そのため、世阿弥は現代でも使われている濁音、促音、読点の表記を開発しましたが、従来の言語システムに安住することなく言語による表現の可能性を探求していたことが観世家のアーカイブの調査を進めるなかで感じられたそうです。

次に、松岡さんの話を受けて、小林さんから世阿弥花伝書で何を伝えようとしたのか、それは「風」ではなく「花」を伝、それでは「花」とは何か?という切り口で能の最も根本的かつ本質的な問題提起がなされました。小林さんによれば、世阿弥は「儀礼的なもの=鬼、翁など」(土俗)と「文化的な伝統=和歌、物語など」(雅)とを融合することで「幽玄の美」(花)を生み出すことに成功したが、花伝書には技や心構えなどについて書かれているだけで、何故、このようなこと(土俗×雅=幽玄の美)が可能であったのかその原理について何も書かれていない点を訝しいと仰っていたのが、(小林さんの物事の本質へと迫る思考過程も併せて)大変に興味深い指摘でした。この点、松岡さんも花伝書には面(オモテ)を付けたときの身体のあり方などについて何も書かれていない(また歴代の観世大夫書物にもそのことに触れられたものがない)点を不思議がっていましたが、観世清和さんが秘花は心の中にあり、それは絶対に明かすことはできないという趣旨のことを仰っていたので、現在公開されている観世家のアーカイブだけでは窺い知ることができないより深い世界(秘伝)があるのかもしれません。

以後、小林さんが鋭い問題意識を投げ掛け、松岡さんがこれに答える(又は話を膨らませる)という対談形式で展開されました。とにかく話が多岐に亘り、その内容を理解し咀嚼できるだけの十分な知識的又は経験則的なバックボーンがありませんので、取り敢えず、議論の俎上にのぼった論点のごく一部を挙げておきたいと思います。

世阿弥金春禅竹について
松岡さんが中沢新一さんは禅竹派で、小林さんは世阿弥派だと水を向けていましたが、小林さんによれば、世阿弥の能は仏教的な救いにまで踏み込んでいないが、禅竹の能は仏教的な救いにまで踏み込んでいる点で異なるという興味深い見解を示されていました。松岡さんはこの見解に全面的に賛同されていたのか否かは分りませんが、隅田川を例にとって、世阿弥は死の美学化を図り死のリアリティを描こうとしなかったが、禅竹や元雅は死のリアリティを描こうとした点で異なり、その理由として世阿弥と禅竹・元雅が置かれていた社会的な立場(時の権力との関係)の違いを挙げられていました。なお、松岡さんが「ZEAMI―中世の芸術と文化<03>特集 生誕六百年記念 金春禅竹の世界」(森話社)という本の中で、世阿弥と禅竹について中沢新一さんと対談されている記事が掲載されているのでご興味のある方はご一読あれ。また、坂口尚さんの「あっかんべェ一休」(講談社)という漫画本(現在入手困難)に世阿弥、禅竹、音阿弥の関係が描かれているところがあり面白いです。

▼離見の見について
松岡さんは「離見」とは見所(客)の視点を言い、演能者には「我見」と「離見」の二重性を持つことが求められるという趣旨のことを仰っていたのに対し、小林さんは「離見」とは見所の視点ではなく、もっと存在論的な捉え方、即ち、面を付けて何者か顕在(化身)した第三者的な自分の視点を意味すると考えることもできるのではないかという問題意識を投げ掛けられていました。

▼能と禅について
一遍上人の「身を捨つる 捨つる心を 捨てつれば 思ひなき世み すみそめの袖」という歌を引き合いに出し、花鏡にある「無心の位にて、我が心をわれにも隠す案心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなはち、万能を一心にてつなぐ感力なり。」という部分の解釈について考察が加えられました。また、松岡さんは禅の言葉である「拈弄」(ねんろう−言葉を高次の立場から自由に解釈する営み)について触れ、禅の「無」に対する意識だけでなく「言語」に対する意識も世阿弥に影響を与えていたのではないかという趣旨のことを仰っていました(冒頭の話に繋がる)。

▼その他
世阿弥は、井筒、清経などの作品に見られるように歴史的にビックネームとは言えないような人物に着目するメンタリティを持っていた点や、世阿弥の能本にはいろいろな文体が用いられているために言葉の切断面が見られるが、これは連歌の切断面とは異なるリズム的な広がりを持ったものである点などなど多岐に亘って語られ、もはやメモを取る気力も失せにけり(苦笑)..ということで、この対談の模様をまとめてZEAMIに掲載してくれないかしら。

ZEAMI―中世の芸術と文化〈01〉特集・世阿弥とその時代

最後に、松岡さんが観世寿夫さんの半蔀(はじとみ)をご覧になられたときの感想として、寿夫さんの静止している姿も寿夫さんの舞っている姿もこのまま永遠に続いて欲しいと思うほど心惹かれるものがあったという感動体験を語られていましたが、寿夫さんの舞台をDVDでしか観ることができない僕は激しいジェラシーを感じてしまいます。そう言えば、フランスの名優ジャン・ルイ・バローさんが寿夫さんの半蔀を観た感想として「能の静止は息づいている。」「飛行機に乗って下界を眺めていると、ゆっくりと動いているように見える。しかし、その飛行機のエンジンはものすごく激しい動きをしている。エネルギーを使っている。これが能の姿だ。」と語っていたのを思い出しましたが、こういう舞台を観ることが能を理解するために最も大切なことなのだろうと思います。

◆おまけ
些か動画を探すのが面倒になってきましたので、6月24日のブログでご紹介したシャミナード「悲愴的練習曲適当」にかけて「悲愴」という標題が付いている曲をアップしておきます。

ベートーヴェン ピアノソナタ第8番「悲愴」から第二楽章

※2台ピアノ版(アドルフ・ヘンゼルト編曲)

スクリャービン 12のエチュードから第12番「悲愴」

チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」

グリンカ 悲愴三重奏曲