【題名】ヤマハ・アトスDVDブック・シリーズ
映像がすべてを語る 「伝説のヴァイオリニストたちの響き」〜アート・オブ・ヴァイオリン〜
【演奏】ヨーゼフ・シゲティ
ミッシャ・エルマン
ヤッシャ・ハイフェッツ
ナタン・ミルシテイン
ジノ・フランチェスカッティ
ウジェーヌ・イザイ
ジョルジュ・エネスコ
フリッツ・クライスラー
ジネット・ヌヴー
ジャック・ティボー
アイザック・スターン
ヘンリク・シェリング
ダヴィット・オイストラフ
ユーディ・メニューイン ほか
【出演】イッツァーク・パールマン
イヴリー・ギトリス
イダ・ヘンデル
ヒラリー・ハーン
ユーディ・メニューイン
ムスティフラフ・ロストロポーヴィチ ほか
【出版】ヤマハミュージックメディア
【発売】2008年3月27日
【値段】3,990円
【感想】
昨日、映画「真珠の耳飾りの少女」について書きましたが、この映画の中でも妻カタリーナがチェンバロを演奏しているシーンが登場します。昔はCDやラジオなどはなく、また、(高速移動手段がない時代に)コンサートホールへ音楽を聴きに行くことも困難でしたので、楽譜をメディアとして音楽が流通し、自分達で音楽を演奏して楽しむ(或いは信仰のための音楽)という音楽受容の在り方が主流でした。そのため、一般市民でも楽器を演奏することが嗜みになっていましたが、近現代になって楽譜以外のメディアが普及・多様化し、それに伴い音楽受容の在り方も劇的に変化して、一層、作品(作曲家)−演奏者−聴衆の分離が進みました。それだけに作品(作曲家)と聴衆を媒介する演奏者の役割は重要性を増し、作品(作曲家)を共通言語とする演奏者と聴衆との間のコミュニケーション(一方向ではなく、観客の主体性が求められるという意味での双方向)によって成立する舞台芸術という性格が強くなっていると思います。だからこそ、コンサートホールでのマナー(この演奏者と聴衆との間のコミュニケーションを阻害しない他人への思い遣り)が必要になってきます。
さて、かなり以前に購入していたDVDブックスですが、久しぶりに観てみたので、その簡単な感想を残しておきたいと思います。19世紀後半〜20世紀前半に活躍した巨匠の秘蔵映像と共に、パールマン、ギトリス、ハーン、ヘンデルといった現代を代表する名ヴァイオリニストがこれらの巨匠について語ったインタビューが間に挟まれるという構成になっています。いきなり冒頭で、メニューイン、オイストラフ、スターン、フェラス、クライスラー、ミルシティン、フランチェスカティ、ハインフェッツ、エルマン..といった巨匠がメンコンを演奏する映像を繋ぎ合わせたものが流されますが(よくぞここまで集めて編集したものです)、その音色や演奏スタイルの違いが良く分かって興味深かったです。パールマンが現代のヴァイオリニストと比べると20世紀前半までのヴァイオリニストはみんな音色が違っていて個性的な“音”を持っていたと語っていますが、この映像を見ると得心します。そう言えば、音楽プロデューサーの中野雄さんも「“忘れられないヴァイオリンの音色”が1970年代の半ば以降、確実に消えた。録音を聴いてもそれが判る。何故だろう。」と語られていたのを思い出しますが、20世紀前半の最後期のヴァイオリニストであるオイストラフの音を聴けば誰でも「彼の音色」であることを直ぐに聴き分けられると思います。パールマンによれば、ハインフェツの音色は「夕陽に向う勇壮な馬上の騎士」のように凛としており、クライスラーの音色は「気さくな隣人」のように温かく親しみ易いと形容していましたが、ハインフェッツの凛とした音色は運弓の速さ、即ち、弓を弦に抑え付けずに弓を素早く動かすことによって生れるものだという分析を加えていました。しかし、パールマンをしてもエルマン・トーンの秘密については永遠の謎だとか…。ヘンデルは音色の違いは奏者の個性、即ち、弓を弦に抑え付ける圧力、指で弦を抑える圧力の違いにあるのではないかと分析していましたが、昔はヴァイオリニストの各流派の奏法の違いがはっきりしていたこと(技術的な要因)や音楽メディア(CD、DVD、テレビ、ラジオ、インターネットetc)が発達していなかったこと(環境的な要因)などが音楽家の個性を育むことに寄与していたのではないかと思います。この点、音楽評論家の佐藤康則さんもヴァイオリニストの各流派の奏法の違いが不明瞭となり、ヴァイオリニストが均質化してきたことで音色に個性が感じられなくなってきたと指摘されていますが、そこに根本的な原因がありそうです。これは音楽だけに限ったことではなく、現代は国際化(即ち、標準化)の美名の下にあらゆるものが世界的な規模で均質化してきた時代だと思いますが、ヴァイオリニストも例外ではなかったということです。作曲家の伊福部昭さんが「民族という個別性を通り抜けなければ、世界という普遍性に辿り着けない。」と仰っていますが、異なる価値観がぶつかるところに新しい文化が生まれてきた歴史を踏まえると世界的な規模の均質化が文化的な衰退を招かないか一抹の不安を感じます。シャネルが「モードは廃れてもスタイルは廃れない」と言っていますが、流行(消費)だけが氾濫して文化が育まれないような世の中では詰まりません。クロスカルチャーとは必ずしも均質化を意味するものではないと思いますので、日本人としてのアイデンティティ、文化、価値観、習俗を見失わず、象徴的な意味合いで「日本語」で語れる日本人でいたいものだと個人的には思っています。閑話休題。ギトリスがヌヴー、ティボー、カザルスなどは音に“色”を付けるために僅かに音程を低く取ることがあったが現代では音程の正確さが何より重視されるようになりそのようなことをすると音程を外したとしか評価されないので音に“色”を付けるということが行われなくなったという趣旨のことを語っていましたが、再現芸術としての音楽とその受容のあり方について色々と考えさせられる発言でした。最後にパールマンがオイストラフはいわゆる「名器」と言われるヴァイオリンを使っていなかったがあれだけの音色を紡ぎ出したことを例に挙げて、音は楽器ではなく奏者によって決まるものだと語っていたのが印象的です。音楽に限らず、社会が高度に組織化されて自分の「音色」を持つことが難しい時代になりました。このDVDにはイザイが演奏している映像(これまでイザイが演奏している音源はCDで出回っていましたが、無音の映像とは言え、イザイが演奏している映像があったとは驚きです。)やヌヴーがショーソンの詩曲を演奏している映像などは非常に貴重なものです。なお、ギトリスがエルマンの口調を真似しているところがあって笑えますが、自分の目と耳で体験し記憶してきた様々な逸話を語るギトリスは正しく歴史の生き証人です。
◆おまけ
日本人のプロのヴァイオリニストの中にもオイストラフに憧れてヴァイオリニストになった人は多いと思います。オイストラフがソリストを務めるブラームのヴァイオリン協奏曲と、ついでにブラームスのピアノ協奏曲第2番をアップしておきます。
▼ブラームス ヴァイオリン協奏曲から
▼ブラームス ピアノ協奏曲第2番から