大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

モーツァルトを「造った」男 〜ケッヘルと同時代のウィーン〜

【題名】モーツァルトを「造った」男 〜ケッヘルと同時代のウィーン〜
【著者】小宮正安
【出版】講談社現代新書
【発売】2011年3月20日
【値段】760円
【感想】
現代人の活字離れが話題になるようになってから久しいですが、芸術関係の本だけでも、毎月、何十冊も新書が発刊され、食指が動く本を厳選しても、社会人にとってはその全部を読破するだけの時間を確保することは困難です。この本は昨年購入してから積読本となっていたのを偶々手にとってみたところ、大変に面白い内容だったので、その感想を簡単に書き残してみたいと思います。最近は、電子書籍が流行しているようですが、どうも僕のようなオールドタイプの人間にはデジタルデバイスで読んだ活字はすんなりと頭に入って来ないようで(デジタルデバイスは読むものではなく観るものという潜在意識が脳に刷り込まれているのかもしれませんが)、保管場所に苦慮しながらもせっせと紙媒体の本を購入しています。

さて、通常、音楽の歴史を語るときは、既に歴史上の評価が固まった偉大な人物としての音楽家(又は楽曲)の目線からその時代を俯瞰しますが、この本ではケッヘル(最初にモーツァルトの網羅的・体系的な作品目録を作り、作曲年代順に作品番号を付番した人)の目線(いわば音楽愛好家、一般市民の目線)からその時代や当時の音楽家(又は楽曲)を俯瞰している点がとてもユニークで、その時代に音楽家がどのように位置付けられ、受け入れられていたのかを知ることができる興味深い内容です。ケッヘルが生きた時代は(TVやCD、DVD等のメディアがありませんので)音楽愛好家の間では楽譜のコレクションが盛んで(とりわけ自筆譜や初版譜にはプレミアムが付いて好まれたとか)、中には楽譜のコレクションに留まらず、その曲や作曲家に纏わる情報を調べてノートに記録し、さらには未出版の楽譜を蒐集(即ち、写譜)して真贋鑑定まで行うなど極めてマニアックな嗜好性を持った元祖クラヲタが生まれていたようです。そのような時代背景のなか、ケッヘルも鉱物や植物、果てはベートーヴェンの未公開の手紙等を手当たり次第に蒐集し、さらにウィーンの宮廷楽団の代々の団員や歌手、その俸給に至るまで調べ尽くし、その挙句に、モーツァルトハイドンの作品目録まで作り上げてしまうという好事家振りだったそうです。昔も今もクラヲタが持つ体臭には共通したものが感じられ、その病的な蒐集癖は疎ましさと共にどこか親近感を覚えます。ケッヘルがモーツアルトの作品目録を作るキッカケとなったのは、ケッヘルの友人で同じディレッタントであったローレンツが「モーツアルトのこと」と題する本を自費出版し、その中でモーツアルトの作品が遅かれ早かれ散逸してしまうのではないかという危惧を述べたことによると言われていますが、ケッヘルが編纂したモーツァルトの作品目録は偉大な研究成果というよりクラヲタの趣味が高じた執念のコレクションが歴史的な遺産となって受け継がれてきたものと言った方が適切で、正しく、偉大なディレッタントであったことを伺い知ることができます。この点、このような元祖クラヲタの存在があったからこそ、モーツァルトをはじめとした様々な作曲家の作品が散逸し又は歴史に埋もれてしまうことなく現代まで受け継がれてきたのも事実であり、(現代では楽譜に使用されている紙やインクから作曲年代を割り出すなど科学的な研究が進み、ケッヘル番号の綻びが指摘されるようになってきましたが)その歴史的に果たした役割は大きかったと言えます。因みに、ケッヘルが編纂したモーツァルトの作品目録には「K.626」のように「K」の付記はなく単なる数字だけが付されていましたが、その後、この作品番号が色々な出版物でレファーされるようになりケッヘルへの敬意を示す為なのか徐々に「K」が付記されるようになって現在のようにケッヘル番号と呼ばれるようになったようです。なお、ケッヘルの作品目録では「ピアノとヴァイオリンのためのソナタと変奏曲」という表記がありますが、今日一般に「ヴァイオリン・ソナタ」と言われているジャンルの曲は、モーツァルトの時代には「ヴァイオリン伴奏付きピアノ・ソナタ」と言われており、良家の子女のピアノに合わせて音楽教師がヴァイオリンを伴奏する習慣があったことが背景にあると言われています。やがて19世紀になるとヴァイオリンがピアノの前面に出て主導的な役割を担うソナタが書かれるようになり、現在のような「ヴァイオリン・ソナタ」が誕生しましたが、そう考えるとモーツァルトのヴァイオリン・ソナタがどうしてピアノ主導で書かれているのかが得心できます。その後、19世紀後半になって大量生産・大量消費の時代になり、音楽愛好家を含む一般市民が過剰な情報に晒されるようになった結果、万能知としてのディレッタンティズムは存在意義を失い、各分野の「専門家」が価値あるものとして評価され、プロフェッショナルとアマチュアの分化が進んで行きます。その結果、楽曲もプロでなければ演奏できない大規模で複雑なものへと変容していきます。丁度、ウィーンフィルが定期的に演奏会を開始し始めたのもこの頃(1860年〜)で、古典派からロマン派へ、宮廷音楽から世俗音楽へ、家庭音楽から職業演奏家の誕生へと時代の過渡期にケッヘルは生まれ、その橋渡しのための重要な役割を担った人物と言えると思います。古典派からロマン派への過渡期と言えば、この時期はリストやワーグナーなどの新ドイツ学派(進歩思想)とブラームス、ケッヘルなどの反新ドイツ学派(古典主義)の対立が本格化した時期で、(リストやワーグナーなどの新ドイツ学派も一目を置く)モーツアルトは進歩思想への砦に相応しい存在として益々神話化されていくことになりました。なお、モーツァルトの作品全集は、ケッヘルの多額の寄付やブラームスなどの積極的な働き掛けによって1877年から1883年にブライトコプフから出版されましたが、その初年の1877年に悲願であったモーツァルト作品全集の完成を待たずにケッヘルは他界し、彼の追悼式ではモツレクが演奏されたそうです。以上のように、この本はケッヘルやその周辺にいた一般市民(音楽愛好家、ディレッタント)の視点から音楽史を俯瞰するもので、現代から見たモーツァルトではなく、当時、どのようにモーツァルトが捉えられていたのかという視座が得られる大変に興味深い内容になっています。この本の著者である小宮さんは「多くの歴史家は、際立った才能や出来事にしか興味がな」く、「結果、彼らの視点によって編み出された過去の出来事は、人の目を引く人物や事柄のみを満載した「歴史」として大手を振るい、そうでないものは「凡庸」の名の下に切り捨てられてゆく」と指摘していますが、正しく、そのような偏った歴史観現代の音楽受容の在り方に暗い影を落としている(一部の音楽家や楽曲しか聴かれない偏狭的な現状を生んでいる)と思います。色々な意味で示唆に富む本なので、ご一読あれ。

モーツァルトを「造った」男─ケッヘルと同時代のウィーン (講談社現代新書)

◆おまけ
モーツァルトと言えば、喫茶店のBGMに使われてしまうような誰でも親しめる口当たりの良い軽量級の曲というイメージがつきまといがちですが、晩年に作曲した交響曲、ピアノ協奏曲、オペラ、声楽曲には決してコーヒーを飲みながら聞き流すことができないような傑作が多く、努々ぞんざいには扱えません。僕がクラシック音楽を本格的に聴くようになったのは小学生又は中学生の頃にFMから流れてくるレクイエムを聴いてからですが、ラクリモサを聴いて涙が止まらなかったことを懐かしく思い出します。

ピアノ協奏曲第20番より全曲

ピアノ協奏曲第21番より全曲

ピアノ協奏曲第23番より第2楽章

ピアノ協奏曲第24番より全曲

クラリネット協奏曲より第2楽章

ミサ曲ハ短調よりキリエ

レクイエムよりラクリモサ(その日こそ涙の日)