大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

日本音楽学会 第340回定例研究会 音楽理論と演奏実践のはざま−異文化の調和点をめぐって−

【講題】日本音楽学会 第340回定例研究会
    音楽理論と演奏実践のはざま−異文化の調和点をめぐって−
【発表】近代フランスにおけるModeの概念とその理論的継承
      安川智子(日本学術振興会特別研究員/ピアノ)
    西洋的作曲技法と能管―実践から見出す協和点
      森田都紀(東京芸術大学非常勤講師/能管)
    《能管とピアノのための résonance "響き" "共鳴"》(委嘱初演)
      徳重 智子 (ゲストスピーカー、作曲家)
    現代における伝統音楽の伝承と演奏の諸問題―古琴と古箏を事例として《梅花三弄》 他
      鳥谷部輝彦(日本学術振興会特別研究員/古琴)
      毛Y(マオヤ);(東京芸術大学アジア総合芸術センター教育研究助手/古箏)   
【司会】塚原康子 (東京藝術大学教授)
【会場】東京藝術大学音楽学部 第1ホール
【開演】14時〜
【料金】無料
【感想】
もう直ぐ「秋分の日」ですが、1年を24分割してその節目となる日に季節を表す名称を付した二十四節気は、その折節の季節感を適確に表現し趣があって面白いです(以下のURLを参照)。二十四節気の歴史は古く中国前漢の時代の「淮南子」に由来するようですが、昔から人間が感じる季節感に変化はありません。以前、能楽師の宝生閑さん(宝生流下掛ワキ方人間国宝)が能楽を鑑賞するにあたっては作品に関する知識などよりも季節を感じる風流心の方が遥かに大切だという趣旨のことを仰られていましたが、都会暮しで自然に接する機会が少なくても、二十四節気に季節の音や風の匂いを感じ、折々の草花を愛で、旬の食材を賞味して自然の恵みに感謝するだけでも、生活の中に季節感(自然)を取り戻すことできるような気がしています。何を「豊かさ」と感じるのかは人それぞれの価値観ですが、仕事だけに振り回されて一度しかない人生を空しくすることだけは避けたいと個人的には思っています。

http://koyomi.vis.ne.jp/24doc.htm

さて、かなり以前になりますが、日本音楽学会で面白そうなテーマが採り上げられたので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。未だ研究途上の発表でしたが、若い研究者による試行錯誤の過程が伺えて面白かったです。安川さんが西洋音楽と日本の伝統音楽との調和点を探る手掛かりとして「mode」(モード≒音階)に着目し、日本の伝統音楽にもモード的なもの(旋法的要素)があるのではないかという仮説の下に、徳重さんに能管とピアノのための曲(今回初演された「能管とピアノのための résonance」)の作曲を依頼したという経緯が説明されました。これに対し、森田さんが能管奏者の立場からモード的なもの(旋法的要素)に対する違和感について言及がありました。即ち、もともと能管は歌口から指孔までの管が二重構造になっていて意図的にピッチが不安定になるように作られている点、管長や指孔の間隔に統一的な規格がなく楽器によって音律に個体差が生まれる点など能管の特徴を紹介したうえで、能管の演奏には西洋的な拍を合わせるという概念はなく、数えられない間(あらかじめ決められた歩幅を1歩とするのではなく、歩いた結果が歩幅になるという感覚)や複合的な時間軸(例えば、能楽のポリクロニックなど)が存在し、五線譜に乗せることができない精妙な息遣い(間)によって能管という楽器の生命感が生まれ、また、日本の伝統音楽では西洋音楽と異なって感情を込めずに演奏すること(無≒禅的な思想)が良いとされていることなどから、この根本的な性格の違いに悩まされ続けたという苦労談が紹介されました。「能管とピアノのための résonance」の実演を挟み、今度は中国におけるクロスカルチャーな動向について紹介がありました。鳥谷部さんから最近の中国では中国の伝統音楽を西洋音楽の理論や奏法によって理解し、伝承するような風潮が生まれていることが紹介され、それを受けて毛さんからその実際について紹介がありました。毛さんによれば、中国における伝統音楽の教育は形骸化されつつあり、作曲家が中国の民俗楽器の特性、語法や奏法について無知なために、専ら民俗音楽の特徴的な音色だけを持て囃し、ピアノ曲を作曲するような感覚で伝統音楽の作曲が行われている風潮に危惧を覚えているという指摘は非常に興味深かったです。なお、中国の古琴と古筝の実演を初めて聴きましたが、古琴は非常に小さい響きでツィンバロンを連想させる音色が印象的でしたし、古筝は(日本の筝と比べて)非常に深みのある音色と独特のイントネーションが特徴的です。最後に、西洋音楽と日本の伝統音楽との調和点を探るというテーマについて、上述のとおり西洋音楽と日本の伝統音楽との乖離が激しくモードやリズムからのアプローチは結果的に失敗に終わったことが報告されました。この種のクロスカルチャーな試みでいつも感じるのは、何故、西洋音楽との調和ばかりが試みられるのかという点です。伝統音楽に限らず伝統芸術は恒久不変のものではなく常に新しいものを採り入れながら変化してきた歴史がありますが、それは全く異質のものを無理矢理に採り込んできたのではなく、寧ろ、親和性のある芸術から無理のない範囲で良い面を採り入れながら変化してきた歴史があります(例えば、世阿弥が猿楽に曲舞を採り入れたように..)。その意味で西洋音楽よりももっと近隣諸国の民俗音楽との調和が試みられても良いような気がしますし(何事に付けて西洋音楽ありきの発想は行き詰まりを見せていると思います)、その方が遥かに自然で実りが多いような気がしますがいかが。(以上、発表者の発言趣旨を正確に理解し、咀嚼できていない可能性がありますので、予め、ご容赦下さい。)

なお、二枚目の写真は白鷺の群生ですが(小さくて見難いですが..)、その立ち姿は実に優雅で気品があります。東京から1時間弱の関東某所ですが、ここには自然と共生していた頃の日本の原風景、生きた自然が息付いています。万物の霊長と驕り高ぶる人間様が作った近代都市(現在の都市モデルは約200年前に経済優先主義の思想のもとに作られたイギリスの都市がベースになっていると言われていますが..)は大地をアスファルトで固め、側溝を蓋で覆って人間界から他の生き物を徹底的に排除してきました。人間様はコンビニに行けば食糧に事欠かず、蛇口をひねれば水が出ますが、これでは他の生き物は共生していけません。もともと日本には西洋のような自然界と人間界とを区別して考える「二分法」の思想(自然界を支配の対象として認識)はなく、「山川草木国土悉皆成仏」という日本の仏教思想(自然界を畏敬の対象として認識)に象徴されるように自然界と人間界とを区別して考える思想はありませんでした。この違いは狩猟民族と農耕民族の違いにまで遡って考えることができるかもしれませんし、一神教と自然信仰(八百万神々、多神教)の違いとして捉えることもできるかもしれません。この点、(元も子もないないことを書くようで恐縮ですが)これまで色々なクロスカルチャラルな試みを観てきましたが、このように全く異なる民族性や思想性(宗教を含む)を背景として生まれた2つの文化(音楽)を対等な立場で1つに調和させようとすることには無理があるのかもしれません。西洋音楽では人間が操り易いように人工的・機能的に1オクターブを12等分して音を配列した十二平均律に象徴されるように、そもそも音の捉え方からして根本的に異なった発想を持っているように感じられます。割り切れる音楽(人工の音)と割り切れない音楽(自然の音)を1つに調和させる意義(その必要性や有効性を含む)についてよくよく考えてみないといけないのかもしれません。

http://www.musicology-japan.org/east/

◆おまけ
古筝の演奏を聴く機会は滅多にないと思いますので、毛さんの演奏をアップしておきます。(関係者の方へ、You Tubeにアップされていたものを使いましたが、もし差し障りがあるようでしたらご一報下さい。)

毛さんが中国の伝統(民族)音楽の旗手であるとすれば、中国人の西洋音楽の旗手としてピアニストの朗朗(ラン・ラン)と李雲迪(ユンディ・リ)、そして彼女が東京音大の学生の頃から応援してきたチェリスト趙静(チョウ・チン)を挙げなければなりますまい。