大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

グレン・グールド・プレイズ・バッハ第1話「バッハをピアノで弾く理由」

【題名】グレン・グールド・プレイズ・バッハ第1話「バッハをピアノで弾く理由」
【放送】CLASSICA JYAPAN(CS736)
    平成24年9月29日(土)11時00分〜12時05分
【演目】バッハ フーガの技法BWV.1080〜コントラプンクトゥス第1番
    半音階的幻想曲とフーガBWV.903〜半音階的幻想曲
    パルティータ第4番ニ長調BWV.828
【出演】グレン・グールド
    ブルーノ・モンサンジョン
【収録】1979年11月19日〜26日CBCスタジオ(トロント
【感想】
今日は中秋の名月です。中秋の名月は「満月」とは限りませんが、丁度、今年は中秋の名月が「満月」にあたり絶好の月見日和…となるはずでしたが、生憎の台風17号の接近で月を愛でるどころの話ではありません。古く日本では台風のことを「野分(のわき)」(手紙で「野分の候」は9月の時候の挨拶)と呼び、源氏物語第28帖の巻名にもなっています。以下に台風を描写した件を抜粋しておきます。今は強風に煽られて看板や傘の骨などが飛んで来やしないかと心配になりますが、昔は強風で草花がしおれるのを見て心を痛めていたとは何とも風流です。

野分、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ。花どものしをるるを、いとさしも思ひしまぬ人だに、「あなわりな」と思ひ騒がるるを、まして、草むらの 露の玉の緒乱るるままに、御心惑ひもしぬべく思したり。 おほふばかりの袖は、秋の空にしもこそ欲しげなりけれ。暮れゆくままに、ものも見えず吹きまよはして、いとむくつけければ、御格子など参りぬるに、「うしろめたくいみじ」と、花の上を思し嘆く。


歌川国貞「香の図第二十八帖“野分”」

▼六条院で吹き荒れる野分
こちらの野分は今も昔も変わりがないかもしれません。
“吹き乱る 風のけしきに、女郎花 
             しをれしぬべき ここちこそすれ”
光源氏

さて、おそらくクラシック音楽ファンであればご存知だと思いますが、日本で唯一のクラシック音楽専門チャンネルである「CLASSICA JYAPAN」(CS736)で、今月、グレン・グールドの特集番組が放映されています。この番組はフランスの映像作家であるブルーノ・モンサンジョングレン・グールド最晩年の1979年から1981年にかけて収録したグールドによるバッハ演奏の集大成とも言うべきドキュメンタリー作品で、グールドとモンサンジョンとの対話、グールドの演奏を織り交ぜた3話から構成され、グールドの卓越したバッハ解釈と演奏を見ることができる大変に貴重な内容と言えます。第1話は、いきなり「バッハをピアノで弾く理由」というバッハ演奏の本質的な問題の一端に迫る重いテーマが採り上げられました。グールドとモンサンジョンとの対話の概要を残しておきたいと思います。(G:グールド、M:モンサンジョン

M:この曲はピアノで弾くために書かれていないですが。
G:ピアノの豊かな音色はバッハを弾くに十分な面もあるし、全く不向きな面もある。だから問題はピアノに音楽の魅力を高める要素、即ち、音楽の特質と絡み合う要素を取り入れることが肝要です。
M:バッハの時代にピアノがあればバッハはピアノを使ったであろうと言われていますね。
G:もちろんバッハは合理的な人でした。バッハが亡くなる数年前にジルバーマン製のフォルテピアノを気に入ったようなことを言っていますからね。しかし、現代のピアノとは全く異なるものだから何とも言えません。
M:バッハをピアノで弾くのはおかしい、バッハが作曲した当時の音色の幅で弾くべきだという意見もありますが。
G:確かにそういう声もあります。そういう人はバッハが音色や音の要素に強く拘っていたと思っているんでしょうが、それじゃバッハが楽器の奴隷だったことになります。しかし、僕はそうは思いません。このことを証明するための事例が沢山あります。例えば、バッハのヴァイオリン協奏曲はホ長調ですが、ピアノではニ長調で演奏されますし、この曲と同じ進行がカンタータになってオルガンで演奏される例もありますが、そのような例はいくつもあります。

スナフキンの独り言>〜ぶつくさ言いながらテレビを見ています。
バッハの時代はレコードやCDなどのメディアはもちろん、活版印刷の技術もなく、ある曲で使用したモチーフは基本的に1回演奏されれば使い捨てにされて再演される機会は滅多にありませんでした。そこで、バッハはある曲で使用したモチーフを別の曲に転用して使用することが多く、器楽曲で使用したモチーフを声楽曲へ転用するなどのアイディアの使い回しを行っていました。従って、この時代にはどのような楽器(音)で演奏されるのかということはあまり意識されることなく作曲されていたと思います。

G:バッハがピアノを知っていたら自分の曲の音色と違うかなんて気にしないと思いますよ。しかし、バッハがピアノを採用したかは分かりません。18世紀のスクリャービン(音の魔術師)になったかどうか…バッハの興味の重点は音楽の構造にありましたからね。その一番いい例が先ほどのフーガの技法です。あの作品はどんな楽器でも演奏できると思います。色々な楽器による演奏を聴いたことがありますが、どの演奏も作品を壊していません。それだけ曲の構造が強固なんです。世の中には2種類の作曲家がいて、先ず、演奏する楽器を想定して曲を書く作曲家、パガニーニやリスト、マーラーなどがいます。この楽器の可能性を引き出すと意気込んでね。その一方で、目にも耳にも訴える曲を書こうとする作曲家がいます。楽譜を読んでいると頭の中で音を想像できるんです、楽器の制約を受けずに・・・。すると曲の構造自体の意味が見えてくる。そこに辿り着ければどの音色でも構わない。その極端な例がカール・ラッグルズで、彼が書いた「天使」という交響曲は弱音器つきトランペット6本用の曲ですが、僕はピアノで演奏しました。これと同様にフーガの技法は音の運び方や音楽の構造自体を模索する作品ばかりで、音色がどうあるべきかや、聴取の受け取り方などは考慮していません。全く別の視点から作曲していると思います。バッハが生きていた時代はバッハと逆の方向に向かって走っていました。快楽主義でより楽器に重きを置く“スカルラッティ症候群”です。バッハは勇敢にも時代の流れに逆行していたんです。先ほどバッハの音楽は頭の中で鳴らせると話しました。楽器の制約を受けずにピアノで弾きますがどういう音に聴こえるか。〜グールドによる実演〜
M:左手はチェロかな、もちろんピッチカートです。右手はトリオソナタのようですが、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラですか?
G:その通りです。この通り左手の運休法を変えることもできますこれはピアノがチェンバロクラヴィコードに勝るという話ではなく、バッハは楽器の制約を受けないという話です。しかし、特定の曲ではピアノの方が勝ります。チェンバロよりもバッハの意図に沿った音が出せることがあります。チャンバロやクラヴィコードこそが正統ですが、僕は大げさだと思うんです。殆ど差別と言ってもいいです。現代のピアノでショパンを弾いても苦情は出ません。ショパンが弾いていたのはもっとチャンバロに近いですが、プレイエルに戻れという指摘は見当たりません。

スナフキンの独り言>
ここ数年は楽曲の持つ素材の旨み(作曲意図)を最大限に引き出すことができるピリオド楽器の演奏の魅力が見直され、“プレイエルに戻れ”とまでは言わなくても、プレイエルによる演奏を積極的に評価する風潮が生まれています。しかし、この潮流はグールドが言わんとしているバッハをピアノで弾く理由(意義)を否定するものではありません。グールドはバッハの音楽を構造的に捉えてピアノの豊かな音色や強弱を活かしながらバッハの音楽を立体的かつ多彩に構築して行くことを考え、そのためにはチェンバロやクラヴィーアではなくピアノを選択する必要があったということなのだろうと推察します。尤も、グールドのピアノ演奏はあらゆる意味で楽器の制約を受けておらず、レガートを徹底的に排除してブツ、ブツと音を細切れに切断してまるでピアノをチェンバロのように扱うこともあります。

M:半音階的幻想曲は絶対的な音楽とは言えません。楽器を指定して書かれた曲は存在します。ショパン夜想曲がピアノに限るのと同じように。
G:確かに半音階的幻想曲はクラヴィーアのための曲です。僕の人生で最初にして最後の半音階的幻想曲の演奏ですよ。僕はこの曲を好きじゃない、嫌いですね。学生時代、ピアニストはバッハの作品を嫌っていましたが、演奏会ではショパンなどの主要曲の前に何か弾く必要がある。彼らが選んだのが「イタリア協奏曲」かこの怪物です。この曲を演奏するとバッハが思慮深く音を構築するだけではなく、即興の力もあることが分かります。あらゆる和音をさまよい、穏やかにこのアルペジオ奏法につながっています。
M:僕には偶然性の音楽に聴こえますね。
G:そう、そのとおり。いま弾いたのはジャズの三和音だ。バッハが嫌いな人のためのバッハです。
M:この穏やかに書かれた曲をなぜあなたは「イタリア協奏曲」と一括りにするですか?
G:その二曲はバッハの統治外の作品とも言えます。対位法的ではないし、発想がどちらも線的ではありません。イタリア協奏曲はいいデザインのジョージ王朝風建物、イギリス時代のヘンデルのようで、よく書けてはいますよ。イタリア協奏曲はバッハの曲には珍しく、強弱の指定がはっきりあります。他の曲ではこちらの自由にさせてくれますが、強弱もテンポも。ピアノにはチェンバロにはできないことができます。クレッシェンドにディミヌエンド、チャンバロはすべて平板ですから。だからピアノでは、どこまでその性能を使うか、抑えめにしないと全体のバランスを壊しますし、そうしないと総奏とソロの対比が崩れます。弦楽器の奏者が陥りがちな問題ですが、弓を全部使う必要はありません。同じくピアノもフルに使う必要はありません。一方、バッハの感情的表現はどうかというと、パルティータホ短調サラバンドなどはワーグナー的な激しさがあります。

スナフキンの独り言>
グールドのバッハ観が伺えるとても面白い発言です。グールドの演奏は非常にユニークなアクセント(例えば、突然に低声部を弾く左手が強調されるなど)が付けられることがありますが、このようなイメージをもって演奏していたということですね。片手でピアノを弾きながら、片手で指揮しているような仕草をしている理由も分かりました。ここで建築学の話を思い出しましたが、洋の東西を問わず、左右対称に見える建築も厳密な意味でのシンメトリーな構造物は少なく、アクセントとなるべき変化(左右非対称=アシンメトリーな構造)を設けているものが殆どで、却ってそれが建築物全体の調和を齎し、見る人に美しいと感じさせるという話を聞いたことがあります。ある部分にアクセントを置くことで全体の構造がくっきりと浮き立ち、それが全体の調和や安定感を生み出すということなのかもしれません。この考え方は生け花などにも共通しますが、この問題を突き詰めて考えると、そもそも「美しさ」とは何かという深淵なテーマに行き着いてしまいますので、また別の機会に譲りたいと思います。

M:あなたは気分によって大分テンポを変えていますね。平均律のフーガ嬰ハ長調の録音の時には極端に遅いテンポでした。
G:僕はフレキシブルに考えていて、すぐに2倍速にしても演奏できます。僕の行為はバッハ自身のと同じです。主題を2倍速で縮小又は半分の速度で拡大、こういうものがより安易に安全に採用できるのは曲の構造がしっかりしているからです。メヌエットやジーグで試すのは音楽として健康的ではありませんが、例外が1つだけあります。パルティータロ短調のジークだけは、それまでのジーグの限界を超越する曲だと思います。
M:本当にテンポは気分で変えられる要素だと思いますか?
G:テンポを2倍にできるというのはフーガ、前奏曲、インヴェンションなど独立した曲です。パルティータや組曲では避けた方がいいと思います。
M:ベートーヴェン交響曲第7番はベートーヴェン版ディスコ音楽です。各パルティータにそのようなイメージを持てますか?
G:一番陰気で強烈な僕に合う曲が第6番ホ短調です、純粋なのがト短調、チャーミングなのが第1番変ホ長調、彼が辿り着いた最も面白いドラマとユーモアの極致が第2番ハ短調、第4番は妙な曲で紋章のようなオープニング(フランス序曲)、トランペットなどで派手な形式をとっているのに妙なラテンぽさがあります。例えば、アルマンドシンコペーションパヴァーヌのようですし、サラバンドの構造はピアノではなくリュート向けに思われます。最も人間味があって慈愛を感じるのがパルティータで、ホ短調のような強い悪がないから僕は一番好きです。ト長調のウィットや変ロ長調の魅力もいいですが、ニ長調には特別な温かみがあり哲学的な静けさがユニークだと思います。

◆おまけ
良い子の皆さんは決してマネをしてはいけません。こんな弾き方をしているとピアノの先生に怒られてしまいます。しかし、こんな神憑りな演奏をできる人はグールドを置いて他に知りません。



バッハの時代にあった鍵盤楽器チェンバロ)の音もお楽しみ下さい。

この曲をピアノで弾くと...。