大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

マネとモダン・パリ

【演題】マネとモダン・パリ
【展示】モネ すみれの花束をつけたベルト・モリゾ ほか約150点
【会場】三菱一号館美術館
【料金】1500円
【感想】
少し以前に開催されていた三菱一号館美術館の開館記念展「マネとモダン・パリ」を観に言った感想を簡単に残しておきたいと思います。三菱一号館は1894年に建設されましたが、マネ(1883年没)と同時代の空気を感じさせる趣のある洋風建築です。三菱一号館の再建も然りですが、この数年で丸の内界隈は雰囲気が一変しました。オフィスビルの高層化・近代化が進み、歩道が拡幅されて、緑(街路樹)も豊かになり、お洒落な商業施設も増えて、非常に開放的な雰囲気の明るい街並みに変貌しました。「三菱村」と言われていた昔の丸の内は皇居を見下ろすような高層の建築物はタブーだったので無機質な低層のオフィスビルが建ち並び、夜や休日はゴーストタウン化する殺風景な街並みでしたが、最近は東京駅赤レンガ駅舎の修復も完成してLED照明でライトアップされるなど美しくオシャレな街に変貌しています。因みに、都心の街並みは皇居を中心として放射状に広がり皇居に近いところから順番に1丁目、2丁目、3丁目…と皇居と垂直に区画されていますが、何故か丸の内だけは皇居と平行に区画されています。本当に不思議な魔力を持った街です。


ベルト・モリゾ(1872年)

さて、写実主義ロマン主義のアンチ・テーデとして1874年に生まれた印象派ですが、暗い色調の絵画から明るい色調(光の扱いと色彩感)の絵画へと変貌し、輪郭線など「形」をはっきりと描かなくなったことが特徴です(この特徴は印象派の音楽にも共通していますが、ドビュッシーは自らを印象派と呼ばれることを嫌っていたとか..)。その背景には写真の誕生があった(写真では表現できない絵画の独自の存在意義を模索した結果)と言われていますが、個人的には写真よりも絵画の方が被写体の本質を描き出していると感じることは少なくなく、写真の誕生によって絵画の存在意義が損なわれることはなかったことは歴史の証明するところではないかと思います。もう1つ見逃せないのは「ジャポニスム」が印象派の芸術家達に与えた影響ですが、今回の展覧会にも展示されているマネの「エミール・ゾラの肖像」(1868年)の背景には二世歌川国明の力士絵「大鳴門灘右衛門」が描き込まれていますし、ドビュッシー交響詩「海」(1905年)の初版譜の表紙は葛飾北斎の錦絵「神奈川沖浪裏」であったことは有名な話です。日本画の特徴でもある形や遠近をデフォルメした大胆な構図、明度の高い鮮やかな色調などは印象派の芸術家達にとってインスピレーションを掻き立てられるものだったのかもしれません。果たして、マネは絵画を何かの思想表現とする捉え方に異を唱えて「印象派の父」と呼ばれるようになった革新的な発想を持った人ですが、その一方でサロン(官展)で認められることに意義を感じサロンへの出品を続けた保守的な考え方も持った時代の過渡期の人でもあります。残念ながら、今回の展覧会では有名な「草上の昼食」(1863年)は展示されていませんが、「オランピア」(1863年)などマネが革新的な才能を開化させて行く作品から晩年の傑作である「フォリー=ベルジャールのバー」(1981年)までマネの画風や興味の変遷が辿れる非常に豊富な展示品の数々に興味尽きせぬものがあります。また、モダン・パリの側面として絵画の他に当時の写真も展示されていますが、個人的にはパリ・オペラ座の建築設計案(1843年)やドガの「オペラ座の稽古場」(1872年)、ナヴレの「パリ・オペラ座の階段」(1880年)なども当時の様子を伝える貴重な資料的価値のあるものとして大変に興味深く拝見しました。今回は1つ1つの作品をじっくりと鑑賞している時間的な余裕がありませんでしたが、人柄が滲み出てくるような人物画、植物や果物の瑞々しさが伝わってくるような静物画など傑作の数々が並び、これではいくら時間があっても足りません。日本の美術館が所蔵しているマネの作品は多いので、マネの作品を求めて色々な美術館を周るマネ巡りなんていかが。


笛を吹く少年(1866年)

◆おまけ
マネと親交の深かったシャブリエオペレッタ「いやいやながらの王様」第三幕より

シャブリエと親交の深かったフォーレのエレジー

フォーレの師匠であるサン=サーンスのフルートとハープのためのロマンス