大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「サラサーテ “ツィゴイネルワイゼン”」

【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウスサラサーテツィゴイネルワイゼン”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年1月26日(木)12時00分〜12時45分
【司会】筧利夫
    黒川芽以
    鈴木砂羽
【出演】加藤知子(ヴァイオリン)
    新日本府ファイルハーモニー交響楽団(指揮:円光寺雅彦)
    野本由紀夫(玉川大学芸術学部准教授)
    関口義人(音楽評論家)
【感想】
最近のブログの枕は千葉ネタ尽しで、千葉に関係のない方は食傷気味になっているかもしれませんが、“○を喰らわば皿まで”の気概で京都や滋賀もひれ伏す故郷自慢の極め付けをアップしたいと思います。千葉礼賛。とかく飲み会での故郷自慢と手柄自慢は嫌われますが、映画「壬生義士伝」において新撰組隊士で北辰一刀流の使い手だった吉村貫一郎中井貴一さん)が「故郷の話が無駄口であるはずがながんす」という名台詞を残しているとおり、手柄自慢はともかく故郷自慢を毛嫌いするのは野暮というものです。..ということで早速、今日9月16日(1863年)は新撰組の筆頭局長・芹沢鴨が暗殺された命日ですが、千葉県流山市新撰組の局長・近藤勇や副長・土方歳三ほか隊士200名が最後に本陣を置いて再起を図った陣営跡(御用商酒造業、長岡屋七郎兵衛邸跡)があります。ここで近藤勇土方歳三は袂を分ち、近藤勇は新政府軍へ出頭して斬首され、土方歳三会津戦争を経て函館戦争で戦死しています。盟友、近藤勇土方歳三の別離の舞台となり別れの酒を酌み交わしたであろう流山の造り酒屋「長岡屋」に因んで男の酒詰合せ「本陣長岡屋」が発売されています。忠義の士、近藤勇(焼酎)と土方歳三清酒)は互いに生き方が異なり袂を分つことになりましたが、貴公も幕末の志士達が命懸けで描いた男のロマンに思いを馳せながら美酒に酔いしれてみませんか。なお、吉村貫一郎鳥羽伏見の戦いで戦死(映画では南部藩大阪屋敷に逃れて切腹)し、千葉県流山市までは来ていません。続く。



<上段左から>
1〜2枚目:市川團十郎祖先居住地の碑と(旧)東光寺薬師堂(千葉県成田市
初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣は武田家の能係の家計で一条信竜(武田信玄の異母弟)に仕えていましたが、武田家が滅亡すると下総国幡谷村(千葉県成田市)に移り住み、その後一時、北条氏の家臣となりましたが、1590年に豊臣秀吉によって北条氏が滅亡すると農民になったそうです。しかし、父・堀越重蔵は農業を嫌って江戸に出て、そこで初代市川團十郎が生まれました。写真は、(旧)東光寺薬師堂の境内に建つ、初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣、祖父・堀越重右衛門及び父・堀越重蔵の三代に亘って住んだ居住地跡の碑です。樹幹が(旧)東光寺薬師堂を遮って地を這うように居住地跡の方へ延びていますが、居住地跡の土地には色々な人の思いが積り積って樹幹を惹きつける霊性のようなものを宿しているのかもしれません。なお、当時の芸術家は有力な戦国大名に召し抱えられるなどして芸能活動を行っており、例えば、観阿弥駿河国の今川家、世阿弥は将軍家の足利家に召し抱えられていましたが、西洋のみならず日本においてもパトロンが文化芸術の発展に重要な役割を果たしてきた一例と言えます。
3〜4枚目:成田山新勝寺延命院旧跡(千葉県成田市
成田山表参道を薬師堂へ向って歩いて行くと延命院旧跡があります。これは1842年に老中水野忠邦による天保の改革(奢侈禁令)のあおりを受けて江戸十里四方追放となった七代目市川團十郎成田山新勝寺延命院に身を寄せています。その名残を写すように延命院旧跡跡の街灯には三升紋があしらわれています。一時、幡谷重蔵と名乗っていたようですが、歌舞伎「東海道四谷怪談」の民谷伊右衛門役をはじめとした「色悪」(外見は二枚目でも性根が悪く、女性を裏切る悪役)の名手で、成田屋相伝の荒事18演目を選んで“歌舞伎十八番”を定め(「十八番」を“おはこ”とも読むのは、市川宗家がこれらの演目を箱に入れて大事に受け継いだことに由来すると言われています。)、荒事をお家芸とする市川團十郎の名声を一層と盤石のものとしました。因みに、「随市川」とは市川宗家は随一の歌舞伎役者という意味で、“随一”と“市川”を掛けた褒め言葉です。
<下段左から>
1枚目:薬師堂(千葉県成田市
1655年に成田山新勝寺の本堂として建立されたもので、この本堂の頃に初代市川團十郎水戸光圀が参詣しました。現在の本堂に建て替えるために、1855年に古い本堂は薬師堂としてこの場所に移築しています。改装して新しく見えますが、現存する成田山の建物としては最も古いものです。なお、子宝に恵まれなかった初代市川團十郎成田山新勝寺に子宝祈願をしたところ、その願いが叶って1688年に二代目市川團十郎を授かりました。初代市川團十郎は御本尊の霊徳に感謝し1695年に成田不動明王を上演しましたが、その際に大向うから「成田屋!」という掛け声が掛かったのが“成田屋”の屋号の由来と言われています。荒事の特徴である“隈取り”や“見得”も不動明王の姿から来ていると言われ、「“不動の見得”で睨まれると病が治る」という噂が広まったことなどから成田山新勝寺の江戸っ子人気が高まり、成田山詣での参拝者が往来する「佐倉街道」(現在の国道296号)の名前が「成田街道」に変ってしまうほど賑わったそうです。因みに、更に時代は遡りますが、1180年に石橋山の戦いで敗れて安房に逃れた源頼朝成田山新勝寺を参拝し、平家追討を祈願しています。
2〜3枚目:成田山新勝寺額堂と七代目市川團十郎の石造(千葉県成田市
1821年に七代目市川團十郎が千両を寄進して額堂(通称、三升の額堂)が建立され、江戸追放が解かれて江戸に戻ると不動明王の御利益に報恩するために自らの石造を造らせて安置しています。当初、額堂は三重塔の横にあったそうですが、1965年に不審火で焼失し、現在は光明堂の横に移築されています。因みに、“千両役者”とは江戸時代に歌舞伎役者の中で特に人気を誇り大衆を魅了した役者を示し、中村座市村座守田座等の座元(興行主)との専属契約において1年間(毎年11月から翌年10月までの1年間契約で毎年11月に役者が入れ替わることから各座元は11月に顔見世興行を行っていましたが、その名残りで現在でも11月の公演を“顔見世”と呼んでいます。因みに、現代の歌舞伎役者は、実質上、松竹株式会社と終身の専属契約を結んでいることになります。)に千両(現在の価値に換算して1億円前後なので、“千両役者”を現代風に言うと“1億円プレーヤー”です。)を超えるギャラを得たことからこう呼ばれるようになりました。最初の千両役者は二代目市川團十郎と初代芳澤あやめと言われていますが、当時は座元から歌舞伎役者へギャラが直接支払われることはなく、必ず、奥役(マネージャー)を通して支払われましたが、奥役がそのギャラの1割前後を手数料として自分の懐へ入れ(“1”のことを「ピン」(ピンからキリまで)と言いますが、“かすめ取る”という意味の「はね」ると併せて「ピンはね」という言葉が生まれています。)、その残金が歌舞伎役者に支払われる慣習がありました。なお、平和大塔の1階にある霊光堂には、市川團十郎に所縁の資料などが展示されています。
4〜5枚目:高浜虚子の句碑(七代目市川團十郎・六代目市川團蔵銅像台座)と五代目芳村孝次郎の碑(千葉県成田市
1910年に七代目市川團蔵が七代目市川團十郎及び六代目市川團蔵銅像(日本で最初の俳優の銅像)とその右横に名優七世市川団蔵と刻んだ碑を建立しましたが、1941年(第二次世界大戦中)に公布された金属回収令により七代目市川團十郎及び六代目市川團蔵銅像が供出されたので、1943年に八代目市川團蔵がその台座の上に七代目市川團蔵と親交のあった高浜虚子の句碑(“凄かりし 月の団蔵 七代目”)を建てたものが成田山公園に残されています。なお、その左横に長唄唄方の名跡、五代目芳村孝次郎(後に改め、四代目松永和楓)の永代御膳料の碑も建てられています。

ステレオタイプなテーマで恐縮ですが、江戸落語上方落語が対比されるように同じ伝統芸能でも江戸と上方では異なる特徴を持っていますので、一度、自分の頭を整理するために、総合芸術たる歌舞伎における江戸歌舞伎(荒事)と上方歌舞伎(和事)の特徴的な違いについて書いてみたいと思います。続く。



<上段左から>
1〜3枚目:成田街道沿いの成田山道道標(千葉県佐倉市)、成田山新勝寺総門と出世稲荷にある石燈籠(千葉県成田市
1831年に七代目市川團十郎成田街道沿いに成田山道と刻んだ道標を建立しており(写真に向って一番右側の石柱)、この道標の右側面に七代目市川團十郎が詠んだ句“天はちち 地はかかさまの 清水可那”が刻まれています(最後に「團十郎」の名前も刻まれていることが確認できます。)。この道標は加賀清水の近くに建てられていますが、七代目市川團十郎も加賀清水を愛飲していたと言われており、この道標の左側面には「この清水を飲めば女性が懐妊する」旨の功徳が説かれています。因みに、この地を領有していた佐倉藩主、大久保加賀守利常の通称「加賀様」と「かか(母)さま」とが掛詞になっています(この近くにある佐倉城祉は日本の名城百選の1つです。)。また、成田山新勝寺総門を入ったところに七代目市川團十郎(改め、七代目市川海老蔵)と八代目市川團十郎が奉納した石燈籠(仁王門に向って左の石燈籠は七代目、右の石燈籠は八代目が奉納したもの)があります。さらに、出世稲荷の鳥居を潜ったところに同様に七代目と八代目が奉納した石燈籠(社殿に向って左の石燈籠は八代目、右の石燈籠は七代目が奉納したもの)があります。
4枚目:市川宗家代々の墓(東京都港区)
昔、市川宗家代々の墓は常照院(東京都港区)にあったそうですが(境内には七代目市川團十郎が奉納した手水鉢があります)、現在は青山霊園に移されています。因みに、常照院には歌舞伎「梅雨小袖昔八丈」に登場する白木屋お熊や浄瑠璃「恋娘昔八丈」に登場する城木屋お駒のモデルとなった白木屋お熊の墓があります。また、落語「髪結新三」の題材にもなっています。
<下段左から>
1〜4枚目:成田山新勝寺表参道と成田山公園
成田山新勝寺の表参道は昔情緒が漂う門前町で、宛らジブリワールドを彷彿とさせるような独特の風情を醸し出す“望楼”が魅力の大野屋旅館登録有形文化財)など風趣に富んだ景観を楽しめます。また、成田山公園は紅葉の名所なので、これからの季節は紅葉狩りにもお勧めです(今年の紅葉祭りは2014年11月15日〜30日)。
5枚目:小野派一刀流の始祖・小野忠明と二代目・小野忠常の墓
成田山新勝寺の近くに柳生新陰流と並んで徳川将軍家の剣術指南役であった小野派一刀流の開祖・小野忠明と二代目・小野忠常の墓があります。小野忠明は千葉県南房総市の生まれで(南総里見八犬伝の舞台になった滝田城の近く)、万喜城主の土岐家(千葉県いすみ市)に仕えていた時代に武者修行で訪れた一刀流の開祖・伊藤一刀斎に師事しています。1590年に豊臣秀吉による小田原城の落城に伴って(これにより北条家の家臣であった初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣は下総国幡谷村(千葉県成田市)に移り住んでいます。)北条方であった万木城主の土岐家は豊臣方であった里見家に滅ぼされますが、1593年に小野忠明徳川家康に200石で召し抱えられ、その後、将軍家の剣術指南役になっています。晩年、小野忠常家督を譲って知行地の下総国埴生郡寺台村(現在の千葉県成田市寺台)に隠棲し、永興寺へ葬られています。なお、小野派一刀流から新撰組隊士・吉村貫一郎(映画「壬生義士伝」の主人公)、坂本竜馬山岡鉄舟等を輩出した千葉周作北辰一刀流等が分派しています。因みに、小野家の知行地・下総国埴生郡寺台村(現在の千葉県成田市寺台)と市川團十郎の祖先である堀越家の居住地・下総国幡谷村(千葉県成田市幡谷)とは非常に近く、また、時代も重なることから、どこかで両者は会っているかもしれません。

【ライブびゅ〜イング】
 成田山新勝寺團十郎祖先住居跡〜市川團十郎ゆかりの地〜

歴史上の“毒婦”や“烈女”が芸術作品や子女教育に与えた影響について書く予定です。続く。



<上段左から>
1〜5枚目:長妙寺の八百屋お七の墓(千葉県八千代市)、円乗寺の八百屋お七の墓と大円寺のお七供養地蔵(東京都文京区)、大円寺のお七地蔵尊(東京都目黒区)
八百屋お七は千葉県八千代市の生まれで、東京都文京区本郷に店を構える八百屋徳兵エに養子に入りました。ある時、家が隣家の火災で焼失したので近くの円乗寺に身を寄せていましたが、お七は寺小姓・山田佐兵衛に恋心を抱きます。お七は家が再建されて家に戻った後も山田佐兵衛を一途に恋い慕い、山田佐兵衛に会いたい一心で家が焼ければ再び円乗寺に移れると1682年(“いろはに”)に家に付け火をし、品川鈴が森の刑場で火あぶりに処せられました。享年16歳、“世の哀れ 春ふく風に 名を残し おくれ桜の 今日散りし身は”という辞世の句を残しています。お七は円乗寺(東京都文京区)に葬られましたが、お七の実母は秘かにお七の遺髪を受け取って長妙寺(千葉県八千代市)に墓を建てお七の御霊を弔いました。なお、円乗寺にある三基の墓碑のうち向って右側の墓碑は、女形の歌舞伎役者・四代目岩井半四郎(四代目市川團十郎が歌舞伎の名跡岩井半四郎が途絶えるのを憂い、自分の門下に四代目岩井半四朗を襲名させて女形の大看板としての隆盛の礎を築いています。)がお七を演じて好評だったことから建立したものです。なお、円乗寺の近くにある大円寺には、お七の罪業を救うために熱した焙烙(ほうろく)を頭に被り自ら焦熱の苦しみを受けた“ほうろく地蔵”が安置されており、首から上の病を治す御利益があると言われています。また、山田佐兵衛はお七の処刑後に剃髪して僧侶となり西運と名乗ってお七の菩提を弔いましたが、目黒の大円寺には西運の石碑と共に“お七地蔵”が安置されており、一途な愛を願う若い女性が熱心に参拝するそうです。八百屋お七は「毒婦」と呼ぶには余りにピュア―で幼過ぎたような気がしますが、一途な恋の炎に身を焦がした少女の狂おしいまでの純情が人々の同情を生むのか、この事件は浮世草子「好色五人女」歌舞伎「八百屋お七歌祭文」歌舞伎「八百屋お七恋江戸染」歌舞伎「松竹梅雪曙」歌舞伎「松竹梅湯島掛額」歌舞伎「三人吉三廓初買」浄瑠璃「八百屋お七恋緋桜」浄瑠璃「伊達娘恋緋鹿子」落語「お七の十」など多くの作品の題材となっています。(毒婦伝は以下に後述します。)
<下段左から>
1〜2枚目:重願寺の花井お梅の墓(千葉県佐倉市)、長谷寺の花井お梅の墓(東京都港区)
小説「明治一代女」で知られる花井梅は1863年に佐倉藩(千葉県佐倉市)の下級武士・花井専之助の娘として生まれ、その後、家族で東京に移り住んで15歳で芸妓になります。花井梅は1887年に某銀行頭取の資金援助を受けて待合茶屋「酔月楼」の女将になりますが、その翌月、箱屋として雇っていた八杉峰三郎に対して不仲な父親との仲を取り持つようにお願いしたところ、八杉峰三郎からその見返りとして男女関係を迫られたことなどから浜田河岸(東京都中央区日本橋)で八杉峰三郎を包丁で刺します。これが花井お梅事件(別名、箱屋事件)の概要で、新内「梅雨衣酔月情話」歌舞伎「月梅薫朧夜」歌舞伎「仮名屋小梅」の題材になっています。美人芸妓の殺人事件ということで新聞がセンセーショナルに書き立て、花井梅は「毒婦」に仕立て挙げられましたが、八杉峰三郎は花井梅が熱を挙げていた若手女形の歌舞伎役者・四代目澤村源之助との関係を壊すなど昔年の恨み辛みも手伝って包丁を所持したのかもしれず、その意味では「毒婦」というより質の悪い男のために人生を狂わせた可哀想な人と言えそうです。長谷寺(東京都港区)に花井梅の墓と“新内各派”と刻まれた卒塔婆が建てられ、その右側に藤田まさとさんが建てた歌碑(“十五雛妓であくる年 花の一本ひだり褄 好いた惚れたと大川の 水に流した色のかず 花がいつしか命とり”と刻まれています)が建てられています。また、重願寺(千葉県佐倉市)には花井梅の墓と伝えられる墓石がありますが(咎人のためか墓碑名は刻まれていません)、生前の花井梅を知る人がその御霊を供養するためにひっそりと建立したものかもしれません。なお、歌舞伎では、女だてらに男勝りの強請や人殺しをする毒婦を主人公とした作品のことを「悪婆物」と言い、上述の四代目岩井半四郎歌舞伎「大船盛鰕顔見勢」で私娼・三日月お仙を演じたのが「悪婆」の始まりと言われています。因みに、歌舞伎の悪婆物に登場する「毒婦」としては、上述の白木屋お熊、八百屋お七や花井お梅のほかにも、高橋お伝歌舞伎「綴合於伝仮名書」浪曲「高橋お伝」谷中霊園にある高橋伝の墓に参ると三味線が上達するという評判で現在でも三味線を習う人の墓参が多いとか)や鳥追お松歌舞伎「廿四時改正新話」)などが挙げられます。いずれも若く色白で細面の美人が凶悪な罪を犯すというギャップに劇(ドラマ)性があり物語にし易いという面があったと思いますが、男尊女卑という時代背景のもと女性はか弱く慎ましやかであるべきであるという固定観念を打ち破るようなショッキングな事件が起こり、「毒婦」としてセンセーショナルに騒ぎ立て特異な事件として整理すると共に、このような規格外の事件を当時の社会秩序(価値観)の中で上手く消化して行く(庶民の心の中で折り合いを付けて行く)ための仕組み(文化的な仕掛け)として、懺悔芝居は時代の共通認識や感覚を取り戻して行くという当時の社会的な免疫(解毒)作用を営んでいたと言えるかもしれません。
3枚目:妙興寺の忠婢さつ(鏡山お初のモデル)の墓(千葉県多古町
妙興寺(千葉県多古町)には浄瑠璃「加賀見山旧錦絵」歌舞伎「鏡山旧錦絵」歌舞伎「加賀見山再岩藤」に登場する鏡山お初のモデルとなった松田さつ(通称、忠婢さつ)の墓があります。松田さつは長府藩士松田助八の娘として生まれ、浜田藩松平家江戸屋敷の側女・岡本道女の召使いとして奉公していました。ある時、岡本道女は老女中・落合沢野の履物を間違えて使用してことを咎められ、家名を辱められたことを苦に自害します。松田さつは岡本道女の仇討ちを決意し、1724年に岡本道女の短刀で斬り付けて落合沢野を見事に討ち果たします(通称、鏡山事件)。その後、松田さつは剃髪して妙真尼と名乗り、松平家に所縁の妙興寺(千葉県多古町)に庵を結んで岡本道女や落合沢野の菩提を弔ったと伝えられています。松田さつの生地跡には妙真寺山口県下関市長府)が建てられ、妙興寺から分骨した松田さつの墓があります。忠婢さつは「烈女」(=信念を貫きとおす激しい気性の女性、貞操を固く守る女性)として話題になり、鏡山事件は“女忠臣蔵”として浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなりました。この他の烈女伝としては、(現代人の感覚からすると違和感がありますが)日本国民として大津事件の落し前をつけるために壮絶な自決を果たした「烈女勇子」(信念を貫きとおした女性)や強引に迫るストーカー男を撃退しその責任をとって潔く自決した「烈女松江」(貞操を守りとおした女性)が挙げられます。このような烈女伝を見てみると、現代の女性に多い傾向として単に「負けん気が強い」又は「我が侭な性分」というものとは異なり、昔の女性は物事の道理や筋目を重んじ、しっかりとした信念と覚悟を持って潔く振る舞える美しい生き方をしていた女性が多かったように感じます。女性の社会的な地位の向上が叫ばれて久しく、現代と昔では随分と社会的な状況は変わっていますが、果たして現代の女性は昔の女性と比べて精神的に自立していると言い得るのか(これは男性にも当て嵌まる問いかもしれませんが)、烈女伝は「自立」ということの意味を見詰め直すための良い機会を与えてくれます。
4枚目:神崎神社の大クス「なんじゃもんじゃの木」(千葉県香取郡
近くにあった観光スポットを案内します。神崎神社(千葉県香取郡)の大クスです。1674年に水戸光圀がこの木を見て「この木はなんというもんじゃろか」と感嘆したので、それ以来、「なんじゃもんじゃの木」と言われています。
5枚目:西栄寺の琵琶首観音(通称「朝ねぼう観音」)(千葉県流山市
近くにあった観光スポットを案内します。西栄寺(千葉県流山市)には琵琶首観音が祀られています。この琵琶首観音は酒盛りをして寝過し、翌朝、天上界の会議に遅れたという逸話があることから通称「朝ねぼう観音」とも言われています。誰かに似ているような気がしますが、ねぼけ眼で顔がむくんでいるように見え、いかにも寝起きのような表情は実に愛嬌があります。

さて、ブログの枕が長くなり過ぎましたが、今日は撮り溜めていたクラシックミステリー 名曲探偵アマデウスを観たので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。ご案内のとおりスペインのヴァイオリニスト、パブロ・サラサーテは10歳のときにスペイン女王イサベル2世に招かれて御前演奏を披露し、ストラディヴァリウスとパリ留学を賜った神童です。その後、私財を投入してガヤール劇場にオーケストラを設立するなどパンブローナ(スペイン)を中心に精力的な音楽活動を行い、1878年(上記の花井お梅が芸妓になった年)に彼の代表作となる「ツィゴイネルワイゼン」を作曲しています。因みに、日本で最初のプロ・オーケストラは1904年に設立された東京音楽学校(→東京芸術大学)の東京音楽学校管弦楽団(→藝大フィルハーモニア)で、その後、1915年に山田耕作が東京フィルハーモニー会(→新交響楽団→NHK交響楽団)を設立しています。また、日本で最初のアマチュア・オーケストラとして1901年に慶應義塾大学ワグネル・ソサイエティが設立されています。

ドイツ捕虜オーケストラの碑
故郷自慢の最後にクラシック音楽ネタで締めたいと思います。1915年に第一次世界大戦の敗戦国であるドイツ及びオーストリアの捕虜を収容するための習志野捕虜収容所(千葉県習志野市習志野)が設置され、そこに収容されている捕虜達が習志野捕虜オーケストラを結成してベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、モーツァルトの歌劇「魔笛」、グリーグの音楽劇「ペール・ギュント」及びJ.シュトラウスのワルツ「美しく青きドナウ」等を演奏しています。日本では1926年11月19日にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の日本初演(独奏:J.ケーニヒ、指揮:近衛秀磨、演奏:新交響楽団)が行われていますが、実はそれよりも早く日本でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏が行われていたことになります。未だ蓄音機(1910年販売開始)やラジオ(1925年放送開始)が普及しておらず、上述のとおり日本ではオーケストラが設立し始めたばかりの黎明期で、また、一般庶民がヴァイオリンを演奏できる環境にもなかった(1900年に鈴木バイオリン生産開始)と思われますので、おそらく殆どの日本人にとって初めて耳にする音楽だったのではないかと思います。なお、千葉県銚子市新国立劇場美術センターがあり、衣裳、舞台模型や小道具など舞台芸術に関する所蔵品が展示されており、鑑賞会やコンサート等のイベントも開催されていますので、銚子名物“キンメ丼”を食べがてら華やかなオペラの舞台の裏側を見物してみるのも面白いと思います。因みに、ご存知の方も多いと思いますが、オペラの廻り舞台は歌舞伎の廻り舞台を採り入れたものですし、METライブビューイングはシネマ歌舞伎を真似て始められたものです。なお、千葉県銚子市の周辺には地球が丸く見える展望台(犬吠埼の灯台)、実在の人物“座頭市”の住居跡や屏風ヶ浦などもありますので、ついでにこの辺を散策するのもお勧めです。

ツィゴイネルワイゼンの第1部冒頭は聴く者の耳を捉えて離さない哀愁に満ちた旋律が印象的ですが、これは冒頭の“ソ−ド−レ−♭ミ”という旋律に秘密があります。この曲の調性であるハ短調音階(和声的短音階)のソ(属音)はド(主音)へ向おうとする性質がありますが、冒頭の“ソード”の強い流れと“ド−レ−♭ミ”の緩やかな流れの巧みな旋律の作り方が最も人間の心を惹き付ける効果があると言われています(“ソ(5)−ド(1)−レ(2)−♭ミ(3)”という旋律を数字譜で表記し、俗に“5123の魔術”と言われています)。このような例は、ツィゴイネルワイゼンのほかにも、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第三楽章の冒頭(右手の最初の4音ソドレ♭ミの動きに注目)や都はるみさんの「北の宿から」の冒頭(あなたか(ソ)わ(ド)り(レ)は(♭ミ)ないですか・・♪)等にも見られ、いずれも印象深い効果を生んでいます。また、ツィゴイネルワイゼンの冒頭で、オーケストラが“ソ−ド−レ−♭ミ”という旋律(楽譜1ページ目、第1小節〜第2小節)を高音で演奏しているのに対し、これに続くソロヴァイオリンが“ソ−ド−レ−♭ミ”という同じ旋律(楽譜1ページ目、第3小節〜第4小節)を低音で演奏していますが、この落差が聴く人の心を惹き付ける効果があるとも言われており、冒頭の旋律を一層印象深いものとすることに成功しています。なお、ツィゴイネルワイゼンはロマ(ジプシー)音楽の影響を色濃く受けていると言われています。ロマ音階とハ短調音階(和声的短音階)は殆ど一致していますが、ロマ音階はハ短調音階(和声的短音階)のファの音に#がついて半音高くなっている点が異なり(楽譜2ページ、ソロヴァイオリンの部分)、これがロマ(ジプシー)音楽の独特の曲趣(哀愁、屈折など)を醸し出しています。

【楽譜】
http://petrucci.mus.auth.gr/imglnks/usimg/0/00/IMSLP111461-PMLP04860-Zigeunerweisen_small.pdf

サラサーテは手が小さかったのでパガニーニの曲を演奏しなかったそうですが(パガニーニは末端肥大症で普通の人より指が長かったと言われています)、そのハンディーキャップを補うためにサラサーテの曲は小さい手でも音程がとりやすいハイポジション(ヴァイオリンを演奏したことがある方は直ぐに分かると思いますが、高音になるほど音間が狭くなり、ローポジションと比べてハイポジションは1オクターブの間隔が狭くなります。)が多用されています。また、サラサーテはトリル(楽譜6ページ目、ソロヴァイオリンの“tr”部分)やグリッサンド(楽譜7ページ目、ソロヴァイオリンの“dim”部分/楽譜10ページ目、ソロヴァイオリンの“glissant”部分)等の技巧やG線のハイポジションを使った多彩な音色を使って表情豊かな“泣き”(傷心、悲哀、哀愁など)の表現を可能にしています。第2部はゆったりとした時間が流れ、第3部ではチャールダーシュ(ハンガリーにやってきたロマの人々がヨーロッパ各地の舞曲を採り入れて発展させたもので、19世紀にヨーロッパ全土に広がりました。)をベースに気持ちが高揚する曲趣が特徴で、左手の高速ピッチカート(楽譜33ページ目、ソロヴァイオリンの“+”部分)など華やかな技巧を散りばめてクライマックスを盛り上げていきます。なお、チャールダーシュとは哀愁を帯びた緩急のある曲趣で“ラッシュ”と呼ばれる遅いリズムの部分と“フリッシュ”と呼ばれる速いリズムの部分から構成されますが、ツィゴイネルワイゼンでは第1部前半のソロヴァイオリンが即興風に歌いながら伴奏は演奏のきっかけを待つチャールダーシュの間合いの妙と言うべきラッシュと呼ばれる部分、第3部がソロヴァイオリン及び伴奏とも息もつかせぬ速さで駆け抜けて行く躍動感のあるフリッシュと呼ばれる部分に相当します。

ヴァイオリニスト加藤知子さんの演奏を探してみましたが、YouTubeにはアップされていなかったので、サラサーテ60歳の頃の自作自演をアップしておきます。

00:11〜、00:19〜
聴く者の心を捉えるソドレ♭ミ
00:26〜
哀愁感を漂わすロマ音階
00:58〜
第1部は緩やかなラッシュ
01:24〜
泣きのトリル
01:34〜
感情を揺さぶるグリッサンド
01:58〜
サラサーテならではのハイポジション

03:41〜
第2部は優雅な美しい旋律

03:57〜
第3部は躍動感あふれるフリッシュ
05:06〜
超難易の高速の左手ピッチカート
見た目にも盛り上があるクライマックス

◆おまけ
アンコール曲のレパートリーとして定番ですが、ロマ音楽の影響を色濃く受けたモンティのチャールダーシュを、ヴェンゲーロフの透徹のテクニックが冴え映えとする自在(ところによりアクロバティック)な演奏でどうぞ。

映画「ボーカロイド™ オペラ 葵上 with 文楽人形」が大好評につき、再上映されます。なんだかまだ僕は行けそうにないですが(...本当に困ったものです)、宣伝しておきます。是非、感想をお聞かせ下さい!!