大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

映画「花戦さ」

【題名】映画「花戦さ」
【監督】篠原哲雄
【原作】鬼塚忠
【脚本】森下佳子
【出演】<池坊専好> 野村萬斎
    <豊臣秀吉> 市川猿之助
    <織田信長> 中井貴一
    <前田利家> 佐々木蔵之介
    <千 利 休> 佐藤浩市
    <吉右衛門> 高橋克実
    <専  伯> 山内圭哉
    <専  武> 和田正人
    <れ  ん> 森川葵
    <石田三成> 吉田栄作
    <浄 椿 尼> 竹下景子   ほか
【音楽】久石譲
【劇中絵画】小松美羽
【題字】金澤翔子
【協力】表千家不審菴
    裏千家今日庵
    武者小路千家官休庵
【監修】華道家池坊
【公開】2017年6月3日
【場所】京成ローザ10 1,800円
【感想】ネタバレ注意!
昨日から封切られた映画「花戦さ」を観てきたので、その感想を残しておきたいと思います。映画は人生を教えてくれると言いますが、この映画は心からオススメできる映画なので、是非、多くの方にご覧頂きたいと思います。映画「花戦さ」は花僧・池坊専好の生き様を通して華道の本質に迫った映画ですが、千利休の生き様を通して茶道の本質に迫った映画「利休にたずねよ」をご覧になられてから映画「花戦さ」をご覧になられると一層と鑑賞が深まるのではないかと思います。昔から「一芸は万芸に通じる」(世阿弥)、「一道は万芸に通じる」(宮本武蔵)と言いますが、華道、茶道、香道、書道等の芸道、柔道、剣道、弓道等の武道、そして仏道と、それぞれの態様は異なっても、いずれの道を究めるということも、人の生きるべき道のようなものを探究することに他ならないと思います。正しく映画「花戦さ」は花僧・池坊専好の生き様を通して華道の本質に迫ることで人の生きるべき道のようなものを諭されている(即ち、映画という器に池坊専好の心を活けることで、観る者の心も活け(整え)られている)ような映画で、久しぶりに深い感動と清々しい充足感を味わうことができる作品でした。以下では、少し映画の具体的な内容に触れながら感想を書きますので、これから映画を観る方はご注意あれ。

花戦さ (角川文庫)

花戦さ (角川文庫)

この映画の冒頭では池坊専好が河川敷に横たわる死者に菖蒲の花を手向けるシーンがシンボリックに用いられています(カキツバタは水の中に咲く花、アヤメは陸に咲く花ですが、菖蒲は水際=あの世とこの世の境目に咲く花)。ややもするとラストの花戦さのみに関心が向けられがちですが、このシーンで登場する天才絵師無人斎(画号)の遺児れん(蓮)に非常に重要なテーマ性が持たされていると思います。池坊専好は河川敷に横たわる者の中に未だ息のある遺児れんを見付けて助けますが、すっかり生きる気力を失った遺児れんは食事すら受け付けず、その様子に心を痛めた池坊専好は水桶に入れた蓮の花を遺児れんの傍らに添えます。やがて遺児れんは蓮の花が「ぽん」と音を鳴らせて花開く姿にインスピレーションを受けて、お寺の襖に奔放闊達とした荒々しいタッチで息吹迸るような蓮の花の絵を描き出します。仏教では、蓮の花が開くときに鳴る「ぼん」という音を聞くと悟りが開けると言われていますが、蓮の花が泥水の中から生じて清らかで美しい花を咲かせる力強い生命力に触れることで遺児れんは再び生きる気力を取り戻して親譲りの才能を開花させていきます。さしずめ池坊専好が蓮の花の力を借りて遺児れんの心を活けたシーンと言えそうです。この映画の中で池坊専好は「花の中に仏がいたはる。宿る命の美しさを、生きとし生けるものの切なる営みを、伝える力がある。」と言って花の中に仏性を見出していますが、これは山川草木悉皆成仏という仏教の教え(世界観)が背景にあるものと思われます。法華経では「南無妙法蓮華経」という題目を唱えますが、(ここでは詳しく触れませんが)この「蓮華」という言葉には蓮のように美しい花(ここでは「花」ではなく「華」=「悟り」というべきか)を開くという祈りが込められており、上述のとおり泥水の中から美しい花を咲かせる蓮の花の姿に人の生きるべき道のようなものを見出していたのかもしれません。また、生け花には万物の基礎である天・地・人のうち、天を体現する「真(しん)」と呼ばれる部分があって神が天下る「依代」と考えてられていますが、これは八百万の神々という神道の教えが背景となっており、その思想は、例えば、能楽堂の鏡板に描かれている松や三番叟で舞台の四隅に植えられる小松として能楽の中にも息づいています。この点、能楽には、例えば、人間の霊が草木に化体する「東北」(和泉式部の霊が化体した梅)・「半蔀」(源氏物語の夕顔の霊が化体した夕顔)・「女郎花」(入水自殺した婦の霊が化体した花)など、神仏が草木に化身する「高砂」(神が化身した松)・「龍田」(神が化身した紅葉)・「梅」(神が化身した梅)・「花月」(仏が化身した柳)・「杜若」(仏が化身した杜若)など、草木が成仏する「芭蕉」・「西行桜」・「藤」・「遊行柳」(それぞれの草木の精霊)などの曲目が存在し、神道や仏教の教え(思想)は日本人の自然観や死生観として心に根付き、華道だけではなく様々な文化として花開いていると言えます。昔の日本人は暗闇、風音、空模様など森羅万象が織り成す神の御技にインスピレーションを受けて豊かな精神世界を営み、それが昔の日本人の創造力の源泉になっていましたが、いつしか唯物的世界観に心を支配されて精神世界の営みを失い、心の逃げ場を失って窒息しかけているのが現代という時代性ではないかと感じますし、それが何やら滑稽ですらあります。

茶の湯の大事とは人の心に叶うこと」…映画「利休にたずねよ」では千利休のもてなしに羽柴秀吉が心を裸にされて落涙するシーンがありますが、これと同様に、映画「花戦さ」では千利休のもてなしに池坊専好が心を裸にされて落涙するシーンが印象深く描かれています。二畳隅炉の空間は心静かに自分自身と向き合うことができる広さであり、躙り口から腰を屈めて見上げる茶室、草庵風に仕上げられた荒壁や花本来の素朴な美しさや生命力を際立たせる一輪挿しは心のこわばりを解いて、自然の音の中に息づく茶の湯の三音(湯釜の蓋をずらして開ける音、茶筅の穂を茶碗の湯にとおす音、茶碗に茶を入れたあと茶碗の縁で茶杓を軽くはたく音、湯釜の湯の煮え立つ音(松風)、湯を茶碗に汲み入れる音、柄杓の中の残り湯を釜に返す音)が心を整えてくれる不思議な時の流れ(さながら座禅を組んで心を整えているときのような平らかで澄まされた感覚)を体験できます。池坊専好は大名家に出入りして花を生けているうちに、きちんと花を生けなければならないという気持ちが強くなり花を生けることが楽しくなくなったと悩みを吐露しますが、その待庵での体験を手掛りに花本来の素朴な美しさや生命力を見詰め直すことで精神の自由な飛翔や解放が感じられる「夏に跳ねる」(花本来の素朴な美しさが持つ輝きや生命力が漲る息づかいの一瞬一瞬を活写したような型破りで斬新な作品)を創作して自分の生け花を取り戻します。これと同様に、天才絵師無人斎の遺児れんも絵が評判になるにつれて池坊専好が「絵が丸くなった」と感じたように奔放闊達な画風は影を潜めて自分本来の絵を描けなくなりますが、茶室ではなく洞窟に籠って自分自身と向き合うことで(父無人斎の画風とは違う)自分の絵を取り戻します。ここでは安土桃山時代だけではなく現代にも通じる創作者、表現者の心の葛藤として、世評に惑わされず、創造に大切な自由な心を保ち続け又は創作意欲に忠実であり続けることの難しさが描かれています。

利休にたずねよ [DVD]

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もう1つ千利休豊臣秀吉を待庵に招いて茶を点てるシーンが印象深く描かれています。映画「利休にたずねよ」では織田信長から切腹を申し付けられるかもしれない羽柴秀吉が利休のもてなしに心を裸にされて落涙するシーンが登場しますが、それと対局をなすように、豊臣秀吉が黒楽茶碗(自分との深い対話を求める器)を投げ捨て千利休に黄金の茶室(茶道で志す茶禅一味とは異なる世界)の建築を命じることでその心を捻じ伏せようとします。“猿”こと豊臣秀吉を市川之助さんが演じられていたのは実にアイロニカルで洒落ていますが(笑)、市川猿之助さんの豊臣秀吉の腹のうちを映す目の演技と千利休を演じる佐藤浩一さんの息を呑む間の演技とが白眉で、これほど豊臣秀吉千利休の人間模様(“羽柴秀吉”の心を裸にできた千利休の茶がいまは“豊臣秀吉”の頑な心を解くことができず、徐々に心が離れ始めているその心のあや)が見事に描かれている名シーンだと思います。「茶の湯の大事とは人の心に叶うこと」と言いますが、その一方で、茶人としての美意識(道)に忠実であろうとする千利休の心の葛藤が巧みに描かれています。戦国時代ほど極端な形では現れませんが、現代でも才能が乏しい上司と才能が豊かな部下との間の微妙な関係はあり得るものなので、その意味でも面白いシーンでした。

花道古書集成(全5巻セット) 第1期

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ラストシーンに並ぶ印象深いシーンとして、千利休切腹により創作意欲を失っていた池坊専好が花の力によって創作意欲を取り戻すシーンがあげられます(生け花によって自らが活かされるシーン)。このシーンで野村萬斎さんは脚本・演出にはなかった涙を流しますが、華道を究めるということは人の生きるべき道のようなものを探究することに他ならず、花を生けることによって、その人も生かされるという意味で一種の精神修養のための行(心を整えるための術)のようなものであることを教えられます。生け花で使う花器を「花生け」、茶の湯で使う花器を「花入れ」と言いますが、千利休が「花は野にあるように」と言ったとおり、茶の湯の花は自然にあるがままを挿し入れ、茶室の設えとの調和を大事にして、茶事の束の間に蕾がほころぶ姿を楽しめるように命の短い花材を使うことを特徴とします(時間芸術よりも空間芸術に重きを置いた考え方)。これに対し、生け花はそれぞれの花の美しさを最大限に引き出すように技巧を駆使して「花を生かす」ことを大事とし、できるだけ長くその姿を楽しめるように寿命の長い花材を使うことを特徴とします(空間芸術よりも時間芸術に重きを置いた考え方)。尤も、第4代目池坊専好さんが「野山を、自然の中を歩いて、どのような環境でどのような草花があるのかを自分でよく見極め、知っておくことが大切だと思います。人間の勝手な思い込みで生けるのではなく、あくまでも自然にある草木の姿を生かす」ことが大切だと仰られているとおり(花は足で生けよ)、生け花も茶の湯も花も華美のみを追い求めるのではなく、その自然の姿、即ち、侘びや寂びの精神にも通じる移ろい行く花の命の美しさを写し取っているという意味で、花に見ている美しさの本質は共通しているのだろうと思います。花は自分を映す縁でもあり、花の美しさとは何か、花に何を見るのか、その感じ方は人それぞれだと思いますが、白洲正子さんが川瀬敏郎さんの生け花を見て「この壷にはただ綺麗なものを入れても詰まらない。寒菊はちょっと野暮ったいからいいのよ。」「この板に瑞々しい花は合いません。“冷え枯れる”美しさというか、命の凝縮したような枯牡丹じゃないと。」と感じたとおり(白洲正子著「美の種まく人」より抜粋)、これが花の美しさ(生き様)であり、花を生ける(愛でる)という意味ではないかと個人的には感じています。武田信玄が「人の使ひようは 人をば使わず 能(わざ)を使ぶぞ」という名言を残していますが、これは人の上に立つ者は人を使うという狭い了見であってはならず人を活かすという心掛けこそが肝要であるという帝王学です。生けられない花がないように活かせない人もいない、生(活)ける人の心掛け(即ち、生け(活かし)方)1つで、どんな花も、どんな人も、その美しさ(能力)を発揮するということであり、花も人も全く同じということです。

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ところで、日本人が移ろい行く儚いもの(その象徴としての自然、地上界、多神教)に美を感じ取る傾向(侘びや寂びに通じる精神)があるのに対し、西洋では永続する完璧なもの(その象徴としての太陽、天上界、一神教)に美を感じ取る傾向があり、これは日本と西洋における庭園造りの思想の違いに端的に現れています。(分かり易くするために、誤解を恐れずに荒っぽいことを書きますが)日本人は農耕民族であり、無から有(命の恵み、農作物)を生み出す大地(自然、万物)を崇拝し、その命の恵み(農作物)を生み出す大地(自然、万物)には神仏が宿っているという思想(多神教)が生まれます。自然は畏敬、崇拝の対象と観念され、日本庭園は神仏が宿る大地(自然、万物)のありのままの姿を写し取り、その縮景として神仏が説く世界観を表現するようになります。このため、日本庭園内にある建物(茶室を含む)は庭園の中に溶け込むように設えられ、人間が庭園(自然)の中を回遊する(即ち、人間は自然によって生かされ、その一部として同化している)という基本的な考え方が背景にあります。日本庭園は季節によって移ろい行く自然をアシンメトリー(平面的又は立体的な位置関係が不平等三角形)になるように設えることで3次元的な奥行きを感じさせる自然的な調和美のある空間に造り上げています。この点、華道でも「右長は諸神、左短は諸仏」と言ってアシンメトリーな構図(「真・副・体」「天・地・人」等からなる不平等三角形)を用いているのは同じ思想的な背景があるものと思われます。これに対し、西洋人(の多くの民族)は狩猟民族であり、狩猟の対象である動物は太陽から人間に下賜された恵みであって、その恵みを下賜する太陽を崇拝する(一神教)一方で、その太陽から下賜された恵み(動物、自然)は人間にとっては支配の対象であるという思想が生まれます。このような思想を背景として、西洋庭園(但し、イギリス式庭園を除く。)は、人間(支配)と自然(被支配)とを明確に分離し、人間が支配し易いようにで庭園(自然)をシンメトリー(幾何学的でシンプルな空間)に加工することにより人工的・機能的な意味での完璧な美しさを追求するようになります(音楽における十二平均律も人間が音をコントロールし易いように人工的・機能的に1オクダーブを十二等分し、その十二音に収まらない自然音を切り捨てたのも同じ発想)。また、自然を支配の対象と捉えることから、庭園と建物は非連続的に設えられ、庭園は建物の“バルコニー”(天と地の間)から眺めるものとして造られたので、(自らを自然の一部として同化し同じ目線から庭園(自然)を愛でることを前提とした)3次元的な奥行きは必要なく、バルコニーから庭園を俯瞰(支配)し易いように2次元的な空間が好まれるようになります。因みに、ベートーヴェン交響曲第九番の第四楽章は、いかにも“バルコニー”的な音楽を気取って人間中心(優位)主義的な発想(思慮の浅い少女趣味的な理想)が濃厚に漂い、“バルコニー”にあがってこない者は去れと言い放っているあたりはどこかナチズムの片鱗すら伺わせる胡散臭さ(底の浅い理想が早々に行き詰まる破綻の予兆)が見え隠れしているようで、この酒盛りの歌を聴く度にシラーとした気分にさせられます。或いは、堕天使ガブリエルよろしく、「天上の音楽」(第三楽章)から一気に「俗世の音楽」(第四楽章)へと聴衆を叩き落とすことで人間の増長を戒める教訓音楽と悟るべきなのでしょうか?いずれにしても、どのような曲にも良さはあるもので、誰でも原語で歌えてしまうお手軽さがクラシック音楽を身近なものにしているという意味では、この曲も生けられないことはないのだろうと思います。毒花を生けてしまいましたが、些か毒が過ぎましたでしょうか...。

いけばなの根源池坊展「花の力」札幌花展丸井今井札幌本店で開催中。週末は映画「花戦さ」をご覧になった後、本物の花の力に触れて自分自身を生け直してみるのも一興かと。

閑話休題。先述のとおり、この映画の中で池坊専好が「花の中に仏がいたはる。宿る命の美しさを、生きとし生けるものの切なる営みを、伝える力がある。」と言っていますが、この言葉には仏教的な世界観と共に老荘思想にも通じる非常に奥深い哲学が感じられます。老子の言葉に「道常無為、而無不為」(道は常に何事もなさないが、それでいて全てを成し遂げている)というものがありますが、自然の営みは何も変化していないように見えてその実は長い時間の流れの中で絶えず変化を繰り返し、自ずと定まるべきところへ定まって全体との調和が保たれているという、生命の営み(生き様)の本質に触れる教えです。花のあるがままの姿には長い時間の流れの中で絶えず変化を繰り返して自然全体との調和を保っている姿、即ち、自然的な偶然の積み重ねが生み出すその存在の必然性が持つ力強さ(生命の輝き)が息づいており、その生命の営み(移ろい)の瞬間、瞬間の中に唯一無二(一期一会)の美しさを見出し、その瞬間を写し取って生かすことが花を生ける醍醐味ではないかと感じています。このような花本来の美しさに身を委ね、自分自身も自然の一部として同化し、その命の営み(移ろい)、息づかいに調和する(その花の命の営みに同化して自分自身の存在本質を問い直す)という精神的な営みが「花一輪に飼い馴らされる」ということではないかと感じています。このように華道には花の見た目の美しさの向こう側にある存在の本質(命の輝き)を感じ取る日本人の自然観や感受性が強烈に打ち出されており、それが西洋のフラワーアレンジメントとの圧倒的な違いになって現れているのではないかと思われます。池坊専好が花の力によって創作意欲を取り戻すシーン(生け花によって自らが活かされるシーン)ではこのようなことが象徴的に描かれていると思われ、非常に印象深く心に残っています。なお、この映画では千利休切腹する際に梅蕾をつけた枝が茶室に生けられていましたが、千利休切腹したのは新暦で4月21日のことであり、劇中でもよくこの時期に梅があったと驚かれています。この点、明治時代になって日本に渡来した「利休梅」というバラ科ヤナギザクラ属の花は、桜の花に遅れて、丁度、千利休の命日の頃に花を開くことから「利休梅」と名付けられ(...と言うことで「利休梅」は茶花としてよく利用されますが、千利休が愛した七種の花木「利休七選花」に含まれているという訳ではありません。)、また、千利休が愛用していた黒漆塗の棗の仕覆と伝わる裂「利休緞子」に施されている梅紋様のことも「利休梅」と言いますので、何やら心憎い演出意図が感じられます。梅の花言葉は「厳しい美しさ」や「忠実」ですが、最後まで茶人としての美意識に忠実であった千利休の生き様が生けられていているようで、感慨深いものがあります。そう言えば「利休梅」で思い出しましたが、「四十八茶百鼠」の中に千利休が好んで用いた色「利休鼠」(緑みがかった灰色)があります。「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる」という北原白秋の歌を思い出しますが、千利休切腹した日も豪雨だったそうなので「利休鼠の雨」が降っていたかもしれませんな。夏休みも近いことですし、果たして「専好花火」という気の利いたものがあるのかも調べておきたいと思います(笑)。


大河ドラマ「おんな城主 直虎」からオープニングの場面

最後に、池坊専好は専横を極める豊臣秀吉に「花戦さ」を挑むことを決意します。「花戦さ」と言っても、池坊専好が死を覚悟した真剣勝負という意味合いで、豊臣秀吉のように力で人の心を捻じ伏せるのではなく(即ち、剣術としての殺人剣と同じ)、生け花の美しさによって人の心を開かせること(即ち、武道としての活人剣と同じ)を本旨とした勝負です。池坊専好は、冒頭シーンで登場した菖蒲の花(河川敷で命尽きた名も無き民の花)や蓮の花(天才絵師無人斎が豊臣秀吉に猿の絵を献上して斬首されたことにより命を狙われることになった遺児れんの花)を生け、豊臣秀吉にどの花が美しいかと問い掛けますが、豊臣秀吉は見事な生け花を前にしてどの花もそれぞれに美しいと答えます。その答えを受けて、池坊専好千利休が金色の茶器にも黒楽茶碗にもそれぞれの美しさがあるということを秀吉に伝えたかったのだと諭します。そして、天才絵師無人斎が描いた三幅の掛け軸(猿猴図)を掛けさせますが、はじめは怒りに顔色を変えた豊臣秀吉池坊専好の生け花と三幅の掛け軸が織り成す生き生きとした世界に圧倒され、三幅の掛け軸に描かれた水墨画の猿の芸術的な価値に目覚め(即ち、豊臣秀吉が自分自身と向き合うことで)、自らの曇った心によってそれらの美しい花々を枯らせてきた治世の誤りに気付かされます。昔から愛嬌のある手長猿や山猿の水墨画狩野山雪長谷川等伯伊藤若忠等の絵師が好んで描き、劇中で天才絵師無人斎(実在した絵師か分かりませんが、武田信虎無人斎と号していたので“甲斐の山猿”に掛けられているとすると実にこってりとしたアイロニーです)が描いたとされる手長猿の水墨画のなかに「猿猴取月図」(猿が井戸に映った月を取ろうとして水におぼれるという故事)と似た構図のものがありますが、月までも我が物にしようとした猿と同様に豊臣秀吉の傲慢増長はやがて身を滅ぼすもとであるという諫めの意味が込められているようで、花戦さとは池坊専好の生け花の美しさに化体した千利休、天才絵師無人斎(豊臣秀吉によって歴史の闇に葬られた芸術家達の象徴)や名も無き民の心が豊臣秀吉の心を裸にし、その心を整えた(生けた)と言えるかもしれません。茶の湯ではなく生け花で豊臣秀吉の心を裸にするラストシーンは「芸は道に通じる」ということを思い起こさせます。最後に、豊臣秀吉に捕らえられた遺児れんが無事に解放され、池坊専好が河川敷で死者に手向けた花を指して「この花をええように書いたって」(専好)/「この花には毒があっても?」(れん)/「それでも花やろ」(専好)と語るシーンがありますが、華道はどんな花(人を含む万物)にもそれぞれの美しさがあり、そのような花(人を含む万物)の多様性とその調和が世の中に奥行きのある美しさや面白さを生むのであって、この世には生けられない花(人を含む万物)はないということを教えられているようです。当世流に言えば、ダイバーシティということになりましょうが、翻って自分の人生をどのように生けるのかは自分の心掛け次第とも言えるかもしれません。因みに、池坊専好と同時代を生きた井伊直虎の半生を描いた大河ドラマ「おんな城主 直虎」のオープニングでは弓矢に椿の花で応戦するシーンが登場しますが、このドラマも花の戦いがテーマになっていますので、どのような花の戦いが描かれるのか興味深いです。

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【上段】1枚目:頂法寺(六角堂)の山門。頂法寺(六角堂)聖徳太子が淡路島に漂着した如意輪観音像を祀るために建立されました。なお、聖徳太子推古天皇摂政でしたが、丁度、推古3年に同じく淡路島に香木が漂着し、後に香道が誕生することになります。2枚目:頂法寺(六角堂)の本堂(拝殿)と六角柳。3枚目:頂法寺(六角堂)の本堂(拝殿)。向かって右側に「華道発祥の地」という銘が刻まれていますが、遣隋使に派遣された小野妹子頂法寺(六角堂)聖徳太子の菩提を弔うにあたり、仏前に献花する大陸の風習に感化されて聖徳太子の墓前に花を供えたことが華道の始まりと言われています。4枚目:六角堂と池坊会館。頂法寺(六角堂)は「六根清浄を願う」(即ち、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲を捨て去って角を無くし、円満になる)という祈りを込めた形と言われています。5枚目:池坊御用達の老舗の刃物店「金高刃物老舗」。頂法寺(六角堂)と向かい合うように店を構えており、その小さいながら威風堂々たる佇まいに店主の心意気まで感じられるようです。
【下段】1枚目:太子堂聖徳太子沐浴の古跡。この池の隣に僧侶の部屋(坊)があったことから「池坊」と呼ばれるようになったそうです。2枚目:蓮花の立花モニュメント。何代か分かりませんが、池坊専好の立花モニュメントです。3枚目:水仙の立花モニュメント。二代目池坊専好の立花モニュメントです。4枚目:華道の奥義書「池坊専応口伝」(通称、花伝書)のモニュメント。この花伝書で「瓶に美しい花を挿すこと」と、池坊が伝える「よろしき面影をもととする」生け花との違いが説かれています。川端康成ノーベル文学賞受賞記念公演で、この花伝書を引用して“生け花は小さい瓶上に大きい自然を象徴するものである。「野山水辺をのづからなる姿」を花の心として、割れた器、枯れた枝にも“花”があり、そこに花による悟の種がある。”と説かれたそうですが、その“花”を感じ取り、それを生かすこと(よろしき面影)が花を生けるということ(生け花)であると述べられています。5枚目:へそ石。もう直、祇園祭の季節ですが、江戸時代までは祇園祭の山鉾巡業の順番を決めるための籤取り式が京都(洛中)の中心地(ヘソ)と言われていた六角堂で行われていたそうです。

最後に、この映画でも見事な作品が使われていますが、実際に、以下の方々の作品も観に行ってみたいと思います。

   http://www.ikenobo.jp/shodai-senko/

  • 劇中絵画を担当した小松美羽さんの作品

   http://miwa-komatsu.jp/

   http://www.k-shoko.org/
   http://kanazawa-shoko.jp/index.php

華道に因んでブログの枕の代わりに、ブログの尻尾を付け加えておきます。華道の始まりは小野妹子聖徳太子の菩提を弔うために出家して聖徳太子が創建した六角堂(頂法寺)の初代住職となったことに遡り、小野妹子が遣隋使として大陸に派遣された際に死者に献花する隋の風習に感銘を受けて六角堂の住職になってから聖徳太子の墓前に花を供えることを日課としたことに由来すると伝えられています。また、六角堂には聖徳太子が沐浴した池があり、その池の隣にあった小野妹子の住坊(僧侶の部屋)を「池坊」と呼んでいたことが池坊家の名前の由来になったと言われています。小野妹子の子孫は平安時代の初期までは公卿として中央政府で活躍していましたが、その後、藤原氏などが台頭してくると公卿に留まることができず、地方役人として全国各地に赴任し、そこに定住して武士になる者が多かったと言われており、大河ドラマ「おんな城主 直虎」井伊家家老の小野政次(高橋一生)小野妹子の子孫と言われています。大河ドラマ「おんな城主 直虎」には毎回と言って良いほど生け花がシンボリックに登場し、井伊直虎が家臣や領民など周囲の人間を見事に生けて行く名領主振りが見物のドラマになっていますが、奇しくも井伊直虎が奮戦する花の戦さを池坊の始祖である小野妹子の子孫が支えるという構図になり、この大河ドラマの考え抜かれたテーマ設定に脱糞です。視聴率が低迷しているという記事を目にしますが、安易に大衆迎合に走って作品の質を貶めないのがNHKの良いところであり、民放とは一線を画する存在意義があります。もう一人、小野妹子の子孫として忘れることができないのが小野小町です。小野小町能楽の題材として「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」など数多くの作品で扱われていますが、とりわけ「通小町」の題材にもなっている百夜通いの伝説が有名で、その約200年後、西行法師が東大寺再建のための砂金勧進奥州藤原氏に向かう途中で小野小町の所縁の里と伝わる千葉県東金市に立ち寄り、京都深草から持ってきた墨染桜の枝を植樹して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に すみぞめに咲け」と詠んだと言われています。それから約800年の時を経て深草少将の想いは絶えることなく今もなおこの墨染桜に美しい花を咲かせ、百夜を超えて千夜に亘り、その美しい花びらと共に深草少将の儚い恋心を小野小町のゆかりの地に運び続けています。西行法師の想いも込められたその墨染桜は現代の我々の心にも美しい花を咲かせ続けており、西行法師が百夜通いの伝説という器に生けた生け花の傑作と言っても過言ではないかと個人的には思っています。

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【上段】1枚目:欣浄寺京都市伏見区)境内の裏庭。この土地は深草少将義宣卿が桓武天皇から賜った邸宅跡で、この隣には謡曲や歌舞伎等でも有名な墨染寺があり、境内には墨染桜中村歌右衛門が寄進した墨染井があります。歌人の上野峯雄が友人の藤原基経の死を悼んで「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」と詠んだところ、この寺の桜がその心を感じて薄墨色に咲くようになったと言われています。2枚目:欣浄寺境内の裏庭にある「小町姿見の池」と「少将姿見の井戸」(涙の水)。昔、小野小町が深草少将の邸宅を訪れた際にその美しい姿を池の水に映して「おもかげの 変らで年の つもれかし よしや命に かぎりありとも」と詠んだと言われています。「少将姿見の井戸」(涙の水)は小野小町への想いを募らせる深草少将が自分の姿を井戸に映して切なさに涙した井戸と言われており、この井戸の水は今もなお涸れることがありません。「通う深草百夜の情け 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺」(西条八十)。3枚目:欣浄寺境内の裏庭に並んで立つ小野小町の塚と深草少将の塚。4枚目:隋心院(京都市山科区)の山門。小野小町が晩年に身を寄せた寺。夕暮れ時の紅色(暮れない色)に染まる山門はそこに刻み付けられてきた歴史と共に独特の風情を湛えています。随心院の境内には、卒塔婆小町坐像、文張地蔵尊像(小野小町作)、小町白描画、花小町(東野光生作)(以上、写真撮影不可)や小町榧の切り株小町榧の実(小町榧から採れた実)、小野小町歌碑、通小町碑など小町ゆかりの品々を拝見できます。
【下段】1枚目:隋心院の山門前にある「小野小町化粧の井」。ここに小野小町の屋敷があったと言われています。2枚目:随心院境内の裏庭にある「文塚」。小野小町が恋文の束を埋めた塚で、その中には深草少将の恋文も含まれていました。3枚目:随心院境内の裏庭にある「小町榧」。小野小町は求婚を迫る深草少将に「百夜通って契りを結ぶ」と約束します。深草少将は片道5km弱の道程(欣浄寺と随心院との間を結ぶ大岩街道(府道35号線)〜醍醐道)を通い、毎晩、小野小町の屋敷の門前に榧の実を1つづつ置いていきますが、99日目まで通い、いよいよ約束の100日目の晩に大雪の中で凍死してしまいます。それを知った小野小町は大変に悲しんで深草少将が通ってきた道すがらに榧の実を植えたと言われており、今もその一部が随心院の境内やその周囲(西浦の小町榧小野葛籠尻町の小町榧)に残されています。4枚目:西行法師が植樹した「墨染桜」(千葉県東金市)。西行法師は東大寺再建のための砂金勧進奥州藤原氏へ向かう途中に鎌倉の源頼朝に拝謁した後に山辺赤人小野小町のゆかりの地である千葉県東金市に立ち寄って、墨染寺に咲く墨染桜の枝を小町塚(小野小町が愛用していた機織りの「筬」(オサ)が埋められている塚)の向かいの丘陵に植樹して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に 墨染に咲け」と詠んでいます。今もなお西行法師が植樹した墨染桜は春になると花を咲かせ続けており、百夜を超えて千夜に亘り、桜の花びらと共に深草少将の儚い恋心を小野小町のもと(向かいの丘陵の小町塚)へと運び続けています。心より心に伝ふる花なれば...。

◆おまけ
映画「花戦さ」の中で、池坊専好が蓮の花の力を借りて遺児れんの心を活けるシーンに因んで、シューマンの歌曲「ミルテの花」(作品25)より「蓮の花」をアルト歌手の小川明子さんとご主人でピアニストの山田啓明さんの演奏でどうぞ。

花に因んだ曲をもう1曲。クープランの「クラヴサン曲集」第13組曲第1番「ユリの花ひらく」をどうぞ

◆おまけのおまけ
野村萬斎さんがメディア・アーティストの真鍋大度さんとの共同で創作した舞台「F●RM」の画像がアップされていたのでご紹介します。舞台に張り詰める気(エネルギー)の流れや型(フォルム)に込められた思想性をメディア・アートの技法を使ってイメージとして可視化し、そこに景色や趣きを生むことで、観客による精神世界の営みを覚醒しようという面白い試みです。既に完成されている三番叟にこのような演出を加えることは無益又は有害と苦言を呈する方もいらっしゃるかもしれませんが、千利休が言う「不足の美」(完成されているということは、そのこと自体が既に不完全である)のように、なおこの曲目の表現の可能性を探る試みはこの曲目の真価を見直し又は新たな発見を促すという意味でも有効な試みではないかと思います。華道の「よろしき面影」に導くという考え方に通じるものがあるかもしれません。