【配信主催】ヴァイオリニスト・和田絵里子さん【配信日時】3月30日 11時~3月31日 11時~4月 1日 11時~4月 2日 11時~
書籍「ダンスの時代」(若杉実著/リットーミュージック)
白人文化 | 黒人文化 | ||
音楽 | 場所 | 教会 演奏会場 |
Hush Harbor 酒場 |
種類 | 讃美歌 クラシック |
黒人霊歌 ジャズ |
|
ダンス | 場所 | 社交場 歌劇場 |
ストリート ダンスホール |
種類 | 社交ダンス バレエ(※) |
スイングダンス |
【音 楽】ヨーロッパの音楽+アフリカの音楽=ジャズ【ダンス】ヨーロッパのダンス+アフリカのダンス=スイングダンス
ロックンロール:社会の内部(中産階層)からのドロップアウトヒップホップ :社会の外部(貧困階層)からのドロップイン
~1940年代 | 1950年 ~1970年代 |
1970年 ~1980年代 |
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音楽 | ジャズ | ファンク R&B |
ヒップホップ |
ダンス | スイングダンス リンディホップ ジャズダンス etc. |
ディスコ ツイスト ゴーゴー etc. |
オールドスクール ブレイクダンス ホップダンス ロックダンス |
バップ革命を契機とする「ダンスを踊るための音楽」から「音楽に合わせて踊るダンス」への潮流スウィング白人ミュージシャンによりメロディーを中心にして装飾的に即興演奏する「分かり易いジャズ」へと変質⇩【バップ革命】この状況に不満を持った黒人ミュージシャンがジャム・セッション(その場に居合わせた即席メンバーで行う即興演奏)でテクニックの極限に挑戦し、複雑な音楽を創り出す演奏(「踊るための音楽」から「聴くための音楽」へ)⇩1940年代に黒人ミュージシャンによりメロディーではなくコード進行を中心にしてリズム、メロディーや和声を複雑に変化させながら自由に即興演奏する「分かり難いジャズ」へと変革(1990年代に複雑でテンポが早いビバップの音楽に合わせて踊るためにステップを中心としたビバップダンスが誕生。後年、聴くための音楽であるビバップの即興演奏とクラシック音楽の伝統を融合したジャズ・ピアニストのビル・エヴァンス等も登場)⇩【客離れ】ジャズの即興演奏が難解になるにつれて客に敬遠されて一時的に客離れ⇩ハードバップ(モダン・ジャズ)1950年代にアート・ブレイキーらによりコード進行を中心にして即興演奏しながら、ある程度、コード進行を犠牲にしてもメロディーに配慮した洗練された即興演奏を行う「バランスの取れたジャズ」へと揺り戻し(その後のフリー・ジャズへの流れ)
「ダンスを芸術として承継していくことよりも、スポーツのように競技化することで進化させていくことの方が若者の目を惹きつけやすい。ゲイカルチャーを起点としたコミュニティ文化を「保存」から「発展」へと移し変えなければ頭打ちは避けられない。」(若杉実さん/著書「ダンスの時代」より抜粋)
新年のご挨拶
漢書 律暦志に見る十二支の本当の意味
「子」:「増」を意味し、種子の状態
「丑」:「曲」を意味し、芽が曲がって地上に出ていない状態
「寅」:「伸」を意味し、草木が伸び始める状態
「卯」:「茂」を意味し、草木が地面を蔽うようになった状態
「辰」:「振」を意味し、草木の形が整った状態
「巳」:「止」を意味し、草木の成長が極限に達した状態
「午」:「終」を意味し、草木が衰えを見せ始めた状態
「未」:「昧」を意味し、果実が熟し切っていない状態
「申」:「味」を意味し、果実が完熟して渋味が出た状態
「酉」:「実」を意味し、果実を収穫できる状態
「戌」:「滅」を意味し、草木が枯れる状態
「亥」:「閉」を意味し、種に生命が宿っている状態
不安定な性質が生む多様性①グレープジュース果汁(糖質)⇒甘味☟②ワイン果汁(糖質)→分解(酵母)⇒アルコール・香り・コク等へ変化☟③ブランデー果汁(糖質)→分解(酵母)→蒸留⇒アルコール・風味等を凝縮※同じぶどう(原材料)を使いながら、片やグレープジュースは甘く、片やワインが甘くないのは、発酵の過程で酵母がぶどう(原材料)に含まれている糖質を殆ど分解してしまうため
神の規律である自然秩序(天然醸造、無調音楽等)は多様性の宝庫①麹の種類米味噌:塩味・酸味が強い(例、信州味噌)麦味噌:さっぱり甘い(例、薩摩味噌)豆味噌:コクとクセが出る(例、八丁味噌)✕②麹の量↑ ↑ ↑甘味 旨味 コク✕③麹と塩のバランス麹>塩=甘味、うま味が増す麹<塩=コクが増す✕④醸造方法
水木しげるロード | ||||
ネズミ男/今年の年男・ネズミ男 | 妖怪神社/ネズミ年に因んで妖怪神社へ初詣 | 境港駅前/この世とあの世の境 | 妖怪ブロンズ像/自分のブロンズ像が見つかるはず | ネコ娘/ネズミ男の天敵 |
世界妖怪会議/G20に対抗し妖怪の世界会議 | 妖怪のグローバル化/ネコ娘が温暖化問題で激怒 | 千代むすび酒造/目玉おやじがこよなく愛する地酒 | 妖怪バス/妖怪の世界にも自動運転が採り入れられる日が来るかも? |
今年の抱負⑤/ネズミ男のような人間になりなさないと仄めかされているようで考えさせられます |
映画「津軽のカマリ」
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- 作者: 下重暁子
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【正調民謡の店 甚太古】(2019年12月30日閉店予定)
囲炉裏のあるお座敷で青森の雪景と絶品の郷土料理を楽しみながら、高橋竹山の最初の弟子・西川洋子(竹宛)さんによる三味線の生演奏が聴ける店(青森県青森市安方1丁目6−16)
【参考】伝統音楽の失われた100年とその復興
(1)文明開花と文化主義による欧化政策
「音樂取調成績申報書」(1884年、音楽取調掛から文部卿へ提出)より抜粋
本邦俗曲ハ古来識者ノ為ニ放擲セラレ擧ケテ之ヲ無学ノ輩ノ手ニ委スルヨリ音樂ノ本旨ニ悖リ人事至底ノ用途ニ歸シ随テ野卑ニ流レ其歌曲ノ成立ハ今日最モ下流ノ極ニ達セリ是ヲ以テ其弊害勝テ言フベカラザルモノアリ試ニ其一二ヲ述ベンニ俗曲ノ淫奔猥褻ナルハ風教ノ酖毒ヲ為ス是其一也,俗曲ノ旋律淫風ヲ極ムルハ士人ノ趣味ヲ淫俟ニ導キ爲メニ雅正善良ナル音樂ノ振興ヲ妨害スル是其二也,俗曲ノ淫邪ナルハ誘惑ノ途ヲ開キ徳教ノ涵養ヲ妨害スル是其三也,外交日新ニ際シ彼此ノ文物相融通スルノ今日ニ在テナホ此ノ如キ音曲ノ盛ニ行ハルヽハ國家ノ体面ヲ毀損スル是其四也
☞ 音楽取調掛による日本音楽の分類: ①雅楽:天皇、寺社、武士が嗜む音楽(雅楽、声明、普化尺八等の宗教音楽、能楽、筑紫筝、薩摩琵琶等の教養音楽)、②俗楽:庶民が嗜む音楽(箏曲、長唄、三味線、浄瑠璃、民謡、流行歌、童謡等の大衆音楽) 、③淫楽:俗楽のうち三味線、浄瑠璃など男女の色恋沙汰を歌う音楽。
☞ 「俗曲」の例:江戸端唄「梅は咲いたか」は江戸時代に流行した俗謡で花柳界の芸妓達を季節の花や貝に喩えて浮名を流す客の浮気心を三味線の伴奏に乗せて艶っぽく歌うお座敷唄。季節の花や貝を隠語として男女関係の機微を匂わす小粋な歌詞や色香などを「淫奔猥褻」「淫風」「淫邪」と形容。
「音樂利害」(1891年、神津專三郎著)より抜粋
樂記ニ鄭衛ノ音ハ亂世ノ音ナリ,桑間,濮上ノ音ハ亡國ノ音ナリトハ,淫聲ニ世ヲ亂シ,國ヲ亡スノ理アルヲイヘリ,今ノ妓樂,三線,浄瑠璃ハ,遙ニ古ヘノ鄭衛,桑間,濮上ノ淫聲ニ過クベシ
☞ 「鄭衛」「桑間」「濮上」:春秋時代の中国の国名又は地名で、これらの国又は地域では儒教が理想とする礼の音楽ではなく男女の出会いなどを扱った謡が流行(「桑間濮上之音、亡國之音也」(礼記))。
☞ 「淫聲」:性行為のときに発する声☟ <文明開化に対する明治時代の文化人の批評> 夏目漱石は、文明開化の危さを「日本の現代の開化は外発的である」と看破したうえで「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」と批判し(「現代日本の開花」より)、「伝統音楽の失われた100年」とでも形容すべき悲劇を予見。<文化主義に対する昭和時代の文化人の批評> 三島由紀夫は、文化主義の危さを「市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧すること」と看破したうえで「文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向」と批判し、「近松も西鶴も芭蕉もいない昭和元禄」を「華美な風俗」ばかりが氾濫する「見せかけの文化尊重」だと悲観(「文化防衛論」より)。
「動物愛護及び管理に関する法律」(1999年、改正法)より抜粋
第44条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、二年以下の懲役又は二百万円以下の罰金に処する。(中略)
4 前三項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
一 牛、馬、豚、めん羊、山羊、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
☞ 三味線の胴に張ってある皮:野良猫の皮(細棹三味線、中棹三味線)、野良犬の皮(太棹三味線)の皮。
☞ 大鼓、小鼓に張ってある皮:馬の皮。
☞ 改正法の付帯決議:日本の伝統芸能に係る三味線等の製造に支障をきたさないよう、伝統文化の保護の行政とも連携して、都道府県等に引き取られ殺処分に付されている犬及びねこの活用などにおいて適切な配慮がなされるよう措置すること。(但し、現在では保健所で殺処分された野良猫や野良犬の皮の使用も中止。)☟ <動物愛護政策に対する平成時代の文化人の批評> 永六輔は、動物愛護法改正を受けて「古典芸能は、みんな三味線を使うじゃないですか。プラスチックで作ると、全然音が違う。日本の伝統芸能を守るためには、どうしても猫の皮が必要」と必要性を説いたうえで、「保健所が処分する野良猫は相当数にのぼっているのだから、矛盾」と許容性に関する問題を提起し、「僕は、「伝統芸能にかかわる三味線、太鼓、鼓など楽器の製造に使う場合は、これに当てはまらない」という付則をつけなさい、という運動をしています」と自らの立場を表明(「WEBサイト」より)。
☞ 現在は楽器に使用する皮の殆どを輸入に頼るか又は(音色は落ちますが)合成皮が使用されているのが実態。最近ではエレキ三味線など新しい表現スタイルに適した楽器の改良と併せてエレクトリック三味線など動物愛護に配慮した新しい楽器の開発も活発。その一方で、三味線の年間製造数は18,000棹(1970年)から3,400棹(2017年)まで落ち込み(全邦連)、三味線の製造技術の伝承が危機的な状況。
(2)グローバル化によるアイデンティティの回復
「教育課程審議会答申」(1998年7月29日)より抜粋
中学(音楽) 我が国の伝統的な音楽文化の良さに気付き、尊重しようとする態度を育成する観点から、和楽器などを活用した表現や鑑賞の活動を通して、我が国や郷土の伝統音楽を体験できるようにする。
☞ これを契機にして邦楽コンクールが開催されるようになり若い邦楽演奏者を育成する気運。それに伴って和楽器ユニットの活躍が活発化し、その活動が注目されるなど邦楽ブームの兆し。
信濃追分 | 高田瞽女 | 長岡瞽女 | ||
碓氷関所跡/碓氷峠の入り口にある安中藩の碓氷関所跡(群馬県安中市松井田町横川573)で、日本で最初のマラソン大会である安中藩の「遠足」を題材とした映画「サムライマラソン」の舞台。碓氷峠は片峠で上野国から信濃国へ向かう中山道は上り坂のみで、軽井沢バス転落事故の現場(長野県北佐久郡軽井沢町1045−1)。 | 信濃追分発祥の地碑/碓氷峠を越えた追分宿跡(分去れ(長野県北佐久郡軽井沢町大字追分559)の左方が中山道(至、滋賀県)、右方が北國街道(至、新潟県)、後方が中山道(至、東京都))にある信濃追分発祥の地碑(長野県北佐久郡軽井沢町大字追分1155−8)。碓氷峠を越える際に唄われた馬子唄が信濃追分節で、越後瞽女により津軽に伝わって津軽三味線を発祥する契機となっています。追分宿跡には枡形の茶屋と呼ばれる「つがるや」(長野県北佐久郡軽井沢町大字追分568)の歴史的建造物(ほぼ原型のまま現存)等があり。なお、左方の中山道方面へ行くと信州味噌(安養寺味噌)発祥の地である安養寺(長野県佐久市安原1687)があり、安養寺味噌(信州味噌)で作った安養寺ラーメン(麺匠文蔵本店)が名物。 | 高田瞽女・杉本シズの墓/善念寺(新潟県上越市東本町3-2-51) には、高田瞽女の墓が安置されています。高田瞽女は弟子を養子にして相伝されたので、同じ墓に杉本シズの師匠・杉本キクイ(無形文化財)を含む高田瞽女の先代3名の菩提も弔われています。 | 瞽女ミュージアム高田/善念寺の近くにある瞽女ミュージアム高田(新潟県上越市東本町1-2-33)では、高田瞽女の文化を保存し、現代に伝えています。2020年春に映画「瞽女GOZE」の公開も予定されています。 | 長岡瞽女・小林ハル(無形文化財)の墓/小林ハルさんが晩年を過ごした胎内やすらぎの家(新潟県胎内市熱田坂881−86)を背にして胎内フィッシングセンターを右手に見ながら道沿いに進むと左手の私設の墓地に小林ハルさんの墓があります(地図)。また、胎内やすらぎの家の敷地内には瞽女顕彰碑が建立されています。また、小林ハルさんの生涯を描いた映画「瞽女GOZE」が2020年春に公開予定であり、さらに、瞽女唄ネットワークが長岡瞽女唄を保存し、その伝承を支援するための取組みを行っています。 |
津軽三味線 | ||||
仁太坊之里碑/青森県五所川原市金木町神原の出身で、はぐれ越後瞽女の後に付いて三味線を学んで津軽三味線を創始者した仁太坊(本名、秋元仁太郎・1857年(安政4年)~1928年(昭和3年)の生誕地で、津軽三味線発祥の地(青森県五所川原市金木町神原桜元29)になります。この近くには津軽三味線会館(青森県五所川原市金木町朝日山189-3)があり、その向かいには同地が生誕地である太宰治のミュージアムがあります(映画「太宰治」が現在公開中)。 | 仁太坊生誕150周年記念碑/仁太坊生誕150周年祈念碑(青森県五所川原市金木町神原小泉126ー77)。仁太坊ははぐれ越後瞽女に影響を受けながら津軽三味線に特徴である「叩き奏法」を編み出します。 | 津軽三味線発祥之地碑/文豪・太宰治は青森県五所川原市金木町の出身で、 |
三味線塚/津軽三味線の祖・仁太坊を顕彰した三味線塚(青森県五所川原市金木町川倉七夕野426−1)です。現在、津軽三味線の名人・高橋竹山の半生を描いた映画「津軽のマガリ」が上映されています。 |
高橋竹山顕彰碑/津軽三味線の名人・高橋竹山は青森県平内町小湊の出身で、平内町歴史民俗資料館(青森県弘前市西茂森1-23-8)には高橋竹山顕彰碑が建立されています。現在、高橋竹山の半生を描いた映画「津軽のカマリ」が公開されていますが、その音楽(演奏)の“凄さ”に圧倒されます。なお、現在、民族資料館では「初代高橋竹山資料展示」が行われ、実際に高橋竹山が使用されていた三味線や尺八等が展示されています。 |
映画「レディ・マエストロ」
①本選の演奏において譜面通りに演奏されないことが起こり得る。②譜面審査の点数と、演奏を聴いての点数に開きが出る場合がある。③作曲部門の本選に残った作品を全曲演奏すると、指揮者、オーケストラや演奏団体の起用、パート譜の作成等、膨大な費用がかかる。
①昇魂之碑(御巣鷹の尾根)(群馬県多野郡上野村楢原323−8) ②慰霊の園(群馬県多野郡上野村楢原2218) ③祈りの碑(長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢1046-5) |
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【①昇魂之碑駐車場(御巣鷹山の登山道入口)】 楢原郵便局から昇魂之碑駐車場までは神流川沿いの舗装道を南下して車で約20分。昇魂之碑駐車場から昇魂之碑までは徒歩で約800m。御巣鷹山の登山道が整備されていますので、緩やかに続く階段をゆっくり登って片道20分程度です。 |
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【①すげの沢のささやき】 当時、米国・国家運輸安全委員会委員長・ジム・バーネット氏の言葉がすげの沢のささやきとして刻まれています。昭和から平成、令和へと時代は移ろいますが、この言葉は決して事故のことを風化させてはいけないという思いを強くします。"It is my hope that the memories of those who died on that mountain side and every other crush site across seven continents will forever water our efforts to prevent these things from happening." |
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【①昇魂之碑】 昇魂之碑の裏側にある救助活動の起点(墜落地点)となったバツ岩、昇魂之碑の表側にあるバツ岩と向かい合う位置にある峰に日本航空123便の機体後部が接触したU字溝が未だに当時の傷跡を残しています。また、バツ岩の裏側には操縦士3名の墓があります。バツ岩の近くにある沈黙の木は事故の爪痕を現代に残し、その周辺には御巣鷹茜観音と慰霊碑、遺品埋設場所などがあります。このような事故を繰り返さないためにも、決して事故のことを風化させてはならないと思います。 |
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【①すげの沢】 この場所で4名の生存者の方が発見されています。なお、御巣鷹の尾根には犠牲者の方が発見された場所にその方の墓碑が建立されていますが、その場所はご家族の方の想いが詰められたご家族のための特別な場所であり、また、ご家族の方は新しい生活を営まれていますので、そのプライバシーに最大限配慮する趣旨から、敢えて、その墓碑の写真は掲載しておりません。なお、すべての犠牲者の墓碑をゆっくり歩いて巡ると一周約1時間30分です。 |
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【②慰霊の園】 慰霊の園には両手で合掌している形を象ったモニュメントが建てられていますが、合掌の隙間から直線で約10kmの先に昇魂之碑があります。当時の救出活動の記録等が展示されている資料館もありますので、こちらにも立ち寄られることをお勧め致します。現在も続く地元の方々の献身的なご努力には頭が下がります。 |
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【③祈りの碑】 昇魂之碑の近くに軽井沢スキーバス転落事故の現場があり、そこに軽井沢スキーバス転落事故、JR福知山線脱線事故や笹子トンネル天井板落下事故の犠牲者のご家族らが事故の風化防止と交通安全を願って祈りの碑を建立されています。なお、JR福知山線脱線事故では日本航空123便墜落事故で御尊父を亡くされた歯科医師の方が検視で協力され、その実話が「尾根のかなたに~父と息子の日航機墜落事故」というドラマになっています。また、笹子トンネル天井板落下事故の犠牲者のご家族による悲痛な訴えがあります。著作権の使用許諾を得ているのだろうと思いますが、その前提で、この訴えは重く受け止めなければならないと思いますのでリンクしておきます(注)。 |
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【主要な外国人の女性指揮者】
シモーネ・ヤング:世界で初めて女性指揮者としてウィーン国立歌劇場及びウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、世界のメジャー・オーケストラや歌劇場で指揮する華々しいキャリアの持ち主。現代の女性指揮者の中では傑出した存在。
マリン・オールソップ:小澤征爾さんの弟子で、ボルティモア交響楽団の首席指揮者。小澤征爾さんの弟子には将来有望な若手指揮者が数多く育っており楽しみです。
カリーナ・カネラキス:ショルティ指揮者コンクールに優勝。ベルリン放送交響楽団の首席客演指揮者、オランダ放送フィルの首席指揮者。
ミルガ・グラジニーテ=ティーラ:バーミンガム市交響楽団の音楽監督。
ヨウ・エイシ(葉詠詩):香港小交響楽団の音楽総監督。
アロンドラ・デ・ラ・パーラ:クイーンズランド交響楽団の首席指揮者。
ソン・シヨン:京畿フィルハーモニックオーケストラの芸術監督兼常任指揮者。
アヌ・タリ:サラソタオーケストラの音楽監督
ナタリー・シュトゥッツマン:オルフェオ55の芸術監督
シャン・ジャン:世界で初めて女性指揮者としてニュージャージ交響楽団の音楽監督。
ジョアン・ファレッタ:バッファロー・フィルとヴァージニア交響楽団の音楽監督。
スザンナ・マルッキ:ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者。
イヴ・クウェラー:オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨークの桂冠指揮者(元音楽監督)。
ベアトリーチェ・ヴェネツィ:オーケストラ・スカルラッティ・ヤングの首席指揮者、プッチーニ音楽祭首席客演指揮者、アルメニア国立交響楽団の副指揮者。
シーヨン・ソン:サー・ゲオルグ・ショルティ国際指揮者コンクールで優勝。ソウルフィルハーモニー交響楽団のアソシエイト・コンダクター。
アグニェシュカ・ドゥチマル:ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者コンクールで名誉賞を受賞。世界で初めて女性指揮者としてスカラ座に登壇。
クレール・ジボー:世界で初めて女性指揮者としてミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮。
エマニュエル・アイム:古楽系指揮者、チェンバロ奏者。バロックアンサンブル”Le Concert d'Astrée”を結成して指揮活動を開始、最近ではベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して話題に。
【主要な日本人の女性指揮者】
松尾葉子:小澤征爾さんの弟子で、ブザンソン指揮者コンクールで女性初の優勝。セントラル愛知交響楽団の特別客演指揮者。
西本智美:イルミナートフィルハーモニーオーケストラの芸術監督兼首席指揮者、ロイヤルチェンバーオーケストラの音楽監督兼首席指揮者。
新田ユリ:愛知室内オーケストラの常任指揮者。
田中祐子:オーケストラ・アンサンブル金沢の常任指揮者。
三ツ橋敬子:小澤征爾さんの弟子で、アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで女性初の優勝、アルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで第2位。
齋藤友香理:小澤征爾さんの弟子で、ブザンソン国際指揮者コンクールで観客とオーケストラが選ぶ最優秀賞。
石﨑真弥奈:ニーノ・ロータ国際指揮者コンクールで優勝(聴衆賞)。
沖澤のどか:ブザンソン指揮者コンクールで優勝、東京国際音楽コンクールで女性初の優勝。
富田淳子:陸上自衛隊第14音楽隊1等陸尉、自衛隊初の女性指揮者。
【その他】
アルベナ・ダナイロー:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で女性初のコンサートマスター(VPOの楽団員は1990年までドイツ系オーストリア人又は旧ハプスブルク帝国支配地域出身の男性で占められていましたが、1997年から女性楽団員を採用し始め、現在では楽団員の約10%が女性楽団員になっています。)
新年の挨拶
謹賀新年。久しぶりのブログ更新になります。昨年は、人生の「節目」を迎えて、この機会に自分の先祖について調べてみたいと思い立ち、暫く先祖の調査に専念しておりました。今年の干支は「亥」(猪)。人間が食糧を安定的に確保するために野生の「猪」を家畜として飼うようになり「豚」が誕生したと言われていますので、「猪」は「豚」の先祖ということになりますが(どんなに「社畜」として飼い慣らされても「猪」に肖って心の牙はなくさないように心掛けたいものですが....)、我が家は楠木正遠の末裔として観世家と同根同租の間柄にあり大変に名誉なことであると感じています。先祖の事績が風化してしまわないように書籍に纏めて自費出版(非売)し、国立国会図書館へ献本したいと目論んでいます。今回、自分の先祖の調べてみて、各々の先祖が時代の転換期に信念を貫いて誇り高く生きた生き様に触れるにつけ、果たして自分はそれらの先祖に恥じない生き方ができているのかと背筋を正される思いがすると共に、より明確に自分の人生の視座のようなものが定まり、これまでに増して人生の意義深さを感じられるようになりました。年始を迎えて、家族や親戚と共有する時間が増える時期だと思いますが、平成最後の年という時代の「節目」にあたり一年の計に自分の先祖について調べるという目標を追加されてみるのも良いかもしれません。
- 作者: 丸山学
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今年は平成最後の年賀状になりますが、インターネットの普及や新暦移行に伴う年賀の形骸化(一昨昨年の年始のブログ記事)等に伴って2019年分の年賀葉書の発行枚数は2004年から約40%も減少しており、また、小学生の基礎学力調査でも年賀状のどこに自分と相手の氏名や住所を書くのか分からない生徒が半数に上るそうなので、急速に年賀状が廃れて来ています。日本では奈良時代から「年始の挨拶回り」の習慣が生まれ、平安時代には公家の年中行事として定着します。丁度、この頃、中国の唐の勢力が衰えて遣唐使が下火になり、これに伴って中国から渡来した難解な「漢字」とは別に平易な「仮名」が誕生、普及して日本独自の文化(物語、和歌や書道等)が華開き、これらの文化が公家や武家ばかりでなく身分の低い庶民にも浸透したことで寺社等における「仮名」教育が活発化してキリスト教宣教師が驚くほどの識字率を誇る国になりました。(これにより日本では公式の記録に留まらず、身分の上下を問わず様々なことが手紙、日記や落書等の文字で記録され、それが大量の古文書等として後世に残されたことで自分の先祖を調べる際の大きな手掛りとなっています。閑話休題。)このような時代背景を受けて、平安時代の学者・藤原明衡(約950年前)は日本最古の手紙文例集「明衡往来」を著し、この中で年始の挨拶文例として「春始御悦向貴方先祝申候」(直訳:春の始めの御悦び、貴方に向かってまず祝い申し候)を紹介していることから(現存する日本最古の年賀状)、平安時代には年賀状の先祖と言える年始の挨拶文を認めた「手紙」のやりとりがあったものと思われます。その後、鎌倉時代には習字や読本の初級教科書として使用された「庭訓往来」が広く普及し、また、江戸時代には飛脚制度(江戸時代の通信革命)が整備、充実されたことに伴って下級武士や商人等の間にも遠方の親戚や知人に宛て年始の挨拶文を認めた「手紙」をやりとり風習が浸透しました。
年賀状の先祖(現存する日本最古の年賀状)
【原文】
【意訳】
初春の慶びをお祝い申し上げますと共に、貴殿の益々のご多幸をお祈り申し上げます。
年が明けて直ぐに年始の挨拶を申し上げるべきでしたが、折しも子の日の遊びにあたり、皆さんから野遊びに誘われて心ならずも年始の挨拶が遅くなってしまいました。
さながら軒の梅を心待ちにしている鴬が人家の暖かさに惹かれてその蕾が開きかけているのを忘れているような、あるいは、庭園の胡蝶が春陽の移ろいも知らないで日影で遊んでいるようなものなので、全くもって本意ではございません。
ところで、楊弓・雀小弓の試合、笠懸・小串の会、草鹿・円物の遊び、三々九・手挟・八的等の音楽会を近く開催致します。弓馬の達者な方をお誘い合わせのうえ、お越し頂ければ幸いです。
心に思うことは多いのですが、拙筆なので手紙には認めず、今度、お会いする機会に申し上げることに致します。
謹言
1月5日 藤原左衛門尉
石見守 殿
殺風景な冬景色から百花繚乱の麗らかな春の到来を寿ぐ筆者の華やいだ気持ちが伝わってくるような季節感の漂う芽出度い正月の挨拶文です。電子メールの同報通信で「あけおめ」等と正月早々から軽口を叩き、ぐうたら寝正月を想起させるような当世流の挨拶文とは大違いです。いくら通信の手段(技術)が発達しても通信の内容(心、即ち、伝達される情報の質や言葉に含まれている情報の量)が空疎になる一方では日本文化は昔と比べて退化していると揶揄されても仕方がありません。
その後、明治維新を経て年始の挨拶が「手紙」ではなく「葉書」で送られるようになりますが、これは1869年にオーストリア・ハンガリー帝国で「手紙」より安価な通信手段として発明された世界初の「ポストカード」を郵便の父・前島密が「葉書」と命名して日本にも導入したことに端を発しています。日本では既に戦国時代にはモチノキ科の常緑広葉樹「多羅葉(たらよう)」の葉の裏に爪や枝で文字を刻んだものが簡易な通信手段として利用されていたそうですが(古代インドでブッダの教えを多羅樹(たらじゅ)の葉に刻んで伝承していたことに由来し、日本における葉書の先祖とも言えるもの)、これと「ポストカード」が類似していることから“葉に書く”で「葉書」と命名されたそうです。平成9年に多羅葉は郵便局のシンボルツリーに指定され、全国各地の郵便局では多羅葉を植栽しているところが多く(例、東京中央郵便局)、現在でも多羅葉の葉の裏に宛先を明記して定型外の郵便切手を貼れば配達してくれます。なお、日本の自然信仰の原点である熊野本宮本社の境内には御神木「多羅葉」が植樹され、その横に神の遣いとされる八咫烏(神託を伝えるという意味で「葉書」の由来と同じ)のポストが設置されていますが、熊野本宮創建2050年の「節目」を迎えた記念として2018年12月31日までにこのポストに投函された葉書には八咫烏消印が押印されるというので、初詣がてら熊野詣と洒落込みました。 因みに、八咫烏はサッカー日本代表のエンブレムとしてもお馴染みです。古代ギリシャや古代ローマでは紀元前200年頃には足でボールを蹴る遊戯が発明されていたそうですが、日本では飛鳥時代に中国から伝来した蹴鞠(けまり)が平安時代になると宮廷貴族の遊戯として流行し、当時の蹴鞠の名人で「蹴聖」と言われた藤原成道は蹴鞠上達祈願のために50回以上も熊野詣をし、熊野本宮の大神の前で「うしろ鞠」の名技を奉納したという記録が残されていますので(「古今著聞集」より)、日本のプロ・サッカー選手の先祖は藤原成道(約850年前)と言えそうです。そのため、サッカー日本代表の選手や日本サッカー協会の関係者、全国のサッカーファン等がW杯の必勝祈願やサッカーの上達祈願のために熊野本宮大社へ参詣しています。
ところで、熊野本宮本社の近くには、映画「海難1890」の舞台となった船甲羅岩礁(和歌山県串本町)があります。1874年に第一次世界大戦の原因となった普仏戦争に勝利して成立したドイツ帝国が中心となって万国郵便連合が結成されたことで国際郵便制度が整備され、その結果、国際的な通信・物流革命が実現しました。このような国際情勢のなか、1889年にオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号は明治天皇宛ての親書を携えた親善使節団を乗せて日本へ来航しますが、その帰路に台風で船甲羅岩礁に座礁して沈没し、地域住民の決死の救出活動により乗組員69名が救出され、残る578名が死亡するという大海難事故が発生しました。それから約100年後の1985年に勃発したイラン・イラク戦争に巻き込まれたテヘラン駐在の日本人は(日本政府が自国民の救出に躊躇する一方で)トルコ共和国の厚意によって無事に救出されました(テヘラン邦人救出事件)。エルトゥールル号遭難事件はオスマン帝国の元首から大日本帝国の元首への親書(手紙)を契機として発生した悲劇ですが、1通の手紙が人の運命を変え、歴史を作る力を持ち、それらが様々な物語や歌として語り、歌い継がれてきています。「先義後利」(孟子)という言葉がありますが、果たして自分は利得に心を曇らせて信義に惑うことなく、たとえどのような状況にあっても他人(又は社会)に対して誠実に尽くすことができる「真実な方達」(映画「雨あがる」より)たり得ているのかということが心に掛かる今日この頃です。因みに、先日、アメリカは万国郵便連合からの離脱を表明しましたが、これは万国郵便連合によってアメリカが中国からの輸入荷物をアメリカ国内で無料配達しなければならない義務(発展途上国への優遇措置)を課されおり、それがアメリカ国内の流通業者の負担になっていることを忌避するものです。トランプ・ショック(アメリカ・ファーストに象徴される保護主義的な傾向)を非難することは簡単ですが、中国の台頭が目覚ましく国際社会の勢力地図が塗り替えられようとしているなか、そろそろアメリカが国際社会のリーダーとして余計に負担してきたコストを見直す時期に来ているのかもしれません。(イギリスのEU脱退もイギリスが余計に負担を強いられることなどを巡る問題という意味では同じ文脈です。)
さて、「節目」と言えば、昨年は明治維新150周年及び第一世界大戦終戦100周年の節目にあたり、また、今年は実用化フェーズに入ったAI技術の本格的な普及(例えば、自動運転や無人小売店舗等の商用化と、それらを支える通信の大容量・高速化やキャッシュレス化等の社会インフラの整備など)により新たな時代の転換期(産業革命は人類を「重労働」から解放し、AI革命は人類を「労働」そのものから解放するイノベーション)を迎えようとしていますが、これらに伴って社会の価値観が大きく変化(パラダイムシフト)しようとしています。このような時代の転換期を迎えて、巷では人類の歴史を大きなトレンドとして俯瞰し、将来の変化を見通そうとする試みが持て囃され、時代を写す鏡である「芸術」(その創作と受容)の分野についても、過去にどのように変容してきたのかを俯瞰し、それを手掛りにして現代の「芸術」の意義を読み解こうとする映画や書籍等が次々とリリースされています。先日も、NHK-BS1で『映像の世紀プレミアム 第1集「世界を震わせた芸術家たち」』やクラシカジャパンで『楽しく分かる音楽の歴史Vol.4「20世紀以降」』と題する番組が放映されていましたが、第一次世界大戦によって近世的な社会体制や価値観等が破壊されたことで「芸術」も大きく変容し、その後、第二次世界大戦と冷戦を経て「平成」(「内平外成」(史記)や「知平天成」(書経)に由来)という言葉を体現するようにグローバリゼーション(交通と通信の革命による人、物、金、情報のダイナミックな流通)が急速に進展したことで「芸術」が更に大きく変容しようとしている状況が記録映像と共に紹介されていました。そこで、時代の転換期にある年の始めにあたり、現代音楽を含むアヴァンギャルド芸術が市民権を得つつある現状を踏まえて、「芸術」の来し方行く末について考えてみたいと思います。なお、本当は現代社会との関係性(とりわけ科学技術の進展)を踏まえつつボーダレス及びジャンルレスに幅広い「芸術」(全世界の音楽、舞踊、絵画、文学、芸道等)を俯瞰しなければ、多種多様に変容し、それ故に難解になっている現代の「芸術」の意義を読み解くことは難しいと思いますが、僕のような素人には手に余るテーマなので(また、未だ専門教育機関等でもそのような広範多岐に亘る分野を網羅するカリキュラム、とりわけ中近東やアフリカまで漏れなく射程としているものは殆ど存在しないようなので)、非常に歯がゆく口惜しい限りですが、今回は「芸術」のうち「音楽」、さらに、その「音楽」のうちでも上記のテレビ番組で採り上げられていたヨーロッパの「クラシック音楽」(近世までの調性音楽)の崩壊と20世紀以降の「前衛音楽」(近代以降の無調音楽)の誕生(但し21世紀の混沌状態を除く)というごくごく限られた狭い分野について簡単に概観するに留めたいと思います。
変革の時代にあって「知識」よりも「視点」(物の見方)を整理した方が刻々と移ろう時代を見通すための応用につながると思いますので、例えば、国民楽派5人組や新ウィーン楽派3人組(who、when、where、what)等の教科書的な知識を追うのではなく(それらを詳説したWebサイトや書籍は巷に多く溢れていますので)、過去の時代の変容(trend)を機軸として、それに伴って音楽がどのように変容してきたのか(why、how)を大掴みにすることで、自分なりに時代との関係性の中で前衛音楽の意義を把握するように努め、それを手掛りとして聴衆の立場から前衛音楽へのアプローチの仕方(但し、方法論のような本格的なものではなく漠然としたもの)を考えてみたいと思います。「クラシック音楽」(近世までの調性音楽)と異なって「前衛音楽」(近代以降の無調音楽)は人間の感情に根差さず、物語性など音楽的な文脈を持たず、また、耳慣れない複雑な語法や音響が使用されているなど見通しの効き難いものが多いので、一体、何を手掛りに音楽に寄り添えば良いのか途方に暮れることが少なくないですが、多様な前衛音楽についてそれぞれの「時代」背景との関係性の中から表現の意義を見出すことで、そこで何が考えられ、行われているのかを自分なりに理解する手掛りとすることができるのではないかと考えています。現代の大衆消費社会ではSNSの「いいね!」に象徴されるように人間の刹那的な欲求を手っ取り早く満たすことができる(即ち、消費行動に結び付き易い)ラブリー&イージーなものばかりが持て囃される風潮が根強く、それ故に却って調性という麻薬が中毒症(但し、それは音楽の可能性を狭めてしまう副作用)を持ち易い環境にあると言えるかもしれませんが、いつまでも安易に流されて「クラシック音楽」(近世までの調性音楽)を消費しているだけの状態に留まっているようでは、いずれ時代の変革に伴って音楽的な欲求を十分に満すことができなくなるのではないかとも感じています。その意味で、遅ればせながら、今年は自分の中で音楽のパラダイムをシフトしてみたいと企図しています。
昨年で終戦100周年の「節目」を迎えた第一次世界大戦を契機として「クラシック音楽」から「前衛音楽」に至る音楽の変容を大雑把に俯瞰するにあたり、近世から近代に亘ってルネサンス音楽(旋法音楽)~バロック音楽(調性音楽の確立期)~古典派音楽(調性音楽の発展期)~ロマン派音楽(調性音楽の爛熟期)へと至る音楽の変容を時代(社会の価値観や体制)の変容と共に大掴み(....なので楽器の進化や受容環境の変化が音楽の創作に与えた影響等の諸要素は思い切って割愛)しておきたいと思います。なお、何でも物事を二項対立の図式に単純化して捉える危険性は十分に認識していますが、残念ながら人間の脳は正確な対象(即ち、物事を緻密に分ける(=分かる)ための属性を多く備えた複雑な対象)から「視点」(物の見方)を抽出できるほど有能にはできていませんので、敢えて二項対立の図式に単純化して捉え直してみるということも必要ではないかと思います。この点、本来、時代は色々な要素が絡み合いながら行きつ戻りつマダラ模様に展開して行くものなので定規で線を引いたように綺麗に整理することはできませんが、上述の理由から何を基軸に整理するのかによって多少は時代認識の先後などがありますのでご了見下さい。
①ルネサンス(近世):中世的な価値観からの解放(ルネサンス音楽~バロック音楽:旋法音楽の崩壊と調性音楽の萌芽)
宗教改革により主権が教会から国王へ移行すると、ローマ・カトリック時代のキリスト教的な価値観(肉体的な本能から生じる欲望を抑制し、肉体より精神性を重んじる価値観=神聖性)から解放されて古代ギリシャ時代のギリシャ神話的な価値観(肉体的な本能から生じる欲望を肯定し、精神と肉体のバランスを重んじる価値観=人間性)を見直す方向にパラダイムシフトします。このような時代の変容を受け、絶対王政に基づく封建制の重層的な社会体制を背景として複雑なポリフォニー(複数の独立した声部が重層的に絡み合う音楽)による秩序(決して交わらない絶対的な身分関係により規律される社会)だてられた均整のとれた美しさが持て囃されるルネサンス音楽(旋法音楽)から徐々に人間性に富むドラマチックな表現が可能な独唱形式(モノフォニーの萌芽)を採用するバロック音楽(調性音楽)へと移行して行きました。バロック音楽と古典派音楽の端境期に活躍した宮廷音楽家のハイドン(イギリス)は、自らの創作意欲に忠実であること(芸術家気質)よりも、自らのパトロンである王侯貴族の趣味に合わせた音楽を量産すること(職人気質)に創作活動の主眼が置かれ、その結果として108曲もの交響曲が創作されることになりました。
②市民革命・産業革命(近代前半):近世的な価値観からの解放(古典派音楽~前期ロマン派音楽:調性音楽の発展とその爛熟)
市民革命により主権が国王から市民へ移行すると、ギリシャ神話的な価値観がより一層重視されるようになります。絶対王政に基づく封建的な社会体制から市民の自由や平等が確立された社会体制を背景として一般市民にも親しみ易い単純なモノフォニーによる美しい響きの調和(平等な人間が相互に交わり合いながら協調する単層的な社会)を求める古典派音楽(明快な和声による調性音楽)が隆盛となり、やがて近代市民社会の定着により社会が複雑化するにつれて人間の感情をより豊かに表現するための個性的な響きが求められるロマン派音楽(複雑な和声による調性音楽)へと進化します。古典派音楽とロマン派音楽の端境期に活躍したベートーヴェン(ドイツ)は宮廷から解放されたフリーランスとして作曲活動を行ったことにより、注文主の趣味に合わせた音楽を創作するのではなく、自らの創作意欲に忠実であること(芸術家気質)に創作活動の主観が置かれ、その結果として9曲しか交響曲が創作されていません。
③帝国主義・世界大戦(近代後半):近代的な価値観の破綻(後期ロマン派音楽~調性音楽の崩壊と前衛音楽の萌芽)
産業革命を経て資本の独占が進む一方で、都市部に集中した労働者は過酷な労働条件下で搾取されて貧困を強いられるという社会の歪み(個人レベルでの格差)が深刻化し、自由で平等な市民社会の理想が破綻を来します。また、大量生産される商品の消費市場と生産資源を確保するために、資本家と国家権力が結び付いて軍事力を背景とした植民地政策(帝国主義)(国家レベルでの格差)が本格化します。このような近代社会の矛盾が露呈するのと併せて、中心となる音(資本家、帝国主義の宗主国)との関係で他の音(労働者、帝国主義の従属国)が規律、構成される調性音楽(合理的な秩序)による理想的な美(平等な人間が相互に交わり合いながら協調する社会の調和)を表現するだけではその時代を上手く表現できないという行き詰りを見せ、その行き詰りを打開するために中心となる音(資本家、帝国主義の宗主国)によって規律、構成される調性からの解放を目指して新しい世界を表現するための音楽の模索が始まります。後期ロマン派音楽と前衛音楽の端境期に活躍したワーグナー(ドイツ)は半音階的転調により調性の内側から調性(中心となる音)を崩すことで音楽を調性から解放することで新しい世界を表現するための音楽(トリスタン和音)を模索します。また、これと同時期にドビュッシー(フランス)は旋法音楽等を使って調性の外側から調性(中心となる音)を崩すことで音楽を調性から解放することで新しい世界を表現するための音楽(印象主義音楽)を模索します。
<調性音楽の特徴:縦の主従関係による秩序>
音の関係 | 特徴的な傾向 |
音の縦関係(音の色彩) | 【制約:和声等】 和声や対位法に規律され、主題に対する関係で伴奏や対旋律は制約度が高い。 |
音の横関係(音の運動) | 【自由】 和声や対位法に規律されず、主題は比較的に自由度が高い。 |
ナショナリズムと音楽
市民革命により絶対王政や宗教権威の秩序(束縛)から解放されて市民が自由と平等を手にする一方で、産業革命によって工場がある都市部へ人口が集中して市民が大衆化すると市民の間に一体感のようなものが生まれて個人主義から集団主義へと市民の意識が変化していき、やがて第一次世界大戦の勃発により危機的な状況に陥るとその傾向に拍車がかかります。このような社会の変容を受け、市民(個人)を全体(集団)へと統合するための音楽としてベートーヴェンの交響曲第9番等が政治利用されます。ベートーヴェンの交響曲第9番は第三楽章で天上の音楽(王侯貴族や教会の音楽)を奏でた後に、我らが理想とする音楽(世界)はこのような権威的又は禁欲的な音楽(世界)ではないと否定して第四楽章の世俗の音楽(良き市民の集いと酒盛りの歌の熱狂を思わせる大衆の音楽)へと突入します(そのためなのか第四楽章の合唱は誰でも歌い易いように作られています)が、良き市民の集いとその陶酔的な熱狂(歓喜)はナチスドイツを生むという苦い教訓を人類に残す結果となり、現代ではベートーヴェンの交響曲第9番は耳障りの良い言葉を無批判、無責任に受け入れる良き市民の集い(感傷的なムード)が陥り易い愚衆性や偽善性を省みるための戒めの音楽(年末に煩悩を祓う除夜の鐘の如きもの)としても機能しています。
その後、植民地政策(帝国主義)は、これに先行していたイギリス、フランス、ロシア(三国協定)とこれに出遅れていたドイツ、オーストリア、イタリア(三国同盟)の間で利害衝突(帝国レベルでの格差)を生じ、これが契機となり第一次世界大戦が勃発してロシア、ドイツ、オーストリア及びオスマンの四大帝国とブルジョア文化(貧富の格差の象徴であった社交場を含む)など近世的な社会体制の一部が破壊されます。これに伴って王侯貴族(特権階級)やブルジョアジー(有産階級)など階級社会が支援し、受容してきた調性音楽(クラシック音楽)も終焉を迎えます。やがて第一次世界大戦で植民地(市場)を失った敗戦国のドイツ及びイタリアや十分な植民地(資源)を持っていなかった後発国の日本の経済的な行き詰りから再び植民地政策を積極的に展開したことで第一次世界大戦の戦勝国との間で利害衝突を生じ、第二次世界大戦が勃発して帝国主義など近世的な社会体制が完全に破壊されます。これにより産業革命の副産物である植民地政策(帝国主義)とこれを原因として発生した2度の世界大戦に対する反省から、国家が「平等」に富を分配すること(人工秩序)によってバランスする社会を理想とする社会主義的な考え方と、公正で「自由」に競争すること(自然秩序、いわば神の見えざる手)によってバランスする社会を理想とする資本主義的な考え方の2つのイデオロギーが対立する冷戦時代を迎えます。このような時代の変容を受け、シェーンベルク(オーストリア Rotes Wien)は音(富)の中心や偏りを排除するために1オクターブの中に含まれる12の音を1回づつ均等に使った音列(セリー)(人工秩序による平等を理想とする社会)を組み合わせて作曲する十二音技法(無調音楽)を発明します(但し、現実には、ソ連はスターリン主義のもと音楽の政治利用を企図して社会主義リアリズム音楽へと傾倒)。その一方で、ケージ(アメリカ)は作曲者の意図(国家の介入)を排除するために偶発的な要素(例えば、プリペアド・ピアノ、占いやサイコロなど、いわば神の見えざる手)(自然秩序による自由を理想とする社会)を採り入れて作曲する偶然性・不確定性の音楽を考案します(但し、偶然性の音楽はモーツァルトの「音楽のサイコロ遊び」(K516f)等に代表されるように比較的に古くから使われていた作曲技法です)。
<無調音楽の特徴:横の調整関係による秩序>
音の関係 | 特徴的な傾向 |
音の縦関係(音の色彩) | 【自由】 伴奏や対旋律も音列(セリー)に影響されるが、和声や対位法には規律せれないので自由度が高い。 |
音の横関係(音の運動) | 【制約:音列】 音列(セリー)に規律されるので制約度が高い。 |
自然秩序による自由のグラデーション(統制から規制、規制から緩和、緩和からトレンドへ)
一見、偶然性の音楽と不確定性の音楽は相似しているように見えますが、偶然性の音楽は作曲(統制)の過程で偶然の要素が加わって創作される音楽である(即ち、演奏の過程では偶然の要素はない)のに対し、不確定性の音楽は演奏(行動)の過程で不確定の要素が加わって創作される音楽なので(即ち、再現可能性が低く録音(確定)に馴染まない)、両者は本質的に異なる音楽です。また、演奏の過程で不確定の要素が加わるという意味で不確定性の音楽と即興演奏は相似しているように見えますが、不確定性の音楽は演奏者の自由を排除(規制)して占いやサイコロ等によって音符を選ぶなど音楽的に制約されているのに対し、即興演奏は殆ど音楽的な制約がなく演奏者の自由に委ね(緩和)られているので、両者は本質的に異なる音楽です。即興演奏の演奏者の自由に詩、言葉や記号等のインスピレーションを与える(流行、アイディア、目標等)とフルクサスになります。
④大衆消費社会・ボーダレス社会・イノベーション(現代):現代的な価値観の勃興(前衛音楽の展開と軽音楽の台頭)
前述のとおり産業革命によって植民地政策(帝国主義)が本格化し、帝国レベルでの格差が原因となって二度の世界大戦を引き起しますが、国家レベルの格差によって従属国(植民地)では宗主国からの独立を求める気運(民族主義)が高まり、二度の世界大戦を経て民族の独立運動(脱植民地主義)へと発展します。このような時代背景を受け、宗主国側のワーグナー(ドイツ)、ドビュッシー(フランス)、シェーンベルク(オーストリア)等による調性(中心となる音=宗主国)からの解放の動き(前述)に加え、従属国側のバルトーク(ハンガリー)等は民族のアイデンティティを求めて帝国主義を推進していたブルジョアジー(有産階級)が支援し、受容してきた調性音楽に民族音楽の音階、和声、リズム、拍子等をそのまま採り入れて、調性音楽(宗主国)と民族音楽(従属国)を対等の立場で融合する音楽(新古典主義音楽)を模索します(その後のEU統合を暗示するメンタリティ)。また、これと同時期にストラヴィンスキー(ロシア)は調性音楽と民族音楽を融合するのではなくそれぞれを独立した素材として各々の個性(独自性)を尊重する音楽(コラージュ的な音楽)を模索します(その後のソ連崩壊を暗示するメンタリティ)。また、ストラヴィンスキーはキリスト教的な価値観(精神で肉体をコントロールすること(=理性)を重視)から肉体的な興奮を喚起するリズムの使用を避けてきた調性音楽(クラシック音楽)に民族音楽の本能的・野性的なリズム等を採り入れて調性音楽(クラシック音楽)の理性的・禁欲的なリズムを破壊する新しい音楽(バレエ音楽「春の祭典」など、いわゆるバーバリズム)を創作しますが、シェーンベルクが調性を解放して音の縦関係(音の色彩)を自由にし、ストラヴィンスキーがリズムを解放して音の横関係(音の運動)を自由にしたこと(美のパラダイムシフト)で近代までの調性音楽(クラシック音楽)は終焉を迎えます。
- 作者: 中沢新一
- 出版社/メーカー: 四季社
- 発売日: 2007/04/06
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アメリカナイゼーションと音楽
アメリカの南北戦争後に奴隷解放された黒人によってヨーロッパの讃美歌等(白人音楽)にアフリカの民族音楽(黒人音楽)のリズムを融合したジャズが誕生しますが(その後、ジャズのブルースやラグタイム等(黒人音楽)とカントリー&ウェスタン(白人音楽)が融合してロックンロールへと発展。また、プロテスタント牧師の説教からトーキング・ブルースが生まれてヒップホップ文化等の影響を受けながらラップへと発展)、第一次世界大戦でアメリカからヨーロッパへ派遣された黒人部隊がヨーロッパ各地でジャズを演奏したことや、電気録音(レコード)、テレビジョン放送やジェット旅客機等の発明によって本格的なグローバリゼーションが進展するにつれてジャズやロックンロール等を始めとしたアメリカのポピュラー音楽が全世界へと広がります。これによりバルトーク、ストラヴィンスキーやガーシュイン等はジャズをクラシック音楽に採り入れ、また、バルトークは電気録音の発明によって世界の民族音楽を採集、分析することが可能になり、その後の創作活動に重要な影響を与えています。なお、アメリカのポピュラー音楽が全世界へと広がった背景には、第一次世界大戦後にイギリスがドイツから支払われる賠償金をアメリカへの多額のドル借款の返済に充当したことでアメリカに世界の富が集中したこと(この富の偏在が第二次世界大戦の引金)や、第二次世界大戦後にアメリカが中心となって新しい国際協調の枠組みとして国際連合が設立されたことなどにより、ヨーロッパを中心とした世界秩序からアメリカを中心とする新しい世界秩序へと構築し直されたことが挙げられます。現在、世界の富の約半分がアメリカへ集中していますが、再び、時代の転換期を迎えてアメリカを中心とした世界秩序が揺らぎ始めています(前述)。古今東西を問わず人類の歴史で繰り返されてきた新しい秩序を模索するための戦争が経済の高度化により土地の奪い合いから金の奪い合いに姿を変えて軍事力の行使から経済力の行使(経済制裁等)へと様変わりしつつあるなか、日欧を巻き込んだ米中貿易戦争やイギリスのEU脱退等の混乱状況を招いているのが現在ではないかと思います。人類の歴史は非常に単純な力学で動いており同じようなことを繰り返しながら技術革新を重ねて徐々に発展してきているに過ぎませんが、その文脈に照らして前衛音楽を捉え直すと、一見、複雑難解と思われがちな前衛音楽も非常に単純なことを試み、些細な変化を生んでいるに過ぎない(その意味で身構えるほどハードルは高くない)ように思われ、何やら思わせ振りに「音楽とは何か」と眉間に皺を寄せて論じてみることの滑稽さが微笑ましくさえ感じられます。
前述のとおり産業革命及び植民地政策(帝国主義)による富の格差が世界大戦の引金となったことを教訓として、戦後、国又は国際機関が規制を強化すること(人工秩序)で富を平等に分配する政策(社会主義のみならず、資本主義における富の再分配としての社会福祉政策や富の集中防止としての公正競争政策等を含む。)がとられますが、やがて規制の強化による経済発展は行き詰まりを見せるようになり、これを打開するために国又は国際機関が規制を緩和すること(自然秩序、神の見えざる手)で自由に競争する政策へと転換します。即ち、資本主義では経済発展を遂げて富を平等に分配するよりも規制を緩和して自由に競争することで経済を活性化させることが重視され、また、社会主義では経済政策の失敗と情報化社会の到来によって資本主義社会との間で富の格差が生じていることが明らかとなり資本主義を実験的に導入する方向に政策転換して冷戦が終結します。このような社会の変容を反映するように、十二音技法(セリエリズム)は音高のみを対象として音列(セリー)技法により作曲する方法(12音を平等に1回づつ用いた音列を原形として、その逆行形、反行形、逆反行形と派生し、また、それぞれの形の移高や組合等で作曲)からリズム、音色、音価、強弱、アーティキュレーション等も対象として音列技法により作曲するトータル・セリエリズムへと発展しますが(規制の強化)、その結果、音楽が複雑化して演奏や鑑賞が困難となり行き詰まりを見せるようになったことから、これを打開するために12音の全部が使用されていなくても一度使用した音譜を反復して使用しても良い(反復性)又は音列に調性を感じさせても良い(物語性)など音列技法のルールを緩和して自由に作曲するポスト・セリエリズムへと移行し(規制の緩和)、これに伴って無調音楽(自然の音、前衛性)と調性音楽(人工の音、大衆性)がボーダレスになりゲームソフト、アニメや映画等の商業音楽でも使用されるようになります。また、トータル・セリエリズムにより音楽が複雑化して演奏又は鑑賞が困難になると「楽譜に書かれている音楽」(理想)と「実際に聞えてくる音楽=響き」(現実)の間に大きな乖離を生じ、徐々に「楽譜に書かれている音楽」(理想、社会思想)よりも「実際に聞えてくる音楽=響き」(現実、経済実態)が注目されるようになって響きの探究(後述)が盛んに行われるようになります。これに伴って調性音楽(クラシック音楽)がキリスト教的な価値観(理想)から肉体的な興奮を喚起するリズムの使用を避けてきたのと同様に理性によってコントロールできない響き(周期的な振動ではなく非周期的な振動からなる響き=ノイズ)の使用を忌避してきた伝統が徐々に破壊され、ノイズを解放して音の構成物(音の素材)を自由にし(美のパラダイムシフト)、やがてロックンロールやハードコア・パンク等へと応用されます。
<音楽の解放①~西洋音楽の伝統へのアンチテーゼと美のパラダイ ムシフト~>
音楽の解放 | 調性音楽 | 無調音楽 |
音の縦関係 (音の色彩) 調性の解放 |
【制約】 和声や対位法に規律される。 |
【自由】 和声や対位法に規律されない。 |
音の横関係 (音の運動) |
【自由】 音列(セリー)に規律されない。 |
【制約】 音列(セリー)に規律される。 |
音の構成物 (音の素材) ノイズの解放 |
【制約】 周期的な振動からなる音程(楽音)のみを使用。 |
【自由】 非周期的な振動からなる音程(噪音)も使用。 |
第二次世界大戦後の経済発展により大衆消費社会が本格化するにつれて人手のみで大量生産を支え、複雑化する社会に対応することが人間の能力の限界に達したので、技術革新を重ねて工業機械やコンピュータ等によるオートメーション(省人間)化が進み、やがて都市には工場生産、物資輸送や建物建設等によって人工的に生み出される騒音(五線譜上の音程で表すことが困難で物語性を持たない響き)が溢れて社会問題化します。このような時代の変容を受け、コンピュータ等によって録音や編集の技術が飛躍的に向上し、既存の音を録音して並べ替えたり又は加工するたりして音楽を創作するミュージック・コンクレート(既存の音の発生原因や意味等を省みず物語性や目的性を持たない響きのみを重視し、最初に出てくる既存の音を主題として様々なリズムで展開する音楽で、サンプリング・ミュージックからヒップホップやテクノ等のクラブ音楽へと発展)が誕生します。また、音楽の録音技術の向上によりレコード芸術が普及したことにより音楽の受容シーンが多様化(バックグラウンド・ミュージック、サウンド・エフェクト等)し、社会には音楽が溢れて音楽の大衆化が進みます。さらに、音そのものを人工的に作り出す電子音楽(ロック、ポップス、ゲームや映画等の商業音楽へと発展し、大衆消費社会を背景として騒音問題に配慮して消音機能を備えた電子楽器として一般人にも普及)が誕生し、トータル・セリエリズム(前述)やスペクトル音楽(後述)など人間の能力の限界(人間の声を含む楽器の性能や演奏の技術)を超えて複雑化し演奏が困難になった音楽(社会)を人間に代わって実演するための手段(省人間)としても持て囃され、やがて五線譜上の音程で表すことが困難な微分音(半音以下の音)等の周波数を解析して音程に置き換えるスペクトル音楽へと進化します(Open Music等)。また、都市に騒音が溢れたことから、騒音対策として日常の音をコーディネートするサウンド・デザイン、バリアフリーとして視覚障害者のためのサウンドマップや健常者にとってのリラクゼーション、防犯等を企図して音をアレンジするユニバーサル・デザイン等を行うサウンドスケープが誕生します。さらに、科学技術の進歩に伴ってコンピュータを利用して遺伝子の塩基配列を音符に変換する遺伝子ミュージックや音楽療法等の目的のために脳波に良い影響を与えるバイオミュージック等も登場します。
産業革命により工場のある都市部へ人口が集中したことで市民が「大衆」化すると市民の間に一体感のようなものが生まれて市民の意識が個人主義から集団主義へと変容し、世界大戦の勃発による危機的な状況が相俟ってその傾向に拍車がかかります。戦後、新しい国際秩序が構築されてグローバリズムが進展すると、その集団主義が企業主義へと姿を変えて飛躍的に経済が発展します。また、経済の発達に伴って社会の分業体制が確立し大量生産・大量消費を支える社会インフラが整備されてマス・メディアが重要な役割を担うようになると、1人1人の市民(個性)に着目するのではなく市民を没個性的な大衆(mass)として捉える大衆消費社会が本格化します。このような時代の変容を反映するように、トータル・セリエリズムによって複雑化した音楽から生み出される響きは音列(セリー)が織り成す多声部(個性的な市民)としては認識できず、1つの音塊(sound mass)(没個性的な大衆)として認識されるようになり、1つ1つの音の音程関係を厳格に管理する作曲技法トータル・セリエリズムではなく、1つ1つの音の音程関係を重視せずにぼんやりとした音塊として捉えて、ある2つの音の間を響きで埋め尽くす作曲技法トーン・クラスター(密集音群)が生み出され(ペンデレツキ「広島の犠牲者のための哀歌」が有名)、ジャズの奏法等に応用されます。また、細かく分割された楽器パートが各々異なった動き(分業)を行いながらそれらが1つのまとまった雰囲気(社会、集団)を織り成す作曲技法ミクロ・ポリフォニーが生み出されるなど、トータル・セリエリズムのように理論(社会思想)を重視するのではなく実際に耳から聴こえてくる響き(経済実態)を重視する音楽を模索する動きが活発になります。
経済の発展に伴って社会の分業体制が確立し、社会が高度に構造化(規格化、単位化、システム化等)して社会が安定してくると、何の物語性や目的性を持たないルーティンな日常が続き、都市は無機質に反復する機械音や電子音で溢れます。大衆はこのように安定した社会状態を是認する立場の保守派とその変革を望む立場の革新派に二分されていきます。このような社会の変容を反映するように、最小単位のモチーフ(日常、機械音等)を反復するミニマル・ミュージックが誕生し(その萌芽は既にサティ「家具の音楽」等に見られ)、常に鳴り響く音楽の“今”(日常)を重視し、その結果、音楽(人生)がどのような物語を紡ぎ又はどのような目的を持っているのかということはあまり重視されなくなります。ミニマル・ミュージックはモチーフを小さく変化させながら(音楽への集中を生みながら)反復する音楽なのでシャーマニスティックな効果によりトランス状態(陶酔感、恍惚感)を喚起する音楽(革新的な性格)であるのに対し、最小単位のモチーフを変化させずに反復することでトランス状態の喚起など心理的な変化を避けるアンビエントが誕生し、日常に埋没するかのような「意識されない音楽」(保守的な性格)が創作されます。やがてこれらはミニマル・テクノ(例えば、ピコ太郎「PPAP」等)やアンビエント・テクノ(例えば、クラブの休憩中に流れるBGM等)等のクラブ音楽へと応用されます。なお、調性音楽にも最小単位のモチーフを反復する音楽は存在しますが(例えば、ベートーヴェン「交響曲第5番」の運命のモチーフ等)、前述のとおりクラシック音楽ではキリスト教的な価値観からシャーマニスティックな効果により肉体的な興奮(精神で肉体をコントロールすること(=理性)ができなくなる状態)を喚起することを忌避する傾向が強いので、ミニマル・ミュージックに比べてモチーフを大きく変化(展開)させていますので(革命的(≧ 革新的)な性格)、トランス効果の喚起等は起こり難いと言えるかもしれまません。
<音楽の解放②~西洋音楽の伝統へのアンチテーゼと美のパラダイムシフト~>
音楽の解放 | クラシック音楽 調性音楽 |
現代音楽 調性音楽 & 無調音楽 |
|
音の横関係 (音の運動) |
リズムの解放 | 【制約】 肉体的な興奮を喚起するリズムを忌避し、理性的・禁欲的なリズムを使用。 |
【自由】 シャーマニスティックな効果を生む野性的・本能的なリズムも許容。 |
構造の解放 | 【制約】 単調な反復を忌避し、主題を大きく変化させながら展開。 |
【自由】 主題を殆ど変化させずに単調な反復によるトランス効果。 |
経済発展が一段落して社会が安定すると生活に必要なもの(本来価値)が全て満たされて機能性や合理性を追求する規制社会(モダニズム)は行き詰まりを見せるようになり、この閉塞状況を打開するために新たな豊かさ(付加価値)を生む多様性や過剰性等を促す規制緩和の動き(ポスト・モダニズム)が登場し、バブル経済へと突入します。その後、バブル経済は崩壊し、また、ITの普及等による情報通信革命(第四次産業革命)が起こったことでモダニズムを支えてきた社会構造が徐々に崩壊して再び社会が大きく変容しています。このような時代の変容を反映するように、常に新しいもの(新しいものが生む本来価値)を求め続けて来た前衛音楽はモダニズムと共に行き詰まりを見せ、ポスト・モダニズムの潮流と共に過去のもの(調性音楽等)を自由に採り入れながら創作(既存のものに追加される付加価値=バブル)する新ロマン主義が誕生します。また、このような状況に加えて、音楽のデジタル化が進むと音楽のアレンジが容易になって音楽のオリジナル信仰が希薄となり既存の音楽をアレンジして作曲する多様式主義が盛んになります。これによって既存のもの(音楽を含む)がジャンル(社会の分業体制)を超えて融合されるようになり(例えば、映像と音楽やパフォーマンスのコラボレーションによるメディアアートなど)、それぞれのジャンルの違いが曖昧になって表現が個別化・細分化し、何でも許されるカオスの状態(権威主義的なモードは廃れ、SNS等に象徴される個別化されたムーブメントとしてのスタイル)が生まれて現在の混沌とした停滞感を生んでいると言えるかもしれません。また、既存のものをアレンジして生まれる付加価値に「新しさ」(本来価値に昇華し得るもの)
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前衛音楽のアプローチの仕方(対策)を考えるにあたっては、どうして調性音楽と比べて前衛音楽を難解に感じるのか(原因)を簡単にお浚いしておく必要があると思います。前述のとおりバロック音楽から古典音楽の時代にかけて個人の内面を音楽的に表現するための方法(このように作曲すれば、このように聴いて貰えるという一種の決まり事)として調性システム(調性、リズム、拍子、メロディーやハーモニーの理論的体系等)が確立し、長年に亘って、この調性システムを深化させながら音楽を創作する側としての宮廷作曲家及びカントル等と、音楽を受容する側としての王侯貴族及び教会等との間で音楽的なコミュニケーションが重ねられてきました。しかし、市民革命により音楽を受容する側は王侯貴族及び教会等から市民(有産階級)へと主役が移り、その後、産業革命を契機として第一次世界大戦が勃発すると調性音楽を受容してきた社交界(王侯貴族及び教会等から遺産を引き継いだ有産階級の集い)等の社会システムが完全に破壊され、これに伴って調性システムも崩壊します。戦後、その反省に立って古い社会システムの再建を目指すのではなくそのアンチテーゼとして新しい社会システムの構築が模索され、音楽の分野でも調性システムの使用を意図的に排除する方法として十二音技法等の無調音楽が誕生します。これにより音楽を受容する側(大衆)はどのような方法で音楽を創作する側(作曲家の作品)との間で音楽的なコミュニケーションをとれば良いのか手掛りを失い、長年に亘って、音楽を創作する側(作曲家)と音楽を受容する側(大衆)との間で音楽的なコミュニケーションの断絶とも言える状態に陥ってきました。これを言語に例えれば、これまでは日本語でコミュニケーションをとっていたところ、突然、相手が英語で話し始めたので、英語が話せる人は理解できるが、英語が話せない人は全く理解できない状態が続いたと言えるかもしれません。現在、前衛音楽がゲームや映画等の商業音楽で使用される機会が多いのは、英語(前衛音楽)がよく分からなくもジェスチャー(映像やシチュエーション等)を交えると何となく「伝わる」という状況が生まれているではないかと思います。この点、ジェスチャーを交えずに英語を理解するためには英語を日本語に翻訳しようとするのではなく英語を英語として理解する姿勢が求められますが、直ぐに英語を英語として理解することは難しいのでジェスチャーに頼りながら徐々に英語に慣れ親しんで英語を英語として理解し始めているというのが現在の状況ではないかと思います。無論、これまで使い慣れてきた日本語のみを使って日本人のみとコミュニケーションをとりながら狭い世界の中で生きて行くという考え方は人生の選択の問題なので議論の外ですが、僕は狭い世界(過去の遺産を消費しながらその中で約束された娯楽や癒し等を求めて満足する世界)の中だけで生きて行くのは面白くないと感じています。前述のとおり前衛音楽は言葉を変えたほかにも、文法を変え(言葉を変えれば、自ずと文法も変わります)、文章の機能を変え(小説ではなくクロスワードパズルなど)、或いは言葉以外の方法(絵文字など)を用いて、これまでの約束された娯楽や癒し等から新しい表現世界を開きましたが、それ故にその表現は多種多様で複雑なものになってしまい、例えば、日本語の小説を読むつもりで英語のクロスワードパズルを前にしても何をどうしたら良いか分からずに途方に暮れてしまうのは当然とも言えます。後掲「現代音楽の行方 黄昏の調べ」の著者の大久保賢さんが前衛音楽について「楽譜を見せて貰って解説を受けないと、耳を通してだけ聴き取るのが難しい音楽」と語られていますが、後述のとおり美術の分野で一般的に普及している客と作品との間を媒介(通訳)するキュレーターのような存在が前衛音楽にも必要ではないかと感じます。クラシック音楽(調性音楽)では音楽を創作する側の「伝える」と音楽を受容する側の「伝わる」との間の相互往還があり、日常会話と同様に正しく理解できているかは別として「伝わる」という状態(漠然と理解できた状態や理解できたと誤解している状態等を含む)に至ってコミュニケーションが成立し、そこに共感(約束された娯楽や癒し等)を形成するという一連のプロセスがあると思います。この点、英語のクロスワードパズルを理解するためには日本語の小説とは自ずと異なるコミュニケーションの有り様とそれに応じた「伝わる」という状態(但し「伝わらない」ことが全く無益であるのかは別論)について、音楽を受容する側が認識を広げることが第一歩ではないかと感じます。もともと日本の伝統音楽は、音程や音色が不安定で調性音楽(クラシック音楽の調性システムに基づく音楽)のような調性感はなく、リズムも精妙で複雑なものが多いなど前衛的な性格が色濃いものでしたが、明治維新後の近代化政策によって調性音楽のみを義務教育で扱うようになり(2002年から義務教育で和楽器を教えるようになりましたが、現状、和楽器を使用した曲でも日本の伝統音楽の言葉や文法等ではなくクラシック音楽の言葉や文法等を使って創作された作品が多いのが現状で)、長年に亘って、義務教育及び日常生活で調性音楽のみを学び(即ち、クラシック音楽等の調性音楽の抽象表現を理解する素養を身に着けるための教育的な機会は与えられてきましたが、日本の伝統音楽等の前衛的な音楽を理解する素養を身に着けるための教育的な機会は与えられず)、これに慣れ親しんできたこと(即ち、日本では明治維新を契機として前近代的であるという理由から事実上前衛的な性格を有する日本の伝統音楽の殆どが事実上折衷というより破棄に近い状態に置かれてきたこと、西洋ではルネサンスを契機としてキリスト教的な価値観である神聖性(精神、理性)からギリシャ神話的な価値観である人間性(肉体、本能)を回復するために教会旋法を破棄して調性音楽を導入したこと)が原因として挙げられます。よって、(最新の脳科学の研究に照らして同じような結論に達し得るのかは分かりませんが、その観点からの整理は次回に回すとして)前衛音楽を理解するためには意識的に前衛音楽を学ぶ機会を設け、これに慣れ親しむ自助努力が必要ではないかと感じます。そのためには、例えば、英語のクロスワードパズルを理解するためのコミュニケーションの有り様を認識する必要があり、「調性音楽の義務教育」に相当するものを補うために作曲者による解説やキュレーターによる媒介は必要的又は有効ですし、これに慣れ親しむためには先述したとおりジャスチャー等の助けを借りて前衛音楽に慣れ親しみながら自学自習すること(今回のブログは前衛音楽の代表的な作曲技法の意義を社会の変容との関係性の中で整理して前衛音楽のアプローチの仕方の1つの手掛りを模索し、調性音楽における感情表現への共感に代り得る何かを見出だしたかったというのが趣旨)など地道な方法しかないと感じています。また、最近では、調性音楽への回帰など音楽を受容する側にとって認識し易いコミュニケーションの有り様を採り入れて音楽を受容する側の現状に歩み寄る創作が増えているようです。個人的には「〇〇音楽」というカテゴリーに狭く閉じ籠るのではなく、そのフィールドをシームレスに広げて社会の変容をキャッチアップして(もって自分の世界も広げて)行けるような柔軟性を身に着けたいと心掛けている最近です。なお、先程、美術の分野ではキュレーターが普及していると申し上げましたが、音楽の分野でも、例えば、音楽を聴く行為と身体の関係について研究されている堀内彩虹さん(東京大学大学院後期博士課程、2017年柴田南雄音楽賞受賞)が最新の研究成果を踏まえて現代音楽のアプローチの仕方を指南する体験型ワークショップの開催を企画されており(クラウドファンディングに挑戦中)、また、NHK-FMで作曲家の西村朗さんが現代音楽を分かり易く解説しながら紹介するラジオ番組「現代の音楽」(日曜AM8:10~)を放送されており、現代音楽について何を又はどのように聴いたら良いのか分からないという方にとっては絶好の水先案内人となっています。鑑賞の世界を過去から現在、未来へと拡げてみませんか?
- 作者: 大久保賢
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▼現代音楽史の俯瞰(社会を映す鏡としての音楽)
【おまけ】
最近は著作権保護が厳しく、ブログに貼り付けられる動画も限られてきます。著作物は頒布(使用)されてその価値を生むものなので、著作権を保護するために著作物の頒布(使用)を制限するのは「正解」とは言い難く、その頒布(使用)にあたって適正な対価が著作権者に支払われる仕組みを考えて、寧ろ、どのようにすれば著作物の頒布(使用)が促進されるのかという方向で知恵が絞られるべきではないかと思います。著作物の頒布(使用)を制限することで事足れりとする現代の風潮が残念でなりません。
♬ 加古隆作曲「パリは燃えているか」(映像の世紀プレミアムのテーマ曲)
この曲を聴きながら産業革命に端を発する激動の近現代史は僅か100年間に繰り広げられた歴史なのだと思うと感慨深くも、これから生じ得る時代の変化の激しさを思うと恐ろしくも感じられます。2019年1月31日(水)にNHKスペシャル「映像の世紀コンサート」が開催されますので、ご興味のある方はいかが。
加古隆クァルテット『パリは燃えているか [Takashi Kako Quartet / Is Paris Burning]』
未だ調性感が残されているシェーンベルクの初期作品ですが、「クラシック音楽」(中世の調性音楽)の終焉を告げる音楽の1つとして採り上げておきます。なお、画像中央のチェック柄のワンピースを着ている女性はヒラリー・ハーンです。
Arnold Schoenberg "Verklarte Nacht" (Transfigured Night) Op. 4 for String Orchestra
♬ シェーンベルク作曲「弦楽三重奏曲」
シェーンベルクが十二音技法を考案(発明)して「クラシック音楽」(中世の調性音楽)から「前衛音楽」(近代の無調音楽)へと羽搏きますが、その傑作品の1つを採り上げておきます。十二音技法が考案(開発)されてから約100年が経過しておりその間の現代音楽の目まぐるしい変容を顧みると、最早、十二音技法はコンテンポラリーではなく古典的な風情を湛えていると言えるかもしれません。
Trio Arkel, Die Forelle Concert, Schoenberg String Trio Op 45
【今日のイチオシ】
エリス・マルサリス国際ジャズ・ピアノ・コンペティションで第2位及び最優秀作曲賞を受賞し、また、ボストンミュージックアワード2018のジャズ・アーティスト・オブ・イヤー部門にノミネートされたジャズピアニスト・山崎梨奈さん(バークリー音大卒)の演奏をどうぞ。いま最も注目される若手ジャズピアニストの1人です...らぶ💖2019年2月11日(月祝)及び2月13日(水)に山崎梨奈トリオとして凱旋ライブが開催されますので、これは聴き逃せません。
【パトロン募集】わくつくプロジェクト~子どもたちが音楽の"わくわく"に出会える場をつくる~
【CF名称】
わくつくプロジェクト~子どもたちが音楽の“わくわく”に出会える場をつくる~
【CF趣意】
子どもたちが学校の授業とは違う純粋に楽しんで貰える場所で音楽に出会うことで音楽を身近に感じてもらい“わくわく”を感じる機会を増やしたいという想いから、来年1月に椎名町子ども食堂で子どもたちに向けたミニコンサートを開催する。
【募金期限】
12月14日(金)23:00まで
【成立条件】
250,000円以上(All or nothing形式)
子どもたちは人類の宝!音楽との出会いは子どもたちの一生の財産になるものです。子どもたちに音楽の捧げものを届けるためのパトロンになってみませんか...♬
様々なCFが企画されているなかで、子どもたちのための活動を標榜しているものは意外に少ないのが現状です。このCFは東京芸術劇場が管打楽器奏者のレベルアップを目的として開催している若手演奏家育成事業「芸劇ウインドオーケストラ・アカデミー」のメンバー達がこのアカデミーで学んだことをどのように活かすことができるのかということを考える過程でNPO法人「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク」の存在を知り、その活動趣旨に賛同して生まれた企画だそうですが、その心意気(粋)に触発されて1人でも多くの方々に賛同して頂きたいという思いに至りピックアップすることにしました。
自戒の念を込めてコンクールの華やかさに浮かれ、その順位のみに注目して熱狂している現代の観客(消費者)の責任が大きいと思いますが、単に技芸を磨き、競うだけでは実に薄っぺらい芸術文化しか次世代に残せないことになってしまいます。芸術文化の趣味や態様は時代と共に移ろうものですが、芸術文化とは何なのかという原点を見詰め直し、現代の我々がどのように芸術文化を育み、何を次世代に残し得るのかを考え直す契機とする意味でも非常に有意義な取組みだと思います。
師走を迎えて何かと物入りだとは思いますが、僅かな金額でも多くの方々による支援の積み重ねが大きな力になり得ると思いますので、是非、心ある方の賛同、ご支援をお願い致します。
Mozart:Fantasia for Mechanical Organ, K.608 モーツァルト:自動オルガンのための幻想曲
シネマ歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」
来る3月21日(321)は春分の日で祝日(自然を讃え、生物を慈しむ日)。丁度、この日はバッハの誕生日で、しかも今年はバッハ、ヘンデル、スカルラッティ生誕333年目(色々な意味で三位一体!)なので、全国で様々なイベントが目白押しです(この日、磯山雅さんのブログが更新されないことは心から残念でなりませんが…合掌)。バッハの誕生日に野暮な話題ではありますが、春分の日が彼岸の中日(先祖を供養する日)であることに因んで…バッハは肖像画を見てもメタボ体型であったことが分かりますが、実際も大食漢であったという記録が残されています。晩年、バッハは脳卒中を発症し、また、白内障を罹患して視力が衰えていたことは知られていますが(バッハの直接の死因は白内障の手術失敗と言われており、この手術を執刀した世界的に著名なヤブ医者ジョン・テイラーはヘンデルの白内障の手術にも失敗してその翌年にヘンデルが他界していますので、次々と偉大な音楽家の寿命を縮めた名うての音楽家キラーと言える存在です。)、これらの特徴的な症状からバッハは糖尿病(食事で作られるブドウ糖によって血管が詰まり脳卒中や白内障等の合併症を発症する病)であった可能性が高いことが指摘されています。一般に、糖尿病は生活習慣(高カロリー・高糖質の食生活や運動不足など)によって罹患すると言われていますが、そのためにフーガの技法を含む晩年の傑作が損なわれてしまったという恨みが残ります。正月のブログ記事にも書きましたが、日本では明治維新に伴う和製洋食の誕生と高度経済成長に伴う飽食の時代を迎えて、日本人は(現在では世界無形文化遺産に登録されて世界から高い評価を受けている)和食文化をあまり省みなくなり、食による身体の破壊が社会問題化するに至って「医食同源」という言葉まで生まれました。近代合理主義を背景として食の即物的な面のみに興味を惹かれて五感(味覚、視覚、嗅覚、聴覚、触覚)に訴える「消費としての食文化」だけを持て囃すのではなく、食の本来的な意義である「生命の営みとしての食文化」という文脈から日本の食文化を捉え直し、今一度、現代における食の豊かさとは何なのか日本の食文化の質を問い直す時期が来ているのではないかと感じます。因みに、来る3月20日、日本橋に食事をしながら能楽を鑑賞できる劇場型レストラン「水戯庵」がオープンします。人間国宝の能楽師、大倉源次郎さんが「古より芸と食とは切っても切れない関係にあり、芸で心を、食で身体を育む」と語っていますが、能楽の源流である申楽や田楽は生命を育む自然の恩恵への感謝(又はその生命を奪う神の威光への畏敬)を歌舞音曲で表現したものであり、「芸(藝)」という漢字の語源を紐解けば「植える」「種を撒く」という意味を持っていることからも、人々の心に何かを芽生えさせる営みに他なりません。劇場型レストラン「水戯庵」の野心的な試みは「芸で心を育む」体験を通して「食で身体を育む」意義を捉え直す契機にもなるもので、非常に興味深く感じます。
さて、先日、シネマ歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」を拝見したので、自分の備忘録として簡単に感想を残しておきたいと思います。その前提として、「籠釣瓶花街酔醒」の主要登場人物である花魁八ツ橋は遊女ですが、現代の日本では「芸者」や「私娼」(但し、非合法)は存続していますが、いわゆる「遊女」は絶滅してしまいましたので(但し、遊郭が育んできた良き伝統や文化を保存する活動はあります)、この「遊女」というものをより良く理解するために、(冒頭で「芸と食」について触れましたので)今度は「芸と色」について「遊女」の発生史からごくごく簡単に触れてみたいと思います。丁度、大河ドラマ「西郷どん」で品川宿の旅籠「磯田屋」(女優の高梨臨さんが演じる“およし(源氏名ふき)”は飯盛女という設定)において薩摩藩の西郷吉之助や福井藩の橋本左内らが密会するシーンが登場しますが、「北の吉原、南の品川」と言われるほどの二大歓楽街だったようです。「北の吉原」は幕府公認の遊女屋を集めた「遊郭」であったのに対し、「南の品川」は東海道の宿場町に幕府非公認の私娼屋が集まった「岡場所」で、前者は上級の武士、豪商、歌舞伎役者(西洋の貴族階級)などの遊び場、後者は中級以下の武士、商人、農民(西洋の市民階級)などの遊び場でした。この点、遊郭は、岡場所と異なって単に色事に興じるだけの場所ではなく、芸事による風流な遊びを楽しむ場所として発展しました。この背景には、武士は自由恋愛の末に好きな相手と結婚するのではなく、家同士の政略的な理由から結婚相手を決められるケースが殆どだったので、金銭的に余裕があった武士は理想の恋愛を求めて遊郭へ通ったと言われています。しかし、江戸時代後半になると武士は経済的に困窮し、岡場所だけではなく遊郭にも自由恋愛が許されていた裕福な商人等が増え始めると、遊女に理想の恋愛や高い教養等は求められなくなり、芸事が廃れて色事のみを求める風潮が生まれましたが、それでも江戸時代には現代のように女性の処女を尊重する西洋的な価値観はなく遊女を蔑視する社会的な風潮は希薄だったので、現代人が想像するほど遊女の社会的な地位は低くなかったと言われています。
洋の東西を問わず、芸術が発展する過程で「遊女」(前近代的な存在である「遊女」が特定の男性に性を支配されない自由な女性であったのに対し、近代的な存在である「愛人(妾)」は特定の男性に性を支配される不自由な女性で、遊女と比較すればキリスト教的な価値観に親和的)が果たしてきた役割は看過できませんので、以下では遊女の発生史について簡単に頭の中を整理しておきたいと思います。
歌劇「タイス」に登場するヴィーナスの巫女にして高級娼婦である舞姫タイス
能「江口」に登場する普賢菩薩の化身にして江口の遊女の霊である江口の君
現在、執筆中。
【題名】シネマ歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」
【脚本】河竹新七
【出演】<佐野次郎左衛門>中村勘三郎
<八ツ橋>坂東玉三郎
<九重>中村魁春
<治六>中村勘九郎
<七越>中村七之助
<初菊>中村鶴松
<白倉屋万八>市村家橘
<絹商人丈助>片岡亀蔵
<絹商人丹兵衛>片岡市蔵
<釣鐘権八>坂東弥十郎
<おきつ>片岡秀太朗
<立花屋長兵衛>片岡我當
<繁山栄之丞>片岡仁左衛門
【公開】2012年
【感想】ネタバレ注意!
歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」は三代目河竹新七の作で、江戸時代の享保年間に実際に行った事件「吉原百人斬り」を題材として戯曲化しています。下野国佐野の豪農であった佐野次郎左衛門は江戸町一丁目にあった大兵庫屋がお抱えの花魁八ツ橋に惚れ込んで通い詰めますが、花魁八ツ橋が他の客と情を通じる様子に嫉妬して籠釣瓶という銘の妖刀で花魁八ツ橋とその周囲に居た者約60名を殺傷したという事件で、歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」 の他に歌舞伎「青楼詞合鏡」や歌舞伎「杜若艶色紫」 に脚色されています。
籠釣瓶花街酔醒の感想を簡単に書きます。四谷怪談に登場する民谷伊右衛門の「色悪」に対し、籠釣瓶花街酔醒に登場する花魁八ツ橋は「悪女」にカテゴライズされますが、数々の歌舞伎、オペラやその他の芸術作品に描かれている「悪女」を題材に悪女論(とりわけ最もタチが悪く男をダメにする「悪女の深情け」)に簡単に触れてみたいと思います。
現在、執筆中。
男達を魅了する花魁が着飾る衣装やアクセサリーは庶民の羨望の的となり、吉原が江戸時代の流行の最先端を行くファッションの発信地となりました。当時は身分の高い公家や武家のみが化粧をしていましたが、歌舞伎役者や花魁を真似て身分の低い庶民も化粧を楽しむようになり、江戸に世界初の庶民向けの化粧品店が誕生しました。やがて花魁のファッションに見られる奇抜なデザインや色彩感はジャポニズムの潮流に乗って海を渡りゴッホなど西洋の芸術家に多大なインスピレーションを与えることになりました。昨年から今年にかけて東京都美術館や京都国立近代美術館等で開催されていた「ゴッホ展~巡り行く日本の夢~」ではゴッホが花魁を描いた油絵「花魁(渓斎英泉による)」(1887年、ファン・ゴッホ美術館所蔵)が展示されていましたがその代表例です。
三代目河竹新七の代表作
落語「怪談牡丹燈篭」(三遊亭圓朝)☞歌舞伎「怪談 牡丹燈篭」
能「猩々」(作者不詳)☞歌舞伎舞踊・長唄「寿二人猩々」
現在、執筆中。
▼画像をクリックすると解説があります。
裏浅草寺の古地図(黒船が来航した1853年当時)を見ると、新吉原に隣接して中村座、市村座や守田座(河原崎座)の江戸三座の芝居小屋が並び、江戸三座の裏手には人形浄瑠璃の薩摩座や結城座が名前が見えますので、裏浅草寺は江戸民にとっての一大歓楽街であったことが分かります。また、山谷(日雇労働者が集まるドヤ街)が隣接していますが、江戸時代には会社組織がありませんでしたので必然的に日雇いで働く人の数が多く、例えば、毎朝、親方のところに出向くと初心者でも道具一式を貸し与えられて直ぐに仕事に就くことができるなど、現代の会社組織を前提とする時間労働型ではなく課題労働型(フリーランス、裁量労働制)のワークスタイルが普及しており、ライフスタイルに合わせて多様な働き方が可能であった柔軟な社会であったことが伺えます。また、当時の西洋人の書物を見ると江戸には完全失業者がいないと書かれているものがありますが、ワークシェアリングが上手く機能していた社会とも言えそうです。これからAI革命の時代(シンギュラリティ)を迎えるにあたって非常に多くの仕事が人工知能に置き替わって失業する人が増えると言われていますが、この人類的な課題を克服して社会全体の調和を図る方法として山谷で育まれた江戸の知恵は1つのソリューションを示唆するものと言えるかもしれません。
▼おまけ
娼婦(遊女)が描かれている芸術作品として、先ずは、高級娼婦(踊り子)サティーンと青年貴族(詩人)クリスチャンの恋物語を描いたミュージカル映画の名作「ムーラン・ルージュ」をどうぞ。このミュージカルにはムーラン・ルージュのポスターを描いて有名になった画家のロートレックも登場しますが、ロートレックはモンマルトルの娼婦を描いた作品を数多く残しています。
Moulin Rouge! ムーラン・ルージュ Your song japanese
ミュージカル「ムーラン・ルージュ」やその他の芸術作品の創作に影響を与えたヴェルディ―の歌劇「椿姫」をどうぞ。この歌劇の台本である小説「椿姫」は 作者のデュマ・フィスが恋仲にあった高級娼婦のデュプレシー(パトロンが7人も居て音楽家のリストとも恋仲であったそうなので、数多くの男を魅惑する悪女の1人と言えるかもしれません。芸術は「良」ばかりでなく「悪」によっても育まれる1例であり、芸術文化を育むためには毒も必要ということですな。)を肺結核で亡くした経験を元に創作され、その戯曲のために画家のミュシャがポスターを描いています。
Verdi, La traviata - Preludio all'atto 1 (Sir John Eliot Gardiner)
日本でも高級娼婦である花魁を描いた歌舞伎や日本舞踊等の芸術作品は多く、そのうちの1つである日本舞踊/長唄「傾城」 をどうぞ。なお、「傾城」(けいせい)とは遊女の最高位を意味する花魁の別称で(遊女の最高位は「傾城」→「太夫」→「花魁」と呼称が変更されていますが、元禄時代の吉原に居た約3千人の遊女のうち太夫になれたのは4人だけの超エリート)、幼い頃から歌舞音曲、茶華道、和歌等の教養を仕込まれ、主君が色に溺れて城が傾くほど入れあげる才色兼備の美人を意味しています(芸は売るが色は売らないのが芸者(芸妓、舞妓)、芸も色も売るのが花魁)。花魁と遊ぶには一晩で最低でも400万円程度(+ご祝儀)は必要で、必然、大名クラスの武家、豪商や歌舞伎役者等の裕福層が主な客層であったので、これらの客を手懐ける高い教養が求められたようです。
◆おまけのおまけ
彼岸の中日に因んで、大切なあの人の面影に想いを寄せながら、チェット・ベイカーのアルバム「Diane」に収録されている“Every Time We Say Goodbye”をどうぞ。
Chet Baker ~ Every Time We Say Goodbye
【訃報】国立音大教授の磯山雅さんが急逝
2月22日、バッハ研究の第一人者で国立音楽大学招聘教授の磯山雅さん(享年71歳)が急逝されました。磯山さんの御命日であるバッハ生誕333年目の2月22日(333と222)は数字の象徴に関する謎掛けのようでもあり、生前の磯山さんが偲ばれます。個人的な思い出としては、磯山さんが持ち前のユーモアを交えてバッハの深遠な音楽世界を素人にも分かり易く興味深く解説されていらっしゃったレクチャーコンサートシリーズ「磯山雅 presents バッハの真髄を探る バッハの宇宙」(相模原市民文化財団主催)で過ごした至福のひとときが印象深く心に残っています。磯山さんの数々のコンサートや著書、評論、ブログ記事等に触れて大いに感化され、数多くのことを学ばせて頂いた非常に大切な方であっただけに、大変に残念でならず追慕の情に絶えません。バッハはもとよりクラシック音楽の素晴らしさ、面白さを色々と教えて頂き、本当にありがとうございました。安からにお休み下さい。心から慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
J.S.バッハ: マタイ受難曲:我ら涙流しつつひざまづき[ナクソス・クラシック・キュレーション #切ない]
Nr.68 Chor(第 68 曲 合唱)
Wir setzen uns mit Tränen nieder(私たちは涙を流してひざまずき)
und rufen dir im Grabe zu, (墓の中のあなたに呼びかけます。)
Ruhe sanfte, sanfte ruh!(お休みください安らかに、安らかにお休みくださいと。)
Ruht, ihr ausgesognen Glieder!(お休みください、苦しみ抜いた御体よ、)
Ruhe sanfte, ruhet wohl!(お休みください安らかに、お休みください心地よく。)
Euer Grab und Leichenstein(あなたの墓と墓石こそ、)
soll dem ängstlichen Gewissen(悩める良心にとっての)
ein bequemes Ruhekissen(くつろいだ憩いの枕、)
und der Seelen Ruhstatt sein. (魂の憩いの場となるべきもの。)
Ruhe sanfte, sanfte ruh!(お休みください安らかに、安らかにお休みください。)
Höchst vergnügt schlimmern da die Augen ein
(そのときこの目は、こよなく満ち足りて眠りにつくのです。)
Wir setzen uns mit Tränen nieder(私たちは涙を流してひざまずき)
und rufen dir im Grabe zu, (墓の中のあなたに呼びかけます。)
Ruhe sanfte, sanfte ruh!(お休みください安らかに、安らかにお休みくださいと。)
~磯山雅著「マタイ受難曲」(東京書籍)より抜粋
新年のご挨拶
昨年は大政奉還150年、今年は明治維新150年(戊辰戦争の名前の由来にもなったとおり明治維新があった1868年も戌年)と日本にとって大きな節目の年を迎えています。明治維新(日本における第一次産業革命)によって日本では色々なものが変革されましたが、そのうちの1つである明治改暦によって「旧暦」(月の満ち欠けが12回繰り返す期間(354日間)を1年間として暦を作り、地球が太陽を1回公転する期間(365日間)との差分(11日間)を13月目として調整する太陽太陰暦 ※毎年、この差分を調整しないと、少しづつ、暦と季節がズレて行く)から「新暦」(地球が太陽を1回公転する期間(365日間)を1年間として暦を作る太陽暦)へ改められました。但し、月の満ち欠けが12回繰り返す期間を1年間とする旧暦を前提とした年中行事(例えば、毎月15日に満月を迎える十五夜などの様々な風習やしきたり)はそのまま残されており、現在まで「新暦」と年中行事との間にズレが生じたままになっています。昨年の正月のブログ記事で書いたように、これによって「あけましておめでとうございます」という正月の挨拶も季節外れの空々しい言葉になってしまい、正月から心無い挨拶を交わすのも気が引けるので、敢えて、この言葉を使わないことにしています。因みに、旧暦では大晦日にあたる節分に豆を撒いて鬼を追い払い、その翌日の正月にあたる立春に神様を迎えるという段取りになっていました。節分に数え年の個数だけ豆を食べる風習は、その翌日の立春で新年を迎えることから新年の健康を祈願して新年の誕生日に向かえる数え年の個数だけ豆(鬼を追い払った有り難い福を呼ぶ豆)を食べる(体に入れる)という実質的な意味がありましたが、新暦ではその実質的な意味は失われて形式的な風習のみが残されています。「皮相上滑りの開化」(夏目漱石)は、西洋文明の表面的な物真似に留まらず、それまで培われてきた日本文化まで侵食し、その傷跡が150年後の現代にも残されています。なお、明治改暦と共に、江戸時代までの不定時法(日出から日没までの時間を昼間、日没から次の日出までの間を夜間とする。このため、夏は冬に比べて昼間が長いので夏の昼間の1時間の長さは冬の1時間の長さよりも長くなる。)から定時法(季節によって日出や日没の時間が変わっても、1時間の長さを均一に保つ。このため、夏は冬に比べて昼間が長くなるが、夏の1時間の長さと冬の1時間の長さを同じにする。これによって必ずしも明け六つが日出、暮れ六つが日没ではなくなる。)に変更されたことに伴い、江戸時代まではルーズであった日本人の時間意識が現代のような厳格な時間意識に変革され、日本経済の国際競争力を築く礎の1つとなりました。常に物事には2面性があり、何か(例えば、立身出世など)を得るということは同時に何か(例えば、自分のために使える時間など)を失うということであって、何を得て何を失うかは人生の選択の問題である、即ち、詰まるところ自らの死の床にあって人生を後悔する(=この世への未練と共に死を恐怖に感じる、即ち、地獄)ことなく「まずまずの人生であった」と自分自身と折り合いをつけられる(=この世への感謝と共に安らかに死を受け入れる、即ち、極楽)ようにするために、自分にとって本当に大切なことは何かを見極めることが重要であると痛感しています。その文脈で言えば、明治維新150年目の節目を迎えた今年にあって、これまでの日本人の選択がどうであったのかを振り返ると共に、現代の日本人が第四次産業革命を迎えて迫られている様々な選択を考えるにあたり次世代人の子孫に対する責任を強く意識しなければならないような気がしています。そのような意味において、年頭にあたり、自分の年嵩が増してきたことや美食家として知られるロッシーニのアニバーサリーでもあることなどから、今年は日本の「食」又は「食文化」について考え直す年にしたいと抱負を抱いています。ついては、その契機として、先ずは、日本の正月の風物詩である「お屠蘇」、「注連縄」、「門松」、「鏡餅」、「お雑煮」や「お年玉」など(本当は、これらの正月の風物詩も「旧暦」の正月の時期でなければ意味がありません....)について、少し書いてみたいと思います。(「お屠蘇」については一昨年の正月のブログ記事に書いたので省略します。)
縄文時代は狩猟・採取社会で食糧確保(供給)が不安定な時代でしたが、弥生時代に大陸から稲作が伝わると農耕(稲作)社会へ変わって食糧確保(供給)が安定するようになり、平安時代に入ると年中行事として現在に伝わる稲作に纏わる様々な風習やしきたりが生まれました。例えば、新春(旧暦では立春が正月)になると春の到来を告げる初日の出と共に五穀豊穣を司る神様(年神様)が米作りを見守るために山から里へ降りて来て(即ち、御来光)、秋の収穫を終えると山へ帰って行くと考えられていましたので、正月(春)には「注連縄」(左最上の画像)、「門松」(右最上の画像)や「鏡餅」(左直上の画像)を飾って年神様をお迎えする風習が生まれました。因みに、「注連縄」は年神様が見守りながら育った稲の藁には「稲魂」(霊力)が宿り(即ち、現代の科学技術でも人間が「無」から「有」を作り出すことはできず、人間が「生産」や「創造」と称している営みは神様が創った自然資源を変形又は変質させているだけの破壊や消費に過ぎませんが、古来、土(無)から稲(有)が育まれるのは年神様の霊力によるものであると信じられてきました。)、その稲の藁を編んで作った縄を張ると、そこに神様をお迎えするための神聖な空間ができると考えられていました。また、「門松」は神様が宿る神聖な木(神様が憑依するための「依代」)と考えられていた松を山から伐採し、年神様が山から里へ降りて来るための目印として門の前に置くようになりました。これと同じ理由で能舞台の鏡板には神様の「依代」として松の絵が描かれています。さらに、「鏡餅」は「稲魂」が宿っている稲から作った餅を三種の神器の1つである円形の鏡と同じ形に象って、この世(八百万)を成り立たせている太陽(陽)と月(陰)を表す2段重ねにして神様へお供えするようになりました。そして、神様へお供えした後、人間が「稲魂」(年神様が授けられた稲魂→これを略して年魂→年魂と固くなった鏡餅をちぎって食べ易いように煮汁に入れた餅玉をかけて年玉)が宿っている稲から作った「鏡餅」を「お雑煮」にして食べることで1年間の無病息災を祈願するようになりました。江戸時代には自分の周囲の人達(例えば、主人が家来、大家が店子など)の無病息災を祈願して「お雑煮」を分け与える風習が生まれ、やがて「お雑煮」の代わりに品物やお金を振る舞うようになって、これを「お年玉」と呼ぶようになりました。その後、時代は下って戦後の高度経済成長を経て、大人から子供へお金を渡す風習へと変化していきます。毎年、寺院(仏教)では大晦日に「除夜の鐘」を108回撞いて心を整えることで108の煩悩を追い払おうとしますが、年が明けると一転、我先にと神社(神道)へ押し寄せてお賽銭で神様を買収して何とか煩悩を叶えようと試みる煩悩まみれの人間を目の当たりにしますし、お年玉も本来の趣旨から離れて子供達の心に煩悩を蓄えるさせるための風習でしかなくなってしまったように感じられますが、陽が強ければ陰を濃くするだけなので仏教と神道は心のバランスを図るための上手い仕組みなのかもしれません。
炭水化物が人類を滅ぼす?糖質制限からみた生命の科学? (光文社新書)
- 作者: 夏井睦
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2013/11/15
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日本では、弥生時代から農耕(稲作)社会になりましたが、675年に天武天皇が殺生を禁じる仏教の思想を採り入れて農耕期における牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じたことなどにより日本人の肉食離れが進み、それから約1200年後の1872年に明治政府が獣肉食の禁止を解くまでは米を主食(デンプンによる糖質摂取)、魚貝類や野菜を副食とする一汁三菜に代表される和食文化(フランス料理、地中海料理、キューバ料理、トルコ料理等と並ぶ食の無形文化遺産)が築かれます。縄文時代は狩猟・採取社会であったので食物を求めて移動しながらの半定住生活を送っていましたが、その後、弥生時代に向って農耕(稲作)社会に変っていくと土地を耕して稲を育てるために完全な定住生活が促進され、不作や自然災害等の事態に柔軟に対応できるように稲等の穀物の備蓄に有利な集落を形成するようになりました。縄文時代の移動しながらの半定住生活では集落を形成することなく自由な生活を送っていましたが(ジプシー、ボヘミアン)、弥生時代には定住生活となり集落を形成するようになると他人とのコミュニケーションを円滑にするための言葉が発達し、他人との揉め事を生じさせないための様々なルールや仕組みなどが必要となって徐々に社会性(集団主義的な思想性)が芽生え、その集落を統治する権威として上述のとおり稲作の神様が祀(祭)られることになりました。また、江戸時代までは朝食と夕食の1日2食を習慣としていましたが、1657年に江戸城天守閣を焼失させた明暦の大火が発生したことで江戸の町を復興させるために集められた大工や職人達の体力が持つようにと1日3食が振る舞われたことから朝食、昼食、晩食の1日3食が習慣として根付いたと言われています(デンプンによる糖質摂取✖多食)。因みに、世界各国の1日の標準的な食事回数は国によって区々(1日に2~5回程度)ですが、イギリスでは産業革命による長時間労働に労働者が耐えられるように1日の食事回数を増やすのではなく栄養価が高く披露回復を促進する健康食品と信じられていた砂糖を摂取するようになり、これに伴って紅茶に砂糖を入れて飲む習慣が生まれ、この習慣が明治政府による欧化政策によって日本にも流入することになりました(デンプンによる糖質摂取✖多食+砂糖による糖質摂取)。なお、江戸末期に日本を訪れた外国人が僅かな量のおにぎりだけで東海道を往来する飛脚の体力に驚いたという記録が残っていますが、炭水化物の塊であるおにぎりはスピーディーに作れて携帯性にも優れ、高カロリー・高糖質なので僅かな量でもエネルギーを効率的に摂取できるファーストフードとして実用性は高かったようで(最近は日本のアニメの影響で寿司だけではなくおにぎりも外国人に人気)、さしずめ日本のおにぎりはアメリカで大陸横断道路(R66号)を往来する忙しいドライバーが僅かな量で効率的にエネルギーを摂取できる食事として誕生したスピーディーに作れて携帯性にも優れ、高カロリー・高糖質なハンバ-ガーと同じ食文化を育んでいたと言え、寧ろ、明治維新の交通革命(馬車、電車、車の普及)によって日本人があまり歩かなくなるまでは、米(おにぎり)が高カロリー・高糖質な食品であったことが重宝されていたと言えるかもしれません。
明治政府が欧化政策により獣肉食の禁止を解いて洋食の普及に努めたことで、とんかつ、コロッケ、牛鍋(すき焼き、牛丼)、カレーライス、オムライス、あんぱん(菓子パン)などの新しい和製洋食が生み出されて人気を博するようになり、これに伴って日本人にも徐々に洋食が受け入れられてパスタ、コーヒー、紅茶、ビール等の洋食やラーメン等の和製中華も普及し始めます。これによって、これまでの和食に含まれる炭水化物(デンプン)の糖質だけではなく洋食や中華に含まれる炭水化物(デンプン)の糖質に加えて、さらに洋食に多く含まれる砂糖の糖質など多種多様な食品から糖質が摂取されるようになりました。なお、日本では(和菓子のほかに)比較的早い時代から南蛮菓子や中華菓子等が輸入されたいたので菓子については割愛します。また、戦後にアメリカが日本へ小麦を輸出するために学校給食に「パン食」を採り入れさせたことにより、学校給食で育った世代(現在の60歳前後以下の世代)にとって忙しい朝などに重宝されるお手軽で美味な「パン食」(+マーガリン、ジャム)が「米食」を凌ぐ新しい「主食」として爆発的に普及し(やがてマクドナルドのハンバーガーが日本を席捲)、日本食は「和食」のみではなく世界に類例を見ない「雑食」へと変化していきました(和食+洋食・中華=雑食による多糖摂取)。これにより戦後の高度経済成長に伴う飽食の時代と相俟って、この数十年間に亘って日本人が歴史上で経験したことがない高カロリー・高糖質な食品を過剰に摂取し続けており、この急激な食生活の変化に人体(生物学的な進化)が対応できずに生活習慣病をはじめとした様々な人体機能の障害を生じ始めている時代と言えそうです。因みに、人間の体で最も糖を多く消費するのは脳と言われていますが、仮に飢饉や絶食などで糖が不足すると脳の活動は低下し(意識が無くなり)、やがて脳が完全に停止して死んでしまうことから、日頃から人間の体は糖を脂肪に変えて体内に蓄積しておき(収穫の秋を迎えた冬眠前のタネキ、キツネや熊などが冬眠に備えて食糧を食べ溜めて丸々と太っている状態と同じ)、万一、糖を外部から摂取できないときは体内の脂肪を糖に変えて脳の活動を維持する仕組み(人類の進化の過程で選択された種を保存するための方法)になっています。しかし、この仕組みは人間が適度に体を動かしてエネルギーを消費し又は過剰にエネルギーを摂取していなかった時代には上手く機能していましたが、交通機関の発達等によって体を動かす機会が少なくなり、また、雑食(和食+洋食・中華)の浸透等によって高カロリー・高糖質の食品を過剰に摂取する食生活が続いている結果、糖から変えた脂肪を体内に蓄積し続けて肥満になり、却って、現代では上記の仕組みが種の保存を難しくしてしまっている側面があると言えそうです。
これに輪を掛けるように、明治維新の交通革命(馬車、電車、車の普及)によって日本人が殆ど歩かなくなったことが事態を一層と悪化させることになっています。即ち、日本人は高カロリー・高糖質の食事を過剰に摂取し続けながら、その膨大なエネルギーを殆ど消費することなく体の中に溜め続ける常況(生活習慣)に身を置いていることで血管機能や肝機能の障害等を引き起し易くなり、脳卒中や心筋梗塞、糖尿病(失明、合併症)等を発症するリスクが上昇しています。また、獣肉食の禁止が解かれて洋食が普及したことにより日本人も赤肉、加工肉や乳製品等の動物性脂肪を多く摂取するようになったことで癌になるリスクも上昇しているなど、明治時代以後の急激な食生活の変化(洋食革命)とライフスタイルの変化(交通革命)によって細菌、ウィルスや飢餓等ではなく摂食による体(健康)破壊という新しい生命危機とも言い得る状況(日本人の年間死亡者のうち約60%は生活習慣病が原因)に直面していると言えそうです。「和食」が世界無形文化遺産に登録されましたが、和食文化の古き良き伝統を後世に受け継いで行くと共に、高度経済成長によって日本でも飽食の時代を迎えた時代背景から「医食同源」という言葉が生まれたように、食による体(健康)破壊という新たな生命危機とも言い得る状況に直面し、日本の「食」や「食文化」をどのように守り又は育んで行くべきなのかということが問われる時代になっているように感じられます。この点、我が身一つのことであれば人生の選択の問題として片付けられるかもしれませんが、日本の「食」や「食文化」(和食に限らない日本食)はどうあるべきかという視点から後世に対する責任として、例えば、(加齢に伴う基礎代謝の低下などの要因も踏まえた)米や麺等の炭水化物や肉等の動物性脂肪の摂取を控える食生活への見直し、野菜、魚介類、豆類や海藻等を主体に摂取する食生活への改善など日本食(和食に限らない)の在り方や、カロリーや糖質を消費し易いように基礎代謝をあげる筋肉質の体(車に例えれば、排気量の大きなエンジン)になるための体作りの方法(ライフスタイル)とそのための食事内容などについて、もっと強い関心を持たなければならないのかもしれません。なお、今年の干支である犬(戌)は人間の最も古いパートナーとして愛されてきましたが、明治維新後の日本人の食生活やライフスタイルの変化に伴って、ペットの犬も人間と同様に生活習慣病(心臓病、関節疾患、腫瘍など)のリスクに晒されているようです。最近はドックラン(犬のフィットネス)などが流行していますが、犬も日々の適度な運動による運動不足解消やストレス発散と食生活の改善などが生活習慣病のリスクを予防するために重要になってきています。
今年の初詣は、花園神社(東京都新宿区。前回のブログで紹介した追分だんご本舗の近く。)の境内にある芸術の神を祀る芸能浅間神社へ参詣しました。何年か前に参詣したときと比べて玉垣の芳名が一新されていましたが、日本舞踊、三味線、落語、俳優、歌手、宝塚、声優、芸能人など様々なジャンルで芸道に携わる方々の名前が並びます。撲は芸の道に生きている訳ではありませんが、芸道は人生の道にも通じている、芸術を通じて人生を豊かにしたいという想いから「芸道成就守」を購入してきました。
アニバーサリー(※当世流の10年刻みでは節操がないので、半世紀を一昔と捉えて100年以上50年刻みでリストアップ。)
【音楽】
ジュリオ・カッチーニ 没後400年
フランソワ・クープラン 生誕350年
シャルル・グノー 生誕200年
ヴィットーリオ・モンティ 生誕150年
レナード・バーンスタイン 生誕100年
【画家】
【茶道】
【写真】
【偉人】
【その他】
ハンガリー独立 100年
【番外】
東京2020大会とbeyond2020に向けた芸術文化プロジェクトが本格的に始動(オリンピックはスポーツだけではなく芸術文化の祭典という性格も持ち、オリンピックを契機として日本の芸術文化を発信する気運が高まっています。IT革命によって世界がボーダーレスになったことにより世界の人々が日本の芸術文化に一層の感心を寄せるようになりましたが、これらのプロジェクトが単に過去の芸術文化の遺産を消費するという非創造的な取組みに留まらず、新しい芸術文化を育むという創造的な取組みであれば応援したいです。)
“お雑煮”とかけて、“ベタベタな曲紹介”と解く。その心は、どちらも“ツマラナイ”。
ベタな曲紹介ですが、今年没後400年を迎えたジュリオ・カッチーニのアヴェ・マリアをどうぞ。
今年生誕200年を迎えたシャルル・グノー(J.S.バッハ編曲)のアヴェ・マリアをどうぞ。
Omo Bello sings Ave Maria, Bach-Gounod
三位一体とマリア信仰に因んで3曲目として、現代の作曲家ミヒャエル・ローレンツのアヴェ・マリアをどうぞ。
The Most Beautiful "Ave Maria" I've ever heard (with translated lyrics / english subtitles)
シネマ歌舞伎「四谷怪談」
11月11日は「四弦楽器の日」だそうです。誰が決めたのか知りませんが、1111が四弦を連想させるので駄洒落でそうなったようです。四弦楽器と言えば、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、琵琶、ベースなどが挙げられますが、ベース以外にはこの記念日に便乗したイベントや弦のフェアなどが行われている様子はなく、伝統音楽のノリの悪さ、商売っ気の無さを露呈した結果となっています(笑)西洋では、11月11日はキリスト教の聖名祝日「聖マルティヌスの日」で、ヨーロッパ各地ではその前日に悪魔払いが行われ、日本の五穀豊穣を祝う新嘗祭(もともと日本では皇室が宗教儀礼上の重要な祭事を行う「祭日」として11月23日が休日に指定されていましたが、敗戦後、日本から神道的な色彩を排除するために祭事を行う「祭日」を休日とすることが廃止されたので、その代わりに歴史的な出来事や功績のあった人物を祝う「祝日」として勤労感謝の日が定められました。このために日本の休日(祝日)は西洋のように宗教儀礼的な意味を持たない日となり、そこから差し障りのない語呂や洒落に掛けて記念日を設定する風潮が生まれたのだろうと思います。因みに、11月24日は東京藝大で日本初のオペラ公演が行われたことを記念して「オペラの日」とされています。)に相当する一年の豊作に感謝する収穫祭(冬の始まりの日)にあたります。収穫祭と言えば、日本では11月11日は1111が房の中に豆が並ぶ姿に見えることからピーナッツ(落花生)の日とされていますが(日本における落花生の収穫量の約8割は千葉県産!)、ピーナッツは悪玉コレステロールを下げて動脈硬化を予防し、血糖値の上昇を抑えるなど生活習慣病に効能があり(ハーバード大学等の研究)、美肌効果もあるそうなので、健康診断の結果が気になる方やお肌がくたびれで来てしまった方はお茶菓子代わりに香ばしい風味豊かな千葉県産のピーナッツ(素煎り)をオススメします。因みに、今年で500周年の記念年を迎えた宗教革命(プロテスト)を行ったマルティン・ルターは11月10日に生まれたことからその翌日の「聖マルティヌスの日」に因んでマルティンと名付けられたそうですが、一般に聖人崇拝を行わないプロテスタントでは11日11日を聖マルティヌスではなく宗教革命を行ったマルティン・ルターを記念する日とされていることは実に皮肉です。因みついでに、皮肉と言えば、この言葉の語源は達磨大師の「皮肉骨髄」という言葉から来ており、「皮肉」が「骨髄」(本質)よりも表面にあることから「本質に及んでいない」という非難の言葉として使われ始め、やがて他人の欠点を非難し又は期待や予測に反して思い通りにいかないときに使われるようになったそうです。麗しき姫君、佳子さまの英国留学でも話題になりましたが、近年、日本でもこの物事の本質を理解し、人生を豊かにする学問としてリベラル・アーツ(人が自由=リベラルであるために学ぶべき技芸=アーツ)の重要性が認識されるようになり、そのうち芸術の分野では「芸術教養」(総合文化学)や「比較芸術学」などの学問領域が注目を浴びて、ボーダーレス・ジャンルレスに芸術を理解し、その背後にある本質に迫ろうとする学問的態度が評価されています。このトレンドは従来はクロス・カルチャーという言葉で表現されていたと思いますが、このブログを開始したころからの趣意の1つでもあります。一般に日本では西洋と比べてリベラル・アーツの普及や理解が遅れていると言われていますが、「芸術教養」(総合文化学)や「比較芸術学」などの学問領域では「京カレッジ」(大学コンソーシアム京都)、「手のひら芸大」・「週末芸大」(京都造形芸術大学)、「藝術学舎」(京都造形芸術大学)、各種の聴講生制度(成城大学文芸学部など)や公開シンポジウム(東京大学比較文学比較文化研修室など)など学生だけではなく一般人にも開放される形で「芸術教養」(総合文化学)や「比較芸術学」などを学べる社会環境が整いつつあることは歓迎すべき傾向であり、これらに「放送大学」や「朝日カルチャーセンター」などを加えると社会人でも働きながら芸術の分野の周辺にある学問領域も広範に学習することが可能になります(但し、日本の大学では研究者確保や採算性の問題などがあるのかもしれませんが、ヨーロッパ、アメリカやアジアの芸術文化などをカバーしているところは増えてきましたが、中東やアフリカの芸術文化などを十分にカバーしているところは未だに少なく、その意味では十分な教育環境が整備されているとは言い難い状況にあることは非常に残念であり、佳子さまが英国に留学したくなった気持ちがよく分かります。)。前回のブログ記事と文脈的につながりますが、このリベラル・アーツ(その一部としての「芸術教養」(総合文化学)や「比較芸術学」)への潮流は色々なボーダーが崩れてきた現代(コンテンポラリー)という時代性に適った要請(即ち、現代における人間の意識変化(
【題名】シネマ歌舞伎「四谷怪談」
【監督】串田和美
【脚本】鶴屋南北
【出演】<民谷伊右衛門>中村獅童
<直助権兵衛>中村勘九郎
<お袖>中村七之助
<小仏小平>中村国生
<お梅>中村鶴松
<四谷左門>真那胡敬二
<仏孫兵衛>大森博史
<小汐田又之丞>首藤康之
<伊藤喜兵衛/お熊>笹野高史
<按摩宅悦>片岡亀蔵
<お岩/佐藤与茂七>中村扇雀
松竹系映画館MOVIXなどで月イチ歌舞伎が上映されていますが、今月は鶴屋南北「東海道四谷怪談」が新作上映されるというので観に行くことにしました。約20年前に先代の中村勘三郎さんを中心にしてコクーン歌舞伎が始まりましたが、その第一回目が鶴屋南北「東海道四谷怪談」でした。昨年、これを串田和美さんによる「北番」(お岩さんが登場しない「三角屋敷の場」を省略する「南番」ではなく、これを省略しない上演機会の少ない「北番」を上演)の新演出で公演した模様を収録した作品です。ご案内のとおり「東海道四谷怪談」は東京都新宿区左門町(幕府の御手先組頭の諏訪左門の組屋敷があったことから「左門町」という地名)に住んでいた幕府の御先手組同心の田宮又左衛門とその娘お岩をモデルとして創作された戯曲ですが(田宮又左衛門の屋敷跡に於岩稲荷田宮神社がありますが、このリンク先にある江戸時代の古地図の真ん中に赤地で「於岩イナリ」とあります)、当時話題になった殺人事件等を採り入れて創作したことから、江戸町奉行の検閲を交わすために新宿ではなく江戸町奉行の管轄外にある雑司ヶ谷四谷(家)町(このリンク先にある江戸時代の古地図には東京音大校舎の近くに「四家町」とあります)に舞台を移してカモフラージュしたと言われています。本来であれば、左門町は甲州街道沿いにあるので「東海道」ではなく「甲州街道」と命名すべきところですが、上述のとおりカモフラージュする必要があったことや鶴屋南北が仮名手本忠臣蔵をパロッて作った戯曲なので江戸と赤穂を結ぶ「東海道」を戯曲名に使いたことなどがあったと言われています。因みに、「新宿」という地名は高遠藩内藤家の土地があったところに新しい宿を設けたことから四谷大木戸(四谷四丁目交差点)から追分(新宿三丁目交差点)までの一帯を内藤新宿と呼ぶようになったことに由来し、また、追分(新宿三丁目交差点)に旅人が休息するための4軒の茶屋があったことから「四つ屋」→「四谷」という地名が生まれたそうです。因みついでに、追分(新宿三丁目交差点)に茶屋が多くあったのは、15世紀に江戸城を築城した太田道灌が鷹狩の帰りに高井戸宿で献上された団子を大そう気に入り(現在の「追分団子」の発祥)、その後、内藤新宿(新宿三丁目交差点)に茶屋を移転したところ繁盛したことによるもので、現在でも新宿三丁目交差点には「追分だんご本舗」など名物茶屋が多く存在しています。内藤新宿ができる前は四谷見附(外堀の外側)から高井戸宿までの間は武蔵野の荒れ野が広がっているだけでしたが、その中間地点に新しく内藤新宿ができたことで四谷大木戸から追分までの一帯(田宮家があった新宿区左門町の周辺)は大そうな賑わいだったようです。
さて、この映画は鶴屋南北の作品(虚)を通して人間の本性(実)を炙り出し、そこに現代を重ね合わせて時代の往還を演出することで、この作品と現代との接点を強く印象付けた意欲作になっています。四代目鶴屋南北が活躍した化政文化(江戸末期)の時代は長い平和な世の中が続いたことで、商人が富を蓄えて力を持つようになった一方で、その存在意義を失った武士は低い給料で清貧を極めて力を弱めるなど、それまでの社会秩序を構成していた様々な価値観(身分階級、その階級に基づく社会的分業とその頂点にある幕府、雅と俗、江戸文化と上方文化など)が揺らぎ始め、幕末を通して色々なものがボーダレスになっていった時代であることから(その意味で現代と時代状況が似ています)、そのような世相を鋭敏に感じ取っていた鶴屋南北の作品は既成の価値概念の対置と倒置が錯綜して社会風刺的な性格の強いものになっているように感じます。歌舞伎「東海道四谷怪談」に登場する民谷伊右衛門(塩冶判官の家来/赤穂側)は伊藤喜兵衛(高師直の家来/吉良側)の孫のお梅が見染めるほどの色男でありながら、主家の公金を横領し、これが露見しそうになると口封じのために舅の四谷左門を殺害し、そのうえ、金に目が眩んで妻のお岩を見捨て死に至らせたばかりか、その罪を着せるために使用人の小仏小平を殺害するなど数々の悪行を重ねる「色悪」の代表格です。「色悪」と言えば、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」を思い出しますが、丁度、歌舞伎「東海道四谷怪談」が商人(市民)が台頭して様々な価値観が揺らぎ始めた江戸時代末期に創作され、己の欲に溺れる武士の民谷伊右衛門(権力)がお岩の亡霊(宗教)によって地獄に堕とされるという物語になっていますが、オペラ「ドン・ジョバンニ」も市民社会が台頭するフランス革命期に作曲され、己の欲に溺れる貴族のドン・ジョバンニ(権力)が騎士長の亡霊(宗教)によって地獄に堕とされるという物語になっています。いずれも芸術作品を借りて、時代の転換期を反映するように時の権力が宗教(市民の権威)によって葬り去られるという価値観の対置・倒置が描かれており共通点が多い作品と思われますが、民谷伊右衛門は伊藤家の思惑に翻弄されながらお岩への想いを断ち切れずに良心の呵責に逡巡する姿が描かれている一方で、ドン・ジョバンニはそのような良心の呵責に逡巡する姿は描かれておらず、その点については対照的な違いがあるように感じられます。ここでステレオタイプの議論に陥って安易な二分論に逃げ込むと物事の本質が見えなくなってしまいますが、あくまでも素人の与太話と割り切って多少強引でもシンプルに分かり易く考えるとすれば、歌舞伎や能楽の作品(化物、怨霊)には東洋哲学の陰陽一元論的な考え方が背景にあるのに対し、オペラの作品(悪魔、怨霊)には西洋哲学の善悪二元論的な考え方が背景にあることが芸術表現の違いとなって現れることが比較的に多いのではないかと感じます。キリスト教(一神教)は神(善、正当)を唯一絶対化するための対概念として天国を追放された堕天使や異教の神を悪魔(悪、異端)と観念し、神の善に対する悪を外に求めて排斥してきました。昔、ブッシュ元大統領がイラクに侵攻する米軍を現代の十字軍であると失言したことにその心理が現れているように感じられます。これに対して神道(多神教)や仏教では、神や仏を唯一絶対化するのではなく、神や仏は万物に宿るものであると考え、昔から怨霊(荒魂)を手厚く祀れば強力な守護神(和魂)になるという怨霊信仰(例えば、秦河勝や菅原道真など)が存在し、また、冥界で死者を裁く閻魔大王は(悪魔ではなく)神と考えられているなど、神や仏は己の内に宿る陽や陰によってその姿を変えるものであると考えられてきました。これは鬼(その語源は「隠ぬ」から転じたもの)の思想にも端的に現れており、心に陽が射しているときは己の内に隠れていますが嫉妬心や怨念など心に陰を落とすと己の内に隠れていた鬼が現れて人が鬼に化けると考えられています。(因みに、能「鉄輪」は嫉妬心から鬼と化した女性の話ですが、嫉妬心などによって人が鬼などに化けることを「化生」といい、ここから女性が美しく装うことを「化粧」というようになりました。他人より美しくなりたいという願いは嫉妬心などから生まれますが、その意味では女性の化粧は恐ろしい営みであるとも言えそうです。)よって、多神教では一神教における悪魔のような概念はなく、例えば、仏教では煩悩を捨てて悟りを開くことを邪魔するもの(出来心、魔が差す)を悪と捉えています。このため、例えば、歌舞伎や能楽に描かれる化物は陰と陽の両面が描かれ(よって、化物は共感の対象にもなり得る)、その陰の面が供養の対象となることが多いのに対し、オペラで描かれる悪魔は神の善に対する悪として描かれ、天国を追放された堕天使のように排斥の対象となることが多いという特徴的な傾向(短絡的に全てがそうだと言っている訳ではありません)があるのではないかと思います。この点、オペラ「ドン・ジョバンニ」に登場する騎士長の亡霊は悪魔とは逆でキリスト教的な価値観を体現する善の象徴として登場しますが、これに対置される存在としてキリスト教的な価値観に反するドン・ジョバンニの悪が二項対立的な関係として描かれているのに対し、オペラ「ドン・ジョバンニ」と同じような物語構成をとりながら、歌舞伎「東海道四谷怪談」に登場するお岩さんは恐ろしい悪霊ではありますが、浮気相手であるお梅を嫉妬心から祟り殺す憎(陰)と浮気していた夫の伊右衛門を祟り殺すことはできない哀しい女の性としての愛(陽)の両面を併せ持っており(源氏物語で光源氏との恋に身を焦がした六条御息所が嫉妬心から生霊となって葵の上を祟り殺すのと同じです)、これと同様に民谷伊右衛門も金に目が眩む欲(陰)とお岩への想いを断ち切れない愛(陽)(...それを感じていたからこそ伊藤喜兵衛は民谷伊右衛門の心変りを期待してお岩に顔が崩れる毒を飲ませることを計画)の両面を併せ持つ者として描かれているという違いになって現れていると言えるかもしれません。
歌舞伎「東海道四谷怪談」は、御先手鉄砲組同心の田宮又左衛門と娘のお岩は伊右衛門を婿養子に迎えて四谷左門町で暮らしていましたが、伊右衛門が上役の娘と子供を儲けてしまったので、お岩は嫉妬の果てに失踪し、その祟りによって伊右衛門の関係者等に次々と不幸が起こったという伝承を題材にし(但し、於岩稲荷田宮神社の案内板によれば、実際には伊右衛門とお岩は夫婦仲が良く家勢を再興して円満に暮らしたとのことです。)、既に当時評判になっていた「仮名手本忠臣蔵」の外伝という形で話を絡ませることでその人気に肖っています。また、歌舞伎「東海道四谷怪談」には、例えば、旗本の妾と中間が密通したことの報復として戸板の裏表に釘付けされて神田川に流された事件や鰻掻きが抱き合い心中の男女の死体を引き上げた事件などは砂村隠亡堀の場に採り入れられており、また、直助と権兵衛という2人の下男が主殺しの罪で鈴ケ森刑場で処刑された事件は浅草裏田圃の場に採り入れられ、その2人の下男の名前をくっつけた名前(直助権兵衛)を登場人物の一人とするなど、当時話題になった実際の事件を題材とすることで戯曲に話題性と迫真性を持たせる工夫を怠っていません。
【序幕】「浅草寺境内の場」及び「藪之内売春宿の場」において主要登場人物の境遇紹介と細かいキャラクター設定が行われ、これに続く「浅草裏田圃の場」では、塩冶家の騒動に乗じて公金を横領した事実が露見することを恐れた民谷伊右衛門(藩の公金を横領したうえに、仇討ちに加わるつもりもない大不忠義者。金欲に溺れ、身勝手な理由で次々に人を殺害する大悪人。)は舅の四谷左門(仇討ちを志す忠義者)を殺害し、また、直助伝兵衛(高師直の屋敷替えの情報を入手しようと画策するなど完全に忠義心は失っていないが、仇討ちには加わるつもりがない小不忠義者。愛欲に溺れ、お袖から身分の違いを理由に求愛を断られたので許婚を殺害する小悪人。)はお袖を手に入れるために許婚の佐藤与茂七(仇討ちを志す忠義者)を殺害しようとして人違いにより元主人の息子である奥田庄三郎(仇討ちを志す忠義者)を殺害します。偶然、そこへ通り掛かったお岩とお袖は、親や許婚の敵であるとも知らずに民谷伊右衛門と直助伝兵衛に仇討ちの助太刀をお願いする見返りとして同棲することを承諾します。この場面は、仮名手本忠臣蔵が描く江戸時代の伝統的な武家社会の価値観に対するアンチテーゼを提示するもので、不忠義が忠義を滅ぼし、武家の娘が敵と誼を通じるという価値観の倒置が行われており、東海道四谷怪談が創作された江戸時代末期にそれまでの価値観が揺らぎはじめて武家社会が衰退又は終焉しつつあることを予感させる時代感覚(ムード)を伝える作風になっています。なお、この舞台映画の冒頭ではサラリーマン姿の現代人と東海道四谷怪談の登場人物が時代を超えて同じ場所を行き交うシーンが登場しますが、舞台上で時代の往還を演出することにより鶴屋南北がこの戯曲(虚)により描いた人間の本性(実)が江戸人だけではなく現代人にも共通するものである(即ち、誰でも東海道四谷怪談の登場人物になり得る素地がある)ことを強く印象付ける効果を生んでいます。
【二幕】「雑司ヶ谷四谷町の場」では、上述のとおり伊藤喜兵衛が孫のお梅の想いを叶えて民谷伊右衛門と添い遂げさせたいと考え、民谷伊右衛門を金で買収しようとしますが、お岩への未練を捨て切れない民谷伊右衛門に踏ん切りを付けさせるために、産後の肥立ちに良い薬と偽ってお岩に容貌が崩れる毒薬を飲ませます。お岩役の中村扇雀さんは、お岩が思いも寄らない突然の不幸に襲われて冷静に現実を受け入れられませんが、やがてその現実から逃れられない悲運を悟り、切々と哀しみと恨みを募らせて、心の陰を濃くして行く繊細な心理描写を巧みに演じており見応えがあるシーンになっています。後述する五幕もそうですが、この舞台映画は現代人の感覚に配慮した演出的な工夫が施され、「お化け」の不気味さよりも、現代人にも共感できる人間の情念の恐ろしさやそのような恐ろしい情念を抱かせるまで他人を追い込んでしまう人間の欲深さ(お化けよりも始末が悪い人間の業)に重きを置いた描き方をされており、この作品に鑑賞の深みが増しているように感じられました。
【三幕】「砂村隠亡堀の場」では、民谷伊右衛門が川で釣りをしているところにお岩と小仏小平の遺体を括りつけた戸板が流れ着きます。この場面は戸板の表裏に括りつけられたお岩と小仏小平を1人の歌舞伎役者が早替りで演じる「戸板返し」が見所の一つになっていますが、この舞台映画では舞台上の制約があるためなのか歌舞伎役者による早替りは行われず、その代りに戸板にお岩と小仏小平の姿を映写する演出がとられており、この作品に限らず、これからの歌舞伎においてメディア・アートを利用した新しい演出、表現の可能性を感じさせるもので興味深かったです。
【四幕】「深川三角屋敷の場」では、直助権兵衛とお袖が暮らす三角屋敷に佐藤与茂七が訪ねてきて、直助権兵衛と佐藤与茂七との間で口論になります。この場面では、直助権兵衛役の中村勘九郎さんと佐藤与茂七役の中村扇雀さんによる軽妙洒脱な台詞回しの言立てに江戸の粋を感じる非常に魅力な場面になっています。平安時代から京都には共通語が存在していたので上方歌舞伎は「台詞」を中心とした舞台として発展しましたが、元禄時代以前の江戸には共通語が存在せず文語や武家語(現代のように交通機関やマスコミ等がなかった時代は各地方間で人間や文化の流通が活発ではなく各地方で独特の方言が発達しましたが、江戸時代になると参勤交代で各地方の武士が江戸に出府した際に他藩の武士と会話するための共通語が必要になったことから武家語が発達したと言われています。)しか存在しなかったので「所作」を中心とした舞台として発達しました。その後、元禄時代以後には江戸の経済発展に伴って武士ばかりではなく町人も利用する江戸の共通語として江戸語が生まれ、これにより江戸語による江戸落語が町人文化として花開くことになります。丁度、東海道四谷怪談が初演された化政時代は江戸落語が隆盛期を迎えていた時期にあたり、このような時代背景から東海道四谷怪談にも「台詞」で魅せる場面が設けられたと考えることができるかもしれません。なお、この場面では、時代を往還する演出として江戸時代の瓦版と現代の新聞記者が登場してお岩さんの死因を取材するシーンが設けられていますが、世間の下世話な好奇心(欲)に晒される被害者とその遺族の問題は江戸時代に瓦版が誕生したことによって発生し、世間の好奇心(欲)の過熱と経済優位主義が結び付いたことで、その質量を増して現代まで引き摺っている深刻な社会問題であり、この作品に潜む現代的な意義を見出し、新しい魅力を掘り起こそうとする意欲的な試みに関心します。最後に、お袖は佐藤与茂七への操と直助権兵衛への義利をいずれも立てることができずに自ら死を選択します。これはオペラ「蝶々夫人」で蝶々夫人が「女としての幸せ」(エロスとしての生)よりも「名誉のための自決」(倫理としての死)を選択して潔く身を引くシーンで描かれている、肉体を捨て得る強い精神性を尊ぶ(第二次世界大戦までの)日本人のメンタリティを良く表現しています。この点、天皇が政権を担っていた平安時代(貴族社会)は神道(多神教)を中心とした社会秩序が形成され、八百万の神々がこの世の万物に宿っているという「生の文化」を基調とした(即ち、死の象徴である精神と生の象徴である肉体に等しく価値を見出し、それらの調和を尊ぶギリシャ神話的な価値観に近い)時代であったのに対し、これらの作品の社会背景にもなっている武家が政権を担うようになった鎌倉時代(武家社会)以降は仏教を中心とした社会秩序が形成され、戦に敗れてあの世を彷徨っている敵の怨霊を鎮魂するという「死の文化」を基調とした(死によっても失われない精神を死によって失われる肉体よりも優位に置き、精神による肉体の克服を尊ぶキリスト教的な価値観に近い)時代であったと考えられます。これは武家にとっては戦に臨んで死と向き合わなければならない強い精神性が必要とされたことに加えて(♂)、婚外子が家督相続の争い(家の滅亡)の火種になることから肉体(欲)を克服できる強い精神性(理性)も必要とされ(♀)、それらを背景として名誉(精神、理性を尊ぶ)のためであれば死(肉体、欲を滅ぼす)をも厭わないという独特の文化を育み、これらの作品の底流に脈打っていると解することができるかもしれません。
【五幕】「蛍狩り・蛇山庵室の場」では、串田さんの演出によってアクロバティックな見せ場やお化けの不気味さなどエンターテイメント性に重きを置いた「提灯抜け」(お岩の幽霊が燃えさかる提燈から登場する場面)や「仏壇返し」(仏壇の中に人を引き入れる場面)のシーンは大胆にカットされ、民谷伊右衛門が自らの欲深さ(業)によって心に迷いや不安を生じ、当て所もなく彷徨う姿を印象的に描くことで人間の本性やその現代性を炙り出そうとする意欲的な演出(例えば、バレエダンサーの首藤康之さんが扮する現代人が時代を往還して自らの便として民谷伊右衛門と見つめ合うシーンなど)によって、現代人にも共感できる新たな作品の魅力を引き出すことに成功しているように感じられます。最後に、民谷伊右衛門が天へ向かって伸びる梯子から堕落するシーンで終わります(映画「リング」や映画「オルフェ」で印象的なシーンとして描かれているように、昔から井戸や鏡は冥界への入口と考えられ、例えば、井戸へ身投げすると人間界から冥界へ堕落すると信じられてきました)が、他人を蹴落として自分だけが天へ昇ろうとする人間の欲深さ(業)が自らに地獄を見せることになる人間の愚かしさ(因果応報)を象徴するシーンで締め括られ、この作品が持つ現代的なテーマ性に焦点を当て怪談物の魅力とはひと味違う彫りの深い作品に仕上がっており見応えのある舞台映画になっています。
本所深川繪圖(1858年)には三角屋敷が載っています(国立国会図書館所蔵)。三角屋敷は四世鶴屋南北の住居跡の近所ですが、敢えて、この三角屋敷を舞台に選んだ南北の意図に思いを馳せてみると鑑賞が深まります。なお、京都で猿若舞を創始した中村勘三郎は1624年に京橋で猿若座の櫓をあげましたが、猿若座の人寄太鼓が旗本の登城太鼓と紛らわしいという理由から、1651年に猿若座は日本橋人形町3丁目へと移転を命じられ(当時、人形町は吉原遊郭(元吉原)があった歓楽街)、このときに猿若座から 中村座へ改名しています。その後、天保の改革により倹約令が発せられ、風俗が厳しく取り締まられて庶民の娯楽にも制約が加えられ始めていたところに、1841年に中村座が火災で焼失したことを奇貨として城下から悪所(庶民の娯楽)を一掃しようという幕府の思惑から1842年に中村座は城外(外堀の外側)にある浅草六丁目への移転を命じられています。当時、浅草寺裏手は1657年に明暦の大火で人形町から移転した吉原遊郭(新吉原)で栄えた歓楽街で、歌舞伎と吉原遊郭が相互に影響し合いながら花魁(おいらん)が着飾る最新ファッションや歌舞、音曲などの芸能、歌舞伎や講談等の題材となるドラマ(吉原百人斬り等)を育む庶民文化の発信地となりました。因みに、この翌年に奢侈禁令に違反したという理由で七代目市川團十郎が江戸所払いになっています。中村座は江戸城からどんどん遠い場所へと移転させられていますが、武士の芸術である能楽(式楽)が手厚く保護されてあたのと比較して庶民の芸術である歌舞伎は(その庶民的な人気に反比例するように)幕府から疎んじられていたことが伺われます(却ってそのことで歌舞伎は明治維新のパラダイムシフトによって能楽ほど深刻なダメージを受けずに済むことになりましたが)。次回のシネマ歌舞伎「め組の喧嘩」ですが、これは今年で5周年を迎えた東京スカイツリー開業記念として平成中村座で旗揚げされた公演で、十八世中村勘三郎さんによる平成中村座の最後の公演となった作品でもあります。
なお、お岩さんの墓がある妙行寺に東京鰻蒲焼商組合がうなぎ供養塔(高村光雲作)を建立したのは直助権兵衛が隠亡堀の底からお岩さんの髪梳きの櫛をうなぎ掻きに引っ掛けて引き上げるシーンに肖ってのことだろうと思いますが、東海道四谷怪談が如何に人々から恐れられ、そのことが人々の信心(倫理感)を育む作用を担ってきた(当時、芝居は風紀を乱すと考えられていた一方で、人々の鬱憤を晴らし、モラルを支えていたという意味で江戸のモラルシステムとしての側面も同時に持っていた)ことが伺えます。また、同じくお岩さんの墓がある妙行寺には浅野内匠頭の正室である遥泉院の供養塔も建立されていますが、これは遥泉院が実祖母の高光院の永代供養を妙行寺に三十両(約300万円)で依頼した(その書状が残されている)ことから高光院の供養塔の隣に遥泉院の供養塔も建立されたようです。赤穂事件の陰の犠牲者である遥泉院の供養塔が妙行寺にあることで、(戯曲とは言え)刃傷事件の陰の犠牲者であるお岩さんと重なって感慨を深くします。因みに、赤穂浅野家は浅野内匠頭の祖父の長直の代に茨城県笠間市(笠間は座頭市の生誕地でもあります)から兵庫県赤穂市へ国替えとなり、孫の長矩の代に赤穂事件(1701年の刃傷事件、1703年の討入事件)がおきますが、その後、1710年に(来年の干支でもある犬公方綱吉の逝去に伴う赦免により)弟の浅野大学が旗本として千葉県館山市に所領を与えられて浅野家を再興しています。この点、敢えて大石内蔵助が泉岳寺で切腹しなかったのは、ただ赤穂義士が忠義心に事寄せて無頼無法の徒と化し仇討ちに及んで亡君の恨み(私恨)を晴らしたということ(ヤクザな復讐)には終わらせず、徳川幕府をして(浅野内匠頭の処断のときとは異なり)天下の御法に則って赤穂義士を公正に裁かせることが御政道を正すこと(武士の大義)につながるという信念、覚悟があったからなのだろうと思いますが、あくまでも大義に殉じたことが(赤穂)浅野家の再興にもつながったのだろうと思います。その意味では、大石内蔵助という男の人物の大きさに感銘を深くします。
◆おまけ
四弦楽器の日を記念し、ブルックナーが作曲した2つの室内楽曲のうち、弦楽五重奏曲ヘ長調より第三楽章の四弦尽くし(弦楽合奏版)を今年2月21日(お岩さんの命日の前日)に他界し、とりわけブルックナーの演奏では定評があったスタニスラフさんの編曲・指揮でご堪能下さい。
Anton Bruckner - Adagio from Quintet, orchestral transcription, Skrowaczewski
今度は薩摩琵琶奏者の坂田美子さんが主宰する琵琶ユニットびかむの演奏で平家物語より敦盛をどうぞ。圧倒的な坂田さんの歌唱力と伝統邦楽の表現力に恍惚としてしまいます。因みに、次々回のシネマ歌舞伎は平敦盛を討った熊谷直実が主人公の「熊谷陣屋」ですが、義に殉じた息子の短い人生を儚み、世の無常を嘆きながら出家する熊谷直実を演じる中村吉右衛門の名演技が見物となっています(最前列のお客さんが感極まって涙している姿が映されています)。仮名手本忠臣蔵の外伝としての性格を持つ東海道四谷怪談も同じテーマ性を持っていますが、ご興味のある方は映画館の大きなスクリーンでどうぞ。
映画「天心」
今年は1867年に明治維新(大政奉還)が行われてから150周年ですが、奇しくも、この節目となる年が世界では人工知能(AI)が実用化フェーズに入ったAI革命元年と位置付けられています。この時代の転換期とも言える年に、明治維新(文明開化)による極端な西洋化のうねりの中で壊滅的な危機に晒されていた日本の伝統美を守り、また、新しい時代の日本の美を生み出すために人生を捧げて「日本近代美術の父」と称される岡倉天心の半生を描いた映画「天心」(Amazonビデオ)を観たので、明治維新が日本の伝統美に与えた影響とこれに対して日本の芸術家がどのように向き合ったのかを振り返り、これからAI革命が日本のみならず世界の芸術に与えようとしている影響について考えてみたいと思います。その前提として、明治維新からAI革命までの状況を軽く俯瞰し、簡単に映画の感想を残しておきたいと思います。
【文明開花】文明国(西洋)と非文明国(東洋)の対立(近代化)
1730年代から1830年代にかけてイギリスで第一次産業革命が興り、「工業革命」(工場制機械工業による大量生産)や「交通革命」(蒸気機関による大量輸送・高速輸送)による社会変革が生じた結果、文明国(西洋)は大量生産した工業製品を安定的に輸出し、また、産業革命後の社会を支える天然資源(鯨油など)を安定的に確保するために非文明国(東洋)の植民地政策を拡大。文明国(西洋)による非文明国(東洋)の植民地支配に対する恐怖が日本で明治維新を興す契機となり、その後、日本は文明国(西洋)による植民地支配を防ぐために、狂信的な西洋化と殖産興業、軍事大国へと盲進。
☞ 移動手段の高速化:人・物のダイナミックな流通
☞ 維新で時代の主役が「武家」から「天皇」に交代
※ 西洋では印刷革命による楽譜のメディア化によって作曲家と演奏家が分化し、交通革命によるコンサートホールの誕生によって演奏家と聴衆が分化
【世界大戦】文明国(植民地主義)と文明国(植民地主義)の対立(軍事大国化)
文明国同士の覇権争いによる文明国の国力衰退とそれによる植民地(帝国)主義の崩壊。
☞ 敗戦で時代の主役は「天皇」から「国民」に交代
【経済成長】国家の規制による調整型社会・経済と護送船団(経済大国化)
植民地主義に代わる新しい社会・経済秩序(自由資本主義、社会民主主義、共産主義等)による世界再編。
【規制緩和】企業の自由による競争型社会・経済と自己責任(巨大企業化)
自由による経済混乱(バブル経済)と自律による秩序回復(コンプライアンス)。
【IT革命】インターネットによる社会・経済のボーダレス化(グローバル企業化)とパーソナル化(大資本による同品種大量生産から小資本による多品種少量生産化)
☞ 情報のデジタル化:金・情報のダイナミックな流通
☞ 戦後は時代の主役が「国家」→「企業」→「個人」へと徐々にダウンサイジング
【AI革命】AIによる産業革命で実現した社会・経済体制の変革(パラダイムシフト)
人間が持つ全ての機能(知情意や身体能力)を持ち、その全てが人間よりも圧倒的に優れているAIロボットは科学的生命体とも言うべき存在であり、これに比べてその全てが遥かに劣る生物学的生命体である人間の存在意義が問われる時代。
☞ 将来は時代の主役が「生物学的生命体」から「科学的生命体」に交代?
【題名】映画「天心」
【監督】松村克弥
【脚本】我妻正義
松村克弥
【出演】<岡倉天心>竹中直人(少年時代:大和田健介)
<菱田春草>平山浩行
<下村観山>木下ほうか
<木村武山>橋本一郎
<横山大観>中村獅童
<九鬼男爵>渡辺裕之
<狩野芳崖>温水洋一
<船頭>本田博太郎
<菱田千代>キタキマユ
<九鬼波津子>神楽坂恵
<アーネスト・フェノロサ>イアン・ムーア ほか
【美術】池谷仙克
【編集】川島章正
【音楽】中崎英也
【主題歌】石井竜也
【公開】2013年
【感想】ネタバレ注意!
この映画は岡倉天心の生誕150年、没後100年を記念して2013年に公開され、東日本大震災の復興支援プロジェクトとして津波被害で消失した六角堂を再建して撮影された記念碑的な作品と言えます。この映画は横山大観が1937年に第一回文化勲章を受章し、岡倉天心と共に自らも創設に参加した日本美術院(茨城県北茨城市)で新聞記者のインタビューに答えながら過去を述懐するところから始まります。
明治政府は日本の植民地化を回避し、欧米列強と対等な関係を築く必要に迫られるなか、日本の社会体制を急速に近代化する必要から“実用を貴て無駄を除く”という社会風潮が生まれ、神仏分離令等を契機として古い日本の社会体制を支えていた寺院、城郭、各勝旧跡や日本の伝統文化等が次々に破壊(廃仏毀釈など)され、日本古来の壮観(自国の美)が失われていきました。このような社会潮流のなかで壊滅的な被害を受けた法隆寺や興福寺を復興させた東大講師のフェノロサとその助手である岡倉覚三(天心)は明治15年に日本美術の再興を図るために狩野派の最後の絵師となった狩野芳崖を訪ねます。狩野芳崖は木挽町狩野家の狩野画塾(以下の写真)に学び、狩野画塾随一と言われた天才絵師で長府藩の御用絵師を務めましたが、廃藩置県後は長府藩(パトロン)から支給されていた禄(給与)を失い、また、明治政府による極端な欧化政策の中で生活の糧を得るのも難しく生活は困窮を極め、持病の肺炎に効くと言われる生ニンニクを齧りながら筆を握るという不遇な創作活動を強いられることになりました。狩野芳崖の才能を高く評価していたフェノロサは「どうしても日本の絵画を復興させたい。それには日本独自の真正な画術を超えて新しい魂をイディアを吹き込まなければならない。それはあたなにしかできない。」と説得し、これまでの日本画に足りないものを西洋画から採り入れて新しい近代日本画(新しい日本の美)の創作を試みるように働き掛けます。狩野芳崖がフェノロサのアドバイスを受けながら西洋画の技法を採り入れ、西洋から取り寄せた絵具を使って完成させた「仁王捉鬼」を見たフェノロサは「ミケランジェロやラファエロにも匹敵する無類の彩色だ。世界でもこれだけの極彩色はないだろう。狩野派の、日本の絵画の枠を完全に脱した。」と称賛します。「仁王捉鬼」には産業革命により開発された合成無機顔料が使われていますが、従来の日本画に使われていた顔料のように岩石、土、植物等の天然物を素材とする日本の顔料は色料が不均質となり複数の顔料を混ぜて多様な中間色を作り出すことに不向きでしたが、合成物を素材とする西洋の顔料は色料が均質となり複数の顔料を混ぜて多様な中間色を作り出すこと(混色技法)が可能になった結果、「仁王捉鬼」に見られるように中間色のバリエーションの豊かさによる鮮やかな色彩表現が可能になったと言えます。フェノロサは伊藤博文に狩野芳崖の「仁王捉鬼」を見せることで新しい近代日本絵画の可能性を示し、東京美術学校(現、東京藝術大学)を設立する足掛かりとしました。しかし、当時の日本では明治維新後の極端な西洋化に反発して自国の文化を守ろうとする国粋主義が台頭し、狩野芳崖のような西洋画の構図等を参考にした前衛的な絵画は久しく評価されませんでしたが、徐々に近代化が進むにつれて正当に評価されるようになったことで狩野芳崖の晩年の傑作「悲母観音像」が近代日本画の記念碑的な作品と位置付けられるようになりました。日本における西洋画の父を高橋由一とするならば、近代日本絵画の父は狩野芳崖と言えます。
【注】撲と同様に小さい物が見え難くくなった世代の方へ、写真をクリックすると拡大表示されます。神様は、人間が年をとるにつれて小さいことに囚われ惑わされるのではなく、もっと大きな視野で遠くまで見据え、物事の本質を見極められるようにと小さい物が見え難くくなるようにお造りになられたのだと思います。宛ら、年端も行かない子供が自然に肺や筋肉、骨を鍛えて健やかに成長するようにと、(一見無意味に)大きな声で泣き叫び、走り回るように造られているのと同じです。神は人間から何かを奪われているのではなく、人間に必要なものを全てお与えになられているということですな。尤も、AIの時代になると、このように色々なことに折り合いを付けて行く生物学的な「考え方」そのものが意味を失うことになりそうですが。
フェノロサの志を受け継いで1890年に東京美術学校(現、東京藝術大学)の初代学長となった岡倉天心は、横山大観や下村観山らの一期生に対し、狩野芳崖の「悲母観音像」を前にして「悲母観音は普遍なる母。観音である。人生の慈悲は母が子を愛するものに勝るものはない。観音は理想の母である。それはまた創造の源である。私はその観音の姿を描こうと願い続けてきたが、いまだ最良な姿を完成することができない。芳崖先生はそう語られ、この名作を残された。私は芳崖先生によってこの手を、フェノロサ先生によって魂を与えられたのです。西洋化の狂乱の中で千数百年を超える日本の美がどれだけ姿を消したことか、しかしそれを守り蘇らせる新たな日本の美を作り、文化が本当の人間の世界を作ることを世界に示す、それこそが諸君のなすべきことである。諸君、この東京美術学校の初代学生としてこの世に咲き誇るべき新たな日本画を生み出し、野蛮でイントレランスな世界から人間を解き離せんことを願う。」と建学の精神を語ります。その後、1893年に岡倉天心を批判する怪文書に端を発した“東京美術学校騒動”により岡倉天心は東京美術学校の校長を辞任しますが、この背景には日本画、木彫、彫金など日本の伝統美術の振興を目的として東京美術学校を設立した旧幕府側の岡倉天心に対し、東京美術学校に西洋画科等を設置して早急に近代化を推進したい旧討幕側の明治政府が岡倉天心の女性問題(九鬼男爵夫人とのスキャンダル)を奇貨として更迭まで追い込んだ権力闘争というのが真相のようです。岡倉天心は新たな美の創造の場を作るために茨城県北茨城市に日本美術院を開設(移設)しますが、これに下村観山、横山大観、菱田春草及び木村武山らが従います。岡倉天心は「画家たる前に日本人たれ、東洋人たれ」を口癖として弟子達を熱心に指導しますが、日本美術院の開設(移設)にあたって「奇なることを恐れるるながれ。奇なるもよし、怪なるもよし、奇ならざるもよし、怪ならざるも不可なし、生存の一つは新境遇に応ずるの変化力にあることを忘るるなかれ。」と挨拶しており、単に古式を復活させるのではなく西洋画の優れた点を採り入れながら新しい時代に相応しい日本画(日本の美)を創り出そうと志していたことが伺えます。菱田春草や横山大観らは日本画の伝統であった線描を止めて西洋画(印象派)の表現技法を採り入れ、ハケを使って明確な輪郭を描かずに色彩の濃淡によって対象を描く朦朧体という新しい日本画の表現技法を生み出します。これによって日本の伝統的な画題(和魂)を西洋の新しい表現技法(洋才)を使って描こうとしますが、なかなか当時の社会には受け入れられず試行錯誤を重ねるうちに徐々に生活が困窮を究めて行く苦悩が描かれています。これに対して岡倉天心は「無用の用を知る。これが芸術だ。」「芸術家っていうのは本来ボヘミアンというものだ。真の芸術のために乞食になるのが嫌ならばやめちまえばいい。」「生活することがすべてだったなら美はいらねえよ。生きて、生きて、それでも生き切れないから美があるんじゃないのか。」「(魚が)釣れる釣れないは只の事実だ、自らの個性をかけて理想の釣りを求め、その現実を生きることこそが人生なんだ。人生の、人間の、自然の雄大なドラマの中で、悲劇であれ喜劇であれ一個の独創的な個性を役割を演じる。そのことを喜ぶ者が芸術家なんだ。」などと弟子達を叱咤し続けます。その甲斐もあって、第一回文展(1907年)では、朦朧体を改め、点描を使って色調により遠近感や立体感を構成する新しい表現技法を生み出した菱田春草の「賢首菩薩」が2等賞(1等賞なし)、優れた写実描写と色彩感覚によって独特の表現様式を生み出した木村武山の「阿房劫火」が3等賞を受賞します。日本美術のコレクションで有名なボストン美術館の東洋部長を務めた岡倉天心は1913年に他界しますが、その直前に横山大観に対して「美校は日本画よりも西洋画科の学生が多いそうだ。過去は現代(近代)文明の貧しさを憐れむ、未来は現代(近代)芸術の不毛さを嘲り笑うことだろう。俺たちは暮らしの中の美を破壊することによって芸術を破壊してるんだ。この自己中心的な世紀の中で俺は一体どんな未来をもたらすことができるのか、俺にも分からない。利休は好んでこんな歌を引用した。『花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや(藤原家隆)』」と語りますが、春に咲く花だけではなく雪間の草にも春の気配(風流)を感じ取り、その雪間の草の息吹に生命の美しさ(仏性)を悟る日本的な美(和魂)が捨て去られようとしている現状を憂いていたことが伺われます。最後に横山大観は新聞記者に対して「五浦時代は辛い苦難の時代だった。」と述懐し、映画の冒頭シーン(五浦の海の荒波)に象徴される明治維新(文明開化)による西洋化のうねりの中で時代の流れに抗うように新しい近代日本画(新しい日本の美)の潮流を生み出そうと試み続けた辛苦を滲ませます。時代の変革期にあって「変わらないために、変わり続ける」こと(伝統と変革)の難しさが我が身に染みて共感させられる映画でした。因みに、ボストン美術館のアジア部門には美術品と同じ扱いで鑑賞できるようにと依頼されて設計、作庭された枯山水の庭園がありますが、岡倉天心がボストン美術館に運んで保存していた灯籠と石塔が使われていることから「天心園」と名付けられています。
AI革命元年と言われる節目の年なので、明治維新(文明開化)が日本画以外の日本の伝統文化にどのような影響を与えたのかについて、もう少し幅広く振り返ってみたいと思います。夏目漱石は著書「現代日本の開花」の中で文明開花について「西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的」であり、「皮相上滑りの開化」であると悲観したように、明治政府が急速に進めた近代化(西洋化)は、その妨げになる日本の伝統的な社会体制を破壊することによって何ら創造的な営みを経ることなく西洋の文明を表面的に模倣する形で進められました。例えば、平安後期に天皇政権から武家政権へと移行するに伴って東洋的な思想を体言した仏教(武家の武力闘争を背景とした怨霊鎮魂・鎮護国家の思想。その意味で「仏」は死者のための存在)がインド・中国から伝来して普及し、日本古来の神道(農耕民族である日本人は作物を育む大地を信仰し、大地にある万物を神聖なもの(恵み)と崇拝。その意味で「神」は生者のための存在)と結び付いて行きましたが(神仏習合)、明治維新によって再び武家政権から天皇政権へと移行すると、王政復古による神道国教化(神の子孫である天皇を中心とした国家統治を確立するための思想的バックボーン)と欧化政策による近代的(西洋的)な思想の吸収を推進するために、日本古来の神道から東洋的な思想を体現する仏教を分離する神仏分離令が発布され、これに伴って寺院や仏像、経巻等を破毀する廃仏毀釈の社会風潮が生まれて数多くの仏教美術(日本の美)も破壊されることになりました。この動きは仏教美術以外の日本の伝統文化でも同様で、明治政府が殖産興業や富国強兵などの近代化を推進するなかで日本の伝統文化は実用的ではなく低俗で日本の近代化を阻害する「国家に益なき遊芸」として毛嫌いする社会風潮が生まれ、1871年には江戸時代に按摩、針灸又は芸能(地謡、三味線、琵琶や筝等)を独占的に営むことを許されていた盲人組織「当道座」(この座には「検校」「別当」「勾当」「座頭」という階級があり、京菓子「八橋」の名前の由来にもなっている八橋検校(近代筝曲の祖)は最高位の「検校」です。また、映画「座頭市」は最下位の「座頭」で“市”という名前の按摩が主人公であり、千葉県旭日市に実在した人物(住居跡あり)です。因みに、映画「座頭市」では800両(現代の価値で約1億円)を払えば「検校」の地位が買えることから、市が金稼ぎに明け暮れるシーンが登場します。)が近代的な社会制度として好ましくないという理由で廃止されます。これにより日本の伝統文化が日本人(庶民)に広く解放されることになりましたが、西洋楽器と相性が良い筝は西洋の音階に調弦できるように楽器の改良が進んで西洋の楽器と頻繁に合奏させるようになり文明開化の流れに上手く乗って普及し、さらに、ジャポニズムを背景として筝曲「さくらさくら」がプッチーニの歌劇「蝶々夫人」(1904年作)の第一幕(YouTube:25:04~)に引用されるなど西洋でも注目されるようになりました(因みに、葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にインスピレーションを受けて作曲した可能性があると言われている交響詩「海」は1905年作)。その一方で、三味線や浄瑠璃(常磐津、清元、新内等)等は前近代的であるとして廃止論が盛んになり不遇の時代を迎えることになりました。また、江戸時代に諸藩に召し抱えられていた能楽師は廃藩置県後に天皇の臣下として明治政府から扶持を支給されていましたが、これも同様の理由から1871年に政府の支援が打ち切られて衰退します。しかし、1879年に来日した前アメリカ合衆国大統領グラントから「貴国には固有の音楽アリヤ」と問われた岩倉具視が能楽を「高尚優美ノ技芸ナリ」と紹介したところ、これを受けて実際に能楽を観賞したグラントから自国文化の保護も政府の重要な使命であることを示唆され、元公家や大名等の華族に働き掛けて能楽保護へと取り組むことになります。日本画がフェノロサの尽力によって再興したのと同様に、能楽もグラントという外国人の力によって再興を後押しされたことになり(このような外国人が邦楽の分野に現れなかったことは不運)、如何に明治維新(文明開化)が文明の意義を履き違えた浮足立ったものであったのか、また、(岡倉天心が映画の中で嘆いているように)それによって西洋(文明)に十分に認められ、受け入れられる価値を持っていた日本の伝統文化(日本の美)がどれだけ破壊され又は破壊されようとしていたのかということに思いを馳せれば、夏目漱石が「皮相上滑りの開化」であると悲観した言葉の重みが痛感されます。時代の変革期にあって、その時代に生きる人間の選択は同時代に生きる人間に対してのみではなく、未来に生きる人間(子孫)に対しても重い責任を負っているということに思いを致さざるを得ません。AI革命元年にあたって、AIが本当に人類に幸福をもたらすのかその副作用(AIが戦争やテロ、犯罪に悪用されないかという初歩的な問題もさることながら、知情意や身体能力のすべてが人間よりも優れ、人間のコントロールに服さずに自発的に自らの意志によって思考、行動することができ、かつ、生殖ではなく生産によって繁殖することができる科学的生命体とでも言うべきAIロボットを前にしたとき(即ち、これまで神が創造したものを漠然と“生命”と観念してきましたが、人間がそれと同じ又は上回るものを創造したとき)、そもそも“生命”とは何なのかという根源的な問いに始まって、AIロボットよりもすべてが劣る生物学的生命体である人間の存在意義をどのように捉え直せば良いのかという人間存在の本質に係る深刻な問題を突き付けられること)について十分な議論が行われないままに経済原理に従って技術開発競争が繰り広げられている現状に少なからず危惧を覚えます。
“ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする”....岡倉天心は横浜の貿易商の次男として生まれて英語を学びながら育ちますが、以下のとおり当時の横浜は文明開化によって西洋から新しいものが次々と流入していたので、そのような環境の中で岡倉天心は早くから日本人としてのアイデンティティを意識し(その意味で国際人たりえ)、だからこそ「皮相上滑りの開花」には違和感を覚えたと言えるしれません。
上述のとおり日本の伝統美術(とりわけ日本画)はその再興が試みられた一方で日本の伝統音楽は衰退の一途を辿ることになりますが、その後の日本音楽の近代化について簡単に触れておきたと思います。日本の音楽教育の研究機関として文部科学省に設置された音楽取調掛は日本の伝統音楽を「雅楽」(宮中の音楽)と「俗楽」(庶民の音楽)に分けて、俗楽は「無学ノ輩」(身分の低い者)の芸であり、その「淫奔猥褻ナル風教」(下世話に流れるきらい)は善良な風俗を害し、文明国としての品位を損なうものであって、とりわけ三味線や浄瑠璃等は俗楽の中でも最も卑しい「淫楽」(お座敷芸)であるという卑屈とも言える偏見に満ちた見解を示したことが1つの要因となって、2002年の和楽器の義務教育化まで日本の音楽(邦楽)教育に暗い影を落とすことになります。音楽取調掛は伊澤修二がアメリカに留学していたときの音楽教師メーソンを招聘して西洋音楽の普及に取り組みますが、丁度、明治維新による欧化政策の一環としてキリスト教の布教が解禁されたことに伴って、メーソンはキリスト教の布教に最も効果的であるという理由から讃美歌の普及に意欲を示したのに対し、伊澤修二は子供達の道徳心や愛国心を育むことが音楽教育の目的(尤も、これは子供達の道徳心や愛国心を育むために音楽を有効に活用するという意味であって、音楽が道徳的又は愛国的であるべきだということまで意味している訳ではないと思います)であり西洋音楽の良いところを採り入れながら和洋折衷による新しい日本音楽(西洋楽器が十分に行き渡っていない状況を踏まえ、器楽ではなく声楽を中心とした唱歌)の創作を試みました。そのような状況のなか、1881年に東京女子師範学校(現、お茶の水大学)で催された唱歌の台欄演奏会に岡倉天心(当時、岡倉天心は外国人教師の通訳として音楽取調掛に勤務し、メーソンとも親交があったと言われています)も参加して「ルソーの夢」が歌われたという英文報告書を残していますが、これはルソーの歌劇「村の占師」(1752年作)の第8場舞曲「パントマイム」(YouTube:51:40~)が讃美歌「グリーンヴィル」に編曲されたもので、日本では唱歌「むすんで ひらいて」として一般に普及しました。当初、古今和歌集の和歌「見渡せば 柳桜を 扱き混ぜて 都ぞ春の 錦なりけり」(素性法師)を基に作られた歌詞「見渡せば 青柳 花桜 扱き混ぜて 都には 道も瀬に 春の錦ぞ 佐保姫の 織りなして 降る雨に 染にける」が添えられ、後に「むすんで ひらいて、てをうって...」のお馴染みの歌詞に改作されましたが、日本音楽の近代化は讃美歌の旋律(西洋の技法=洋才)を借りながらその歌詞に日本的な詩情(日本の思想=和魂)を盛り込み、(神ではなく)国を賛美する唱歌を創作することで子供達の道徳心や愛国心を育もうと試みました。丁度、近代日本画が画題を東洋的なもの(日本の思想=和魂)に求めながらその描画は西洋画の良いところ(西洋の技法=洋才)を採り入れたことと相似しており、「皮相上滑りの開花」の中にあって日本の伝統文化を承継する芸術家達は西洋文化の良いところを採り入れながら日本の伝統文化を新しい時代に相応しい形に改良し、再生しようと試みていたことが伺えます。なお、唱歌遊戯(唱歌のリズムにのせて集団で体を動かす運動)は子供達の身体能力を向上するために利用されますが、日本舞踊のように腰を落として足を擦りながら行う回転運動(農耕民族が田植えをするときの動き。大地=八百万の神々に向けられた下へのアピール。)だけではなく、バレエやダンスのようにスキップやジャンプなど足を高く振り上げ又は跳躍する上下運動も採り入れること(狩猟民族が獲物を狩るときの動き。太陽=唯一絶対神に向けられた上へのアピール。)により子供達の身体能力を開発、強化することも試みられていたようです。
このように日本の伝統文化(とりわけ日本画と声楽)は和魂洋才という手法で近代化を指向しましたが、これを分かり易い例で言い換えるとすれば、「明治維新」ではそれまで裸同然だった日本人が西洋人の立派な服装を見て恥ずかしく感じ、外見を“洋服”で装って恰好良く見せようとする一方で、その中身はやはり履き慣れた“フンドシ”が一番ということに落ち着きましたが、「第二次世界大戦敗戦後」はGHQ占領政策の1つである日本洗脳プログラム(WGIP)によって“オイナリサン”がチラチラと見え隠れするような“フンドシ”は無理矢理に脱がされ、もう二度と“オイナリサン”が見えないように西洋人も履いている“パンツ”をあてがわれました。これによって自分が何人なのか分からなくなってしまいましたが、元来器用だったので“洋服”や“パンツ”を自分達の身の丈に合わせて再加工し西洋人よりも恰好良く着こなすようになったので、今度は自分達にしか着られない独自の寸法ではなく西洋人の寸法に合わせろ(「規制緩和」)と生活指導が入ったので、とうとう“洋服”や“パンツ”を恰好良く着こなせなくなり、自分が何人なのか分からない只の恰好悪い人に成り下がってしまいました。ところが、最近、お前は何人なのかと問われる機会が増えてきたので、本来の自分は何人だったのか興味を持ち始め、書店やコンビニ等には“神社仏閣”、“しきたり”、“江戸”、“古事記”、“伝統”など懐古趣味をくすぐる本や雑誌が並ぶようになったというのが現代日本の時代観だと思います。
江戸時代には「美術」という言葉やこれに概念的に包含される「絵画」「彫刻」「工芸」という言葉(ジャンル)は存在せず、「絵師」(武家文化の御用絵師及び庶民文化の浮世絵師を含む)「塗師」「仏師」「陶工師」等に留まらず「瓦師」「畳刺」「経師(表具師)」「鳶(仕事師)」「屋根葺」等に至るまで熟練した技術を身に着けて手作業により物を作り出すことを「職能」と呼んでいましたが、明治政府がウィーン万博(1873年)へ参加するにあたって出品分類区分22“Kunstgewerbe”(ドイツ語)の翻訳として「職能」ではなく初めて「美術」という言葉を使いました。その定義として「西洋にて音楽、画学、像を作る術、詩学などを美術と言う」と添えられたことから、当時は「職能」よりは狭く(現代的意義の)「美術」よりは広い(現代的意義の)「芸術」に近い概念として「美術」という言葉を使ったようです。この点、(当時の)「芸術」という言葉には稽古事や技という語感があり、“文”だけではなく“武”を含む幅広い技術(ギリシャ語の“techn”(テクネー))を意味していましたが、そこから“武”を捨象して“美”に関する芸術に限定する意味を持つ「美術」という言葉が造られたようです。また、第3回内国勧業博覧会(1890年)からは西洋に倣って、それまでは「書」と「画」(画には線描という語感があり、そこから筆の一線を一画と数えるようになりました。)を組み合わせた「書画」(文字+線描=水墨画、東洋画)という出品分類区分が設けられていましたが、新たに「絵」(絵には色描という語感があり、多彩な“糸”を縫い“会”わせて創る刺繍模様を示していました。)と「画」を組み合わせた「絵画」(線描+色描=大和絵、西洋画)という出品分類区分が設けられて「絵画」が「書」から独立したものとして確立します。これにより「書」は内国勧業博覧会から姿を消すと共に、明治政府が主催する官展や東京美術学校の教科からも除外され、1948年に日展で「書」が復活するまで全く顧みられることはありませんでした。この点、西洋では古代ローマ時代からカリグラフィー(ギリシア語の“CALLI”(美しく)と“GRAPHEIN”(書くこと)から成る言葉で、文字を美しく見せるための手法という意味では日本の書道と共通していましたが、日本の書道のような精神性は持っていませんでした。丁度、日本では緑茶=道(精神的なもの)として発展したのに対し、西洋では紅茶=薬(実用的なもの)として普及したのと同様です。)の伝統は存在していましたが、活版印刷技術の発達により手書きの必要性が薄れたことに伴って徐々に脚光を浴びなくなり廃れて行ったのに対し、日本では(早くから活版印刷技術は輸入されていましたが)写経に代表されるように手書きの書は精神を修養するための有効な方法(座禅や茶道と同じように心を整える術)であると捉えられていたことから廃れることはなかったという違いがあります。しかし、上述のとおり既に西洋ではカリグラフィーが廃れていたことから、日本の「書」は文明開化(西洋化)の流れの中でその居場所を失って不遇の扱いを受けることになりました。ご存知のように、その後、Apple社の創業者であるスティーブ・ジョブズがMacの開発にあたってカリグラフィーに着目しパソコンにフォントを導入したことで、再び、西洋でもカリグラフィーが脚光を浴びることになりましたが、これはメディアアート(アート、デザイン、テクノロジーやサイエンス等を融合した創作)の走りと言えるかもしれません。このような経緯を経て「美術」や「絵画」を始めとして「彫刻」「工芸」「写実」「様式」「伝統」等の美術用語や「歴史画」「戦争画」「風俗画」「風景画」等の絵画ジャンルが創られ、また、「美術史」「博物館」「美術館」「展覧会」「美術学校」等の西洋の学問分野や社会資本が整備されて日本美術の近代化が図られましたが、その一方で、西洋の日本文化ブーム(ジャポニズム)を見ると、浮世絵や工芸品など日本の伝統美術(庶民文化)に高い評価が集まり、国是として取り組んできた日本の近代美術は暫く注目されませんでした。指揮者の小澤征爾さんが著書「小澤征爾 音楽ひとりひとりの夕陽」の中で作曲家の伊福部昭さんの言葉「民族という個別性を通り抜けなければ、世界という普遍性に辿り着けない」を引用して日本人が西洋音楽に取り組む意義について考察されていたのを思い出しますが、明治維新、日本敗戦及び規制緩和という3度の黒船来航(外圧)によって否定、破壊されてきた日本人の民族という個別性=日本人のアイデンティティは、インターネットの普及によるボーダーレス化(時代性・地域性・ジャンル等の崩壊)によって、再び日本人の拠り所(新たな芸術的創作の源泉を含む)としての意義が見直され、それが懐古趣味という緩やかな社会現象になって現れているのかもしれません。なお、一般に「近代」(モダン)とは明治維新から第二次世界大戦敗戦までの期間(明治維新→大正ロマン→昭和モダン)を示し、「モダン」(近代)=「モード」(流行の様式)+「モデル」(模範の型式)から成る言葉で、“新しいこと=良いこと”というドグマ(進歩主義、近代主義)のもとに様式や型式(洋才)への傾倒をもたらし(様式や型式が重視された時代性は同じ規格の商品を大量生産する経済活動にも結び付き)ましたが、「現代」(コンテンポラリー)とは第二次世界大戦後の時代を言い、「コンテンポラリー」(現代)=「コン」(共有)+「テンポ」(時間)から成る言葉で、進歩主義や近代(≒西洋)主義の呪縛から解放されて懐古趣味(その根底に息衝く日本人の民族という個別性=日本人のアイデンティティ)も許容、評価される時代になり、近代的な既成概念に捕らわれずに時代性・地域性・ジャンル等を超えたクロスカルチャーな創作(とりわけ日本では日本の伝統芸術と他の芸術分野とのコラボレーションによる新しい創作)が多様な芸術表現を生む時代になった(様式や型式など既成の枠を超える多様さが重視される時代性はユニークな規格の商品を多品種少量生産する経済活動に結び付いた)と言えるかもしれません。そのような時代を経て今年はAI革命元年と言われ、AI革命が芸術に与えようとしている影響についても注目が集まっていますが、これまでの変化が芸術の客体に生じたもの(即ち、明治維新が日本の伝統美に与えた影響とこれに対して日本の芸術家がどのように向き合ったのか)であるのに対し、これからの変化は芸術の主体に変化が生じ、それによって芸術の客体にもどのような影響がもたらされるのかということに関心が移っているように感じられます。ここでAI革命が芸術に与えようとしている影響について、僕の知り得る限りで少しだけ概観してみたいと思います。
先日のNHKスペシャル「人工知能 天使か悪魔か 2017」で、プロ棋士最高位である名人の佐藤天彦さんと人工知能(AI)の電王戦2番勝負の模様が放送されていました。結果は、ディープラーニングで飛躍的な進歩を遂げた人工知能(AI)が佐藤名人に2番とも圧勝しましたが(この勝負が決した瞬間は時代の転換点と言えるかもしれません)、この対戦を見た三冠王の羽生善治さんは人工知能(AI)がプロ棋士の常識では考え難い手筋を指すことに驚きを隠せない様子でした。人間の脳はできるだけ迅速に情報を処理し判断するために予め経験値や常識等で選択肢を絞り込んだうえで思考するように造られていますが、圧倒的な処理能力を有する人工知能(AI)は予め経験値や常識等で選択肢を絞り込む必要はなくあらゆる選択肢の中から最適解を導き出すことができるという意味で、もはや人工知能(AI)は人間の脳による思考を凌駕し、これを超越する存在になっていると言えそうです。このことは将棋の世界だけではなく、例えば、ビックデータを利用したマーケティングや商品開発などビジネスの世界にも当て嵌まり、既に幅広い分野で人工知能(AI)が実用化されています。今後、人工知能(AI)が普及、進化するにつれて、そう遠くない将来に人間が働く必要がない社会(資本主義経済の終焉)が到来すると予測されています。人類は初めて自分達よりも知能が高いものに遭遇したことになりますが、これによって自分達の限界に気付かされ、自分達の存在意義について考え直さなければならない羽目に陥るかもしれません。また、上記のTV番組では、人工知能(AI)が中途退職を希望する兆しがある従業員を探知し早期にケアすることで人材(ノウハウ)流失を防止することに役立てられている実例が紹介されていましたが、人工知能(AI)が人間のちょっとした表情、仕草、言葉使い、性格や環境等を分析し未だ本人ですら気付いていない一定の感情や思考を抱く予兆のようなものを探知して、それがマイナスの感情であればその心的要因を除去し又はプラスの感情であればそれを育むように促すなど、人間よりも木目細かく巧みな気遣い、おもてなし、カウンセリングなどができるようになるかもしれません。AIロボットと言うと非人間的なイメージがつきまといがちですが、自らは感情を持つことなく、しかし、人間の感情を探知・理解し、これに共感を示し又はこれを良き方に導くことができるという意味で、人間にとって(人間以上の)最良のパートナーになり得る可能性を秘めています。この点、人工知能(AI)が発達した世界は、現代の我々がイメージしている世界とは随分と違ったものになり得るのではないかと思います。
このような人工知能(AI)によるイノベーションの波は音楽や美術などクリエイティブな世界にも迫っており、先日のNHKクローズアップ現代+「進化する人工知能 ついに芸術まで!?」でも採り上げられていましたが、やがて人工知能(AI)は人間よりも遥かに巧みに作曲や演奏を行い、絵画やデザインを描き、或いは小説を執筆するAIロボットが登場することになるかもしれません。ややもすると芸術は人間の独壇場であるかのような根拠なき迷信(センチメンタル)にしがみ付きたくなる傾向があり、俄かに受け入れ難いことかもしれませんが、そう遠くない将来にバッハの音楽やオイストラフの演奏でも、或いはレンブラントの絵画でも味わうことができなかった奥深い感動をAIロボットによって味わされる日が来るかもしれません。この点、既に人工知能(AI)が執筆した小説が文学賞(星新一賞)の第一次選考を通過したことや人工知能(AI)が描いた絵画がカンヌライオンズで2冠を受賞したことがニュースになっていますが、世界コンピューター将棋選手権と同様に、近い将来、人間に代わってAIロボットによる音楽コンクールや人工知能(AI)の創作によるアート作品の展覧会などが脚光を浴びることになるかもしれません。ここでクイズを1問...
【問題】この曲はある讃美歌を基にして作られた4声コラールですが、誰の曲だか分かりますか?これに正解することができれば、あなたは相当な音楽通と言えるかもしれません。
【回答】この曲はゲオルク・ノマイクの讃美歌「愛のみ神にこそ」(434)を基にしてバッハの音楽をディープラーニングしたAIプログラム「DeepBach」が作った曲です。バッハの曲と言われて聞けば、どれくらいの愛好家がこの曲を贋作と見抜けるでしょうか。因みに、この讃美歌はバッハのカンタータ第93番(BWV93)や映画「Vaya con Dios」でも使われいる有名な曲なので、(AIプログラム「DeepBach」のことは知らなくても)愛好家なら知っておきたい1曲です。やはりバッハの真作と比べてしまえば全く筆致が及んでいないことは明らかですが、同じくバッハの音楽をディープラーニングしたGoogleのAIプログラム「Magenta」や米カリフォルニア大学コープ教授のAIプログラム「EMI」等も含めて、近い将来、これらのAIプログラムが進化してバッハの真作と疑って止まないようなバッハのエッセンス(DNA)が詰まった「フーガの技法」の補筆完成版を作曲してくれることを心待ちにしたいものです。なお、昨年に日本で公開された映画「The Forger」(邦題:天才贋作画家 最後のミッション)は、ある画家が組織犯罪集団からモネの「散歩、日傘をさす女」の贋作を作るように依頼され、それを真作とすり替えて盗むというストーリーですが、もし人工知能(AI)が発達して真作と何一つ変わらない作品をいくつも複製(≠複写)することができる時代(即ち、もはや人間の再現能力の低さを前提としない時代)になった場合、果たして真作(オリジナル)の価値や存在意義はどのように変質して行くのかという問題を考えさせられる作品であり、AI革命の進展によって芸術的な創作活動を含む人間存在の本質について相当深刻な問題を突き付けられる時代がやってくることを予感させます。
◆おまけ
未だ撲よりも下手ですが、将来有望なヴィルトゥオーソに成長すると目されているAIロボットによるヴァイオリン演奏をご堪能下さい。単なる演奏技能だけではなく、音楽解釈や音楽表現も人間を上回る時代がやってくるかもしれません。なかなか名古屋にあるトヨタ産業技術記念館まで足を運ぶことはできないので、来店誘客も兼ねて全国のトヨタ販売店を演奏旅行で巡業して貰えないものでしょうか。因みに、AIロボットは、弦楽器よりも鍵盤楽器や打楽器、管楽器の演奏の方が得手のようです。
シンギュラリティ(2045年問題)を含めて、人工知能(AI)が自ら行う美学と芸術(≠人間が人工知能を使って創る芸術)について本格的に研究している人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)の研究会の動画をアップしておきます。
人工知能(AI)だけではなくロボット工学の進歩も目を見張るものがあります。滑りやすい雪道を上手にバランスをとりながら歩く姿はもはや人間の身体能力と比べても遜色がないレベルですが、人間のように「歩く」「走る」「跳躍する」「踊る」「水面を泳ぐ」等だけではなく、鳥や虫にように「空中を飛ぶ」、魚のように「水中を泳ぐ」など人間の身体機能を遥かに上回るAIロボットも既に開発され、実用化レベルにあります。
映画「花戦さ」
【題名】映画「花戦さ」
【監督】篠原哲雄
【原作】鬼塚忠
【脚本】森下佳子
【出演】<池坊専好> 野村萬斎
<豊臣秀吉> 市川猿之助
<織田信長> 中井貴一
<前田利家> 佐々木蔵之介
<千 利 休> 佐藤浩市
<吉右衛門> 高橋克実
<専 伯> 山内圭哉
<専 武> 和田正人
<れ ん> 森川葵
<石田三成> 吉田栄作
<浄 椿 尼> 竹下景子 ほか
【音楽】久石譲
【劇中絵画】小松美羽
【題字】金澤翔子
【協力】表千家不審菴
裏千家今日庵
武者小路千家官休庵
【監修】華道家元池坊
【公開】2017年6月3日
【場所】京成ローザ10 1,800円
【感想】ネタバレ注意!
昨日から封切られた映画「花戦さ」を観てきたので、その感想を残しておきたいと思います。映画は人生を教えてくれると言いますが、この映画は心からオススメできる映画なので、是非、多くの方にご覧頂きたいと思います。映画「花戦さ」は花僧・池坊専好の生き様を通して華道の本質に迫った映画ですが、千利休の生き様を通して茶道の本質に迫った映画「利休にたずねよ」をご覧になられてから映画「花戦さ」をご覧になられると一層と鑑賞が深まるのではないかと思います。昔から「一芸は万芸に通じる」(世阿弥)、「一道は万芸に通じる」(宮本武蔵)と言いますが、華道、茶道、香道、書道等の芸道、柔道、剣道、弓道等の武道、そして仏道と、それぞれの態様は異なっても、いずれの道を究めるということも、人の生きるべき道のようなものを探究することに他ならないと思います。正しく映画「花戦さ」は花僧・池坊専好の生き様を通して華道の本質に迫ることで人の生きるべき道のようなものを諭されている(即ち、映画という器に池坊専好の心を活けることで、観る者の心も活け(整え)られている)ような映画で、久しぶりに深い感動と清々しい充足感を味わうことができる作品でした。以下では、少し映画の具体的な内容に触れながら感想を書きますので、これから映画を観る方はご注意あれ。
- 作者: 鬼塚忠
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この映画の冒頭では池坊専好が河川敷に横たわる死者に菖蒲の花を手向けるシーンがシンボリックに用いられています(カキツバタは水の中に咲く花、アヤメは陸に咲く花ですが、菖蒲は水際=あの世とこの世の境目に咲く花)。ややもするとラストの花戦さのみに関心が向けられがちですが、このシーンで登場する天才絵師無人斎(画号)の遺児れん(蓮)に非常に重要なテーマ性が持たされていると思います。池坊専好は河川敷に横たわる者の中に未だ息のある遺児れんを見付けて助けますが、すっかり生きる気力を失った遺児れんは食事すら受け付けず、その様子に心を痛めた池坊専好は水桶に入れた蓮の花を遺児れんの傍らに添えます。やがて遺児れんは蓮の花が「ぽん」と音を鳴らせて花開く姿にインスピレーションを受けて、お寺の襖に奔放闊達とした荒々しいタッチで息吹迸るような蓮の花の絵を描き出します。仏教では、蓮の花が開くときに鳴る「ぼん」という音を聞くと悟りが開けると言われていますが、蓮の花が泥水の中から生じて清らかで美しい花を咲かせる力強い生命力に触れることで遺児れんは再び生きる気力を取り戻して親譲りの才能を開花させていきます。さしずめ池坊専好が蓮の花の力を借りて遺児れんの心を活けたシーンと言えそうです。この映画の中で池坊専好は「花の中に仏がいたはる。宿る命の美しさを、生きとし生けるものの切なる営みを、伝える力がある。」と言って花の中に仏性を見出していますが、これは山川草木悉皆成仏という仏教の教え(世界観)が背景にあるものと思われます。法華経では「南無妙法蓮華経」という題目を唱えますが、(ここでは詳しく触れませんが)この「蓮華」という言葉には蓮のように美しい花(ここでは「花」ではなく「華」=「悟り」というべきか)を開くという祈りが込められており、上述のとおり泥水の中から美しい花を咲かせる蓮の花の姿に人の生きるべき道のようなものを見出していたのかもしれません。また、生け花には万物の基礎である天・地・人のうち、天を体現する「真(しん)」と呼ばれる部分があって神が天下る「依代」と考えてられていますが、これは八百万の神々という神道の教えが背景となっており、その思想は、例えば、能楽堂の鏡板に描かれている松や三番叟で舞台の四隅に植えられる小松として能楽の中にも息づいています。この点、能楽には、例えば、人間の霊が草木に化体する「東北」(和泉式部の霊が化体した梅)・「半蔀」(源氏物語の夕顔の霊が化体した夕顔)・「女郎花」(入水自殺した婦の霊が化体した花)など、神仏が草木に化身する「高砂」(神が化身した松)・「龍田」(神が化身した紅葉)・「梅」(神が化身した梅)・「花月」(仏が化身した柳)・「杜若」(仏が化身した杜若)など、草木が成仏する「芭蕉」・「西行桜」・「藤」・「遊行柳」(それぞれの草木の精霊)などの曲目が存在し、神道や仏教の教え(思想)は日本人の自然観や死生観として心に根付き、華道だけではなく様々な文化として花開いていると言えます。昔の日本人は暗闇、風音、空模様など森羅万象が織り成す神の御技にインスピレーションを受けて豊かな精神世界を営み、それが昔の日本人の創造力の源泉になっていましたが、いつしか唯物的世界観に心を支配されて精神世界の営みを失い、心の逃げ場を失って窒息しかけているのが現代という時代性ではないかと感じますし、それが何やら滑稽ですらあります。
「茶の湯の大事とは人の心に叶うこと」…映画「利休にたずねよ」では千利休のもてなしに羽柴秀吉が心を裸にされて落涙するシーンがありますが、これと同様に、映画「花戦さ」では千利休のもてなしに池坊専好が心を裸にされて落涙するシーンが印象深く描かれています。二畳隅炉の空間は心静かに自分自身と向き合うことができる広さであり、躙り口から腰を屈めて見上げる茶室、草庵風に仕上げられた荒壁や花本来の素朴な美しさや生命力を際立たせる一輪挿しは心のこわばりを解いて、自然の音の中に息づく茶の湯の三音(湯釜の蓋をずらして開ける音、茶筅の穂を茶碗の湯にとおす音、茶碗に茶を入れたあと茶碗の縁で茶杓を軽くはたく音、湯釜の湯の煮え立つ音(松風)、湯を茶碗に汲み入れる音、柄杓の中の残り湯を釜に返す音)が心を整えてくれる不思議な時の流れ(さながら座禅を組んで心を整えているときのような平らかで澄まされた感覚)を体験できます。池坊専好は大名家に出入りして花を生けているうちに、きちんと花を生けなければならないという気持ちが強くなり花を生けることが楽しくなくなったと悩みを吐露しますが、その待庵での体験を手掛りに花本来の素朴な美しさや生命力を見詰め直すことで精神の自由な飛翔や解放が感じられる「夏に跳ねる」(花本来の素朴な美しさが持つ輝きや生命力が漲る息づかいの一瞬一瞬を活写したような型破りで斬新な作品)を創作して自分の生け花を取り戻します。これと同様に、天才絵師無人斎の遺児れんも絵が評判になるにつれて池坊専好が「絵が丸くなった」と感じたように奔放闊達な画風は影を潜めて自分本来の絵を描けなくなりますが、茶室ではなく洞窟に籠って自分自身と向き合うことで(父無人斎の画風とは違う)自分の絵を取り戻します。ここでは安土桃山時代だけではなく現代にも通じる創作者、表現者の心の葛藤として、世評に惑わされず、創造に大切な自由な心を保ち続け又は創作意欲に忠実であり続けることの難しさが描かれています。
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もう1つ千利休が豊臣秀吉を待庵に招いて茶を点てるシーンが印象深く描かれています。映画「利休にたずねよ」では織田信長から切腹を申し付けられるかもしれない羽柴秀吉が利休のもてなしに心を裸にされて落涙するシーンが登場しますが、それと対局をなすように、豊臣秀吉が黒楽茶碗(自分との深い対話を求める器)を投げ捨て千利休に黄金の茶室(茶道で志す茶禅一味とは異なる世界)の建築を命じることでその心を捻じ伏せようとします。“猿”こと豊臣秀吉を市川猿之助さんが演じられていたのは実にアイロニカルで洒落ていますが(笑)、市川猿之助さんの豊臣秀吉の腹のうちを映す目の演技と千利休を演じる佐藤浩一さんの息を呑む間の演技とが白眉で、これほど豊臣秀吉と千利休の人間模様(“羽柴秀吉”の心を裸にできた千利休の茶がいまは“豊臣秀吉”の頑な心を解くことができず、徐々に心が離れ始めているその心のあや)が見事に描かれている名シーンだと思います。「茶の湯の大事とは人の心に叶うこと」と言いますが、その一方で、茶人としての美意識(道)に忠実であろうとする千利休の心の葛藤が巧みに描かれています。戦国時代ほど極端な形では現れませんが、現代でも才能が乏しい上司と才能が豊かな部下との間の微妙な関係はあり得るものなので、その意味でも面白いシーンでした。
- 作者: 華道沿革研究会
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ラストシーンに並ぶ印象深いシーンとして、千利休の切腹により創作意欲を失っていた池坊専好が花の力によって創作意欲を取り戻すシーンがあげられます(生け花によって自らが活かされるシーン)。このシーンで野村萬斎さんは脚本・演出にはなかった涙を流しますが、華道を究めるということは人の生きるべき道のようなものを探究することに他ならず、花を生けることによって、その人も生かされるという意味で一種の精神修養のための行(心を整えるための術)のようなものであることを教えられます。生け花で使う花器を「花生け」、茶の湯で使う花器を「花入れ」と言いますが、千利休が「花は野にあるように」と言ったとおり、茶の湯の花は自然にあるがままを挿し入れ、茶室の設えとの調和を大事にして、茶事の束の間に蕾がほころぶ姿を楽しめるように命の短い花材を使うことを特徴とします(時間芸術よりも空間芸術に重きを置いた考え方)。これに対し、生け花はそれぞれの花の美しさを最大限に引き出すように技巧を駆使して「花を生かす」ことを大事とし、できるだけ長くその姿を楽しめるように寿命の長い花材を使うことを特徴とします(空間芸術よりも時間芸術に重きを置いた考え方)。尤も、第4代目池坊専好さんが「野山を、自然の中を歩いて、どのような環境でどのような草花があるのかを自分でよく見極め、知っておくことが大切だと思います。人間の勝手な思い込みで生けるのではなく、あくまでも自然にある草木の姿を生かす」ことが大切だと仰られているとおり(花は足で生けよ)、生け花も茶の湯も花も華美のみを追い求めるのではなく、その自然の姿、即ち、侘びや寂びの精神にも通じる移ろい行く花の命の美しさを写し取っているという意味で、花に見ている美しさの本質は共通しているのだろうと思います。花は自分を映す縁でもあり、花の美しさとは何か、花に何を見るのか、その感じ方は人それぞれだと思いますが、白洲正子さんが川瀬敏郎さんの生け花を見て「この壷にはただ綺麗なものを入れても詰まらない。寒菊はちょっと野暮ったいからいいのよ。」「この板に瑞々しい花は合いません。“冷え枯れる”美しさというか、命の凝縮したような枯牡丹じゃないと。」と感じたとおり(白洲正子著「美の種まく人」より抜粋)、これが花の美しさ(生き様)であり、花を生ける(愛でる)という意味ではないかと個人的には感じています。武田信玄が「人の使ひようは 人をば使わず 能(わざ)を使ぶぞ」という名言を残していますが、これは人の上に立つ者は人を使うという狭い了見であってはならず人を活かすという心掛けこそが肝要であるという帝王学です。生けられない花がないように活かせない人もいない、生(活)ける人の心掛け(即ち、生け(活かし)方)1つで、どんな花も、どんな人も、その美しさ(能力)を発揮するということであり、花も人も全く同じということです。
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ところで、日本人が移ろい行く儚いもの(その象徴としての自然、地上界、多神教)に美を感じ取る傾向(侘びや寂びに通じる精神)があるのに対し、西洋では永続する完璧なもの(その象徴としての太陽、天上界、一神教)に美を感じ取る傾向があり、これは日本と西洋における庭園造りの思想の違いに端的に現れています。(分かり易くするために、誤解を恐れずに荒っぽいことを書きますが)日本人は農耕民族であり、無から有(命の恵み、農作物)を生み出す大地(自然、万物)を崇拝し、その命の恵み(農作物)を生み出す大地(自然、万物)には神仏が宿っているという思想(多神教)が生まれます。自然は畏敬、崇拝の対象と観念され、日本庭園は神仏が宿る大地(自然、万物)のありのままの姿を写し取り、その縮景として神仏が説く世界観を表現するようになります。このため、日本庭園内にある建物(茶室を含む)は庭園の中に溶け込むように設えられ、人間が庭園(自然)の中を回遊する(即ち、人間は自然によって生かされ、その一部として同化している)という基本的な考え方が背景にあります。日本庭園は季節によって移ろい行く自然をアシンメトリー(平面的又は立体的な位置関係が不平等三角形)になるように設えることで3次元的な奥行きを感じさせる自然的な調和美のある空間に造り上げています。この点、華道でも「右長は諸神、左短は諸仏」と言ってアシンメトリーな構図(「真・副・体」「天・地・人」等からなる不平等三角形)を用いているのは同じ思想的な背景があるものと思われます。これに対し、西洋人(の多くの民族)は狩猟民族であり、狩猟の対象である動物は太陽から人間に下賜された恵みであって、その恵みを下賜する太陽を崇拝する(一神教)一方で、その太陽から下賜された恵み(動物、自然)は人間にとっては支配の対象であるという思想が生まれます。このような思想を背景として、西洋庭園(但し、イギリス式庭園を除く。)は、人間(支配)と自然(被支配)とを明確に分離し、人間が支配し易いようにで庭園(自然)をシンメトリー(幾何学的でシンプルな空間)に加工することにより人工的・機能的な意味での完璧な美しさを追求するようになります(音楽における十二平均律も人間が音をコントロールし易いように人工的・機能的に1オクダーブを十二等分し、その十二音に収まらない自然音を切り捨てたのも同じ発想)。また、自然を支配の対象と捉えることから、庭園と建物は非連続的に設えられ、庭園は建物の“バルコニー”(天と地の間)から眺めるものとして造られたので、(自らを自然の一部として同化し同じ目線から庭園(自然)を愛でることを前提とした)3次元的な奥行きは必要なく、バルコニーから庭園を俯瞰(支配)し易いように2次元的な空間が好まれるようになります。因みに、ベートーヴェンの交響曲第九番の第四楽章は、いかにも“バルコニー”的な音楽を気取って人間中心(優位)主義的な発想(思慮の浅い少女趣味的な理想)が濃厚に漂い、“バルコニー”にあがってこない者は去れと言い放っているあたりはどこかナチズムの片鱗すら伺わせる胡散臭さ(底の浅い理想が早々に行き詰まる破綻の予兆)が見え隠れしているようで、この酒盛りの歌を聴く度にシラーとした気分にさせられます。或いは、堕天使ガブリエルよろしく、「天上の音楽」(第三楽章)から一気に「俗世の音楽」(第四楽章)へと聴衆を叩き落とすことで人間の増長を戒める教訓音楽と悟るべきなのでしょうか?いずれにしても、どのような曲にも良さはあるもので、誰でも原語で歌えてしまうお手軽さがクラシック音楽を身近なものにしているという意味では、この曲も生けられないことはないのだろうと思います。毒花を生けてしまいましたが、些か毒が過ぎましたでしょうか...。
▼いけばなの根源池坊展「花の力」札幌花展が丸井今井札幌本店で開催中。週末は映画「花戦さ」をご覧になった後、本物の花の力に触れて自分自身を生け直してみるのも一興かと。
閑話休題。先述のとおり、この映画の中で池坊専好が「花の中に仏がいたはる。宿る命の美しさを、生きとし生けるものの切なる営みを、伝える力がある。」と言っていますが、この言葉には仏教的な世界観と共に老荘思想にも通じる非常に奥深い哲学が感じられます。老子の言葉に「道常無為、而無不為」(道は常に何事もなさないが、それでいて全てを成し遂げている)というものがありますが、自然の営みは何も変化していないように見えてその実は長い時間の流れの中で絶えず変化を繰り返し、自ずと定まるべきところへ定まって全体との調和が保たれているという、生命の営み(生き様)の本質に触れる教えです。花のあるがままの姿には長い時間の流れの中で絶えず変化を繰り返して自然全体との調和を保っている姿、即ち、自然的な偶然の積み重ねが生み出すその存在の必然性が持つ力強さ(生命の輝き)が息づいており、その生命の営み(移ろい)の瞬間、瞬間の中に唯一無二(一期一会)の美しさを見出し、その瞬間を写し取って生かすことが花を生ける醍醐味ではないかと感じています。このような花本来の美しさに身を委ね、自分自身も自然の一部として同化し、その命の営み(移ろい)、息づかいに調和する(その花の命の営みに同化して自分自身の存在本質を問い直す)という精神的な営みが「花一輪に飼い馴らされる」ということではないかと感じています。このように華道には花の見た目の美しさの向こう側にある存在の本質(命の輝き)を感じ取る日本人の自然観や感受性が強烈に打ち出されており、それが西洋のフラワーアレンジメントとの圧倒的な違いになって現れているのではないかと思われます。池坊専好が花の力によって創作意欲を取り戻すシーン(生け花によって自らが活かされるシーン)ではこのようなことが象徴的に描かれていると思われ、非常に印象深く心に残っています。なお、この映画では千利休が切腹する際に梅蕾をつけた枝が茶室に生けられていましたが、千利休が切腹したのは新暦で4月21日のことであり、劇中でもよくこの時期に梅があったと驚かれています。この点、明治時代になって日本に渡来した「利休梅」というバラ科ヤナギザクラ属の花は、桜の花に遅れて、丁度、千利休の命日の頃に花を開くことから「利休梅」と名付けられ(...と言うことで「利休梅」は茶花としてよく利用されますが、千利休が愛した七種の花木「利休七選花」に含まれているという訳ではありません。)、また、千利休が愛用していた黒漆塗の棗の仕覆と伝わる裂「利休緞子」に施されている梅紋様のことも「利休梅」と言いますので、何やら心憎い演出意図が感じられます。梅の花言葉は「厳しい美しさ」や「忠実」ですが、最後まで茶人としての美意識に忠実であった千利休の生き様が生けられていているようで、感慨深いものがあります。そう言えば「利休梅」で思い出しましたが、「四十八茶百鼠」の中に千利休が好んで用いた色「利休鼠」(緑みがかった灰色)があります。「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる」という北原白秋の歌を思い出しますが、千利休が切腹した日も豪雨だったそうなので「利休鼠の雨」が降っていたかもしれませんな。夏休みも近いことですし、果たして「専好花火」という気の利いたものがあるのかも調べておきたいと思います(笑)。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」からオープニングの場面
最後に、池坊専好は専横を極める豊臣秀吉に「花戦さ」を挑むことを決意します。「花戦さ」と言っても、池坊専好が死を覚悟した真剣勝負という意味合いで、豊臣秀吉のように力で人の心を捻じ伏せるのではなく(即ち、剣術としての殺人剣と同じ)、生け花の美しさによって人の心を開かせること(即ち、武道としての活人剣と同じ)を本旨とした勝負です。池坊専好は、冒頭シーンで登場した菖蒲の花(河川敷で命尽きた名も無き民の花)や蓮の花(天才絵師無人斎が豊臣秀吉に猿の絵を献上して斬首されたことにより命を狙われることになった遺児れんの花)を生け、豊臣秀吉にどの花が美しいかと問い掛けますが、豊臣秀吉は見事な生け花を前にしてどの花もそれぞれに美しいと答えます。その答えを受けて、池坊専好は千利休が金色の茶器にも黒楽茶碗にもそれぞれの美しさがあるということを秀吉に伝えたかったのだと諭します。そして、天才絵師無人斎が描いた三幅の掛け軸(猿猴図)を掛けさせますが、はじめは怒りに顔色を変えた豊臣秀吉も池坊専好の生け花と三幅の掛け軸が織り成す生き生きとした世界に圧倒され、三幅の掛け軸に描かれた水墨画の猿の芸術的な価値に目覚め(即ち、豊臣秀吉が自分自身と向き合うことで)、自らの曇った心によってそれらの美しい花々を枯らせてきた治世の誤りに気付かされます。昔から愛嬌のある手長猿や山猿の水墨画は狩野山雪、長谷川等伯や伊藤若忠等の絵師が好んで描き、劇中で天才絵師無人斎(実在した絵師か分かりませんが、武田信虎が無人斎と号していたので“甲斐の山猿”に掛けられているとすると実にこってりとしたアイロニーです)が描いたとされる手長猿の水墨画のなかに「猿猴取月図」(猿が井戸に映った月を取ろうとして水におぼれるという故事)と似た構図のものがありますが、月までも我が物にしようとした猿と同様に豊臣秀吉の傲慢増長はやがて身を滅ぼすもとであるという諫めの意味が込められているようで、花戦さとは池坊専好の生け花の美しさに化体した千利休、天才絵師無人斎(豊臣秀吉によって歴史の闇に葬られた芸術家達の象徴)や名も無き民の心が豊臣秀吉の心を裸にし、その心を整えた(生けた)と言えるかもしれません。茶の湯ではなく生け花で豊臣秀吉の心を裸にするラストシーンは「芸は道に通じる」ということを思い起こさせます。最後に、豊臣秀吉に捕らえられた遺児れんが無事に解放され、池坊専好が河川敷で死者に手向けた花を指して「この花をええように書いたって」(専好)/「この花には毒があっても?」(れん)/「それでも花やろ」(専好)と語るシーンがありますが、華道はどんな花(人を含む万物)にもそれぞれの美しさがあり、そのような花(人を含む万物)の多様性とその調和が世の中に奥行きのある美しさや面白さを生むのであって、この世には生けられない花(人を含む万物)はないということを教えられているようです。当世流に言えば、ダイバーシティということになりましょうが、翻って自分の人生をどのように生けるのかは自分の心掛け次第とも言えるかもしれません。因みに、池坊専好と同時代を生きた井伊直虎の半生を描いた大河ドラマ「おんな城主 直虎」のオープニングでは弓矢に椿の花で応戦するシーンが登場しますが、このドラマも花の戦いがテーマになっていますので、どのような花の戦いが描かれるのか興味深いです。
*写真をクリックすると大きくなります。
【上段】1枚目:頂法寺(六角堂)の山門。頂法寺(六角堂)は聖徳太子が淡路島に漂着した如意輪観音像を祀るために建立されました。なお、聖徳太子は推古天皇の摂政でしたが、丁度、推古3年に同じく淡路島に香木が漂着し、後に香道が誕生することになります。2枚目:頂法寺(六角堂)の本堂(拝殿)と六角柳。3枚目:頂法寺(六角堂)の本堂(拝殿)。向かって右側に「華道発祥の地」という銘が刻まれていますが、遣隋使に派遣された小野妹子が頂法寺(六角堂)で聖徳太子の菩提を弔うにあたり、仏前に献花する大陸の風習に感化されて聖徳太子の墓前に花を供えたことが華道の始まりと言われています。4枚目:六角堂と池坊会館。頂法寺(六角堂)は「六根清浄を願う」(即ち、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲を捨て去って角を無くし、円満になる)という祈りを込めた形と言われています。5枚目:池坊御用達の老舗の刃物店「金高刃物老舗」。頂法寺(六角堂)と向かい合うように店を構えており、その小さいながら威風堂々たる佇まいに店主の心意気まで感じられるようです。
【下段】1枚目:太子堂と聖徳太子沐浴の古跡。この池の隣に僧侶の部屋(坊)があったことから「池坊」と呼ばれるようになったそうです。2枚目:蓮花の立花モニュメント。何代か分かりませんが、池坊専好の立花モニュメントです。3枚目:水仙の立花モニュメント。二代目池坊専好の立花モニュメントです。4枚目:華道の奥義書「池坊専応口伝」(通称、花伝書)のモニュメント。この花伝書で「瓶に美しい花を挿すこと」と、池坊が伝える「よろしき面影をもととする」生け花との違いが説かれています。川端康成がノーベル文学賞受賞記念公演で、この花伝書を引用して“生け花は小さい瓶上に大きい自然を象徴するものである。「野山水辺をのづからなる姿」を花の心として、割れた器、枯れた枝にも“花”があり、そこに花による悟の種がある。”と説かれたそうですが、その“花”を感じ取り、それを生かすこと(よろしき面影)が花を生けるということ(生け花)であると述べられています。5枚目:へそ石。もう直、祇園祭の季節ですが、江戸時代までは祇園祭の山鉾巡業の順番を決めるための籤取り式が京都(洛中)の中心地(ヘソ)と言われていた六角堂で行われていたそうです。
最後に、この映画でも見事な作品が使われていますが、実際に、以下の方々の作品も観に行ってみたいと思います。
http://www.ikenobo.jp/shodai-senko/
- 劇中絵画を担当した小松美羽さんの作品
- 題字を担当した金澤翔子さんの作品
華道に因んでブログの枕の代わりに、ブログの尻尾を付け加えておきます。華道の始まりは小野妹子が聖徳太子の菩提を弔うために出家して聖徳太子が創建した六角堂(頂法寺)の初代住職となったことに遡り、小野妹子が遣隋使として大陸に派遣された際に死者に献花する隋の風習に感銘を受けて六角堂の住職になってから聖徳太子の墓前に花を供えることを日課としたことに由来すると伝えられています。また、六角堂には聖徳太子が沐浴した池があり、その池の隣にあった小野妹子の住坊(僧侶の部屋)を「池坊」と呼んでいたことが池坊家の名前の由来になったと言われています。小野妹子の子孫は平安時代の初期までは公卿として中央政府で活躍していましたが、その後、藤原氏などが台頭してくると公卿に留まることができず、地方役人として全国各地に赴任し、そこに定住して武士になる者が多かったと言われており、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の井伊家家老の小野政次(高橋一生)は小野妹子の子孫と言われています。大河ドラマ「おんな城主 直虎」には毎回と言って良いほど生け花がシンボリックに登場し、井伊直虎が家臣や領民など周囲の人間を見事に生けて行く名領主振りが見物のドラマになっていますが、奇しくも井伊直虎が奮戦する花の戦さを池坊の始祖である小野妹子の子孫が支えるという構図になり、この大河ドラマの考え抜かれたテーマ設定に脱糞です。視聴率が低迷しているという記事を目にしますが、安易に大衆迎合に走って作品の質を貶めないのがNHKの良いところであり、民放とは一線を画する存在意義があります。もう一人、小野妹子の子孫として忘れることができないのが小野小町です。小野小町は能楽の題材として「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」など数多くの作品で扱われていますが、とりわけ「通小町」の題材にもなっている百夜通いの伝説が有名で、その約200年後、西行法師が東大寺再建のための砂金勧進に奥州藤原氏に向かう途中で小野小町の所縁の里と伝わる千葉県東金市に立ち寄り、京都深草から持ってきた墨染桜の枝を植樹して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に すみぞめに咲け」と詠んだと言われています。それから約800年の時を経て深草少将の想いは絶えることなく今もなおこの墨染桜に美しい花を咲かせ、百夜を超えて千夜に亘り、その美しい花びらと共に深草少将の儚い恋心を小野小町のゆかりの地に運び続けています。西行法師の想いも込められたその墨染桜は現代の我々の心にも美しい花を咲かせ続けており、西行法師が百夜通いの伝説という器に生けた生け花の傑作と言っても過言ではないかと個人的には思っています。
*写真をクリックすると大きくなります。
【上段】1枚目:欣浄寺(京都市伏見区)境内の裏庭。この土地は深草少将義宣卿が桓武天皇から賜った邸宅跡で、この隣には謡曲や歌舞伎等でも有名な墨染寺があり、境内には墨染桜と中村歌右衛門が寄進した墨染井があります。歌人の上野峯雄が友人の藤原基経の死を悼んで「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」と詠んだところ、この寺の桜がその心を感じて薄墨色に咲くようになったと言われています。2枚目:欣浄寺境内の裏庭にある「小町姿見の池」と「少将姿見の井戸」(涙の水)。昔、小野小町が深草少将の邸宅を訪れた際にその美しい姿を池の水に映して「おもかげの 変らで年の つもれかし よしや命に かぎりありとも」と詠んだと言われています。「少将姿見の井戸」(涙の水)は小野小町への想いを募らせる深草少将が自分の姿を井戸に映して切なさに涙した井戸と言われており、この井戸の水は今もなお涸れることがありません。「通う深草百夜の情け 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺」(西条八十)。3枚目:欣浄寺境内の裏庭に並んで立つ小野小町の塚と深草少将の塚。4枚目:隋心院(京都市山科区)の山門。小野小町が晩年に身を寄せた寺。夕暮れ時の紅色(暮れない色)に染まる山門はそこに刻み付けられてきた歴史と共に独特の風情を湛えています。随心院の境内には、卒塔婆小町坐像、文張地蔵尊像(小野小町作)、小町白描画、花小町(東野光生作)(以上、写真撮影不可)や小町榧の切り株、小町榧の実(小町榧から採れた実)、小野小町歌碑、通小町碑など小町ゆかりの品々を拝見できます。
【下段】1枚目:隋心院の山門前にある「小野小町化粧の井」。ここに小野小町の屋敷があったと言われています。2枚目:随心院境内の裏庭にある「文塚」。小野小町が恋文の束を埋めた塚で、その中には深草少将の恋文も含まれていました。3枚目:随心院境内の裏庭にある「小町榧」。小野小町は求婚を迫る深草少将に「百夜通って契りを結ぶ」と約束します。深草少将は片道5km弱の道程(欣浄寺と随心院との間を結ぶ大岩街道(府道35号線)〜醍醐道)を通い、毎晩、小野小町の屋敷の門前に榧の実を1つづつ置いていきますが、99日目まで通い、いよいよ約束の100日目の晩に大雪の中で凍死してしまいます。それを知った小野小町は大変に悲しんで深草少将が通ってきた道すがらに榧の実を植えたと言われており、今もその一部が随心院の境内やその周囲(西浦の小町榧、小野葛籠尻町の小町榧)に残されています。4枚目:西行法師が植樹した「墨染桜」(千葉県東金市)。西行法師は東大寺再建のための砂金勧進に奥州藤原氏へ向かう途中に鎌倉の源頼朝に拝謁した後に山辺赤人と小野小町のゆかりの地である千葉県東金市に立ち寄って、墨染寺に咲く墨染桜の枝を小町塚(小野小町が愛用していた機織りの「筬」(オサ)が埋められている塚)の向かいの丘陵に植樹して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に 墨染に咲け」と詠んでいます。今もなお西行法師が植樹した墨染桜は春になると花を咲かせ続けており、百夜を超えて千夜に亘り、桜の花びらと共に深草少将の儚い恋心を小野小町のもと(向かいの丘陵の小町塚)へと運び続けています。心より心に伝ふる花なれば...。
◆おまけ
映画「花戦さ」の中で、池坊専好が蓮の花の力を借りて遺児れんの心を活けるシーンに因んで、シューマンの歌曲「ミルテの花」(作品25)より「蓮の花」をアルト歌手の小川明子さんとご主人でピアニストの山田啓明さんの演奏でどうぞ。
花に因んだ曲をもう1曲。クープランの「クラヴサン曲集」第13組曲第1番「ユリの花ひらく」をどうぞ
◆おまけのおまけ
野村萬斎さんがメディア・アーティストの真鍋大度さんとの共同で創作した舞台「F●RM」の画像がアップされていたのでご紹介します。舞台に張り詰める気(エネルギー)の流れや型(フォルム)に込められた思想性をメディア・アートの技法を使ってイメージとして可視化し、そこに景色や趣きを生むことで、観客による精神世界の営みを覚醒しようという面白い試みです。既に完成されている三番叟にこのような演出を加えることは無益又は有害と苦言を呈する方もいらっしゃるかもしれませんが、千利休が言う「不足の美」(完成されているということは、そのこと自体が既に不完全である)のように、なおこの曲目の表現の可能性を探る試みはこの曲目の真価を見直し又は新たな発見を促すという意味でも有効な試みではないかと思います。華道の「よろしき面影」に導くという考え方に通じるものがあるかもしれません。
音楽への捧げ物(音楽大学校舎建替えのための寄付金募集)
最近知ったばかりなのですが、現在、2つの音楽大学で校舎を建て替えるための寄付金を募っています。古来、金は使うものではなく活かすものであると言いますが、我々の人生をより豊かなものにしてくれる音楽へのささやかな感謝と、将来、その音楽を担って行く才能豊かな学生を育む一助とするために、貴方のお金を活かしてみませんか?
桐朋学園大学音楽学部は寄付金の募集期間を過ぎていますが、いまならまだ受け付けて貰えます。国立音楽大学(僕の従姉妹は国立音大ピアノ科卒)は寄付金の募集期間があと僅かで終了します。いま全国の音大や美大では校舎の老朽化が進んだことから校舎の建て替えが進められており、これまでも校舎建替えのための寄付を募っていた音大や美大があったのかもしれませんが、これからでも遅くはありません。学生がより充実した環境で創造的な活動を行えるように、いま貴方の助けが必要です。そのささやかな善意は、やがて大きな感動となって我々の人生を豊かに満たしてくれるはずです。
▼桐朋学園大学音楽学部
http://www.tohomusic.ac.jp/about/fund.html
▼国立音楽大学
http://www.kunitachi.ac.jp/introduction/contribution/building_4.html
映画「ラ・ラ・ランド」(原題:La La Land)
今日は、千葉県千葉市にある明治天皇御小休所「しらい庵」(下の写真)で美味しい十割そばを食べたので、少しそばについて書きたいと思います。正月のブログ記事で、日本語が持つ音の特徴は自然音と似ており、日本語を母国語とする人は自然音を左脳(言語脳)で認識して何らかの意味を感じるのに対し、西欧の言語が持つ音の特徴は概して自然音とは似ておらず、西欧の言語を母国語とする人は自然音を右脳(音楽脳)で認識して雑音と感じるという趣旨のことを書きましたが、少なからずそのことは食文化にも影響を与えています。日本人はそばを食べるときに「ズルズル」と音をたててすすりますが、これは口の中に空気を含むことでそばの香りが広がるという効果(ワインのテースティングと同じ)に加えて、日本語を母国語とする人はその音に清涼感を感じて食欲をそそられ、また、歯切れの良い音をたててそばをすするのは”粋“と考えられています。これ以外にも漬け物の「コリコリ」という音、野菜の「ザクザク」という音、せんべいの「ボリボリ」という音などは、食材の食感、鮮度や旨味を感じさせる音として、やはり食欲をそそる音と捉えられています。このように日本語を母国語とする人にとって食における音の果たす役割は重要で、食事を味(味覚)、香り(嗅覚)、盛り付け(視覚)で楽しむことに加えて、音(聴覚)で楽しむ点に日本の食文化の特徴があります。その一方、西洋の言語を母国語とする人は食事でたてる音は雑音としか感じられず、西洋の多くの国では食事で音をたてることはテーブルマナーに反すると考えられており、とりわけそばをすする「ズルズル」という音はヌードル・ハラスメント(ヌーハラ)と言われるほど不快感を与えるようです。日本の茶道では「吸い切り」という作法があって、お茶を飲み干す「ズズズ」という音はお茶を点ててくれた亭主への礼儀と考えられており、西洋の国々とは全く逆の考え方が文化として根付いています。
上の写真:明治天皇御小休所「しらい庵」(千葉県千葉市)で千葉県産の国産そば粉100%を使った十割そばを食べてきました。本当に美味しいものは舌ではなく胃袋で感じるものですが、香り高い十割そばとそば湯を足しても風味が損なわれない上質のそばつゆに今日は胃袋が大満足でした。ここは明治15年に明治天皇が軍事演習を視察するために千葉に行幸された際に休息された土地の名主である旧石原家の跡で、長屋門(1枚目)と母屋(2枚目)が当時のまま残されている史跡です。(少し下世話ですが、明治天皇が用を足されたトイレも残されているそうです。)
下の写真:明治天皇御小休所[「しらい庵」の近くにある小谷流の里「ドギーズアイランド」(千葉県八街市)。ここは愛犬と宿泊、食事や遊戯等を楽しめるレジャー施設でレストランにも愛犬の同伴がOKなので、愛犬をペットショップ等に預ける必要がなく愛犬に寂しい思いをさせることはありません。休日になると関東近郊から自慢の愛犬を連れてくる方が多く、愛犬家には人気のスポットになっています。
因みに、明治天皇御小休所「しらい庵」は、実際に明治天皇が立ち寄られた明治時代の古民家をそのまま使用していますが、この古民家の造りを見ていて日本と西洋の建築様式の違いが食文化に与えた影響についても書きたくなったので、少しだけ触れておきたいと思います。ご案内のとおり日本の建築は玄関の土間で履き物を脱いで一段高く設えられた床に上がり家内に入る「高床式建築」ですが、西洋の建築は玄関の土間と床の区別がなく履き物を履いたまま家内に入る「土間式建築」です。この違いは、狩猟民族が多い西洋では何時でも狩りに出られるように家内でも履き物を履いたままの方が都合が良かったのに対し、農耕民族である日本は多雨多湿な気候による洪水や湿気を避けるために地面よりも一段高い場所に食料を保存する必要があり、その床が湿気を持った泥等を吸わないように家内では履き物を脱ぐ方が都合が良かったと考えられています。その結果、西洋では土間と床の区別がないことから、人間がくつろぎ、食事をとる場としての家具(椅子やテーブル、ベットなど)が発達しましたが、日本では土間と区別して床が設えれたので、人間がくつろぎ、食事をとる場として床がそのまま使われるようになりました(時代劇などを見ていると、読み書きをするための書斎机以外にはテーブルや家具などはなく、お茶が床(畳)に直置きされているシーンが多く登場します)。このことは顔に間近い高さのテーブルの上で食事をとる西洋では食器を持ち上げないままで食事をとることが可能でしたが、顔から距離がある床に据え置かれた膳で食事をとる日本では食器を持ち上げて食事をとらなければならなくなったという食文化の違いになって現れています。また、狩猟民族が多い西洋では1つの獲物(動物)を囲んで食事をしたことから皆が同じテーブルを囲んで食事をとるスタイルとなり、その1つの獲物(動物)が盛られた食器を持ち上げて独り占めすることはマナー違反であると考えられるようになりましたが、農耕民族である日本では複数の作物(主に植物)を一人づつ分配して膳で食事をとることから自分に分配された作物(植物)のみが盛られている食器を持ち上げて食事をしてもマナー違反にはならなかったという事情も挙げられると思います。このような食文化の違いを背景として、日本では身分(官職の上下、父と母子、嫡子と庶子など)に応じて膳に盛られる食事の内容に差がつけられるようになり、その後、近代になって日本でもテーブル(皆の食事の内容が見えてしまう“ちゃぶ台”)が使われるようになってからも暫くの間はお父さんや長男はおかずの品数が多いとか、魚や肉などの主菜がひと回り大きいなど「食卓の差別」として膳(食文化)の影響が残ることになったと考えられます。
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さて、本題ですが、本日は新しいミュージカル映画を観に行きましたので、ごくごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
【題名】映画「ラ・ラ・ランド」(原題:La La Land)
【監督】デイミアン・チャゼル
【脚本】デイミアン・チャゼル
【出演】<セバスチャン>ライアン・ゴズリング
<ミア>エマ・ストーン
<トレイシー>キャリー・ヘルナンデス
<アレクシス>ジェシカ・ローゼンバーグ
<ケイトリン>ソノヤ・ミズノ
<ローラ>ローズマリー・デウィット
<ビル>J・K・シモンズ
<グレッグ>フィン・ウィットロック
<ジョシュ>ジョシュ・ペンス
<キース>ジョン・レジェンド ほか
【撮影】リヌス・サンドグレン
【作曲】ジャスティン・ハーウィッツ
【作詞】ベンジ・パセック
ジャスティン・ポール
【振付】マンディ・ムーア
【美術】デビッド・ワスコ
【衣装】メアリー・ゾフレス
【公開】2017年2月24日
【場所】成田HUMAXシネマズ 1,800円
【感想】ネタバレ注意!
現代に生きる若い男女のごく普通の日常(青春)と半生を描いたものなので、それほどストーリー性は高くなくドラマチックな要素も少ないのですが、学生時代にミュージシャンを目指してドラムを演奏し、映画「セッション」の監督でもあるデイミアン・チャゼルの作品だけあって、何と言っても映画全編に亘って軽快でダンサブルな曲から哀愁漂うバラード調の曲まで魅力的な音楽とダンスがふんだんに散りばめられており音楽好きなら楽しめるミュージカル映画です。思わず終幕後にサントラCDを買い求めてしまいました❤ この曲について「ハーモニーに対する感覚」が足りないという評を見たことがありますが、個人的にはハーモニーの概念を持たない民族音楽も多いなか常に音楽にハーモニー的な要素が必要不可欠又は重要なのだろうかという気もします。あくまでも個人的な好みの問題なのかもしれません。ミュージカルの魅力に溢れるキャッチ―な冒頭が印象的でしたが、誰しも身に覚えがあるラストシーンは、命とは神から与えられた時間であり、人生とは決して巻き戻すことができない時間の流れの中での選択の連続であるということを思い出させてくれます。後悔のない選択をするために、常に自らに由って生きて行く強さと賢さを持ちたいものだと思います。因みに、セブことセバスチャンは、実在のジャズ・ピアニストのホーギー・カーマイケルがモデルで、映画の中で彼が座ったというイスが登場します。歌唱力のある役者なら舞台も観に行ってみたいミュージカルです。ご案内のとおり、アメリカは多民族国家として様々な文化が触発し合いながら独自の文化を育んでいる国ですが、歴史は浅いながらその文化的な懐の広さや多様性がどれだけ新しいものを創り出す息吹(文化的なダイナミズム)を生んでいるのか思い知らされます。
◆おまけ
気に入ったらサウンドトラックを購入しましょう。僕も購入しました。全英アルバム売上チャート1位を獲得したようです。