大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

カルテットという名の青春〜太郎、マドカ、麻里子、大と歩いた1371日〜

【題名】カルテットという名の青春〜太郎、マドカ、麻里子、大と歩いた1371日〜
【放送】BS朝日(平成23年1月3日(火)19:00〜20:54)
【出演】ジュピター・カルテット・ジャパン
      <1stVn>植村太郎
      <2ndVn>佐橘マドカ
      <Va>原麻理子
      <Vc>宮田大
【公演】平成23年8月20日(土)フィリアホール
【感想】
今日はジュピター・カルテット・ジャパンを4年間に亘って密着取材し、その成長振りを記録したドキュメンタリー番組が放送されていたので視聴してみました。プロジェクトQの試みなどが奏功し、最近では優秀な若手クァルテットが沢山育って、今後の成長、活躍が楽しみな状況にあります。ジュピター・カルテット・ジャパン(最初は“ジャパン”はありませんでしたが、海外に同名のクァルテットがあることから“ジャパン”を付加)はプロジェクトQの最初期の参加者で、そんな優秀な若手クァルテットの中の代表格の1つです。


http://www.tvumd.com/concerts/file/file/projectQ9.htm

植村さんがクァルテットは「4人で1つの楽器になる」ものと言っていましたが、クァルテットは“究極のアンサンブル”と言われるとおり、作曲家にとっては非常に思い入れが強い作品が多く、演奏者にとっては非常に扱い難く奥深いものではないかと思います。先ず、各メンバーに「おでん」に例えると何ですかというベタな質問がありましたが、これが各人の性格を写すもの(不思議と各パートの特徴を象徴するもの)で面白かったです。

植村太郎さん :大根(理由:タネの中では中心的な存在である)→リード
原麻里子さん :タマゴ(理由:栄養があり、リスクを侵したい)→アクセント
佐橘まどかさん:昆布(理由:目立たないが、底にあると嬉しい)→サポート
宮田大さん  :スープ(理由:タネに密着して全体を包み込む)→ベース

当初、日本国内で活動していたジュピター・カルテット・ジャパンですが、原さんがジュネーブ音楽学院へ留学してヨーロッパ人と演奏した経験等から、これまでのようなストイックな演奏ではなく自分のイメージしたとおり自由に弾きたいという表現意欲が芽生え、楽譜とおり正確に弾くことを重視する他の3人のメンバーとの間で音楽性にギャップが生じるようになったので、原さんがジュピター・カルテット・ジャパンの活動を休止してヨーロッパで活動することになりました。ジュネーブ音楽院で原さんを指導していたヴィオリストの今井信子さんはジュビター・カルテット・ジャパンの第一印象について、4人が寄り添って弾くのではなく「個人の技量」を足して音楽的な魅力を膨らませる演奏で、将来、世界的なクァルテットに成長するポテンシャルを持っていると期待を述べられていました。僕の拙い経験からもクァルテットの実力は各メンバーの個々の実力に比例するもので、各メンバーの個々の実力は然程でもないがアンサンブルは優れているという例を知りません。また、今井さんはヨーロッパにおいては音符は「人の言葉」であり、2つの音符を弾くとそれは歌になるとも仰っていましたのが、このことを耳学問ではなく肌感覚で分かっているか否かがヨーロッパ人と日本人の大きな違いの1つだと思います。

その後、他の3人のメンバーもヨーロッパへ留学しましたが、そのレッスンで指導教官から言われていた言葉が印象的でした。植村さんが留学したドイツ国ハノーファー芸術大学の教授は、「芸術や音楽で最も大切なことは自由になること」「演奏上の制約の中でも精一杯に心を開いて」と仰っていました。植村さんは、そのようなヨーロッパ人の音楽に対する姿勢に触れて「日本は音程やテクニックは正確だが、ヨーロッパは多少のミスはあっても面白い演奏が多い。これは日本製のカメラは壊れ難く性能が良く、ヨーロッパ製のカメラは壊れ易くても人間味があるのと似ている。」と喩えていました。このブログでも良く車を例に出しますが、例えば、BMWは故障が多い世話の焼ける車ですが、しかし、それにも替え難い「走りの味」「ドライビングする楽しさが感じられる」(文化)という特徴を持っています。その一方、トヨタは滅多なことでは故障しない高品質の車ですが、しかし、何とも「味気なく」「ドライビングする楽しさが感じられない」(機械)という違いがあるような気がします。これを飲み物に例えれば、BMWは「芳醇なワイン」であり、トヨタは「上質の水」であるとも言えそうです。このことが一般論としてヨーロッパ人の演奏と日本人の演奏の違いにも象徴的に当て嵌まるかもしれません。また、宮田さんは短期のホームステイを繰り返しながらクロンベルク・アカデミーで武者修行を行っているようですが、そのなかで「音楽の言葉(即ち、ヨーロッパ人的な息遣い、抑揚、感情表現…)を色々と学べたらな」と言っていましたが、あるいはヨーロッパ人が日本人の演奏を聴くと外国人が演歌を歌っているときの違和感と同じようなものを感じているのかもしれません。

一度、ヨーロッパに留学中のジュピター・カルテット・ジャパンのメンバーが集まり、タカーチ弦楽四重奏団創始者であるタカーチ=ナジさんの指導を受けていましたが、タカーチ=ナジさんは「楽譜に書かれているのは音符ではなく言葉そのもの」「音楽は話すことだ」「偉大な音楽は音符と音符ではなく言葉のフレーズのように感じるものだ」「虹の形(音符のつながり=言葉のフレーズ)を想像しろ」「言葉のつながり、心の声を弾かなければならない」「観客をドキとさせなくてはならない」「イマジネーションをもっと出せ」「深い表現になっていない」と繰り返し仰っていましたが、テクニックは完璧でもその曲が持っている「何か」(作曲家が表現しようとしているもの)を十分に表現し得ていないことを訴えてきました。この点、音楽は「技術」(どのように表現するか)ではなく「表現」(何を表現するか)が大切なのであって、楽譜を正確に弾くだけならば皆同じ演奏になってしまいますが、楽譜から何を読み取って何を表現するのかということが奏者の創造的な営み(感性)であり、それが「味」につながるものだと思います。タカーチ=ナジさんは「我を忘れて弾いてみたらどうか」「心を開いて音楽を差し出すのだ」と言っていましたが、演奏家が向き合うべきなのは曲(作曲家)であり、「曲のため」(作曲家の言葉への共感)及び「自分のため」(その共感から生まれる自由な表現)に演奏されるものであって、(舞台芸術は観客が居なければ成立しないものであり、観客に向けて演奏されるものであるとしても)「観客のため」に演奏されるべきものではないと思います。ショスタコーヴィチが観客(党や党員)のために作曲していなかったのと同じように…。植村さんがタカーチ=ナジさんの演奏に感銘を受けて「この音楽はすでに美しいのですね。美しく演奏しようとしていました。」と悟っていましたが、この言葉にすべてが集約されているように思います。作曲家の言葉に4人が共鳴し、それらが響き合うところにクァルテットの魅力、素晴らしさがあり、また、それゆえの難しさもあると思います。

最後に、ジュネーブ音楽院でジュピター・カルテット・ジャパンの演奏が行われ、教授陣から「音楽を自由に楽しんでいる」と好評され、ヨーロッパ留学前から更に大きく成長した姿を見せていました。なお、宮田さんがヨーロッパの某楽団とのコンチェルトを共演した際、ソリストにしては音量が小さいことを指摘され、無意識のうちにソロの弾き方ではなくクァルテットの弾き方をしている自分に気付き、暫くの間、ジュピター・カルテット・ジャパンの活動を休止することになりました。植村さんは「各々がどこまでやれるか挑戦している期間」だと言っていましたが、当面、各メンバーはソロの活動に専念し、「自分の音」を見つけてからジュピター・カルテット・ジャパンの活動を再開することになったようです。ワインで言えば樽の中で寝かせて熟成させている期間ということになりますが、各メンバーが酸化し、より芳醇で深い味わいのジュピター・カルテット・ジャパンになって帰ってくるのを待ちたいと思います。再度、各メンバーに「おでん」に例えると何ですかというベタな質問がありましたが、その答えの変化に各メンバーの成長の軌跡が見られて興味深かったです。因みに、僕が好きなおでんダネは、おでんの旨みが一番染みている大根です。大根は最も「おでん」(曲)を食べた気にさせてくれますし、そんな演奏を期待したいです。

植村太郎さん :がんも(理由:流れに任せて色々とやってみたい)
原麻里子さん :タマゴ(理由:白身・黄身と変幻自在に変化する)
佐橘まどかさん:私(理由:自分なりの味を付けて色々と変化する)
宮田大さん  :つみれ(理由:自分の個性と感性を大切にしたい)

http://www.bs-asahi.co.jp/quartet/
http://www012.upp.so-net.ne.jp/jupitersq/homejp.html