大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

手わざ恋々和美巡り〜檀れい名匠の里紀行〜

【題名】手わざ恋々和美巡り〜檀れい名匠の里紀行〜
    第二十回「京都 植物染」〜自然から汲みだす至上の色彩美〜
【放送】BS日テレ(平成24年1月22日(日)16:00〜17:00)
【出演】<手わざの旅人>檀れい
    <音楽>小松亮太
    <ナレーター>斉藤茂一
【感想】
今日も外出を控えて家でテレビを見ていました。宝塚出身の檀れいさんは花鳥風月堂の司会ですっかり伝統芸能の色が付いていますが、今日は檀れいさんの「手わざ恋々和美巡り」(BS日テレ)で“植物染”を採り上げるというので観てみることにしました。このブログでも何度か日本の伝統色が持つ淡い色彩美について触れていますが、日本の伝統色を見ていると昔の日本人が持っていた繊細かつ鋭敏な色彩感覚が伺えます。“植物染”は約1500年の歴史があり、化学染料を一切使わずに天然の材料を用いて衣や紙などを染める染色法で、「延喜式」(平安初期)の「延喜縫殿式」の中に染色の材料や用途が細かく示された染色の基準が認められています。昔は、冠と服飾の色で位を表していましたので、その意味でも色への拘りは現代の日本人よりも強かったと思われます(因みに、写真は冠位十二階で最も位が高い「帝王紫」です。)。檀れいさんは「染司よしおか」(江戸時代から続く染め家の五代目当主、吉岡幸雄さん)の工房を訪れていましたが、吉岡さんは「延喜式」や「源氏物語」等の文献を研究し、自ら藍や紅花等の植物を採取して京都や伏見の澄んだ地下水を使って染め上げる昔ながらの染色法を実践しており、日本の伝統色を染めることに拘りを持たれている方です。先日、映画「源氏物語〜千年の謎〜」の感想で“例えば、当時の建築物は外界(自然)と内界(屋内)との明確な区切りがなく、広く開け放たれた屋内から外界(庭園、自然)へと自然な空間的拡がりを持っていて、内界(生活)から隔絶するものとして外界(自然)を捉えていたのではなく、外界(自然)が内界(生活)の一部として取り込まれて生活が営まれていたことが伺えます。”と書きましたが、昔の日本人は仏教的な世界観を背景として、支配する対象としての自然ではなく、共生する対象としての自然観を持っていたと思います。昔の日本人にとって自然は畏敬の対象であると共に憧憬の対象でもあり、自然を観察し、自然を模倣し、自然を生活の中に取り込んでいましたが、それが染色法や色彩感にも色濃く影響しているように思われます。これに対し、西洋では、支配する対象としての自然観があり、日本のように自然との調和や自然の模倣を基調とする色彩感覚とは異なる人工的な彩色美を求めてきたと思われます(基本的にこれと同じことが音楽にも言えると思われます。)。同じく映画「源氏物語〜千年の謎〜」の感想で、“衣装(十二単・衣冠束帯)や調度品、牛車等の色使いには、当時の日本人の豊かな色彩感覚が表れていて目を瞠ります。”と書きましたが、“植物染”など自然の色には現在の化学染料を使った人工的な配色とは異なる精妙な鮮やかさ、味わい深い色の奥行きがあるように思われます。最後に、吉岡さんが「土が弱っている」ので昔のような植物染色が出せないと嘆いていたのが印象的でしたが、これは(文字とおり土が痩せていて植物から十分な染料が取れないという意味に加えて)昔の日本人が持っていた繊細かつ鋭敏な色彩感覚が劣ってきていることも象徴的な意味で揶揄しているのだろうと思います。即ち、現代の日本人は昔の日本人に比べて、色彩感覚に限らず、色々な意味で感受性が衰え、文化水準が退化してきていることの警鐘であり、そのような意味で含蓄のある一言として心に響きました。


 帝王紫
http://www.rakuten.ne.jp/gold/marutomo/value/color/

話しは変わりますが、久しぶりに粋な心使いができる人間(以下のURL)を見ました。もしここでムッとしたり、睨み付けたり、シーっ!としたりすれば、この観客は終演まで気まずい思いを引き摺って音楽を楽しめなかったと思いますし、その嫌な雰囲気を残したままその後の演奏会に良い影響を及ぼさなかったことでしょう。しかし、このプレーヤーの咄嗟の機転で、この観客を気まずさから救い、コンサートホールに垂れ込める嫌な空気を払拭し、その雰囲気を整え直して、清々しい気持ちで次の演奏(曲)に向かうことができたと思います(…だからと言って、この観客の迂闊さが許容される訳ではなく、やはり観客が守るべき最低限のマナーはあり、このような甘えた態度の観客が増えれば、いずれコンサートホールの雰囲気は保てなくなってしまいます。くれぐれもコンサート開始前に携帯電話の電源を切ることを忘れず、コンサートホールに鈴などの鳴り物を持ち込むことは控えましょう。)。このような心使い、気働きができることを“粋”というのだと思います。江戸時代の日本には粋な人間が沢山いたそうですが、現在の日本は野暮な人間ばかりが幅を効かせて、実に住み難い世の中になりました。

▼これを“粋”という。
http://www.youtube.com/watch?v=uub0z8wJfhU