大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

「芸術力」の磨きかた 〜鑑賞、そして自己表現へ〜

【題名】「芸術力」の磨きかた 〜鑑賞、そして自己表現へ〜
【著者】林望
【出版】PHP新書
【発売】2003年7月
【値段】700円
【感想】
ブックオフで安売りしていたので買って読んでみることにしました。この本はこれまで様々な機会に議論され尽くされて来たことを集約するような内容で特に目新しい議論や御説は見当たりませんが、一々、得心が行く真っ当な議論が平明な文章で展開されていて読み易いです。最近、日清戦争から太平洋戦争までの時代を扱ったドラマを見る機会が多くありましたが、「神の国」「神風」「大和魂」「一億総玉砕」等の言葉に象徴される当時の狂気的な時代感覚(ムード)と、現代の日本人(少なからずの方)が芸術に接する際の態度に見られがちなセンチメンタリズムとでも言うべきものが同根の気質であるような気がして、この本を読みながら色々と考えさせられました。この著者は「実演」と「鑑賞」を分けて考えるのではなく、「実演」(自分で表現)してみることが「鑑賞」にとって有益であり「芸術力の磨きかた」の効果的な方法であるということを最も述べたかったのだろうと思いますが、その点は無視して、以下では、それ以外のエッセンスを抜き出し、少し個人的な感想を述べておきたいと思います。

「芸術力」の磨きかた

◆西洋偏重主義
このブログでも何度か同旨の問題意識を書き込んでいますが、林さんも日本人は義務教育で西洋音楽を中心とした音楽教育を受けていることから西洋音楽の文法で書かれているクラシック、ジャズ、ロック、ポップス等は抵抗感なく親しめるが、日本の伝統音楽(雅楽能楽長唄、小唄、都々逸、清元、筝曲等)に対する激しい抵抗感を持つようになったという問題意識を指摘されています。夏目漱石三島由紀夫等は早くから文明開化による文化の不連続性(文化の上滑り)の弊害を危惧していましたが、日本は敗戦を契機として和洋折衷的な考えが廃れ、極端な西洋偏重主義に傾いて行き、その後遺症を引き摺ったまま現在に至っているというのが現状だと思います。これにより日本人は自分の言葉で語ることを止め(日本人としてのユニークな表現を生み出すことを放棄し)、ひたすら西洋の模倣に終始するようになったというのが戦後から現代に至るまでの時代であったと思います。しかし、自国の文化すら語れない者が外国に行って相手にされる道理はありません。芸術・文化に限らず、日本で営々と培われ、根付いてきた風俗・習慣というものがあり、例えば、他人との視線の合わせ方、他人との挨拶の仕方、他人との擦れ違い方など日本人らしい振る舞い(作法)というものがあるはずですが、すべて見様見真似の西欧流儀に倣えばそれで良しとする風潮には違和感を覚えます。

◆民主教育の偽善
林さんは、最近の義務教育が「一等賞のない運動会」(運動会で順位を付けず、全員一緒に手を繋いでゴール)に象徴される横並び教育を実践している状況を憂い、「みんなと同じ」を強いるような教育では芸術的な素養は育まれず、「違い」を許容する社会こそが芸術的な素養を育み、また、新しい芸術の萌芽と成り得る創造的なダイナミズムを生むという趣旨の指摘をされています。僕は、この「一等賞のない運動会」という言葉を初めて目にしましたが、本当に義務教育で子供達に悪平等(形式的平等)を刷り込んでいるとすれば、これほど人間を駄目にする教育はないと思います。「違い」を許容しない社会は、必ず、「排他」(少数者や弱者の阻害)を生み出し、それが恐ろしい世の中を生み出してきたことは歴史の証明するところです。民主主義の根幹には「違い」(多様性)を許容し、その「違い」(多様性)を尊重するという考え方がベースにあるはずで、学校教育はそのような意味での社会性を育む為の訓練の場として重要な役割を担っていると思います。これまでの学校教育の問題は「競争」そのものにあったのではなく(「競争」が過剰か適当かという「程度の問題」はあったかもしれませんが、そもそも「競争」がない社会などはありませんので、学校で「競争」をバーチャルに否定してみることの意義があるのか疑問です)、その「競争」の優劣を図る基準・尺度が画一化されていることにあったと思います。従って、学校から「競争」をなくして悪平等(形式的平等)を刷り込むことは何の問題の解決にも繋がらないばかりか、別の弊害を生み出す危険を孕んでおり、寧ろ、教師や学校、社会が子供達の可能性を図る為の基準・尺度をどのように持ち得るのかという議論こそが必要なのではないかと感じます。

◆自立した観客
林さんは、日本人は自分で良し悪しを判断できず、既に評価が定まったもの、他人が良いと言っているものを無批判に受け入れ、それを有り難がる傾向が顕著であり、その最も良い例として、無名でも有能な若い芸術家のチケットや作品は全く売れないという状況に現れているという趣旨の指摘をされています。また、林さんは、日本では国立競技場で開催された三大テノールの公演のチケットが飛ぶように売れた一方で、英国ではウェンブリー競技場で開催される予定だったドミンゴと超有名ソプラノ歌手の公演のチケットが全く売れずに公演が中止になったという実例を紹介し、英国ではどんなにビックネームを揃えても全く音響効果が期待できない(音楽を聴く環境が整っていない)場所で開催される演奏会を聴きたくないという観客の主張がはっきり現れているという趣旨の指摘をされています。さらに、林さんは、ヨーロッパの歌劇場の例を挙げて、海外ではどんなビックネームでも舞台が不出来であればブーイングが飛び(日本では全く逆の現象があります)、場合によっては途中で代役の歌手に交替することもあるほどで、その国の芸術レベルは受け手のレベルにも大きく左右されるという趣旨の指摘をされています。なお、偶に演奏会やホール(音響等)に対するネガティブな批評を捉えて「嫌なイヤミを言う」等と書生論とも言えないようなセンチメンタリズムを振り翳す方がいますが、このような舞台と客席との間の稚拙な馴れ合いこそが芸術を堕落させ、良いプレーヤーや良いコンサートホール(音響)を育み難くする大きな要因になっていると思います。舞台芸術・再現芸術は、作品(作者)、プレーヤー、観客、ホール(音響担当)及びその他の関係者が共犯関係に立って成り立つものですが、このような陳腐なセンチメンタリズム(偽善、欺瞞)が見受けられるのは、まだまだ日本にはこのような共犯関係の成り立つことができない精神的に未成さが残っていることの証であると言えます。林さんは芸術力の磨きかたとして芸術の批判的な享受を勧めていますが、これは常に芸術をネガティブな姿勢で享受するという意味ではなく、何の問題意識もなく無批判(無責任)に芸術を享受するのではなく、しっかりとした問題意識を持って是々非々で芸術を享受する姿勢(主体性)が重要だと思います。さらに、日本における企業のメセナ活動にもお粗末な現状があり、既に評価が定まっている有名なプレーヤーや団体には支援が行われても、未だ評価が定まっていない無名のプレーヤーや団体にその将来性を見込んで支援を行うことは稀有であり(要するに費用対効果のみが斟酌される現状があり)、芸術を育成して行くという意味での真のメセナ活動は全く根付いていない印象を強く受けます。また、大企業が冠スポンサーになる公演でもチケット料金がバカ高いということは珍しくなく、良質な公演をリーズナブルな料金で親しんで貰うという意味の芸術振興にも寄与していない実態があると思われます。

◆鑑賞力
林さんは、芸術を鑑賞するにあたって作品と関係ない周辺情報に惑わされることなく、対象をどう観察して何を考えるかが大事であって、それが本当の意味の「感性」であるという趣旨の指摘をされていました。芸術に正しい鑑賞方法のようなものは存在せず、人によって感じ方も異なるのは当然ですが(レコ芸のCD評を読んでいると、同じCD評について正反対のことが書かれていることも珍しくありません)、例えば、音楽鑑賞で言えば、上述のとおり「ホールで鳴っている音」が全てであって(その意味でプレーヤーと観客の間に馴れ合いを生むプレーヤーとの親交には否定的な考えを持っています)、その音(楽)が何を表現しようとしているのか、何故その演奏を自分は良い(又は良くない)と感じるのかなどを考えながら聴く姿勢(主体性)を持つことが必要ではないかと思います。この話との絡みで、良くコンサートホールでのマナーについて議論されることがあります。基本的にコンサートホールでの振る舞い方について何か明確な「決まり」がある訳ではなく基本的に自由に振る舞うことができますが(日本のコンサートホールではドレスコードもありませんので服装も自由)、しかし、コンサートホールは不特定多数人が音楽や舞台を鑑賞する為に同じ時間と空間を共有する訳ですから、自ずと節度のようなものは求められます。コンサートホールで音楽を聴くのであれば、「ホールで鳴っている音」以外のものはすべて音楽鑑賞にとって阻害要因と成り得るものであり、音楽を聴くという目的のために必要なもの以外(物質的なものに限らず、精神的なものを含む)はできるだけコンサートホールに持ち込まないのが望ましく、例えば、「可能な限り余計な雑音を立てない」「他の観客の気分や集中力を削ぐような振る舞いを慎む」等のことは常識的に理解できると思います。従って、開演前や休憩時間中であっても必要以上に雑音をたてたり、必要もないのに歩き回ったり、観客の顔を見回す等の不自然な行動を取ることはコンサートホールの雰囲気(空気、余韻)を乱すことにも繋がり、また、TPOを弁えないミットモナイ行為でもあります。要すれば、コンサートホールでのマナーとは「他人への思いやり」(他人が嫌がることをしない)の問題であって、不特定多数人が気持ち良く同じ空間と時間を共有して音楽を楽しむ為に、また、音楽に集中して鑑賞できる環境を整える為に、如何に振る舞うべきなのか各人の常識や品性が求められています。また、観客がコンサートホールの雰囲気(空気)を整えて音楽に集中することが演奏に良い影響を生むこともあり、そのような舞台と客席との間の緊張関係が舞台芸術、再現芸術を生で鑑賞することの醍醐味の1つとも言えます。勿論、これが唯一絶対の考え方、価値観ではなく、これを他人に押し付けるつもりはありませんが、どのような心持ちでコンサートホールに足を運ぶのか気構えのようなものは持っておきたいものです。

◆表現力
林さんは、芸術が「アート」と呼ばれるのは表現を支えている技術があるからであるが、芸術の目的は上手くなることではなく、よく表現することにある。また、偉大な芸術家は必ず自己否定しながら進んで行くもので、それが出来ない芸術家は自己模倣を繰り返す新味のないつまらない作品しか残せなくなるという趣旨の指摘をされています。芸術は偶然に素晴らしい作品が誕生するような紛いものではなく、その表現を支える確かな技術が必要であって、常に同じレベルの表現を再現できる技術が求められます(楽器をやったことのある人ならば分かると思いますが、このレベルに辿り付くことが至難です)。その一方で、芸術は「どう表現するか」(技術)が問われているのではなく「何を表現するか」(表現)が大切なのであって、技術は常に表現に奉仕(昇華)する関係(「技術」がないところに「表現」は生まれないという意味で「技術」は芸術の不可欠の前提であり、「技術」が優れていても「表現」が至らなければ芸術的な価値は低いという意味で「技術」は芸術の必要条件であって十分条件ではない)にあると思います。いくら作品の本質を理解し、どんなに素晴らしいアイディアを持っていても、それを作品という形にできるだけの技術と表現がなければ意味がありません。上記で音楽鑑賞の例を挙げましたが、「ホールで鳴っている音」が全てというのはそのような意味合いも含まれています。

以上、ダラダラと長くなってしまいましたが、この本は一日で読める分量なので、冬休みの課題図書が手付かずという人はいかが。