大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

MANSAI@解体新書 その拾六「依代(よりしろ)」〜宿りというポイエーシス(創造)〜

【講題】MANSAI@解体新書 その拾六「依代(よりしろ)」〜宿りというポイエーシス(創造)〜 
【講師】野村萬斎和泉流狂言師
    杉本博司(現代美術作家)
    中沢新一(思想家・人類学者)
【会場】世田谷パブリックシアター
【開演】19時
【料金】3000円
【感想】
世田谷パブリックシアターの芸術監督である野村萬斎さんが企画・プロデュースする「MANSAI@解体新書」にて興味深いテーマ(依代)が採り上げられるというので聞きに行くことにしました。当日券だったので立見券(3,000円)になってしまいましたが、座席券(3,500円)と500円差しかないのは料金設定のバランスが悪いような気がします。海外の劇場では立見席を格安に設定し、お金のない若い人達にも芸術鑑賞の機会を与えるような工夫が見られますが、日本の劇場でも文化的な懐の広さのようなものが根付いてくれることを願っています。例えば、在京プロオケの公演で空席が目立つ公演が少なくありませんが、開演直前になっても空席が目立つ公演(マチネ)については、(普段から来場が見込めない将来の潜在的な客層である)中・高校生に無料又は格安の料金(お小遣いで賄える些額)で空席を開放するような試みが行われても良いような気がします。これによって追加コストが発生する訳ではなく、また、中・高校生が対象であれば一般の観客から文句が出ることもないと思いますので、将来、正規の料金を払って演奏会に聴きに来てくれる潜在的な客層を開拓する意味でも、マーケティング戦略(販売促進施策)として有効ではないかと思いますが...。


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前半では「依代」を考えるための素材として、式三番(翁)より三番叟の段(揉之段と鈴之舞)が演じられました。至近での鑑賞となりましたが、三番叟の段がこれほど気迫の籠もった舞だったとは知りませんでした。萬斎さんは僕と同世代(僕よりも年上)ですが、これだけ激しい動きをしても息が上がらず舞が荒れない身体能力の高さに感心してしまいます。揉之段は直面で膝を高く上げるハコビと跳躍的な動作が多い激しいものですが、鈴之舞は黒式尉面をかけて摺り足のハコビが多く独特な所作が目立つ面白いものです。とにかく翁は独特の所作が多く観れば観るほど謎が深まるばかりで、例えば、鈴之舞では三番叟が右前方に屈んで地面に向けて鈴を振りながら顔だけを左上方に振り向けて扇で顔を隠すという独特のポーズをとりますが、このポーズにどんな沿革や云われがあるのかなどなど興味尽きせぬものがあります。

◆三番叟
合法的なものか分かりませんが、ダイジェストをアップしておきます。

後半ではゲストを交えて「依代」をテーマとした対談となりました。中沢新一さんは翁についてかなり明確なイメージを持っておられ(詳しくは中沢さんの著書「精霊の王」(講談社)を読んで下さい。)、大変に面白い話が聞けました。テーマから離れて色々と話が脱線しましたが、テーマに関連する部分(能楽とつながりがある部分)の概要をごく簡単に書き残しておきます。萬斎さんによれば、三番叟が鈴を振り(即ち、種を蒔き)ながら、地面を踏み鳴らす(即ち、種を蒔いた後に地面を踏み固める)のは“五穀豊穣”を祈るという象徴的な意味合いがあるという解説が行われました。さらに、中沢さんがより根源的な意味合いについて付言され、土地には悪い霊が住み着いて沸き立っており、これを踏み鎮めて清めるという意味合いが隠されており、三番叟が能舞台の隅々を回るのはそのためであろうという興味深いご見解を示されていました。要するに、土地を踏み沈めて清めるというのは「依代」としての「場」(能舞台)を設えるという意味合いがあるということなのだろうと思います。杉本博司さんが鎌倉時代に作られた翁面を持参されましたが、どこか妖気が漂っているような独特の雰囲気を持った面相で(歴史が刻む重みもあるとは思いますが)、鎌倉時代の日本人は現代の日本人と比べて異界(超越的なもの)に対する鋭敏な感性を持っていたことが伺われます。中沢さんが面をかけるという行為について、俗世との接点である顔を面で覆い隠すことで自分の対外へ出て行くという感覚又は隠れた自分が出て来るという感覚が生まれるという趣旨のことを仰っていましたが、これが何ものかが憑依したという感覚に結び付くのかもしれません。この話との絡みで、萬斎さんが揉之段で肉体を極限の状態まで持って行って体を空洞化させ、鈴之舞で面をかけることで自我を消し去る感覚になるという趣旨のことを仰っていましたが、これによって「依代」としての「身体」が出現するということなのかもしれません。土地に住む悪霊を鎮めて清められた場と、内と外から無我になった身体に、松の木を伝って異界のもの(精霊)が降りてくるというイメージでしょうか。また、中沢さんが、黒式尉面が黒いのは異界(闇=黒)へ降り立つという象徴的な意味合いを持っているという趣旨のことを仰っていたのはとても興味深かったです。異界から俗世へ顕在する面は白(光)、俗世から異界へ降り立つ面は黒(闇)と言い換えることができるでしょうか?中沢さんが翁は此岸と彼岸の境目にあり、翁を媒介として此岸と彼岸を自由に行き来ができると仰っていましたが、昔の日本人は遥かに広大な精神世界を持っていたのに対し、その精神世界を失い即物的な世界に雁字搦めになってもがいている現代の日本人の姿が浮かび上がってくるようです。芸術の本質は心(精神)を解き放つことにあると思いますが、現代の日本人がこの広大な精神世界を取り戻せるか今後の萬斎さんの活躍に期待したいですし、平成の世阿弥となり得るか萬斎さんの一挙手一投足から目が離せません。

能楽の魅力
能楽は単なる歌舞劇に留まらない大きな器を備えるもので、日本人の根源的な精神性や思想性を体現した舞台芸術であると思います。世阿弥シェークスピアが登場する約200年も前に能楽を大成していますが、古今東西の演劇史を紐解いてもこれほど芸術性が高い舞台芸術は他に類がないのではないかと思います。能楽は「現在能」「夢幻能」の2種類に大別されますが、前者は“現実世界の人間”が登場して、対話形式で舞台が進行し、劇的な状況に置かれた人間の心情を描くことを主題としています。その意味で現代演劇に近い表現様式と言えます。これに対し、後者は“異界の者(亡霊等)”が登場し、前半では異界の者が現世の姿に化体して登場し現世での想い出話しを語り、後半では異界の者が本来の姿で登場し現世での無念等を語り、謡い、舞い、消え失せるという構成になっています(複式夢幻能)。後者は中世の怨霊鎮魂の思想が背景になっていますが、異界の者(亡霊等)が現実世界に顕在して現世での無念等を物語るという極めて特異な構成をとっており(顕在劇)、それが能の舞台に独特の情趣(幽玄の美)を産んでいる1つの要因とも言えます。

また、能舞台はこの劇的な空間を演出する装置として機能し、「本舞台」は現実世界、「鏡の間」(揚げ幕の向こう側)は異界、「舞台」と「鏡の間」とを渡す「橋掛かり」は現実世界と異界とを繋いで異界の者が現実世界へ顕在し、また、現実世界から異界へと消え去るための仕掛け(中沢さんの言葉を借りれば“臍の緒”)と言えます。偶に「鏡の間」を撮影したテレビや雑誌を観ますが、「鏡の間」は揚げ幕に隠されて見えない、見せないということが観客の想像力を掻き立て劇的な効果を生む源泉になっているはずでして、これでは異界を演出するはずの「鏡の間」は本来の機能を失ってしまいます(何時ぞやの某能楽堂で開演直前に揚げ幕の向こう側から鼻をかむ音が聞こえてきて興醒め甚だしかったことを思い出しますが、これでは揚げ幕の向こう側の方が現実世界らしくなってしまいます..苦笑)。また、最近では揚げ幕の向こう側が煌々と照明で照らされていることがありますが、これでは“闇”が生む創造的な効果も減殺されてしまいます。昔は“闇”が人間の鋭敏な感性を呼び覚まし、想像力の源泉となって豊かな精神的営みを支えていたはずですが、現代では防犯上の理由から夜中でも街の中に“闇”がなくなってしまい、自ずと現代人の精神的営みは廃れ、即物的な価値観に支配されて精神的に貧しくなってしまっている状況があると思います。それだけに現代において芸術が果たすべき使命はより切実かつ深刻なものになっているような気がします。その中にあって、能楽は現代人を即物的な価値観から解放し、その廃れた精神的営みを取り戻すことができる貴重な舞台芸術ではないかと感じます。

なお、能楽は初心者にとって非常に取っ付き難い印象を与えると思いますが、これは能楽が観客の主体性(単なる気概のようなものではなく、幅広い教養や洞察力、感受性、精神的な成熟性等に裏打ちされた内実を伴った主体性)が求められることが原因していると思います。この点、オペラやバレエは歌手やダンサーが大げさな歌や振付で観客にアピールするのが特徴(プラスの美学)であり、どんな観客でも客席に座っていればそれなりの感興を得られますが、それとは逆に、能楽は可能な限り無駄なものを削ぎ落として観客の内面にあるものを引き出すのが特徴(マイナスの美学)であり、上述の意味での観客の主体性がなければ理解し難い舞台芸術と言えます。決してラブリー&イ−ジーな芸術ではありませんが、それだけに表現している精神世界は深く、そこから得られる感慨も充実したものがあります。さらに、情けない現実ではありますが、戦後の西洋偏重主義の義務教育が日本人に日本の精妙な音階やリズム等に対するアレルギーを生んでしまったこと(伝統的な西洋音楽の音階やリズム等は人工的でシンプル)も現代の日本人が能楽を理解することは非常にハードルが高いものになってしまった原因の1つとして挙げられると思います。因みに、中沢さんは著書「精霊の王」の中で世阿弥の娘婿である金春善竹の「明宿集」を紐解きながら能楽(猿楽)を含む日本の伝統芸能や職人技など広く日本文化の底流に息衝き、その創造力の源泉となってきた“宿神思想”について掘り下げた考察が展開されているので興味深いです。