大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

異界を旅する能 〜ワキという存在〜

【題名】異界を旅する能 〜ワキという存在〜
【著者】安田登
【出版】ちくま文庫
【発売】2011年6月
【値段】740円
【感想】
花香る入院中の病床にて。昨日、会社の同僚が多忙の中を遠路遥々とお見舞いに来てくれました。その暖かい気持ちが本当に嬉しく、この1ヶ月間に強張り荒んでいた心が一気に癒されました。久しぶりに同僚の笑顔を見て励まされ、一日も早く職場に復帰したいという気持ちで療養に励んでいます。心から感謝します。

異界を旅する能 ワキという存在 (ちくま文庫)

さて、以前、このブログで“能楽の魅力”と題して能楽を観たことがない人に向けて簡単に能楽を紹介しましたが(以下のURL)、この記事は能楽を観たことがない人や能楽が苦手だという人に少しでも能楽に興味を持って貰いたいという思いで書いています。現代の日本人にとって能楽クラシック音楽よりも取っ付き難い印象を持たれがちですが、能楽堂にはクラシック音楽の演奏会場と比べると若い人(特に若い女性)の姿が多く(..とは言っても、やはり圧倒的に年配の方で占められていますが)、より幅広い世代に受容されている印象を受けます。クラシック音楽の愛好家など芸術に興味がある方は、一旦、能楽の深淵な魅力を感得すれば、その虜になること請け合いです。是非、できるだけ多くの方に能楽堂に足を運んで戴き、一人でも多くの方が能楽の魅力を感じて戴ければという想いで、この記事を書いています。(拙い文書で能楽の魅力の一端でも伝えられているか心許ない限りですが...)

http://d.hatena.ne.jp/bravi/20120303#p1

能楽の舞台は、主に以下のパートから構成されています。この本の著者である安田登さんは「ワキ」を担当する役者(下掛宝生流ワキ方能楽師)で、この本では「ワキ」の視座を通して能楽(とりわけ複式夢幻能)の構造や魅力について解説されていますが、現役の能楽師ならではの独特な視点から示唆に富む興味深い考察が展開されています。

 「シテ方」          ・・・主役の役者
 「シテツレ」        ・・・主役の役者の共の者
 「ワキ方」          ・・・脇役の役者
 「ワキツレ」        ・・・脇役の役者の共の者 
 「地謡」(じうたい)     ・・・朗唱(合唱)
 「囃子方」(はやしかた)   ・・・器楽
 「後見」(こうけん)     ・・・控え役者、世話役

このブログ(上記のURL)で複式夢幻能の構造について触れましたが、典型的なパターンとして、“旅の途中の名もなき僧(「ワキ」)が名所旧跡を訪れ、そこで一夜を明かすことになり、その夜、僧の夢の中にその土地に所縁の幽霊(「シテ」)が現れて生前の無念を謡い舞って消え失せる”という展開の物語が多く、その背景には中世の怨霊鎮魂の思想があるものと思われます。安田さんは、「ワキ」には「分からせる」と「分ける」の2つの役割があると述べられています。幽霊(「シテ」)は残恨の思い(果たせなかった思い、語り尽くせなかった執心など)のために成仏できず、その思いを晴らしたいために現世(特定の場所)に幾度と無く出現しますが、「分からせる」とは不可視の幽霊(「シテ」)を観客に分からせることを意味し、「分ける」とはその幽霊(「シテ」)の残恨の思いを晴らしたいという気持ちを整理(分ける)して引き出し、その思いを晴らす手助けをすることを意味すると仰っています。僕が理解する「ワキ」の役割という観点で言葉を継げば、複式夢幻能において「ワキ」は、幽霊=異界の者である「シテ」が登場するお膳立てを行い(即ち、「ワキ」の演技によって何もない能舞台に異界の者を顕在させる「場」を設え)、「ワキ」の視座を通して異界の者の無念を知る(即ち、観客は「ワキ」を介して異界の者に触れるという意味で現世と異界との媒介者となる)という重要な役割を担っています。「ワキ」は能舞台の隅に坐っていますが、舞台を成立させる上で中心的な役割を果たしていると言えるのではないかと思います。その意味では、囃子方も舞台を成立させる上で重要な役割を担っており、安田さんの言葉を借りれば「空虚なる「場」にエネルギーを呼び込み、役者をここに登場させ、さらにそのエネルギーを活性化させることによって曲全体をグルーブさせる」ことで、異界の者を顕在させる「場」を設え、そこに異界の者を顕在させると言えるのではないかと思います。どんなに緩やかに見える(又は静止している)能でも能舞台には気迫が充満しており、是非、それを感じて貰いたいですし、それを感じることができなければ能楽の深淵な魅力を感じることも難しいかもしれません。

このブログ(上記のURL)で“能楽堂はこの劇的な空間を演出する装置として機能し、「本舞台」は現世、「鏡の間」(揚げ幕の向こう側)は異界、「舞台」と「鏡の間」とを渡す「橋掛かり」は現世と異界とを繋いで異界の者が現世へ顕在し、また、現世から異界へと消え去るための仕掛け(中沢新一さんの言葉を借りれば“臍の緒”)と言えます。”と書きましたが、安田さんはこの異界の者を顕在させる「場」は、現世の人の時間(将来に向って順行する「ワキ」の時間)と異界の者(幽霊)の時間(過去に向って遡行する「シテ」の時間)という位相を異にする2つの時間が交錯する「場」でもあるという面白い指摘をされています。「ワキ」は現世の人の時間(将来に向って順行する時間)の中で生きていますが、異界の者を顕在させる「場」を設え、そこに異界の者が顕在することで、徐々に異界の者(幽霊)の時間(過去に向って遡行する時間)に支配され(能楽を見るときには、是非、この気配の変化を感じて貰いたいです。)、「シテ」の残恨の思いを引き出し、その思いを晴らすことを助けて、「シテ」が新たな生を生き直す過程を目撃し、体験します。安田さんは、「ワキ」は人生の旅の途中で暗闇の深淵を覗いてしまった人又はその生まれつき自体(出自)が暗闇の深淵だという人が世を捨て、一所不住の僧となって魂の欠落感を満たすための旅に出るという趣旨のことを書かれていますが、その意味で、「ワキ」の不遇を託つ身の上は「シテ」と同様であり、このような体験(共感)を通じて「シテ」だけでなく「ワキ」も新たな生を生き直すキッカケを与えられていると言えるかもしれません。観能していると、シテが被る能面の表情が徐々に変化しているように感じられ、それにつれて「シテ」の気配も移り変わって行くのが感じられます。それは「現世」と「異界」(空間)、「現世の人の時間」と「異界の者の時間」(時間軸)との交錯によって生まれる感覚的なもので、観客も「ワキ」の視座を通じて異界の者に触れていると言えるのだろうと思います。能を観たことがない方は何やら荒唐無稽なことのように思われるかもしれませんが、そのような非日常を出現させる仕組みや工夫が能楽能舞台には秘められていますし、これが能楽を鑑賞するにあたって観客に主体性が求められる所以でもあります。このブログ(上記のURL)で、現代人は「即物的な価値観に支配されて精神的に貧しくなってしまっている状況」があり、「能楽は現代人を即物的な価値観から解放し、その廃れた精神的営みを取り戻すことができる貴重な舞台芸術」であると書きましたが、人間の認識できる世界(目に見える世界)が全てであり、それ以外の世界は存在しないという狭い了見(世界)に閉じ篭っていては、芸術を含む創造的な営みは生まれませんし、人生は実に殺伐とした味気ないものにしかならないような気がします。幽霊の存在を信じろとカルトチックなことを言っているのではなく、故人の無念に想いを馳せ、これに共感できるだけの想像力、感受性は失いたくないものだと常々感じています。

さらに、安田さんは、能楽が近・現代文学に与えた影響という視点で、芭蕉漱石、子規について語られていますが、とりわけ芭蕉の生き方は「ワキ」そのものであるという指摘が興味深かったです。芭蕉は、仕官していた藤堂家の家主が他界したことにより23歳で仕官の口を失い、武士として生きる道を諦めます。また、後年、職業俳人としての生き方をやめて深川へ隠棲し、諸国漫遊の旅に出ます。ここで安田さんは、芭蕉にも通じる「ワキ」の生き方として、「思いなす力」と「思い切る力」という特徴が挙げられると指摘されています。「思いなす力」とは古い世界(現状)を捨て、新しい世界に生き直す決断力のことを意味し、「思い切る力」とはさまざまな思いを断ち切る力のことを意味します。先程、「ワキ」は人生の旅の途中で暗闇の深淵を覗いてしまった人又はその生まれつき自体(出自)が暗闇の深淵だという人が世を捨て、一所不住の僧となって魂の欠落感を満たすための旅に出ると書きましたが、さまざまな思いを断ち切って世を捨て、諸国を流浪する一所不住の僧として遁世する決断をします。芭蕉の一生もこれに準えることができると思います。安田さんは「ワキ」の旅の実践を勧めていらっしゃいますが、これだけ組織化された社会の中で芭蕉のように生きることは不可能なようにも思われます。最近、「断捨離」「しがみつかない生き方」という言葉が流行しているようですが、芭蕉のような生き方はできないとしても、日常生活を送る上での心構えとして「思いなす力」「思い切る力」の意義について認識を新たにしなければならないかもしれません。安田さんも仰っていますが、どんなに思いなし、思い切っても、自分にとって本当に大切なもの、必要なものは自分に残るもので、必要以上に臆病になって思いなし、思い切ること(新たな生を生き直すこと)を躊躇していると、却って、自分にとって本当に大切なもの、必要なものを見失ってしまうことにもなり兼ねないという教訓として理解しました。

最後に、個人的には、この本の中で、能「定家」の詞章を挙げながら、掛詞を多用した能独特の文体(掛詞による無限連鎖文書作法)で、どのように観客を異界(非現実の世界)へと誘って行くのかを解説されている部分が白眉でした。おそらく教養豊かな観客はここまで深く詞章を味合われているのかもしれませんが、僕のような浅学無教養の人間にとっては「目鱗」でした。和歌に通じているだけで、能楽の世界がこれほど豊かに拡がるものなのかと感嘆させられました。この本のP34からP48のあたりに記載されていますが、敢えて、このブログでは仔細を書きませんので、ご興味のある方はこの本を買って読んで下さい。もともと能は伊勢物語などの古典文学を題材として作られているものが多く、その中には数多くの和歌が詠われているので、能の詞章と和歌とは親和的な関係にありますが、能の題材となっていない和歌集に掲載されている和歌の知識が能の世界を拡げてくれることも多く(その意味で、能の観客は教養として和歌に精通していることが予定されているとも言えそうですが)、能楽に限らず、ある分野の芸術(能楽)を理解するときに同時代及びその周辺の異なる分野の芸術(和歌)を理解していることが、芸術を理解するうえで有益となることが多いように実感します。例えば、音楽と建築や音楽と絵画(或いは、もっと視野を広げて宗教、歴史や生活様式等)など、クロスカルチャーな視点で芸術に接する態度が重要ではないかと思います。

◆能「道成寺
外国人向けの能楽の解説ビデオ(英検3級レベルのリスニング力があればOK)がありましたのでアップしておきます。簡単な能楽の歴史、能楽堂の構造、能面の種類、能「道成寺」を題材にした能楽に関する解説がコンパクトに纏められています。是非、能楽堂へお運びあれ。

◆ごめんなさい。これからミッチリと包帯を巻く特訓があるので、チョー適当に定番中の定番曲をアップしておきます。
おまけ(定番中の定番)

◆おまけ(定番中の定番)