大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

不美人論

【題名】不美人論
【著者】陶智子
【出版】平凡社新書
【発売】2002年5月20日
【値段】720円
【感想】
「バカ」に次いで、あまり良い印象で語られないのが「不美人」と言われる方々です。古今東西、憧憬の対象として「美人」を論じた本は数多く存在しますが、以下の本ではこれまで決して顧みられることがなかった「不美人」にスポットを当て、大胆に論じてしまおうという意欲的(或いは挑戦的)な著書です。このブログの趣意とはやや異なる分野かもしれませんが、美術解剖学も登場し広く「美」について論じている本ということで、その感想を簡単に残しておきたいと思います。

不美人論 (平凡社新書)

世界三大美人と言えば、クレオパトラ楊貴妃ヘレネ小野小町とも)と言われていますが、世界三大不美人は聞いたことがなく、源氏物語に登場する末摘花くらいしか思い浮かびませんが、何処の国でも、何時の時代でも、「不美人」と評されることは不名誉なことであるという共通した社会認識があるものと思われます。日本には、顔のことを専門に研究する「顔学会」なるものが存在するようですが、この顔学会の研究成果によれば日本人女性の8割以上は「不美人」にカテゴライズされるそうです。因みに、日本で美人の産地と言えば、秋田、京都、博多が有名ですが、不美人の産地と言えば、仙台、名古屋、水戸となるそうです。(念のため、僕が言っている訳ではなく、そのような研究成果が発表されているということですので、あしからず。)昔から秋田美人や京都美人という言葉があるくらいですから、顔の造作には一定の地理的な傾向性があるのかもしれません。

では「美人」と「不美人」の違いは何なのか。陶さんによれば、古代ギリシャプラトン、サフォー)では「美しいものは善である」というテーゼのもと美(外形)は実質(内実)を伴うものと理解され、美人は美(外見)と人格(内面)とが合致した状態を示すもの(容姿は性格を映すもの)と考えられていたようですが、現代では「美人だが○○が悪い」という表現に象徴されるように美(外見)と人格(内面)とを分けて考える傾向があり、それが曖昧な美人のパターン(例えば、性格美人)を作り出しているとのことです。顔学会で日本人女性の8割以上が不名誉なこととされる「不美人」にカテゴライズされてしまっている訳ですから、美人の基準をぐぐぐっと下げて「○○美人」なるものを編み出さなければ救われません。陶さんによれば、日本人女性は化粧法の習得に凌ぎを削り、美人ではないけれども美人に化ける技術は格段に向上していて、何も心に引っ掛かることのない「さらっと美人」が増えたと手厳しい指摘をされています。新婚旅行の朝に夫が隣で寝ている妻に向って「どなた?」と尋ねるブラックジョークがありますが、諸兄はくれぐれも化かされないようご用心あれかし。

陶さんは化粧文化史を研究されている学者ですが。日本における化粧法の研究の歴史は古く、1851年に本格的な化粧法の指南書として「都風俗化粧伝」なるものが出版されているそうです。この本には、江戸時代における美人の条件(裏を返せば、不美人の条件)として、次の条件を挙げています。

  • 面長であること
  • 色白であること
  • 鼻筋が通っていること
  • 黒目がちの目であること

なお、現代における美人の条件とは逆に、次のような面立ちは論外としています。

  • 眉と目の間が狭まっていることは論外(まぶたがふっくらしていることが福相)
  • 唇が厚いことは論外

また、1861年に発刊されている「文久大雑書大全」には、以下のとおり12種類の女の面相について挿絵入りで解説しています。この本に掲載されている挿絵の写真を撮ってアップしておきますが、この挿絵を見ていると古代ギリシャの哲学にある容姿は性格を映すものであるという論が説得力を持ってくるように感じられます。日本人女性の8割以上が「不美人」にカテゴライズされると書きましたが、その8割以上の方は美人相以外の人相に該当することになります。鏡は嘘をつきません。ご自分の顔がどの人相に最も当て嵌まるのか(挿絵に似ているかではなく、その特徴で共通するところはないか)を知っておくことは、自分の本当の性格(本性)を見極めるうえでも有効かもしれません。意外と自分が思っているような人間ではないかもしれないということを思い知らされるかもしれませんよ。なお、漢方薬の投薬は患者の人相(がっちり骨太型など身体的特徴)に合わせて調合されるそうです。それだけ人相にはその人間の人となりが滲み出てくるものなのかもしれません。

【美人相】(前著「都風俗化粧伝」のとおり現代でも通用しそうな美人の相)

【出世相】(キャリアウーマンの相)

【娼妓相】(化粧の派手な風俗嬢の相)

【貞質相】(身持ちの固い女の相)

【貧窮相】(貧乏な女の相)

【下賤相】(人品骨柄卑しい女の相)

【至下賤相】(下賤相の中でも極め付けの女の相)

【聡慧相】(頭のキレる女の相)

【魂姓悪相】(性根が腐っている女の相)

【淫乱相】(エッチな女の相)

【艱難相】(不幸を呼ぶ女の相)

【嫉妬着相】(嫉妬深い女の相)


陶さんは、美人の条件と十二面相について触れたうえで、美人(不美人)のランク付けを紹介しています。鏡は嘘をつかなくても、鏡に映る顔を見る自分の心は嘘をつきますので、自分の顔をランク付けしてみるというよりは、芸能人や会社の同僚、学校の先生や同級生の顔をサンプルとしてランク付けしてみると自分なりの美人の判断基準のようなものが出来てくるかもしれません。

美人(不美人)のランクは、美人度が高い順に以下のとおり分類されるそうです。但し、その判断基準については触れられていません。
(1)麗人
(2)佳人
(3)美人
(4)シャン
(5)並みの女
(6)ブス
(7)面誤(つらご)
(8)異面(いずら)

さらに、(6)ブスは、以下のようなランクに細分化されるそうです(これはあくまでも引用です…。)。
(1)カマボコブス:ブス振りが板に付いている
(2)メダカブス:スクイがたいブス
(3)ヤマビコブス:振り向いてもやっぱりブス
(4)五円玉ブス:まだ多少はくずせるブス
(5)一円玉ブス:これ以上はくずせないブス
(6)太陽ブス:あまり見詰めると目が潰れるブス

自分がどの程度のランクに位置しているのかは、悲しいかな自分の親を見れば大凡の検討が付いてしまうと思います。先程、美人ではないけれども美人に化ける技術は格段に向上していると書きましたが、世の大半の女性の関心事は(自分が美人か不美人かということよりも)化粧法を駆使してどれだけ自分の美人のランクアップができるのかという点にあるのではないかと思います。陶さんによれば、現代の化粧法はメイクアップアーティストが提唱する化粧法、大手化粧品メーカーが打ち出す季節毎の化粧法、有名人の化粧法等に従って、皆が同じように化粧をし、皆が同じような顔(例えば、あゆ顔)になる傾向があるそうです。素人の化粧は、自分の顔の特徴に拘らず、有名人の化粧法等に倣って自分の顔の上に「流行の色を置く」ことに終始しているそうですが(パンダ顔の誕生)、プロの化粧はその人の顔の特徴を捉えてその「欠点の改善」(例えば、肌のムラの修正)に時間を掛け、あまり色を感じさせない印象の化粧に仕上げるそうです。陶さんによれば、誰の目にも付く化粧は二流の化粧であり、よく見て発見しなければ分からないような化粧(自然に見えること)が一流の化粧だそうなので、化粧に対する基本的な考え方を変えなければ、美人のランクアップは難しいのかもしれません。

プロのメイクアップアーティストは、人間の顔がアシンメトリー(左右非対称)なので、その左右差を少なくすることが美しく化粧をするためには大切だと考えているようです。レオナルド・ダ・ヴィンチに端を発する美術解剖学の分野において、普通の顔写真と、顔が左右対称となるように顔の右半分(又は左半分)を合成して作った顔写真とを比べて、そのいずれが美しく見えるのかという実験が行われましたが、左右対称であろうがなかろうが、美しいものは美しく、美しくないものは美しくないという結論に落ち着いたそうです。陶さんは、日本固有の美意識としてアシンメトリーな美が存在しており(例えば、歪んだ形の茶器、懐石料理の盛付、生け花の基本形、掛け軸の図柄など)、あまり左右対称が過ぎると冷たく硬く生き生きした美しさに欠けるのと同じように、シンメトリー(顔が左右対称)な美人とは印象に欠ける「薄まった美人」になってしまい、必ずしもシンメトリーは美の基準にはならないと仰られています。この点、建築の世界でも、完全にシンメトリーな構造は、威厳や風格がある反面、単調で格式張った印象を与えますので、基本的にはシンメトリーな構造を保ちつつもその一部をアシンメトリーとすることで、より豊かで美しい調和を建物全体に生み出す工夫が行われているそうです。自然界には殆どシンメトリーなものは存在せず、アシンメトリーなもので溢れていますが、それでも自然が生み出す絶妙な調和を美しいと感じる一方、家電製品や家具等は完全にシンメトリーな構造を持ったものが多いですが、そこに感動を覚えるような「美」を感じることは少ないと思います。寧ろ、アシンメトリーな要素はそこに個性(風情、景色、面白さ、求心力等)を生み出し、一層、「美」を深いものにしてくれるように思います。

顔には、地の顔(顔の自然的側面:人相学、骨相学)と表情が生み出す顔(顔の文化的側面:演劇学、心理学)がありますが、個人的な経験を通じて、実際の人付き合いの中で相手に持つ印象は、地の顔に対して持つ印象よりも、(その人の内面が滲み出る)表情が生み出す顔に対して持つ印象の方が遥かに強いような気がしています。端正で美しい顔立ちの人はいますが、そこに価値のある「美」を見出しているのかと言えば、答えは「否」であって(そうであればギリシャ彫刻を見ていた方が良い。)、寧ろ、その人との関係性の中に価値ある「美」を見出しているような気がします。個人的には、古代ギリシャ哲学に倣って美人とは美と人格が合致したものと考える方が違和感がなく、美人は単なる外形で判断できるものではなく、その人の内面が生み出す表情であったり、その人の内面が作り出す関係性であったり、そういったものの総体がその人を美しいと感じさせるのではないかと思います。陶さんは、安直な美人にはならず、個性的な不美人になろうと締め括っていますが、そのような文脈において僕も同感です。なお、最後に、陶さんは、「美」とは曖昧で移ろい易いものなので、美人とは何か又は不美人とは何かとは各人の「美」の物差しでしかないと、問をもって問いに答えるような結論を導いていますが、多くの人が美しいと感じる美は存在するとしても、その美は人により濃淡があり、状況により変化し、時代により移ろうものであって、芸術の鑑賞が極めて個人的な体験であるのと同じように、「美人」とは何か又は「不美人」とは何かについても、これ以上は言い様がないような気がします。


◆おまけ
世の中で一番醜いものと言えば、(家のかみさんと答える方もいるかもしれませんが)多くの方が戦争を挙げるのではないかと思います。映画の中で使われているクラシック音楽(名曲)は多いですが、本日はベトナム戦争を題材とした映画に使われているクラシック音楽をご紹介します。

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