大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

第224回「東海大学文学部・知のコスモス(公開講座)」第5回 中世の声とことば ヨーロッパに伝わった『平家物語』大原御幸の段を能の語りで

【演題】第224回「東海大学文学部・知のコスモス(公開講座)」
    第5回 中世の声とことば ヨーロッパに伝わった『平家物語』大原御幸の段を能の語りで
【演目】第1部 公演「ハビアン『平家物語』大原御幸の段のことばと文学性」
    第2部 実演と解説「ハビアン『平家物語』大原御幸の段」
    第3部 実演と解説「ハビアン『平家物語』大原御幸の段と能〈大原御幸〉」
【出演】<講演>小林千草教授(東海大学文学部日本文学科)
    <実演>福王流ワキ方 福王和幸師
    <司会>下鳥朝代准教授(東海大学文学部日本文学科)
【会場】東海大学湘南キャンパス 松前記念講堂
【開演】13時〜
【料金】無料
【感想】
名文句「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」で始まる平家物語平家物語は文学や絵巻物に留まらず「平曲」「能楽」「歌舞伎」「人形浄瑠璃」等に翻案され、広く親しまれてきました。現代でも大河ドラマ平清盛」をはじめとしたテレビ番組やマンガ本等の題材として採り上げられるなど、その人気は衰えるところを知りません。

以前、東海大学で非常に興味深いテーマの公開講座があったので、その概要を残しておきたいと思います。東海大学湘南キャンパスには初めて行きましたが、丹沢山系を真近に臨む緑豊かで開放感のあるキャンパンスです。この公開講座は「中性の声とことば」と題するシリーズもので、今回が最終回でした。ハビアンなる人物は禅宗からキリスト教へ改宗した日本人ですが(イエズス会修道士で、ハビアンとはキリシタン名)、室町時代の口語体で「平家物語」を翻案し(原文を最大限に尊重しつつ、仏教思想を背景とする記述など西洋人には理解し難い部分に若干の手が加えられています)、日本初の口語体で書かれた書物「天草版平家物語」(1593年発刊)を著した人物です。この「口語体」というところがミソでして、室町時代には録音技術などはありませんので、室町時代に使われていた言葉は当時の書物や書状などに書かれた書き言葉(文語体)でしか知る術はありませんが、この「天草版平家物語」には室町時代に使われた話し言葉(口語体)がローマ字で表記されており、それを「音」として感得することができます。詳しくは小林千草さんの著書「ハビアン平家物語夜話」(平凡社)をご覧頂きたいのですが、例えば、「平家物語」は「FEIQE NO MONOGATARI」と表記され、室町時代の人々が「平家」を「FEIQE」(ふぇいけ)と発音していたこと(即ち、「は−ひ−ふ−へ−ほ」を「ふぁ−ふぃ−ふぅ−ふぇ−ふぉ」と発音していたこと)が伺われます。その他にも、「風」は「caje」(かじぇ)、「思し召せ」は「oboximexe」(おぼしめしぇ)、「申せば」は「moxeba」(もうしぇば)、「冷泉」は「Reijen」(れいじぇん)、「文治元年」は「Bunji Guannen」(ぶんじぐぅぁんねん)など現代の口語体(標準語)と比べると拗音が多いのが特徴だと思います。TVドラマ「101回目のプロポーズ」で武田鉄也さんが絶叫した「僕は絶対に死にましぇん!」の語尾「しぇん」(博多弁)も室町時代の口語体の名残りだそうです。現代人の感覚からすると拗音は野暮ったく感じられますが、当時の「音」は分かっても「口調」までは分かりませんので、実際にどのような雰囲気で会話が交わされていたのかは想像の域を出ません。第1部では、小林さんが「天草版平家物語 大原御幸の段」を朗読しながら解説を加えられていきましたが、登場人物の心情、当時の生活様式や時代の匂いのようなものまで文面から鋭く読み解かれる、深い教養、多角的な視点や豊かな感受性などに裏打ちされた卓抜した読解力に舌を巻きました。同じ文面を読んでいても、読み手によってこれだけ感じ取れる情報量が違うのかと驚かされます。小林さんが近代文学(西洋)は詳しい描写で物語を展開して行くのが特徴なのに対し、古典文学(日本)は詳しい描写はなく読者が行間から色々なことを読み取る(イマジネートする)のが特徴だと仰っていましたが、オペラ(外からの刺激で観客の感受性に訴えるプラスの美学)と能楽(観客の感受性をその内側から引き出すマイナスの美学)にも全く同じことが当て嵌まる興味深いお話でした。また、小林さんによれば、「天草版平家物語 大原御幸の段」に出て来る一節「鴫たつひま」は、西行法師の和歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」(新古今和歌集)の「鴫立沢」(神奈川県大磯の鴫立沢のことで、鴫立庵と言えばピンと来る方も多いと思います)の引用で、昔は古の和歌や言葉を大切に受け継いで行く伝統(教養)があったという話は色々と考えさせられました。現代は流行語に象徴されるように言葉が使い捨てにされる時代ですから、後世に伝えるべき言葉、そこから派生する文化が何もありません。クラシック音楽でもバロック時代には他人の曲のパロディーや転用は頻繁に行われていましたが、現代では少しでも似たフレーズがあると直ぐに盗作等(著作権侵害)だと騒ぎになりますので、自由な創作が阻害(萎縮)されてしまっている残念な状況があると思います。なかには悪意や害意による盗作等もあると思いますが、「創作は模倣から始まる」(トルストイ)という言葉のとおり、他人の作品から着想を得てより良い創作が生まれることは歓迎すべきことであり、あまり権利意識が過剰になってギスギスした社会になってしまうのは詰まりません。


http://www.town.oiso.kanagawa.jp/kanko/sigitatu.htm

第2部と第3部は、「天草版平家物語 大原御幸の段」(口語体)と能「大原御幸」(文語体)の素謡を聴き比べるというものでしたが、(ハビアンの言語センスもあると思いますが)福王さんによる謡の独特の節回しやリズムによって文語体だけでなく口語体でも十分に鑑賞に堪え得る言葉の香気、美しさが感じられました。小林さんが明治時代までは香気ある日本語が受け継がれてきたが、現代ではその香気は失われてしまっており、我々一人一人が香気ある日本語を受け継いで行くという意識を持つことが大切だという趣旨のことを仰っておられたのは全くの同感です。三島由紀夫さんが「新古今集を忘れたから、日本人は日本語が下手になった、新古今へ還れ」と仰られていますが、このような社会背景には西洋至上主義的な価値観など様々な要因が考えられます。日常生活の中に自然が感じられなくなってしまった(美しい言葉が生まれる素地がなくなってしまった)のもその要因の1つではないかと思いますが、最近では街中でトンボや蝶々を見掛けることはなくなりましたので、益々、日常生活の中から自然がなくなって行くのを感じます。都会の悪臭を放つ塵だらけのドブ川を眺めても、こんな和歌は詠めません。


嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり(能因法師

上述の「創作は模倣から始まる」で思い出しましたが、今日のニュースで違法ダウンロードに対する刑事罰(2年以下の懲役又は200万円以下の罰金)を導入するための著作権法改正案が提出される見通しになったという記事を読みました。コンテンツ(芸術作品を含む)に対して適正な対価を支払わず、これを違法に取得又は利用する行為(万引き)は許されない行為ですが、刑罰化の実効性を含めて法規制を強化することにどれほどの意義があるのか疑問ですし、適法にアップロードされているコンテンツのダウンロードまで躊躇されるような状況(萎縮的効果)が生まれることを懸念します。寧ろ、基本的な方向性としては、コンテンツのアップロードやダウンロードにあたって適正な対価を徴収できる仕組み(社会インフラ)を整備し、コンテンツの有効利用を促す方が著作権者にとっても利用者にとってもハッピーであり、文化芸術及び産業の促進にも資すると思います。仮に法規制を導入するのであれば、そのような仕組みを不正に免れる行為に対して罰則を化すなど、コンテンツの流通を阻害するのではなく、適正な流通を担保できる仕組みを整備したうえで、その秩序を乱す輩に対して厳罰をもって臨むという規制の姿が望ましいように思います。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1206/14/news021.html

◆おまけ
そろそろネタキレというよりYou Tubeでそれなりのクォリティの画像を探すのが面倒になってきたので、上述の和歌「竜田の川」に掛けて舟歌あれこれでご勘弁。舟酔いにご注意あれ。
チャイコフスキー

ショパン

メンデルスゾーン

ラフマニノフ

フォーレ

▼ブルグミューラ

▼ヤシロアキ