大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

無伴奏「シャコンヌ」

【題名】無伴奏シャコンヌ」(原題:Le joueur de violon、邦訳:ヴァイオリン奏者)
【監督】シャルリー・ヴァン・ダム
【脚本】シャルリー・ヴァン・ダム
ジャン・フランソワ・ゴイエ
【演奏】ギドン・グレーメル
【出演】<アマンドリシャール・ベリ
    <リディア>イネス・ディ・メディロス
    <ダロー>ジョン・ドブラニ
    <シャルル>フランソワ・ベルレアン  ほか
【料金】TUTAYA 旧作100円
【感想】
某音楽家が開設するブログで「音楽家が音楽を諦める時」というタイトルが目に留まったので(以下のURL)、皆さんにご紹介してみたいと思います。タイトルが「止める時」ではなく「諦める時」と記載されているところに音楽家としての無念な心情が滲み出ていますが、最近は商品(CD等)が売れなくなり、音楽制作の現場で制作費の締め付けが厳しくなったことに伴って、音楽家として納得の行く仕事をすること(即ち、音楽家として責任を全うすること)が難しい状況になった為、職業音楽家として活動することは諦めざるを得ないという趣旨の苦衷が吐露されています。その一方で、違法ダウンロードの罰則化を盛り込む著作権法改正案が国会で審議されていますが、一昨日の記事で書いたように、音楽家を含むクリエイターの創作活動を脅かす違法なダウンロードは許されないことは言うまでもないとしても、コンテンツの利用そのものを阻害するような形での法規制には反対です。http://masahidesakuma.net/2012/06/post-5.html

さて、今日はTUTAYAの旧作100円レンタルで映画「無伴奏シャコンヌ」を借りてきたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。この映画は音楽評論家として著名なアンドレ・オディールの原作「Musikant」を基にした作品で、第一線で活躍していたヴァイオリニストのアルマンが自分の音楽に疑問を感じて舞台から退き、地下鉄の地下道でホームレス同然の生活を送りながら、只管、自分の音楽を求めて演奏し続けるという話です。ソリストとして成功を収めるアルマンですが、観客の熱狂的な喝采とは裏腹にスポンサーや観客に媚びた演奏に明け暮れて自分の音楽を表現できていないことへのジレンマに悩み、仲間の自殺を契機に舞台を去る決意をして、地下鉄の地下道で自分の音楽を求めてストリートミュージシャンとして演奏を続けることになります。以下のアルマンの台詞を聞いて「クラシック音楽に大衆性は必要か」という古くて新しい問題を思い出しました。以前、このブログで書きましたが、(舞台芸術である以上、受け手である観客がいなければ成立しない表現行為であることは当然の前提としても)音楽家は「観客のため」に表現しているのではなく「作品のため」(又は「自分のため」)に表現しているはずで、音楽家が向き合うべきなのは「観客」ではなく「音楽」であるべきだと思います。実際にキャリアを捨て自分の音楽を求めるためにホームレス同然の生活を送るということは難しいと思いますが、おそらく多くの芸術家が抱いているであろう心の葛藤と願望を象徴的に描いたものではないかと思います。

【アルマンの台詞】
観客や指揮者は丸め込めたが、ベートーヴェンは魂を揺さぶる作曲家だ。それを演奏で表現できなかった。シュニトケ作のカデンツアを弾く予定だったが、スポンサーが扇情的だと批判した、中止しろと。だから僕は無難な演奏に切り替えた。演奏が終わって拍手喝采を浴びたが、そんな自分を恥じたよ。」

アルマンは、自分の音楽を求めて地下鉄の地下道で演奏を続けるなか、音楽好きの地下鉄職員ダローや心を閉ざしがちな切符売場のリディアなど良き理解者を得て満たされた生活を送ります。多民族国家で文化の懐の広いフランスだけあって地下鉄の地下道では色々な人種が色々なストリートパフォーマンスを披露していますが、ある日、アルマンが地下鉄の地下道でバンドネオンの演奏に聴き惚れるシーンで、リディーとの間で交わす以下の会話がとても印象的でした。クラシック音楽の作曲を学ぶ為にパリに留学していたピアソラが教官ブーランジェから「あなたの作品はよく書けているけれど、心がこもっていない。・・・あなたの音楽を、あなたのタンゴを聴かせて頂戴」と言われたことをきっかけにタンゴの作曲に取り組みますが、丁度、このエピソードと逆の会話が交わされています。自分の音楽を求めるために地下鉄の地下道で演奏を続けているアルマンに対してリディーが「あなたの曲を聴かせて」と諭し、「彼のように」と言葉を継ぐアルマンに対して「計算抜きで無心で弾いているのよ」と切り替えしますが、これが音楽と向き合うということではないかと思います。「観客のため」と称して作品と向き合うことなく観客受けばかりを狙った打算的な演奏は上辺だけの美しさを求めた音楽の真実(本質)を語らない内容空疎な演奏で心に響くものはありません。以前、ジュピター・カルテット・ジャパンの植村太郎さんがタカーチ=ナジさんの演奏に感銘を受けて「この音楽はすでに美しいのですね。美しく演奏しようとしていました。」と語っていたことを思い出しましたが、「もっと美しく奏でたい」「観客を感動させたい」という邪心(下心)は演奏に表れてしまう(音楽を捻じ伏せてしまう)もので、邪心(下心)を捨て素直に音楽に共感する態度が必要ではないかと感じます。確か今井信子さんも「良い演奏をしているときに何を考えていますか?」という質問に対して「無心で演奏しています」と答えられていたことを思い出します。

【アルマンとリディの会話】(リ)リディの台詞、(ア)アルマンの台詞
リ;好き?
ア;心にしみる、いいね。
リ;真心がこもっているわ。
ア;僕もこの曲を…。
リ;ダメよ。
ア;なぜ?僕にもできる。
リ;そうじゃないわ、あなたの曲を聴かせて。できるはずよ。
ア;彼のように?
リ;(首を横に振って)彼は計算抜きで無心に弾いているのよ。

その後、アルマンは、地下鉄の地下道からの立ち退きを要求する警察官にヴァイオリンを壊されてしまい徐々に生活は疲弊していきますが、それでも音楽を(頭の中で)奏でることは止めません。その窮状を見兼ねたアルマンの昔の姿を知る音楽家シャルルが自分のヴァイオリンをアルマンに提供し、アルマンは地下鉄の地下道でバッハの「シャコンヌ」を奏でますが、そこに求め続けてきた自分の音楽を見出します。この映画はフランス映画らしい地味で淡々と描かれた作品ですが、監督のシャルリー・ヴァン・ダムさんは本当に音楽が好きな方のようで、最後はドラマチックに物語を展開させて大団円で締め括るというハリウッド式の即席エンターテイメント作品とは一線を画し、アルマンがバッハの「シャコンヌ」を弾くシーンを流し続けることで、音楽の持つ力をそのまま映画に映し出そうとしています(この監督の意図はエンディングロールで一切音楽を流していないことからも伝わってきます。)。こうなるともう台詞など必要ありません。ラストシーンは心を研ぎ澄ませて静かにバッハのシャコンヌに耳を傾けて下さい。きっと大きな音楽が聴こえてくるはずです。因みに、ヴァイオリンの演奏はクレーメルが担当しています。

シャコンヌ
先ず、バッハのシャコンヌとその代表的な編曲版をアップしておきます。シャコンヌは非常に大きな器を持った曲で、演奏者の音楽性(全人格)を丸裸にしてしまう恐ろしい曲でもあります。

▼バッハ シャコンヌ(原曲)

▼オーケストラ版 齋藤秀雄編曲

弦楽合奏版 ニールセン編曲

▼ピアノ版 ブラームス編曲

▼ピアノ版 ブゾーニ編曲

▼ピアノ版 武久源造編曲
バッハも試奏したと言われるジルバーマン(レプリカ)よる演奏です。この映像を見れば分かると思いますが、武久源造さんの演奏会は、その演奏もトークも充実していて自信を持ってお勧めします。http://www.genzoh.jp/

次に、バッハ以外の作曲家のシャコンヌをアップしておきます。バロック期にはヘンデルほか数多くの作曲家がシャコンヌを作曲していますので、ご興味があれば調べてみて下さい。

パーセル

パッヘルベル

▼ヤーダスゾーン

▼ヴィタリー

▼ニールセン

▼ガラッセ

最後に、もともとバロック音楽は舞曲的な性格を持ち、シャコンヌも舞曲の一種ですが、現代では器楽曲として演奏されることが殆どです。偶然、バロックダンスの映像を見付けましたのでアップしておきます。(iPhoneでは上手く視聴できないようなので、PCで視聴して下さい。)

バロックダンス