大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

グレン・グールド・プレイズ・バッハ 第2話「フーガの技法をめぐって」

【題名】グレン・グールド・プレイズ・バッハ 第2話「フーガの技法をめぐって」
【放送】CLASSICA JYAPAN(CS736)
    平成24年9月29日(土)12時05分〜13時10分
【演目】バッハ BACHの名によるフーガBWV898より
    平均律クラヴィーア曲集第2巻〜フーガ第9番ホ長調BWV878
    3声のシンフォニア〜第1番ハ長調BWV787
    平均律クラヴィーア曲集第2巻〜フーガ第22番変ロ短調BWV891
    平均律クラヴィーア曲集第2巻前奏曲とフーガ第19番イ長調BWV888
    フーガの技法BWV1080〜コントラプンクトゥス第2番、第4番、第15番
【出演】グレン・グールド
    ブルーノ・モンサンジョン
【収録】1980年11月20日〜25日CBCスタジオ(トロント
【感想】
僕はグールドやショスタコーヴィチと同じ“てんびん座”生まれで、(両指で数え切れなくなったので正確には覚えていませんが)今年で?回目の28歳の誕生日です…。“てんびん座”の天秤は正義の女神アストライアーの持っている善人・悪人の判決を下すための天秤のことですが、もともと星座は紀元前3000年頃にメソポタミア地方に住んでいた羊飼いが羊の番をしながら夜空を見上げて明るい星を結んでは何かに象形に準えていたのがルーツと言われています。先日のブログで秋分点について書きましたが、赤道と黄道が交わり昼と夜の長さが同じ(文字通り“天秤”“)になる秋分点を“てんびん座”の季節にしたと言われています。その為なのか、“てんびん座”生まれの人はバランス感覚に優れて美的センスや情報感度が高く、人の感情に敏感で常識という固定観念に囚われない独自の価値観を持っていると言われ、ファッションデザイナーや舞台演出家など人の感性に訴えるエンターテイメント系の仕事に向いているそうです。日本には星に関する神話は存在しませんが、平安時代にはホロスコープが存在していたようで、源氏物語の登場人物は12星座の特徴を表しているとも言われています(光源氏は“てんびん座”の特徴を良く表わしているという人も…。)。これからの季節は空気が乾燥して大気の透明度が増すので、天体観測に向いている時期と言われています。ソフトバンクではiPhoneを空にかざすとその方向にある星座をディスプレイしてくれる “Star Walk”という便利なアプリがあり、大変に面白く飽きません。空想を巡らせながら遥か銀河の海を渡って、88星座が綴る神話の世界を旅してみませんか。因みに、明日20時頃に「10月りゅう座流星群」が(晴れていれば)肉眼でも見られるそうです。


http://itunes.apple.com/jp/app/star-walk-5tsu-xingno-tian/id295430577?mt=8

さて、現在、「CLASSICA JYAPAN」(CS736)で、グレン・グールドの特集番組が放映されています。フランスの映像作家であるブルーノ・モンサンジョングレン・グールド最晩年の1979年から1981年にかけて収録したグールドによるバッハ演奏の集大成とも言うべきドキュメンタリー作品です。先日、第1話「バッハをピアノで弾く理由」をご紹介しましたが、今回は、グールドの真骨頂とも言える第2話「フーガの技法をめぐって」が採り上げられました。グールドとモンサンジョンとの対話の概要を残しておきたいと思います。(G:グールド、M:モンサンジョン

◆BACHの名によるフーガBWV898より

M:バッハというよりヘンデルのようです。

G:作りが不釣り合いなほど魅力的です。固定した三和音が不安定な反復進行を支えている点が。しかし、初期のバッハは好きなフレーズに固執した反復進行でインフレ気味に何度も使い続けました。それ以上にこの曲の特徴は主題です。ドイツ語ではBACH、フーガの主題に自分の名前を使わなければ、この曲は注目を集めなかったでしょう。初期のフーガ、トッカータやオルガン曲よりもずっと良いですが、同じような反復に捉われているものばかりです。今の時代、バッハが最高の楽聖だと知っているから、最初から偉人だったと思いがちですが違います。フーガ製作者としては遅咲きです。 彼が初期から持っていたのは 類い稀なる気迫と魂を曲に込める才能ですよ。トッカータでの叙唱的部分や初期の曲にも「マタイ受難曲」の原型が見ますが、彼がその才能を発揮してフーガを作れるようになったのは40歳近くになってからです。例を示すと、平均律クラヴィーア曲集第2巻 ホ長調のフーガです。飛び抜けて独創的ではないが実にコラール的です。

M:確かに各旋律が声楽的です。

G:特定の楽器向けに書いていないからどこにも余計な音が入っていないすべてが本質的な音で、すべてが元の主題の6音から発生した音です。最初の対主題は単なる主題の移高で、次も主題を装飾したものです。各声部が一斉に歌う提示部の後にフレーズが重なりあうようなスレットに突入します。ここでは対主題のストレットもあります。

M:2つの楽想が同時に発展してる?

G:まさに平行していますが、同時に転調するのではなく両者は、平行調である嬰ハ短調でぶつかります。この部分がかわいいんですが、EとBで始まるオリジナルの主題との応答を和音的に変容させて嬰ハ短調を通れるようにしています。

M:その過程で新しい対主題がさらに新しい対主題を伴って

G:そうですが、そうでもない。なぜならこれは新2小節で応答を伴っている動機の変形だからです。一見強引そうですが無駄がない。そして嬰ハ短調を離れ、そのまま嬰へ短調に移行します。ここでバッハは、主題の表情豊かな短3度の音程を音階で歌えるように埋めました。これに応えるアルトも同じパターンで、ただアルトでは旋法風に遊んで音楽を上がり違う音を通って下がります。バスには新しい対主題、元の発想に基づいて音程を5度まで広げます。それをテノールのカノンにももう一度使います。そして嬰へ短調から同じく平行調嬰ハ短調へ、そしてまた輝かしいストレット…。次が面白い、このストレットの後、彼は初めて6つの全音階を続けます。特別じゃないですが、ここまでに現れる動機は全部こういう4度か、対主題の5度です。突然6つ目の音を加え、そしてカノンで7度、近づきつつある終わりを祝福するように。しかし、終わらずに戻る、戻るのは初めて訪れる3度上の嬰ト短調、ここからコーダが始まります。この曲で初めてのオクターブホ長調です。ここまで6度が7度、8度まで広がりました。基本的ですが、バッハの中で一番輝かしいコーダです。これは傑作だ。 シェーンベルクもきっと好きだったと思いますね。彼の信条そのものだ。彼自身は「発展的変奏」と呼んでいましたが、全楽章、全小節のすべての音がその組織に属すべきだと主張しました。それを体現するのがこの曲です。」

スナフキンの独り言>
シェーンベルクはバッハを「最初の十二音作曲家」と名付けていますが、バッハは平均律クラヴィーア曲集第1巻第24番ロ短調(BWV869)のフーガの主題に12音全てを使用するという斬新な作曲技法を用いています。ご案内のとおり、12音技法(オクターブ内の12音を均等に使用することで調性の束縛を離れようとする作曲技法)は20世紀にシェーンベルクが発明し、ベルクやウェーベルンが発展させた作曲技法ですが、それをバッハは18世紀に作曲に用い(バッハは平均律を体系付けただけではなく、そこから調性音楽の殻を突き破って無調性音楽まで先取りしていたことになります)、後のモーツァルトベートーヴェンにも影響を与え、その血脈がシェーンベルクへと受け継がれています。また、バッハの音楽は非常に構造的で各主題とそのバリエーションが有機的な関連性を持ち、シェーンベルクが言うところの「発展的変奏」(楽曲は「基本形」が変化して成立し、「多様性」や「新しさ」を生み出しながらその「基本形」が楽曲を通して成長していくような変化)を実践していたと言えます。バッハの音楽は非常に緻密でロジカルな反面、そのロジックに雁字搦めになってしまうことのない懐の広さも併せ持ち、決して矛盾や破綻を来さない論旨一貫とした職人気質的な生真面目さがありながら、それでいて融通の利かない窮屈さを感じさせることのない多様性や柔軟性も持った非常に大きな器の音楽だと思います。よく「バッハに始まり、バッハに戻る」と言われますが、バッハは音楽の可能性を最大限まで追及した稀代の音楽家(音楽の父)であり、近現代に至るまでクラシック音楽と呼ばれるジャンルに位置付けられるあらゆる音楽のエッセンス(表現様式の変化や時代の趣味等によって多少のお化粧は施されていますが)は、基本的にバッハの焼き直しと言っても過言ではないと個人的には思っています。

M:ですがホ長調のフーガは特別なケースでは?

G:合唱曲のような作りで、対位法への態度と同じく、とても厳格でルネサンス的です。しかし、器楽的なアプローチから生まれました。厳格でない偉大なフーガもあります。同じように価値があります。 もちろんだ最初の3声のインヴェンションでも、とても歌えそうにない主題に基づいています。器楽的アプローチだから価値が落ちるわけじゃありません。

◆3声のシンフォニア第1番ハ長調BWV787
平均律クラヴィーア曲集第2巻〜フーガ第9番 ホ長調 BWV878

G:フーガは模倣と声部進行のルネサンス的組み合わせです。先ほどのホ長調とかね。かつバロック的な調の配列や関係でもあります。全音階の使用や和声進行など、そのパターンがシンフォニーをまとめています。フーガにおける模倣的な手法、例えば、カノンや反行、拡大、縮小などの数学的プロセスはルネサンス時代のものです。16世紀には洗練されていました。しかし、フーガが成立するためには別の要素が必要でした。調性だ。これこそシステムの要、ある和音から別の和音へ移すためにかかる力です。

M:しかし、バッハの時代のフーガと調性の関係はベートーヴェン時代のソナタのアレグロ楽章とは違います。

G:もちろん和声進行が全く違います。しかし、僕の考えとしてフーガの性質にはベートーヴェンが主音と属音、あるいは主音と中音に求める関係性はないと思います。バッハにはそういう特別の関係性は必要ありませんでした。フーガには「せねばならぬ」がないから、こう転調すべきという決まりがありません。転調は作曲家の好みに任せられています。シェーンベルクが言っていますが、発展的変奏をいくらでも放り込めます。

M:バッハがホ長調のフーガでやりました。

G:そうですが、ここには素材のダーウィン的進化があります。実存的に有意義ですが、バッハの時代は「モダン」ではありませんでした。「モダンなフーガ」の素晴らしい例があります。第2巻変ロ短調です。これはホ長調とはまったく展開が違います。主題は我々が歌った形で現れ、提示部の最後、初めてカノンで現れ、後ほど反行して続きますが毎回視点が変わります。視点が変わるたび違う調に移るんです。それでも各プロセスは主音から始まっています。例えば、提示部の締め括りに初めてカノンを使いますが、そこから微妙に転調し、3度上まで転調して魅惑的なカノンに移行します。彼の調性の使い方は主調から3度上へ移っても同時期のスカルラッティなどとは違います。バッハはミニマニストとは違うんです。1つの調にとどまることには興味がありませんでした。特定の箇所でどの調をどのくらい持続させるかということには興味がなかったんです。後のクラシック作曲家のように調の持続時間には意味を持たせませんでした。バッハが主調と3度上を並べて置く時は、この場合とはまったく違う置き方です。ベートーヴェンと違いオルガンの音栓のようにバッハはすべての調を使います。そういうアイディアの固まりがこの素晴らしいフーガです。

平均律クラヴィーア曲集第2巻 フーガ第22番 変ロ短調 BWV891

G:バッハがフーガで行う転調は特別です。例えば、“調認知”とでも言えばいいのか、各調に備わる性質を理解し別の調につなげています。 確かに、対位法的に傑作というだけじゃない和声的にも傑作だ。

M:だが君は今までに一度も“前奏曲”と言っていない。

G:僕個人は“平均律”のフーガの多くは前奏曲と別の方がいいと思っています。

M:それは賛成できない。

G:趣味の問題ですよ。いい前奏曲もあります。擁護するわけじゃないですが、本当に素晴らしい。しかし、いい曲だと僕は困ってしまう。フーガとまったく合わないのがあってね、さっき話してたホ長調のフーガがいい例ですが、ネオ・ルネサンスの壮麗なフーガの前に彼が置いたのは18世紀のかわいいロココ調のカツラをかぶったトリオソナタです。素晴らしいですが、このフーガとの関係が分かりません。両者には技術的に100年の開きがあります。感情的にもまったく別世界に属しています。

M:では2つを足した時、合計以上になる組合せは?

G:“以上”かどうかは…。ただ互いを刺激し合う組み合わせはあるだろうと思います。イ長調、全体的にとても優しく叙情的で楽天的で魅力的な一品です。

平均律クラヴィーア曲集第2巻 前奏曲とフーガ第19番 イ長調 BWV888

G:前奏曲とフーガが一体です。

M:なぜフーガがバッハの人生に大きな役割を果たしたと思う?皆がフーガを追究し続けました。多調性フーガや無調性フーガ、十二音フーガを作りました。ロマン派の作曲家たちまで。フーガの何が人を魅了する?

G:要素はたくさんありますよ。もっとも強い理由は、定義付けが難しいですが、あるタイプの芸術家が持つ欲求です。彼らの選択に必然性があると証明したいんです。時間は論理に従って流れているとね。音楽家に限った話ではありませんが、音楽は証明不可能だからか、他の芸術家よりもはっきり示したいのかもしれません。音楽ではこれが適当か否か断言するのが難しい。中期のベートーヴェンについて君とは意見が合いませんが、交響曲第5番の尊大さを認めさせようとか、ヴァイオリン協奏曲の陳腐さとか…その話はやめておくよ。とにかくベートーヴェンは気質が特別です。(皇帝の一部を演奏しながら)こういうクズを書いた中期にも彼は自分が特別だという自信を持っていました。直感的な才能があるのは間違いありません。ほとんどの作曲家にその才能はありません。あんなバカげたものを出す度胸はありません。これをいいと思うには聴き手側にかなりの信仰心が必要です。そんな図太さはベートーヴェンにしかありません。R.シュトラウスの音詩にも、すべての主題や転調が言葉で裏付けられる理由は、彼が“すべてに構造的理由がなければならない”と自らに課題を課したからなんです。彼の音楽に即興的要素は何もありません。彼がこれを成功させたためにティル・オイレンシュピーゲルを子供に聞かせて純粋な音楽的反応を得られる。フーガやカノンなどの対位法の形式も同じです。カノンがうまく機能するか否かは形式に沿っているかいないかですよ。同じようにフーガは過程に集中しています。過程がすべてだ。フーガの中ではその場の思いつきに左右されることはありません。しかし、フーガの技法第9曲はかなり派手な主題を使っています。ヴィルトゥオーゾ的だが、これもフーガとして機能しています。提示部の主題と対主題がフーガの技法の基本主題と呼応します。ベートーヴェンの皇帝について見解が違う我々も、ここでは合意できるでしょう。このありふれた主題もフーガの技法で展開するんです。

M:フーガの技法から3曲弾いてくれると2、4、15、君はこれがバッハのフーガの最高傑作だと?

G:そうですが、そう思う理由は規模や技術的なことではありません。1つの主題から15のフーガと4つのカノンが生まれましたが、最後のフーガには技術より大切な瞬間があります。今までのバッハのどの作品より深く心を揺り動かす瞬間があるんです。未完のフーガですが、そのことだけが理由じゃない。書いている途中で命が尽きたのもドラマチックですが、最後のフーガには平和や祈りの要素が入っているのが素晴らしい。フーガの技法全般にいえますが、当時の音楽界の主張に文字通り、背を向けています。

M:当時、フーガは人気がなかった?

G:人気もないし、こんな規模のは前例がありませんでした。18世紀当時はフーガがすたれメヌエットが流行っていました。しかし、それ以上にバッハは恐らく意図的に和音のスタイルを変えました。フーガの技法には変ロ短調のフーガのような明らかな転調はありません。以前のものとは違います。彼は100年ほどさかのぼってバロック初期の北ドイツやファランドルの作曲家から対位法や調性を借りました。調性が打ち出せる。しかし、僕にとってこれは無限に広がる淡いグレーなんだ。僕の好きな色だ。シュバイツァーが言うには“静粛で厳粛な世界、色も光も動きもない”と。特に最初の曲だと思いますが、僕は最後の曲でもそう感じる。バッハが取り入れた半音階主義は彼の時代を超えて少なくとも100年は続きました。他には類をみません。ワーグナー以降の半音階主義まで後の世代へと続きますが、従来の転調はせず1つの調にも留まらず無限に広がる宇宙を思わせます。初期のシェーンベルクかと思うような。

M:しかし最後のフーガは3つの主題に基づき、最後の1つは自分の名前

G:これ以上の対比はないですよ。このフーガが4音と番組の最初に弾いたBACHとではね。ここでは必要以上の興奮は消え失せ、彼の人生の集大成に文字通り署名しているんです。世間の期待よりもっと遠くへと彼は自らの人生を推し進めました。すべての作品においてどんな時も、もっとも見事な方法で人生を曲に凝縮しました。

フーガの技法 BWV1080
コントラプンクト第2番、第4番、第15番

◆おまけ


バッハの音楽は楽器の制約を受けない!管弦楽の合奏によって各声部、フーガの見事な彫塑がより浮き彫りになっています。グールドの頭の中で鳴っている音楽のイメージに近いかもしれません。

イタリア協奏曲のジャズアレンジです。バッハの音楽は楽器を超え、様式を超え、時代を超えて訴えかけてくる普遍的な何かを持っています。それにしても、身を捩りたくなるような演奏が展開されています。