大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

グレン・グールド・プレイズ・バッハ 第3話「ゴルトベルク変奏曲」

【題名】グレン・グールド・プレイズ・バッハ 第3話「ゴルトベルク変奏曲
【放送】CLASSICA JYAPAN(CS736)
平成24年9月29日(土)13時10分〜14時15分
【演目】バッハ ゴルトベルク変奏曲BWV988
【出演】グレン・グールド
ブルーノ・モンサンジョン
【収録】1981年4〜5月(ニューヨーク30丁目スタジオ)
【感想】
今日までブリジストン美術館で「ドビュッシー 音楽と美術 〜印象派と象徴派のあいだで〜」が開催されていましたが、諸事情により観に行き(け)ませんでした。この展覧会の期間中には興味深いイヴェントなども数多く開催されていたようで、本当に残念でなりません。ドビュッシーが生きた時代のフランスはサロン文化が華開き、音楽、美術、文学などジャンルを超えた芸術家達が互いに刺激し合って、そこから新しい創作が生まれるという非常に文化的に薫り豊かな時代でした。また、パリ万博の開催によって中東や極東の異文化の影響も色濃く見られ、非常に創作意欲の旺盛な多彩な文化が華開いた時代でもあります。このブログでもご紹介したとおりドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は詩人マラルメの「牧神の午後」にインスピレーションを受けて作曲されたものですし(春祭初演でも知られるニジンスキーの振付で舞台芸術にも昇華しています。)、ドビュッシー交響詩「海」の初版譜の表紙は葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」であった話は有名です。また、この時代は印象派から象徴派へと移り変わる過渡期で、ドビュッシーのピアノ作品にはこれらの印象派や象徴派の絵画からインスピレーションを受けたであろう視覚的な作品も数多く残されており、ジャンルを超え、地域を超えてクロスカルチャーな交流が結実した羨ましい時代でした。一口にクロスカルチャーと言っても、現代のように風俗(創作ではなく消費)ばかりが跋扈する時代とは随分と様子が異なります。

http://debussy.exhn.jp/

さて、先日来、このブログでご紹介していますが、現在、「CLASSICA JYAPAN」(CS736)でグレン・グールドの特集番組が放映されており、その第3話「ゴルトベルク変奏曲」を観ましたので、グールドと監督のモンサンジョンとの対話の概要を残しておきたいと思います。なお、1955年のデビュー盤以来、2度目となる「ゴルトベルク変奏曲」の録音風景を収めた有名な映像も放映されましたが、You Tubeに画像がアップされていたので、併せて貼っておきます。因みに、映画「羊たちの沈黙」でハンニバル・レクターが警官を殺すシーンで流されている曲がこの2度目の録音である1981年版です。(G:グールド、M:モンサンジョン

バッハ:ゴールドベルク変奏曲(55年モノラル盤)バッハ:ゴールドベルク変奏曲

G:平凡なバス上の主題が30の視点から見られます。順不同のスナップ写真のように、バッハの数十年にわたる対位法研究を一度に見られます。彼の大らかな若さも感じられるし、老いてからの禁欲主義も聴き取れます。

G:個性や主体性にとらわれなければ、作曲家と演奏者と聴衆はロマン派時代に壊された一体感を取り戻せます。

スナフキンの独り言>
第1話でも話題になりましたが、グールドの興味は音楽の構造に向いていて、決して楽譜に隷属することなく、宛ら作曲家のようにその強弱やテンポを自在に操りながら演奏するので、本来、バッハの音楽(又はもっと広くバロック音楽≒舞曲)が持っている即興感や躍動感が瑞々しく蘇り、新鮮な音楽的興奮や感動を味わうことができます。「ロマン派時代に壊された一体感」とは面白い表現ですが、作曲家、演奏者、聴衆の分化が進んだロマン派の時代には作曲家の意図に充実であろうとするばかりに演奏者は楽譜に隷従するようになり(作曲家も細かい指示を楽譜に書き込むようになり)、いつしかクラシック音楽が本来持っていた生命力が失われていった時代でもあります。グールドは「バッハ以上にスウィングする音楽はない」と語っていますが、グールドにとってバッハの音楽を演奏するということは創造的な営みであり(即ち、バッハの音楽は楽器や強弱、テンポに関する指示が殆どなく、その一方で音楽が堅固な構造を持っているので、演奏者がその主体性を発揮し易い器を持っている)、その創造的な営みに観客も積極的にコミットすることを求めていることが伺えるという点で、ジャズのライブ演奏に近いイメージが感じられます。尤も、グールドはジャズの影響を否定していますし、ジャズとクラシックが最終的に収束するという喧伝はくだらないとも語っているとおり、グールドの視線はバッハの音楽の本質に向けられており、バッハの音楽をジャズにアレンジして演奏している向きとは、やはり区別して扱わなければならないような気がします。

M:長大な曲を再録音するのは珍しいですよね。

G:27年間で再録音したのは2曲か3曲だけだ。1955年の録音の数年後にステレオってものが生まれ、それ以前の録音の価値が下がりました。その数年後、また余計なことにドルビーが発明されさらに価値が下がりました。しかし、それでも再録音する気になったのはつい最近のことでした。珍しく自分の昔の録音を聴いていて、こう思いました、「30の興味深いが少々独立気味の変奏が独自の道を行き、バスにすべてが集約されている」とね。主題とそれに続く変奏の間に殆ど数字で表せそうな類似を見付けました。テンポ的に2、4、8・・・という単純な類似じゃない、ある感覚の存在に気付いたんです。バッハにはメロディーの持続性がない代わりに基本的な和音構造が持続しており脈打つようなリズム構造が全体を貫いています。それで再録音する気になりました。ドルビーとステレオを採用して20年振りにこうしているわけです。

▼静かな祈りが込められているような終曲のアリアなど本当に心に染みてきます。バッハ演奏の金字塔です。

▼ジャズアレンジ版です。静かな土曜日の夜にジャズバーで一人グラスを傾けながら聞きたい演奏です。

◆おまけ
ドビュッシーの曲を3曲ご紹介しておきましょう。響きに身を傾けてみて下さい。