ぶらあび

ジャンルを超え、地域を超え、時代を超えて「時間芸術」(音楽、文学、話芸、香道…)、「空間芸術」(建築、彫刻、陶芸、絵画、書道、華道…)、「総合芸術」(舞踊、演劇、映画、茶道…)など芸術全般の感想を書き綴ります。(オススメ公演情報等はスマホ版で表示されないのでPC版でご覧下さい。)Copyright (C) 2007-2019 Administrator All Rights Reserved.

新版オペラと歌舞伎

【題名】新版オペラと歌舞伎
【著者】永竹由幸
【出版】水曜社
【発売】2012年5月31日
【値段】1600円
【感想】
梅に始まり、椿、木蓮…と色付き初め、そろそろ桜も綻び始めてきました。冬場の殺風景だった景色が春の花々の鮮やかな色彩に染め上がり、メジロやウグイスなど春の野鳥の鳴き声が早春の青空に澄み渡って実に清々しく華やいだ雰囲気になります。和歌でも一首詠みたくなるところですが、浅学にして心得がなく花や野鳥と風流、風雅に戯れることもできない無教養が口惜しく感じられます。3月18日から千葉城がある亥鼻公園で桜祭りが行われているので、少し気が早いですが花見と洒落込みました。千葉城は千葉常胤(能「七騎落ち」の題材にもなった石橋山の合戦で敗れた頼朝主従が安房上総に逃れて頼ったのが常胤で、関東で勢力を盛り返した頼朝に鎌倉を本拠とするように勧めたのも常胤と言われています)が居を構えた千葉氏発祥の地で、現在は勇壮な四重の天守が聳え建っていますが、これは小田原城と同様に近年になって建て替えられた近代建築によるもので往時の様子を忠実に再現したものではありません。因みに、僕の会社の近くに「将門の首塚」がありますが、平将門は千葉県佐倉市出身で、千葉氏の祖である平良文は将門の叔父にあたります。

http://tabikore.com/album/791

亥鼻公園には「いのはな亭」という茶屋があり、ここの「いのはな団子」は有名なのでご存知の方も多いと思います。僕は無類の磯辺焼きフリークなので、いのはな亭に行くといのはな団子ではなく磯部焼きを頂戴しています。国立劇場内にある喫茶「濱ゆう」の磯辺焼き(もなかソフトクリームも有名ですが)と共に、ここの磯辺焼きには目がありません。とりわけここの磯辺焼きはレンジではなく本格的な網焼きなので、表面にはこんがりと焦げ目が付きこれが醤油とよく絡み合って香ばしく(健康志向なのか醤油は薄口なので、磯辺焼きが好きな醤油党の皆さんは濃口のmy醤油を持参してもよいかもしれません)、火力が絶妙なのか餅の中はトロけるほど柔らかく、飲み込む力がない老人などは喉に詰まらせて死んでしまうのではないかと思うほどモチモチと弾力性があります。自宅で餅を焼いても、こんな風には焼けません。来週末あたりが見頃ではないかと思いますので、いのはな団子を食べに行くついでに、亥鼻公園の花見に興じつつ千葉氏の歴史に思いを馳せてみてはいかが。


自宅近くの桜です。この桜の「美しさ」は写真よりも絵でないと拾い切れないかもしれません。それくらい色々な感慨を想起させてくれます。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」といいますが、右の写真の桜は趣のある枝振りなだけに少し残念です。

この本の冒頭から「第二次世界大戦は、オペラと歌舞伎を持つ国民国家と持たざる国民国家の戦いであった」とキャッチーなコピーに心を鷲掴みにされてしまいますが、確かに第二次世界大戦はオペラを持たない鬼畜米英と、ワーグナーを奉じるドイツ帝国ヴェルディ―を奉じるイタリア共和国及び東洋のオペラと言われる歌舞伎を奉じる大日本帝国との戦いであったという指摘は興味深いです。さらに、永竹さんはオペラを持たない英米は国民的なエネルギーを植民地の拡大で発散していきましたが、オペラや歌舞伎を持つ日独伊は植民地を領有した歴史が短く国民的なエネルギーをオペラや歌舞伎で発散していたと考えられ、オペラや歌舞伎が植民地に値する文化遺産であったと勇猛果敢に論を展開しています。多少、強引な筆運びながら全く独創的な視点から歴史的な文脈の中でオペラ・歌舞伎を捉え直そうとしており、冒頭から著者の並々ならぬ意気込みと鼻息の荒さが感じられます。

歌舞伎は1596年(慶長元年)頃にブレイクした出雲の阿国(近江近郊の能楽師の娘)のややこ踊りから誕生したと言われています。これに対し、世界最古のオペラは1598年頃にフィレンツェで初演された「ダフネ」と言われていますので、奇しくも歌舞伎とオペラは同じ頃に誕生したことになります。ここで永竹さんは「歌舞伎に対する能・狂言」と「オペラに対するギリシャ悲劇・喜劇」を引き合いに出して、能やギリシャ悲劇は舞台装置がなく抽象的かつ禁欲的に演じられる仮面劇であるという共通点を持ち、人間の性(さが)の本質を見極め、その美しさ、醜さを極限状態で見ることによりカタルシスを得る舞台芸術であるのに対し、歌舞伎やオペラは目や耳に訴える感性の芸術という意味で道楽芸術であると言い放つ大胆さで、独自の視点から快刀乱麻の分析を展開しています。やがてワーグナーヴェルディが現れると道楽芸術であったオペラは人生を考えさせるような深刻な内容を伴うものが増えてくるにつれて徐々に大衆性から乖離するようになり、その代替的な道楽芸術としてオペレッタ、そしてミュージカルが誕生してきたと帰結し、各舞台芸術の本質を適格に捉えながら大掴みで舞台芸術史を俯瞰してしまう辣腕に脱毛するほかありません。

また、竹永さんは、様々な観点から「ギリシャ悲劇・喜劇」と「能・狂言」、「オペラ」と「歌舞伎」を対比し、各々の舞台芸術が極めて近い性格を有するものであることについて(些か強引な筆捌きではないかと思われるところもありますが)説得力のある論を展開しています。例えば、「ギリシャ悲劇・喜劇&能・狂言」と「オペラ&歌舞伎」の“性の倒錯”に関する分析も面白く、「ギリシャ悲劇・喜劇&能・狂言」では男性役者が女性役を演じる際には仮面をつけてうら声を使わずに演じるという共通の特徴を持っており、それは生身の女性のエロティシズムとは異なる形而上的なものであって、究極的には、その演じられる人間が男性であるのか女性であるのかということは問題ではないのに対し、「オペラ&歌舞伎」では男性役者(歌手:カストラート)が女性役をうら声を使って“女性らしさ”を強調して演じるという特徴を持っており、それは現実的なセックスを超越した舞台上の芸の色気まで昇華された表現になっており、その点で前者と後者の“性の倒錯”は全く異なった発現形態をとっているという指摘はご慧眼です。また、何故、「ギリシャ悲劇・喜劇&能・狂言」よりも「オペラ&歌舞伎」の方が統計的に女性客が多いのかという分析は大変に興味深いものがありました。このことは器楽曲の演奏会よりも声楽曲(オペラやバレエも当て嵌まりますが)の演奏会の方が女性客が多いという傾向にも当て嵌まるものだと思います。昔、「話を聞かない男、地図が読めない女」という本がありましたが、(どちらが優れているのかという優劣の問題ではなく)個体差はあるものの男女における傾向的な特性があることは否定できない事実ではないかと思われ、逆に、芸術発生史の観点から、何故、このような表現特性の違いが生まれてきたのかを考えてみるのも面白いかもしれません。学者でもない僕には時間も金もなく侭なりませんが。

仕事が忙しくてまだ読破していませんが、徐々に感想を書き足して行きます。かなりお勧めです。続く。

新版 オペラと歌舞伎 (アルス選書)

新版 オペラと歌舞伎 (アルス選書)

◆おまけ
春の花「椿」にかけて、ヴェルディー 歌劇「椿姫」より第3幕抜粋。因みに、永竹由幸さんは「オペラになった高級娼婦 椿姫とは誰か」(水曜社)という本も執筆されています。勿論、高級娼婦 椿姫とはプリティーウーマンのことではありません。

春の花「梅」にかけて、二代目竹田出雲 歌舞伎「菅原伝授手習鑑」より梅王丸が活躍する門外の場

春の花「木蓮」にかけて、五十嵐はるみ 「木蓮の花」(ジャズアレンジ)

春の花「桜」にかけて、宮城道雄 筝曲「さくら変奏曲」