ぶらあび

ジャンルを超え、地域を超え、時代を超えて「時間芸術」(音楽、文学、話芸、香道…)、「空間芸術」(建築、彫刻、陶芸、絵画、書道、華道…)、「総合芸術」(舞踊、演劇、映画、茶道…)など芸術全般の感想を書き綴ります。(オススメ公演情報等はスマホ版で表示されないのでPC版でご覧下さい。)

ドキュメンタリー「チェリビダッケ/ただ音楽に身をゆだねて」

【題名】ドキュメンタリー「チェリビダッケ/ただ音楽に身をゆだねて」(原題:Celibidache)
【監督】ヤン・シュミット=ガレ
【出演】セルジウ・チェリビダッケ
    ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団&同合唱団
    ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
    シンフォニエッタ・ヴェネタ
    フェニックス四重奏団
    コレギウム・ムジクム・マインツ   他
【曲目】ブルックナー ミサ曲第3番へ短調WAB.28
    ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」WAB.104
    ロカテッリ 合奏協奏曲ヘ短調Op.1-8「クリスマス」
    JSバッハ クリスマス・オラトリオBWV.248
    バルトーク 弦楽のためのディヴェルティメントSz.113
    ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調Op.125「合唱」より第2楽章
    ベートーヴェン 劇音楽『エグモント』Op.84より序曲
    ブラームス 弦楽四重奏曲第2番イ短調Op.51-2
    ヴェルディ 歌劇『運命の力』〜序曲
    モーツァルト ディヴェルティメント第15番変ロ長調K.287(271H)  他
【放送】クラシカJAPAN
    平成25年5月18日(土)10時00分〜11時45分
【感想】
日中は汗ばむ陽気になり早い会社では既にクールヴィズが始まったところもありますが、システム化された社会にあって機能性・効率性が何よりも尊重される時代となり、平成のチョンマゲと言われる「ネクタイ」は徐々に廃れて行く運命にあるのかもしれません。ところで、自宅近隣の水田はGWに田植えを終えましたが、僅かこの2週間で稲はスクスクと成長し、日差しに映えて眩かった水田が今では新緑に覆い尽くされています。千葉での田舎暮しを始めたこの5ケ月はカルチャーショックの連続で、食農分離が進んだ都会暮しが多かった僕の人生で、こんなに「食」と「農」を密接に感じたことはありません。お米と言えば、一年中、スーパーに行けば精米されて袋詰めされたものが山積みにされていて、いつでもお金を出せば「買える」ものだという貧困なイメージしか思っていましたが、こうして日常生活の中で身近に稲作に触れる機会に恵まれると、やはりお米は農家の方々が手塩に掛けて育てた汗と努力の賜物であり、自然の恵みであることを肌感覚で実感できます。昔の日本は「食」と「農」が密接であったと思いますが、現代の日本は飽食の時代を向えて高度にシステム化された社会へと変貌したことにより食農分離が一層と進んで「食」に対する意識が昔とは随分と異なったものになったように感じます。即ち、昔は「食」(消費、命)が「農」(生産、自然の恵み)との連続性の中で捉えられていたと思いますが、社会が高度にシステム化されるに伴って「食」(消費、命)が「農」(生産、自然の恵み)とは断続した人工(加工)のものとして「流通」されるようになった結果、徐々に「食」に対する意識に変化(例えば、一元論的な世界観から二元論的な世界観への変遷など)が生まれてきたのかもしれません。そいった社会背景を受けて最近では再び昔の日本人が持っていた「食」に対する鋭敏な感覚(このような感覚が一元論的な世界観を背景として「自然」に対する畏敬、崇拝や共生観念を生み、ひいては日本の伝統芸能に対する感受性、創造性を育む基になるものだと僕は考えています)を取り戻そうと「食育」ということが見直されるようになっています。僕も千葉の田舎暮しを始めたことを契機として「食」ということの根源的な意味を考え直したいと思い立ち、「ブログの枕」として秋の稲穂の刈入れまで水田の観察日記を続けていきたいと思っています。


近所の水田風景(2013/05/18)千葉は早場米の産地として知られ、9月には新米が店頭に並びます。

今日は以前から録り溜めていたクラシカJAPANで放映されていたドキュメント「チェリビダッケ/ただ音楽に身をゆだねて」を観ることにしました。映像作家ヤン・シュミット=ガレがチェリビダッケに1988年から3年間密着したドキュメンタリー映画です。厳しいリハーサル風景やインタビューなどからレコーディングを拒否し生演奏に拘ったチェリビダッケの音楽観、哲学、音楽の本質へと迫って行くプロセスなどを明らかにして行くという内容で、きちんと咀嚼するのは長い時を要するような含蓄のある金言の宝庫です。今後、音楽について考えるときのヒントになることが詰まっていますので、ご参考までにその一部を以下にご紹介しておきたいと思います。

いつも彼が重視しているのはオーケストラであれ個人であれ単なる音からどうやって音楽を生み出すかということだった。

私は美を求めてはいません。もちろん芸術に美は必要です。でもそれは最終目標ではない。いわば釣り餌のようなものです。美しさがなければ、そこには到達できません。シラーは言っています。『美を超えて初めて真実に気づく』と。真実とは何か、それは理解するものではなく体験するものです。

真実とは何だろうと繰り返し考えました。そして他の知識人と同様に真実を具体的に示そうとしました。真実といえるものを取り出して見せようとしたのです。でもうまくいきませんでした。音楽とは何でしょう。音楽とは定義不可能なので、思考を超えた所にあるものです。思考を通して生み出されながら、思考を超越しています。練習ではすべてを秩序づけ思考しながら構成を試みます。しかし音楽が生まれる時には、すべてを超越しているのです。

チェリビダッケの言葉の本質をどこまで捉えられているのか自信はありませんが、音楽の現象面として表出する「美」やそこに至る「思考」を超越したところに音楽の「真実」があり、それは「理解」ではなく「体験」によって得られるものだという趣旨のことを言っています。即ち、「美」や「思考」は音楽の「真実」に迫る為の手段であり、その目的である音楽の「真実」とは「理解」(外在的な心的作用)によって得られるものではなく「体験」(内在的な心的作用)を通して得られるものなので定義不可能だとも言っています。よく音楽を聴くのは極めて「個人的な体験」であると言われますが、この文脈で捉え直すとなるほど得心できます。

解釈とは何だろうか。作曲家の意図を認識するプロセスにほかならない。作曲家も経験から出発してそれを楽譜に書き留めたのだ。我々は楽譜から出発して作曲家の経験に到達する。作曲家がすべてを楽譜に書き表したとは限らない。

伝統などないことを知るべきだ。伝統は歴史とともに生まれ変わるものだ。古い伝統にしがみつくのは単なる無能でしかない。

自分の耳で聴き、つかみ始めた。知識にとらわれずにね。知識とは過去にとらわれることだ。ところが私が批判すると君達は自発性を失ってしまう。だが真実は自分自身の力でつかまなければならない。真実とは解釈できるものではない認識できない事実もある。

今やっているのは楽譜の陰の真実を見つけることにほかならない。私は「こうしなさい、こうでなければいけない」とは言わない。そうではなくて我々の意思の届かぬ所にあるものを見出すのだ。私が「こうしなさい」と言えば皆は私の真似をするだけだ。だが君達に体験してほしいのは楽譜の裏側にあるものを思考を超越してつかむことだ。

練習は音楽ではない。「〜するな」の連続だ。「速過ぎるな」「大き過ぎるな」「ぶらぶらするな」「だめ、だめ、だめ」いったい何回ノーと言うのだろう。それに対してイエスは1回だけだ。

上記は音楽を聴く立場から語られた言葉ですが、音楽を演奏する立場からも同様に音楽の真実は「思考」の過程(楽譜の解釈)を経て到達する「体験」(作曲家の経験)だと語っています。よく音楽は「どう表現するか」ではなく「何を表現するか」だと言われますが、楽譜から作曲家の何を掴み取って表現するのか、それが(単なる耽美的な演奏とは異なる)内容のある演奏ということだと思います。「こうしなさい」という指導は「どう表現するか」の指導であって、(演奏者の体験によって得られる)音楽の真実に迫るための指導ではありません。従って、音楽の真実に迫るための指導とはそのための阻害要因(音楽と向き合い音楽の真実に迫ることを忘れ、「何を表現するか」ではなく「どう表現するか」に拘泥している演奏者の作為)を排除するための「〜するな」というチェリの指導方針に収斂していくことになるのだと思います。

曲と取り組む時、最初の問題は全体がつかめないことだ。全体のアーティキュレーションはどう区分できるのだろうか。全体はひとつなのではなく幾つかの部分から成っている。造を解き明かさなければ、君たちは音楽を体験することなくスコアの奴隷になるだけだ。

ハイドンでも現代曲でも未知の曲に取り組む方法は同じです。最初からスコアを読み1回、2回、3回と繰り返す。だんだん主題が見分けられ、相互関係がつかめてくる。そして最後と最初の関係が体験できたら、その曲は私のものです。作曲家よりも深く、その作品を知ることになります。実際に作曲家にそう言われたこともあります。ただ私には作曲する才能がない。楽譜から関係を体験するのみです。ダラピッコラの半音階技法が何を意味するのかと質問したら「我々の生きている混沌を表した」という答えでした。でも音楽は「物」を表すのではない。音楽が表すのはその人自身です。そこがすばらしい点なのです。

音楽的フレーズにおいて意味とは何だろう。音の連なりは構造を生み出し、冒頭と終結の間が関係で結ばれることになる。冒頭で約束されたことが終結で具体化されている時が曲が終わるということだ。関係とはある瞬間と次の瞬間を結ぶ関係のことではない。さまざまな瞬間を経て時を超え、冒頭と終結を同時に体験することだ。全体の構造を体験するのに前提となるのは何だろうか、冒頭と終結、そして部分どうしの絶対的な相互関係だ。部分ではなく全体を感じたとき私の中で何が起こったのだろうか、統合です、いつ統合できるかね、部分どうしに相互関係がある時です。

上記は音楽の真実へと迫って行くプロセスについて語られています。これを音楽受容の在り方、観客の態度に焼き直して考えてみるとよく「楽章間は音楽か?」ということが言われますが、チェリが語るように冒頭から終結までを通して聴いて初めて音楽の真実に迫ることができるのだと思いますし、その意味で僕は楽章間も音楽の一部だと思っています。従って、楽章間の拍手には反対ですし、音楽の流れ(文脈)を途切れさせてしまうような観客の無神経な態度には不快感を禁じ得ません。また、演奏者が構えを解くまでは音楽は続いているのであって(休符や無音も音楽の一部)、音が鳴っていないのだから雑音(生理現象として出てしまう咳等はある程度仕方がありませんが)を発しても良いだろうと勘違いしている観客や終演時に未だ演奏家が構えを解いていないのに拍手を始める観客がいますが、果たして、この観客は音楽の真実に迫ることができているのだろうか(そもそも音楽に接する態度ができていないのではないか)と不憫に思えてなりません。なお、古典派の時代には各楽章がバラバラに演奏されたこともありますが、そのような音楽受容の在り方が作曲家の純粋な表現意図に沿うものだったのか又は作品にとって本当に幸福だったのかは甚だ疑問です。

ここには生きた音楽作りしかない。大切なのは今響く音だけだ。音楽は保存できるものではない。だから彼は演奏を録音しない。過去を保存し揃えておこうとは考えないのだ。だがコンサートでは聴衆も創造を直接体験できる。生まれた音は消えてしまうが時間の超越を体験できるのだ。

何かが動き出してもその中にいると気づかない。長すぎるか短すぎると感じる時は、音楽の外に出ている。音楽の中では時間を超えて生きるのだ。音楽は時計で計れるものではない。長いとか短いとかいうのは外側から眺めた場合の言い方だ。ヴェネツィアサン・マルコ大聖堂での演奏では時間など感じていなかった。1年に100回指揮するうち3回もうまくいけばいい方だ。

定義不可能なことは起こるに任せるしかありません。何もせずに生じさせるのです。ただ音楽の流れを妨げることが起こらないよう見守るのみです。つまり非常に能動的でありながらある部分では受動的です。意志で作り出すのではなく生み出されるのです。

レコーディングを拒否し生演奏に拘ったチェリの音楽観を窺い知ることができる金言です。チェリは日本の禅にも興味を示していたと言いますが、禅の思想を踏まえて解き直すと非常に含蓄があり奥深い言葉に聞こえてきます。音楽とは「個人的な体験」であると言いましたが、音楽は時間軸の中で計れる外在的な響きとして認識(理解)されるべきものではなく、その音を通して作曲家の経験が個人の内面に投影されることで生み出される内在的な共感として認識(体験)されるべきであって、それはライブ演奏だからこそ成就し得るものだということを言いたいのではないかと考えます。だからこそレコーディングは音楽を外在的な響きとして記録することはできても、内在的な共感形成たる「体験」そのものを記録することはできないという点で意義を見出し難かったということなのかもしれません。これは禅定の根本思想(悟りの境地は坐禅している自分がいるという意識すら忘れてしまうほどに坐禅という行為そのものに没頭することにより得られる二元的論理思考を超えた純粋経験)に近い考え方であり、いくら座禅を組んでいる人の映像を見ても実際に座禅を組んでいる人の境地には至れないということと同じことではないかと思います。

あなたは一種の静寂に気づかれた。でもそれは私が呼び起こした現象ではありません。あなた自信がすべての圧力から自分自身を解放し、音響の中に静寂を聞いたのです。音楽と呼べる「もの」が存在しているのではありません。音の響きはある特定の条件の下に音楽となります。音響のすべてが音楽なのではない。音楽ではない音と音楽になる音があるのです。ただすべてを私に結び付けて考えないように解放を経験したのは私ではなくあなた自身なのです。

生涯で最高の褒め言葉を得たのは指揮を始めて2年目のことです。コンサートの興奮さめやらぬ時、やってきた女性が非常に満足し落ち着いた様子でこう言いました。「まさにこれです!」 この女性はまさに私と同じことを考え経験したのでしょう。「美しかった」「素晴らしかった」と表現はいろいろあるが「まさにこれです!」ほど的を得た表現ありません。この言葉は私が聞いた中で最も美しい言葉です。

純粋な意識は個人に発し、一滴の水のように独立している。だがその本質は大海の水と変わらない。どの水も、どの意識も、万物を包括する意識へと帰ろうとする。

聞こえるものと自分の内的な世界との対応だ。5度音程が新しい視野を広げ、外交的な性質だと感じるならば、それは5度音程と私の内的世界に何らかの対応があったからだ。これが可能なのは音楽が何等かの形式に構成されるからだ。音響と内的生命の対応が人間の音楽を可能にする。

何故、人間は音楽を鑑賞するのかという根源的な問いに対する端的な答えのようなものがこれらの言葉の中に凝縮されているような気がします。チェリビダッケは「音響と内的生命の対応が人間の音楽を可能にする」と語っていますが、音楽を通して作曲家の経験(音響、一滴の水)が自分の内面に投影されることで生み出される共感(内的生命の対応、一滴の水が時代、民族や文化等を超越した大海の水に同化して波紋すること)によって、自分の素直な心に触れ自分の心を解き放つことができる、だからこそ人間に精神的な充足や平穏をもたらす(人間の音楽)ということを言っているのではないかと思います。息の詰まるような組織化された社会の中で自分を押し殺しながら生きている現代人にとって、音楽を鑑賞するということは自分の心と素直に向き合い、自分の心を解き放つ(自由になる)ことができる数少ない機会を与えられることであり、本来的な自分(本性)を取り戻すための精神的な営みに他ならず、それを「内的生命」という言葉で表現しているのかもしれません。この文脈で捉えれば、「音楽の中に静寂を聞いた」という言葉(静寂とは禅語を借りれば「調心」のようなものでしょうか)の深く意味するところも分かるような気がしますし、「まさにこれです」という言葉の持つ内実(重み)も理解できます。現代は「自由」が氾濫している時代ですが、その一方で社会が高度に組織化されて真の意味での「自由」(即ち、ありのままの自分)であり続けることも難しくなっている時代ではないかと思います。それゆえに、自分の心を解き放ち、ありのままの自分を取り戻すための契機としての音楽が持つ現代的な意義は益々大きなものになっているような気がします。これは「自然法爾」(心を解き放ち自由に保つ)という禅や茶道の考え方に似ており、音楽のみならず芸術全般に通じる根源的な考え方ではないかと思います。なお、最後に、チェリビダッケの指導を受けたオケメンのインタビューの一部をご紹介しておきましょう。

チェリビダッケが指揮するとオーケストラはまるで室内楽のようです。弦楽器から管楽器に至るまで一人が演奏しているかのようで主旋律が他の楽器に移っても気づかないほど絶妙のバランスです。

私は指揮者を二種類に分類しています。警察官のようにすべてに目を光らせているタイプ、そして形を生み出す彫刻家タイプ、チェリビダッケはその両方の特徴を備えています。

◆おまけ
チェリビダッケブルックナー「ミサ曲第3番」をお聴き下さい。チェリが紡ぎだす「天上の音楽」をご堪能あれ。

ロカテッリ 合奏協奏曲ヘ短調「クリスマス協奏曲」よりヴィヴァーチェをお聴き下さい。チェリの音源がありませんでしたが、曲の雰囲気をお楽しみ下さい。

いずれ廃れ行くネクタイへのオマージュとして、ヴェルディ 歌劇「運命の力」より序曲をお聴き下さい。チェリの音源の音質が悪かったので、ムーティーの指揮で。

チェリビダッケブルックナー交響曲第7番」より一部抜粋をお聴き下さい。チェリの神々しく雄大な演奏に存分に打ちのめされて下さい。