大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

香清話〜香に聞く、香を聞く〜

【題名】香清話〜香に聞く、香を聞く〜
【著者】畑正高(松栄堂社長)
【出版】淡交社
【発売】2011年3月24日
【値段】1944円
【感想】
今日は仲秋の名月(月齢14歳)。昔から中国では仲秋の名月に月餅をお供えする風習がありましたが、それが日本へ入ってきてススキと月見団子(又は里芋)をお供えするようになりました。旧 暦8月15日の十五夜の月は里芋をお供えするので“芋名月”、もう1つの名月である旧暦9月13日の十三夜の月は枝豆をお供えするので“豆名月”といいま すが、その年に収穫した農作物をお供えして五穀豊穣を神様に感謝するという意味合いがあるのかもしれません。また、日本でススキをお供えするのは神様の依り代と考えられていたからで、現代のように専ら鑑賞のために月を愛でていたのではなくアニミズム信仰(自然に宿る精霊を信仰)のために月を愛でていたということかもしれません。古来、月は、月の満ち欠けによって潮の干満に影響を与え、女性の月経周期や色々な生理現象とも神秘的な関係があると言われています。日本最古の物語である竹取物語は、月からやってきた絶世の美女かぐや姫は5人の貴公子の求婚を断って8月の満月の夜に「月の都」へ帰ってしまうというファンタジックなストーリーですが、昔から月は多くの和歌に詠まれ、日本人の創造の源泉になってきましたが、月が持つ神秘性に憧れを抱いていたのかもしれません。一方、欧米では、月は死を暗示するものとして月を観ることは不吉なことと考えられていたようで、妊婦が月を観ると胎児が精神異常をきたすという迷信があり、また、満月の日に凶悪事件が起きることが多いとも言われています。英語の“lunacy”(ルナシー、因みに“luna”は月の女神ルナ(=かぐや姫?)の意味)には狂気という意味がありますが、月を観て狼に変身する狼男は狂犬病患者がモデルだったと言われており、月が持つ神秘性が人間を狂気に駆り立てると信じられていたのかもしれません。同じ月ですが、洋の東西で随分と感じ方や考え方は異なるものです。因みに、「竹取物語」を題材としながら全く異なるアプローチで描かれた2つの映画、かぐや姫は宇宙人であったという設定の映画「竹取物語」(市川昆監督/東映)と、人間かぐや姫の真実に迫ろうと試みた映画「かぐや姫の物語」(高畑薫監督/スタジオジブリ作品)がありますので、仲秋の名月を愛でながら古のロマンに思いを巡らせてみるのも風流です。また、2014年1月18日に沼尻竜典さんが作曲した歌劇「竹取物語」日本初演されたようです。残念ながら観に行けませんでしたが、おそらく再演があるのではないかと期待しています。さて、古より愛でると言えば「月」と「桜」。千葉県民以外の方は辟易とされているかもしれませんが、今回のブログの枕は桜尽しでお国自慢を試みてみたい(隠れたテーマは“日本の恋争い伝説とそれが日本の文化芸術に与えた影響”と題し大風呂敷を広げておきましょう)と思います。



<上段左から>
1〜2枚目:西行の墨染桜と貴船神社(千葉県東金市
1180年に平重衡東大寺を焼討ちにしたことから(同年、源頼朝は石橋山の合戦に敗れて真鶴から安房へ小船で逃れており、それが能「七騎落ち」の題材になっています。)、1186年に俊乗坊重源上人が西行法師に奥州藤原氏東大寺再建のための砂金勧進に向うように依頼しています(同年、源頼朝に追われた源義経は同じく奥州藤原氏を頼って平泉へ落ち延びています。)。その途上、西行法師は万葉歌人山辺赤人及び小野小町を偲んで、その所縁の地である千葉県東金市を訪れたところ、自分の故郷と同じ山田村という地名を見て懐かしく思い、この地に京都の貴船神社の分社を造り(境内には「疣(いぼ)神社」があり、ここにお参りすれば疣を取り除いてくれると言われており遠方から参拝に来る方も多いそうです。)、その傍に杖として使っていた深草(京都市伏見区墨染町)の墨染桜の枝を挿して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に すみぞめに咲け」と詠んでいます。その杖が成長して現在の墨染桜(樹齢約800年)になったと言われています。因みに、墨染桜とは、平安時代に上野岑雄が友人の関白、藤原基経を深草に葬った際に、その死を悼んで「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」(古今和歌集)と詠んだところ、彼の悲しみに感じ入った桜が喪に服すように灰色がかった色に咲いたという故事に由来しており、それが歌舞伎「積恋雪関扉」浄瑠璃「西行法師墨染桜」の題材にもなっています。この故事を大そう気に入った関白、豊臣秀吉は姉の瑞龍尼が法華経に帰依したのを契機に墨染寺(京都市伏見区墨染町)を建立(再興)しており、その境内には歌舞伎役者、二代目中村歌右衛門が寄進した手洗い石が残されています。なお、墨染寺の直ぐ近くに欣浄寺(京都市伏見区西桝屋町)がありますが、そこは深草少将の邸宅跡と言われており、ここから深草少将は山科の小町小町のもとへ求愛のために百夜通いをしたと言われています。それが世阿弥の能「通小町」の題材になっていますが、黒墨桜の枝を杖として旅をしてきた西行法師が小野小町を偲び、その所縁の地である千葉県東金市を訪れて、この逸話に思いを馳せながら古今集の和歌に因んで「深草の・・・」と詠んだのだと思われます。少し脱線しますが、2003年に上海アリス幻楽団からリリースされたゲームソフト「東方妖々夢〜Perfect Cherry Blossom」は西行法師と墨染桜を題材として作られており、その中で墨染桜に因んだ「幽雅に咲かせ、墨染の桜」という曲が使われています。西行の墨染桜は、時を超えて形を変えて我々の心に美しい花を咲かせ続けています
3〜4枚目:能香「西行桜」と桜をモチーフにした香立で薫くお香(お香をお茶菓子に見立てました!召し上がれ❤)
西行法師は「願わくば 花の下にて 春死なん、その如月の 望月のころ」(山家集)という辞世の和歌を残していますが、この和歌のとおり旧暦1190年2月16日(「如月」=旧暦2月、「望月」=満月15日、釈迦入滅の日、新暦で3月末頃)に他界しています。なお、国語(古典)の時間に学習したと思いますが、和歌で使われる「花」とは、奈良時代までは“梅”を指しましたが、平安時代には“桜”を指すようになりました。1140年(平安時代)に鳥羽院に仕えていた佐藤義清は勝持寺で出家して西行法師と号し(NHK大河ドラマ平清盛」で藤木直人さんが演じていた役の人。因みに、藤木直人さんは千葉県佐倉市出身ですが、西行法師は千葉県佐倉市にある勝間田の池にも立ち寄り「水なしと 聞きて ふりにし 勝間田の 池あらたむる 五月雨の頃」という和歌を詠んでいます。)、その寺にある西行法師のお手植えの桜は「西行桜」と呼ばれていますが、世阿弥西行法師が桜の花を愛でた和歌を数多く収めている山家集を題材として能「西行桜」を創作しています。因みに、能香「西行桜」は“ひっそりと咲く桜をイメージした香り” のお香で、沈香をベースにしたフローラルノートの気品に満ちた香りは気持ちを解し心を整えてくれます。大変に美味しくいただきました..(u_u*)
5枚目:オランダの夕陽
↑ウソ、千葉県佐倉市にあるオランダ風車「リーフデ」と夕陽です。
<下段左から>
1枚目:小野小町公園にある小町塚と歌碑(千葉県東金市
千葉県東金市小野は六歌仙(&三十六歌仙)の一人で絶世の美女として有名な小野小町の生誕地と言われており(その後に上京して宮中に出仕)、西行法師が奥州へ向う途中で小野小町を偲んでこの地を訪れています。この一帯は桜の樹が多く、小野小町が幼少期に住んでいた邸宅の一角に小野小町が愛用していた機織りの道具(オサ)が埋まっていると言われています(小町塚)。歌碑には桜の樹に因んで「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(古今和歌集)と刻まれています。なお、(下ネタで恐縮ですが【R12指定】)糸を通す穴のない待ち針のことを「小町針」と言いますが、これは数多くの男性から言い寄られた小野小町がこれらを全く相手にしなかったことから“穴”のない女と噂されたことに由来すると言われています。お口直しに少し脱線しますが、小野派一刀流(始祖の小野忠明は千葉県南房総市出身)から分派した北辰一刀流の始祖の千葉周作の姪、千葉佐那子(坂本竜馬の婚約者、NHK大河ドラマ龍馬伝」で貫地谷しほりさんが演じていた役の人)は剣や薙刀に秀で「鬼小町」「小千葉の小町娘」と呼ばれていたそうです。直接のつながりはないかもしれませんが、「小野」「千葉」「小町」に因んでご紹介しておきます。
2〜3枚目:三十六歌仙の1人、山辺赤人の墓(赤人塚)と山辺赤人の木像がある法光寺(千葉県東金市
もともと山辺(部)家は伊予国で山林管理の職に就いていましたが、山辺赤人の父が手柄をたて上総国(千葉県)に領地を与えられており(藤原定家と共に「新古今和歌集」を編纂した飛鳥井雅経の家に伝わる古文書「古今抄」に「赤人は上総国山辺郡の人なり」と記されており、現在の千葉県当東金市出身です。)、千葉県東金市山辺赤人と父の墓と伝えられる赤人塚があります。なお、山辺赤人が詠んだ有名な和歌「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」は壬申の乱で敗れ上総国に逃れた大友皇子天智天皇の子)を悼んで詠んだものと言われており、“田子の浦”とは現在の勝山港の周辺の海(千葉県安房鋸南町下佐久間にある田子台の下の海が“田子の浦”と呼ばれていました。なお、一部に“田子の浦”とは静岡県富士市の海とする俗説もあります。)で、勝山港から富士山を眺めて詠んだものと考えられています。因みに、源頼朝は石橋山の合戦で敗れて真鶴から小船で逃れ、千葉県安房郡居南町竜島の勝山海岸(“田子の浦”)へ漂着しています。
4枚目:三十六歌仙の1人、大江千里の歌碑(千葉県佐倉市
現代の歌手の方は“おおえせんり”と読みますが、平安の歌人の方は“おおえちさと”と読みます。在原業平の甥で古今和歌集小倉百人一首に作品が収められていますので彼の和歌を好きな人も多いと思いますが、印旛沼(千葉県佐倉市印西市成田市)を見下ろす野鳥の森(千葉県佐倉市)に建つ歌碑には大江千里の和歌「下つさの 伊波乃浦なみた津らしも 舟人さわぎから 艪おすな季」(伊波乃浦=印旛沼)が刻まれています。なお、仲秋の名月に因んで、大江千里が月を詠んだ有名な和歌「月見れば 千々にものこそ かなしけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど」(古今和歌集)も忘れてはなりますまい。
5枚目:印旛沼を紅に染める夕陽(千葉県佐倉市
野鳥の森の隣にオートキャンプ場の印旛沼サンセットヒルズ(千葉県佐倉市)があり、ここから見る夕陽がひときわ美しいです。少し凌ぎ易くなってきましたので、野鳥の森でバード・ウォッチングした後に、印旛沼サンセットヒルズでバーベキューを楽しみながら印旛沼を紅の夕陽にしんみりとたそがれてみるのも一興です。

西行について書く予定です。続く。



<上段左から>
1〜2枚目:手児奈霊神堂(真間娘女墓)、真間井(千葉県市川市
奈良時代下総国勝鹿(葛飾)の真間(現在の千葉県市川市真間)に手児(古)奈(てこな)という小野小町に劣らない絶世の美女がいて、万葉集にいくつもの和歌が詠われています。手児奈は多くの男性から求愛されますが、どの男性とも決め兼ねているうちに、手児奈を巡って男性の間で争いが絶えないようになり、遂にはその恋煩いから真間の入江弘法寺の下を流れる真間川の河川敷一帯に海水が入り込んで出来た入江)に身を投げて自ら命を断ってしまいました。古も今も変わらぬ揺れる乙女心、竹内まりやさんの歌「けんかをやめて」と同じような悲しくも切ない恋の物語があります。手児奈は美人薄命の元祖と言われており、行基上人が手児奈の悲話を聞いて哀れに思い、「弘法寺」(当初は「救法寺」と称しましたが、後に弘法大師空海が「弘法寺」と改称)を開いて手児奈の霊を手厚く弔いました(弘法寺の7世日与上人が手児奈の奥津城(墓)があったと伝えられていたところに手児奈霊神堂を建立し(1501年)、現在はそちらに祀られています。)。また、亀井院には手児奈が毎日のように水汲みをしていたとされる井戸「真間井」があります。何故、井戸が語り伝えられているのか歴史ロマンに思いを馳せてみると、美人で評判の手児奈を見染め又はその姿を一目見たいという男性がその叶わぬ想いを胸に秘めながら、手児奈が毎日のように真間井で水汲みをする姿に見惚れていたのかもしれず、そう考えると真間井は叶わぬ恋に身を焦がした男性達の切ない想いが交錯した特別な場所であり、真間井の水は枯れても、男性達が手児奈にそそいだ想いはいつまでも枯れずに残っていると言えるかもしれません。なお、万葉集には、この近傍の出身である山辺赤人上総国(現在の千葉県)の出身)や高橋虫麻呂常陸国(現在の茨城県)の出身)などの歌人が「真間の手児奈」を詠んだ和歌が数多く収録されています。以下にいくつかご紹介しておきます。
われも見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥津城ところ」(山辺赤人
葛飾の 真間の入江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ」(山辺赤人
勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂
葛飾の 真間の手児奈が ありしばか 真間の磯辺に 波もとどろに」(詠み人知らず)
葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を」(詠み人知らず)
また、亀井院の裏庭にある離れに北原白秋が暮らしていたことがあり、真間井の水を使って洗顔し、米や野菜等を洗っていたらしく「葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花」という短歌を読んでいます(近くの里見公園に北原白秋が暮らした亀井院生の離れが移築上されています。)。さらに、「真間の手児奈」を題材とした「琴と管弦楽による協奏曲」(大塚西作曲)、歌劇「真間の手古奈」(安東英男作詞/服部正作曲、服部正さんはラジオ体操第一や東邦音楽大学の校歌を作曲した方)、歌劇「TEKONA〜愛、そして手児奈」(源優太台本/会田道孝作曲)、歌舞伎「真間の手古奈」(金沢康隆作/杵屋六左衛門作曲)、長唄「真間の手児奈」(静友己枝作詞/堅田喜三久作調)、能「真間の手古奈」、読本「雨月物語」の一編「浅茅が宿」(上田秋成著)ミュージカルや長唄、戯曲など数多くの作品が生まれています。因みに、万葉集には「真間の手児奈」のほかに恋争いの悲話を詠った和歌が収められており、「葦屋の菟原処女(うないおとめ)」の悲話も有名です。葦屋(現在の兵庫県神戸市東灘区)に菟原処女という可憐な女性がおり多くの男性から思いを寄せられていましたが、菟原処女に求婚していた2人の男性が菟原処女を巡って激しく争うようになり、菟原処女は思い余って自ら命を断ってしまい、その2人の男も後を追って死ぬという悲話が残されています。これが世阿弥能「求塚」の題材にもなっています。
3〜5枚目:真間の継橋、真間を詠んだ小林一茶の歌碑と弘法寺の山門、玉蘭斎貞秀の浮世絵「利根川東岸一覧」(千葉県市川市
かつては弘法寺の下を流れる真間川の河川敷一帯には海水が入り込んで “真間の入江”と呼ばれ、その入江を東西に横切るように長大な砂洲(潮流が運んできた土砂が溜まってできる砂堤で、“天の橋立”が有名)が延びていました。真間の継橋は、その砂洲を中継する架け橋で、玉蘭斎貞秀の浮世絵「利根川東岸一覧」(当時の利(刀)根川=現在の江戸川)のほかに、斎藤月岑「江戸名所図会」の「真間山弘法寺」(絵、長谷川雪旦)、歌川広重の名所絵「名所江戸百景」の「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」や小林清親の浮世絵「武蔵百景之内 下総真間つぎ橋」に描かれており、おおよそ現在の位置に橋架されていたことが伺えます。万葉集には「足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ」(詠み人知らず)と詠んだ和歌があり、小林一茶も「かつしかや 真間の入江にさちあれと 柳ながめて のせぬ舟人」と詠んでいますが(弘法寺小林一茶の句碑には「真間寺で 斯う拾いしよ 散紅葉」の句が刻まれています。)、紅葉の名所として知られる弘法寺から真間の入江と砂洲に渡る真間の継橋を臨む眺めは風光絶佳であったことが伺えます。また、真間の入江の砂洲には“片葉の葦“(葉が片方にしかつかない葦)が生息していましたが、これは手児奈が亀井院にある真間の井に足繁く水汲みに通ったために、その美しさに惹かれて葉がすべて片方に寄ってしまったという伝説が残されています(現在も、真間の入江の名残りと言われている手児奈霊神堂の池に生息する片葉の葦は、手児奈が眠る真間の入江の底へと葉を向けています。)。因みに、宮部みゆきさんが「本所深川ふしぎ草紙」(新潮文庫)の第一話で「片葉の葦」と題する小説を書いています(吉川英治文学新人賞受賞)。真間の継橋から遠い古へと歴史ロマンの橋を継いで思いを巡らせてみると、何故、手児奈が真間の入江に身を投じなければならなかったのか、その乙女心が哀切に胸に響きます。
<下段左から>
1枚目:手児奈霊堂にある縁結びの桂の木(千葉県市川市
さだまさしさんが奉納した桂の木で、桂の木の葉のかたち(ハート型)をあしらった絵馬にカップルの名前を書いて奉じると恋が成就するそうです。さだまさしさんは若い頃に千葉県市川市に住んでいたことがあるらしく、いつか「真間の手児奈」の悲しく切ない恋の物語を素敵な曲にして戴けないものかと願っている人は多いのではないかと思います。
2枚目:弘法寺の涙石(千葉県市川市
弘法寺山門へと続く1千個以上の石段のうち、いまなお涙を流すように濡れ続けている石(通称、涙石)があります。江戸幕府作事奉行の旗本、鈴木長頼が1705年に日光東照宮の造営のために使う石材を伊豆から船で運ぶ途中に千葉県市川市付近で船が動かなくなり、その石材を勝手に弘法寺(当時、鈴木家は弘法寺の大檀那)の石段に使用してしまったことから、幕府から責任を追及されて石段で切腹させられました。その時の鈴木長頼の無念の涙が染み込んで、いつまでもその涙が枯れることなく涙石を濡らせ続けています(写真は2014年9月13日(晴れ)午前10時頃に撮影しましたが、天地神明に誓って涙石に細工などはしておらず、周囲の石が乾いているのに涙石だけが濡れている状態でした。但し、理由は分かりませんが、鈴木長頼の御霊も泣き暮らしてばかりいるのではないのでしょう、涙石があまり濡れていない日もあるそうです。)。なお、鈴木長頼は学識豊かな大工頭だったので、1696年に真間の手児奈に所縁の旧跡を末永く顕彰するために万葉顕彰碑(真間の継橋、手児奈霊神堂入口、亀井院入口に三基の顕彰碑があり「真間の三碑」と言われています)を建てたと言われており、現在もその万葉顕彰碑は残されています。因みに、深草少将の邸宅跡である墨染寺には“涙の水”と言われる「深草少将姿見の井戸」(別称、墨染井)があります。深草少将は百夜通いの最後の夜に大雪のために凍死し小野小町への想いを遂げられませんでしたが、小野小町を恋い慕う一途な想いを断ち難く、今もなお墨染井の涙の水は枯れることがありません。「通う深草百夜の情け 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺」(西条八十能楽をはじめとして日本の伝統芸能は古人の無念を語り、謡い、舞うことで古人の無念を晴らす怨念鎮魂の思想が背景にありますが、土地の歴史を訪ねて古人の心へ思いを馳せてみると、その心は時を超えて今もなお生き続けていると感じられます。
3〜4枚目:弘法寺の伏姫桜、国府台公園にある里見広次公廟と夜泣き石(千葉県市川市
今年は滝沢(曲亭)馬琴の長編読本「南総里見八犬伝」刊行200年の記念年ですが、その南総里見八犬伝に因んで、弘法寺には「伏姫桜」(樹齢400年)という見事な枝垂れ桜があります。里見家が国府台(千葉県市川市)に城を構えていたことがあったことに由来して命名されたものかもしれません(因みに、南総里見八犬伝の舞台になった館山城(千葉県南房総市)にある里見桜も有名です。)。1564年に下総国当時、千葉県は下総国、上総国、安房国の三国から構成)の覇権争いで、北条氏康(2万)が小岩側、上杉謙信に加勢する里見義弘(8千)が矢切側に布陣して闘っていますが、北条氏康矢切の渡し細川たかしさんのヒット曲になり記念碑もありますが、小岩側は寅さん記念館、矢切側は国府台(里見)公園が近くにあります。因みに、矢切の渡しは11月末日まで運行しており大人は片道200円です。)を亘って夜襲をし掛けたことにより里見義弘が敗れて里見広次ら約5千人が戦死しています。その後、安房国から来た里見家の末姫があまりに凄惨な光景に傍らの石にすがって泣き崩れ、遂には憔悴して息絶えてしまいましたが、それから夜毎にその石から女性の鳴き声が聞こえるようになり、この合戦に参加していた武士が姫を手厚く弔ったところ泣き声が止んだというのが“夜泣き石”の伝説です。この地にも里見の姫にまつわる伝説が花を咲かせています。
5枚目:吉井の水車小屋(千葉県南房総市
吉井の大井戸の近くに「川上の駅」(現在の“道の駅”のようなところ)の跡(千葉県房総市)があり、三十六歌仙の1人、大伴家持が訪れています。これは741年に朝廷が安房国上総国へ併合することを宣言したことに対し、安房国が異論を申し出たことから、その調査の目的で大伴家持安房国に派遣されたものです(因みに、大伴家持は783年に勅使として上総国麻賀多神社(千葉県成田市)を参詣し鳥居を建立しています。)。そこで平郡郎女と恋仲になって平郡郎女から恋歌が送られるようになり、その多くの和歌(「万代と 心は解けてわが背子が 摘みし手見つつ 忍びかねつも」「隠沼の 下ゆ恋ひあまり白波の いち白くいでぬ 人の知るべく」など12首)が万葉集に収められています。とりわけ後者の和歌は万葉集4500首の中でも相聞の秀歌として絶賛されています。因みに、数年前、作曲家の千住明さんと俳人黛まどかさんが万葉集を題材としたオペラ「万葉集」を発表して話題を呼びましたが、万葉集に詠まれている和歌の世界は時代を超えて現代にも相通じるものがあり、音楽によって昔の日本語(和歌を詠む文化が廃れず、未だ日本語が磨き抜かれ洗練されていたころの言葉)が持っていた香気が豊かに薫って、実に美しく耳に響き心に共鳴したことを思い出します。こんな優れた文化を持ちながら現代では和歌を詠む文化は廃れてしまい、その結果、日本語はその豊かな情緒性を失って機能面ばかりが追求されるようになり(例えば、季節を表現し自然の表情を繊細に汲み取る語彙は著しく減って、その最大公約数を効率的に伝達する語彙のみが重用されるなど。更にこれを音楽に例えれば、平均律を生み出したことで音を扱い易くなり音楽を普及し易くなった反面、鍵盤と鍵盤の間に落ちる膨大な音を失ったことで音楽表現の可能性を狭めてしまった状況と相似していると思います。)、また、地面をアスファルトで覆い尽くして人間がコントロールできない自然を徹底的に排除した二元論的な世界(自然界と人間界を分けて考え、人間が自然を支配しようとする西洋(キリスト教)的な価値観。これに対し、日本は自然界と人間界を分けて考えることはせず、“山川草木悉皆成仏”という思想に現れているとおり自然を支配の対象としてではなく畏敬崇拝の対象として捉える東洋(仏教)的な価値観を基調としていましたが、維新から敗戦を経て二元論的な世界観が台頭)の中で生活していることも手伝って、花鳥風月を愛でる風流心や自然の繊細な表情を感じとる鋭敏な感受性を失って、何の潤いもない殺伐とした「活字」だけが氾濫する辟易とした世界に晒されている自分を感じます。古の和歌に触れてしみじみと思いますが、心を洗い流し、心を研ぎ澄ませ、心を満たしていく「言葉」を取り戻さなければならないのではないかと自戒の念を込めて痛感しています。

万葉集と和歌について書く予定です。続く。



東京の新デートスポット、真間の継橋ならぬ平成の継橋とも言うべき東京ゲートブリッジ。東京都内に勤務されている方は、突如、オフィスビルからライトアップされたブリッジが見えるようになったと話題になったと思いますが、葛西方面から羽田方面に抜ける一般道路に掛るブリッジ(通行料無料)で、その名のとおり東京湾を入出港する船はこのブリッジの下を通って入出港します。若洲海浜公園からブリッジの遊歩道へ上がることができ、夜は東京の夜景を楽しむことができます。夜になるとカップルの姿も多く、ブリッジの上(東京中の人が見ている前)で永遠の愛を誓うなんてお洒落じゃありませんか ブリッジの上で東京の夜景をバックに2人のシルエットが重なり合い溶けて行くような写真を撮影してみたいと思っていますが、我こそはと思うカップルが居たらご一報下さい..(*^^*) なお、東京ゲートブリッジの近くにあるレインボーブリッジの下を豪華客船が通る日がありますので、カメラを片手に豪華客船の見物も面白いかもしれません。

さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。

香道について書く予定です。続く。

香清話―香に聞く、香を聞く

香清話―香に聞く、香を聞く

◆僕がご贔屓にしている東京にあるお香専門店
http://www.shoyeido.co.jp/menu.html

◆僕がご贔屓にしている千葉にあるお香専門店
http://www.shisenkobo.co.jp/

◆おまけ
仲秋の名月に因んで、NHKみんなのうたの曲「月のワルツ」(湯川れい子作詞/諫山実生作曲/安部潤編曲)のジャズテイストの演奏をアップしておきます。グラスを片手にライブに酔いしれてみたい気分にさせられます。

月に因んでもう1曲。シューベルト歌曲「月に寄せて」(D193)をアップしておきます。この曲の歌詞と竹取物語かぐや姫に求婚した貴公子たちの想いを遂げられなかった切ない心情とが重なって心に染みてくるようです。

おまけのおまけ。この懐かしい曲を聴くと青春の甘酸っぱい想い出がよみがえってきます。映画「竹取物語」の主題歌にも使われていた曲、シカゴの「素直になれなくて」(原題:Hard to Say I'm Sorry)を貼っておきます。今、あの人が幸せでいることを祈って..。