大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

新年のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。皆様はどんなお正月をお過ごしでしょうか?僕は天気が良かったので、我が心の友ハーレーと共に栃木県にある日本で最初のバイク神社(安住神社)に一年の安全を祈願した後、千葉県にある日本で唯一料理の神様を祀っている高家神社(料理人であれば一度は参詣する有名な神社で、例年、映画「武士の献立」でも登場した四條流庖丁書に則った由緒正しい“包丁式”が奉納されます。因みに、「彼氏の心をつかむなら、まず胃袋をつかまなくては!」ということで若い女性の参詣も絶えません!!)に参詣しました。ところで、なぜ新年があけるとめでたいのか?…以前のブログ記事でも少し触れたことがあるかもしれませんが、日本が明治5年まで使用していた旧暦では、丁度、春の到来を告げる梅の花が芽をつける立春新暦2月4日)の前後が元旦とされ(その前日の節分が大晦日になるので、豆を撒いて1年の厄を払い福を呼んでから新しい年を迎えるという粋な趣向)、新しい春が到来して草花が芽吹く時期なので、”新しい年があけて新しい芽が出たな..❤ 嬉しいな..❤❤”という慶びを表した言葉(新年+芽出度い)が、そのまま新暦新暦の元旦は冬本番ですが)でも用いられたことに由来します。このように旧暦から新暦に変わったことで辻褄が合わなくなってしまったこと(例えば、3日に三日月、15日に十五夜(満月)になるとは限らず、また、中秋の名月も年によって日付が異なるなど)が意外と多くあります。

新暦太陽暦(太陽の動きを基準に暦を刻む)
旧暦=太陰暦(月の動きを基準に暦を刻む)

もともと日本は中国から入ってきた太陰暦(旧暦)を基本とし、月の満ち欠けが一定の周期で行われていることから満月から次の満月までを1ケ月として月の動きを基準に暦を刻んでいたので3日に三日月、15日に十五夜(満月)になりました。しかし、明治5年に西洋に倣って太陽暦が採用され、太陽が地球を1周する日数を1年として太陽の動きを基準に暦を刻むことになりましたが、月の満ち欠けの周期と太陽の公転の周期が微妙にズレている関係で、必ずしも月の動きと新暦が一致せず、3日に三日月、15日に十五夜(満月)になるとは限らなくなってしまいました。日本と同様に、イスラム諸国でも太陰暦を採用していた(る)国が多くあります。イスラム諸国の国旗には三日月と星をあしらったものが多く、三日月は発展(これから満ちて行く)、星は知識(昔から天体観測が盛ん)を表していますが、これはイスラム諸国が熱帯地域に多く太陽は忌まわしい存在、逆に月や星はありがたい存在と考えられてきたことが月や星を神聖化することにつながったのではないかと言われています。日本では中国の影響があって昔から月見の習慣があり、沢山の和歌に月が詠まれ、また、かぐや姫などお伽話に月が登場するなど身近な存在として親しまれてきました。これに対して欧米では狼男や魔女等に象徴されるように月に対して良いイメージがなく、このような考え方の違いが太陽の動きを基準に暦を刻むのか又は月の動きを基準に暦を刻むのかという考え方の違いになって現れたのかもしれません。例えば、クラシック音楽を現代の楽器(モダン楽器)ではなく作曲家が生きていた時代の楽器(ピリオド楽器)で演奏すると、これまで不自然に感じられていた部分もその作曲意図や演奏効果(主にモダン楽器と比べてピリオド楽器が内在する機能的な制約を前提とする配慮等)が明確になるということがありますが、文化や因習も現代の尺度ではなくその時代に尺度で照らし直すとこれまで見えていなかったものが見えてきます。諸事につけて、民族、宗教、文化、生活様式や時代、また、各々が置かれている立場、環境や状況等によって物事を測る尺度は異なり得るということで、今年は物事を多面的に捉えて物事を測る尺度の差異(属性)のみではなくその差異を生む根底にあるもの(本質)を見極めることができる広い視野、想像力、洞察力や思慮深さのようなものを磨き、単なる認識(知る)に留まらず理解(分かる)を深められるように心掛けて行きたいと思っています。


トルコの国旗

因みに、「クロワッサン」はトルコの国旗の三日月紋様に似せて作ったパンと言われています。1683年にオーストリアのウィーンがオスマン・トルコ帝国に包囲されたとき、トルコ軍が城に向かって地下道を掘り進む音にパン屋の職人が気付いてウィーンを救ったことから、これを記念してトルコの国旗を象ったパンを作り始めたのが由緒だそうです。その後、オーストリアの皇女マリー・アントワネットがフランス王家に嫁いでクロワッサンの製法やコーヒーを飲む習慣(これもトルコの影響で、詳しくは前回のブログ記事を参照)をフランスに伝えたと言われています。


クロワッサン

なお、上述の高家神社で思い出しましたが、この年末にデカ盛りの聖地「やよい食堂」(千葉県野田市)へ行ってきました。デカ盛りの聖地と言えば“東のやよい、西の美富士”が全国的に有名ですが、やよい食堂はその量にも増して味こそが魅力です。一口食せば、なぜ客の要望に応え続けてこれだけのデカ盛りになっていったのかその理由を得心できます。のれんに“男飯”とあるとおり、店主の心意気が器からはみ出してしまうその迫力に男のロマンを感じずにはいられませんが、確かな舌を持つ味グルメな女性客にも人気の店です。なお、千葉県野田市キッコウマンの創業地で、やよい食堂の近くにキッコウマンの醤油工場があり、その近隣をハーレーで走っていると茹でた大豆の香り(豆腐屋のような香りと言えば分かり易い?)が漂ってきて病みつきになります。デカ盛りのカツ丼の写真の右端にキッコウマンの醤油ビンが写っていますが、やよい食堂の味は地元のキッコウマン醤油が支えています。キッコウマンの創業者は香取神宮(千葉県香取市)の氏子で香取神宮の寺紋である亀甲紋(亀の甲羅をあしらった六角形の紋様)に「鶴は千年、亀は萬(万)年」に肖って「萬」の一字を加えたロゴとし、「きっこうもん」+「まん」で社名をキッコウマンにしています。キッコウマンの醤油を食すると長寿につながりそうな有難い名前です。外国では、“Soy sauce”=キッコウマン醤油と思っている人も少なくないほど多くの人に愛されています。因みに、キッコウマンの関連会社であるヒゲタ醤油の創業地(千葉県銚子市)には上述の高家神社から料理の神様が分祀され、毎年、高家神社(神様)にヒゲタの醤油が奉納されています。ヒゲタ醤油は料理の神様も食する由緒正しき醤油なのです!宮内庁御用達の醤油はキッコウマン、神様御用達の醤油はヒゲタ醤油という訳ですな。ヒゲタ醤油のロゴは会社のマークである入山田紋の“田”の字の四隅に“ヒゲ”をつけたものですが、これはヒゲタ醤油の創業者の夢枕にヒゲの仙人が現れて醤油造りに適した水源を教えてくれたことを感謝するためだそうで、そこから「ヒゲ」+「田(タ)」で社名をヒゲタ醤油にしています。やはりヒゲタ醤油は神懸っていますな。拝みたくなります。


1〜2枚目:相棒のハーレーと共にデカ盛りの聖地「やより食堂」の外観と有名人の色紙が並ぶ店内。3枚目:デカ盛りのカツ丼。4枚目:キッコウマンの醤油工場。

お屠蘇(おとそ)気分に浸る寝正月ほど幸せな時間はありません。お屠蘇とは“病をもたらす鬼(蘇)”を“退治する(屠)”という意味で、一年の邪気を払って長寿を願うために飲む縁起物の酒(日本酒+屠蘇散+本みりん)です。こよなく酒を愛し“義”に生きた戦国武将・上杉謙信は「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」(我が人生は一睡の夢のようなものだ。この世の栄華は一盃の酒のように儚い。)という辞世の句を残していますが、ようやく僕もこの心境が分かる年代に差し掛かってきました。同じ儚い人生であれば、せめて芸術に浸り人生に酔って生きて行きたいものです。酔ひて候ふ..。

最後に、自分の頭を整理するためにも、今年がアニバーサリー(但し、50年刻み)となる芸術家(但し、ビックネームのみ)等をピックアップしておきます。今年は申(猿)年ですが、「能楽」は「申楽」から発展した芸能で、世阿弥は「申楽」の名前の由来について芸能論「風姿花伝」において「神といふ文字の偏を除けて、旁を残し給ふ。是、日暦の申なるが故に、申楽と名づく。」と述べています。古来、申(猿)は神に仕える動物とされ(能楽は呪術的な性格があり神に奉納され)、また、物真似芸から発展した芸能であることから物真似が上手な申(猿)が名前に用いられたとも考えられています。申(猿)年の機会に改めて能楽書を紐解き、日本文化(能楽など舞台芸能を育んできた因習、宗教(思想)、日本人の由緒等を含む)について考え直してみたいと思っています。

【生誕100年】

【没後100年】

【生誕150年】

【生誕200年】

【没後200年】

【生誕300年】

【没後400年】

【没後500年】

【その他】

【今春公開予定の映画】

◆おまけ
日本では新年に因んだ曲が数多くありますが、西洋ではクリスマスに因んだ曲は数多いのですが新年に因んだ曲が非常に少なく、メジャーなところでは僅かに新年又はその次の日曜日に教会で歌われるバッハのカンタータ(BWV16、41、58、 143、153、171、190)等があるだけです。そこで、敢えて、西洋の新年に因んだ曲の中からバッハのカンタータ第16番「主なる神よ、われら汝を讃えまつる」(BWV16)をどうぞ。

今年没後500年を迎える観世信光と生誕300年を迎える与謝蕪村にゆかりの地を訪ねてきました。(興味のない方はスルーして下さい。)

【マメ知識①:能「遊行柳」】
時宗十九代尊晧上人が地方巡教の際に朽木の柳の精が老翁となって現れたので念仏を唱えたところ成仏したという伝説がありますが、西行がこの伝説の朽木の柳を訪ねた折に「道のべに 清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」(新古今集山家集)と和歌を詠み(松尾芭蕉与謝蕪村等の歌人も遊行柳を訪れ、歌を詠んでいます。)、後年、この和歌を題材として観世信光が能「遊行柳」を創作しています。なお、観世信光作の曲には能「船弁慶」など源義経伝説を題材としたものもあります。因みに、「遊行」とは仏教の僧侶が布教や修行のために全国各地を巡り歩くことで時宗開祖の一遍上人 のことを遊行上人とも言い、神奈川県藤沢市には時宗総本山「遊行寺」時宗四代呑海上人が開基)があります。遊行寺には、歌舞伎「當世流小栗判官」浄瑠璃小栗判官車街道」などの題材となった小栗判官と照手姫の墓もありますので、別の機会に動画をアップします。

【マメ知識②:源頼朝源義経
1180年 8月 源頼朝が平家打倒のため挙兵。石橋山の戦いで平家方に敗れて真鶴(神奈川)から安房勝山へ船で敗走(能「七騎堂」の題材)
1180年 9月 源頼朝安房で再決起
1180年10月 源頼朝富士川の戦いで平家軍に勝利し、源義経が黄瀬川で頼朝と対面
1184年 源義経が一の谷の戦いで平家に勝利し、源義経が朝廷より検非遺使を拝命(これが源頼朝の不興を買う)
1185年 源義経屋島の戦いで平家に勝利那須与一の扇の的のエピソード)し、壇之浦の戦いで平家滅亡。その後、源義経源頼朝との不和により奥州藤原氏を頼って逃避行(能「吉野静」、能「船弁慶」の題材)
1186年 源義経が奥州入りし、西行東大寺大仏再建のための砂金勧進で奥州入り(鎌倉に立ち寄って源頼朝に謁見した後、小野小町と山辺赤人のゆかりの地(千葉県東金)「上総国山田村貴船大明神縁起」より)、その直ぐ近傍にある当時は景勝地として名高かった勝間田の池(千葉県佐倉市)を経由し(江戸時代の国学者平田篤胤の門人の宮負定雄が著した「下総名勝図絵」より。なお、千葉県船橋市にも勝間田の池がありましたが、上記の著書には西行が千葉県佐倉市勝間田の池に立ち寄って歌を詠んだと記されています。当時は京都の“勝間田の池”に肖って風光明媚な池に同じ名前をつけることが多かったようで、さしずめ現代でいうところの“銀座通り”のような名称だったのでしょう。因みに、歌道の大家として知られる冷泉家の祖、冷泉為相藤原定家の孫で当時の幕府があった鎌倉に別宅を構え、鎌倉の浄光明寺に墓があります。)も千葉県佐倉市の勝間田の池で歌を詠んでいます。)、そこから真っ直ぐに北上して栃木県芳野の遊行柳に立ち寄って詠んだ和歌が能「遊行柳」の題材)
1189年 源義経が藤原泰衝に急襲されて自害し、源頼朝奥州合戦奥州藤原氏勝利して奥州藤原氏滅亡

※ 能「船弁慶」と能「遊行柳」はいずれも観世信光の代表作で一見すると全く関係のない曲目に思われますが、同じ時代に同じ場所に関連する史実を基に創作された詩劇で、白河(福島)から那須(栃木)にかけての一帯は多くの物語を生んだ歴史が交錯する場所なのです。これまで何度も訪れている場所ですが、この土地に深く刻まれた歴史に思いを馳せながら、この地を訪れた西行ら古人も見たであろう景色と同じ景色を眺めつつその心情に心を寄せてみると、何やら感慨深いものがあります。