ぶらあび

ジャンルを超え、地域を超え、時代を超えて「時間芸術」(音楽、文学、話芸、香道…)、「空間芸術」(建築、彫刻、陶芸、絵画、書道、華道…)、「総合芸術」(舞踊、演劇、映画、茶道…)など芸術全般の感想を書き綴ります。(オススメ公演情報等はスマホ版で表示されないのでPC版でご覧下さい。)Copyright (C) 2007-2019 Administrator All Rights Reserved.

ジャズとエロス 〜ヴァイオリニストの音楽レシピ〜(牧山順子著/PHP新書)

【題名】ジャズとエロス 〜ヴァイオリニストの音楽レシピ〜
【著者】牧山順子
【出版】PHP新書
【発売】2016年2月29日
【値段】840円(税別)
【感想】
「立秋」(2016年8月7日)から「秋分」(2016年9月22日)まで間の暑さを「残暑」と言いますが、そろそろ夏の雲の合間に秋の雲を見掛けることが多くなってきました。日本語は雲の名前、雨の名前、風の名前、月の名前など自然の繊細な表情の変化を表す語彙が豊富で、昔の日本人が自然を具に観察し(崇め、愛で)ていたことの証でもあります。その背景として、昔の日本人が自然を“支配”の対象(即ち、狩猟民族が獲物を与えてくれる太陽(唯一絶対神)を信仰し、地上にある獲物(自然)は天上にある太陽が人間に下賜された恵みであり支配の対象)と捉えていたのではなく、自然を“畏敬”の対象(即ち、農耕民族が作物を育む大地(自然=八百万の神々)を信仰し、種(無)から作物(有)を創造する大地には神が宿っており畏敬の対象)と捉えていたことが自然に対する鋭敏な感性を研ぎ澄ませることになったのではないかと思われます。因みに、昔から「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、これは彼岸の中日にあたる「秋分」に昼の時間と夜の時間の長さが等しくなり、それ以降は徐々に太陽が照る昼の時間が短く夜の時間が長くなること(俗に秋の夜長)から夏の暑さ(残暑)が和らいで凌ぎ易くなるためで、落ち着いて読書をするのに向いている季節(俗に読書の秋)と言われる所以でもあります。そこで、久しく積読本となっていたジャズバイオリニストの牧山順子さんの新著「ジャズとエロス」(PHP新書)について簡単に感想を簡単に残しておきたいと思います。


地球の地軸と暦の関係については、昔のブログ記事を参照。

牧山さんは、この本で個人的な体験としてクラシックを演奏しているときよりもジャズを演奏しているときの方が「エロス」を感じるという趣旨のことを語られています。ここで「エロス」とは何か?ということを厳密に定義しようとすると人間存在の本質に及ぶ非常に厄介なテーマに触れなければならなくなるので野暮な深入りをせず、この本で牧山さんが語っている音楽的な「エロス」という文脈から読み取れる感覚的なイメージに委ねたいと思います。牧山さんはクラシックとジャズの違いについて、クラシックは過去の偉大な作曲家が創造した芸術を現代に「再現」しようとする試みであるのに対し、ジャズはその時間を生きている音楽家が自分たちの音楽をいま「創造」しようとする試みである点で大きく異なると語られています。この点、ジャズの楽譜を見ると分かり易いと思いますが、クラシックの楽譜と比べると非常に簡素なもので、A4版1枚程度の紙にテーマ(主題)となるメロディーとコード(和音)のみが記されていて、最初にテーマ(主題)となるメロディーを演奏した後に、そのテーマ(主題)のコード進行を保ちながら各奏者がインスピレーションに任せてアドリブ(即興演奏)で自由自在にメロディーを展開し、最後に再び元のテーマ(主題)のメロディーに戻って締め括るというパターン(協奏曲のカデンツアに近いもの)が基本的な演奏スタイルになります。牧山さんがクラシックからジャズへ転身したばかりの頃はジャズのボキャブラリー(将棋で言う”定石”のようなもの)を何も知らずに他の奏者と音楽的な会話を行うことに手間取ったそうですが、ジャズを勉強するために留学したバークリー音楽大学で「いい音は耳で覚えるもの。いい演奏はいい奏者たちとの共演で身につくもの。」と教わり、セッションを重ねて行く中で徐々に他の奏者が奏でる音がクリアに聞こえるようになって余計なことを考えなくても自然に音を返すこと(音楽的な会話)ができるようになったそうです。そういえば、マンガ「ブルージャイアント」第4巻では、主人公のサックス奏者が他の奏者の音を聴くことで音楽と自分が「つながっている」感覚(無意識にメロディーが出てくる感覚)になるシーンが描かれていますが、ジャズ奏者の演奏体験を感覚的に示す臨場感溢れる興味深いシーンです。クラシックでもバロック時代には作曲家と演奏家が明確に分化されていなかったので即興演奏が多く行われ、現代のジャズ奏者と似た演奏スタイルだったと言われていますが、1789年にセネフェルダーによる平板印刷技術の発明で楽譜の印刷が容易になり、音楽が楽譜というメディア(媒体)を介して広く世の中に流通するようになると一部の才能又は人気のある作曲家が作った曲が繰り返し演奏されるようになり徐々に作曲家と演奏家の分化が進んで、バロック時代以降のクラシック(古典派〜ロマン派〜現代)の演奏スタイルは再現芸術的なスタイルへと収斂していきます。これに対して、ジャズは、アフリカから奴隷としてアメリカに連れて来られた黒人が奴隷生活の中で耳慣れた教会の音楽や西洋の民謡等を持ち前のリズム感や音階(≒コード)で見よう見まね(アドリブ)で演奏するようになったことがその起源と言われており、それが現代まで受け継がれて発展したものと考えられます。個人的な好みは別として、どちらの演奏スタイルが優れているというものではなく、全く表現様式や性格的特徴の異なる音楽なので、僕にとっては(それが音楽的な「エロス」というべきものか否かに拘らず)いずれも独自の存在意義を持つ非常に魅力的なものに感じられます。

ジャズとエロス (PHP新書)

ジャズとエロス (PHP新書)

牧山さんは、ジャズに特徴的と言える音楽的な「エロス」は、トランペットの高音とベースの重低音が絡み合って絶妙なコントラスを生む広い「音域」と、音を出さない(焦らす)ことによって生み出される高揚感や期待感としての「間」に感じると語られています。この音楽的な「エロス」は感覚的なイメージなのですが、この本に印刷されているQRコードにアクセスすると沢山の音源(ジャズの演奏)に触れることができる構成になっており、この音楽的な「エロス」を感覚的なイメージとして実際に体感できるようになっていますので、是非、この本を買って体感してみて下さい。ジャズの初心者にとってはジャズの魅力に触れる良き指南本となるはずです。なお、牧山さんはクラシックの演奏ではきちんと心に衣装をまとっているという感覚があるが、ジャズの演奏では素の自分をさらけ出し心が裸になっているという感覚があると語られています。マンガ「ブルージャイアント」第7巻では、ジャズバーの客が若いピアノ奏者に「内臓をひっくり返すくらい自分をさらけ出すのがソロだろ」と語るシーンが出てきますが、僕がジャズに「エロス」を感じる瞬間はジャズ奏者がその全存在を掛けて自分を「さらけ出す」演奏に触れたときかもしれません。

この本の巻末に牧山さんと俳優の松尾貴史さんの対談が掲載されていますが、このなかで松尾さんは相手に求めることが「恋」(利己的な精神作用)、相手に与えることが「愛」(自己犠牲的な精神作用)であり、相手に「恋」をしている時が最も相手に「エロス」を感じている時だと語られていますが、恋愛に準えて「エロス」の哲学的な意味を分かり易く語られています。この点、映画「利休にたずねよ」の中で千利休が「茶の湯の大事とは人の心に叶うこと」と弟子を教え諭すシーンがありますが、茶の湯の道やおもてなしの心は相手を愛しむことにその本質があり、「エロス」(官能愛や性衝動など一方的に相手に求めること)よりも「フィリア」(友情や親愛など相互に求め合い与え合うこと)や「アガペー」(無償の愛など一方的に相手に与えること)に近い考え方なのだと思います。この文脈で捉えると、「エロス」(地上の愛)を司る“キューピッド”(肉体と精神の調和がとれた完璧な存在になることを理想とし、現世における肉体的な本能から生じる欲望を肯定して肉体的な美を讃えたギリシャ神話)と「アガペー」(神聖な愛)を司る“天使(エンジェル)”(肉体的な本能から生じる欲望(キリストによる贖罪の後も人間がつくり続ける罪)を抑制して(悔い改めて)、精神を肉体から解放し、神を信仰する(神を信じて罪の赦しを求める)ことによって来世である天国(神の国)において永遠の安息が与えられると説くキリスト教)の対照的な性格の違いも分かり易いと思います。また、松尾さんはジャズが自在に「間」を作ることができる裁量の余地が大きい音楽で、それによって客や他の奏者は焦らされて求める気持ち(高揚感、期待感)が高ぶり「エロス」を感じせるところがあり、そのスリリングな駆引きが男女間で行われる精神作用としての駆引きと良く似ているのではないかと語っています。この点、どんな舞台芸術でも、この「間」の扱い方が難しく、表現者(医師)による処方や受容者(患者)による服用の仕方を誤ると毒にも薬にもなり得る妙薬です。歌舞伎の世界で「間は魔に通ず」という言葉がありますが、役者にとって「間」は命であり、この「間」を外す「間抜け」は芝居の流れ(リズム)を壊して舞台を台無しにしてしまいます。また、大向こう(舞台から最も距離がある上階後方の席にたびたび通う見巧者の客のことで、歌舞伎だけではなくクラシックの演奏会場でも最後部の席にコアな客が集まる傾向があります。)の掛け声も「間」が大事で、絶妙な「間」の掛け声(“待ってました!”“○○屋!”)は役者の芝居が興に乗って舞台を盛り上げる効果がありますが、この「間」を外すと芝居の興を醒まさせることにもなり兼ねません。牧山さんがアドリブ(即興演奏)で音楽的な対話が上手くできる相手だと表現世界がどんどん広がって行くと語っていましたことも同じような意味を含む趣旨だと思いますが、これこそが舞台芸術の醍醐味と言えるのではないかと思います。なお、この「間」の良し悪しを分けるのが(日本流に言えば)「粋」と「野暮」でして、この「粋」と「野暮」の違いは舞台芸術だけではなく、男女の駆引きや人間の生き様にも当て嵌まると思います。「野暮」とは型(基本)がしっかりと身についておらず、それゆえに型(基本)に振り回されて融通が効かない様子をいい(野暮の語源は、雅楽の楽器「笙」の「也(や)」と「毛(や)」という二本の管から音が出ないので、役に立たないことを「やもう」→「やぼ」というようになったことが始まりとされています)、その一方で、型(基本)はしっかりと身についているが、一々、型(基本)とおりに決まりそれが作為的に感じられて面白さや美しさが感じられない様子を「気障(キザ)」と言って人々から疎んじられます。その中間でバランスされているのが「粋」であり、型(基本)がしっかりと身について洗練されていて、だからこそ型(基本)に捉われずに振る舞っても破綻がなく、その当意即妙、変幻自在な振る舞い(即ち、フェイント、焦らしや駆引きなど)にはエロスに通じる美しさが感じられるのではないかと思います。そう言えば、映画「ドラゴンキングダム」においてカンフーの奥義を語るシーンで「型を学んで、型を追わず」という言葉が出てきますが、これも「粋」と相通じる考え方だと思います。ジャズの演奏に「エロス」を感じさせる「間」にも同様のことが言えるかもしれません。


ジャズに因んで、勝浦にある有名なジャズバー「RAG TIME」をご紹介。今年の中秋の名月は9月15日、満月は9月17日ですが、店の前には童謡「月の砂漠」が作曲された御宿海岸まで続く砂浜が広がり、昼はエメラルドグリーンに輝く海と関東近県から波乗りにくるサーファー達で賑わい、夜は漆黒の闇に覆われた海面を幻想的に照らす月光がバラード調のジャズとマッチし、さざ波の音に揺られながら静かに流れる大人の時間を楽しむことができます。

上記の「エロス」の文脈に沿って、ジャズとは異なるジャンルの芸術である①歌劇「ドン・ジョバンニ」、②能「野宮」に見られる「エロス」及び③「音楽」と「舞踊」に見られる「エロス」(上記①及び②のような“信”としての宗教から生まれた芸術に見られる「エロス」ではなく、“行”としての宗教から生まれた芸術に見られる「エロス」)を題材に、少しだけ話題を広げ(アドリブし)てみたいと思います。

①歌劇「ドン・ジョバンニ」に見られる「エロス」
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」では、貴族ドン・ジョヴァンニが手当たり次第に女性を誘惑する稀代のプレーボーイとして登場しますが、ある日、騎士長の娘に手を出したことを見咎められて騎士長と決闘になり騎士長を刺し殺してしまいます。その後も、ドン・ジョヴァンニは仮面舞踏会を開催して女漁りをするなど手癖が改まらず、放蕩の限りを尽くしますが、ある日の晩餐会に騎士長の亡霊が現れてドン・ジョバンニに改心するように迫られ、これを拒否したので地獄へ堕ちるというストーリーです。この作品の性格については、一般に、貴族への皮肉を込めた社会風刺であるとか又はファザー・コンプレックスを抱えていたモーツァルトが亡き父レオポルドを騎士長に重ねた自分への戒めであるなどと言われていますが、その背後には騎士長の亡霊(神聖な愛「アガペー」を体現するもの)がドン・ジョヴァンニ(肉体的な愛「エロス」を体現するもの)を服従させるというキリスト教の価値観が強く指向されています。この作品でドン・ジョヴァンニは誘惑者として登場しますが、従者レポレッロが“カタログのアリア”で「スカートさえはいていれば、あの方のなさることはあなたもご存知のはず」と歌うことからドン・ジョヴァンニが体現する「エロス」は享楽に溺れた本能的なものであることが分かります。また、ドン・ジョヴァンニに誑かされる女性達も被害者であると同時に自らドン・ジョヴァンニが体現する「エロス」の虜になって行くものであり、恰も旧約聖書創世記に登場する禁断の果実(肉体や悪のメタファー)を口にしてエデンの園神の国)を追放されたアダムとイブを彷彿とさせます。この点、ギリシャ神話に登場する英雄ヘラクレスは50人以上の妻を持ち、一見するとドン・ジョヴァン二と似た性格の人物のように映りますが、ヘラクレスは複数人であっても“特定”の女性を愛するという意味で継続的に存立する関係性(精神的な愛「フィリア」と調和された肉体的な愛「エロス」)を指向しているのに対し、ドン・ジョヴァンニは「スカートさえはいていれば」(「カタログのアリア」より)誰でもよく手当たり次第に女性に手を出す誘惑者であるという意味で刹那的に消滅する関係性(肉体的な衝動としての「エロス」)を指向しており、ヘラクレスとは本質的に異なる価値観を帯びた人物像として描かれています。因みに、新約聖書に登場するマグダラのマリアは改心した娼婦(キリストの死と復活を見届ける悔悛した罪人)と言われており、その存在は矛盾する両義性、即ち、娼婦として肉体的な衝動又は愛「エロス」に囚われる罪人の一面と、改心して神聖な愛「アガペー」によって精神(魂)が救われる聖女の一面とを内包していますが、歌劇「ドン・ジョバンニ」ではそのうち娼婦として肉体的な衝動又は愛「エロス」に囚われた罪人の一面を象徴する存在としてドン・ジョバンニが登場し、それを取り巻く登場人物によってキリスト教が体現する神聖な愛「アガペー」との間の葛藤(信仰の闘い)が描かれています。この点、西洋文化史の流れを俯瞰して見ると、そのような社会的な価値観の葛藤の中で西洋文化が変遷し、育まれてきたという見方も可能かもしれません(後述)。

▼誤解を恐れずに以下のような大雑把なイメージでもう少し話を広げていきます。

関係性の比較 精神(理性) 肉体(本能) 価値観
ドン・ジョヴァンニ × 肉体的な衝動としての「エロス」(猥褻)
ギリシャ神話 精神的な愛「フィリア」と調和された肉体的な愛「エロス」(芸術)
キリスト教 ×(原罪) 肉体的な愛「エロス」を抑制する、神聖な愛「アガペー」(宗教)

歌劇「ドン・ジョバンニ」の第2幕第24曲「晩餐会の場」で、享楽に溺れた本能的な「エロス」を体現する誘惑者としてのドン・ジョヴァンニ(肉体、情欲(パトス))に対して改心を迫る騎士長の亡霊(精神、理性(ロゴス))が登場します。この登場シーンでも使われているモチーフですが、歌劇「ドン・ジョバンニ」序曲で弦楽器が奏でる騎士長の亡霊の足取りを表現したモチーフ「ターンタ・ターンタ・・・」(♩.🎵♩.🎵・・・)は、バッハ「マタイ受難曲」冒頭合唱通奏低音が奏でるキリストが十字架を抱えてゴルゴダの丘を登る足取りを表現したモチーフ「ターンタ・ターンタ・・・」(♩🎵♩🎵・・・)と一致しており、(舞台の演出を超えた音楽的なメタファーとして)そこには神が騎士長に化体して降臨したかのような神性なものを暗示させます。この点、果たしてモーツァルトがバッハの「マタイ受難曲」の楽譜を見る機会があったのかについては何も記録が残されていないので分かりませんが、モーツァルトの遺品の中にはバッハの「マタイ受難曲」も初演されたライプツィヒの聖トーマス教会を訪れた際に写譜したバッハのモテットの楽譜が含まれていますので、その可能性は十分にあったと考えられる....などと言ってしまいたくなるのが歴史ロマンというものです。

モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」の序曲より抜粋
赤枠は、騎士長の亡霊の足取りを表現したモチーフ「ターンタ・ターンタ・・・」(♩.🎵♩.🎵・・・)で、さながら神が騎士長に化体して降臨したかのような神性を暗示。

▼バッハの「マタイ受難曲」の冒頭合唱より抜粋(通奏低音のパートのみ)
赤枠は、キリストが十字架を抱えてゴルゴダの丘を登る足取りを表現したモチーフ「ターンタ・ターンタ・・・」(♩🎵♩🎵・・・)。青枠は、受難(贖罪)が成し遂げられてキリストが13段の階段(音符)を登り昇天する様子(因みに、キリストの磔刑13日の金曜日だったので、キリスト教にとって“13”という数字は重要な意味を持ちます。また、三連符は三位一体を象徴していると言われています。)

このようなキリスト教の価値観が強く指向されることになった時代背景を以下に俯瞰しておきたいと思います。歌劇「ドン・ジョバンニ」は1787年10月にモーツァルトの指揮によってプラハ国立劇場で初演されていますが、当時は(ドン・ジョバンニに象徴されるような)享楽的で軽薄なフランスの貴族文化が開花したロココ時代であり、また、丁度、この年に特権階級をも対象とする税負担に反対するフランス貴族がフランス王政に反乱を起こし、それがフランス貴族の享楽的な生活にも反感を持つ市民にまで広がって1789年のフランス革命に発展する端緒になっています。モーツァルトはこのような時代感覚を巧みに捉えて時代を風刺しフランス革命を予兆するようなエポックメイキング的な作品を世に問うたとも言えそうです。そう言う意味では、騎士長の亡霊が登場する「晩餐会の場」の冒頭で奏でられるフォルテッシモの総奏は古い貴族社会を打ち破って新しい市民社会の到来を暗示しているようにも聴こえてきます。

ギリシャ神話の価値観とキリスト教の価値観の間を揺れ動きながら形成された西洋文化史の流れを、誤解を恐れつつ、かなり大雑把に俯瞰してみました。

古代ギリシャ時代】
ギリシャ神話の価値観(哲学、思想)は肉体と精神の調和がとれた完璧な存在になることを理想とし、現世における肉体的な本能から生じる欲望を肯定して「エロス」を呼び起こす肉体的な美を称賛。ギリシャ彫刻には裸体が多く、また、オリンピックの源流であるオリンピアにおいて裸で競技が行われたのはこれが理由。
*シモニデス(詩人):「死すべき人間の人生など、肉体の幸福無くして何の魅力があろうか。聖なる神々の暮らしとて、それ無くしては何ら羨むべきものではないのではないか。」

ローマ・カトリック時代】
キリスト教の価値観(宗教)現世における肉体的な本能から生じる欲望を抑制し(キリストによる贖罪後も人間によって作り続けられる罪を悔い改め)、精神(霊)を肉体から解放して、神を信仰する(神を信じて罪の赦しを求める)ことによって来世である天国(神の国)における精神(霊)の永遠の安息が約束されると説く。
旧約聖書「創世記」:禁断の果実(知恵の実)を食べた最初の人間であるアダムとイブに対し、神はその罪により2人をエデンの園から追放(失楽園)。アダムとイブの子孫である人間はこの罪(映画「セブン」)を生まれながらにして負っている。

ルネッサンス時代(古典主義)】
キリスト教カトリック)の価値観の束縛から解放されることを指向し、ギリシャ神話の価値観の再生運動(「ルネサンス」の語源は“再生”を意味するイタリア語)の試み。ボッティチェルリ「ビーナスの誕生」に代表されるように、ギリシャ神話的な理想美を指向し、ギリシャ神話を主題として肉体の美しさを描くことでキリスト教カトリック)の価値観に対するプロテスト。

バロック時代】
ルネサンス時代の反動として生まれ、偶像崇拝を禁止していたプロテスタントに対抗して豪華なキリストやマリアの彫像が作られるなどキリスト教カトリック)の価値観の威信回復を図るための壮麗華美な表現様式。

プロテスタンティズム音楽の旗手としてバッハが活躍した時代背景(バッハはプロテスタントの信者でしたが、その最高傑作と言われている「ロ短調ミサ曲」はカトリック典礼音楽(*)で、バッハは神に仕える音楽家として宗派を越えてこの曲を神に捧げたと言われており(Soli Deo Gloria)、「ロ短調ミサ曲」をもって音楽史におけるバロック時代は終焉)
*聖書朗読を重視するプロテスタントは、聖書の言葉を題材とした「カンタータ」「受難曲」「コラール」「オラトリオ」等の教会音楽を使用し、カトリックのように聖体拝領を重視しないのでミサ通常文に音楽をつける「ミサ曲」等の教会音楽は使用されず。

ロココ時代】
バロック時代の反動として生まれ、フランスの貴族文化が開花して「説教」から「飾り」(享楽的で軽薄な官能性)へと変貌。

モーツァルトが歌劇「ドン・ジョバンニ」を作曲した時代背景(モーツァルトフリーメイソンに加入していましたがカトリックの信者で、享楽的で軽薄な貴族文化に対する風刺が籠められていると共に、当時の時代感覚を巧みに捉えたフランス革命を予兆する作品)

新古典主義時代】
フランス革命後はバロック時代の壮麗華美な様式性やロココ時代の享楽的で軽薄な官能性を否定し、“美しい肉体には美しい精神が宿る”とされたギリシャ神話の価値観を古典様式に則って表現。

ロマン主義時代】
ギリシャ神話の価値観を美の基準と考えた新古典主義に対し、フランス革命後の本格的な市民社会の成立に伴う市民文化の多様な趣味に合わせて、美の基準は人それぞれであるという考えが広まり、ドラマチックな表現が流行。

余談ですが、プロテスタントの一派で宗教改革を提唱したルターは、当初、カトリック反ユダヤ主義にも抗議していましたが、後に、ユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに失望して反ユダヤ主義を標榜します。時代が進んで20世紀に入り、ナチスはそのルターが標榜した反ユダヤ主義を奇貨とし、ユダヤ人迫害の根拠の1つとしてこれを利用し、時代に暗い影を落とすことになりました。因みに、ユダヤ人が大量虐殺された「ホロコースト」は旧約聖書「創世記」に登場する「燔祭」(はんさい)のことを示し、生贄を祭壇上で焼いて神に捧げる儀式のことを意味しています。なお、多くの宗教は、先ず、神の存在を無条件に受け入ろと悟し、そのうえで、その神がこう仰っているのだからそれを信じなさいという具合にトートロジーに陥っているように思われます。この論理的な飛躍を埋める(超える)ことを「信仰」と言うのでしょうが(そして、どんな論理も「信仰」の前では無力とも言えますが)、禁断の果実を食べ過ぎた私のような大俗物には俄かに得心することは困難です。現代人が抱える生(死)に対する問題は宗教(信仰)の代わりに哲学・思想(理解)に示唆を見出すことが多く、必ずしも、「信仰」という形をとらなくても良い(但し、それが人間によって生き易いことなのか又は生き難いことなのかは別論)と感じている人が多いのが現代という時代性ではないかと感じています。

②能「野宮」に見られる「エロス」
金春禅竹の作と伝えられる能「野宮」は、源氏物語「賢木」を題材にして作られ、光源氏との想い出に浸る六条御息所の哀しい女の性が深まる秋の情趣と共に心に沁みてくる名曲です。旧暦9月7日(新暦で2016年10月7日)、旅の僧が野宮神社を訪れたところ、一人の女が現れて今日は神事なので帰るように頼みます。僧がその理由を尋ねると、女はかつて野宮神社に籠もっていた六条御息所のもとを光源氏が訪ねてきたのがこの日だと告げ、自分こそ六条御息所の霊だと明かして懐かしそうに昔を語り舞いを舞って黒木の鳥居クヌギの木の皮を剥かないまま使用している鳥居)に消え失せるという話です。源氏物語(1008年頃)の主人公である光源氏は平安貴族をモデルに描かれた架空の人物で稀代のプレイボーイとして登場しますが、歌劇「ドン・ジョバンニ」(1787年)の題材となったスペインの伝説上の貴族ドン・ファン、そしてイタリアの実在の作家ジャコモ・カサノヴァ(1798年)と共に世界三大プレイボーイと称されています。この点、光源氏ドン・ジョヴァンニのように女性であれば手当たり次第に手をつける誘惑者として刹那的に消滅する関係性(肉体的な衝動としての「エロス」)を指向しているのではなく、ヘラクレスのように複数人であっても“特定”の女性を愛するという意味で継続的に存立する関係性(精神的な愛「フィリア」と調和された肉体的な愛「エロス」)を指向している人物像として描かれているのではないかと思われます。


狩野柳雪「能之図」より「野宮」。まるで旅の僧(ワキ=見物人)が俗世(見所)から、その俗世(見所)と神域(神社の境内=能舞台)とを隔てるようにして建つ黒木の鳥居(女の性の象徴)に顕在する六条御息所の亡霊(シテ)を見ているような図柄です。宛ら、あの日の今日、野宮神社まで六条御息所を訪ねてきた光源氏への想いを振り切って追い返そうとしたように...。

源氏物語「賢木」の巻では、光源氏との結婚を諦めた六条御息所斎宮(処女を守って姫神に仕える巫女のことを意味し、天皇に代わってお伊勢参りをする皇女を示します。斎宮に選ばれた皇女は宮中で1年間、野宮神社で1年間の2年間に亘り心身を清めるための潔斎を行い、3年目の秋に伊勢神宮へ赴きます。)に選ばれた娘と共に伊勢神宮へ赴く決意をします。そんな六条御息所を哀れに思った光源氏野宮神社を訪れ、「変わらぬ色をしるべにしてこそ、斎垣を越えはべりにけり」(常緑樹の榊の色が変わらないように、あなたへの変わらない思いに導かれて俗世と神域とを隔てる垣根を超えてやってきました。※榊(サカキ)の名前は神と人との境である「境木(さかき)」を意味。)と御簾の下から榊の枝を刺し入れて六条御息所に言い寄りますが、野宮神社で潔斎の日々を過ごし神聖な愛「アガペー」に心を委ねようと決意する六条御息所は「神垣は しるしの杉も なきものを いかにまがへて 折れる榊ぞ」と本歌を詠んで、私のところへやって来たのは間違いですと肉体的な愛「エロス」を体現する光源氏への想いを振り切ろうとします。これに対し、光源氏は「少女子が あたりと思へば 榊葉の 香りをなつかしみ とめてこそ折れ」と返歌を詠んで、懐かしさの余りに訪ねて来てしまいましたと六条御息所への未練を吐露し、六条御息所の心は野宮の深まり行く秋の空のように乱れます。能「野宮」では黒木の鳥居の作り物が能舞台に設えられ、光源氏との想い出に浸る六条御息所の亡霊が女の性を捨て切れず妄執に囚われたまま、再び、黒木の鳥居(女の性の象徴)へと消え失せます。六条御息所の亡霊(タナトス)が心身を清めるための潔斎を行う野宮神社でなお女の性を捨て切れず妄執に囚われて彷徨う姿に究極の生(性)への執着(エロス)が描かれているようです。

なお、誤解を恐れずに言えば、神社は“お宮参り”“七五三”“結婚式”など鳥居(=女性器)をくぐって参道(=産道)を進み、お宮(=子宮)へと至る度に生者の魂が生まれ直す「生」を司る場所として機能していたのに対し(この点、湯島天神靖国神社などは道真公や戦没軍人などを祭神として祀っている、即ち、神として生かしているのであって、仏式に死者を供養するのとは主旨が異なる)、寺社は“葬式”“墓参り”など死者の魂を供養する(源氏物語が作られた中世の時代には戦や疫病、飢饉などが多かったことから死者の魂を供養する怨霊鎮魂の思想が発達し、数多くの仏教が誕生・発展しましたが、源氏物語「葵上」に登場した六条御息所の生霊もそのような思想的な背景を反映するもの)ために訪れる「死」を司る場所として機能していたのではないかと考えられます。このことは神社で神に供えるお賽銭は祈願成就など自分(生、現世)のために行うもの(神社で授かるお札やお守りなども自分のためのもの)、寺社で仏に供えるお布施は慰霊鎮魂など祖先及び死後の自分(死、来世)のために行うものという性格の違いなどにも現れています。因みに、生者が参詣の度に生まれ直す「生」を司る場所としての神社は死者の霊を現世に顕在させる(蘇らせる)装置としての能舞台(本舞台=鳥居、橋掛かり=参道、鏡の間=お宮)に反映され、また、死者の魂を供養する「死」を司る寺社は“草木国土悉皆成仏”という仏教思想に化体しこれを担うワキ(旅の僧)の存在によって能楽の作品の中に結実されています。マテリアリストが大勢を占める現代の日本人は熱心な信仰を持てなくなったことで広陵たる精神世界を失って物質世界に雁字搦めになっている印象を受けます。この点、熱心な信仰を持つことで広陵たる精神世界を育み物質世界で解決できない不条理と折り合いをつけていた中世の日本人の方が現代の日本人よりも遥かに生きる知恵のようなものを持っていたのではないかとも感じられます。

③「音楽」と「舞踊」に見られる「エロス」
上記①及び②のような“信”としての宗教から生まれた芸術に見られる「エロス」ではなく、“行”としての宗教から生まれた芸術に見られる「エロス」について、ごく簡単に脱線(アドリブ)してみたいと思います。“行”としての宗教から生まれた芸術として、先ず、日本の宗教音楽である“法楽(声明)”が挙げられると思います。“法楽(声明)”は、読経(仏教の経典を読唱すること)が庶民に難解であったことから、誰でも気軽に読経できるように経典文や節回しに改良を加えてできたもので、信者が美しい節回しで読経を繰り返しながら、お互いの声に共鳴し合い、やがて法悦の境地(肉体を捨て去り精神を解放する無我の境地、即ち、肉体的な本能を発散(又は抑制)した極限状態で至るエロスの極致とも言うべき神仏等の超自然的な存在と交信できる状態=宗教的なエクスタシー)に達するための“行”としての宗教又はそこから生まれた芸術です。この“法楽(声明)”は、後に謡曲浄瑠璃浪曲や演歌等の日本の伝統音楽へと受け継がれますが、さながら現代のミュージックライブに匹敵するものと言えましょう。因みに、聖書朗読を重視するキリスト教プロテスタント系の教会で歌われる“ゴスペル”(ヨーロッパの教会で歌われる讃美歌に対し、黒人霊歌から生まれたアメリカの教会で歌われる宗教音楽のことで、“GOD”(神)+“SPELL”(言葉)=“GOSPEL”が語源)も聖書の言葉や福音を受容し易くするためのもので、“法楽(声明)”と似た性格を有していると思われます。“法楽(声明)”や“ゴスペル”は、神仏の祝福又はそれを表現する芸術を喜びに感じて(主に神仏の救いを)求める心を満たし、魂を解放する(心を自由にする)という意味を持ち、それは芸術鑑賞の醍醐味にも相通じるものがあるのではないかと思われます。この点、ゴスペルを題材とした映画「天使にラブソングを」映画「ジョイフル・ノイズ」等を見ると分かり易いと思います。

▼“法楽(声明)”や“ゴスペル”はさながらコンサートのような燃焼度の高いライブで、信仰の有無を超えて純粋な音楽としても十分に楽しめます。

“行”としての宗教から生まれた芸術として、次に、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えながら鼓や鉦に合せて踊る“踊り念仏”が挙げられると思います。時宗開祖の一遍上人(総本山は神奈川県藤沢市にある遊行寺)は、一度の念仏で極楽往生が約束され、その喜びを“踊り念仏”で表現することで仏と1つになり法悦の境地に達すると説きました。一遍上人は“踊り念仏”を広めるために全国を行脚(遊行)し、人々が行き交う場所に踊り場を設けて人々を“踊り念仏”の輪に引き込みながら集団で法悦の境地に達するという過激な路上パフォーマンスを実践します。これが後に盆踊りや歌舞伎踊りに発展し又は影響を与えることになりますが、さながら現代のクラブに匹敵するものと言えましょう。昔、狂言師の野村萬斎さんが三番叟について「揉之段で肉体を極限の状態まで持って行って体を空洞化させ、鈴之舞で面をかけることで自我を消し去る感覚にな」って、“依代(よりしろ)”としての身体ができ、そこに精霊等の超自然的な存在が“宿る”という趣旨のことを語られていましたし、また、他の能楽師の方々も能面をかぶることで極端に視野を奪われて呼吸も困難になり心身が極限の状態になって自我を捨て去ることができる(即ち、何者かが顕在する感覚になる)という趣旨のことを語られていますが、これらと似た境地になるのかもしれません。この点、“踊り念仏”は、神仏の祝福又はそれを表現する芸術を喜びに感じて(主に神仏の救いを)求める心を満たし、その喜びを歌の代わりに“踊り念仏”で表現する(即ち、さらけ出す)ことで魂を解放する(心を自由にする)という点で、“法楽(声明)”や“ゴスペル”と本質的に共通しているのではないかと思われます。また、旧約聖書「創世記」には、アダムとイブが禁断の果実を食して裸を恥ずかしいと思うようになり(罪の意識)、イチジクの葉で局部(肉体的な本能)を神から隠すようになったと記されていますが、“踊り念仏”も法悦の境地(肉体を捨て去り精神を解放する無我の境地、即ち、人間が罪の意識に囚われて恥ずかしいと思って神から隠していた肉体的な本能を発散(又は抑制)した極限状態に至るエロスの極致とも言うべき神仏等の超自然的な存在と交信できる状態=宗教的なエクスタシー)に達することで魂を解放する(即ち、隠すのではなく、もう一度、さらけ出す=改悛する)という意味では、その精神構造に共通するところがあるように思われますし、これはジャズ奏者がアドリブを演奏する際に天から音楽が降って来る感覚(インスピレーション)にも近いものがあるのではないかと思われます。因みに、ジャズはニューオリンズで誕生しましたが、ニューオリンズにはカトリック信者が多かったので(即ち、プロテスタント信者に比べて人種偏見が軽かったので)、彼らに雇われていた黒人奴隷にはある程度の自由が与えられ、毎週日曜日になると広場に集まり故郷のアフリカ音楽を演奏して踊り楽しむようになり、これがジャズの原点となりました。また、仲間の黒人奴隷が亡くなると教会に集まりマーチング・バンドで葬送行進曲を奏でながら墓地へ向かい、埋葬を終えて自宅に戻るときはマーチング・バンドが陽気でダンサブルな音楽を奏でて死者の霊を弔いますが、これを聴き付けた周辺の住民達が外に飛び出して遺族とマーチング・バンドの行進の列に加わって死者の霊を弔うための“踊り”の輪が膨らんでいきました。これがシカゴに伝わって「ビッグバンド・ジャズ」に発展しますが、ジャズの発生史を紐解くと、さながら“踊り念仏”を彷彿とさせるところがあります。


1〜2枚目:踊り念仏で有名な一遍上人が開祖した時宗の総本山である遊行寺(神奈川県藤沢市)一遍上人像。能「遊行柳」の舞台になった遊行柳(栃木県那須市)は、一遍上人の教えを受け継いだ遊行上人がこの地に立ち寄ったことに由来します。3〜4枚目:遊行寺長生院には歌舞伎や浄瑠璃の人気演目「當世流小栗判官」(近松門左衛門作)や「小栗判官車街道」(竹田出雲・文耕堂の合作)に登場する小栗判官と照手姫の墓があります。また、遊行寺の境内には下総佐倉藩の初代藩主であった老中、堀田正盛の供養塔もあります。5枚目:もう直ぐハロウィン(10月31日)ですが、ミニストップ限定のハロウィンキティー・カスタード&パンプキンを漸く見付けました。古代ケルト人の祭りであるハロウィンは祖先の霊が帰ってくる又は秋の収穫を感謝するという意味で日本のお盆や新嘗祭と同じですが、祖先の霊と共に悪霊も訪れるということで仮装して悪霊祓いをする点が特徴的で、これがキリスト教カトリック)に採り入れられて習俗化し現代に受け継がれてきます。このような異教的なものなどを採り入れたカトリックに対抗してルターが宗教改革(プロテスト)を起こした日が偶然か皮肉か丁度ハロウィンの日(10月31日)であったことから、キリスト教(とりわけプロテスタント)は10月31日をハロウィンを祝う日ではなく宗教改革を記念する日としており、この日は悪霊(闇の世界)と聖霊(光の世界)とが同時に持て囃される奇妙な日になっています。なお、古代ケルト人は神の怒りを鎮めるために処女を生贄として奉げたそうですが、その生贄がリアルかフィクションかは別として、上記②の能「野宮」に出てきた“斎宮”(処女を守って姫神に仕える巫女のこと)と相通じる考え方です。

なお、蛇足ですが、“法楽(声明)”は釈迦の言葉や教えから成る経典を読経するという意味でキリスト教プロテスタント系の聖書朗読(≒読経)に近く、また、“(踊り)念仏”は仏の救いを求めるために祈るという意味でキリスト教カトリック系のミサ通常文(Kyrie ereison≒南無阿弥陀仏)に近いと言えるかもしれません。このように、同じキリスト教でもプロテスタントは聖書の言葉や福音を大切にしこれを朗読することに重きを置くので、カトリックのようにキリスト像やマリア像に祈る偶像崇拝を禁じています。最後に、農耕民族に見られる2拍子表拍の舞踊音楽と狩猟民族に見られる4拍子裏拍のダンス音楽との関係性とエロスについても言及しようと思いましたが、かなり冗長になってしまいましたので、牧山さんが「ジャズとエロス2」を執筆された機会にしたいと思います。

▼伝記映画「ブルーに生まれついて」(2016年11月26日公開)
一時、マイルス・デイヴィスをも凌ぐ人気を誇っていたジャズトランペット奏者でボーカリストチェット・ベイカーの半生を描いた伝記映画「ブルーに生まれついて」が公開されます。ドキュメンタリー映画「Let's Get Lost」をご欄になられていない方は、併せて、この機会に是非。【注】

Lets Get Lost [DVD] [Import]

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【注】この輸入盤の映像方式はPAL方式を採用しているので、一般の日本製DVDプレーヤーでは再生できません。パソコンで視聴するか又は(どうしてもテレビで視聴したければ)変換ソフトやダビング業者を使ってPAL方式をNTSC方式へ変換するか、PAL方式を再生できるDVDプレーヤーを購入する必要があります。

ドキュメンタリー映画「ジャズ喫茶ベイシー」(2017年公開予定)
中尊寺岩手県平泉)を観光した訪日外国人観光客も立ち寄る世界的に有名なジャズ喫茶「べイシー」岩手県一関)のドキュメンタリー映画「ジャズ喫茶ベイシー」が近く公開されます。ここでしか聴けない世界一のサウンドを求めて、全国からジャズファンが集っています(新幹線の停車駅、JR一関駅から徒歩5分)。

▼その他のお勧め映画

◆おまけ
童謡「月の砂漠」のジャズアレンジ。

Jazzical Trioによるベートーヴェンピアノソナタ第13番のジャズアレンジ。(“Jazzical”(ジャジカル)とはジャズとクラシックを融合した音楽のことで、Jazzical Trioは主にクラシックの曲を素材としてジャズアレンジを加えて演奏しているグループ。)

映画「天使にラブソングを2」にも使われていますが、ベートーヴェン交響曲第9番第4楽章の主題旋律に讃美歌の歌詞を付した有名なゴスペル“Joyful Joyful”をPerpetuum Jazzileのコーラスで。

◆おまけのおまけ
上記で紹介したミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」(2017年2月24日公開)から。ジャズピアニストのセバスチャンと女優志望のミアはジャズバーで運営的な出会いを果たして忽ち恋に落ちますが、お互いの夢を叶えるためにその恋が岐路に立たされるという物語で、人生の素晴らしさを教えてくれるミュージカル映画です。

“New Orleans Jazz Styles”でも有名なギロックの「叙情小曲集」から“秋のスケッチ”と“セレナーデ”...メランコリックで儚げな曲調に秋の風情が薫る小品をお楽しみ下さい。