大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

映画「エゴン・シーレ 死と乙女」/映画「未来を花束にして」

賀春。今日2月4日は立春。今年1月1日のブログ記事に「あけましてコケコッコー」と書きましたが、今日こそ「あけましておめでとう」と書きたいと思います。旧暦では立春が正月にあたり、その前日の節分(季かれ目)が大晦日にあたりました。従って、昔は大晦日の節分に豆を撒いて1年の“鬼”を追い払い“福”を招いて正月の立春を迎えるという意味です。即ち、本来は「実りない冬が終わって実り豊かな新しい春(新年)が明け、春の到来を告げる梅の芽が出(お芽出度:オメデタ)ましたね」(賀春)と新年を寿ぐ、季節感を讃えた心の籠った挨拶でした。この旧暦の風習は明治6年に新暦に改まった後も残り、未だ梅の芽も出ていない真冬の元旦に「あけましておめでとう」と心無い意味不明な挨拶を交わしている現代人の姿が滑稽(コッケイ)に見えるので、今年1月1日のブログ記事で今年の干支の酉(鶏)に託けて「コッケイ」→「コケコッコー」と揶揄した次第です。今年生誕150年を迎える夏目漱石の言葉を借りれば、これも文明開化によってもたらされた「文化の上滑り」の1つであって、奇しくも、この夏目漱石が生まれた年に行われた日本で二度目の革命(一度目は天皇政権から鎌倉幕府による武家政権へと移行した革命、二度目は足利幕府から江戸幕府へと続いて武家政権から民主政権へ移行した革命)である明治維新大政奉還)がもたらしたものが何だったのか、その功罪について思いを馳せてみることで、現在という時代をより深く把握するための良き契機になるのではないかと思います。


2017年2月3日撮影、花香る千葉県某所に於いて

今年は明治維新大政奉還)から150年目の節目にあたりますが、丁度、自由や平等について考える契機となる2本の映画が公開されたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。

【題名】映画「エゴン・シーレ 死と乙女」(原題:Egon Schiele: Tod und Madchen)
【監督】ディーター・ベルナー
【脚本】ヒルデ・ベルガー
    ディーター・ベルナー
【出演】<エゴン・シーレノア・サーベトラ
    <ヴァリ・ノイツェル>ファレリエ・ペヒナー
    <モア・マンドゥ>ラリッサ・アイミー・ブレイドバッハ
    <エディット・ハルムス>マリー・ユンク
    <グスタフ・クリムト>コーネリウス・オボンバ ほか
【撮影】カーステン・ティーレ
【美術】ゲッツ・ワイドナー
【音楽】アンドレ・ジェジュク
【公開】2017年1月28日
【場所】千葉劇場 1,300円
【感想】ネタバレ注意!

エゴンシーレの半生を描いた伝記映画は、既に映画「エゴン・シーレ 愛欲と陶酔の日々」(1980年公開)が存在しますが、新たに公開された映画「エゴン・シーレ 死と乙女」も1912年の裁判を中心として“エロス絵画(芸術)”と“ポルノ絵画(猥褻)”の問題が描かれています。個人的には、この問題に行政(警察)や司法(検察、裁判所)が介入して芸術と猥褻の概念について判断基準を定立し、その一方に刑罰まで科すことに合理性がない(果たして普通の公務員に、このような難問題を取り扱えるだけの教養と見識があるのか甚だ疑わしいですし、このような規範定立自体が刑罰の対象を実質的に画する立法作用と言え、三権分立の趣旨にも反している)相当な無理があると思います。仮に芸術と猥褻の概念を区別することに何らかの意義があるという前提に立つとしても、その判断基準は個人の価値観に委ねられるべき問題であって、「表現の自由」と「見たくない権利」との調整は表現者に一定の配慮義務のようなもの(R指定のようなものを設けるなど)を課したうえで、その義務違反による「見なくない権利」の侵害として民事的な解決(差止請求等)が図られれば十分ではないかと考えます。法律が制定され又は判例が示された当時と比べて社会情勢や国民の価値観は大きく変化しており、インターネットの普及により国境を越えてわいせつ物が氾濫している状況(サイバー犯罪条約ではサイバーポルノ自体は規制の対象に含めておらず、児童ポルノのみを規制の対象としています)にあっても日本における性犯罪件数は減少傾向にある現状を踏まえれば、(最近のろくでなし子裁判などを見るにつけても)この問題に行政(警察)や司法(検察、裁判所)が介入することには抑制的であるべきであり、わいせつ物陳列罪等を刑事罰の対象とすることが合理的なのかを含めて再び国会(国民)の議論に戻されるべきではないか思います。

エゴンシーレが浮世絵(春画)を見てインスピレーションを受けるシーンがありますが、

現在、感想を執筆中。


【題名】映画「未来を花束にして」(原題:Suffragette)
【監督】サラ・ガブロン
【脚本】アビ・モーガン
【出演】<モード・ワッツ>キャリー・マリガン
    <エミリー・ワイルディング・デイビソン>ナタリー・プレス
    <イーディス・エリン>ヘレナ・ボナム・カーター
    <アーサー・スティード警部>ブレンダン・グリーソン
    <バイオレット・ミラー>アンヌ=マリー・ダフ
    <サニー・ワッツ>ベン・ウィショー
    <エメリン・パンクハースト>メリル・ストリープ ほか
【撮影】エド・グラウ
【美術】アリス・ノーミントン
【衣装】ジェーン・ペトリ
【音楽】アレクサンドル・デプラ
【公開】2017年1月27日
【場所】千葉劇場 1,300円
【感想】ネタバレ注意!

映画は邦題よりも原題の方が製作者の意図を忠実に表現していることが多いのでいつも原題を重視していますが、この映画に限っては原題よりも邦題の方が製作者の意図を適確に表現していると感じます。エゴン・シーレと同時代のヨーロッパの社会情勢を描いた映画ですが、僅か100年前の出来事とは思えないような惨状が赤裸々に描かれています。当時は女性参政権運動に社会的な理解を得ることは難しく、度重なる逮捕や失職、離婚などの逆境に晒されながらも心が折れることなく信念を貫き、自らの命を掛けて女性参政権を勝ち取る姿には心が打たれるものがあり、ラストシーンで葬列の花束に込められた想いに触れて、我々がこの花束をどのように育み、後世に受け継いで行けるのか、そのメッセージに感銘を深くしました。現代の日本では、憲法上、男女には平等に基本的人権が保障されているように見えますが、未だに社会の色々な仕組みの中に男女間で格差を生じ易い見えない障壁のようなものが残されています。この問題は男女間の格差だけではなく人種や社会的弱者にも同様のことが当て嵌まりますが、これらの障壁を一つづつ取り除いて行くために現代の我々が取り組まなければならない課題は未だ多く、後世にどんな花束を受け継いで行けるのか一人一人の問題として真摯に受け止め、会社や家庭、コミュニティなど日常の中で取り組んで行けなければならないという想いを強くさせられました。

1918年 イギリスで女性の制限選挙権(30歳以上)が認めらえる
1925年 イギリスで女性の親権が認めらえる
1928年 イギリスで女性の普通選挙権(21歳以上)が認めらえる
1945年 日本で女性の普通選挙権が認めらえる
1985年 日本で男女雇用機会均等法が制定
2016年 日本で女性活躍推進法が施行

自由の地を求め、さまよう女がいた。
その地への行き方は?

“理性”という老人は答える。
あそこへは、ただ1本の道しかない。
勤労の川岸へ下り、苦難の川を渡ること。
他に道はない。

身にまとうべての物を捨て去った女性は泣き叫んだ。
なぜ私が人跡未踏の地へ行くのですか。
私は1人きり、本当に1人なのです。

すると“理性”は女に言った。
静かに、何か聞こえる?

女は答えた。
足音が聞こえる。

何百、何千、何万というこちらへ向かう足音が、
お前のあとを継ぐ者の足音だ。
先導せよ。

〜エメリン・パンクハースト〜

◆1913年にエミリー・ワイルディング・デイビソンが女性参政権運動を社会に訴えるために国王ジョージ5世所有の馬の前に身を投げ出したときの実際の映像。これによって女性参政権運動が一気に社会に広がることになります。

◆おまけ
エミリー・ワイルディング・デイビソンへのオマージュとして。イギリスで女性参政権が認めれた1918年にホルスト組曲「惑星」から“木星”の中間部にスプリング=ライスの詩があてられて作られ、イギリスの愛国家及びイギリス国教会の聖歌になった“I vow to thee, my country”(我は汝に誓う、我が祖国よ)をどうぞ。

同じくイギリスで女性参政権が認めれた1918〜1919年にイギリスの作曲家エルガーが作曲したピアノ五重奏曲より第二楽章をどうぞ。

同じくエルガーが1918年に作曲した弦楽四重奏曲より第一楽章をどうぞ。