大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

映画「MINAMATA」✕SDGs✕芸術

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昨日で緊急事態宣言が解除されましたが、未だ社会経済はコロナの傷跡から癒されておらず、これからの数年がアフターコロナの新時代を形作るための本当の真価を問われる正念場と言えるかもしれません。幸い僕は一度もコロナに感染することなくワクチン接種も無事に終えましたが、そんな撲の小指の第二関節にはコロナの傷跡と言える「コロナタコ」(写真)ができています。この1年半、エレベーターのボタンを初めとして様々なボタンを押下する度に、目や口に触れ難い小指の第二関節を多用していたところ、こんなに大きなタコができていました。天災であるコロナ(人災であるという風聞もありますが、未だ証拠が示されていません。)は有形無形の傷跡を残していますが、人災の典型である公害も様々な有形無形の傷跡を残しています。今日は1950年頃に表面化した水質汚染公害を原因とする水俣病を題材とした映画「MINAMATA」を観に行きました。不幸な過去を変えることはできませんが、皆が幸せになれるように未来を切り開いて行くことはできますので、この教訓をどのように活かしていけるのか色々と考えさせられる映画でした。未だ公開されたばかりの映画なので余りネタバレしないように、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
【制作】ジョニー・デップ ほか
【監督】アンドリュー・レビタス
【脚本】アンドリュー・レビタス ほか
【撮影】ブノワ・ドゥローム
【美術】トム・フォーデン
【衣装】モミルカ・バイロビッチ
【音楽】坂本龍一
    <ヤマザキ・ミツオ>真田広之
    <ノジマ・ジュンイチ>國村隼
    <アイリーン>美波
    <キヨシ>加瀬亮
    <マツムラタツオ>浅野忠信
    <マツムラ・マサコ>岩瀬晶子
    <ミリー>キャサリンジェンキンス
    <ロバート・“ボブ”・ヘイズ>ビル・ナイ
    <シゲル>青木柚 ほか
【感想】ネタバレ注意!
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ジョニー・デップが製作及び主演を務める映画「MINAMATA」は、水俣病の存在が広く世界に知られる契機となった写真家のユージン・スミスアイリーン・美緒子・スミスの写真集「MINAMATA」を巡る実話を基にした伝記映画です。1971年9月にスミス夫妻が熊本県水俣市を訪れてから、丁度、50年目に封切られた映画ですが、現在も日本における水俣病問題は完全には解決されていないと言われています。戦争の傷跡は半世紀残ると言われるのと同様に、公害も半世紀に亘って深い傷跡を残す深刻な問題です。先ず、この映画を観るために必要な背景知識として、水俣病の原因となった水質汚染公害は、チッソ株式会社がビニール製造に必要なアセトアルデヒドを生成するための触媒として無機水銀を使用し、その生成過程で副生される有機水銀メチル水銀)を工場廃水として水俣湾に投棄したことにより発生しましたが、それが魚貝類を介して人体に採り込まれ、痙攣、言語障害聴覚障害、運動障害、奇形、脳性麻痺等の深刻な症状を発症するようになり、1956年に初めて熊本県水俣市水俣病患者が公式に確認されています。当時、水俣湾には約4mもの有機水銀メチル水銀)が堆積し、約15,000人以上の方が被害を受けたそうですが、その後、約13年間に亘り約485億円の費用を投じて水俣湾を埋め立て、漸く1997年に熊本県知事が「水俣湾の安全宣言」を行い、今日まで環境モデル都市として積極的な取組みが続けられています。時代は下って、2013年、発展途上国で水銀による健康被害や環境汚染が深刻化している状況を踏まえて、熊本県水俣市で国際会議が開催され、水銀及び水銀を使用した製品の製造並びに輸出入等を規制するための国際条約「水銀に関する水俣条約」が採択され、2017年に発効していますので(現在、128ケ国が署名)、水銀による水質汚染公害は決して過去の問題ではありません。
 
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ジョニー・デップが演じるユージン・スミスは、第二次世界大戦中にサイパン硫黄島、沖縄等で戦場写真を撮影し、写真誌が選ぶ「世界10大写真家」の1人にも選ばれている著名な写真家です。1971年にアメリカから熊本県水俣市へ移住し、妻のアイリーン・美緒子・スミスと共に約3年間に亘って水俣病患者とその家族を撮影します。その後、1974年にアメリカへ戻り、1975年にスミス夫妻連名で写真集「MINAMATA」を発表し、1976年にRobert Capa Gold Medal賞を受賞しています。この映画は、年老いたユージン・スミスが過去の栄光にしがみつきながら人生に行き詰まり酒に溺れる日々を送るなか、アイリーン・美緒子・スミスから水俣病患者とその家族の姿を撮影して欲しいと頼まれたことを切っ掛けにして、彼自身の人生と世界の人々の公害問題に対する意識を変えて行く様子を描いています。この映画の中で、ユージン・スミスは、戦場写真家としての経験から、写真で真実を伝えるためには「感情に支配されず伝えたいことを冷静に撮り続ける」覚悟が必要であり、その意味では「写真は撮影者の魂も削り取る」ものだと語っています。この点、指揮者のカラヤンが「指揮者とオケが興奮するのは三流、指揮者が冷静でもオケが興奮するのは二流、指揮者もオケも冷静で聴衆が興奮するのが一流」という名言を残していますが、あらゆる表現行為に共通して自らの感情に溺れるような独りよがりの表現( ≠ 独創性)では他者の共感は得られず、冷静に物事を見極める客観的な視点を失わないこと(「離見の見」(世阿弥))で、他者の気持ちを自分のものとして感じること(「見所同見」(世阿弥))ができるようになり、他者の共感を誘うような表現(「伝える」から「伝わる」へ)が可能になるということなのだと思います。映画「利休にたずねよ」で、第11代市川海老蔵(第13代市川団十郎)が演じる千利休が「茶の湯の大事とは、人の心に叶うこと」と茶の湯の道を弟子に諭すシーンがありますが、同じ空間(写真も撮影者が捉えた被写体とそれを見る他者から構成される一種の空間)を共有する他者の共感を誘う極意が一言に凝縮されている非常に含蓄深い教えです。最近、SNS(不特定多数の人と共有するバーチャルな空間)において他者を迫害するような表現が社会問題化していますが、お互いの違いを認め合って他者の共感を誘うように心を砕く大人の思い遣り(思う+遣る=相手の立場に立って考える姿勢=和)のある表現ではなく、お互いの違いを認めない不寛容な態度で他者を一方的に攻撃して服従させようとする心無い表現(一種の暴力)は、決して他者の共感を得られないということを識る賢明さが現代人には求められていると思います。古来、日本文化(神道)は、太陽神である女神「天照大神」を崇拝し、全てのものを調和(包含)することによって秩序を保とうとする母性原理息衝く社会を基調とし、外来文化(宗教を含む)を柔軟に吸収しながら多様な文化を育む懐の広さ(寛容さ)があり、それが強さも生んでいましたが、温故知新、古き良き伝統(祖先の知恵)に学び、現代社会に生じた歪みを正す賢く謙虚な姿勢が求められる時代と言えるかもしれません。このような調和(分かち合い)を重んじる考え方はSDGsの中にも見られますが、近代合理主義的な考え方(支配や独占)を大きく見直さなければならない時期に来ています。因みに、1950年代後半から熊本県水俣市へ移住するまでの間、ユージン・スミスはマンハッタンで暮らし、近所のロフト(屋根裏部屋)に著名なジャズ・ミュージシャンが出入りして、連日連夜、繰り広げられていたジャムセッションを約8年間に亘って録音し、その生き様を写真に収め続けた様子を描いたドキュメンタリー映画「ジャズ・ロフト」が2021年10月15日から公開されます。音楽好きには、こちらも見逃せません。
▼「共感」と「Sympathy」
 
日本語の「共」は、両手で神様へお供え物を捧げることを表す象形文字ですが、同じものを「分かち合う」という語感があります。また、ギリシャ語に由来する英語の接頭辞「Sym(Syn)」は「同じ」という語義を含み、同じものを「分かち合う」という語感があります。
 
【例】
Sympathy(共感)
       =Sym(同じ)+pathy(心)を分かち合う
Symphony(交響曲
       =Sym(同じ)+phony(音)を分かち合う
Synergy(相乗効果)
       =Syn(同じ)+energy(力)を分かち合う
 
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ユージン・スミスは被写体の「瞳に宿る真実」を伝えたいと意気込み、水俣病患者やその家族に貪欲にカメラを向けますが、その真実を伝えたいという表現意欲は、必ずしも、水俣病患者やその家族の共感を誘うものではなく、やがて失意のうちに水俣病患者とその家族の写真を撮ることを断念しかけます。しかし、周囲の人々の励ましなどもあって立ち直り、被写体の真実に触れるためには、被写体に「最大限の配慮と敬意」を持つことが重要であり、被写体に心から受け入れられない限り、被写体の真実を伝えることは難しいことに気付きます。松下幸之助は「人に対する配慮、思いやり、共感がなければ、人を動かすことはできない」と語っていますが、ユージン・スミス水俣病患者やその家族と生活を共にし(分かち合う)、水俣病の真実を伝えるために身の危険に晒されながらも暴力に屈することなく写真を撮り続け、やがてその直向きな姿勢が水俣病患者やその家族に受け入れられる(共感)ようになります。そのような紆余曲折を経て、ユージン・スミスの代表作「入浴する智子と母」(十字架から下ろされたイエス・キリストを抱く聖母マリアが悲嘆に暮れる様子を描写したミケランジェロ作「ピエタ像」を思わせる構図)が撮影され、その写真が伝える(イエス・キリストの受難を思わせる)水俣病患者の過酷な現実と(聖母マリアの汚れ無き御心を思わせる)その悲しみを癒す母の大きな愛が世界の人々(時代を超えて後世の人々を含む)の共感を誘い、それらが切っ掛けとなって世界的に公害問題に対する関心とその根絶に向けた活動を生み、今日のSDGsの取組みへと受け継がれています。小林秀雄が「真の感動は人をして沈黙せしめる」と語っていますが、この写真が持つ被写体の真実に迫る凄みのある表現は、現代人にも数多くのメッセージを語りかけてきます。この映画の公開にあたって、熊本県水俣病問題を後世に伝える意義のある映画として名義後援を決めましたが、水俣市はこの映画が水俣病問題の真実を描いているものなのか分からないという理由で名義後援を拒否しています。その背景には、現在でも水俣市は「加害者と被害者が共存する街」であり、「色んな立場の溝を埋めていこうという取り組みが何十年も続けられてきた」という歴史も踏まえて水俣病問題を多面的に描いて貰いたかったという市民感情への配慮があるものと思われますが、映画(芸術表現)が公害問題を取り扱うことの難しさを物語っています。なお、國村隼が演じるチッソ株式会社の社長は、1人の人間として水俣病患者(チッソ株式会社の従業員及びその家族を含む)が置かれている過酷な現実を理解し、人間らしい葛藤を滲ませる心情が肌理細かく描かれていますが、単純に加害者と被害者という勧善懲悪的な図式で報復感情に訴えるような描き方をするのではなく、公害問題が孕む問題の複雑さを丹念に表現しようとしている真摯な姿勢が伺えます。但し、あくまでも公害問題は人災であり、天災と異なって回避可能なものなので、同じような悲劇を繰り返さないという決意を新たにする意味で、この映画が持つ意義は非常に大きいと思います。この点、ジョニー・デップは「エンタメは多くの人にメッセージを届けるツール」であり、映画は「関心のなかった人にも問題の存在を知らせ、行動を導く」ことができるメディアであるとしたうえで、「この世界に生を受けたのであれば、(その影響力を)最大限に有効活用する必要があると思います。この世界からテイクするだけでなく、ギブもしなければいけない。これまでも誇りを持ってギブできる映画に出てきたつもりです。」と語っています。芸術は、人生の素晴らしさと共に、時代や社会に敷いたげられている人々の無念や次世代へのメッセージなどを伝える非常に重要な社会的意義を担っていますが、その影響力の大きさ故に、様々な政治的意図に利用され、又は意図せずに他者を深く傷付けてしまう虞があり、表現の自由とその自由に伴う責任の重さについて色々と考えさせられます。
 
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ところで、水銀中毒と言えば、中世ヨーロッパでは(水質汚染公害によるものではありませんが)多くの音楽家が水銀中毒又は梅毒により死亡したと言われています。この点、水俣病水質汚染公害により有機水銀メチル水銀)が体内に採り込まれて発症する病気ですが、中世ヨーロッパでは梅毒治療のために無機水銀が軟膏、吸入又は水溶液の薬として使用され、その水銀中毒又は梅毒が原因でモーツァルトシューベルトパガニーニシューマンドニゼッティーやスメタナ等が死亡したとも言われています。これらの音楽家が水銀中毒又は梅毒で早世しなければ、もっと多くの傑作群を後世に残していたのではないかという恨みは残りますが、その一方で、水銀中毒又は梅毒による死の予感が芸術家の感性を研ぎ澄ませ、又は創作活動にインスピレーションを与えるなど、その奔放な生活が芸の肥やしになっていた可能性も完全には否定できませんので、何とも言いようがありません。因みに、コロンブスアメリカ大陸から持ち帰った梅毒は中世ヨーロッパで猛威を振るいますが、その症状の1つとして毛髪が抜けて禿げてしまうことから、それを隠すためのカツラが流行し、やがて宮廷や教会ではカツラ(当時はカーリーなロン毛が流行)を身に着けることがファッション・マナー(コロナ禍でファッション・マスクが流行しているのと同じような現象)になりました。なお、小学校の音楽室に掲示されていたカツラを身に着けたバッハの肖像画を思い浮かべる方も多いと思いますが、バッハは梅毒には罹患しておらず(バッハは白内障の手術の失敗が遠因で死亡したと言われていますが、その手術を執刀した世界的なヤブ医者のジョン・テイラーヘンデル白内障の手術も失敗してヘンデルも死亡させています。)、最先端の流行に乗ってカツラを身に着けていたようです。ついでに、IOCのバッハ会長は洋服の仕立て屋を祖先とする家系で、大バッハの子孫や親類ではないそうですが、大バッハが生きていたのは忠臣蔵の時代のことなので、その時代まで正確に世系を遡ることは難しく、その酷似した骨格等からどこかで血のつながりがあったのではないかと、ついつい歴史ロマンを膨らませてしまいます。
 
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SDGsは、2015年9月に国連サミットで定められた国際目標のことで、「持続可能」な社会の発展を目指すために、「経済」(富や価値を生み出すこと)、「社会」(社会的弱者を含む人権を尊重すること)及び「環境」(環境を守ること)の3要素が調和した世界を作り出すための17のゴール(目標)及び169のターゲット(課題)を設定し、これらを2030年までに達成することを掲げています。これを受けて各国の自治体や企業等が具体的なアクションプランを策定し(例えば、EUでは2035年にガソリン車の販売を禁止(ゴール7)や、水不足に苦しむ地域では地球上の全河川の約8倍以上の水分が含まれる空中の水蒸気をWarkaWaterという給水塔で採取して利用する取組み(ゴール3、6)などが挙げられます。)、コロナ禍で停滞していましたが様々なアイディアや技術を駆使しながら本格的な取組みが始められています。因みに、日本のSDGs達成度は世界18位日本のジェンダー平等達成度(ゴール5)は世界120位と出遅れています。上述の17のゴール(目標)及び169のターゲット(課題)には「芸術」という言葉は使われていませんが、これらの目標や課題をクリアするために「芸術」に期待される役割は非常に大きいのではないかと思われます。この点、別府アルゲリッチ音楽祭総合プロデューサーのピアニスト・伊藤京子が音楽とSDGsについて語っているものが注目されますが、現状、音楽の分野(企業、各種団体、教育機関や音楽家を含む)でSDGsの取組みについて具体的なアクションプランを公表しているところは少なく(例えば、演奏会場で配られる宣伝用チラシ類や包装用ビニール袋(水銀を使用)等の手法、媒体の見直し(ゴール6、14、15)や、フリーランスの芸術家が自由で自律した芸術活動を安心して行えるような待遇改善や身分保障等の環境整備(ゴール8)など、色々な分野で大いに改善・工夫の余地がありそうですが・・)、後述する美術の分野と比べると非常に消極的な印象を否めません。最近までコロナ対策で「不要不急」という近代合理主義の亡霊のような言葉が多用されてきましたが、上述のSymphony(交響曲)の語源からも分かるとおり、芸術は色々なものを分かち合って成り立つ表現行為であるという意味で、アフターコロナの新時代を形作る重要な指標であるSDGsの取組みに極めて有用な意義を持つものではないかと感じます。コロナ禍に「不要不急」の烙印を押されて社会から葬り去られようとしていた芸術が、アフターコロナの新時代を形作るうえで、芸術家ならではのユニークな視点からどのような新しい存在意義を提示できるのか、その真価が問われているような気がします。なお、蛇足ですが、最近、クラシック音楽界がサスティナブルな存在たり得なくなってしまうのではないかという危惧を持っています。クラシック音楽界の保守的な体質は、クラシック音楽(ジャンル)の狭義の定義からは必然的な帰結とも言え、ある程度、仕方がないことは否めませんが、いつまでも200年前の音楽ばかりに埋没しているのではなく、これまで以上に現代を表現するための「現代の音楽」を模索する取組みも求められているのではないかと感じます。少なくとも、その最善解が近代の黎明期を生きたベートーヴェンの音楽であるとは思えませんし、そればかりに頼るのは余りに安易な態度ではないかとも感じます。この点、ジャズ、ロックやポップス等のポピュラー音楽は新しい表現手法(最新の作曲技法を含む)等を柔軟に採り入れながら、新しい音楽表現に果敢にチャレンジし、一定の成功を収めているように感じます。どのような芸術でも「変わらないために変わり続ける」努力を怠れば、いずれ「変わり果ててしまう」ような気がしています。

◉未だ数少ない音楽業界で公表されているSDGsの取組事例

 

【ゴール3】すべての人に健康と福祉を

▶音楽が社会にできることの一つとして、コンサートへ足を運ぶことができない方へ病院や商業施設、銀行、空港、駅等で演奏会を開催(アルゲリッチ芸術振興財団)

▶「BGMのテンポがお店での購買行動に及ぼす影響」「居心地の良いBGMの音量」など音が人に与える影響に関する様々な研究を行い、「免疫力を高める音楽」「仮眠のための音楽」「禁煙を支援する音楽」「女性のPMSを緩和させる音楽」「血行を良くする音楽」「シニアのためのヒーリング音楽」など人々の健やかな暮らしを支える音楽を提供(USEN)

▶0歳児でも入場できるコンサートの開催や託児サービスを設けて育児中でもコンサートへ来場しやすい環境を整備(名古屋フィルハーモニー交響楽団

▶ヘッドホン・イヤホン商品の70%以上で、耳の健康に留意した機能を搭載(ヤマハ

▶次世代のライブビューイングシステムを開発(ヤマハ

【ゴール4】質の高い教育をみんなに

▶学校等訪問コンサート、子供のための無料コンサートなど県内外でピノキオコンサートを開催(アルゲリッチ芸術振興財団)

ハイクオリティなコンテンツを子供に提供し、子供の成長を支援(USEN)

▶小中学校で行う「移動音楽教室」や、各区の小劇場等で行う「なごや子どものための巡回劇場」などを開催(名古屋フィルハーモニー交響楽団

新興国のローカル音楽演奏に必要な機能を備えた電子楽器の拡充(ヤマハ

▶スクールプロジェクト 7カ国100万人に器楽学習の機会を提供(ヤマハ

【ゴール5】ジェンダー平等を実現しよう

▶音楽界は他の分野に比べてジェンダーの平等を実現(アルゲリッチ芸術振興財団)

【ゴール10】人や国の不平等をなくそう

▶人種や宗教等を超えて「音楽」という世界の共通言語を通して交流(アルゲリッチ芸術振興財団)

▶障がいの内容や種別に応じた鑑賞環境の整備、来場者への対応などに配慮した、福祉コンサートを各地で開催(名古屋フィルハーモニー交響楽団

▶世界各国・地域に最適な吹奏楽・オーケストラ普及支援(ヤマハ

【ゴール11】住み続けられるまちづくりを

▶音楽祭を通して教育、国際交流、産業連携、観光等の地域活性化、地方創生に貢献(アルゲリッチ芸術振興財団)

▶音楽の街づくりプロジェクト(おとまち)(ヤマハ

【ゴール16】平和と公正をすべての人に

▶「平和」「国際的な交流」「未来」「寛容と連携」「芸術は孤高のものではなく、人と共にあることが大事だ」という信条を持ち、ピノキオコンサートのおはなしの中でもこのことに触れるなど「人の育成」に注力(アルゲリッチ芸術振興財団)

 
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東京芸術大学では、「I LOVE YOU」プロジェクトを立ち上げて(AI=無機質な進歩というバイアスがかけられた表現が使われていますが、この部分は些かセンチメンタリズムに流されて開発途上にあるAIの可能性を過小評価しているように感じます。)、SDGsをテーマにした企画を学内公募し、その中から選りすぐりの企画を公開しています。先日、その一環として「SDGs✕Arts」展が公開され、その審査員らによるトークイベントが開催されました。「SDGs✕Arts」展には、例えば、水質汚染の原因となる化学染料を使わずに江戸時代の技術を駆使して自然染料のみを使って染め上げた衣類(ゴール6、12,14)や、廃材のガラスをリサイクルして作った美しい食器(ゴール12、15)など、アーティストならではの斬新な発想によってSDGsの課題を克服する提案型の作品が展示されていました。また、海岸に打ち上げられたゴミを使って作ったオブジェ(ゴール6、14)など、自然からのメッセージをどのように受け止めて、それをどのように伝えて行くのかということもアートの重要な役割の1つであるということが表現されており、それを鑑賞する人に気付きを与える効果(問題提起型の作品と対話型の鑑賞による教育的な効果)が期待される示唆に富む展示だったようです。この点、日本の伝統芸能である能楽には、「芭蕉」「西行桜」「藤」「遊行柳」など草木の精霊が登場して成仏するという内容の曲目がありますが、歴史的に、これらの曲は山川草木悉皆成仏という仏教思想を分かり易く伝え、自然を慈しむ心(ゴール13、14、15)を育む教育的な効果を担ってきたのではないかと思われ、もともと日本の伝統芸能が持っている現代性がこの時代だからこそもっと見直されても良いのではないかと感じます。なお、SDGsは、人類が目指すべき「健全な世界」(目標)を想定して、その想定に適合するように課題が整理されていますが、現実の世界は「健全な世界」ばかりではなく「不健全な世界」からも成り立っており、SDGsからとりこぼされている「不健全な世界」の課題を扱うことがアートの役割ではないかという問題提起が行われています。また、霞が関の官僚が考えるSDGsは人間を啓発されて動く「客体」として捉える傾向が顕著ですが、啓発ではなく共感によって動く「主体」としての人間の復権こそがアートの役割ではないかという提言も行われています。この点、SDGsの目標や課題等は人間が認識し難い定性的なものが多く、それらを科学(数字)やアート(ビジュアル)など人間が認識し易いものに置き換えることによりSDGsに対する人々の理解や共感を得られ易くなり、SDGsに対する人々の主体的な取組みを促すという効果も期待できるのではないかと思います。個人的には、SDGsの取組みは、芸術表現の可能性を広げ得るという意味でも、非常に注目しています。
 
 ▼おまけ
映画の中でアコーディオンを演奏する日本人少年の映像が印象的に使われていますが、映画「MINAMATA」の主題曲となっている坂本龍一作曲「Minamata Piano Theme」をアコーディオン奏者(音大生)・橘川宗明アコーディオンで演奏したものがアップされています。音楽家(音大生)なので、きちんと権利処理されているものと信じます。お聴き下さい。
 
作曲家・武満徹は、映画「水俣の図・物語」土本典昭監督/1981年公開)のために、自然環境破壊で死んだ海の再生を願って、『アルトフルートとギターによる「海へⅠ」の第一曲「夜」』を『アルトフルート、ハープ、弦楽合奏による「海へⅡ」の第一曲「夜」』に編曲しています。ライセンスをお持ちの方のようなので、アップしておきます。

 
1984年にレコード・アカデミー賞を受賞した名盤「パガニーニ・パーソナル/一柳慧の宇宙Ⅰ」から一柳慧作曲「パガニーニ・パーソナル~マリンバとピアノのための(1982)」をマリンバ奏者・牧野美沙及びピアニスト・別府由佳の演奏でお聴き下さい。パガニーニ作曲「24のカプリース」の主題を使った変奏曲はリスト、ブラームスラフマニノフ等によっても書かれていますが、一柳慧は現代音楽の書法やマリンバ及びピアノの技法を駆使してパガニーニの主題を大胆に変奏( × 解放)し、まるでジャズのアドリブを聴いているようなスリリングな音楽が展開されます。
 
20世紀のピアノ曲を代表するデュティユー作曲「ピアノソナタ」を(演奏に些細なキズがある部分は残念ですが)ピアニスト・宮庄紗絵子の演奏でお聴き下さい。この曲はコンクールや音楽学校の試験等で演奏される機会が多く、複数の音盤がリリースされている人気曲です。第三楽章のみが演奏される機会も多いですが、個人的には、旋法や調性に依拠することなく物憂げに移ろう第二楽章も大好物です。