大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

国際平和デーに考えるイカの哲学(平和論)とタコの哲学(音楽論)<STOP WAR IN UKRAINE>

▼国際平和デー(ブログの枕①)
今日、9月21日はロシアがウクライナに侵攻を開始してから初めての「国際平和デー」です。ニューヨークの国連本部の前に「国連平和の鐘」という日本の梵鐘が設置されていますが、国際平和デーには国連の事務総長、幹部、各国代表や著名人などが出席して平和を祈念した鐘撞式が行われ、世界中の停戦と非暴力の日として全ての人々に敵対行為を停止するように働きかけています。前回のブログ記事で触れましたが、日本の梵鐘の音が正しく国際平和を象徴するサウンドロゴになっています。なお、国連平和の鐘は、未だ日本が国連への加盟を認められていなかった1954年に第二次世界大戦でビルマ戦線に従軍した経験から平和運動に身を捧げた日本国連協会評議員・中川千代治が「平和への願いを込めて、世界の人々のコインで平和の鐘を造りたい」と世界に訴え、その訴えに賛同したローマ法王、世界60か国以上の国々や子供達などから寄せられたコインを使って鋳造し、「世界絶対平和萬歳」と鋳込んだ日本の梵鐘を国連本部に寄贈したものです。人類の歴史は戦争の歴史と言い替えることも可能ですが、第二次世界大戦後の人類の最も偉大な発明は「平和」だとも言われています。しかし、現実には、第二次世界大戦後の半世紀の間で150以上もの地域紛争が勃発しており、第三次世界大戦を誘発し兼ねないウクライナ侵攻も深刻化しています。第二次世界大戦後の地域紛争は、多少の時代の先後関係はありますが、大まかなトレンドとして分類すれば、冷戦(1945~1989年)として、①第二次世界大戦の戦争国による資本主義(西側陣営)と社会主義(東側陣営)の対立による代理戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争等)、ポスト冷戦(1990年~)として、②社会主義(東側陣営)の敗北及び崩壊により生じた内戦による地域紛争(ユーゴスラビア紛争、ソマリア紛争、東ティモール紛争等)、そして、③イスラム原理主義(第三極)のアメリカニズムへの反発による地域紛争等(湾岸戦争、9.11同時多発テロ等)、④共産主義及び権威主義(東側陣営)のアメリカ二ズムへの反発による地域紛争(ウクライナ紛争、台湾問題?)等が勃発していますが、上記③及び④の動きと併せて共産主義及び権威主義(東側陣営)並びにイスラム原理主義(第三極)は多極的な世界秩序(ポスト・アメリカニズム)を掲げているのに対し、アメリカは自由主義及び民主主義(西側陣営)の価値観を守るために西側陣営の結束を呼び掛けています。このような第二次世界大戦後の各地域紛争は、対人地雷や生物化学兵器の使用、ジェノサイド及び民間人への攻撃などの戦争犯罪(国際軍事裁判所憲章第6条で定める侵略戦争、戦争法規違反、非人道的行為など)や大量の難民・避難民の発生等の人道問題を惹起していると共に、グローバリズムを背景として発展途上国の食料不足、エネルギー価格の高騰、サプライチェーンの機能不全、環境破壊等の国際問題も惹起しており、国際秩序(平和)の回復や維持の模索が続けられています。昔、文化人類学者・中沢新一が波多野一郎著「イカの哲学」を題材として平和論を論じた同名の書籍を読んだのを思い出しましたので、その要旨を簡単にご紹介しておきたいと思います。
 
 
▼イカの哲学(平和論)(ブログの枕②)
上述の書籍「イカの哲学」では、人間の生命原理によって戦争が生み出されることが哲学的に考察されています。即ち、その生命原理とは、人間が個体としてのアイデンティティを意識するために周囲の環境から分離した個体であろうとする本能(平常態)が働いている一方で、生殖や狩猟に象徴されるように平常態を離れて周囲の環境と連結し、それを個体に採り込もうとする本能(エロティシズム態)も働いており、それが周囲の環境と結合する目的に応じて宗教、芸術や戦争等を生み出すと共に、戦争の場面では敵の中に自分と同じ人間としての「実在」を発見して平和を回復、維持しようとする一見矛盾した本能も同時に働いていると帰結しています。しかし、近現代の戦争(戦車による機械戦及び核兵器、生物科学兵器、高性能爆撃機、中長距離ミサイルやドローン等の新兵器の開発など)では、敵の中に自分と同じ人間としての「実在」を発見する契機(エロティシズム態)が失われ、大量破壊兵器の使用やジェノサイドなど「戦争」の限界を超えた「超戦争」が行われるようになったという問題意識を示しています。これは海洋を回遊するイカの群れに漁網を投じて一網打尽にする機械化された近代漁法も同様であり、魚を1つの生物の「実存」として捉えるのではなく資本主義経済と結び付いた海洋資源(収穫量)として捉えて乱獲するなど「狩猟」の限界を超えた「超狩猟」が行われるようになった結果、海洋資源枯渇の問題を惹起していると警鐘を鳴らしています。上述のとおり近現代の戦争では敵の中に自分と同じ人間としての「実在」を発見するエロティシズム態によって超戦争を食い止めることを期待するのは難しいので、人間が自らのコミュニティーの利益のみを優先するヒューマニズム(人間中心主義)の視点(ego-self)を超越し、エコロジー(自然尊重主義)の視点(eco-self)から全ての生物を含む自然の「実存」を発見するという自然への共感力を取り戻すことにより現代人のエロティシズム態の感度を上げて「超戦争」を抑止する「超平和」を生み出す取組みが必要ではないかと提唱しています。非常に哲学的な考察ですが、実際にはこれを理解し又は実戦できる賢い人間は少ないと思いますので、人間の本性を踏まえた科学的かつ実践的な平和学の研究が待たれます。
 
▼中沢新一の「イカの哲学」(ヒューマニズムからエコロジーへ)
原理 平常態(連続性) エロティシズム態(非連続性)
近代 平和 平和 戦争
現代 超平和 超戦争
 
現在、戦争やそれ以外の暴力を根絶して長期的な平和を確立するための方法を科学的に研究する平和学という学問分野が注目を集めています。平和学は、冷戦後の1950年代から本格的に研究されるようになり、1968年に開催された第2回国際平和研究学会(1989年にユネスコ国際平和教育賞を受賞)でインド人の平和学者であるスガタ・ダスグプタが「南の世界は戦争がないからと言って決して平和とは言えない。戦争がなくても大量の死者が出ている。」と問題提起すると共に、平和の反対概念は戦争ではなく戦争を含む非平和(ピースレスネス)であると提唱し、戦争以外の原因で死者を出さないようにするための研究も平和学の課題であるとして平和の概念の拡張を試みています。これに影響を受けたノルウェー人の平和学者であるヨハン・ガルトゥングは、論文「暴力、平和、平和研究」(1969年)及び論文「文化的暴力」(1990年)で「2つの平和」とこれらを乱す「3つの暴力」という概念を提唱して、現在の平和学の基礎を築きました。即ち、2つの平和として、直接的暴力がない状態としての「消極的平和」と構造的暴力がない状態としての「積極的平和」を定義し、これらを乱す3つの暴力として、紛争、虐殺、家庭内暴力等の直接的な暴力としての「直接的暴力」、差別、疎外、経済搾取、飢餓、貧困、環境問題等の社会構造に組み込まれている暴力としての「構造的暴力」、他者への不寛容、偏見、憎悪、無関心等により構造的暴力を正当化し、これを助長する暴力としての「文化的暴力」に分類したうえで、2つの平和の実現を阻害する3つの暴力を生み出す要因を科学的に分析し、これらの要因を取り除き又はそれらの要因を生み出さないための平和学の実践が活発になっています。この点、現在、新型コロナウィルス・ワクチンやその治療薬の南北格差が国際問題になっており、WHO及び日本を含む西側諸国がワクチン格差の解消に向けた取組みを行って2022年9月末日までに各発展途上国の全人口の約70%(集団免疫を獲得する目安)までワクチン接種を完了する計画になっていますが、実際にはその半分も進捗していない厳しい状況です。また、先日、発展途上国の一部が新型コロナワクチンの治療薬に関する知的財産の自由な使用を先進国に要望していましたが、大手製薬メーカーを抱えるヨーロッパ諸国の反対で見送られることになり、世界各国の利害や思惑などを背景として3つの暴力を生み出す要因を排除するための現実的な解決策を見い出すことは決して容易ではないことが窺がえます。このような現代的な諸問題に対して現代人の関心を向けるために芸術家に期待されている社会的な役割は大きいと感じますが、そこで求められている芸術的な表現は、例えば、ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調「合唱付き」のようなヒューマニズム(市民社会の理想)を高らかに謳い上げる近代以前(第一次世界大戦まで)の芸術遺産ではなく、現代に生きる芸術家が創作する現代の時代性を表現するための芸術作品であると感じます。上述の書籍「イカの哲学」にも述べられているとおり、超平和の実現はヒューマニズム(人間中心主義)のような脆弱な思想では解決できない難問であり、最新の科学的な知見を踏まえた大きな視点(イカの哲学の視点)で時代を捉え直し、平和学の研究とその成果に基づく重層な国際的取組みが必要ではないかと思います。
 
▼三枝成彰のピアノ協奏曲「イカの哲学」(2008年)
 
▼タコの哲学(音楽論)
①音楽とは?
あまり気乗りしませんが、書籍「演奏家が語る音楽の哲学」を読んでみましたので、ごく簡単に雑感を残しておきたいと思います。なお、この書名にある「音楽」について『筆者は「それが一聴して音楽と認識できないものを音楽とは認めない」という立場である。』と書かれていますが、現在、「音楽」の不変項と呼べるようなものは解明されていませんので、この筆者の認知能力(人間の認知の基本的な仕組みは前回のブログ記事を参照)の範囲で「音楽」と認知できるものを示しているとしか言いようがありません。よって、この書籍が何を対象にして書かれているものなのかこの筆者にしか明確なことは分かりませんが、この書籍の文脈から「推測」できる範囲(即ち、主にクラシック音楽の一部をイメージしていると推測されますのでその仮定)で雑感を残したいと思います。なお、『ノイズミュージックや音響派、偶然性の音楽というジャンルがあることは否定はしない。でも、わざわざ言葉でそう宣言しなければ音楽とは認識されない音響を「音楽」と呼んでよいのかどうか、ははなはだ疑問ではある。「解説や注釈、説明なしにそれが音楽と感じられるもの・・・」それだけを音楽とよびならわしたい、というのが筆者の立場だ。』と書かれていますが、人間は新しい知覚(体験)や新しい記憶(学習)によってしか認知(世界)を広げることはできず、歴史的にも、聴衆が認知能力を向上する過程で徐々に受容されるようになったクラシック音楽は少なくありません。この点、聴衆がこれまでに体験や学習をしたことがない全く新しいものを認知できるようになるためには「解説や注釈、説明」は極めて有効な手段であり、(あくまでも個人の嗜好の問題であるとしても)これに耳を貸すことなく、この著者の認知能力の及ばないものは「音楽」とは認めないという態度は些か狭量であるという印象を否めず、また、音楽教育に携わる方として些か配慮にも欠けるのではないかと残念に感じます。
 
②本質的な問題とは?
先ず、プロローグとして、『近ごろの音楽界に感動が足りないのは、真の芸術たり得る新たな響きが生み出されていないからなのか。そんなことはない。話は逆だ。「それについて知っている」という消費者としての立ち位置が、わたしたち自身の耳を曇らせているからだ。「私は私が欲しているか、自分のことを知っている」という己に対する傲慢が自身の感覚を鈍らせている。つまり自らニーズを生み出すことによって、かえってわたしたちは未知なる世界への扉を閉ざしている、とはいえまいか。』と書かれていますが、クラシック音楽界が抱えている問題の本質はもっと別のところにあるのではないかと思います。改めて詳しくは書きませんが、過去のブログ記事でも触れたとおり、「それについて知っている」か否かという点が問題の本質なのではなく、現代は、クラシック音楽が表現し又はその表現の前提としてきた価値観、自然観及び世界観等に対する各分野からの異議申立が行われ、それらの価値観、自然観及び世界観等に対する修正が求められている時代であり、現代人の知性を前提とすると、クラシック音楽が現代人の教養(学問、知識、経験や芸術受容等を通して養われる心の豊かさ)を育むことは難しくなっているという点にあるのではないかと思います。また、『「知っている」という思い上がりに、芸術が感動の扉を開くことなどあろうはずがない。どうやら不足しているのは、音楽に対してへりくだる柔らかなこころらしい。』と書かれていますが、前回のブログ記事でも触れたとおり、昨年逝去されたサウンドスケープの提唱者・M.シェーファーは歴史上の作曲家の前にひれ伏すような音楽教育では駄目だという考え方をお持ちだったようであり、正しく慧眼だと思います。この変革の時代にあって既成の概念や価値観等を盲目的に受け入れるのではなく既成の概念や価値観等に懐疑的な眼差しを向けて「音楽」とは何なのかを根源的に問い直す「柔らかなこころ」が必要なのではないかと思います。この点、現代の演奏家に最も期待したいことは、未だ評価が定まっていない現代に生きる作曲家が創作した音楽(クラシック音楽の伝統的なアプローチが通用しない新しい音楽を含む)の中から新しい価値を見い出し、その魅力を聴衆に伝えることだと考えています。近年、ヒラリー・ハーンやギンドン・クレーメルなど当代一流の演奏家達は現代に生きる作曲家が創作した音楽の中から新しい価値を見い出した作品を実演又は録音で積極的に採り上げて、その魅力を聴衆に伝えることに成功している点で大きな功績を挙げている偉大な芸術家であると思いますが(新しいものを受容するに足りる教養力を備えた認知能力の高い聴衆が少ないことは自省するとしても、その一方で、これらの実演又は録音に対する聴衆の関心や評判が決して低くないことも事実だと思います。)、現状、このような活動に取り組める真の実力を備えた演奏家の数は非常に少ない印象を否めず(今後もシリーズ「現代を聴く」等で、可能な限り、現代に生きる作曲家と共に、そのような活動を行っている演奏家を紹介して行きたいと考えています。)、そのような実力を備えた演奏家の増加とその活躍に期待したいと思います。タコは海底の岩場等に住拠を定めて身を隠して生活し、イカは住拠を定めずに群れを作って広い海原を回遊しながら生活していますが、狭い「クラシック音楽」という伝統の壺に閉じ籠っているばかりではなく、その伝統の殻を破って(型無しではなく型破り)、未来に開かれた広い世界を回遊しながら「音楽」を捉え直してみることが必要な時代ではないかと感じています。
 
③タコからイカへの解凍?
次に、第3章において、『クラシック音楽において、個性の主張や、己が感情の発露などという低次元の表現は何の意味もなさない。その意味がどのように演奏されたがっているのか、楽譜に記された音符から読み解くことだけが奏者に課された責務である。』と書かれていますが、このような楽譜至上主義がクラシック音楽の限界を画してしまっているように感じます。過去の偉大な作曲家が残した楽譜を神聖視し、作曲家の意図を汲み取ってそれを忠実に再現するという1つの演奏習慣を前提にする考え方だと思いますが、上述のとおりクラシック音楽が表現し又はその表現の前提としてきた価値観、自然観及び世界観等の劣化、乖離、矛盾や破綻が認識される時代になっているなか、音楽や演奏の捉え方が些か狭過ぎる印象を否めません。さながら冷凍食品を巧みに解凍することが演奏家の使命であり、その解凍名人を決めるのがコンクールであると言われてしまっているようで、僅かな解凍の妙味(解釈の違い)を競うことでしか独自性を発揮する余地がない鮮度の低い食品という印象しか受けません。しかし、知る限り、バッハ、モーツァルト、ショパン、パガニーニ、リストなど過去の偉大な芸術家の自筆譜や評伝等を見ると、その演奏又はその時代の演奏習慣は楽譜に雁字搦めに縛られたものではなく、時々の感興に乗じた血の通ったものであったことが窺い知れ、仮に彼らが現代に生きていれば果たして現存する楽譜とおりの演奏を行うのであろうかという疑問も生じてきます。この点、現代作曲家は、近代以降に確立した作曲家と演奏家の分離を前提とした演奏習慣( ≠ 伝統)から音楽を解放して音楽の表現可能性を模索すべく図形楽譜や偶然性の音楽などを考案し、音楽へ瑞々しい生命力を吹き込もうと試みています。過去のブログ記事でも紹介したとおり、書籍「音大崩壊」では若い世代(だけではないと思いますが)のクラシック音楽離れが加速し、ジャズ、ロック、ポップス、ミュージカルやダンスミュージック等へと関心が移り変わっている実態が紹介されていますが、この背景には演奏家が持つ能力や意欲等を顧みることなく冷凍食品の解凍作業へと矮小化してしまった現代のクラシック音楽の在り方にも原因があるのではないかと感じています。後述する副作用の洗礼を受けていない昔の演奏家による演奏は瞑目して聴いていると、その音色や語り口など誰の演奏かはっきりと認識できる個性的な魅力に溢れるものですが、現代の演奏家による多くの演奏は瞑目して聴いていると誰の演奏か分からない没個性的なものが目立つ印象を否めません。この背景には近代合理主義の申し子と言えるシステム化された音楽教育(大学教育の弊害)や毎年同じような審査員が顔を並べてコンクール弾きと揶揄される均質化・標準化された演奏を生み出し易いコンクール(コンクールの弊害)の副作用があるのではないかと感じています。さながらどこの地方都市へ行っても見慣れたフランチャイズ店で埋め尽くされ、そこに些細な違いしか見い出せない地域性が希薄で味気ない街並みを見ているような印象とでも言えましょうか。上記の書籍「音大崩壊」で権威主義的なクラシック信仰が音大崩壊の原因の1つになっている問題について触れられていますが、あたかもクラシック音楽は時代を超越する普遍性を備えた特別な音楽であって、それは現実社会(流行や常識を含む)とは隔絶された絶対的な価値観と呼ぶべきようなものを表現する揺るぎないものであるかのようなセンティメンタリズムに彩られた根拠薄弱な発言を耳にすることがあります。しかし、上述のとおり、ヨーロッパ社会で長らく普遍的な真理(美意識等を含む)として信奉されてきたキリスト教的な価値観やヒューマニズム(人間中心主義)などがその根底から揺らいでいる時代にあって、それらの価値観を表現し又はその表現の前提としてきたクラシック音楽も例外とは言えず、権威主義的なクラシック信仰という伝統の呪縛(上述の演奏習慣を含む)に囚われて音楽又は音大の可能性を過去に封印して劣化させてしまうのは本当に勿体ないことだと感じます。最後に、『鍛錬された技術のうえに成り立つ作品あるいはパフォーマンスと、発想や考え方に重点をおく作品(もしくはパフォーマンス)の差なのだろう。前者が芸術と呼ばれ、後者がアートと称されている。』と書かれていますが、僕の理解では、既成概念に収まるものを「芸術」と言い、既成概念に収まらないものを「アート」と言って区別していると捉える方が適当ではないかと考えており、それが「芸術」に比べて「アート」の方が注目されている所以ではないかと考えます。「芸術」も「アート」も鍛錬された技能は同じように必要(=必要条件)であり、鍛錬された技能だけが求められている訳ではない点( ≠ 十分条件)でも同じだと思いますので、この観点での区別はあまり有効ではないと思います。
 
E.サティーの「スポーツと気晴らし」より第11曲「タコ」(1914年)
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.7
シリーズ「現代を聴く」では、1980年代以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼フランシスコ・コルのハープシコード協奏曲(2016年)
スペイン人の現代作曲家のフランシスコ・コル(1985年~)は、トーマス・アデスの一番弟子ですが、国際クラシック音楽賞(ICMA)の作曲賞(2019年)及びオーケストラ賞(2022年)を受賞している期待の俊英です。非常に独創的でありながら構成力のある魅力溢れる曲が多く、現在、ヨーロッパで最も注目されている若手の現代作曲家の1人です。 
 
▼ガブリエラ・スミスの弦楽四重奏曲「キャロット・レボリューション」(2015年)
アメリカ人の現代作曲家のガルリエラ・スミス(1991年~)は、BMI学生作曲家賞(2018年)ASCAPレオ・カプラン賞(2014年)やその他数々の作曲賞を受賞するなど将来を嘱望される若手の現代作曲家です。この弦楽四重奏曲は、芸術の鑑賞等を促進する取組みを行っているバーンズ財団の委嘱によってアイズリ・カルテットのために書かれた曲です。
 
▼桑原ゆうの弦楽四重奏のための「逢魔が時の暗まぎれ」(2014年)
日本人の現代作曲家の桑原ゆう(1984年)は、第31回芥川也寸志サントリー作曲賞(2021年)や数々の国際コンクールでの受賞歴等があり、拙ブログで紹介するまでもなく既に知名度が高く各方面で活躍している現代作曲家です。逢魔が時は夜の帳が下りて魔物と出逢う時刻と言われていましたが、その精神世界をイメージ豊かに表現している面白い作品です。