大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

演奏会「バロックチェロ✕モダンチェロ~2台のチェロによる独奏演奏会~」と聴覚<STOP WAR IN UKRAINE>

文化の日とレコードの日(ブログの枕の前編)
今日は「文化の日」です。もともと11月3日は明治天皇の誕生日で祝日とされていましたが、1946年11月3日に日本国憲法が公布されたことを記念して1948年に「自由と平和を愛し、文化をすすめる」という趣旨で「文化の日」に改められ、文化勲章の授与式のほか美術館や博物館等の入場料が割引になるなどのイヴェントが開催されています。また。日本レコード協会が「文化の日」を記念して1957年に11月3日を「レコードの日」と定めて、レコード・CD店がセールやイベントなどを開催しています。レコードの売上高は1980年に約1812億円でピークを迎えた後、CDやネット配信に押されて2010年には約1.7億円まで落ち込みましたが、最近、デジタル世代の若年層にレコードを再評価する傾向が見られ、2020年に約21億円、2021年に約23億円まで売上げを回復しています。このようなトレンドはアメリカでも見られ、2020年にレコードの売上高がCDの売上高を上回り、2021年もその傾向に拍車が掛っているなど、レコードの復権は世界的な潮流になっています。このような状況を受けて、昨年9月に渋谷店にレコード専門店が開店していますが、この背景として、デジタル世代の若年層に①ネット配信のように形のないもの(バーチャル)ではなく、レコードやジャケットのように手に取って見て楽しむことができる形のあるもの(リアル)が再評価されていること、②CDやネット配信のデジタル音源ではなく、レコードのアナログ音源の音質が再評価されていること、③CDやネット配信のワンクリック再生ではなく、レコード盤やレコード針の手入れなどを含めて手間暇を掛けて良い音を造る参加型の音楽受容が再評価されていることなどが指摘されています。この点、デジタル世代の若年層は「ショート動画」(30秒から1分程度の短い動画)を好み、「ファスト映画」(映画の内容を10分程度にサマライズしたもので違法)を持て囃すなど、「効率性」や「機能性」を追及して長時間の身体的拘束を強いる芸術鑑賞を敬遠し(但し、マンガ等とのメディアミックスで人気を博している「2.5次元」と言われるジャンルを除く)、「非効率性」や「無駄の蓄積」に楽しみを感じない世代と言われていますが、その一方で、「結果」を急ぐのではなく「プロセス」を楽しむ様式の文化に価値を見い出し、視覚、聴覚や触覚等を駆使した多感覚な芸術鑑賞を行う豊かな感受性を持つ若年層が生まれていることがレコードの復権につながっているものと考えられます。
 
①レコード発祥地の碑(神奈川県川崎市川崎区旭町1-16
港町十三番地の碑(港町駅)(神奈川県川崎市川崎区港町1-1
③耳守神社(茨城県小美玉市栗又四ケ2051
④竹筒の絵馬(耳守神社)(茨城県小美玉市栗又四ケ2051
レコード発祥地の碑現在、京浜急行港町駅」の北側一帯は、1909年から2007年まで日米蓄音機製造(日本コロンビアの前身)の川崎工場があり、日本初のレコード、蓄音機、CD等が製造されました。現在は高層マンションが建てられています。 港町十三番地の歌碑(港町駅京浜急行港町駅」の構内には美空ひばりの歌謡曲港町十三番地」の歌碑がありますが、日本コロンビアの川崎工場があった場所を歌っています。当初は演歌や歌謡曲が中心でしたが、やがて幅広い音楽を手掛けました。 耳守神社/全国でも珍しい耳にご利益がある神社です。平将門の甥・平兼忠の娘・千代姫には聴覚障害がありましたが、熊野の神々のご利益により奇跡的に快癒します。人々の耳を守りたいという千代姫の遺言で、千代姫を祀る耳守神社が建立されました。 竹筒の絵馬(耳守神社)/耳守神社の絵馬は非常に変わっており、短く切った竹筒に願い事を書き留めて、その竹筒の両端に紐を通して社殿に吊り下げるというものです。竹筒の両端に紐を通すのは「耳の通りが良くなる」という願いも込められています。
 
▼音と聴覚(ブログの枕の後編)
前回のブログ記事で触れたましたが、人間が外界の情報を得る知覚の割合は視覚83%、聴覚11%、その他6%で圧倒的に視覚から得られる情報の割合が多く、「百聞は一見に如かず」という諺に示されているとおり、人間の知覚は視覚から得られる情報に頼っていると言えます。しかし、人間同士のコミュニケーションの場面では言葉7%、口調38%、表情55%(即ち、視覚約60%、聴覚約40%)と言われ、聴覚から得られる情報に頼る割合が大幅に増えていることが分かります(メラビアンの法則)。これは文化的な背景によっても違いが生まれ、複数の文化圏の人々と接する機会が多い多民族国家に住むアメリカ人は「表情」(視覚)から得られる情報に頼る割合が大きい一方で、少数の文化圏の人々としか接する機会がない少民族国家に住む日本人は「口調」(聴覚)から得られる情報に頼る割合が大きいと言われており(日本人の表情が乏しいと言われる理由の1つ)、アメリカ人が表情を隠してしまうマスクに抵抗感が強い理由の1つと考えられます。前回のブログ記事で視覚や嗅覚の基本的な仕組みに触れ、物質に色や匂いが付いている訳ではなく(客観的な世界)、人間の目や鼻で受容した「感覚」(目は光、鼻は分子)を電気信号に変換し、それを神経を介して脳に伝達することによって脳が創り出す「知覚」が色や匂いの正体であると言及しましたが(主観的な世界)、音も同様でして、空間に音が存在している訳ではなく(客観的な世界)、人間の耳で受容した「感覚」(耳は空気を伝わる振動や圧力等)を電気信号に変換し、それを神経を介して脳に伝達することによって脳が創り出す「知覚」が音の正体です(主観的な世界)。この点、耳鳴りは外界からの刺激がないのに他人に聞こえない音が聞こえる現象ですが、過去のブログ記事でも触れたとおり、これは難聴等を原因として外界の情報が脳に伝達され難くなる状況が生じると、その不足を脳が補おうとして電気信号を増幅することによって生じる音(脳の知覚)であると考えられており、脳が創り出す「知覚」が音の正体であることを示している1例と言えます。因みに、スメタナは耳鳴りが酷く、弦楽四重奏曲「わが生涯より」でスメタナを悩ます耳鳴りを表現しています(以下の囲み記事)。このように、音は、空気を伝わる振動や圧力等として客観的な世界に存在し、それが聴覚器官を介して脳に伝達、知覚されることによって音として主観的な世界に創出されるものであり、人によって聴覚器官の遺伝子が少しづつ異なっていることから、色や匂いと同様に音の感じ方にも微妙な差が生れます。
 
▼耳鳴りの音楽
スメタナは梅毒を罹患して両耳に高度の難聴を発症しており耳鳴りが酷かったと言われていますが、弦楽四重奏曲「わが生涯より」第四楽章の第一ヴァイオリンが奏でる高音の持続音(動画27分40秒~)はスメタナの耳鳴りを表現したものと言われています。
 
さて、音は「Hz」(音の高低/空気を伝わる振動の速さと音の高さが比例)、「dB」(音の大小/空気を伝わる圧力の大きさと音の大きさが比例)及び「音色」(音の特色/空気を伝わる振動のパターンと音の特色が関係)で構成されていますが、例えば、ヘリウムガスを吸って声を出すと倍速再生をしたときのような甲高い声(ヘリウムボイス)が発生するのは、ヘリウムガスの振動が空気の振動に比べて約3倍の速さで伝わるためです。因みに、日本とポーランドの音大生を比較したところ、日本の音大生の約90%が早期の音楽教育を受け、そのうちの約30%の人が絶対音感(基準音を与えられずに音高が分かる能力)を備えているそうですが、ポーランドの音大生は約70%しか早期の音楽教育を受けておらず、そのうちの約7%の人しか絶対音感を備えていないそうです。この点、絶対音感は遺伝的な要因と早期の音楽教育によって備わる能力と考えられていますが、相対音感(基準音を与えられると、その基準音との関係で正確に音程を捉えることができる能力)は年齢に関係なく誰でも訓練により備わる能力と考えてられており、演奏家にとっては、どんなピッチで演奏しても混乱なく正確に音程を捉えることができるという意味で絶対音感よりも重要な能力(「絶対音感相対音感」>「相対音感」>「絶対音感」)と言えるかもしれません。人間の可聴音域は20Hz~20,000Hzの間と言われていますが、犬の可聴音域は65Hz~50,000Hzの間、猫の可聴音域は60Hz~100,000Hzの間なので、人間以外の動物には人間の可聴音域以外の音(20Hzを下回る低周波音や20,000Hzを超える超音波)を聞く能力が備わっています。この差を利用してイノシシ、シカやネズミ等の野生動物やハエ、蚊やゴキブリ等の害虫を超音波で追い払う商品が注目を集めていますが、カラスやスズメ等の野鳥の可聴音域は300Hz~8000Hzの間と人間の可聴音域よりも狭く超音波で追い払うことができないので、昔から人間の可聴音域の音(おどし鉄砲など)が利用されています。人間の聴覚の仕組みは、空気を伝わる振動や圧力等が「外耳の鼓膜」に到達して鼓膜を振動させ、その鼓膜に付いている「中耳の耳小骨」に振動が伝わって振動や圧力等が増強され(外耳から中耳までが伝音器官)、それが「内耳のリンパ液」を振動させることで「内耳の感覚毛(有毛細胞)」が揺らされて電気信号を発生し(気体→物体→液体→物体→電気)、それが神経を介して脳へ伝達されて音として知覚されます(内耳から脳までが感音器官)。難聴は、伝音器官の障害により生じる難聴、感音器官の障害により生じる難聴、その双方の障害により生じる難聴の3種類に大別されますが、ベートーベンは伝音器官の障害(耳小骨の振動伝達が悪くなる耳硬化症)のために48歳頃からは筆談でコミュニケーションを取らなければならない聾の状態で、演奏会の拍手の音も聞こえなかったと言われています。但し、ベートーヴェンは振動で音を感じることはできたようなので、感音器官は正常であったと考えられています。なお、ジェット機のエンジン音など100dB以上の音に晒され続けると感音器官の障害(感覚毛(有毛細胞)の損傷など)による騒音性難聴を発症する危険性が高いと言われていますが、オーケストラの管楽器の近くもジェット機のエンジン音と同じくらいの音の大きさになるので、フレンチホルン奏者の約1~2割に騒音性難聴の傾向があると言われています。また、電車内の騒音は約70dBくらいと言われていますが、イヤホンを使って70dBを上回る音量で音楽を聴き続けていると騒音性難聴を発症する危険性があることが指摘されており、パソコンやスマホを原因とする視力低下も同様ですが、電気によって生成又は増幅された光や音は人間の視覚や聴覚の受容能力を超えて有害になる虞があります。上述のとおり脳が創り出す「知覚」が音の正体ですが、視覚の補完機能(三角形があるように見える)と同じく聴覚にも補完機能が働くことが分かっており、脳の「認知」によって創り出される音も存在します。例えば、音楽や言葉の合間に短い雑音を入れて音楽や言葉を聞こえないようにすると、脳は過去の記憶から雑音により聞こえない音楽や言葉を推測して補い、途切れない連続する音楽や言葉として「認知」します(連続効効果現象)。しかし、音楽や言葉の合間に無音を入れて音楽や言葉を聞こえないようにすると、脳は過去の記憶から無音により聞こえない部分に音楽や言葉は存在しないと推測し、途切れた不連続の音楽や言葉として「認知」します。このような聴覚の補完機能は、音の横関係だけではなく音の縦関係にも働き、例えば、1つの音を構成する周波数のうち、基本音の周波数(音を構成している複数の周波数のうちの一番低い基本の周波数)が欠落していても、脳は過去の記憶からその倍音の周波数(音を構成している基本音の周波数と整数倍の関係にある周波数)を手掛りに基本音の周波数を推測して補い、基本音の周波数(ピッチ)を「認知」します(ミッシング・ファンダメンタル現象)。このように脳は「知覚」(現在の情報)と「記憶」(過去の情報)から音の関係性等を推測して音脈を「認知」(未来又は未知の予測)するように出来ており、その反作用として、基本音の周波数の差が大きいと脳が過去の記憶から別の音脈であると「認知」します(音脈分凝)。例えば、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」第四楽章の冒頭部分では旋律声部の最初の音符を第二ヴァイオリンが奏で次の音符を第一ヴァイオリンが奏でるという具合に旋律声部を交互に奏でますが、基本音の周波数の差が小さいので第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが1つの旋律を奏でていると認知する一方で(以下の囲み記事)、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番の重音奏法では1挺のヴァイオリンが奏でますが、基本音の周波数の差が大きいので別々の旋律を奏でるものと認知します。
 
うつ病の音楽
チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」第四楽章の冒頭部分では旋律声部の最初の音符を第二ヴァイオリンが奏で次の音符を第一ヴァイオリンが奏でるという具合に旋律声部を交互に奏でるパートがありますが、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが向かい合う対抗配置で演奏しても、空間的な関係性を優先して第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが別々の旋律を奏でていると認知するのではなく、基本音の周波数の近接性を優先して第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが1つの旋律を奏でていると認知します。その意味で、チャイコフスキーは、このパートでステレオ効果を狙ったというよりも、旋律声部を第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンに交互に演奏させることで、レガートのように滑らかに演奏されることを避けてテヌート風の重さのある演奏効果を企図し、メランコリックな情趣を醸し出したかったのではないかと推測します。
 
人間が聴覚で音を受容してから脳で知覚されるまでに100ミリ秒を要すると言われていますが、これはサルの50ミリ秒、チンパンジーの60ミリ秒と比べると非常に遅く、脳が大きくなるほど感覚情報の処理速度は遅くなる傾向があり、これは視覚などの他の感覚器官でも同様です。この点、オーケストラなどのアンサンブルで周囲の音をよく聴き、周囲の動きをよく見ることが重要であると言われますが、音が1mの距離を進むのに3ミリ秒を要すること(光は音の約88万倍の速度)を考えると、その音が脳で知覚されるまでに30m以上の距離を進んでいる計算になり、人間が周囲の音をよく聴き、周囲の動きをよく見てアンサンブルすると、物理的な時間基準(客観的な世界)では、その音のタイミングは大きくズレていることになります。しかし、人間の脳は、その音のタイミングのズレを補正してアンサンブルが合っているように知覚すると共に、光(視覚)よりも音(聴覚)が到達する時間の遅れを補正して光(視覚)と音(聴覚)の感覚情報を統合(同期)して知覚しいます(主観的な世界)。おそらくサルやチンパンジーが人間のアンサンブルを聴いても合っていないと感じるかもしれません。この点、「ガ」と発音している映像(視覚)に「バ」という音声(聴覚)を合わせて視聴させると「ダ」に聞こえ、同じものを目を閉じて聴かせると「バ」に聞こえるという現象(マガーク効果)があることが報告されており、脳が光(視覚)と音(聴覚)の感覚情報を統合(整合)して知覚していることを示しています。この点、視覚は精度の高い空間情報を把握することを得手にしており、聴覚は精度の高い時間情報を把握することを得手にしていると言われているように、それぞれの感覚器官には得手又は不得手があり、脳はそれぞれの感覚器官が得手とする情報を状況に応じて適切に統合(選択、同期、整合等)して人間が知覚している世界(環世界)を創り出し、それらの感覚器官がもたらす情報の一貫性によって脳がリアリティ(統合された外界の認知)を生み出していると考えられています。よって、VR技術は、視覚だけではなく聴覚、触覚、嗅覚や味覚などの五感に対して同時に働き掛ける仕掛けを設けなければ、人間の脳を完全に騙すバーチャル・リアリティを創出することは難しいかもしれません。前回のブログ記事でも触れましたが、既成の価値観、自然観や世界観を揺るがし、現代人の教養(学問、知識、経験や芸術受容等を通して養われる心の豊かさ)を育むことに芸術の存在意義があるとすれば、人間が知覚している世界(環世界)から客観的に存在している世界(環境世界)へと人間の認知を拡げ、新しい芸術体験をもたらす革新的な芸術表現が益々求められている時代ではないかと思われます。
 
空耳の科学~だまされる耳、聞き分ける脳~

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【演題】バロックチェロ✕モダンチェロ~2台のチェロによる独奏演奏会~
【演目】(B)バロックチェロ、(M)モダンチェロ
    ①J.ダッラパーコ:11のカプリースより第4番(B)
    ②N.フーバー:沈黙の中に...(1998年)(M)
    ③J.ダッラパーコ:11のカプリースより第5番(B)
    ④R.ホフマン:シュライファーのメソッド のための5のトレーニン
                           (2009年)(M)
    ⑤J.ダッラパーコ:11のカプリースより第6番、第7番(B)
    ⑥マティアス・ピンチャー:NowⅡ(2015年)(M)
    ⑦見澤ゆかり:メチル化(委嘱作品)(2022年)(B)
【演奏】<Vc>北嶋愛季
【会場】Studio WAVES
【開演】2022年11月6日(日)15時~
【料金】配信チケット(ストリーミング、アーカイブ)1500円
【感想】
バロックチェロ✕モダンチェロ~2台のチェロによる独奏演奏会~(シリーズ「現代を聴く」特集)
北嶋愛季さんはバロックチェロとモダンチェロを操る二刀流チェリストとして知られ、とりわけ現代音楽の普及に尽力するために精力的な演奏活動を行っており、リサイタルのほかにも「現在進行形の音楽を形に耳に」を信条とする音楽グループ「Project PPP」や「新しい時代を切り開くアンサンブル」を標榜するオーケストラ「green room players」など幅広い活躍を行われています。個人的にはバロック楽器を使った現代音楽に興味があり、今後も目が話せないチェリストの1人です。冒頭、北嶋さんから現代音楽は聴衆がどのように聴いても構わない自由な音楽であり、感性的聴取を許容する懐の広い音楽であるという話がありました。しかし、クラシック音楽のような構造的聴取と異なり、現代音楽を受容するにあたって何も手掛りがないと聴衆が戸惑ってしまう現実もあるので、作曲家の作曲意図等を紹介し、現代音楽を聴く際のヒントにして貰いたいということで、現代音楽の作品解説を含むMC付の演奏会となりました。現代音楽の作品解説と共に各演目の感想を一言づつ簡単に書き残しておきたいと思います。なお、いくら自由な音楽とは言っても、北嶋さんの発言意図や作曲者の作曲意図等を適切に汲み取れていない可能性がありますが、やはり音楽は実際に音を聴いてみなければ始まりませんので、ご興味をお持ちの方は、是非、北嶋さんの演奏会に足をお運び下さい。また、北嶋さんはオンライン配信にも積極的なので、地方在住の方(今後、デジタル田園都市構想が進展すれば、益々、オンライン配信の需要は増えてくると思います。)や仕事の都合などで演奏会場に足を運べない方も北嶋さんの演奏を聴く機会を得易いのではないかと思います。
 
①J.ダッラパーコ:11のカプリースより第4番(B)
今日はバロックチェロとモダンチェロを交互に演奏するプログラムでしたが、あまりバロックチェロとモダンチェロを一緒に聴く機会がありませんので、その音色の違いを楽しめました。モダンチェロはスチール弦とバロックチェロはガット弦という違いの他にも、モダンチェロは標準ピッチ440Hzとされている(ISO16:1975)のに対し、バロックチェロではドイツのカンマートーン415Hz(標準ピッチより半音低い)、フランスのティーフカンマートーン392Hz(標準ピッチより全音低い)、教会のコアトーン466Hz(標準ピッチより半音高い)、ウィーンのモーツアルトピッチ430Hzなど、日本の伝統邦楽器と同様に様々なピッチが使われています。この点、近代市民社会の到来に伴って、少人数を集めた宮廷や教会での演奏から大人数を集めたコンサートホールでの演奏に変化したことで、より大きな音がする楽器が求められるようになり、弦の強い張力に耐えられ、また、幅広い音域の音が出せるように楽器の構造が強化されると共に、上述のような弦の材質や大人数で演奏し易いピッチの標準化などの変更が加えられ、それまでの宮廷や教会の演奏で使用されていたバロックチェロに対してコンサートホールで使用するためのモダンチェロが誕生します。本日はどのピッチでバロックチェロ調弦されていたのか分かりませんが、モダンチェロの伸びやかで輝かしい高音と対比してバロックチェロの豊かに響く中低音の温かい音色と、まるで語り掛けてくるようなゆったりとしたテンポによる深い息遣いが感じられる演奏で、モダンチェロとは異なるバロックチェロの魅力を堪能できました。
 
②N.フーバー:沈黙の中に...(1998年)(M)
北嶋さんから楽曲解説がありましたが、この曲は「音の空間性」をテーマにした現代音楽です。本来、大きい音は訴求的に聴こえ、小さい音は内省的に聴こえるという基本的な性格の違いがありますが、この曲は音が小さくなるほど訴求的に聴こえるように企図して作曲されたもので、音が小さくなればなるほど音の空間的な拡がりを意識して聴くことで、(曲名よろしく)沈黙の中に何かを発見するような芸術体験が楽しめる作品です。北嶋さんは、能楽の「序破急」を連想させるような緩急や強弱のメリハリが効いた曲想を繊細かつ大胆にドライブし、まるで墨の濃淡と余白で空間的な広がりを詩的に表現する水墨画の世界観をイメージさせる雄弁な演奏は、微弱音や無音の音価のようなものが空間に浸透して行くような不思議な感興を生じさせてくれる秀演でした。僕は諸事情によりアーカイブ配信で視聴しましたが、ジョン・ケージ4分33秒にも通底する色即是色のような思想性を感じさせる深みのある作品であり、是非、音の空間性をより良く体験できる残響効果のあるコンサートホールで聴いてみたい曲です。
 
③J.ダッラパーコ:11のカプリースより第5番(B)
J.ダッラーバコは18世紀後半に活躍した音楽家ですが(J.S.バッハの25歳年下)、この時期はバロックポリフォニー音楽)から古典派(ホモフォニー音楽)への時代の過渡期にあたります。11のカプリース通奏低音のない無伴奏曲ですが、J.S.バッハの無伴奏チェロ組曲と同様に、それまでは通奏低音楽器であったチェロを使って高声部のメロディーを歌わせながら、重音奏法や跳躍音程(音脈分凝)等の技法を駆使して低声部のハーモニーも奏でさせる立体的な音響設計が行われており、重厚に語るバロックチェロから朗々と歌うモダンチェロへと変貌して行く萌芽が見られる作品と言えるかもしれません。北嶋さんは、メロディーを表情豊かに歌わせながら存在感のある低声部が有機的に絡み合う立体感のある演奏で楽しませてくれました。
 
④R.ホフマン:シュライファーのメソッド のための5のトレーニン
                           (2009年)(M)
北嶋さんの楽曲解説がありましたが、この曲はドイツの室内合奏団「アンサンブル・モデルン」のチェリスト・M.カスパーのために書かれた現代音楽で、R.ホフマンの「シュライファーのメソッド」を演奏するために必要なテクニックを使って作曲されているそうです。この曲の楽譜にはテンポ、リズムや奏法等のみが指示されており音高は書かれていない非常にユニークな音楽ですが、演奏家は作曲家が音高を書かなかった意図を効果的に表現できるように演奏上の工夫が求められるそうです。本日、北嶋さんは、音高を書かなかった作曲家の意図を踏まえ、敢えて、弦高(弦と指板の間隔)が狭く半音低い音が出るチェロを使用して演奏されました。この曲ではチェロを擦弦楽器ではなく撥弦楽器のように扱い、弓を置いて両手の指を使ったピッチカートやグリッサンド、弓を使ったスタッカート(スタッカーティシモ?)などの奏法を使って演奏されますが、弦高の狭いチェロを使ったことで、これらの奏法の演奏効果を十分に引き出すことに成功していたのではないかと思います。個人的には、相対性理論の時空の歪みや量子力学超弦理論の世界観をイメージしながら聴いていました。オモロイ。
 
⑥マティアス・ピンチャー:NowⅡ(2015年)(M)
この曲は、M.ピンチャーの「光のプロファイル」の3部作のうちの2作目にあたりますが(NowⅠ:ピアノ独奏のための、NowⅡ:チェロ独奏のための、Uriel(神の光、天使):チェロとピアノのための)、抽象表現主義の画家であるB.ニューマンに触発されて作曲したそうです。抽象表現主義の絵画には一定のスタイルのようなものはなく、外部の客観的な世界を描く写実主義印象主義等とは対照的に画家の内部の主観的な世界を描くことから多様な表現が生まれますが、そのなかでもB.ニューマンの絵画はカラーフィールド・ペインティングに代表されるようにはっきりした輪郭や平坦な色面が特徴的です。北嶋さんによれば、B.ニューマンの絵画は相反するものが影響し合うイメージと捉えることもできるのではないかと解説されていましたが、正しくB.ニューマンの絵画に影響を受けたM.ピンチャーのNowⅡは、コル・レーニョなどの特殊奏法を使いながら音楽の輪郭が明瞭なアグレッシブなパートと、スル・ポンティチェロ、スル・タスト、フラジオレットなどの特殊奏法を使いながら音楽の輪郭が曖昧なセンシティブなパートが交互に演奏され、やがてそれらの対照的な性格を持ったパートが相互に影響し合いながら1つの世界観を描いているような曲想で、B.ニューマンが生きたい戦争と冷戦の世紀と言われる時代性を意識しながら、この曲が持つ世界観を興味深く聴くことができました。
 
見澤ゆかり:メチル化(委嘱作品)(2022年)(B)
作曲家の見澤ゆかりさんは国立音大で作曲を学び、現在、永心寺の副住職を勤めながら現代音楽の作曲を続けている異色の経歴を持つ方です。冒頭、見澤さんから自作の解説が行われました。見澤さんは、遺伝子は生まれてから変化を続け、とりわけ幼少期に受けた遺伝子を変化させる環境要因が生涯に亘って身体や精神に影響を与えるという事実に興味を持って、生物学のメチル化(DNA配列の変化)を題材にした音楽を作曲することを着想したそうです。第一楽章は遺伝子を構成する4種類の塩基であるアデニン(A)、グアニン(G)、チミン(T)、シトシン(C)のアルファベットをドイツ語の音名(TはEに読み替え)に置き換えて作曲し、第二楽章は遺伝子の二重螺旋構造を表現するために、北嶋さんが2本の弓を持って開放弦を弾く文字通りの二刀流の演奏が行われました。第三楽章は観客がルーレット(モーツアルトの「音楽のサイコロ遊び」ではサイコロを使用)を回して出た数字と結び付けられた12のモチーフを2本の弓で演奏する偶然性の音楽により遺伝子が偶然に変化(進化)して行く様子が表現されるなど遊び心が感じられる曲でした。クラシック音楽は人間中心主義的な価値観を背景として神の真理や人間の心(理性や本能等)を表現するための音楽が作曲されてきましたが、現代は科学技術の進歩や地球環境の問題等を背景として人間中心主義的な価値観の矛盾や破綻等が意識されるようになった時代であり、現代音楽は神の真理や人間の心(理性や本能等)だけではなく自然尊重主義的な価値観から人間を取り巻く環境世界等を表現するための音楽を作曲するようになっており、これからの時代に必要とされる音楽なのだと思います。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.9
シリーズ「現代を聴く」では、1980年代以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
ジェイク・ルネスタッドの「アース・シンフォニー」(2022年)
アメリカ人の現代作曲家のジェイク・ルネスタッド(1986年~)は、合唱音楽では定評があり「合唱のロックスター」という異名まで持っているアメリカで最も注目されている若手の俊英です。2022年に「アース・シンフォニー」でエミー賞作曲部門を受賞しましたが、この曲は5部構成で人新世の後の母なる大地の声による劇的なモノローグを通じて現代人に環境問題を問い掛ける内容になっており、現代の時代性を表現する音楽と言えます。
 
ニコラ・コウォジェイチクの「プログレッシブ・バロック」(2016年)
ポーランド人の現代作曲家(ジャズ等)の二コラ・コウォジェイチク(1986年~)は、ポーランドグラミー賞にあたる「フレデリク2015」及び「フレデリク2016」を続けて受賞するなど数々の賞を受賞してポーランドで注目されている期待の俊英です。2016年にジャズ・アルバム・オブ・ザ・イヤーで「フレデリク2016」を受賞した、バロック楽器や民族楽器などを使用している「プログレッシブ・バロック」をお聴き下さい。
 
▼【追悼】一柳慧の「ピアノメディア」(1972年)
このシリーズは若手の現代作曲家の紹介を趣意にしていますが、去る10月7日に現代作曲家の大家である一柳彗さんが逝去されましたので、哀悼の意を表し、故人の偉業を讃えるため、一柳彗さんがミニマル・ミュージックに触発されて作曲した作品「ピアノメディア」をご紹介します。ジョン・ケージなど前衛音楽家の作品の紹介に尽力し、不確定性の音楽やフルクサス等を採り入れた創作活動なども活発に行い、2018年に文化勲章を授与されています。