
▼戦争後遺症からの解脱と音楽の甦り(ブログの枕単編)
現代音楽、ブロードウェイやハリウッドの音楽などを精力的に採り上げてグラミー賞、トニー賞やエミー賞などの数々の国際賞を受賞している指揮者で、著書「指揮者は何を考えているか」や映画「Tar」の監修などでも知られているJ.マウチェリさんが著書「二十世紀のクラシック音楽を取り戻す」を上梓されましたので、(著作権にも配慮して)その触りのみを簡単に紹介しておきたいと思います。J.マウチェリさんはこの著書で「クラシック音楽に関する限り、総じて二十世紀は失われた世紀であり、損失は大きな問題である。」という歴史認識を示し、「新作の名の下に登場した新しい音楽は、ほぼ例外なく無調でおそろしく複雑で、殆どの聴衆にとっては理解不能だった。こうした音楽はごく一部の音楽愛好家にのみアピールし、さらに言えば、大抵はそうなるように意図して書かれたのである。」(①聴衆の理解力を超える作品の複雑化)や「七十五年を超えようとしている、「傑作」の見当たらない巨大な空白期間のせいで、クラシック音楽と現代の聴衆との間の接点がなくなってしまった。」(②それに伴う音楽と聴衆の乖離)などの状況認識を示したうえで、「理解できる可能性を放棄した芸術を創作するのは、非社会的であるだけでなく、音を聴いてそれを分析するという人間の営みとも相容れない。そこに、こうした芸術の魅力と永遠の違和感の源があるのかもしれない。しかし、それは新しいとか現代的と呼べるものではない。そのどちらでもない。」と舌鋒鋭く結論付けています。昔、芸術に大衆性は必要かという議論がありましたが、人間の知覚能力や認知能力が約1万年前から殆ど進化していないことを踏まえると、過去のブログ記事でも触れたとおり、人間の知覚能力や認知能力に耐え得ない複雑になり過ぎた分かり難い作品は、サティーの「聴かれない音楽」とは趣きが異なる(おそらく時代を超えて)「誰にも聴かれない音楽」になる蓋然性があることは完全には否定できませんので、J.マウチェリさんの主張は概ね首肯し得るものと個人的には感じます。但し、この著書には言葉の定義や主張の根拠などが十分に尽くされていない部分もあり、また、様々な意見(切り口や捉え方など)があり得る問題だと思いますので(過去のブログ記事で触れたとおり、西洋音楽の和声法に感じる美を理想的美と捉える傾向は後天的に備わったもの(認知バイアス)であり、決して普遍的ではないという研究結果が発表されていますが、個人的には映画音楽やゲーム音楽などにも無調が採り入れられて幅広く受容されていますので無調であることが問題なのではなく、ミイラ取りがミイラになったような調性を排除するという闇の絶対性に偏向して執拗に音楽を複雑にしてきたことに問題があったのではないかと感じています。その意味では、シェーンベルク生誕150年の記念年を迎えて「シェーンベルクが死んだ」のではなく、調性という光の絶対性から音楽を解放したシェーンベルクのフォースは調性を排除する闇の絶対性という暗黒面に堕ちることなく、調性を排除せずに調性と無調を相対化するバランス感覚を留めるジェダイであったと再評価し得るのではないかと感じています。)、この主張の是非に深入りすることは避けたいと思います。一般に「戦争の傷跡は半世紀残る」と言われていますが、個人的なイメージとしては、20世紀は二度の世界大戦という惨禍を招いた原因と考えられていた前近代的なもの(社会体制、価値観や戦時中に政治利用された音楽を含む)を排除しようと力み切っていた戦争後遺症とも言うべき状況が音楽と観客の乖離を生んで結果的に音楽を干乾びさせてしまった側面があることは完全には否定できないのではないかと思われる一方で、漸く21世紀前後になると戦争後遺症から解脱して過去のシガラミに囚われない新しい音楽が誕生するようになり、戦後70年を経てアフターコロナ(2023年〜)から本格的に現代音楽や現代オペラが数多くの演奏会にかけられるようになった状況を見ると、音楽が力強く甦りつつある手応えを感じます。
▼前衛上人の入寂と音楽の甦りJ.マウチェリさんがこの著書で紹介している西洋の伝統音楽の系譜をもとにして、その行間を埋めるために、多少、僕の個人的な理解も付け加えて一覧表にしてみました。なお、定規で線を引くように歴史を語ることはできませんし、また、その解釈には様々なものがあり得ると思いますが、時には正確性を犠牲にしても大胆に物事を単純化して粋に繕う遊び心も必要ではないかと思いますので、野暮天なクレームはご遠慮下さい。
クラシック音楽(王侯貴族文化) バロック
⇩
ハイドン
⇩
モーツァルト
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ベートーヴェン
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ワーグナー
(ナチスによる政治利用)二度の世界大戦:社会的・文化的な崩壊 オーストリア
前衛音楽の産地
(ナチスの占領国)フランス
前衛音楽の聖地
(ナチスの占領国)アメリカ
前衛音楽の疎地
(ナチスの敵対国)マーラー
⇩
シェーンベルク
⇩
ウェーベルン
⇩
(ブーレーズ)ドビュッシー
⇩
ストラヴィンスキー
⇩
メシアン
⇩
ブーレーズマーラー
⇩
ハリウッド
亡命作曲家前衛音楽の終焉
(戦争後遺症からの解脱)大衆文化の台頭
(アメリカニズム)※ナチスの占領国であったオーストリアやフランスは調性音楽(主音のある音楽=宗主国を中心とする古い世界秩序)から脱却して無調音楽(主音のない音楽=宗主国を中心としない新しい世界秩序)を指向し、ナチスの敵対国であったアメリカは大衆のためのオルタナティブな音楽(アメリカを中心とする新しい世界秩序)を指向したと概観し得るような潮流が生まれました。※もともとアメリカには王侯貴族が存在しないことから大衆文化を基調とし、クラシック音楽の歴史に連ならないオルタナティブな音楽文化として、アメリカのポピュラー音楽、ミニマル音楽や実験音楽などが誕生して世界を席巻し、また、敗戦国(占領国)であるドイツの電子音楽及びイタリアのノイズ音楽、そして世界の民族音楽などが脚光を浴びるようになりました。(付録)西洋の伝統音楽は約100年周期で大きく変容?一般に情報は切り口(視点)と組合せ(構造)によって付加価値を生むと言われています。この点、過去のブログ記事では様々な切り口や組合せから西洋の伝統音楽に連なる音楽の歴史を大雑把に俯瞰してきましたが(その①、その②、その③、その④、その⑤、その⑥、その⑦、その⑧など)、今回は上記見出しの切り口から西洋の伝統音楽に連なる音楽の歴史を大雑把に俯瞰してみました。
支配 年代 音楽 神の支配 教会 ~1300年 中世音楽 教会旋法
対位法人の支配 国王 1400年~ ルネサンス音楽 1600年~ バロック音楽 調性音楽
対位法1750年~ 古典派音楽 調性音楽
ソナタ形式ブルジョア 1850年~ ロマン派音楽 二度の世界大戦:社会的・文化的な崩壊 法の支配 国民 1950年~ 前衛音楽 無調音楽
音列技法 等2050年? AI音楽? 脱人間化? ※最近はアンドロイド指揮者などスマート・ロボット(人工生命)=AI(脳)+センサー(目、耳などの感覚器官)+ロボット(体)の開発が盛んですが、産業革命は人類を重労働から解放し、AI革命は人類を労働そのものから解放すると期待されています。少し前までAIに対する感傷的な拒絶反応も見られましたが、倫理上の問題(例えば、バイアス除去など)に配慮する必要はあるものの、基本的に、AIが人類から何かを奪うという捉え方は卑屈に過ぎると思います。

J.マウチェリさんは、この著書で上述のような20世紀的な状況を招いた原因について興味深い考察を加えられており、その詳細についてはこの著書をお読み頂きたいのですが、「ナチスやイタリアのファシスト政権が出した様々な公式見解、さらにはそれに対する戦後の西側諸国の対応が大きく関係」している点を指摘したうえで、「ふたつの世界大戦で大きな傷を負った社会は、すべての感覚がマヒしたような状態にあった。そんな中にあって、新たなる音楽の領域は、情緒に流されず、複雑で知的な構造を持つこと」が相応しいと考えられるようになり、「複雑で物語性がない音楽(自然描写や文学的要素とは無縁の音楽)を書くひと握りの作曲家がトップに君臨し、そうした状況が二十一世紀に入っても続いた。」ことを原因の1つとして挙げています。この点、個人的なイメージとしては、当時、二度の世界大戦という惨禍を招いた原因と考えられていた前近代的なもの(社会体制、価値観や戦時中に政治利用された音楽を含む)を排除して新しい近代的なもの(音楽を含む)を模索する動きが活発になり、クラシック音楽のような主に大脳辺縁系に働き掛けて本能的に感じるものから、前衛音楽のような主に大脳新皮質に働き掛けて理性的に考えるものへ変化したと大雑把に捉えることができるのではないかと感じています。両者は音楽の聴き方が全く異なりますので、あくまでも前者の性格を持つ音楽を求めるという立場の聴衆には(音楽の聴き方を変えない限り)後者の性格を持つ音楽の受容は難しいと言えるかもしれません。また、この著書では「ミニマル・ミュージックのことをカーターは公の場でヒトラーのスピーチになぞらえ、何についても口を出さずにはおれないブーレーズは「キューイ・フルーツ」と呼んだ。」というエピソードを紹介して、「二十世紀の最後の四半世紀になると、今までとは違う実験音楽が登場し、二百年の音楽史をうまく説明してきたそれまでの歴史モデルをひっかり返した。それはまったく新鮮な響きを持つ音楽で、二十世紀のクラシック音楽において絶対的な権力を誇っていた半音階主義を拒絶した。従来の歴史モデルではこの音楽について説明がつかない。というわけである意味当然ながら、古い世代の前衛音楽家の多くは拒絶反応を示した。」と解説されていますが、この言葉を額面とおりに受け取るとすれば、前近代的なものを排除するつもりが、皮肉にも自分達と異質なものは新しい近現代的なものであっても排除しようとする音楽のファシズムのような状況が生まれていたと言わざるを得ません。その後、ミニマル・ミュージックは聴衆から熱烈な支持を受けています。もともと「前衛」という言葉は軍事用語として誕生したもので、「本隊」の後方を護衛する後衛に対して「本隊」の前方を護衛する前衛に由来し、常に本隊より前方にあって真っ先に戦端を開く役割を担うことから、新しい時代を切り拓く最先端の音楽のことを前衛音楽と呼ぶようになりましたが、この背景には「新しいものは古いものより良いという未来主義の考え方に基づいており、主流派の芸術全般に反対するという考え」(進歩主義思想)があったそうです。この点、P.ドラッカーが「革新は、単なる方法ではなく新しい世界観を意味する」と看破しているとおり、20世紀は前近代的なものを排除することを目的的化していたところがあり世界観の革新ではなく方法(主に作曲技法)の革新に傾き過ぎたことも音楽を干乾びさせてしまった原因の1つとして挙げられるのではないかと感じます。しかし、21世紀はインターネットの普及の影響などにより大衆から個衆へと多様性の時代にパラダイムシフトしたことから時代の「本隊」を捉えることが難しくなり「前衛」も足場(意義)を失う状況が生まれて、過去のシガラミに囚われることなく本隊も前衛も後衛もない真に自由でジャンルレスな創作が可能になった時代と言い得るのではないかと思われます(モダニズムが死んだ。ポストモダン万歳!)。なお、最後に個人的な問題意識として、映画に喩えて言えば、どのような名画でも何十回も観れば観飽きてしまうのと同様のことがクラシック音楽にも言え、クラシック音楽の歴史がそのようであったように(歴史上の偉大な作曲家は常に新しい音楽を生み出してきたはずで)、戦後に現出した定番曲頼みの病的な状態(これは戦争後遺症の副作用とも揶揄したくなるような状態で、未だにそれに甘んじるのであれば志が低いと言わざるを得ず)を脱却して戦争後遺症から解脱している世界中の若く有能な現代作曲家の新しい作品を採り上げる機会をもっと増やして欲しいと切望しています。この点、日本と比べて現代音楽の比重が圧倒的に高く音楽文化(音楽家及び聴衆の双方を含む)が力強く息衝いている欧米の状況が羨ましい限りです。また、どのような映画でも公開から半年も経過しないうちにテレビ、ラジオやインターネットなどで無料又は安価で公開されるのであれば、わざわざ忙しいなかを都合を付けて適正な対価を支払って映画館に足を運ぶ人は減って行く(ホームシアターでも大満足)のと同様のことがクラシック音楽や現代音楽にも言え、余計なお世話かもしれませんが、このままではクラシック音楽や現代音楽のマーケット崩壊が進むのではないかと危惧を覚える状況があります。少なくとも、僕はそのような消費行動に切り替えようかと考え始めています。
▼世界を旅する尺八~尺八の<外交史>と現在~
【演題】JSPN第5回定期公演
世界を旅する尺八~尺八の<外交史>と現在~
【解説】田中隆文(邦楽ジャーナル編集長)
【舞台】矢野守彦(おことの店矢野)
進藤悟(喜久屋楽器)
関屋宗真
【美術】澤本捨史
【演目】①田野村聡 寂滅の詩~鶴の一生に寄せる~(2018年)
<尺八>菅原久仁義、素川欣也、田辺頌山
芦垣皋盟、田辺洌山、渕上ラファエル広志
大山貴善、阿部大輔
②Henry Cowell
The Universal Flute(1946年)
<尺八>渕上ラファエル広志
③一柳慧 密度(1984年)
<箏>吉原佐知子、野澤佐保子
<三絃>野澤徹也
<尺八>大河内淳矢
④流祖中尾都山 都山流本曲 霜夜(1905年)
<尺八>野村峰山、設楽瞬山、山口連山
加藤奏山、井本蝶山
山崎北山、樋口景山
⑤ビデオプログラム「世界の尺八演奏家」
ヨーロッパ尺八協会(ESS)
オーストラリア尺八協会(ASS)
台湾尺八協会
中国「尺八・一音無心」信藝術空間
ワールド尺八フェスティバル テキサス2025
⑥ラヴィ・シャンカール
1978年録音「アジアの出逢い」より
「ナマハ・シヴァーヤ」(1978年)
<タブラ>U-zhaan
<尺八>石垣征山
①ロッホ・ローモンド
⑦古典本曲 奥州傳 鶴の巣籠
<尺八>古屋輝夫
⑧マーティン・リーガン
shadows、shades、
and Sihouettes(世界初演)
<尺八>芦垣皋盟 岩田卓也 山口連山
阿部大輔 本間豊堂 松本宏平
素川欣也 竹井誠 田野村聡
石川利光 大山貴善 設楽瞬山
【日時】2024年7月12日(金)19時~
【場所】豊洲シビックセンターホール
【一言感想】

1967年に武満徹さんの琵琶、尺八、オーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」がニューヨークで初演されましたが、その影響から世界中で尺八の演奏家、楽曲やイヴェントが増加し、その後、1994年からはワールド尺八フェスティバルが開催されるなど尺八が世界中で市民権を獲得しています。今般、JSPNが「海外に尺八を紹介し、そのかかわりの中で、新たな感性を取り込み、血肉としてきた尺八。その「外交史」を俯瞰することで、尺八の芸術性が世界中で愛好されるその源泉を探り、今後日本の伝統芸能の未来を考える機会となること」を企図する演奏会を開催するというので聴きに行くことにしました。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
ーーー追記
①寂滅の詩~鶴の一生に寄せる~(2018年)
この曲は、親鶴の一生をテーマにした⑦古典本曲 奥州傳 鶴の巣籠にインスピレーションを受けて作曲されたもので、パンフレットには「一つの存在が“生”まれて“滅”びることは、悠久の時の中では初めから無かったに等しいほど繊細なことなのかもしない。」という言葉が添えられていましたが、過去のブログ記事で触れた分子生物学者の福岡伸一さんが提唱されている学説「動的平衡」が示す生命観に近いものが表現されていると感じながら拝聴しました。この曲は全三楽章から構成され、第一楽章は子鶴の誕生(ベリクソンの弧の合成)を表現したものか、様々な音色を持つ8管の尺八が順番に短いフレーズを重ねながら、初めはか細く紡がれていた音楽が徐々に力強い音楽へと変化し、タギングにより描写される鶴の鳴き声には繊細なバランスで保たれている生命現象の有難さ、尊さが表現されているように感じられました。第二楽章は生命の躍動感を表現したものか、快活でリズミカルなミニマル・ミュージック風の音楽が奏でられましたが、これとは一転して第三楽章は親鶴の死(ベリクソンの弧の分解)を表現したものか、メランコリックな雰囲気を湛えた音楽が奏でられ、その対比が劇的な音楽効果を生んでいました。最後は親鶴の呼吸(鼓動)を表現したものか、徐々にリズムが弱々しく閑散となり静かな持続音と共に終曲になる余韻深い演奏に聴き入りました。
②The Universal Flute(1946年)
この曲はアメリカ人作曲家のヘンリー・カウエル(~1965)がアメリカで活動していた尺八奏者の玉田如萍から尺八の手解きを受けて1946年に作曲したものですが、この曲は西洋人が作曲した世界初の尺八音楽だそうです。今日の演奏はヘンリー・カウエル研究の第一人者で東京音楽大学教授の大竹紀子さんのご尽力によりニューヨーク公立図書館所蔵の自筆譜が使用される大変貴重な機会になりました。当初、西洋音楽の語法を使って作曲された西洋音楽調の尺八音楽を想像していましたが、音の横の連なりで旋律を優美に聴かせる性格のものではなく、尺八の特有の演奏法である「ユリ」(首振り三年コロ八年)や「コミ吹き」などを駆使しながら音の縦の揺らぎで1音1音を余韻深く聴かせる性格のものに感じられ、自然から切り出された音(ロゴス)というよりも、自然に溶け込み一体となっている音(ピュシス)と巡り合っているような感興を覚える尺八音楽の美観極まる名曲に魅了されました。この曲を演奏した渕上不ラファエル広志さんは日系ブラジル人で、当初、ブラジルの音大でフルートを専攻していましたが、その後、尺八の魅力に取り憑かれて尺八に転向されたそうで、今後ともその活躍が注目されます。
③密度(1984年)
この曲は、二面の筝、三絃、尺八による四重奏曲ですが、前回のブログ記事でも触れたとおり、西洋音楽の特徴であるマクロの音響世界(音の組織化)ではなく日本音楽の特徴であるミクロの音響世界(音子の要素の変化)に比重を置いて作曲されているように感じられます。冒頭、二面の箏が短いモチーフを少しづつ変化させながら点描的な楽音(整数次倍音)を奏でるパートとスリ爪などの特殊奏法を使って激しく噪音(非整数次倍音、ノイズ)を奏でるパートが対照され、筝の音が奏でる楽音と噪音の魅力の違いが明瞭に感じられる演奏を楽しめました。また同時に、筝による点描的な音楽に対して尺八による線描的な音楽も対照されており、それぞれの楽器が持つ魅力の違いが引き立つ演奏も楽しめました。その後、三絃が上記の短いモチーフを引き継いで、筝のエッジの効いた音(甲音)と三絃のアールの効いた音(乙音)が対照される演奏やそれぞれの楽器の魅力を活かして時間的又は空間的に異なる密度を持つ重層的、立体的な演奏を楽しめました。その後、二面の箏と三絃によるビート感がある演奏と尺八によるメロディアスな演奏が対照され、再び、三味線が上記の短いモチーフを激しく点描して終曲となる文字通り密度の濃い演奏に聴き入りました。
④都山流本曲 霜夜(1905年)
この曲は、尺八都山流の流祖・中尾都山が1915年に自作曲を携えてロシアに海外演奏旅行に行った際に演奏された1曲で、公式の記録が残るものとしては日本初の海外演奏旅行だったのではないかと言われています。なお、尺八都山流の流祖・中尾都山は石清水八幡宮を崇敬していたことから、楠木正成が戦勝祈願のために石清水八幡宮に植樹した楠木(樹齢約700年)の根元に尺八都山流の流祖・中尾都山の頌徳碑が建立されています。霜夜は晩秋から初冬の霜降る寒い夜を意味する季語ですが、一段目はユニゾンで霜夜の寒さが身に染みる寂寥とした風情が表現されているように感じられました。二段目は三部合奏でコロコロなどの特集奏法を使いながら秋の虫の音が表現され、京極摂政前太政大臣こと藤原良経が詠んだ和歌「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む」(新古今和歌集)が思い出される詩情豊かな演奏を楽しめました。三段目は二部合奏で軽快に呼応する華やいだアンサンブルが聴き所になっていました。
⑤ビデオプログラム「世界の尺八演奏家」
ヨーロッパ、オーストラリア、台湾、中国、アメリカにある尺八協会の活動状況などがビデオ映像で紹介されましたが、著作権などの処理がどうなっているのか分かりませんので、その内容のサマリーを掲載するのは控えたいと思います。こんなにも外国の人々の心をハッキングする尺八の魅力について認識を新たにすると共に、今日の世界的な尺八の普及は数多くの人々の長年に亘る努力の賜物であることがよく理解できました。
⑥ナマハ・シヴァーヤ
過去のブログ記事で紹介したラヴィ・シャンカルは尺八奏者の山本邦山(人間国宝)のためにラーガ・シヴァランジョニ(インド古典音楽の旋法の1種)に基づいて尺八とタブラによるシヴァ神(ヒンドゥー教の三大神)に祈りを捧げるための曲を作曲しています。因みに、インド古典音楽理論「サンギータ・ラトゥナーカラ」には253種のラーガ(旋法)と120種のターラ(リズムパターン)が紹介されており、また、1オクターブを22のショルティ(微分音)に分割する理論なども掲載されている非常に興味深い内容で、O.メシアンやP.グラスなどにも多大な影響を与えています。過去のブログ記事でも紹介しているタブラ奏者のU-zhaanさんが共演されていましたが、尺八が無拍の音を朗々と奏でますが、シヴァ神への祈願を表現しているそうです。やがてタブラがターラ・ダードラ(インド古典音楽のリズムパターンの1種)で激しく伴奏すると、そのリズムに乗せて尺八が軽快な音を奏でる丁々発止のアンサンブルが展開されましたが、シヴァ神への愛と感謝を表現しているそうです。再び、尺八が憂いを帯びた音を奏でますが、シヴァ神へ恵みを祈って終曲となりました。当初、尺八とタブラのアンサンブルを想像し難くかったのですが、タブラは多彩な音色を持つ表現力豊かな楽器で、尺八とタブラから多彩な表情と魅力を存分に引き出しているラヴィ・シャンカルの稀有な才能に脱帽しました。
⑦古典本曲 奥州傳 鶴の巣籠
親鶴は子鶴に与えるエサがないときは自らの生身を切り割いて子鶴に与えると言われていますが(フラミンゴの例)、パンフレットには「江戸時代の虚無僧たちは、鳴声や羽ばたきなど鶴の生態の様々を模すことによってその大きな深い愛情の境地、すなわち大慈大悲の境地を我がものにしたいと願いこの曲を吹き伝えてきました。(中略)技巧に夢中になって大慈大悲の境地の顕現を忘れてはなりません。」と記載されています。今日は生憎の大雨でガラス張りの豊洲シビックセンターホールには外で吹き荒れる強風の音が微かに聴こえていましたが(サウンドスケープ)、そのなかを寂び寂びとした尺八の音がホールに静かに澄み渡り、厳しい自然とそれに耐えながら命を育む鶴の様子が風情豊かに伝わってくる効果を生んでおり感動的でした。尺八の音は自然に溶け合い一体になりながら自然の音を奏でるものであることを実感できる貴重な芸術体験になりました。タギングなどの特殊奏法による鶴の鳴き声の描写では、音そのものに命や心が宿っているような雄弁な演奏を聴くことができ、これぞ尺八音楽の醍醐味(1音成仏)であると感じられるような好演を楽しめました。ヴラヴォー!
⑧shadows、shades、and Sihouettes(世界初演)
この曲は、ワールド尺八フェスティバルの実行委員長を務めるアメリカ人現代作曲家のマーティン・リーガンさん(1972年~)に委嘱した新作で、本日、世界初演されました。アメリカのポピュラー・ソング「ミー・アンド・マイ・シャドウ」と谷崎潤一郎著「陰翳礼讃」からインスピレーションを受けて、影を音楽で表現するために類似する音楽素材を一拍ズラして使用することにより生まれる影付け(エコー)の効果を使って作曲したそうです。尺八の音は、その揺らぎの中に陰翳が宿る深みや余韻に魅力の1つがあると感じられ、その意味で影を表現するための楽器としての尺八の相性が良さを感じさせる曲でした。12管の尺八がユニゾンから1泊づつ音をズラしながらグラデーションを作りましたが、カノンのように2つの対象に完全に分かれてしまう明確なズレではなく、いわく分かち難い自分と影のあわいを揺蕩っているような幽かな揺らぎと重なりを同時に感じさせる不思議な印象を受けました。さながら映画「死亡遊戯」の鏡の間のシーンとでも言えばイメージし易いでしょうか。テンポやデュナーミクを大胆に操るアグレッシブな演奏や叙情的に聴かせる優美な演奏など尺八の多彩な魅力を引き出す着想豊かな音楽を楽しめました。
▼朗読とピアノのための「モーツアルトの質問」
【演題】谷篤ドラマティックリーディング2024
朗読とピアノのための「モーツアルトの質問」
【演目】①スコットランド民謡 ロッホ・ローモンド
<翻訳・編曲>谷篤
②S.フォスター 厳しい時代よもう来るな
<翻訳・編曲>谷篤
③F.シューベルト 音楽に寄せて
④H.リップ リリー・マルレーン
<翻訳・編曲>谷篤
⑤宮沢和史 島唄
<翻訳・編曲>谷篤
⑥朗読とピアノのための「モーツァルトの質問」
<原作>マイケル・モーパーゴ著「The Mozart Question」
<翻訳>谷篤
<作曲>高橋宏治
【出演】<歌・朗読>谷篤
<Pf>揚原祥子
【日時】2024年7月14日(日)14時~
【場所】トーキョーコンサーツ・ラボ
【一言感想】

イギリス人作家のM.モーバーゴさん(~1943年)が第二次世界大戦の史実をもとに芸術の政治利用が招いた悲劇と奇蹟を描いた物語「The Mozart Question」(2007)を題材にした音楽朗読劇が開催されるというので聴きに行くことにしました。既に原作の邦訳として「モーツァルトはおことわり」が出版されていますが、この訳本は音楽朗読劇に向いていないことからバリテノール歌手の谷篤さん(バリトンからテノールまでの声域に留まらず、カウンターテナーの声域をも併せ持つ稀有な逸材)が新訳を付して上演されるそうです。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
ーーー追記
②厳しい時代よもう来るな
③音楽に寄せて
④リリー・マルレーン
⑤島唄
これらの曲は、戦争の惨禍が人々から音楽を奪うことはできず、人々が音楽に想いを託して歌い継いだ作品が並べられています。①「ロッホ・ローモンド」は、スコットランドのローモンド湖畔を舞台にした民謡で、恋人の別れに託けて17世紀の名誉革命に抵抗するジャコボイドの反乱でイングランド軍に捕らえられた兵士の悲哀を歌ったものと言われていますが、歌とピアノが優美に絡み合いながら兵士が音楽に希望を繋ぐ郷愁や憧憬を湛えた美しい歌を楽しめました。②「厳しい時代よもう来るな」は、南北戦争に対する人々の悲哀を歌った曲として広まりました。しかし、実際には南北戦争が勃発する前に作曲された曲なので、幅広く社会的な弱者の苦しみ、悲哀を祈りに込めて作曲したものと言われており、フォスターが不幸な人々に心を寄せるその想いが伝わってくる包容力のある歌に感じられました。③「音楽に寄せて」は、兵役を避けるために教職に就いていたシューベルトがその才能を惜しんだ友人のショーバーの勧めで作曲に専念するようになりますが、その友情に応えてショーバーの詩に付曲したものです。シューベルトが音楽に生きる喜びや感謝に満たされ、穏やかな幸福感に包まれている情趣を湛えた歌を楽しめました。④「リリー・マルレーン」は、恋人を残して出征する兵士の想いを歌ったドイツのポピュラーソングで、第二次世界大戦中のドイツ軍放送局から毎晩定刻にこの歌が流されると、その間だけ銃声が鳴り止んだと伝えられています。戦意を高揚するための勇ましい軍放送を彷彿とさせるピアノ伴奏とは対照的に現実逃避するような陶酔感が漂う叙情的な愛の歌に聴き入りました。⑤「島唄」は、男女の別れを歌ったラブソングですが、実際にはさときび畑で出会った幼馴染みの男女がその思い出のさとうきび畑の下にある自然洞窟で集団自決した沖縄戦の悲劇と平和への切なる祈りが歌われています。平和な時代を体現するような南国情緒が漂う音楽に隠された土地の歴史に刻まれた悲劇が昔語り風の穏やかな口調に乗せて歌われる心に沁みる曲でした。
⑥朗読とピアノのための「モーツァルトの質問」ネタバレ注意
この作品は今回の全国ツアーが世界初演でしたが、おそらく今後も再演が重ねられる作品だと思いますので、果たして、どこまで具体的に内容に触れて良いのか分かりませんが、今後、この作品を鑑賞される方の楽しみを奪うことがないように、ごくごく簡単に全体的な感想を残しておきたいと思います。この作品は、戦争の惨禍が某音楽家から生涯に亘って音楽を奪うことになったという話(悲劇)ですが、その子へと音楽は受け継がれ、やがて音楽が見事に甦って行くという話(奇蹟)です。特に予告はありませんでしたが、開演30分前に谷さんと揚原さんによるレクチャーが開催され、この作品のプロットの頭出しとこの作品で使われている音楽のライト・モチーフが解説されました。初聴の曲は細かいところまで聴き取ることが難しくどしても浅い鑑賞にしかなりませんが、谷さんの話が分かり易かったことも相俟って非常に鑑賞の手助けになりました。元新聞記者(語り手)が世界的なヴァイオリニストのパオロ・レヴィ(ユダヤ人)から聞いた話として、L.パオロの実父ジーロ・レヴィーの死まで秘密として封印していた①L.パオロの両親(ユダヤ人)及びL.パオロのヴァイオリン教師であったバンジャマン・ホロヴィッツ(ユダヤ人)が第二次世界大戦中のナチス強制収容所でオーケストラ団員として経験した悲劇と②それを踏まえてL.パオロがL.ジーロとの間で交わした約束について、L.ジーロの死後に初めて封印が解かれ、音楽が見事に甦ったことを回想する構成になっています。この作品は、第二次世界大戦中にナチスの占領政策のために音楽が政治利用され、ユダヤ人音楽家は自らの命と引き換えにナチスへの協力を強制された史実に基づいていますが、これ以上は、今後、この作品を鑑賞される方の楽しみを奪うことになってしまうので詳しく触れることは控えたいと思います。戦争の惨禍はユダヤ人から人生、家族や音楽を奪い、その癒えることのない心の傷は子の世代にまで暗い影を落としましたが、それでも音楽の火が絶えることはなく子の世代に戦争後遺症から脱却して音楽が甦ったことが物語られています。谷さんの歌心を感じさせる情感豊かな語りに粒際立つ小気味良いピアノ伴奏が添えられて物語はテンポ良く展開されましたが、ピアノが奏でるライト・モチーフ(問い、答え、真実、嘘、父、バンジャマン、パオロなど)が様々に変奏され、また、谷さんの語りと様々なパターンで組み合わされることで、真実が持つ多面性や複雑に交差する心情が雄弁に表現され、谷さんの語りがライト・モチーフに異なる性格を与え、ライト・モチーフが谷さんの語りの隠された意図を伝えて表現に繊細さや深みを感じさせる効果を生んでいたと思います。ヨーロッパの長い人種差別の歴史とその文脈に位置付けられる現在のイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ侵攻に思いを馳せながら、未だ人類は戦争後遺症から完全には脱却できていないのかもしれないと色々と考えさせる含蓄深い作品でした。
▼Ensemble Toneseek 第3回演奏会
【演題】Ensemble Toneseek
第3回演奏会 ~ 感光/sensitizations~
【演目】①吉田優歌 YOU(2024年)
②J.シェルホルン
セリグラフィー「ノクターン」(2007/2017年)
③渡邉翔太 ほどけた焦点を伝い(2024年)
④J.シェルホルン
セリグラフィー「バルカロール」(2007/2017年)
⑤細川俊夫 夕顔(2020年)
⑥増田建太 植木鉢(2019/2024年)
⑦矢野耕我 三者会合(2024年)
⑧J.シェルホルン
セリグラフィー「プレリュード」第1番、第2番、第3番
(2007/2017年)
【演奏】<Cond>馬場武蔵
<Fl/Pic>齋藤志野
<Cl/B-Cl>鄭圭祥
<Perc>沓名大地
<Pf>秋山友貴
<Vn>山本佳輝
<Vc>下島万乃
【日時】2024年7月26日(金)19時~
【場所】トーキョー・コンサーツ・ラボ
【一言感想】

2022年に結成された現代音楽をレパートリーとする演奏集団「Ensemble Toneseek」は、日本ではコンクール以外に若手作曲家の作品が演奏される機会が非常に少ないという問題意識から、新たな取り組みとして若手作曲家から公募した作品を演奏するための演奏会を開催するというので聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
---追記
本日の公演は一般客よりも業界関係者の方が圧倒的に多く「内輪」の集いに迷い込んでしまったような場違いな雰囲気を否めませんでしたが、足の踏み場もない会場が一杯になる満席の盛会でした。この公演に限りませんが、今後、どのように一般客を増やして行けるのかに現代音楽が抱える課題があるように感じます。さて、業界関係者が多かったので敢えて一般客が感想を残すまでもないと思いましたが、一般客がどのように聴いたのかという意味で若手作曲家4人の作品と巨匠2人の作品の順番でごく簡単に感想を残しておきたいと思います。なお、2024年7月27日(土)19時~にも公演がありますので、ご興味のある方は足をお運び下さい。
①YOU(2024年)
パンフレットには「聴衆と奏者、音楽と騒音、さまざまな境界線が曖昧になり、ステージ上で目撃したものは、あたな自身からもしれない。」と記載されていますが、聴衆は開演時及び終演時だけではなく各楽章間にも拍手することが求められるコンセプチャルな作品でした。冒頭、開演時の拍手の最中にボディー・パーカッションによる演奏が開始され、ヴァイオリン、スネアドラム、フルート、クラリネットの器楽演奏に転じながらリズム的な点描からメロディー的な線描へと音楽的な演奏に変化して舞台と客席に空間的に区別されましたが、再び、メロディー的な線描からリズム的な点描、ボディー・パーカッションによる演奏に戻って聴衆の拍手に回収され、舞台と客席に空間的な区別が曖昧になるという趣向の曲に感じられました。SNSの時代には、日々スマホの画面を通して他人の心をハッキングし(他人の中に見る自分)、他人に心をハッキングされ(自分の中に見る他人)、主体と客体の境界が曖昧になり相対的な関係性の中で揺らいでいる自分を発見しますが、そのようなことを感じさせてくれる面白い作品でした。
③ほどけた焦点を伝い(2024年)
パンフレットには「数年前から私の創作の中心には、故郷である山梨県、河口湖で幼少期から自然音を聴取した記憶の積み重ねによる、音の知覚や認識に対する興味がある。それを「朧げへの好み」と自身で捉え、その関心のもと作曲してきた。」と記載されていますが、岡倉天心らが生み出した近代日本絵画「朦朧体」の音楽版と言ったところでしょうか。微細音が揺蕩いながら朧げに音像が滲み浮かぶような幻想的な音世界が現出しました。フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロは湖面の小波を体現しているような線描的にならない波形の音を朧げに紡ぎ、研ぎ澄まされた清澄なピアノは湖面の煌めきや静謐を体現しているような幻想的な雰囲気を湛え、また、スネアドラムは風に愛撫される草木の微かな騒めきに優しく包まれているようで、正しく音のスケッチといった風情が魅力的でした。晩年の坂本龍一さんは病床で音楽よりも自然の音が心地良く感じられると語っていたそうですが、文脈を持たない自然の音は押し付けがましくなく、いつまでも静かに寄り添っていてくれる音であることを感じさせる作品でした。
⑥植木鉢(2019/2024年)
パンフレットには「この音楽は、単なる植物の命の描写ではなく、観察者の命の存在を予感している。楽曲構造や種々の表現、そしてそれがもたらす聴衆の聴覚反応は、植木鉢という容器に起因する観察行為の世界観に集約する。」と記載されています。過去のブログ記事でも触れたとおり、植物には感覚や知性があり部屋に誰が入ってきたのかも認知していると言われていますが、2008年にスイス連邦政府機関は「植物界における生の尊厳」という報告書を発表し、人類の生存や鑑賞の目的を超えた植物の採取は生命倫理上の問題を生じ得るという見解を示しています。フルートが息やキーパーカッションの音を使って植物が光合成のために呼吸を行っていることを表現し、また、プリペイド・ヴァイオリンとプリペイド・チェロがノイズを使って植木鉢の窮屈さを効果的に表現していました。植木鉢を舞台にして植物と観察者との間の無言のコミュニケーションが繰り返されているようでしたが、最後は自分も植木鉢に入れられてしまったような気分にさせられるシュールな芸術体験になったことを告白しなければなりますまい。
⑦矢野耕我 三者会合(2024年)
パンフレットには「本作品では、甲高い声で感情的な人(=ピッコロ)、冷静沈着だが頑固が人(=バスクラリネット)、会合の進行役だが怒りをため込んで爆発させやすい人(=ヴァイオリン)という異なる三者による会合の様子を、架空の「リズム言語」を用いて描写する。」と記載されていますが、まるで音楽による落語の風情がありキャラ映えのする笑える作品でした。キャラクターを言葉で表現するのではなく、それぞの特徴を捉えた音(リズム言語)にすることで、それぞれの音が我々の身の回りにいる特定の誰かを投射し易いメディアとして機能し、聴衆が勝手に「こんな人、いるいる」と妄想を膨らませながら楽しめてしまう面白い作品でした。冒頭、進行役のヴァイオリンの話しにピッコロとバスクラリネットは相槌を打っていましたが、やがて声が大きいバスクラリネットが威圧的な発言に及ぶとピッコロがヒステリーを起こし始めて、冷静なヴァイオリンが仲裁に入りますが、やがてヴァイオリンもキレ始めて三者三様に捲し立てる様子はまるで朝まで生テレビを見ているようで、実に人間臭い笑える作品でした。
⑤夕顔(2020年)
パンフレットには「スコアには『<夕顔>花言葉:「夜」「はかない恋」「罪」Bottle gourd 夏の花/花の色は白 源氏物語に登場する女性の名』とある。(中略)楽曲全体を通して、全音と半音を交互に並べることで得られるオクタトニック集合を参照しながら響きが構成」と記載されています。個人的には、「夕顔」(因みに、夕顔はウリ科、朝顔及び夜顔はヒルガオ科なので別種)と聞くと、歌人・小島ゆかりさんの第二歌集「月光公園」(雁書館)に収録されている「ゆふぞらに みづおとありし そののちの 永きしづけさよ ゆうがほ咲く」という有名な俳句を思い出しますが、夕暮れから翌朝まで人知れず咲く夕顔の別名は黄昏草とも言い、夕立(みずおと)が過ぎて静寂(しずけさ)に包まれた黄昏時に夕顔が夕闇に白い花を咲く儚い風情を連想させます。ビブラフォンが紡ぐ繊細な音が夕顔の花の蕾みを連想せますが、その音がペダリングによる残響として静寂に澄み渡っていくような風趣が感じられました。やがてダイナミクスを変化させながら響きを重ねて徐々に夕顔の花が咲いて行く様子が表現されているようでしたが、モーターを効果的に使った豊かな残響により夕闇の静寂と夕顔の躍動が神秘的に綾を成す幽玄で詩情豊かな世界が広がって、やがて静寂の中に消え入るという夢幻能を見ているような余韻深い曲趣で、夕闇に咲く夕顔の儚い美しさが仄かに香っているような演奏に魅了されました。
②④⑧セリグラフィー(2007/2017年)
パンフレットには「作曲家はさながら、様々なふるい、テンプレート、色彩、印刷技法を駆使する技術者のように、テンポやピッチ、音色、ダイナミクス、アーティキュレーションといった要素を操作しつつ、そのモティーフを時に認識可能な、時に認識不可能なレベルで変化させてゆく。」と記載されています。フォーレのノクターン、バルカロール、プレリュードⅠ、プレリュードⅡ、プレリュードⅢをフィーチャーし、セリグラフィーの手法を使って作曲されており、各曲別の感想は付しませんが、この傑作が(日本でも音盤は入手可能ですが)未だに日本初演されていなかったとは驚きです。素人のプアーな耳ではフォーレのエッセンスがどのように変容されているのかを一聴しただけで聞き分けることは非常に難しく、レクチャーがあると鑑賞が深まると思います。.....とは言え、この曲が相当な魅力を備えていることは十分に感じられ、アルトフルート、バスクラリネット、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ビブラフォン、グロッケンシュピールという特殊な編成による多彩な音色を活かして1音1音の響きが非常に美しく感じられる印象派の魅力も湛えた薫り高い曲に感じられ、いつまでも身を委ねたくなるような心地よい曲に魅了されました。この曲の美観極まるデリケートで精妙な演奏も出色でして、是非、このメンバーによる録音盤も期待したいく、また、この曲の日本での演奏機会の増加も望みたいです。
▼現代音楽レーベル「KARIOS」から日本人現代作曲家の作品が相次いでリリース世界トップレベルの現代作曲家の作品を中心にリリースして数々の国際賞を受賞するなど現代音楽の分野で高い評価を受けているオーストリア(ウィーン)の現代音楽レーベル「KARIOS」から日本人現代作曲家の細川俊夫さんのアルバム「Works for Saxophone」(2024年4月発売)と桑原ゆうさんのアルバム「Sounded Vioce,Vioced Sound」(2024年6月発売)が相次いでリリースされています。これまで日本人現代作曲家では、世界的に評価が高い細川俊夫さん、藤倉大さん、桑原ゆうさんの3人の作品がリリースされています。▼光と色彩の響き〜ベルリン・フィルとチン・ウンスク現在、ベルリン・フィルのデジタルコンサートホールで現代作曲家のチン・ウンスクさん(1961年~)が自らの作曲家人生、音楽観や代表作を語った映像「光と色彩の響き」(ベルリン・フィルの自主レーベルからリリースされている「チン・ウンスク作品集」の特典映像)が無料公開されています。もう少し日本でもチン・ウンスクさんの作品が採り上げられるようになってくれることを切望したいですが、個人的な印象としては、世界的に評価が高いチン・ウンスクさんや細川俊夫さんなどの世界トップレベルの作曲家の作品は独特な世界観を持ち何度も聴いてみたくなるような筆致の優れたユニークな傑作が多く、これならの傑作ならば聴衆の心を掴むことも可能ではないかと常々感じています。▼アマチュアオーケストラの現代音楽ブームこれまでにもアマチュアオーケストラが現代音楽を採り上げた演奏会を紹介してきましたが、アマチュアオーケストラにも現代音楽ブームと言えそうな状況が生まれています。2024年6月23日に弥生室内管弦楽団が現代作曲家の水野修孝さん(1934年~)の作品を採り上げた演奏会及びアンサンブル・フランが現代作曲家の佐原詩音さん(1981年~)の作品を採り上げた演奏会が開催され、また、2024年7月21日には東京ユヴェンスト・フィルハーモニーが現代作曲家のG.リゲティ-さん(~2006年)の作品を採り上げる演奏会を開催する予定になっています。もともとアマチュアオーケストラの団員にはかなりコアな音楽愛好家が多いと聞いていますが、アマチュアオーケストラの演奏会に現代音楽をかけてくる状況はアマチュアオーケストラの演奏技量の向上と共に現代音楽を嗜む音楽愛好家層の裾野が広がってきている証左と思われます。




