大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

新交響楽団第269回演奏会(芥川也寸志生誕100年)とヤポネシアの耳第2回公演~邦楽器をめぐる7つの響命~と独演会「志ん輔蝉の会」(古今亭志ん輔、淡座)と東京都交響楽団第1020回定期演奏会Aシリーズ(作曲:夏田唱和ほか)と「科学と宗教のコスモロジー」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「科学と宗教のコスモロジー」(ブログの枕)
渋谷の新しいランドマーク「渋谷スカイ」では、毎月、屋上展望空間「スカイ・ステージ」(地上高229m)に設置されている天体望遠鏡を使った天体観測イベントが開催されており、月、木星、土星や天の川などを観測できます。渋谷という地名の由来は諸説ありますが、JR渋谷駅の周辺はの地形で鉄分を豊富に含む(鉄の赤サビが生む茶褐色)の川が流れ込んでいたことから「渋谷」と呼ばれるようになったと言われており、地の川が流れ込む渋谷から夜空に広がる天の川を観測して宇宙のロマンに思いを馳せてみるのも洒落ているかもしれません。「宇宙」という言葉は、「宇」(空間)と「宙」(時間)を意味していますが、古代から人類は夜空に広がる星を観測しながら移動に必要な「方角」(宇=空間)に関する情報や農耕に必要な「季節」(宙=時間)に関する情報を得ていたと考えられています。紀元前3000年頃にメソポタミア文明を築いたシュメール人が星と星を結んだ星座を生み出し、それが古代ギリシャに伝わってギリシャ神話を育み、天文学のみならず宗教や文化としても発展しました。古代バビロニアの宇宙観は天上界(神)と地上界(人間)を区分する二元論的な世界観、古代インドの宇宙観は天上界(神)と地上界(人間)を区分しない一元論的な世界観を生み出しましたが、過去のブログ記事で簡単に触れたとおり気候変動の要因などがこの世界観の違いを生んだものと考えられます。また、過去のブログ記事で簡単に触れたとおり中世までの宇宙観は天動説(科学)とキリスト教(宗教)が結び付いて地球を中心にして太陽、月、惑星が真円軌道(神の絶対秩序)を周回しており天上界は神の領域と考えられていましたが(科学と宗教の結合)、近世以降に太陽を中心にして地球を含む惑星が真円軌道を周回している地動説(科学)が説かれるとキリスト教(宗教)の宇宙観と矛盾が生じ、その後、太陽を中心にして地球を含んだ惑星が楕円軌道(神の絶対秩序は幻想)を周回していることや万有引力の発見で天上界と地上界が同じ原理で規律されていることなどが説かれたことによりキリスト教(宗教)の宇宙観は否定されることになりました(科学と宗教の分離)。現在はE.ハッブルにより宇宙の膨張が観測されたことなどを契機として相対性理論(マクロの世界を記述する物理学)と量子物理学(ミクロの世界を含めて記述する物理学)を統合するための理論(量子重力理論)が探求されています。因みに、大まかな目安として、0.1ナノメートル(=1ミリメートルの1000万分の1=1オングストローム)以上がマクロの世界、それ未満がミクロの世界と捉えることができそうです。宇宙誕生の物語は諸説がありますが、その代表的なモデルをごく簡単にサマライズすると、以下のようになるのではないかと思います。
 
▼1分で読む宇宙誕生の物語
スカラー場やヒッグス場などの専門用語はマルっと割愛し、ちびっ子達にも直観的にイメージし易いような表現で物語ってみました。よく「死んだら星になる」という言い方をしますが、以下の③などにより生成された物質が重力(時空の歪み)などにより結合して星や銀河を形成し、その過程で生成された元素から生物は組成されていますので、人は「星のカケラ」とも言われています。人が死んだら星になり、星が死んだら人になるという輪廻観はモリかもしれませんがホラとまでは言えないかもしれません。
 
①宇宙の根源(真空)
真空でもエネルギーは完全に無になることはなく粒子と反粒子が生成と消滅を繰り返す量子ゆらぎの状態(真空エネルギー)にあり、真空がより低いエネルギー状態に変化すること(真空の相移転)で、その差分のエネルギーが波(場のエネルギー)として顕在
 
②宇宙の容器(時空)
上記①で顕在した場のエネルギーが非常に高密度になり、時空の急膨張(インフレーション)を引き起こして宇宙の基本構造を形成
 
③宇宙の中身(物質)
インフレーションの終了に伴う再加熱により場のエネルギーが粒子エネルギーや熱エネルギーなどに変換され(ビッグバン)、宇宙が冷却する過程で粒子エネルギーや熱エネルギーなどから物質(素粒子→原子→分子)が生成されて現在の宇宙を形成
 
※宇宙の終末シナリオとしては「ビッグリップ」(宇宙が膨張を続けてバラバラになるシナリオ)、「ビッグクランチ」(宇宙が膨張から収縮に反転してペチャンコになるシナリオ)、「真空崩壊」(宇宙の真空の状態が変化して時空が崩壊するシナリオ)などが理論的に予測されています。
 
宇宙誕生の物語を俯瞰すると、「ある」「ない」などの状態が定まらない揺らぎ(不確定性)から「ある」「ない」などの状態が定まる(確定性)過程で、現在の宇宙が形成されたとイメージすることができるかもしれません。人間は確定的な状態のみを知覚することができますが、観測機器の開発などにより不確定性に基づく諸現象を観測又は予測することができるようになり、マクロ(確定性)の世界観を記述する古典物理学とミクロ(不確定性)の世界観を含めて記述する現代物理学が発達しています。重力は、質量やエネルギーによって時空が歪む現象(質量やエネルギーが時空の歪みに沿って動くことでお互いに引き合っているように見える現象が生まれ、ニュートンはこの現象面を捉えて万有引力の法則を発見)であり、その歪みが時空を波として伝播する現象が重力波ですが(但し、現代科学でも重力や重力波が生まれる理由は不明)、宇宙には大量の質量やエネルギーがあるにも拘らず、それらから生まれる「引力」(重力)に逆行して宇宙が膨張を続けている理由として引力とは逆の斥力を生む「ダークエネルギー」(宇宙全体の約71%)の存在が予測されています。また、銀河の質量(引力)に対して銀河の回転速度(遠心力)が速過ぎるのに銀河が遠心力でバラバラにならないことや銀河を構成する内側の星と外側の星で公転周期が一致していること(内側の星と比べて外側の星の公転周期が長くなることはなくレコード盤のように公転)などから強力な引力を生む大量の質量を持った「ダークマター」(宇宙全体の約24%)の存在が予測されています(宇宙全体の残り約5%が元素周期表の元素で構成されている物質)。ダークエネルギーやダークマターは発光や収光がないので直接的に観測することは不可能と考えられていますが、その存在を示す現象は観測されています。この点、ダークマター、ダークエネルギー、ビックバンやブラックホールなどを解明するためには相対性理論(マクロの世界)と量子力学(ミクロの世界)を統一する「量子重力理論」(ループ量子重力理論、超弦理論など)の確立が必要と考えられています。しかし、現状、宇宙に存在する4つの力のうち電磁気力、強い核力、弱い核力を量子力学(量子場理論)で記述することには成功していますが、重力を量子力学で記述することには成功しておらず、宇宙全体(マクロの世界からミクロの世界までの全体)を統一的な理論で記述することは実現していません。この点、重力を量子力学で記述するためには時空が離散的であることが必要ですが、相対性理論は連続的で滑らかな時空を前提にした理論であることからこれと相容れず、重力を記述する統一的な理論(量子重力理論)の完成には困難な課題を克服する必要があると言われています(宇宙のウロロボス)。なお、仏教の宇宙観についてはインドの僧侶・世親の著書「倶舎論」(4世紀頃)に記述されていますが、その詳細な内容は定方晟さんの著書「須弥山と極楽」(ちくま学芸文庫)に譲ることにして、以下に少しだけ導入に触れておきたいと思います。上述のとおりキリスト教では神と自然を分離し(自然は支配の対象)、神の世界は人間の世界である地上界と区別された天上界にあると観念されていましたが、その一方、仏教では神仏と自然は一体(自然は畏敬の対象)であり神は自然(地上界)の中に宿ると観念され、それが仏教の宇宙観である須弥山として比喩的に表現されています。これによれば、人間がいる世界は贍部洲(肉体と欲望がある欲界)として表現され、そこは煩悩(散心の有情)に支配されていると考えられていますが、神がいる世界(天界)は須弥山(人間がいる世界と同じ地続きで、肉体はあるが欲望がない色界及び肉体や欲望がない無色界で構成)として表現され、そこは解脱や涅槃という悟りの境地(瞑想の状態)があると考えられており、仏教ではキリスト教のように神の救いを祈るのではなく自ら修行により煩悩を超えて須弥山を登ることで解脱や涅槃という悟りの境地に到る重要性が説かれています。その後に登場した大乗仏教では単一の世界ではなく複数の世界が並存しているという概念が生まれ(多元論的な世界観、さながらマルチバース宇宙論)、その複数の世界の1つとして天界(須弥山)とは別の極楽浄土(キリスト教の天上界のようなもの)が観念されましたが、現代人が極楽浄土などの宗教的な世界観を素直に受け入れることは難しいとしても、仏教教義が説く人生哲学や心を整える方法などの実践的な意義は見直されてきています。この点、科学的な世界観と仏教的な世界観は共鳴する部分もありますが、科学は「自然」を起点にして世界の実相(存在論的な真実:自然法則)を記述するための学問ですが、仏教は「人間」を起点にしてどのようにすれば苦しみから救われるのかという観点から世界の道理(実践論的な真理:縁起、無常、空などの思惟)を観念するための宗教であり、その発想や目的が全く異なっているように感じられますので、この両者を並べて語ることにあまり意味はないかもしれません。
 
 
▼新交響楽団 第269回演奏会(芥川也寸志生誕100年)
【演題】新交響楽団 第269回演奏会(芥川也寸志生誕100年)
【演目】芥川也寸志 オルガンとオーケストラのための「響」(1986年)
     <Org>石丸由佳
    R.シチェドリン ピアノ協奏曲第2番(1966年)
     <Pf>松田華音
    D.ショスタコーヴィチ 交響曲第4番ハ短調(1961年)
【演奏】<Cond>坂入健司郎
    <Orch>新交響楽団
【日時】2025年4月19日(土)18:00~
【会場】サントリーホール
【一言感想】
1955年に東京労音(アナログの時代に一世を風靡した民間の会員制音楽鑑賞団体「全国勤労者音楽協議会」の下部組織)の会員が作曲家・芥川也寸志さんを指揮者に迎えて東京労音アンサンブルを発足し、翌年に新交響楽団(東京労音新交響楽団)と改めて70年間に亘って活動しているアマオケです。日本最初のプロオケは1899年に設立された藝大フィルハーモニア管弦楽団(東京音楽学校管弦楽団)、日本最初のアマオケは1901年に設立された慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ(ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ)ですが、学生主体ではなく社会人主体のアマオケとしては1925年に設立された諏訪交響楽団が知られており、これらに次ぐ歴史を誇る新響はアマオケの草分け的な存在として、芥川さんの指導のもと本日の演目であるショスタコの交響曲第4番を日本初演し、また、そのシリーズ演奏会「日本の交響作品展」は1976年にサントリー音楽賞を受賞するなど日本のクラシック音楽の普及に重要な役割を担ってきた楽団と言えます。今でこそショスタコは演奏会の華として定番曲の地位を不動のものとしていますが、20年前は宛ら現代音楽のような不遇の扱いで演奏会で採り上げられる機会は殆どなく、未だナクソスのようなデジタルコンテンツもなかった時代にショスタコの音盤を求めて輸入盤を漁っていたこと(ショスタコの音盤を持ち歩いていると変態扱いされた時代感覚)を懐かしく思い出すにつけ、今日のような恵まれた状況になったことは新響の貢献が大きいのではないかと感じます。
 
①オルガンとオーケストラのための「響」(1986年)
この曲はサントリー株式会社第2代目社長の佐治敬三さん(創業者の鳥井信次郎さんの次男)がサントリーホールを創設するにあたりサントリーホール落成記念作品の作曲を作曲家の芥川也寸志さんに委嘱し、1986年10月12日から開催されたサントリーホールのオープニング・シリーズ落成式典で、最初に初代館長の佐治さんがパイプオルガンで「ラ(A)」の音を大ホールに響かせた後、サバリッシュ@N響(Org独奏は日本のオルガニストの草分け的な存在である林佑子さん)の演奏で世界初演された記念碑的な作品になります。同日の午前は落成式典(この曲、ベト@レオノーレ第3番)、午後は落成記念演奏会(ベト@交響曲第9番)、夕方は落成記念「ザ・ガラ」(様々な演目)で華々しい式典になったようです。佐治さんはサントリーホールの創設にあたって、H.カラヤンから「オルガンのないコンサートホールは、家具のない家のようなもの。オルガンは、ホールの真ん中になければいけない。コンサートホール自体が、オルガンを備えた楽器なのです。」と助言され、ベルリンフィルハーモニーホールと同じくヴィンヤード(ぶどう畑)型のホール構造にするように勧められ、それが世界最高峰を誇るサントリーホールの音響(客席の椅子の生地までぶどう柄にする拘りで、極上の音響空間が生み出す豊穣な音楽にほろ酔い気分!)として結実しています。なお、この曲のタイトルにある「響」とは、サントリーホールのパイプオルガン(世界有数のパイプ総数5898本とストップ数74が生み出す多彩な響き)に掛けて「人と自然と響きあう」というサントリーの企業理念から生まれたサントリーウィスキーのプレミアムブランド「」(24節気を表した24面カットのボトルデザインは四季の移ろいを象徴し、生成色の越前和紙に「響」の文字を墨書した趣きのあるラベル)を意識したものではないかと思いますが、日本の気候風土が育んだモルトとグレーンが醸し出す繊細な香りと豊かな味わいの極上のハーモニーが世界から高い評価を受けています。かくして、今年で生誕100年を迎えた芥川さんがサントリーホールの落成式典のために作曲した作品を他ならぬ芥川さんの手兵である新響がサントリーホールで再演することの意義は非常に大きく、この演奏会に立ち会えたことが感慨深く感じられます。サントリーホールの落成式典で演奏するための曲だけあって、サントリーホールの顔であるパイプオルガンを中心に据えてサントリーホールとオーケストラを一つの楽器として幅広い音域(音高)、音色や音量で鳴らし切ることを意識した作品に感じられます。当時はアナログ時代で観客の感想が残されていないのが残念ですが、冒頭でクロティルが奏でるモチーフの儚げな響き(さながら真空に宿る音の種)が澄み渡り、サントリーホールの響きが別次元にあることを強烈に印象付けるものになっています。それがオーケストラに伝播して高い緊張感(高いエネルギー)で張り詰めた微弱音を奏でますが、突然、サントリーホールの響きが飽和するようなタムタムの大音量が充満して、さながらサントリーホールの響きが生まれた瞬間(ビックバン)を表現しているように感じられました。その後、サントリーホールの響きの宇宙を体現するパイプオルガンが重厚な和音と疾風のトッカータを繰り返しますが、オルガニストの石丸由佳さんが精妙なペダリングやレジストレーションでパイプオルガンのポテンシャルを存分に引き出しながら、オーケストラとのバランスに配慮された好演を楽しめました。これに触発されてオーケストラが覚醒し(さながら響きの銀河)、アマオケとは思えない合奏精度の高さでモチーフの受け渡しにも隙がない洗練されたアンサンブルを展開し、精妙に響きをコントロールする構成感のある好演を楽しめました。このような見通しの良い演奏を実現しているのは、指揮者の坂入健司郎さんの音楽的なビジョンの明晰さと共に、それに的確に応える個々のオケ団員の技量の高さが相乗している賜物だと思います。本日はトラが乗っていたのか否か分かりませんが、とりわけファゴット、フルート、トロンボーンを筆頭にして管楽器の秀演が目だっていたと思います。再現部を経て、コーダではオーケストラがサントリーホールの響きを飽和させる力強いクライマックスを築いて終演となりました。某雑誌の対談で音楽学者の岡田暁生さんが「クラシック音楽の賞味期限切れ」について語られているのを拝読しましたが、変革の時代を迎えて新しく多様な芸術表現が模索される時代状況のなか、来年で開館40周年を迎えるサントリーホールは多様な芸術表現が生む新しいニーズに十分に応えるためにコンサートホールのあり方という観点での進化が求められているようにも感じ(新約聖書マタイによる福音書第9章第17節新しいぶどう酒は新しい革袋に盛れ」)、その意味で来年はサントリーホールの次の50年を見据えた準備のための10年が始まる年と言えるかもしれません。
 
②ピアノ協奏曲第2番(1966年)
ロシア人児童文学作家のS.マルシャークがスロバキア民話を題材にして創作した戯曲「森は生きている」は日本でも音楽劇(オペラミュージカル)やアニメ映画として親しまれていますが、1989年にR.シチェドリンはホリプロの委嘱で同書を題材にした日本語ミュージカル「12ヶ月のニーナ 森は生きている」を作曲し、名古屋の中日劇場(2018年に閉館)で初演しています。その際の詳しい経緯がパンフレットで紹介されていて大変に興味深く拝読しました。ピアニストの松田華音さんは2021年11月25日に飯森範親@日本センチュリー交響楽団とR.シチェドリンのピアノ協奏曲第1番を日本初演して話題になりましたが、本日はR.シチェドリンのピアノ協奏曲第2番が演奏されるというので楽しみにしていました。過去のブログ記事でも書きましたが、R.シチェドリンがD.ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」に倣って作曲した同名タイトルの「24の前奏曲とフーガ」の実演にも接してみたいと切望しており、是非、松田さんに採り上げて欲しいと期待しています。この点、約20年前はD.ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」(だけではなく交響曲を含む殆どの作品)が演奏会で採り上げられる機会は皆無に等しく、2006年にピアニストの三宅麻美さんがD.ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」の全曲演奏会を開催し、初めて実演に接する機会に恵まれて興奮を禁じ得なかったことを思い出します。さて、第一楽章の冒頭では松田さんが粒際立った硬質なタッチとセンスの良いフレージングで無機質な音列の中にも歌心を感じさせる華(面白味)のある演奏で魅了してくれましたが、何と豊かな音楽性を持ったピアニストなのでしょうか。やがてピアノとオーケストラが小気味よい丁々発止で渡り合う緊密で隙がないスリリングな演奏を繰り広げ、一気に会場の空気を呑み込んでしまう熱演に惹き込まれました。坂入さんはデュナーミクを精妙に操りながら音楽にメリハリやテンションを生んで行く表情豊かな演奏を聴かせていましたが、この高い水準の要求に的確に応えてしまうオケ団員の技量の高さ(とりわけ管楽器)に惜しみない賛辞を送りたいと思います。カデンツアでは松田さんが思索的に紡ぎ出す1音1音に背筋が凍り憑くような研ぎ澄まされた美しさが湛えられており、その詩情溢れる演奏は恍惚感を覚えるほどでした。第二楽章はショスタコーヴィチを彷彿とさせる諧謔性に富むトランペットが出色で、ピアノとオーケストラが感興に乗じたリズミカルなアンサンブルを展開し、正気と狂気の狭間を縫うような閃き溢れる演奏に息を呑みました。ピアノが快活なスタッカートでオーケストラを挑発すると、これにオーケストラは活舌良く呼応して一歩も譲らず、ゾクゾクするようなスリリングなアンサンブルに思わずニヤケてしまいました。オモロい。第三楽章はピアノの連打が醸し出すメランコリックな雰囲気に誘われるように、弦が哀切感漂う濃厚なアンサンブルを展開しましたが、突然、モダンジャズの軽快なピースが挟まれ、テンションの高いピアノにコントラバス、ドラムス、ピアノ、ビブラフォンが機敏に呼応する即興感のある演奏が効果的に対照されており、「弘法、筆を選ばず」とはこのような演奏のことを言うのだろうと思わせるグルーブ感に打ちのめされてしまいました。ジャズバー「サントリーホール」の風情にすっかり魅了されましたが、主治医から禁酒令が解除されたら久しぶりにジャズバーに通ってみたいと思わせてくれる好パフォーマンスを楽しめました。これに触発されたオーケストラ(クラシック陣営)は暴力的なリズムで殴り込みをかけてくるピアノ(クラシックとジャズの双方の素性を持つピアノ)と丁々発止に渡り合い、その狂気的で緊迫感を伴うアンサンブルはクラシックの原子核がジャズの原子核と相互作用して核融合反応を起こしているような規格外の演奏に興奮を禁じ得ませんでした。最後はピアノとオーケストラが一体になってリズミカルにクライマックスを築く好奏を楽しめました。ヴラヴィー!
 
<アンコール>R.シチェドリンのバッソ・オスティナート
アンコールとして、R.シチェドリンのピアノ独奏曲「2つのポリフォニックな小品」より第2曲「バッソ・オスティナート」が演奏されました。この曲は日本の演奏会でも採り上げられる機会が多い人気曲だと思いますが、左手の堅牢なリズム(バッソ・オスティナート)と右手の軽快なステップが心地良いバランスで絡み合い、中間部、再現部を通して当意即妙で奔放自在な演奏を楽しめました。単に上手な演奏ということに留まらず、音楽に宿る霊性を発現して聴衆の魂を奮い起こす力を兼ね備えた豊かな音楽性に感じ入る充実した演奏を楽しめました。おそらく「御魂振り」の「楽」とは、このような演奏のことを言うのだろうと思います。今を時めくピアニストであることが得心させられる好演でした。ヴラヴァー!
 
③交響曲第4番ハ短調(1961年)
この曲は(もはや)定番曲なのでごく簡単に。アマチュアとは思えない合奏精度の高さで解像度が高く雄弁なアンサンブルは十分な聴き応えがあるもので、この曲の日本初演を果たした伝統ある楽団の面目躍如たる好演を楽しめました。個々のオケ団員の技量の高さに裏打ちされた精緻なアンサンブルは卓抜した機動力を発揮し、タコ節を存分に堪能できる満足度の高い演奏を楽しめました。強いて難癖をつけるとすれば、もう少し狂気を演出して欲しかったという憾みが残るところもあり、それが音楽に潜むアイロニカルな隠し味を薄めてしまっていたように感じられるところもありましたが、多分に個人的な嗜好の問題かもしれません。坂入健司郎さんはこのアマオケのポテンシャルを自在に引き出し、マーラー、チャイコフスキーやストラヴィンスキーの出汁が充分に効いている風味豊かな演奏で魅了していました。
 
 
▼ヤポネシアの耳 第2回公演
【演題】ヤポネシアの耳 第2回公演
    ~邦楽器をめぐる7つの響命~
【演目】①橋本朗花 共命の鳥(2025年)
     <篠笛>山本一心
     <篳篥>阿部三世子
     <シンセサイザー>野口文
     <ピアノ>橋本朗花
    ②柴田歩 素描之鏡(2025年)
     <邦楽囃子>宮田花和
     <Vc>丸山悦未子
    ③吉田奏子 1000✕2000(2025年)
     <笙>青木総喜
     <Pf>渡辺俊爾
     <Sax>福永健治
    ④畠山春朗 Facing Light/継承(2025年)
     <十七絃筝>小原瑠里
     <Mez>下田一葉
     <Ten>阪本京
     <Perc>Theo Guimbard
    ⑤佐藤伸輝 Asian Music Guide2(2025年)
     <筝>鹿野竜靖
     <Fl>菊地奏絵
     <サンプラー>佐藤伸輝
    ⑥浦山翔太 月を創ろう!(2025年)
     <筝>吉越大誠
     <尺八>吉越瑛山
     <Vn>東佳菜子
     <Cb>水野斗希
    ⑦江田士恩 不確かの彼方へ(2025年)
     <笙>カニササレアヤコ
     <Vn>青山暖
     <尺八>尾代紗央里
     <Gt>河野智美
     <日本舞踊>花柳禮志月
【日時】2025年4月21日(月)19:00~
【会場】渋谷区文化総合センター 大和田伝承ホール
【一言感想】
過去のブログ記事で「ヤポネシアの耳」第1回公演~邦楽器をめぐる6つの邂逅~の感想を簡単に書きましたが、第2回公演~邦楽器をめぐる7つの響命~が開催されるというので聴きに行くことにしました。この演奏会のコンセプトは演題からも察しが付くとおり、「ヤポネシア-すなわち日本列島は、その地質上に影響により大きな災害が多くモノも朽ちやすい。そんな場所で日本人は、常に明日の命さえも不確かな存在として生きてきました。その儚い生命感は、邦楽器独自の美的感覚にも影響していることでしょう。」(パンフレット)という認識のもとに「邦楽器を通した表現により、生命や人生に共鳴するフィールドを生み出す」(パンフレット)ことを本願としているようですが、前回のブログ記事でも簡単に触れたとおり、外国人が行き交う渋谷の街に象徴される現代のヤポネシアの群像を踏まえて現代人の視座から和魂を捉え直し、「かこ」を懐かしむだけではなく「いま」を見詰める和魂多才を超えて「さき」を切り拓くための和魂創才を模索する野心的な活動のように感じられました。前半の4作品は外世界を描くダイアローグ、後半の3作品は内世界を描くモノローグと言えるかもしれませんが、各曲毎にごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①共命の鳥(2025年)
第1回にも出演されていた橋本朗花さんが再出演されていましたが、パンフレットには「本作では必ず二つの楽器が対になっています。そして、「カルダ↔ウバカルダ」の関係値を「奏者↔観客」に見立てています。」と記されています。タイトルの共命鳥は大乗仏教が説く想像上の生物ですが、「自他不二」(トランプ関税が諸刃の剣になっている現状)や「天人合一」(地球環境破壊などに起因する異常気象)などの現代的なテーマ性を内包する非常に着眼点の優れた作品に思われます。篠笛、篳篥、ピアノ及びシンセサイザーという珍しい編成のアンサンブルでしたが、前回のブログ記事で触れたとおり異質なものを結び付けて共存、調和させる「和える」文化を基調として日本的な美意識である「あわせ」や「かさね」が体現されている作品に感じられました。シンセサイザー(デジタル、非平均律)とピアノ(アナログ、平均律)、篠笛(横笛、曲線美)と篳篥(縦笛、直線美)は、それぞれ鍵盤楽器及び管楽器として対照的な性格を持つ楽器と位置付けることができそうですが、これらの多様な楽器を様々に組み合わせたアンサンブルが展開されました。冒頭ではシンセサイザーの非楽音(ノイズ)及びピアノの楽音で伴奏を奏でるなか篠笛が鳥の声を模倣しましたが、やがて篠笛の曲線美と篳篥の直線美を並置したアンサンブルが奏でられ、それらを「混ぜる」のではなくそれぞれの特徴的な違いを「かさね」や「あわせ」て調和するような音楽が奏でられました。その後、シンセサイザー(デジタル)とピアノ(アナログ)が響きの渦を巻きながら、それぞれの境(違い)が曖昧となる精妙なグラデーションが奏でられました。篠笛とピアノが線的な優美さが際立つメロディアスな音楽を奏でたのに対し、シンセサイザーと篳篥が面的な広がりが際立つ音響的な音楽を奏でるなど、それぞれの楽器に共通する特徴を捉えたアンサンブルが奏でられ、異質なものを結び付けて共存、調和させる「和える」文化により多様性の時代に対立、分断ではなくそれぞれの違いを大らかに許容して調和するという仏教哲学を体現しているような音楽に感じられ、それを奏者と観客が体験共有するという面白い舞台に感じられました。
 
②素描之鏡(2025年)
柴田歩さんは初出演ですが、パンフレットには「日本人が持つ独特の感性ともいえる自然音の素描に対して、西洋音楽の代表的なメロディーをチェロが引用してり、重ね合わせたりすることで季節を映し出していく。」と記されています。歌舞伎の下座音楽で使用されている10種類の楽器、チェロという編成のアンサンブルと照明の演出を組み合わせた作品でした。通常、下座音楽は黒御簾の中で演奏される陰囃子であり、あまり目の前で演奏を拝聴する機会がないので興味深かったです。下座音楽は、唄(声):情緒、合方(三味線):雰囲気、鳴物(三味線以外の楽器):効果音があり、そのうち鳴物囃子方の名跡として望月流がありますが、この「望月」という姓(流派名)は長野県出身である初代・望月太左衛門が能「姨捨」(世阿弥作)の詞章にある「・・・今宵の月の惜しきのみかは。さなきだに秋待ちかねてたぐひなき。名を望月の見しだにも。おぼえぬ程に隈もなき。姨捨山の秋の月。余りに堪へぬ心とや。・・・」に由来したものだそうですが、この作品では「望月」の風情がどのように鳴物で表現されていたのかをうっかり聴き逃してしまい、風流心が至らない浅学菲才な身の上を恥じ入るばかりです(苦笑)。この作品は四季の風物や風情を音楽と照明で表現するものでしたが、各季節はラチェットのような楽器により区切られ、各季節のイメージに合う色調の照明に切り替えられましたが、各季節の冒頭で(邦楽囃子ではなく)チェロがヴィヴァルディーの四季のモチーフを奏でることでどの季節を表現したものかを知らされるという和魂をなくした現代の日本人に対するアイロニーたっぷりの構成になっているように感じられました。各季節の風物や風情が鳴物(太鼓、鼓、笛、貝、うちわ、鈴などの多種多様な楽器)を使った音のアイコンとして表現されていましたが、些か断片的で忙しない印象を受けたところもありましたなので、鑑賞の手掛かりとして何か物語性を持たせた方がより面白い作品になったかもしれないと感じられました。
 
③10002000(2025年)
吉田奏子さんは初出演ですが、パンフレットには「古典の季節と、現代の季節では、始まる月が違う。古典(1000)は1月から、現代(2000)は4月から始まる。本作品は、季節の中でも演奏会が行われる春にフォーカスを当てる。(中略)昔の人々は、桜を見てどう感じたのだろうか。」と記されています。古代(旧暦)と現代(新暦)の暦差を踏まえると古代の1月は現代の2月上旬~中旬に相当し、丁度、梅の花が綻び始める時期にあたります(古代人の花は梅、現代人の花は桜ですが、古代の歌人の和歌を詠むと季節感に大きな差異はないように感じられます)が、この作品は古代から現代まで変わりなく咲き続ける「桜」をモチーフにして、それを見る日本人の変転を表現した面白い作品に感じられました。第一楽章では笙とピアノのアンサンブルで古代の「桜」が描かれていましたが、笙の澄んだ空気感、ピアノの淡い色彩感は、吉野山の山桜のように自然に自生する桜の風情(はかなし、もののあはれ)が表現されているように感じられました。第二楽章ではサックスとピアノのアンサンブルで現代の「桜」が描かれていましたが、同じ管楽器でも素性来歴が全く異なるサックスを使って時代の飛躍が効果的に表現されていました。無機質で忙しない現代人の日常と、時代を超えて咲き続ける「桜」の変わらぬ美しさの対比が効果的に表現されているように感じられました。第三楽章では笙、サックスとピアノのアンサンブルで古代と現代が交錯しながら「桜」が描かれていましたが、笙とピアノが日本古謡「さくらさくら」(但し、実際は江戸時代に創作された曲)のモチーフをゆったりとしたテンポで奏で出し、やがて忙しないテンポのサックスが加わるとそれに感化された笙がテンポアップしますが、再び、笙がゆったりとしたテンポに戻って終曲になりましたが、さながら一般相対性理論(地に足の着いた(重力の強い)生活を送る古代人は時間の進み方が遅く、地に足の着かない(重力の弱い)生活を送る現代人は時間の進み方は速いという時代感覚)を表現しているようにも感じられる面白い作品でした。そいえば、会場の近くにある渋谷の「宇宙桜」は今年も花をつけていましたが、未来(3000年)の日本人はスペースコロニーで桜を見ているかもしれず、さらに地に足の着かない(さらに重力の弱い)生活を送っているであろう未来人は現代よりも(一般相対性理論で記述される物理的な意味だけではなく、生活のテンポという意味での)時間の進み方が速くなっているのかもしれません。
 
④Facing Light/継承(2025年)
畠山春朗さんは初出演ですが、パンフレットには「大阿蘇」(三好達治)は自然のスケールの大きさ、それに対する人生の短さ、それをも受け止める自然の懐の大きさを表すのに対し、「Do not go gentle into that good night」(Dylan Thomas)は死に抗い、生を渇望し、生に執着している。私はこれを親と子、静と動、和と洋に見立て表現した。」と記されています。前者をテノールの坂本京さんと十七絃筝の小原瑠里さんが、後者をメゾ・ソプラノの下田一葉さんとパーカッションのTheo Guimbardさんが演奏し、やがて前者と後者が交錯しながら1つの境地に収斂されて行く作品に感じられました。冒頭では、パンフレットにあるとおりテノールが十七絃筝の伴奏に乗せて「大阿蘇」の詩に込められている無為(放下、解脱)の心境を心穏やかに歌いましたが、これに対してメゾ・ソプラノはパーカッションの伴奏に乗せて「Do not go gentle into that good night」の詩に込められている有為(執着、輪廻)の心境を激しく動揺して歌うことで、二つの世界観が対置されていましたが、やがてテノールとパーカッション、メゾソプラノと十七絃筝が交錯しながら、最後にテノールとメゾソプラノが十七絃筝とパーカッションの伴奏に乗せてユニゾンで死を迎えて叙情的な歌で締め括る終曲になりました。十七絃筝と歌の相性が良いのは言うに及びませんが、今回はパーカッションと歌の相性を存分に引き出した畠山さんの作曲技量の高さと共に、Guimbardさんが多彩な音色でリズムとデュナーミクを精妙に操りながらニュアンス豊かに歌にドラマを添えて行く好演を楽しめました。個人的には、この作品が本日の演目の白眉でした。ヴラヴィー!
 
⑤Asian Music Guide2(2025年)
第1回にも出演されていた佐藤伸輝さんが再出演されていましたが、パンフレットには「作曲家自身の日中ハーフであるルーツに立ち返り、日本と中国のはざまで生じるアイデンティティの齟齬や違和感を、生々しく表現、「自画像」としての側面を持つ。」を記されています。筝、フルートとエレクトロニクス(サンプラー)という編成のアンサンブルで、和と洋、アナログとデジタル、楽音と非楽音が混然と一体になっている現代の世相を体現している作品に感じられました。激しい筝の刻み、フルートのタギングと、これにサンプラーによる電子音が加わってテレビゲームのようなデジタル・チックな音響が生み出されていましたが、もはや和と洋、アナログとデジタルの境界という二項対立軸の世界観が有効とは言えない量子力学的な世界観(絶対性→相対性→関係性)が描かれているようで大変に興味深かったです。街中で見かける若者のファッションやメイクはアニメの世界観(2次元)を現実の世界観(3次元)に「うつし」たものであり、令和の「虚実皮膜の間」としてファクションな世界観(2.5次元)を体現しているように感じられますが、幼少期からアニメ(視覚)やテレビゲーム(聴覚)に親しんできた若者達の心に育まれてきた感受性の発現として昭和世代には非常に刺激的な現象で、この作品もそのような時代感覚として楽しむことができました。筝、フルートとエレクトロニクス(サンプラー)が倍速再生のような快速調のテンポから等速再生の演奏に戻り、最後にエレクトロニクス(サンプラー)を伴わない筝とフルートによるアコースティックな演奏に帰着し、現代のファクションな世界観(2.5次元)の素性由来を物語る構成になっているように感じられて面白かったです。最近、ライブ・エレクトロニクスの作品も増えてきましたが、その観点からはアナログとデジタルをシームレスに接続し、それらをヴィヴィットに往還しながら1つの世界観として描くことに成功している現代を時代性を湛えた作品に感じられ、これからの活躍が大変に楽しみな作曲家の1人です。
 
⑥月を創ろう!(2025年)
第1回にも出演されていた浦山翔太さんが再出演されていましたが、パンフレットには「私たちには、消えない「明かり」が必要なのです。それは-「希望」と呼べㇾうものかもしれません。無いのなら、作らなければならないのです。」と記されています。昔から日本人は自らの心を月に映して和歌に詠んでいますが、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(菅原道長)や「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮き世の月に かかる雲なし」(大石内蔵助)などの有名な和歌に詠まれている心晴れするような月を待ち侘びながら人生の暗闇を耐え忍ぶという芝居掛った演歌節が昭和好みでしたが、どうせなら人生の暗闇を照らす月を創ってしまおうという令和の若者らしい発想の作品に感じられました。果たして、この作品が「月」(希望のメタファーとしての人生を照らす明かり)を描写することを目的として創作されたものか否かは分かりませんが、この作品のタイトルを鑑賞の手掛りとして「月」のイメージをプロジェクションしながら拝聴しました。尺八が未だ音にならない息の音を奏でると、これにコントラバスのフラジョレット、筝のスタッカート、ヴァイオリンのポルタメントが加わり、宛ら朧月夜のような風情を醸し出していましたが、やがて尺八がしっかりとした節回しを奏でると、これにコントラバス、筝、ヴァイオリンが様々に絡み合いながら多彩な表情を添えて行き、様々な月明りが音楽的に演出されているように感じられました。本来であれば、僕らの世代が次の世代の足元を照らす月を創らなければいけないと思いつつ、自らの不甲斐ない身の上を恥じ入りながら楽しみました。
 
⑦不確かの彼方へ(2025年)
第1回にも出演されていた江田士恩さんが再出演されていましたが、パンフレットには「本作「不確かの彼方へ」は、前作「燃ゆる命の十景」の楽器編成に「翳り」の要素として尺八とギターを加え、時間の構造をそのままに、一つ一つの場面を再構築する形で作曲した。人生とはどの場面においても、決して明るいだけではない-もっと割り切れなくて不確かなものだ。」と記されています。第1回のパンフレットには「誕生→死→幼年期→老い→青年期→家族愛→ロマンス→栄華→哀しみ→希望→現在」という物語性を持った場面展開で構成されている旨が記載されていますので、その「時間の構造」(誕生と現在を対置する構造)をベースにして創作されたものと思われますが、人生のレール(世間の模範)という軌道を歩むエリートとその軌道から外れる不良に2分類されていた昭和年間(確定性:古典物理的な世界観)とは異なり、多様性の時代へと社会の価値観が変遷した平成・令和年間(不確定性:現代物理的な世界観)には人生のレールは人それぞれのもの(世間の模範から個人の価値観)になっていますので、この作品は私小説という性格を持っているように感じられます。会場に広がる笙の和音(聴覚)と舞台を照らす照明の切替え(視覚)が場面展開の区切り(人生の節目)を表しているようでしたが、花柳禮志月さんが扇(金、銀)やかつぎ(白、黒)を使いながら上記の時間の構造に応じた人生観やライフイベントなどを舞踊で表現し、その伴奏やつなぎとしてアンサンブルやソロが添えられており、今回は尺八とギターを加えてことで、より詩情豊かな作品に深化された印象を受けました。最後は白と黒のかつぎを使って舞い納められましたが、「現在」の複雑な心情と吐露するかのような終曲が面白く感じられました。よく舞台表現は自らの殻を破って自らを曝け出すこと(自己開放)だと言われますが、「現在」の自分を曝け出して新しい自分(他者性)と巡り合うことで生まれ直すという趣意(誕生と現在が対置されている循環構造)が、私小説的な性格を持つこの作品の醍醐味のように感じられる面白い作品でした。
 
 
▼独演会「志ん輔蝉の会」
【番組】①ふぜいや
    ②おかめ団子(初演)
     <共演>淡座
    ③百年目(初演)
【噺家】古今亭志ん輔 師匠
【音楽】淡座
     <作曲>桑原ゆう
     <Vn>三瀬俊吾
     <Vc>竹本聖子
     <三味線>本條秀慈郎
【囃子】金山はる
【前座】桂枝平
【日時】2025年4月29日(祝・火)14:00~
【会場】紀尾井ホール 小ホール
【一言感想】
古今亭志ん輔師匠の独演会「蝉の会」はかつて国立演芸場で開催されていましたが、2023年に国立演芸場が建替えのために閉場されたのを契機に紀尾井ホールで開催されるようになり、その紀尾井ホールも今年8月に建替えのために閉場されることから、次回の「蝉の会」からどこで鳴こうか思案されているそうです。最近は新しい邦楽ホールも増えてきましたが、上述のとおりホールもこれからの時代の多様なニーズに応えるために脱皮が必要になっているということなのかもしれません。前座の桂枝平さんが古典落語「手紙無筆」で笑いをとって会場が温まったところで真打の登場になりました。各演目毎にごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①新作落語「ふぜいや」
落語の枕は昭和世代の遠い記憶の中に仄かに残る時代の匂いのようなものを精妙な噺芸で手繰り寄せるもので、そのまま自然にネタへと流れ込みました。師匠の洗練された噺芸はシチュエーション設定や場面展開が巧みで噺の世界観に惹き込まれましたが、幽霊も昔風情に変えられてしまう時代感覚の変化に大人の笑いが生まれていました。最近は手紙を書く機会がなくなりましたが、SNSが普及して人の間に適度な距離を保つことが難しくなり(人間=「関係」から人=「数」へ)、それが分断を助長する現代の時代性を生んでいますが、相手からの返事を待ち詫びて想いを募らせる(心を残すことで生まれる空想力)という手紙が持つ昔風情は失われてしまいました。
 
②古典落語「おかめ団子」(初演)
落語「おかめ団子」は麻布(飯倉片町)に実際に存在した団子屋(以下の写真を参照)を題材にして創作された噺で、淡座による現代音楽の演奏と共演されました。歌舞伎の下座音楽のように噺の場面展開や演出効果などを目的とした伴奏が添えられ、大根売りの善良な面(商売熱心で母親想いの真人間)は牧歌的なアンサンブル、馬鹿な面(母親想いの余りに魔が差す駄目人間)はチェロのピッチカートによる悪魔的なリズムのモチーフで表現され、不協和やハーモニクスなどを重ねながら大根売りの心が揺らぐ様子が巧みに表現されていました。噺が活写する物語の輪郭に音楽が色彩を添えながら噺と音楽が一体になって噺の世界観が立ち上がり、客の想像力を掻き立てる効果を生んでいたと思います。なお、おかめ団子という名前は団子屋の女房がおかめ顔であったことに由来していると言われていますが、おかめ顔という言葉は日本人女性に多い両頬が張り出した顔の形が甕(かめ)に似ていることを意味する愛称です。因みに、ひょっとこは竈(かまど)の火を竹筒で吹く火男が訛って生まれた愛称です。今日は古今亭志ん生師匠や古今亭志ん朝師匠とは異なる一捻り加えたサゲが付けられていましたが、そのサゲは高座でお楽しみ下さい。
 
飯倉町界隈のアースダイブ
江戸切絵図麻布絵図:1849年(嘉永2年)の古絵図ですが、地図中①が落語「おかめ団子」のモデルになった団子屋があった場所、地図中②が旧東京音楽学校奏楽堂のパイプオルガンが設置されていた南葵楽堂があった場所です。 ②おかめ団子:落語「おかめ団子」のモデルと言われる飯倉片町にあった団子屋(跡地)の娘の元に平八が婿養子に入りましたが、大変な商売上手だったようでおかめ団子という愛称で評判になり大繁盛したと言われています。 ③南葵文庫・南葵楽堂:紀飯倉町にあった紀州徳川家の私邸(跡地)に1899年に私設図書館・南葵文庫(蔵書約10万冊)、1918年に私設音楽堂・南葵楽堂(1920年にパイプオルガンを設置)が建設されました。 ③南葵文庫・南葵楽堂:1923年の関東大震災で全焼した東京帝国大学附属図書館の復興のために1924年に同大学に南葵文庫蔵書を寄贈し、1928年に東京音楽学校にパイプオルガンを寄贈しました。(Cf.南葵音楽文庫
 
③古典落語「百年目」(初演)
落語の枕として江戸時代の奉公制度が採り上げられ、「丁稚(小僧)」(~10年、雑用、無給)→「手代」(11年~、実務、有給)→「番頭」(15年~、管理、独立)という仕組みは落語界の師弟制度に受け継がれて「丁稚(小僧)」=「前座」、「手代」=「二枚目」、「番頭」=「真打」に対応しているそうですが、一門を率いる「家元」が主人ということになりましょうか。土地(家督)の単独相続を背景に発達した家(身分)制度を基盤とする奉公制度(人的関係)は、現代では金銭(権利)の平等相続を背景に発達した個人主義を基盤とする雇用制度(契約関係)へと変遷し、多様性の時代を背景にして個人が自律的な生き方を求めるようになって終身雇用(人的関係X契約関係)という昭和の昔風情も完全に廃れました。一般には「講談を聞くとタメになる、落語を聞くとダメになる」と揶揄されますが、落語「百年目」は法話「栴檀と南縁草」という仏教的なモチーフが使われているタメになる噺です。因みに、この噺のオチになっている「ここで会ったが百年目」という名セリフは名刀「小夜左文字」(アニメ「刀剣乱舞 ONLINE」にも登場)にまつわる仇討ち話が江戸時代の「御伽草紙」として広まり、それが浄瑠璃、歌舞伎、落語に伝えられたものです。噺のリズムやテンポ、間の取り方、粋な言葉遣いなど、語感の心地良さのようなものを感じさせる洗練された噺芸に魅了されました。師匠の噺芸には日本語の香気が粋衝いています。
 
 
▼東京都交響楽団 第1020回定期演奏会Aシリーズ~
【演題】東京都交響楽団
    第1020回定期演奏会Aシリーズ
【演目】①トリスタン・ミュライユ ゴンドワナ(1980年)
    ②夏田昌和 オーケストラのための「重力波」(2004年)
    ③黛敏郎 涅槃交響曲(1958年)
     <Chor>東京混声合唱団
【演奏】<Cond>下野竜也
    <Orc>東京都交響楽団
【日時】2025年4月30日(水)19:00~
【会場】東京文化会館
【一言感想】
本日は下野竜也さん@東京都交響楽団が非常に興味深い演目を採り上げていたので聴きに行くことにしました。現代音楽が3曲というコアな演目にも拘らず、チケット完売(会場満席)の盛会になりました。決してクラシック音楽系の曲を聴く客がいなくなった訳ではなく、クラシック音楽(第一次世界大戦以前の音楽)を聴き飽きたという客が増えていることを示す現象なのかもしれません。コンセプチャルなプログラム構成で、後半の涅槃交響曲は鐘の音響分析( ≠ スペクトル解析)を作曲に採り入れた作品であり、それから約20年後に創作された前半のゴンドワナでも鐘の音響のスペクトル解析を作曲に採り入れた作品という共通点があり、また、夏田唱和さんはT.ミュライユと共にスペクトル楽派を創始したG.グリゼーの弟子であるという共通点があります。さらに、作曲技法に留まらず、前半の「ゴンドワナ」は地上界(科学:地球)の誕生を巡るドラマ、オーケストラのための「重力波」は天上界(科学:宇宙)の誕生を巡るドラマ、後半の涅槃交響曲は地上界と天上界の中間に位置する人間界(宗教:思想)を巡るドラマ、という壮大な世界観を表現した3曲を並べているという意味で、非常に野心的な演目構成と言えるのではないかと思います。各曲毎にごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①ゴンドワナ(1980年)
過去のブログ記事でも簡単に触れましたが、マントル対流により、①約6億年前に誕生した地球上唯一の超大陸「パノティア大陸」がゴンドワナ大陸などに分裂(生物が海から陸へ進出)、その後、②約2億5000万年前にゴンドワナ大陸が他の大陸と結合して地球上唯一の超大陸「パンゲア大陸」が誕生(火山活動の活発化に伴う生物の大量絶滅)、③約1億8000万年前にパンゲア大陸がゴンドワナ大陸などに分裂(海洋循環の変化と気候の温暖化に伴う生物の多様化)を経て現在のような大陸構成になっていますが、そのプロセスを音楽的に表現した作品です。さながら万華鏡のような精妙な音響設計により決して人間が観察することができない地上界の大河ドラマを綴った作品ですが、下野@都響の職人芸により自然のダイナミズムやその神秘性に彩られる壮大な物語性を感じさせる演奏に魅了されました。冒頭はマントル対流に伴う地殻変動により陸が誕生する様子を描写したものでしょうか、熱エネルギーや電磁波などを連想させる弦による微細なトリルとそれにより引き起こされる化学反応や光電反応などを連想される管打による煌めきのある響きで構成される短い音型が断続的に繰り返されながら変容し、徐々にその複雑さを増しながら連続的な響きへと拡張して行く繊細にして緻密に構築された音響空間が生む言葉では何とも説明し難い独特な世界観に魅せられました。ガラガラ、コル・レーニョやウッドブロックなどの乾いた音により岩盤のクラック音を連想させるリアルな描写も多く、それらと呼応するオーケストラが微細音を散りばめながら、徐々に変容してスケールの大きな音楽へと成長して行きいましたが、さながら東京文化会館が大きな地殻変動の真っ只中に置かれているような臨場感のある音場へと生まれ変わるアナログなVR体験が新鮮に感じられました。やがて地殻変動が鎮まり地熱が冷める様子を表現したものでしょうか金属が軋むような冷たい音が奏され、鐘の音をスペクトル解析したものでしょうか微細音が波紋状に波打ち、それが下降音型へと連なりながら収束して行く表現が安定した陸の誕生を連想させるものでした。微かな地殻変動の兆候からダイナミックな陸地の誕生、形成へと発展して行く様子を耳で楽しむことができましたが、それが四季や花々、生物の繁栄を生む穏やかで豊穣な地上界(地球環境)を育む契機になったことに思いを馳せると感慨深いものがあります。なお、作曲家の意向に沿わないかもしれませんが、テレビ世代にとってはビジュアル・アートと組み合わせて演奏しても面白いのではないかと感じます。
 
②オーケストラのための「重力波」(2004年)
ゴンドワナが地上界(地球)の大河ドラマであるとすれば、オーケストラのための重力波は天上界(宇宙)の大河ドラマと形容することができるかもしれませんが、中世までは天上界(神の世界)と地上界(人間の世界)は異なる原理に支配されるものとして区別されていましたが、近代以降の科学の発展によって天上界(宇宙)と地上界(地球)は同じ原理に支配されていることが判明すると共に、20世紀以降は人間の知覚を超えた観測機器の発明により人間の知覚により認知される世界(環世界)と世界の実相(環境世界)が大きく乖離していることが認識されるようになりました。この点、人間が知覚することができない完全な天上界(神の世界)を表現する手段として芸術と宗教が結合しましたが、科学の発展により芸術が宗教から分離して世界の実相(環境世界)を表現する手段として芸術と科学が近接しているのが現在の状況ではないかと思います。この作品が作曲された2004年の時点では一般相対性理論によって重力波の存在は理論的に予測されているに過ぎませんでしたが、2015年に重力波の観測に成功していますので(但し、重力子の観測は未だし)、時代を先取りした先進的な作品と言えるのではないかと思います。バスドラムを舞台に1台、客席(バンダ)に2台を配置しての演奏となりました。因みに、この作品は夏田唱和さんが2002年に芥川作曲賞(現、芥川也寸志サントリー作曲賞)を受賞したことによりサントリー芸術財団から委嘱されたもので、2004年8月に故・小松一彦さん@新日本フィルハーモニー交響楽団により世界初演されています。冒頭はビックバン前の状態を表現したものでしょうか、バスドラムによる微細音(空気振動)が会場を充満し、やがてバスドラムが強い連打に転じると金管が大音量で咆哮しました。未だ量子重力理論が確立しておらずビックバン前の状態を正しく記述することは困難ですが、粒子と反粒子が一瞬で生成・消滅する量子揺らぎの状態にある真空エネルギーが真空の相移転により場のエネルギーに転換する様子を音楽的なイメージとして表現することに成功しているように感じられました。これに弦による上行形のグリサンドを幾重にも重ねながらその振幅を増して行きましたが、場のエネルギーが密度を増してインフレーション(時空の急膨張)を引き起こして宇宙の基本構造が生まれる様子を巧みに表現しているように感じられました。その後、細かく分散されていた音が集積され、徐々に1つのまとまりのある音として徐々にテンションを高めて行きましたが、インフレーションの終了(時空の急膨張の減速)に伴う再加熱によって場のエネルギーが物質的なエネルギー(粒子エネルギーや熱エネルギーなど)に転換されて、宇宙が冷却されるなかで物質的なエネルギーから物質が生まれる様子(ビックバン)が緻密に表現されているように感じられました。鈴の音に誘われるようにオーケストラの音響が波紋状に広がり、金管が不規則な揺らめきを演出しながら徐々に緩慢として平らな響きに収束して行きましたが、鈴の音は恒星の誕生を表しているのでしょうか、それにより重力波が生まれる様子を雄弁に表現しているように感じられました。因みに、何故、質量やエネルギーが時空を歪めるのかという理由(重力や重力波を生じる理由)は現代の科学でも解明されていません。ピアノと管打の点描と共に、オーケストラが波打つような音型を変容させながら徐々に密度を増して行きましたが、次々に誕生する星々により重力波が生まれて時空が揺らめいている様子を描写力豊かに表現しているように感じられました。その後、バスドラムの強い一撃で全休止し、再び、バスドラムの強い連打に誘われるように、非常に忙しない波形の音が重ねられて行きました。これは超新星爆発(恒星の寿命が尽きて重力崩壊する爆発)を表したものでしょうか、新しい星々を形成させる元素(ガス)や重力波、ガンマ線などが周期的に波紋状に寄せてくる様子をドラマチックに表現しているように感じられました。人間が知覚することができない理論物理学の世界観を音楽的に体感することができる非常に面白い作品なので、音盤のリリースが待ち望まれます。こちらもビジュアル・アートと組み合わせて演奏しても面白いのではないかと感じます。因みに、超新星爆発などによって誕生するブラックホールの存在は一般相対性理論によって理論的に予測されていましたが、2019年にブラックホールの観測に成功しており、ブラックホールを題材にした曲も創作されています。また、最近でも重力波を題材にした曲が創作されており、今後、宇宙を題材にした曲が増えてくるかもしれません。
 
③涅槃交響曲(1958年)
黛敏郎さんと言えば、テレビ「題名のない音楽会」の司会でマイクを持つ手の小指が立っていたのを幼心に強烈な印象として覚えていますが、雅楽や声明のエッセンスを採り入れながら西洋の管弦楽や合唱で仏教の荘厳な世界観を表現した傑作で、1959年に第7回尾高賞を受賞しています。長らく実演に接する機会を待ち望んていましたが、このような機会を設けてくれた下野@都響に心から感謝しなければなりません。2群のバンダを客席に配置して演奏されました。第一楽章の冒頭から梵鐘の音響分析による倍音を模倣したような音響がオーケストラとバンダによって繰り返し奏でられ、その残響に広がる仏教の五色の世界観を表現するように彩り豊かな変奏が加えられる精妙な演奏が展開されました。チューブラ-ベルやピアノが刻む刹那(無常)なリズムがオーケストラに伝播して最初のクライマックスを築くと、やがて弦のトレモロに収束して涅槃(肉体的な死ではなく悟りの完成を意味する死)を連想させる余韻深い静寂へと帰着しましたが、さながら仏教的な音の宇宙に包み込まれているような独特な感興に浸ることができました。これに続く第二楽章では独唱者が大乗仏教の経典「楞厳経」に収められている咒文「首楞厳神咒」を読経の様式で歌い、これに誘われるように合唱が唱和しましたが、そのリズムに合わせてオーケストラが仏教の鳴物を模倣するような音型を奏でられましたが、やがて独唱とトロンボーンの和音に下支えされた合唱が密度を増しながら、そのリズムがオーケストラに伝播して合唱とオーケストラが一体となって読経しているような勇壮な演奏にすっかり魅了されました。これに続く短い第三楽章を経て、第四楽章ではオーケストラが鐘の音を模倣するなかを6人の独唱者が大乗仏教の経典「摩訶般若波羅蜜多経」で説かれている教義「摩訶般若波羅蜜」(般若心教)を歌い、これに合唱が応唱する形で緊密に呼応しながら厳かな音楽が展開されました。第五楽章では金管の咆哮による激しいリズムとチューブラ-ベルの連打を繰り返しながら「全山の鐘」(黛)が鳴り響いている様子を表現し、それがオーケストラに伝播して合唱による重厚感のあるヴォカリーズと一体になりながら荘厳な雰囲気が極まる密度の濃い音楽が展開されましたが、それが第一楽章と同様に涅槃を連想させる静寂へと帰着しました。これに続く第六楽章では合唱により密教声明「一心敬礼」の旋律で歌われるヴォカリーズが穏やかで崇高な雰囲気を湛え、静謐な弦のトレモロや管打の柔らかいリズムが平らかな心性を体現しているような音楽を展開すると、徐々にオーケストラは響きを増しながら、ホルンが悟りの象徴である白像を連想させる和音を繰り返し、金管とチューブラ-ベルの音を遠景に配して涅槃を連想させる瞑想的な深い静寂が訪れて「永遠の涅槃」という悟りの境地で終曲を迎えました。仏教では「輪廻」(迷いの苦しみ)から「涅槃」(そこからの解脱)の境地へと至ること(悟り)を目指す実践的な宗教ですが、「涅槃」に留まろうと欲することも執着(輪廻)の顕れとされており、「輪廻」と「涅槃」の対立を超越した慈悲の実践という凡夫には及び得ない境地を音楽的に表現したものに感じられました。心が整えられるような感覚に浸ることができる得難い芸術体験になり、世俗塗れの拍手の音で清浄な場を汚してしまうことが憚られるような深い余韻を湛えた傑作を堪能できました。
 
 
▼タンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」マリア役オーディション開催
過去のブログ記事でも簡単に感想を書きましたが、アルゼンチンタンゴ集団「タンゴケリード」が2026年5月31日(日)にA.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」を神戸で再演するようです。今般、この上ない嵌り役であったマリア役のメゾソプラノ・小島りち子さんが退団されるのに伴い、新しいマリア役を求めてオーディションが開催されるようです。ソウルフルな音楽に適う彫りの深い卓抜した歌唱力が求められるマリア役ですが、新しい伝説を築いてみてはいかが?
 
▼四天王寺 聖霊会
前回のブログ記事で簡単に触れましたが、聖徳太子が建立した日本最初の官寺である四天王寺において、毎年、聖徳太子の命日にあたる4月22日(旧暦2月22日)に開催されている仏教法会で天王寺舞楽(国指定重要無形文化財)が奉納されています。この点、小野真龍著「天王寺舞楽」には「元宮内庁首席楽長で芸術院会員であった東儀俊美氏は、四天王寺聖霊会の舞楽を見て、宮内庁楽部の舞とおおいに異なることを発見して、熟考の末「どうも我々の舞いが変化したらしい」との結論に至られ、宮内庁楽部は明治以前の天王寺楽人の舞い振りであった「秦氏の舞」を東京遷都によって失ってしまった」と記されていますが、古代に日本へ伝来した外国文化は外国の雅正の楽ではなく主に外国の俗楽であったと言われており宮中(神道)という閉ざされた場(儀礼)ではなく庶民(仏教)という開かれた場(儀礼+興行)でこそ「秦氏の舞」のDNAは活性化されると言えるのかもしれません。
 
▼21世紀の新しいアウラ(その1)
平安時代のラップ「今様」のリズムを借りて「この頃我が家に流行るもの 和魂 蔦重 AI作曲・・・」といった調子で、最近気に入っている音楽生成AI系のミュージックチャンネル(R&B)をご紹介しておきます。この記事のトップに掲載しているワット・アルンのイラスト画像もAIが5秒で作成したものですが、AIを使って生成された創作物は人間の能力を凌駕するクオリティを実現しつつあり、21世紀の新しいアウラが顕現し始めているように感じます。人間中心主義というセンティメンタリズムを克服し、文化的限界点と揶揄される現状を打破する突破口のようなものが見え始めていると言っても過言ではないかもしれません。産業革命は人類を重労働から解放し、AI革命は人類を労働そのものから解放すると期待されていますが、これに加えてAIは人類の新しい文化的な地平を切り開く救世主になり得るかもしれません。