
▼ブログの枕「この世界はムラで出来ている」
前回のブログ記事ではちびっ子達にも直観的にイメージし易いような表現で宇宙誕生の物語にごく簡単に触れましたが、その文脈からもう少し話を身近な世界に引き寄せてみると、この世界は「ムラ」で出来ていると捉えることができるかもしれません。①宇宙の根源(真空)の段階では粒子と反粒子が等数で常に生成と消滅を繰り返すエネルギーのバランス状態(対称性)にありましたが、エネルギーのバランス状態の変化などにより粒子が反粒子よりも僅かに優勢になってエネルギーの密度のムラ(対称性の破れ)が生まれ(ミクロの世界)、その後、②宇宙の容器(時空)の段階を経て、③宇宙の中身(物質)の段階では宇宙に生まれた4つの力(何故、宇宙に力が生まれたのかという根源的な理由は分かっていません)のうちの強い核力や電磁力によってエネルギーの密度のムラから物質が生まれ、さらに、そのうちの重力や電磁力によって物質の分布のムラ(対称性の破れ)が生まれ(マクロの世界)、それが組織化されて銀河、星、生物などの構造が誕生して、この世界が形成されました。人間の感覚器官は物質の分布のムラ(対称性の破れ)から生まれた構造やその変化を検知し易い仕組み(視覚:色、聴覚:音、触覚:形などの境界認識)に進化して世界を知覚していますが(その逆に、物質の分布のムラ(対称性の破れ)がなく構造やその変化もない状態は知覚の対象になり難く何も感じなくなります)、人間の感覚器官が知覚する物質の分布のムラ(対称性の破れ)から生まれた構造やその変化又はそれらを推知させる諸現象(陰翳)に意味が立ち上がり、そこに何らかの秩序性などを見い出すことで美醜などを認識しています。
▼この世界を形成するムラ(ミクロからマクロへ)のまとめ
世界 原則 例外 ミクロの世界 対称性
(ランダム)対称性の破れ
(エネルギーのムラ)マクロの世界 対称性の破れ
(物質のムラ)対称性※
(ランダム)※エントロピー増大の法則(水分子の例)エントロピー増大の原則とは秩序(ムラ)がある状態を放っておくとランダムな状態に不可逆的に変化しようとする自然界の性質のことで(何故、このような自然界の性質があるのかという根源的な理由は分かっていません)、温度が高くなると熱エネルギーが秩序(ムラ)がある状態を維持している電磁力に対して優勢になり構造を崩壊してランダムな状態になりますが、温度が低くなると熱エネルギーが秩序(ムラ)がある状態を維持している電磁力に対して劣勢になり構造が安定します。なお、もう1つの秩序(ムラ)がある状態を維持している強い核力(クオークという素粒子を結合させている力)は通常の熱エネルギーでは崩壊せず、ビックバンのような極限の熱エネルギーのみで崩壊するので、現代の科学技術では完全な対称性の回復を再現することはできません。
状態 水蒸気
(~0℃)水
(~100℃)氷
(100℃~)構造 気体 液体 固体 エントロピー 高 中 低 対称性の破れ 低 中 高 知覚 低 中 高 気体:水分子がランダムに運動して全く構造がない状態(高い対称性、高い自由度)液体:水分子が非周期的に運動して部分的に構造がある状態(低い対称性、中間の自由度)固体:水分子が周期的に配列して全体的に構造がある状態(対称性の破れ、低い自由度)
上述のとおりエントロピー増大の原則とは秩序(ムラ)がある状態を放っておくとランダムな状態へ不可逆的に変化しようとする自然界の性質のことで、これによってエネルギーや物質は散逸していきますが、例えば、真核生物は外界からエネルギーや物質を採り入れて(表面上はエントロピー増大の原則に逆行するかのように見える現象ですが)秩序(ムラ)がある状態を自発的に形成する自己組織化を行っています(何故、自己組織化が起きるのかという根源的な理由は分かっていません)。しかし、過去のブログ記事でも触れたとおり自己組織化には限界(例えば、真核生物の染色体末端構造であるテロメアなど)があり、やがて生物は自己組織化を停止して死を迎えます(ベリクソンの弧)。この点、自己組織化にあたっては最も安定的かつ効率的に組織を持続できるように一定の周期性(リズム:時間的な反復)をもった秩序(ムラ)が生まれ、その全体への伝播(パターン:空間的な構造)によって構造を形成します。この秩序(ムラ)を生む一定の周期性(リズム:時間的な反復)とその全体への伝播(パターン:空間的な構造)は外界の変化する環境(ノイズなど)などに柔軟に適応するために最適にチューニング(環境条件などに応じた多様なチューニング)され、例えば、ロマネスコのフラクタル構造(左上のイラスト)も同様にして形成されたと考えられています。上述のとおり人間の感覚器官は物質の分布のムラ(対称性の破れ)から生まれた構造やその変化を検知し易い仕組みに進化してきましたが、この文脈で言えば、音楽は音響の分布のムラ(音響の対称性の破れ)などから生まれた構造やその変化(リズム、強弱、音色、音高、長短、旋律などによる分節とそれらの連なり)などによって形成され、そこから意味が立ち上がり、そこに何らかの秩序性などを見い出して美醜などを認識してしていると言えるかもしれません。これは言葉でも同様で言葉は世界を分節するための記号であり、その記号は世界を切り取るためのツールとして日常生活に密接に関係していますが、例えば、日本語の名詞を形容詞に変換する「名詞+い」の用例を見ると「丸い」「四角い」に対する「三角い」(人間が取り扱い難い形状)や「赤い」「青い」に対する「緑い」(光合成には不必要なので吸収されずに反射される光の波長)などの用例が存在しない(即ち、言葉と環境がチューニングされていない)のは、これらがあまり日常生活に重要ではなく、これらの世界を切り取る必要性が低いもの(三角い、緑いなど)と言えるのではないかと思います。その一方で、医療現場における診療などに活用されているオノマトペ(例えば、シクシク、ズキズキなど)は言語以前の感覚と結び付いている直感的な言葉ですが、これらは日常生活に重要であり、これらの世界を切り取る必要性が高いもの(即ち、オノマトペと環境がチューニングされている)と言えるのではないかと思います。このように芸術や文化も環境とチューニングされた「ムラ」から出来ており、その「ムラ」が人生を様々に彩っていると言えるかもしれません。人生の楽しみ(ムラ)は自分で作るもの(自己組織化)ですが、最近、貴兄姉にはムラムラするような刺激的な体験(心のムラ)はありましたか?
▼コンポージアム2025
【演題】ゲオルク・フリードリヒ・ハースの音楽
【演目】①F.メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」
②G.マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調 から「アダージョ」
③G.ハース 《... e finisci già?》~オーケストラのための
(2011)
④G.ハース コンチェルト・グロッソ第1番
~4本のアルプホルンとオーケストラのための(2014)
<A-hr>ホルンロー・モダン・アルプホルン・カルテット
バルタザール・シュトライフ
ミヒャエル・ビュトラー
ウルリッヒ・ハイダー
ルーカス・ブリッゲン
【演奏】<Cond>ジョナサン・ストックハンマー
<Orch>読売日本交響楽団
【日時】2025年5月22日(木)19:00~
【会場】東京オペラシティー タケミツホール
【一言感想】

微分音の巨匠として知られるオーストリア人作曲家のG.ハースさんは、現在、前回のブログ記事で触れたT.ミュライユさんの後任としてニューヨークのコロンビア大学作曲科教授を務められています。G,ハースさんがトークセッションでお話されていましたが、幼少期にナチズムの残照に悩まされた経験があり、その救いを音楽に求めたことが作曲家になる契機になったそうです。G.ハースさんの自叙伝「Durch Vergiftete Zeiten: Memoiren eines Nazibuben」(毒された時代を生きて:ナチ少年の回想録)に詳しいですが、未だ邦訳版又は英訳版がリリースされておらず、残念ながら拝読することはできておりませんが、ナチズムと対局にあるJ.ケージの伝統に縛られない内面的自由に憧れを抱いていたそうで、やはり幼少期の体験がG.ハースさんの人生やその作風に大きな影響を与えているのかもしれません。なお、沼野さんが小室さんとの対談で「もちろんそうじゃない曲もあるけれども、ある種、文字や言葉とセットで楽しむっていう。聴けば分かるとか、聴いて楽しむとかっていうことだけじゃなくて、やっぱりそこにもうひとつ違う次元のものが混交しているのが、いわゆる狭い意味での現代音楽だと」と語られていましたが、音楽の表現対象や表現手法などが多様化するなかで「感情」から「知覚」、「物語」から「現象」、「理解」から「体験」へと音楽の受容の仕方も変化してきていると思いますが、その意味で聴衆の認知パターンもアップデートされつつある状況にあるのではないかと思います。
①F.メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」
②G.マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調 から「アダージョ」
メンデルスゾーンは丁寧に作り込まれたアンサンブルで、コンテンポラリーのようなストイックな印象を受けましたが、だからといって機能的になり過ぎずにどこか生々しい躍動も感じさせるバランスの良い演奏でした。マーラーも同様の印象で細部まで配慮の行き届いたアンサンブルで、マーラーのむせかえるような退廃美というよりも抑制の効いた節度ある演奏でしたが、対抗配置による立体的な音響が効果をあげていたように感じられました。何故、この2曲が選曲されたのか不思議でしたが、解説によれば、コンチェルト・グロッソ第1番は「F#」が主音のような役割を果し、冒頭からヴァイオリンが「F#」を伸ばすメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」と「F#」が主音のマーラーの交響曲第10番「アダージョ」が選曲されたようですが、(あまり政治的な意図を持ち込むのはG.ハースさんの真意に反するかもしれませんが)2人のユダヤ人作曲家の作品を採り上げていることを踏まえると「F#」はファシズム(F)の架刑(#)を象徴していると捉えるのは勘ぐり過ぎでしょうか。
③《... e finisci già?》~オーケストラのための
パンフレットには詳しい音楽的な解説が加えられていますが、音楽などの抽象表現を鑑賞するにあたっては(リズムや音響などを即物的に受容することもありますが)基本的には何らかのプロジェクションを作品に投射して立ち上がってくる世界観を受容することが多いのではないかと思いますので、この作品から受けた個人的なイメージをごく簡単な感想として残しておきたいと思います。この作品の標題はモーツァルトのホルン協奏曲第1番の遺稿からホルン独奏パートに添え書きされている「もう終わりですか?」から採られているようです。冒頭からヴァイオリンが奏でる微分音の集積が密度を増しながらオーケストラ全体へと広がって盛上ると一旦収束し、再び、その微分音がうねりを繰り返しながらその高密度な集積がフォルムを形成してクライマックスを築くと次第に収束して消え失せました。さながら蝋燭が灯るように顕在する微分音が織り成すミクロの世界からそれらが集積して音価を増しながらマクロの世界を形成するその狭間に成立している音楽のようにも感じられ、この作品だけではなく次の作品にも共通していますが、明確な文脈を持たずに音の関係性で成り立っている音響世界を体現しており、言葉では切り取れない音楽という印象を受けました。それを感想に認めるのは矛盾した態度かもしれませんがご容赦下さい。なお、パンフレットには「絶対零度の如き極限の崩壊」と比喩されていましたが、絶対零度は物質(音)が「崩壊」するのではなくその熱運動が「停止」する状態を意味しており、その文脈で言えば、個人的には、この音楽は「崩壊」(終焉)というよりも、そのような時間観念を超越した「空」(熱運動が完全に停止してエントロピー増大の法則が最小状態に達することで時間観念が失われ、色即是空や量子ゆらぎに通底する不確定的で生成と消滅の境界が曖昧な世界観)へと回収されていくイメージを想起させるものではないかと感じられました。その意味では、この曲は「もう終わりですか?」という問い掛けに対し、その「崩壊」(終焉)を告げるものではなく、その続きを生み出すエネルギーが潜在している状態を表現するものとして位置付けることができるのではないかと思います。
④コンチェルト・グロッソ第1番
4名のソリストがE管、F管、F#管、G管の4種類のアルプホルンを舞台上で演奏する姿は壮観なものがありました。日本には玉川アルプホルンクラブというアマチュア楽団が存在しますが、アルプホルンの演奏を演奏会場で聴くのは初体験であり、おそらく東フィル団員もアルプホルンとの共演は初体験だったのではないかと思います。オーケストラはモダン配置ではなくクラシック配置(ウィーン式)で、アルプホルンを取り囲むようにヴァイオリンが左右に対抗配置され、コントラバスが金管の後方に横一線に並ぶ音響バランスに配慮されたフォーメーションが採られていました。パンフレットに詳しい音楽的な解説が加えられていますので、この作品から受けた個人的なイメージをごく簡単な感想として残しておきたいと思います。スイスの山岳地方で生まれたアルプホルンはバルブやキーがなく自然倍音のみを奏でられる楽器ですが、コンチェルト・グロッソというバロック様式を借りて、自然倍音(自然美:中近世)とドイツで生まれた十二平均律(人工美:近現代)の2つの異なる世界観の隙間を微分音を使って埋め尽くす面白い作品に感じられました。アルプホルンが奏でる旋律(自然倍音)とオーケストラが奏でるリズム(微分音)や和音(十二平均律)が対置され、これにナチス(十二平均律)がユダヤ人(微分音)を排斥し、また、都市(十二平均律)が自然(自然倍音)を排斥してきた歴史的な構図をプロジェクションしながら鑑賞してみましたが、デュナーミクやテンポ(歴史のうねりのようなもの)を大胆かつ精妙に操りながら音響が相互の関係性の中で相対化され、やがてそれらが均質化されることなく異質なまま重なり合って1つの世界観を築いて行く様子が表現されているように感じられ、1つの境界や制度などに支配されていない多様かつシームレスな世界観にシンパシーを感じ、色々なイメージが想起される面白い音楽体験になりました。
【演題】2025年度武満徹作曲賞本選演奏会
【演目】我妻英(日本) 管弦楽のための《祀》
金田望(日本) 2群のオーケストラのための《肌と布の遊び》
チャーイン・チョウ(中国) 潮汐ロック
フランチェスコ・マリオッティ(イタリア) 二枚折絵
【演奏】<Cond>阿部加奈子
<Orch>東京フィルハーモニー交響楽団
【日時】2025年5月25日(日)15:00~
【会場】東京オペラシティー コンサートホール(タケミツメモリアル)
【一言感想】

本日は武満徹作曲賞本選演奏会を拝聴しましたので以下に順位を掲載しておきますが、審査委員のG.ハースさんが応募総数137作品のうちの上位4作品であり本選会の順位に実質的な差はないと仰っていたのが印象的でした。この多様性の時代にあって芸術表現に何らかの規範を果て嵌めて順位をつけてみるというモダニズム的な目論見の有効性は相当に希薄なものになっているように感じますので、寧ろ、観客の立場からは各曲の潜在的な魅力を発見する契機となるようなGハースさんの示唆に富む講評が大変に参考になりました。また、オーケストラとの限られたリハーサル時間の中で作品を音にしていく難しさに関する話しも大変に興味深かったです。個人的な所感としては、上位4作品を拝聴する限り、ひと昔前の「技法」(手段)のための音楽から「世界観」(目的)を表現するための音楽(そのための技法)へと昇華している印象を受けるものばかりで、その世界観が観客のイマジネーションを多彩に引き出して面白味を堪能できるような聴き応えが感じられました。G.ハースさんの講評をサマってしまって掲載して良いのか分かりませんので、各曲毎にごく簡単に拙い個人的な感想を残しておきたいと思います。
第1位:金田望(日本)第2位:我妻英(日本)第3位:チャーイン・チョウ(中国)第3位:フランチェスコ・マリオッティ(イタリア)
①管弦楽のための「祀」
パンフレットには「日本民族学の嚆矢となった著作「遠野物語」(1910)に発想を得た内容を持つ」「遠野の地では、現世の有限の生命と英会陰の時空を漂う霊魂とが交感しつつ構成している。そこには現実と非現実という二元論は存在しない。生と死とが互いの境界を超えて複雑に交錯している。」と解説されています。舞台の左右にハープとピアノが1台つづの計4台及び舞台の後方に4名の打楽器群が配置されて「重要な役割」が与えられていましたが、ピアノやメタロフォンが奏でる響きに四分音に調律されたハープの響きを重ねることでエルドリッチ感を醸し出し、その意表を突く開始に期待感が膨らみました。当初、ハープなどが奏でる四分音(非現実のメタファー?)とオーケストラの弦楽器又は管楽器が奏でる半音(現実のメタファー?)がそれぞれ短いピースを交互に演奏し、それらを長めの休符で区切ることで、さながら現実と非現実の境界が明確に区分されているような効果を生んでいましたが、やがてその境界が曖昧になりながらオーケストラが一体になって混沌とした音響塊(管理されたカオス)を生み、その合間からオケ団員が声を発して、この世ならざる者又はそれを誘う人々の情念のようなものを感じさせる効果を生んでおり、最後には消え入りように終曲となりました。コンテンポラリーの一般的な傾向としてストイックな響きが支配的でどこか煙に巻かれているような感覚になるものが多いですが、現代社会では失われつつある野趣や霊性のようなものが音楽に息衝いているかのようで新鮮に感じられました。言葉では説明し難い芸術体験を楽しめました。
②2群のオーケストラのための「肌と布の遊び」
パンフレットには「三宅一生の服作りは常に、「身体」と「それを纏う布」との間に生まれる空間や間の関係を追求することに重点が置かれ、この思想を三宅は「一枚の布」と呼んでいました」が「身体と服の関係を音楽化するために、舞台中央後方に配置されたピアノを「身体」、そのピアノを包み込むように左右に配置された二つのオーケストラを「身体を包む布」に見立てて作曲しています。」と解説されています。オーケストラの各パートが2群に分かれてピアノを取り囲むように舞台の左右に対抗配置されていましたが、ピアノがぎこちないフレーズを奏でると、それに呼応するように左右のオーケストラに伝播しましたが、服が身体に馴染んでいない様子を表現しているのでしょうか、とてもビジュアルな音楽が面白く感じられました。グリサンドで滑らかな布、軽快なリズムは風にそぐ布など、ポップな印象の曲調で聴き易く聴感覚から触感覚や視感覚などを想起させる描写力のある音楽で飽きさせませんでした。なお、強いて難点を挙げるとすれば、本日は1階後方の席で拝聴していましたが、ややピアノがオーケストラに埋没してしまっている印象を受けるところがあり、ピアノとオーケストラの有機的な関係が充分に感得できなかった憾みがありましたので、再演にあたって何か工夫が必要かもしれません。
③潮汐ロック
パンフレットには「エネルギーの交換と消散による冥王星とカロンの「同期」は「潮汐ロック」として知られ」、「潮汐バジル、干潮、最終的には潮汐ロックのプロセスを通して、広大な宇宙のなかに、ささやかでロマンチックな詩が書き込まれることになる。」と解説されています。潮汐ロックとは、冥王星(惑星)とカロン(衛星)がお互いに引っ張り合いながらクルクルと社交ダンスを踊っているようなイメージと言えば分かり易いでしょうか、地球(惑星)が月(衛星)を一方的に引っ張り回している亭主関白のような関係とは異なり、冥王星とカロンが恋人のように睦み会うロマンチックな関係と捉えることができるかもしれません。舞台(1階)=冥王星とバンダ(3階席)=カロンという編成で演奏されましたが、冒頭では宇宙の真空(対称性)を表現しているような静かな始まりでしたが、やがて弦が微細音を集積しながら盛り上がり金管が不協和を奏でていましたが(対称性の破れ)、これは潮汐バルジ(冥王星の重力でカロンの表面が膨らむこと)を表現したものでしょうか。その後、弦が激しくテンポアップし、金管の咆哮や打楽器の連打で荒れ狂いながらクライマックスを築きましたが、これはトルク(冥王星がその膨らみを引っ張ってカロンが冥王星に向き直ること)を表現したものでしょうか。最後はプリペアドハープ、チェレスタやウィンドチャイムなど光沢感のある響きが散りばめられ、冥王星とカロンが結ばれるような幸福感のある終曲になりました。プラネタリウムで聴いてみたい音楽です。
④二枚折絵
パンフレットには「ディプティクムという語はその起源からすでに、2つの部分kらなるように折られたあらゆるもの」で、「この形式概念によって、本作品のもつ、根本から異なる2つの場面に分けられるという構造が決定され」、「はっきりと性格づけられた数々のイメージを生じせ、それらに応じて、音楽素材とオーケストレーションが繋がりをもつ」と解説されています。二枚折絵の1枚目の絵として、冒頭から激しい弦の直線的な下降音が幾重にも重ねられました。これは1枚目の絵のモチーフである「弦の叫び=嘆き」を意味し、その嘆きは中間部で小康状態になりましたが、金管の咆哮を契機としてフラッシュバックしたかのように激しい嘆きが再現されました。長い休符が置かれた後、今度は、波打つ下降音が繰り返されるなか、チェロ・ソロが深い慟哭を奏でますが、やがてヴァイオリンの清澄な響きへと回収されて終曲になりました。果たして、この二枚折絵に何が描かれているのか作曲家のみぞ知るということかもしれません。
▼マイケル・マーフィー打楽器リサイタル
【演題】マイケル・マーフィー打楽器リサイタル
【演目】①桑原ゆう 落下する時間(とき)(ビブラフォン独奏)
②桑原ゆう るりの歌、星のうた(仏具打楽器と声明)
<声明>齋藤説成
③リンダ・キャトリン・スミス 不可視都市(ビブラフォン独奏)
④桑原ゆう この素晴らしき共振世界(打楽器独奏)
【演奏】<Perc>マイケル・マーフィー
【宣伝美術】桑原ゆう
【日時】2025年5月24日(土)14:00~
【会場】安養院
【一言感想】

本日は中国系カナダ人パーカッショニストであるマイケル・マーフィーさんが日本ツアーで現代作曲家の桑原ゆうさんの世界初演されたばかりの新曲を再演されるというので拝聴に伺いました。マーフィーさんは様々なオーケストラとの共演や世界の民族音楽への傾倒など国際的に活躍するパーカッショニストとして注目されており、過去に相愛大学に留学していた経験があるので饒舌なMCで会場から笑いをとるほど日本語は堪能です。また、過去のブログ記事で簡単に触れた四天王寺の雅楽団「臥龍会」のメンバーと共に雅楽師の林絹代さんから笙を学び、自ら笙の演奏活動も行われている多芸多才振りには目を見張るものがあり、今後の活躍からも目を離せない俊英です。本日の会場である真言宗豊山派「安養院」は1257年に鎌倉幕府執権・北条時頼により創建された名刹で、境内には国の重要美術品に認定された梵鐘(1802年鋳造)が安置され、その傍らには弘法大師・空海の銅像が建立されており、その銅像の周囲を取り囲むように「お砂踏み」(弘法大師・空海が四国で修行された八十八か所霊場のお砂を集めて、そのお砂を踏みながらお参りすることで実際にお遍路したのと同じご利益があると言われています。)が配され、四国八十八か所霊場と真言密教の聖地・高野山をお参りすることができます。安養院は「板橋七福神」のうちの芸能の神様である弁財天が祀られていますが、本日は清浄で荘厳な雰囲気を湛えた瑠璃光堂(瑠璃光とは衆生を苦しみから救う薬師如来の光のことで、両界曼荼羅がディスプレーされていました。撮影禁止ではなかったので写真をリンク)で演奏が行われましたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
①落下する時間(とき)
パンフレットには「「縦」と「横」とは、互いに定義しあう関係にある。」というテーマのもと「「縦の方法」を試みようとした。音を積み上げて和音の柱で考え、音や音楽の自然な方向性を断ち切って継いでいく。」と記されていますが、丁度、これは両界曼荼羅の胎蔵界(内を照らす仏の慈悲)と金剛界(外を照らす仏の智慧)の対称関係に通底するものがあるように感じられました。この点、本日のプログラム構成に着目すると、第1曲と第4曲が描く両界曼荼羅に通底する世界観を「縦」として貫いて、これに第2曲と第3曲が描くそれぞれの世界観を「横」として交錯させているように感じられ、また、第1曲と第3曲がビブラフォン(西洋の器楽)、第2曲と第4曲が仏具打楽器(東洋の声楽+器楽)を使用した作品、さらに、第1曲と第3曲が同じビブラフォンを使った東洋と西洋の作曲家による作品になっており、これらの「縦」と「横」にクロスされている構成は第4曲のテーマになっている金剛界曼荼羅の五智如来の配置とも対称されて、本日のプログラム全体が両界曼荼羅の世界観が幾重にも織り込まれている1つの大きな音楽曼荼羅になっていると言えるかもしれません。さて、この作品はタイトルにも「縦の方法」の意気込みが現れています。取り敢えず、量子物理学の時間観は横におくとして、人間の感覚的な時間観念は過去→現在→未来と不可逆的に「横」に流れて行くものと捉えられていますが、ここでは時間を「落下」(縦方向の運動)として表現しています。マーフィーさんはビブラフォンのモータースイッチを忙しなく切り替えながら、ビブラートが掛かった延音をベース(縦方向の運動を意識させる基音)にして、ペダリングによるスタッカートの音粒(音子:フォノン)が基音である延音(音波)に回収されて行くようなイメージの面白い演奏が展開され、強弱などを使って3次元的に配置される音粒やアルミホイルを使ったプリペアド奏法から生まれる電子音響的な音粒などを巧みに織り交ぜながら、多彩な響き(音子、真言)が生まれ、それらの響き(音子、真言)が衆生(延音、心の乱れ)へと降り注いで浸透していく(悟り)ようなイメージで聴いていましたが、正しく音響曼荼羅とも言い得る作品ではないかと感じました。人間は芸術作品に自分のプロジェクションを投射して、それを自分のナラティブに組み込んで受容しますが、その意味で演奏する場所、照明、装飾やプログラム構成、パンフレットに記載されている解説など様々な要素によってその受容の仕方は異なってくるものであり、それが芸術鑑賞の醍醐味の1つだと感じます。その意味では安養院瑠璃光堂での演奏は特別な芸術体験をもたらしてくれる有り難い場所と言えると思います。
②るりの歌、星のうた
パンフレットには「真言宗豊山派声明の独唱と仏具打楽器のために、2013年に作曲。声明パートに使用したテクストは、草野心平「祈りの歌」である。」と解説されています。俗に蛙の詩人と言われる草野心平さんの詩「祈りの歌」のうち、前半の場面設定を捨象して後半の蛙語で祈りを歌う場面に音楽が付された作品です。蛙語なので言葉の「意味」は判然としませんが、真言声明では言葉の意味よりも「音響」や「リズム」を重視し、その「音響」や「リズム」を唱えることで仏の智慧と合一することを修行の目的としているという趣旨の話しをどこかで拝聴した記憶がありますので、蛙が死を認識する知性を備えているか否かは別としても万物に仏性が宿るという真言密教の考え方を体現し、自然にカエルという洒落た作品に感じられました。群馬県安中市の自性寺焼で知られる自性寺住職の齋藤説成さんが蛙語による声明を歌われ、これにマーフィーさんが太鼓、貝、銅鑼などの打楽器を使って当為即妙に伴奏を添えられていました。その後の休憩時間に齋藤さんと安養院住職の平井和成さんによる経典を使った真言声明の実演が披露されましたが、2人の真言声明の響きが自然に調和し、「自ら」(みずから)+「為す」(煩悩)のではなく「自ら」(おのずから)+「成る」(解脱)によって達せられる境地を体現できる貴重な経験になりました。
③不可視都市
パンフレットには「カルヴィーノの「見えない都市」は、マルコ・ポーロがフビライハンの寵臣となって、さまざまな空想都市の奇妙で不思議な報告を行うという、幻想的な物語」で、「この作品も、比喩的な方法で同一の対象を複数の視点から考察」していると解説されています。アメリカ系カナダ人現代作曲家のリンダ・カトリン・スミスさんは以下の囲み記事で採り上げている日本人現代作曲家の近藤譲さんに作曲を師事していたこともあり、その作品は日本でも演奏機会が多い人気作曲家ですが、カナダの音楽に普及に尽力されているM.マーフィーさんらしい選曲です。点描と線描を交錯させながら短いフレーズが様々に変化し、フィンガー・タイピング(マレットを使わずに指で鍵盤を叩く奏法)を織り交ぜた繊細なニュアンスにより幻想的な雰囲気を醸し出す演奏を聴いていると、マルコポーロ(西洋)とフビライハン(東洋)の出会いを契機として多様な側面から都市を照射することでその見えない本質が浮かび上がってくる物語の世界観とオーバーラップしているような面白い演奏を堪能できました。
④この素晴らしき共振世界
パンフレットには「地水火風空を司る五智如来曼荼羅に見立てた打楽器セットを媒介として、生命や宇宙の振動に触れ、この世に生まれたことをいつくしむための音楽である。」と解説されています。過去のブログ記事で「陰陽五行」と「管絃五調子」の関係について簡単にふれましたが、桑原さんがMCでこの作品は金剛界曼荼羅に取り込まれている五行思想(五智如来と五大元素の関係:大日如来=土、阿閦如来=木、宝生如来=火、阿弥陀如来=金、不空成就如来=水)に着想を得て「鉢」(=土)、「杢鉦」(=木)、「石」(=火)及び「りん」(=金)や「水」(=水)を使って真言リズムを採り入れながら作曲したそうです。前回のブログ記事で真空(量子ゆらぎ)からエネルギーが生まれ、そのエネルギーが固まって物質(元素)が誕生するまでの宇宙誕生の物語をごく簡単に触れましたが、宇宙、星、生物の成立ちを五大元素の響き(共振)で体感し、そのイメージを刺激する意欲的な作品に感じられました。冒頭は鉢(土)や杢鉦(木)をバチ(木)で叩く音と石と石を擦る音が繰り返されましたが、上述のとおり「エネルギー→物質(元素)」から「石→土(無機物)」と「木(海洋植物→陸上植物)→土(有機物)」が誕生したことをイメージさせる演奏でした。パンフレットには「ふれる」と「さわる」の関係について解説されていましたが、ある種の聴感覚がある種の触感覚を想起させるクロスモダール現象(人間の五感が相互に作用し合う現象)により響きが生む五行思想的な世界観が体現されているように感じられました。小さなりん(金)に大きなりん(金)を蔽い被せるようにして生まれる共振、波打つ水にりんを鎮めて生まれる共振、石を木で擦って生まれる共振など五大元素が相互に作用し合って生む共振が様々な創意工夫により響きとして表現され、最後はりんとりんをぶつけながら梵鐘の音を連想させるような深い余韻を湛えた響きが奏でられ、その響きと観客の魂が共振しているような感覚に包まれて終曲となりました。異質なものが共存しながら、それらが共振し合って1つの世界を形成しているという両界曼荼羅の世界観を体現した音響曼荼羅と言い得る作品ではないかと感じられました。終演後にマーフィーさんから片手で複数の楽器を同時に演奏する際に片やクレッシェンドと片やデクレッシェンドを同時に演奏することを要求されるところがあり、非常に演奏が難しかったという苦労話を吐露されていましたが、マーフィーさんの明晰な音楽的イメージとそれを幽けき響きで仄かに薫らせる繊細な表現力がこの作品に生命力を吹き込んでいたように思われ、桑原さんとこの作品にとっては得難きパートナーに恵まれた幸運であったと言える好演であったのではないかと思います。
▼オペラ「女王卑弥呼」
【演目】オペラ「女王卑弥呼」(世界初演)
<卑弥呼役>羽山弘子(Sop)
<阿多の君>羽山晃生(Ten)
<神>山口安紀子(Sop)
<スサノオ>村田孝高(Bar)
<ウカシ>栗田真帆(Alt)
<張政>小幡淳平(Bass)
<ナシメ>中原和人(Bar)
<ウカシの侍女>六角実華(Sop)、奈良原繭里(Sop)
真辺景子(Sop)
<卑弥呼の侍女>今西仁美(Sop)、山瀬香緒(Sop)
浅野真澄(Sop)、中村寛子(Sop)
五十嵐恵美(Sop)、黒川亜希子(Sop)
一瀬美奈子(Sop)
小原明実(Alt)、古志佑華(Alt)
進美沙子(Alt)、姫本紀子(Alt)
井原芙美子(Alt)
【発案】歌舞伎俳優 中村福助
【脚本・演出・衣装デザイン】池田理代子
【作曲】薮田翔一
【演奏】<Cond>飯坂純
<Orch>HIMIKOワールドプレミアオーケストラ
【舞台監督】岸本伸子
【舞台美術】加藤正信
【照明】成瀬一裕
【映像】荒井雄貴
【字幕】岡田哲
【収録】石井康義
【演出助手】角直之
【ヘアメイク】境千恵子
【演技指導】赤川蓮
【制作助手】今西仁美、山口三智子、村田孝高
【衣装制作】山口三智子
【衣装協力】東京衣装、桂由美
【小道具】山本安心堂
【印刷】荒井慶太
【日時】2025年6月5日(木)18:30~
【会場】東京国際フォーラム ホールC
【一言感想】

パンフレットには「この作品は、今を去ること二十数年前、歌舞伎俳優の中村福助(当時児太郎)さんの御発案により、池田理代子が脚本を書き上げたものです。(中略)しかし、作品のスケールの大きさなどから、結局アクロス公演は上演が叶わず、また、卑弥呼を演じられる予定であった福助丈の体調の急変などもあり、様々な上演の可能性を模索しましたが、実現に到らず、長い歳月が経ってしまいました。」と記されています。これによれば、当初は歌舞伎女形の中村福助さんが卑弥呼役を演じ、アクロス福岡(邪馬台国があった場所については北九州説(筑後の山門郡)と畿内説(大和)の論争がありますが、前者を意識した趣向でしょうか)で初演される予定だったそうですが、これをグランド・オペラに変更して20年越しで初演に漕ぎ着けた思い入れが深い公演のようです。ご案内のとおり卑弥呼は3世紀に活躍した人物なので、魏志倭人伝(三国志巻三十/魏書/烏丸鮮卑東夷傳第三十「倭人」条)以外に卑弥呼の実像を窺い知る手掛りに乏しく(因みに、紀記は8世紀に編纂)、その実像は歴史ロマンのベールに包まれています。このオペラの脚本はマンガ「ベルサイユのばら」で有名な池田理代子さんが手掛けられ、魏志倭人伝の記述をベースにしながら卑弥呼が邪馬台国に渦巻く権謀術数に翻弄され、その毒牙に倒れるというドラマチックな物語に脚色されていますが、その生々しい人間ドラマは卑弥呼の等身大の姿に迫り得るものになっていたと思います。ここで魏志倭人伝を簡単にサマっておくと、3世紀頃の倭国(邪馬台国を含む約30の小国から構成)は内乱状態にありましたが、鬼道(シャーマニズム)を用いる卑弥呼が登場したことで倭国の内乱は沈静化し、239年に卑弥呼が魏の皇帝から親魏倭王に制授されて邪馬台国を中心とする約30の小国の連合体制が実現しましたが、その後も狗奴国は邪馬台国に服従せずに敵対関係にありました。冒頭で合唱が魏志倭人伝の冒頭の書き下し文を朗唱して幕開けし、魏の皇帝の勅使が卑弥呼を親魏倭王に制授するために来日する様子が勇壮なダンスで表現されていました。卑弥呼が魏の皇帝の勅使から親魏倭王の証として金印紫綬を下賜される場面(これらは外交儀礼上の名目的なものとは言っても、邪馬台国が魏の属国として扱われていたことを示すものですが、過去のブログ記事でも触れたとおり後の時代になって中国との対等な関係性をアピールするために「倭」を「大和」「日本」、「倭王」を「日出処天子」「天皇」に言い換えるなど日本の独立性を守るために難しい外交政策が強いられてきました。)では卑弥呼のアリアが歌われましたが、その歌詞には現代語ではなく古典語(読み下し文)が使用され、韻律にも十分に配慮された音楽的なものだったので、日本語オペラが陥りがちな(会社の報告書よろしく)説明口調の野暮さは回避されていたので好感しました。但し、休憩時間中のホワイエで10代くらいと思しき若年層の顧客が古典語の言い回しが分かり難いと話しているのが聞こえてきましたので、幅白い世代に違和なく受容して貰うための舞台表現の難しさを感じさせます。閑話休題。これに対し、卑弥呼の台頭を快く思わない異母妹のウカシや狗奴国の官人と、卑弥呼を守りたい卑弥呼の弟(天照大王=卑弥呼と仮定し、その弟は建速須佐之男命であるという設定)や卑弥呼と恋仲になった狗奴国の将軍・阿多の君の思惑が交錯する人間臭いドラマが展開されて行きました。卑弥呼の侍女は天(太陽)を象徴する赤の衣装、その異母妹のウカシの侍女は地(森林)を象徴する緑の衣装で対比され、ソプラノの羽山弘子さんが扮する卑弥呼は天から倭国へ降り注ぐ威光を湛えた存在感を示していたのに対し、アルトの栗田真帆さんが扮するウカシは地にあって卑弥呼を排除しようと陰謀を巡らす業の深さを湛えた存在感が上手く対照的に表現されていたように感じられました。また、バリトンの村田孝高さんが扮する卑弥呼の弟が邪馬台国に侵入した狗奴国の官人を襲撃する場面では邪馬台国の風雲急を告げるかのような緊迫感漂う音楽が効果的に使用されていましたが、薮田さんの音楽には奇を衒った表現で観客を煙に巻くような灰汁はなく素直で聴き易いものであるという印象を受ける一方で、非常に着想が豊かで出汁の効いたドラマチックな表現も随所に散りばめられているもので好感しました。卑弥呼のモチーフ(「卑弥呼よ」という歌詞に付されていた4音の下降形)が印象的に繰り返されていましたが、テノールの羽山晃生さんが扮する狗奴国の将軍・阿多の君が歌う「祖国よ」(狗奴国)という歌詞にも卑弥呼のモチーフと全く同じ音型(4音の下降形)が付されており、卑弥呼と祖国(狗奴国)に対する愛の板挟みになっている苦衷が音楽的に表現されていました。卑弥呼は邪馬台国の危機的な状況を受けて御神託を仰ぎますが、ソプラノの山口安紀子さんが扮する神(白いベールに月桂樹の冠のようなものがあしらわれるアニミズムを体現する衣装)が登場し、南方から災いがもたらされると啓示しますが、卑弥呼は南方の国である狗奴国の将軍・阿多の君に心を奪われたことで御神託を授かることができなくなっています(御神託を授かる巫女には俗世とは隔絶された神聖性が求められますので、色恋沙汰のような穢れはご法度)。そこへ飢饉に苦しむ邪馬台国の民が卑弥呼に救いを求めますが、御神託を授かることができなくなった卑弥呼に不満を募らせて暴動が起こります。これを鎮圧するために卑弥呼の弟は暴徒化した邪馬台国の民を成敗しますが、卑弥呼の異母妹・ウカシの讒言により卑弥呼の弟は乱心者として成敗され、また、魏の高官・政張はこの暴動は魏への謀反に等しいとして卑弥呼も成敗されました。実際の邪馬台国は卑弥呼の弟が政治を司り巫女である卑弥呼はそれこそベールに包まれて滅多に姿を見せることはなかったようであり(現代の開かれた皇室とは全く逆のイメージ戦略ですが、テレビやSNSはすべてを映し出してしまうことから権威が生まれ難く、現代の開かれた皇室は権威から好感度にイメージ戦略を切り替えたもの)、政争に巻き込まれないように権威を保つ術を弁えていた知恵(和魂)がある人物であったと思いますが、このオペラでは現代人にも共感し易いように卑弥呼の人間性に焦点をあてるように描かれていました。最後は合唱が魏志倭人伝の末尾の書き下し文を朗唱し、卑弥呼の死後に男王を擁立したところ倭国に内乱が生じましたが、再び、(このオペラでは卑弥呼と阿多の君との間に生まれた娘という設定でしたが)女王・壱与を擁立すると倭国の内乱が沈静化したことが紹介されて閉幕になりました。最近、若年層のオペラ離れが問題になっていますが、英雄譚などを中心とするグランドオペラは多様性の時代を生きる若年層には共感し難いものになっているようにも感じられますので、現代の時代性を踏まえて大胆に素材を翻案してしまうという選択肢もあり得るかもしれません。また、音響設備がなかった時代に考案されたベルカントならではの魅力があることも十分に承知していますが、敢えて、クルーナーを効果的に採り入れることで表現の幅に広がりを持たせる選択も有効ではないかと感じています。その意味では、このオペラは生々しい人間ドラマに脚色することで卑弥呼の等身大の姿に迫り得る内容になっており、若年層にも共感し易い物語に仕立てられているように感じられました。
▼藝大21創造の杜2025「藝大現代音楽の夕べ」
【演題】藝大21創造の杜2025「藝大現代音楽の夕べ」
【演目】①廣庭賢里 《MONOlith⇄MONOlogue》
オーケストラのための (世界初演)
②折笠敏之 《transformatio emergens Ⅱ》(世界初演)
③林梨花 《Where is She?》
十七絃箏とオーケストラのための (世界初演)
<十七絃箏>鹿野竜靖
④西村朗 《2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー》
<Pf>實川風、北村朋幹
【演奏】<Cond>ジョルト・ナジ
<Orch>藝大フィルハーモニア管弦楽団
【司会】池辺信一郎、金子仁美
【日時】2025年6月6日(金)19:00~
【会場】東京藝術大学奏楽堂
【一言感想】

過去のブログ記事で触れたとおり、藝大フィルハーモニー管弦楽団は1899年に設立された日本最初のプロオケで数々の日本初演を手掛けてきた伝統がありますが、沙羅双樹の花とて色褪せると言われているのに人間が作ったものに色褪せないものがあるはずもありませんので、是非、その伝統を絶やすことなく100年後の名曲となべき現代の音楽の世界初演、日本初演に尽力して貰いたいと期待しています。現代作曲家の池辺晋一郎さんと現代作曲家の金子仁美さんのプレトークで2023年に他界された西村朗さんの人柄が偲ばれる裏話を伺えましたが、その死後も名前や作品を耳にする機会が非常に多く、西村さんはその作品と共に愛され続ける音楽家です。
①《MONOlith⇄MONOlogue》オーケストラのための
パンフレットには「本作は2群に分割されたオーケストラのための作品であり、1人の人間の内面で交わされる思考の対話、あるいはその断絶を描いている。」とし、W.イエイツの詩「自我と魂の対話」の詩的構造に倣って「本作もまた分断された響きが次第に混じり合い、最終的には一つの統一された音響体として結ばれて行く。」と記されています。上述の2025年度武満徹作曲賞で優勝した2群のオーケストラのための「肌と布の遊び」と同じく中央のピアノを取り囲むようにオーケストラが2群に分かれて左右に配置され、また、同賞で第2位を受賞した管弦楽のための「祀」と同じくオケ団員が器楽を演奏しながら声を発するという作品でしたが、新しいオーケストラ作品の潮流ということでしょうか。冒頭でピアニストが何かを叫び、これと呼応するように打楽器(ピアノを含む)が激しく乱打し、その後、これと対照するように弦楽器がグリッサンド、金管楽器がエアー・サウンドが奏でられましたが、これらの照応は自我(本能)と魂(理性)の対話や葛藤などを表現したものでしょうか。最後は、ピアニストが舞台の前面に歩み出て何かを叫んでいましたが、自我(本能)と魂(理性)の対話や葛藤などを経て1つのアイデンティティとして確立する精神的な営みを音楽的に表現したものに感じられました。
②《transformatio emergens Ⅱ》
本日の白眉でした。パンフレットには「ある素材から別の素材へと或る種「自律的」に変容させるプロセス(の類型)に関しての、コンピュータを援用した実験的な性質の試みの強い創作」であり、「特定の数系列から導かれる、微分音(四分音、六分音)を含む音高システムから数理的な手法で抽出された素材に基づく生成、生成された素材からの差倣う変換や生成といった、多層的に変化を繰り返す素材とその時間的な連絡を楽曲の基礎としています。」と記されています。パンフレットを読んでもその独特な文体は直感的な理解を許しませんが、折笠敏之さんのプロフィールを拝見すると物理学から美学を経てIRCAMで研鑽を積まれた異色の経歴の持ち主で、宛らI.クセナキスのようにコンピューターを使った数学的なアプローチから音響を即物的、現象的に取り扱う作風に感じられました。個人的には方法のための音楽はあまり好みませんが、このユニークな創作は(例えば、理論物理学など従来の音楽語法では十分に表現し切れないような)新しい世界観を描き得る表現可能性を秘めているように感じられ、(音響をそのまま即物的に鑑賞する受容態度もあり得ますが)この曲を聴く観客のプロジェクションに応じて様々な面白い表情を見せてくれる懐の広い作品に感じられました。冒頭では春霞のような実態を伴わない音響(方向性を持たない音響)が揺蕩い、やがてその音響が集積して密度を増して行きました。弦楽器のボーイングがバラバラな動きをしていたので各団員毎に異なる楽譜が使用されていたのではないかと思われますが、これにより一定の方向性を持った時間観念を無効化するようなカオスな音響空間(対称性)が出現していました。時折、そのカオスな音響の中からホルンや木管などが実態(方向性を持つ音楽的な意思)を伴った音像(対称性の破れ)が立ち上がりましたが、宛ら不知覚(ミクロな世界観、例えば、水蒸気などの気体)と知覚(マクロな世界観、例えば、氷などの個体)の境界(空間概念)を生きつ戻りつしているような面白い芸術体験を堪能できました。大きなクライマックスを築いた後、徐々にその音響の集積が収束していきましたが、これは何かの着地や解決を示す終止感のようなものとは異なり、さながら対称性の破れから対称性を回復して行くような過程(時間概念の消失)を体現しているような不思議な世界観に感じられました。
③《Where is She?》十七絃箏とオーケストラのための
パンフレットには「本作品は、能「二人静」から着想を得て作曲」し、「シテとツレが寄り添いながら舞う独特の演出がなされる場面を、視覚的に再現することを目的に、十七絃筝とオーケストラの楽器が、奏法や音色を模倣し合うオーケストレーションを多く用いた。静香御前が菜摘女に乗り移って共に舞うように、十七絃筝はオーケストラと寄り添い合い、その境界が揺らぎながら展開する。」と記されています。おそらく音楽のコンセプトとしては次曲のヘテロフォロニーと近いものがあるのではないかと思いますが、一聴した限りの印象としては、十七絃筝とオーケストラははっきりと異なるテクスチャーを紡ぐ協奏的な作品に感じられ、それぞれが別の存在であることを印象付けながら一方の残響の余韻に他方の影が現れては消えて行き、それぞれが連環して行くような身振りには二人舞を彷彿とされるものがあるように感じられました。この曲は和洋の境界を揺るがすことも作曲意図とされていたことから十七絃筝(シテ)とオーケストラ(ツレ)が対置されていたのだろうと思いますが、十七絃とオーケストラはかなり質感が異なるので、オーケストラを囃子方、地謡や能舞台に見立て、十七絃を二面(シテ、ツレ)にした方が分かり易かったのではないかとも思われましたが、これは陳腐な素人考えというものかもしれません。
④《2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー》
パンフレットには「自分の持てる限りの創作エネルギーをフルに注ぎ込んだような交響的ヘテロフォロニーが書きたいという欲求」から作曲を思い立ち、「2台のピアノはイメージとしてはオーケストラの中心に位置し、全体音響とその流れの発振源となる。激しく振動するピアノの強靭な響きの話の中から、大管弦楽の響きがヘテロフォロニックにたち昇ってくる、というのが作曲にあたっての原イメージ、原光景としてあった。」と記されています。上記①~③の音楽的なコンセプトを包摂しているような印象を受ける音楽で、その意味では現代音楽の分野も(エレクトロニクスの分野を除いて)色々なことがやり尽されてきているということかもしれません。第一楽章ではピアノとオーケストラによるヘテロフォロニックな響きが織り成す万華鏡のような世界観に魅了され、それが次第に密度を増しながらクライマックスを築いては収束して行くことを繰り返しますが、その収束した先にはこの音響塊のエネルギーの源泉であるピアノのトリルが顕在してくるバランスの良い精緻な演奏を楽しめました。第二楽章ではピアノの眩いトリルが光沢感を放ち、弦のグリッサンドが幽けき音で揺蕩う幻想的な演奏を楽しめました。続く第三楽章ではピアノがヒステリック気味に快活なトリルで捲し立てると、この挑発にオーケストラが呼応してヘテロフォロニックな響きを集積させながらクライマックスを築く構築感のある演奏が展開されました。ピアノがリズミカルなダンスを展開すると、これがオーケストラに伝播して密度を増しながら最後はオーケストラが絶叫するかのような交響的なヘテロフォロニックな音響世界へと突き抜け、奏楽堂の残響が飽和する大団円で終曲になりました。非常に熱量の高い終曲で、プレトークに絡めて言えば、西村さんも酒が進んで桃源郷で筆が冴え渡っていたということかもしれません。「天才と狂気の間にワインあり」と言いますが、西村さんの才気が薫り立つ音楽に酔い痴れました。
▼新作オペラ「ナターシャ」創作の現場から~台本:多和田葉子に聞く~2028年8月11日(月・祝)から2025年8月17日(日)まで新国立劇場の日本人作曲家委嘱作品シリーズ第3弾としてオペラ「ナターシャ」(作曲:細川俊夫さん、台本:多和田葉子さん)が世界初演されますが、それに先立って2025年5月15日(木)に台本を担当している多和田葉子さんのトークイヴェント(司会:松永美穂(翻訳家・早稲田大学文学学術院文化構想学部教授)が開催されるというので拝聴することにしました。多和田さんはロシア文学専攻で(M.バフチンの影響でしょうか?)多声社会論で知られている小説家ですが、冒頭では多和田さんの簡単な経歴が紹介されました。多和田さんと細川さんとの出会いは1997年にハンブルクでH.ラッヘンマンのオペラ「マッチ売りの少女」が世界初演された伝説的な公演だったそうですが(この公演では宮田まゆみさんが「 笙」を演奏されて日本でも話題になりましたが)、 その後、多和田さんは1998年に細川さんのオペラ「 リアの物語」がミュンヘンで世界初演された公演を鑑賞するなど両者の親交が続き、オペラ「ナターシャ」のタッグに結び付いているそうです。(途中から細川さんもトークに加わり)かねてから細川さんは多和田さんの小説「飛魂」を読んでオペラにしたいと考えていたそうですが、そのシャーマニックな世界観にインスピレーションを受けられたという趣旨のことを語られていました。オペラ「ナターシャ」の主人公ナターシャはウクライナ人という設定ですが、このオペラの構想は2019年12月から始まったコロナ禍で開始されたものでコロナ収束後の2022年2月から始まったロシアによるウクライナへの本格的な軍事進攻とは直接の関係はなく、個別の国際紛争をテーマとして扱った作品ではなくもっと普遍性を持ったテーマを扱った作品だそうです。多和田さんは海の声が分かるナターシャは言葉がなくなった後に残る情念のようなものを体現する存在として描いたという趣旨のことを仰られていましたが、「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(古今和歌集)にある言葉が生まれる前の「心の種」、即ち、言葉が持つ意味(理性)で整えられる前の生命に直結する情動のようなものに眼差しが向けられているように思われます。また、多和田さんは現代語は読書するための言葉であり歌唱には不向きで古典語の方が歌唱に向いており、その点を意識して台本を創作されたそうです。過去のブログ記事でも触れましたが、「詩の深化」(三島由紀夫「文化防衛論」)を忘れて言葉が磨かれなくなった現代語よりも詩情豊かに心を彩る力を持った香気ある古典語に息衝く(プロットの面白さよりも)聴感の心地良さに魅力を感じることが多く、我が意を得たりと思いながら拝聴しました。ネタバレしないように詳しくは書きませんが、オペラ「ナターシャ」は現代人の価値観で共感できるオペラになっているようなので、大変に楽しみです。 ▼近藤譲のオペラ「羽衣」(日本初演)昨年、現代作曲家の近藤譲さんが第55回(2023年度)サントリー音楽賞を受賞されましたが、その受賞記念コンサートとして2025年8月28日(木)に近藤さんのオペラ「羽衣」(1994年)が日本初演されます。オペラ「羽衣」はフィレンツェ五月音楽祭(フィレンツェ市立歌劇場のオペラ音楽祭)の委嘱により、近藤さんが世阿弥の能「羽衣」を題材して台本を手掛け、作曲された作品です。なお、オペラ「羽衣」の公演前には近藤さんのドキュメンタリー映画も上映される予定なので楽しみです。

