大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

東京藝術大学奏楽堂モーニング・コンサート2025(第3回/作曲:森口達也、佐藤伸輝)と弦理論交響曲「Consciousness」(量子フェス/作曲:ヤニック・パジェ)と新作オペラ「船はついに安らぎぬ」(作曲:永井みなみ、脚本:河野咲子)と「この世界のムラを育む」 < STOP WAR IN UKRAINE >

▼ブログの枕「この世界のムラを育む」
前々回のブログ記事及び前回のブログ記事ではちびっ子達にも直観的にイメージし易いような表現で「宇宙誕生の物語」と「対称性の破れ」にごく簡単に触れましたが、その文脈からさらに話を身近な世界に引き寄せて、この世界の「ムラ」を育むという視点から最近注目を集めている子育てにおける「芸術士」の役割について簡単に触れてみたいと思います。過去のブログ記事で2025年問題に絡めて出生者数の漸減傾向に簡単に触れましたが、先日、厚生労働省が公表した人口動態統計によれば2024年の出生者数が70万人を下回って過去最低になったそうです。一層、少子化対策に注力して行かなければならない深刻な状況ですが、この漸減傾向を反転させることは容易ではないと思いますので、その対策と併せて「数」から「質」の戦略に発想を転換することも必要ではないかと思います。先日、過去のブログ記事でも紹介したSTEAM教育を導入している栃木県の公立高校で教育成果が現われ始めているという新聞記事を拝見しましたが、血によって受け継がれるムラ(遺伝)努力によって育まれるムラ(教育)の関係について簡単に概観しておきたいと思います。人間の脳の基礎は12歳頃までにはほぼ形成され、この時期までにパーソナリティー(その人らしさ)の土台も整えられますので、小学校(~12歳)では子供を大人にするための教育を主目的とし、中学校以降(13歳~)ではそれを前提として社会に適応させるための教育を主目的にしています。この時期になると、学習、体験や人間関係などの環境要因(社会的なムラ)がトリガーになり、その遺伝的な素質(生物的なムラ)が能力(個性的なムラ)として発現すると言われていますが、DNAのメチル化やヒストンのアセチル化などの化学的な装飾(偶然的なムラ)によっても能力(個性的なムラ)の発現の仕方が異なること(エピジェネティクス)が分かっています。現時点では、生物的なムラや偶然的なムラはコントロールできないとされていますので、生物的なムラから個性的なムラを多彩に引き出すために社会的なムラを多様に仕掛ける工夫(主に教育)が必要であると言えるかもしれません。この点、下表のとおり学力は遺伝率(生物的なムラ)が40~70%、環境(社会的なムラ)が30~60%を占めていますが、その環境(社会的なムラ)のうち20~30%は共有環境(親が子供に提供する物的な資源及び人的な資源)と言われていますので、「この世の沙汰は金次第」という現実と同様に「この世の能力は親次第」(鳶は鷹になれない)というシビアな現実を裏付けるデータになっており、子供の努力だけで残り10~30%の可能性を使って鷹になることを期待してみるのは些か酷な注文とも言え、親が鷹の目を持って子供に潜在する遺伝的な資質を見極め、それを能力として発現するための教育機会を与えることで鷹にも劣らぬ一流の鳶になる手助けはできるかもしれません。現在、小学校の教育現場でアクティブラーニングという学習方法(生徒を能動的に授業に参加させてグループで討議したり共同で作業するなどの学習方法)が採り入れられていますが、その功罪の1つとして、一律に子供を教育することで学習の多様性が損なわれているという問題が指摘されており、教育リソースの問題と共に、この世のムラをどのように育むのか慎重な選択が求められています。
 
▼この世界で育まれるムラの分布率(行動遺伝学)
能力 遺伝率 環境
IQ(知能) 50~80% 20~50%
学力 40~70% 30~60%
芸術 50~80% 20~50%
スポーツ 60~80% 20~40%
※上表の数値は統計学的なデータで、個人の能力について何%が遺伝で決定されるのかという平均値を示すものではありません。
 
トーマス・エジソンが「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という名言を残していますが、上述のとおり学習、体験や人間関係などの環境要因(社会的なムラ)がトリガーになり、その遺伝的な素質(生物的なムラ)が能力(個性的なムラ)として発現するという関係性が端的に表現されています。この天才的な1%のひらめき(生物的なムラ)がなければ99%の努力(社会的なムラ)も実を結ぶ機会を得られないという意味では、遺伝的な素質(生物的なムラ)を育み、それを活かすことができる教育法が有効です。現在、世界では「モンテッソーリ・アプローチ」と「レッジョ・アプローチ」という2つの教育法が広く知られており、これらの教育法が目指す基本的な人材観には共通点が多いと思いますが、それぞれのアプローチの違いから生まれる特徴的な傾向を簡単にご紹介しておきます。モンテッソーリ・アプローチは1907年にイタリア人のマリア・モンテッソーリが提唱した教育法で、人間の成長段階(~3歳は無意識的吸収、3歳~は意識的吸収など)に合わせて「自分一人で出来る」ことをコンセプトにしており、そのため「自己選択」や「自己肯定」を重視して独創性・自律性を育むという特徴が挙げられます。この点、ウォール・ストリート・ジャーナルはアメリカの巨大IT企業の創業者など世界的に成功している天才型の起業家に共通する点としてモンテッソーリ・アプローチを挙げており、これらの成功者をモンテッソーリ・マフィアと呼んでいます。これに対し、レッジョ・アプローチは1963年にイタリア人のロリス・マラグッツィなどがレッジョ・エミリア市で提唱した教育法で、個人教育ではなく人と人との関係性を踏まえたグループ教育を重視して協調性・社会性を育むという特徴が挙げられます。この点、日本の中小IT企業の創業者など努力型の経営者に多いタイプと言えます。それぞれの教育法の特徴の裏腹として、モンテッソーリ・アプローチでは独創性・自律性が育まれる一方で、個人教育により個性が磨かれるので協調性や集団行動に苦手意識を持つ傾向(ソリスト・タイプ:科学者、芸術家など)があるのに対し、レッジョ・アプローチでは協調性・社会性が育まれる一方で、グループ教育により認知バイアスが働き易いので独創性や自己主張に苦手意識を持つ傾向(トゥッティー・タイプ:公務員、会社員など)があると言われています。日本では、2024年から香川県でレッジョ・アプローチを採り入れた「芸術士派遣事業」(美術家、音楽家、舞踊家などのアーティストを芸術士として保育所などに派遣し、子供達と一緒にアート作品を創作する活動)を開始しており、その取組みが全国で注目を集めています。この点、教育における芸術は「目的」ではなく「作用」に意義があると考えられており、従来型のアセスメント(カリキュラムを消化することを目的として正誤や優劣を重視)ではなく、子供達の声を聞きながら子供達に問いを発することで子供達がグループ教育の中で主体的な探求心を育むことが重視されています。どちらのアプローチに優位性があるのかという問題ではなく、この世界のムラを育むにあたり、どのような人材観を持ちどのような教育効果を企図するのかによって、この2つのアプローチを上手く使い分けて行くことが重要と言えるかもしれません。
 
▼この世界のムラを育む諸相
専門家 対象 関係者 目的 手法 活動 自由度
教師 児童 学び方 教育 授業
ME 大人 学び方 解釈 WS
芸術士 幼児 学び方 育児 創作
学芸員 大人 見せ方 保管 研究
CU 大人 見せ方 編集 展示
※ME:ミュージアム・エデュケーター、CU:キュレーター
 
▼東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート2025(第3回)
【演題】東京藝術大学奏楽堂モーニング・コンサート2025(第3回)
【演目】①森口達也 インテルヴァルム・イン・スパティオ 
    ②佐藤伸輝 亜細亜音楽便覧+
【演奏】<Cond>ジョルト・ナジ
    <Orch>藝大フィルハーモニア管弦楽団
【日時】2025年6月12日(木) 11:00~
【会場】東京藝術大学奏楽堂
【一言感想】
1971年から開催されている半世紀以上の歴史を誇る東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート(モニコン)ですが、器楽科や声楽科の学生との共演や作曲科の学生の作品の演奏を行うための教育プログラムという位置付けで、大学の授業や学外の演奏活動とバッティングし難い時間帯として木曜日午前中の開催になっているようです。よって、客層も自ら高齢者や学生に限られることになりますので、些か慎ましやかな演奏会にならざるを得ないのは仕方がありません。但し、藝大フィルハーモニー(プロオケ)による公開演奏会なので、モニコンで採り上げられた作曲科の学生の作品のうち初演のものは尾高賞の選考対象になり得るという意味で国立大学ならではの手厚い教育的な配慮になっています。
 
①インテルヴァルム・イン・スパティオ
パンフレットには「抽象画をイメージしたモチーフを、時に予兆のように、時に記憶の残響のように描いた。聴き手の内面に眠るイメージとの共鳴を促し、具体ではなく抽象を、直線ではなく揺らぎを選ぶことで、空白の情景をひとつの心象風景へと立ち上げることを意識し」て作曲されたと記されています。「非線形」「非具象」と形容されているように、幽けき音響から取り留めもない音塊がランダムに発火しては収束することを繰り返し、時折、記憶の残響でしょうかサイレンなどのサウンドスケープ(生活音のアイコン)が生起するなど、雑然とした無意識的な脳内を音響的に表現したような作品に感じられました。前回のブログ記事でも記載したとおり、現代音楽は「感情」→「知覚」、「物語」→「現象」、「理解」→「体験」へと表現を拡張し、とりわけ「知覚」(環世界、マクロの世界)の限界(認知バイアス)から認識を解放して世界の実相(環境世界、ミクロの世界)へと認識の拡張を試みるようとする作品が増えてきたように感じられ、人間が「知覚」できるものを世界の全てであると誤解し、それを絶対的、普遍的なものであると盲信してきたことが現代の様々な歪みを生んできた猛烈な反省から、人間の「知覚」(刺身)を超えたところに成立している言葉では切り取れない世界の実相(魚)に認識を解放するために芸術に期待されている役割は大きく(刺身=肴<魚)、その意味でこの作品は非常に有意義な試みではないかと感じられます。
 
②亜細亜音楽便覧+
パンフレットには「中国の「紅歌(プロパガンダソング)」に焦点を当て、音楽が持つ政治的な性格を浮き彫りにすることを目的としている。(中略)これらが持つ過剰な高揚感を意図的に断片化したり、逆に極端に引き延ばすことで、音楽のもつ極めて扇動的な性格を浮き彫りにすることを試みた。音楽は本当に純粋なものになり得るのか。それとも、私達はあらかじめ構築された「物語」の中で踊らされているのか。」と記されています。中国のイメージを象徴する音のアイコンや紅歌(プロパガンダソング)の断章などが散りばめられ、それらが忙しなく交錯する玉石混交とした音楽が展開されました。さながらある時代の中国の世相をサウンドスケープとして切り取って考察した社会派の作品と言えるかもしれませんが、決して斜に構えた取っ付き難さのようなものはなく、これをデフォルメして遊んでしまうたっぷりとした諧謔性や中国の牧歌的な風情などが感じられる作風に好感しました。前回のブログ記事でも触れたとおり、日本は中国に忖度して「皇帝」と名乗ることを遠慮して「天皇」に改称するなど、常に中国の顔色を窺いながら微妙なスタンスをとり続けてきた歴史がありますが、強烈なプロパガンダを含め、これだけダイナミックでバラエティー豊かな音楽を畳み掛けられると、中国が持つ潜在力の高さに舌を巻きます。インターネットが普及したことで世界が相対化して権威主義的なもの(アカデミズムを含む)が持つ「私達のナラティブ」(例えば、長嶋茂雄さんのメークドラマに象徴されるような共感バイアス)が成立し難い時代になりましたが、プロパガンダもいじられてしまうようなバイタリティー豊かな現代の時代性を体現する「時代の息遣い」のようなものを感じさせる面白い作品でした。
 
 
▼量子フェス
【演題】国際量子科学技術年(2025年)記念イベント
    量子フェス
【演目】ヤニック・パジェ 弦理論交響曲「Consciousness」 
【演奏】<指揮・パーカッション・電子機器>ヤニック・パジェ
    <Vc>ウィリアム・プランクル
    <Cl>中村真美
    <Euph>川原みきお
    <Sop>谷村由美子
    <Orch>N'SO Kyotoオーケストラ
【科学アドバイザー】橋本幸士(京都大学大学院理学研究科教授)
【映像ディレクション】アレクサンドル・モベール
【リアルタイムビジュアル】サガール・パテル
【照明デザイン】木内ひとみ
【日時】2025年6月14日(土)19:30~
【一言感想】
1925年にW.ハイゼンベルクが行列力学を発表したことを契機として量子力学の扉が開かれてから100年になりましたが、その理論はミクロの世界からマクロの世界までを解明することに大きく貢献し、スマホの半導体、ロボットの強磁性体、リニアモーターカーの超伝導体及び量子コンピュータなどの革新的な技術に応用されて社会実装されており、現代社会を支える不可欠な技術として浸透しています。このような状況を踏まえ、国連総会が2025年をユネスコの「国際量子科学技術年」として宣言し、世界各国では量子力学誕生100周年を記念して様々なイベントが開催されており、日本でも日本物理学会が中心になって量子フェスが開催されるというので参加することにしました。日本はDXの推進に出遅れ、その玉突きでAIの導入や開発でも世界の後塵を拝している印象を否めませんが、既に世界各国はDXからQX(量子技術の社会実装)の推進を精力的に展開しており、このようなイべントが日本におけるQXの推進の起爆剤になることが期待されます。日本では高校の物理の授業で現代物理学を教えていないところが多いと聞きますが、これからの時代に現代物理学は不可欠であり直観的に捉え難い特徴を持つことから早い時期から慣れ親しんでおく必要があるかもしれません。この点、日本科学未来館では量子の世界をゲーム感覚で体感するための展示やアトラクションなども常設されていますので、子供を連れて遊びに行くと充実した1日を楽しめるのではないかと思います。因みに、世界中から宇宙飛行士も日本科学未来館を来館されているようで、ご自分の顔写真にサインしている方が多いです。なお、世間では小泉米で沸いていますが、日本科学未来館にはお土産として宇宙米が販売されていますので、冷え切った家庭の団欒を温める夕飯の趣向として如何でしょうか。
 
▼量子フェスのプログラム
〇第一部「講演会」
①量子コンピュータ
 <講師>大阪大学大学院基礎工学研究科教授 藤井啓祐
②量子宇宙科学
 <講師>千葉大学ハドロン宇宙国際研究センター教授 石原安野
③量子通信
 <講師>株式会社東芝総合研究所研究主務 鯨岡真美子
④量子スピンエレクトロニクス
 <講師>東京大学大学院大学院工学系研究科教授 齊藤英治
〇第二部「講演会+演奏会」
⑤量子と芸術
 <講師>京都大学大学院理学研究所教授 橋本幸士
     ドイツ・ミュンスター大学教授 ステファン・ホイスラー
⑥演奏会
 弦理論交響曲「Consciousness」
 <作曲、指揮>ヤニック・パジェ
 <演奏>N'SO Kyotoオーケストラ
〇司会進行
東京理科大学理学部物理学科教授(日本物理学会理事) 山本貴博
東京都市大学教育開発機構准教授(日本物理学会AMB) 五十嵐美樹
日本科学未来館 科学コミューターの皆さん
 
上記の①~⑤:講演会
上記の①から⑤の講演会の内容をサマっていると一冊の本が書けてしまいそうなのでご興味のある方は次の機会にご参加を頂ければと思いますが、(会場には日本物理学会の会員や科学雑誌「Newton」の編集長など専門家の姿も多かったですが)日本物理学会で行われている最先端の専門的な議論とは趣きを変え、当代一流の研究者が一般の素人にも量子力学を無理なく理解できるように分かり易い説明に努めた公演内容になっており、寧ろ、高校の物理の教師などが受講すると大変に参考になったのではないかと思います。ご案内のとおり量子力学が記述するミクロの世界は、マクロの世界しか知覚できない人間にとって直観的に理解することが困難な世界観を持っていますが、東大教授の齊藤さんの言葉を借りれば、この世界を支配する根本的な物理法則なので、いま自分がどのような世界に生きているのかという根源的な疑問と向き合ううえで決して避けては通れない身近な問題を扱っている学問と言えるのではないかと思います。開演前の会場にはループ・ミュージック(量子スピンのメタファー)やジャンルは分かりませんでしたがシタールが使われている音楽(ゼロ点エネルギーのメタファー)が流されており、日本物理学会の迷宮へと誘われるようなホスピタリティに僕の小さな脳も温められました。①阪大教授の藤井さんが量子の重ね合わせの状態を直感的に理解し易い表現で説明されており大変に参考になりました。②千葉大教授の石野さんが宇宙から届く兆しを如何にキャッチしてそこからどのように見えない世界を記述していくのかという途方もない話が非常に興味深かったです。③東芝総研の鯨岡さんが量子暗号の社会実装について説明していましたが会場には産業界の方もいて関心の高さが窺えました。④東大教授の齊藤さんが身近な磁石を例に挙げて量子の基本特性をNHKの科学番組並みに分かり易く解説されていましたが人間が直観的に理解し難い量子データの解析にはAIが活用されているという話が非常に興味深かったです。⑤京大教授の橋本さんは西洋音楽は(スペクトル音楽や微分音を除けば)半音単位の離散的な音程で構成されていることからその特徴に着目して量子数と対応づけて和音を構成するというアイデアなどから交響曲の創作を着想されたそうです。また、ミュンスター大教授のホイスラーさんは芸術は時代や文化に応じた個性的なものであるのに対して科学は時代や文化を超越した普遍的なものでありそれらの性格は真逆ですが、「数音統一」という考え方を考案して量子力学の世界観が持つ美しさを音楽で表現することに取り組まれているそうです。なお、丁度、関西万博が開催されていますが、1970年の大阪万博の西ドイツ館で生演奏を披露したK.シュトックハウゼンなども物理モデルを作曲法に応用したことで知られていますが、現代音楽以外の分野でも量子力学を題材とした作品は多く、阪大教授の藤井さんによれば、最近では宇多田ヒカルさんや星野源さんも量子力学から着想を得て楽曲を創作しているそうです。かつては人間が知覚できない神の世界を体感するために芸術作品が利用されましたが、現代では人間が知覚できない量子の世界を体感するために芸術作品が利用される時代になっています。かつて人類は神というブラックボックスを作って人智が及ばない領域を神秘として片付けていましたが、人智が及ばない領域を神秘というベールで覆い隠しまうのではなく、その実相に迫りこれを正しく記述することに挑戦しており、その世界観を体感するための1つの方法として芸術に期待される役割も大きいと言えるのではないかと思います。
 
上記の⑥:演奏会
パンフレットには「作曲家ヤニック・パジェと物理学者橋本幸士の共同研究から生まれ、素粒子物理学の数式に基づく、新たな音楽言語で構成されています。このパフォーマンスは、科学の概念を音楽に翻訳し、観客に物理学の世界を新たな感覚で体験してもらうことを目的としています。」と記されています。さながらI.クセナキスの「ノモス・ガンマ」にインスタレーションやエレクトロニクスなどの要素を追加して現代的に進化させた作品という印象を受けましたが、会場の中央(地球儀の下)に指揮者とオーケストラの本隊、それを東西南北から取り囲む客席、その客席の後方4か所にオーケストラのバンダ隊、ビジュアル・アートやライブ映像を映すためのスクリーンとライブ・エレクトロニクスを再生するためのサラウンド・スピーカーを配置する大規模な編成による規格外の音楽を楽しむことができました。初聴の曲をライブで一聴しただけなので漠然とした第一印象のみをごく簡単に残しておきたいと思います。なお、現在、開催中の関西万博は目玉となるような話題性のある企画に乏しく、あまり注目されていないように感じますが、例えば、この曲のライブ演奏を世界に一斉配信するような企画などがあっても面白いかもしれません。この曲は標題にあるとおり「弦理論」(素粒子とその相互作用を引き起こす4つの力を一次元の弦の振動として記述する理論)を題材にしたもので、第一楽章(電磁気力)、第二楽章(強い力:セラモフォン協奏曲)、第三楽章(弱い力:オーケストラ即興奏)、第四楽章(重力)、第5楽章(第五の力一統)で宇宙を支配している4つの力とそれらが1つに統合されていた状態を記述するための万物の理論を表現しており、前々回のブログ記事及び前回のブログ記事でごく簡単に触れたとおりエネルギーから物質(素粒子→原子→分子)が生成され、その相互作用(力)によって宇宙の構造が誕生する様子がオーディオ&ビジュアルで描かれていました。第一楽章は電磁気力(その力を伝える素粒子は光子)を表現したものですが、エレクトロニクスによってノイズ(対称性)が奏でられ、そこからオーケストラが弱音で奏でる和音やリズム(対称性の破れ)が生まれ、その和音(音の重なり:空間)やリズム(音の連なり:時間)がパターン(音のムラ:構造)を作って行く様子が描かれているように感じられましたが、上述のオーケストラ配置が空間的な広がり(運動の方向)を体感させる効果を生んでいました。第二楽章は強い力(その力を伝える素粒子はグルーオン)を表現したものですが、冒頭の銅鑼の一撃で会場に響き(場)が充満し、オーケストラがロングトーン(弦)を奏でると、それがライブ・エレクトロニクスを使って電子的なサウンドスケープ(波)に変換されて空間的に広がって行く様子を音響的に演出しているように感じられました。陶芸家の黒川透さんが弦理論をテーマとした音楽彫刻「セラモフォン」をヤニック・パジェさんが演奏し、その硬質で冷たい音響特性は強い力によってハドロンに永久に閉じ込められたクオークを連想させました。様々な特殊奏法により多様な素粒子が生成され、微細なリズムが密度を濃くしながら多様な素粒子が集積している様子を表現しているように感じられました。第三楽章は弱い力(その力を伝える素粒子はWボソン、Zボソン)を表現したものですが、原子核内部のベータ崩壊と言われても一般の素人には分かり難いので、これを直感的に理解し易い太陽内部の核融合反応の誘発という具体的な現象として表現されていました。リズムのモチーフを受け渡しながらテンポの緩急を繰り返して徐々に音楽のテンションを高めて行く様子は核融合反応により膨大なエネルギーが生成されていく様子を表現しているように感じられました。弦がコル・レーニョからテヌートへと変化していきましたが、局所的な現象が連鎖反応しながら全面的な現象へと発展して行く様子が描かれているように感じられました。全曲を通して言えることですが、サウンド&ビジュアルが相互に作用することで、この曲の世界観を豊かに広げてくれる効果を生んでいたと思います。昔、「純音楽」というプリミティブな言葉がありましたが、機能和声などを駆使して主に人間の感情などを表現する従来のクラシック音楽(加減乗除のシンプルな世界観)とは異なり、人間中心主義という認知バイアスから脱却して世界の実相に迫るコンテンポラリー作品(微分積分、素因数分解のコンプリケートな世界観)ではビジュアルアートなどの他分野とのクロスカルチャー的な手法を駆使する必要性が高いのではないかと感じます。第四楽章は重力(その力を伝える素粒子は未発見の重力子)を表現したものですが、スピッカートによる微弱音の集積により物質が生まれて行く様子が描かれているように感じられ、それがライブ・エレクトロニックスを使って電子的なサウンドスケープに変換されて重力波として空間に広がっていく様子が表現されているように感じられました。さながらラベルのボレロを彷彿とさせる曲調で宇宙に複雑な構造が生まれて行く様子がダイナミックに描かれているように感じられました。第五楽章は第五の力(4つの力が統一された仮説上の力)を表現したものですが、定型のリズムが繰り返され、徐々にテンポを競り上げながら大きなクライマックスを築くと、この写真のあたりにソプラノの谷村由美子さんが登場して天から降り注ぐような美しいハミングを歌われ、これに弦がユニゾン、管打がオスティナートで調和して1つの統一された美しい世界観を描き出しながら大団円になりました。それは宇宙を支配する万物の理論を頂く神々しさが体現されているようであり、神にロマンを見い出すことが難しくなった現代にあって、神の言葉を借りることなく精度の高い言語(数学)を使って宇宙、星及び生物を貫く根本的な物理法則を解明しつつある量子力学はロマンを感じることができる数少ない分野の1つであり、現代人の認知バイアスを打ち破り全く異なる世界観を拓いてくれる本当に刺激的なもので、その世界観を描く芸術表現に圧倒的なカタルシスを感じます。もはやもマタイ(神の栄光)や第九(人間の理想)が描く世界観だけでは心時めきません。
 
 
▼新作オペラ「船はついに安らぎぬ」
【演題】新作オペラ「船はついに安らぎぬ」
【作曲】永井みなみ
【脚本】河野咲子
【演出】吉野良祐、喜多村泰尚(助手)
【ドラマトゥルク】伊藤靖浩
【出演】<エリザ>鈴木遥佳
    <エリザのエコー>東幸慧
    <ポオ>櫻井陽香
    <プロスペロ/父>奥秋大樹
    <プロスペロ/子>高橋拓真
    <イズミ(略奪隊)>北見エリナ
    <キヨラ(略奪隊)>小林可奈
    <ムラサキ(略奪隊)>筒井絢子
    <アルベール(火夫)>竹内篤志
    <サミュエル(火夫)>寺田穣二
    <フランツ(火夫)>森川知也
    <夜会の王子役>鷹野景輔
    <夜会の歌手>上田彩乃
    <夜会の歌手>山田健人
    <船員/乗客/エコー>池澤真子、伊藤和奏、上原梨華子、大平遥菜
               鈴木花安、田中未来、三神祐太郎、藤田魁人
【指揮】鈴木恵里奈
【ピアノ】石川美結、佐藤響
【打楽器】永野仁美
【コレペティトゥア/副指揮】小松桃
【舞台監督】小田原築(アートクリエイション)
【舞台監督助手】福島達朗
【照明】芥川久美子(ライトシップ)
【衣裳】相川治奈
【メイク】徳田智美
【制作】花岡香梨(統括)、柴田崇考、小林愛侑
【広報】冨澤麻衣子、上原梨華子
【主催・制作】Novanta Quattro
【日時】2025年6月21日(土)14:00~
【会場】成城ホール
【一言感想】
ヴラヴィー!今日は東京を拠点として活動する若手のオペラカンパニー「Novanta Quattro」(ノヴァンタ・クワトロ)の新作オペラ「船はついに安らぎぬ」の世界初演があるというので聴きに行きましたが、最近の傾向として新作オペラは人気が高く本日も満席になる盛会でした。このオペラには「幻想怪奇オペラ」というニックネームが付されていますが、これまでのオペラとは異なる世界観を持つもので、そのユニークな世界観と完成度の高い舞台に魅了されました。現状では、どれほど優れた作品であっても一度限りの公演で使い捨てのように終わってしまう勿体ない状況がありますが、このオペラのような優れた作品の再演機会を生み出す社会的な仕組みが必要ではないかと感じています。この点、メトロポリタン歌劇場ではアメリカ国内外で初演された新作オペラや現代オペラをリサーチし、その中からメトロポリタン歌劇場の上演に相応しい作品を選んでレギュラーシーズンにかけることを専門とするアーティスティック・チームが存在するそうですが、そろそろオペラ界でもミュージカル界と同様にオフ・ブロードウェイで上演された作品のうち優れた作品を選んでオン・ブロードウェアで採り上げることで業界全体を盛り上げて行くような社会的な仕組みが出来ても良さそうです。沢山の新作( ≠ 新制作)の中から優れた作品を選りすぐり、それを幅広い観客に紹介するというマッチング・システムが未整備又は脆弱な印象を否ません。本当はそのような役割を新国に期待したいところなのですが、残念ながら新国の現状や実態を拝察する限りそのような志があるのか否かを含めて些か荷が勝ち過ぎる印象を受けますので、どこかの有為な劇場でこのような役割を担って頂けるところはないものかと観客の立場から念願して止みません。なお、拙ブログの今年の新年の挨拶では「新作オペラ」ブームの到来について触れ、今年の抱負として「新作」のフィーチャーを掲げましたが、最近では若手の世代や一部の老練古参な音楽家を中心に新作オペラの上演が目白押しで(これまでにも紹介している新作オペラ「ナターシャ」新作オペラ「奇跡のプリマドンナ」以外にも、(残念ながら僕は聴きに行くことができませんが)レクチャーパフォーマンスオペラ「ゼッタイ絶体絶対音感主義者」(神奈川県)、新作オペラ「平家物語-平清盛-」(埼玉県)、新作オペラ「みづち」(滋賀県)、新作オペラ「SUN-サン」(三重県)や新作オペラ「サラリーマン金太郎」(東京都)など枚挙に暇がなく、色々と目移りしてしまうような状況に歓喜しています)、しかも今後の展開が楽しみな稀有な才能も多い印象を持っています。最近、若者のオペラ離れが懸念されていますが、このような革新を生み出す活力があれば、決してオペラの未来は暗いものではないと頼もしく感じています。さて、このオペラは音楽、脚本、演出及びはハイ・パフォーマンスな歌手陣などの幸福な出会いが生んだ完成度の高い見応えのあるオペラでしたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。このオペラは、作家の河野咲子さんがエドガー・アラン・ポー(江戸川乱歩)の怪奇小説「赤き死の仮面」を原作にして脚本を手掛けていますが、河野さんは著書「水溶性のダンス」で第5回ゲンロンSF新人賞(2020年)を受賞している奇才で、(本作から受けるファースト・インプレッションとして)シュルレアリスム的な世界観を詩的な表現で幻想的に彩る作風が魅力に感じられます。「分からせる」(伝える)ための言葉ではなく、さながら和歌を詠むように「感じさせる」(伝わる)ための言葉は観客の理性のフィルターをスリ抜けて情動に直接に働き掛け、心をハキングする浸透力を持っているように感じられます。色々な日本語オペラを鑑賞してきまたが、個人的には古典語ではなく現代語を使ったオペラで、こんなに洗練された歌心を感じさせるオペラを鑑賞するのは初めての経験かもしれないことを告白しておきましょう。ミュンヘン音楽演劇大学修士課程で研鑽を積まれている作曲家の永井みなみさんは豊富な音楽的ボキャブラリーを駆使するジャンルレスで着想豊かな曲調で楽しませてくれましたが、とりわけピアノの独奏パートは歌劇と独立した器楽曲としても十分に聴き応えがあるもので、永井さんの他の作品も聴いてみたくなりました。随所にコラージュ(第三場に登場するマエストロ・ポウが夜会の上演に間に合わせるために略奪隊が他の船から盗んできた楽譜や物語を組み合わせて新作オペラを作曲しているという状況設定を踏まえたものと思われます。因みに、マエストロ・ポオという名前はエドガー・アラン・ポーを文字ったものと思われ、この役をメゾ・ソプラノの櫻井陽香さんが演じているところを見ると永井みなみさんに擬えたキャラクター設定ではないかと思われますが、その意味ではメタフィクショナルな物語と言えるかもしれません。)を散りばめて古典と現代の狭間も往還する多様な音楽で最後まで弛緩することなく変化に富んだ音楽を楽しめました。また、指揮者の鈴木恵里奈さんは、台詞と歌唱をシームレスに紡ぐ声楽陣と、ピアノ、打楽器及びエレクトロニクスというストイックな編成によるリズミカルな伴奏で正気と狂気、喜劇と悲劇、現実と幻想などの狭間を劇的に彩る器楽陣とを間合い良くドライブする好演であったことを付記しておきたいと思います。開場から開幕までの間にナレーションが挟まれ、さながらギリシャ神話に登場する人間を惑わす海の魔女セイレーンが海底深くから囁き掛けてくるような幽き声とセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」(波風に乗せて紡がれる、言葉では切り取れない海の歌)がスピーカーから流されましたが、それに伴って会場の照明が徐々に落とされて会場全体がセイレーンに誘われるままに海底深くへと引き込まれて行くような演出効果が出色でした。開幕後、第一幕の第一場「セイレーンの海」では海底深くに沈んでいるプロスペロ親子の船体に船員達の遺体が漂い(現在)、エルザ(海の魔女セイレーン)とエルザのエコー(その魔力)が物語の顛末(過去)を回想するレトロスペクティブな構成になっていましたが、確定的な現在(現実)から不確定的な過去(怪奇)を回想するという予定調和な展開ではなく、不確定的な現在(怪奇)から確定的な過去(現実)を回想するという倒錯的な構成になっており、その独特な世界観が放つ磁力のようなものに惹き込まれました。エルザ役を演じるソプラノの鈴木遥香さんとエルザのエコー役を演じるソプラノの東幸彗さんが海を渡る波風の音に溶け込むような清澄な歌声で歌い添う二重唱が出色で、さながら能「二人静」のシテとツレの相舞を彷彿とさせるものがありました。冒頭から、この世ならざる者が顕在しているような独特な風情を醸し出す舞台は背筋が凍り憑くような幻想美を湛えるもので、歌手陣の卓抜した歌唱力に加えて、これだけの洗練された舞台を作り上げてしまうスタッフの総合力の高さに舌を巻きました。この初演をご覧になられなかった方は大いに後悔しても良いかもしれません、マジで(笑)第二場「甲板」では回想シーンとして過去に時間が巻き戻され、(地球温暖化の影響なのか)殆どの陸が水没して人類は船上生活を強いられながら他の船を襲撃しては生活物資を略奪することを繰り返していますが、プロスペロ親子の船でも毎晩のように略奪品を肴にしてマエストロ・ポオが作曲する新作オペラをエルザが上演する豪華な夜会が開催されているというイントロダクションがありました。器楽陣によるジャズ・テイストのリズミカルな伴奏に乗せて火夫、略奪隊、船員達による勇壮な合唱が歌われる一方で、プロスぺロ船長(親)はその威厳ある態度とは裏腹に自分にしか聴こえないセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」に狼狽し、心を病んでいる様子がピアノ(アナログ)とエレクトロニクス(デジタル)の不協和に乗せて歌われました。プロスぺロ船長(親)役を演じるバスの奥秋大秋さんはその威厳と狼狽の間で揺れ動くプロスぺロ船長(親)の心情を巧みな歌唱と演技で雄弁に表現する好演であったと思います。第三場「夜会-つぎはぎ」ではマエストロ・ポオが略奪隊が盗んできた楽譜をもとに作曲した新作オペラ(王子とダンスしている自動人形オランビアが故障して止まらなくなり最後には王子を殺してしまうグロテスクな物語)をエリザが上演しますが、エリザの歌声に誘われるようにプロスぺロ船長(親)の耳にはセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」が聞こえ始めるという場面でしたが、ドラムやゴング、チェンバロ、ハープ、ハンドネオンなどの打楽器とエレクトロニクスによってコミカルな雰囲気を持つコラージュ風の音楽が多彩に紡がれ、マエストロ・ポオの作曲活動や豪華な夜会の様子が活写されました。夜会の途中でプロスぺロ船長(親)が不協和に乗せて錯乱し始めると、ミニピアノや照明などによりエルドリッチな雰囲気が醸し出され、バンダのコーラスがセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」を歌いながら次第にアッチェレランドして狂気が支配的になって行くドラマチックな舞台展開に魅了されました。第四場「夜の歌」ではプロスぺロ船長(親)が狂い死にしてプロスぺロ親子の船は喪に服していますが、プロスぺロjr.(息子)はセイレーンの呪いに対する恐れを払拭するために豪華な夜会の再開を命じて、略奪隊、火夫や船員が活動を再開するという場面ですが、プロスぺロjr.(息子)が恐怖に狼狽する様子がピアノのトリルやドラムのロールによる緊迫感のある音楽で表現され、プロスぺロjr.(息子)役を演じるテノールの高橋拓真さんが不協和に乗せてプロスぺロ船長(親)の狂気が乗り移って行く様子を巧みな歌唱と演技で雄弁に表現する好演で、プロスぺロjr(息子)の姿にプロスぺロ船長(親)の姿が重なって見えてくる効果(うつり)が生まれていたと思います。これとは対照的に、活気付く船内の様子がリズミカルで躍動感のある全員合唱で歌われて第一幕が終幕になりましたが、この正気と狂気の対照が物語の陰影を深くする効果を生んでいたと思います。この夜会のオペラに登場する王子とはプロスぺロ船長(親)又はプロスペロjr.(息子)を暗示している劇中劇中劇のような舞台構造になっておりマンガ「鬼滅の刃」(無限城編)のタイトルを借りればオペラ「船はついに安らぎぬ」(無限劇編)というサブタイトルを付けたくなるような趣向に感じ入りました。なお、第一幕の何場であったのか忘れてしまいましたが、エルザとマエストロ・ポオが海面に映る星々(人間のメタファー)をつなげて星座の歌(まどろみ座、あやかし座、とこしえ座・・・)を歌いますが、この世のありのままを映し出す純粋にして残酷な自然の美しさを湛えるピースであり、このオペラの歌劇としての魅力を存分に印象付けるものであったことを付記しておきたいと思います。休憩を挟んで、第二幕の第一場「稽古場」では夜会の再開に向けてマエストロ・ポオが新作オペラの作曲に試行錯誤していますが、エルザが海から聞こえてきたという物語「赤き死の仮面」をマエストロ・ポオに提案して新作オペラを完成させるという場面ですが、ここでもエドガー・アラン・ポー(江戸川乱歩)へのオマージュとしてメタフィクショナルな構成がとられていました。マエストロ・ポオが新作オペラの作曲に試行錯誤する様子をバロック、ポップス、サンバなどのジャンルレスな音楽をコラージュしてミュージカル風のアリアとして歌いましたが、その後、エルザとマエストロ・ポオがエルザが海から聞こえてきたという物語「赤き死の仮面」を二重唱で語り歌い、さらに、これをエルザとエルザのエコーがデモーニッシュな雰囲気を湛えた二重唱で歌い継ぎながら徐々にセイレーンの魔力が舞台に立ち込めましたが、さながら能「二人静」のシテとツレの相舞を彷彿とさせる場面であり、エルザとエルザのエコーの声が光と影のように重なり合いながらこの世とあの世を結ぶ能舞台の橋掛りを声で演出する劇的な効果(声の橋掛り)を生んでいるように感じられました。あまりに見事な舞台に感服するほかなく、こうなると降参するしかありません。第二場「夜会-赤き死の仮面」では再開された夜会で新作オペラ「赤き死の仮面」(赤き死の病という疫病が蔓延する世界で王と臣下は城に立て籠もり仮面舞踏会を催していますが、赤き死の病人が仮面舞踏会に紛れ込んでしまうという物語)が上演されましたが、プロスペロjr.(息子)はこの夜会のオペラは虚構ではなく現実であると倒錯して上演を中止させましたが、第一幕の第四場のように劇中劇中劇が劇中劇、劇へ舞台が相移転してしまうオペラ「船はついに安らぎぬ」(無限劇編)の真骨頂とも言うべき劇展開に固唾を呑み、ヒステリックにテンポを競り上げながらプロスペロjr.(息子)が狂気に支配されて行く様子をドラマチックに表現する迫真の合唱が見事でした。やがて人間を惑わす海の魔女セイレーン(エルザとエルザのエコー)がプロスペロjr.(息子)に囁きかけると、これに惑わされたプロスペロjr.(息子)がセイレーンの魔力に執り憑かれたように言葉にならない海の歌(ハミング)を歌い添いましたが、ピアノが奏でる詩情豊かな旋律と波風の音型は背筋を凍り付かせるような美しさを湛えるものでした。これは音楽の表面的な美しさに留まらず物語の世界に共鳴した観客(僕)の心が音楽をプロジェクションしたことで生まれた感興(聴取体験)とでも言うべきものですが、近松門左衛門が虚実皮膜論で説く「うつり」とはこのようなことを言うのかもしれません。その意味でも、観客(僕)の心を強くハッキングしてしまう非常に完成度の高い舞台ではないかと思います。第三場「甲板」及び第四場「婚礼」ではプロスペロjr.(息子)が海の魔女セイレーンに惑わされてエルザと結婚するという場面ですが、活動を再開した船内の活発な様子がリズミカルでユーモラスな伴奏に乗せて火夫、船員、略奪隊によるジャズ・ミュージカル風の合唱として歌われましたが、やがて激しい音楽と渦を巻く照明などにより嵐に伴う荒波と雷鳴と共に船が沈没する様子が描写されました。第五場「セイレーンの海」では開幕前に回帰して海の魔女セイレーンが波風の音だけ残る海底深くから囁き掛けてくるような幽き声とセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」(波風に乗せて紡がれる、言葉では切り取れない海の歌)が聞こえ、「これは私の物語、マエストロの物語、そして、あなたの物語」という意味深長なナレーションと共に物語が締め括られました。随所に現代の時代性を象徴するような様々なインシデントが散りばめられ、現代人にも共感できる懐の広いオペラと言え、さながら成城ホールを船、観客一人一人をプロスペロ船長(親)又はプロスペロjr.(息子)として、河野咲子さんと永井みなみさんという二人静の相舞により紡がれるセイレーンの歌に大いに惑わされながら海上(現実)にいるのか海底(虚構)にいるのか倒錯し、虚実皮膜の間を漂っているような傑作に感じられました。ヴラヴィー!このような新しい芸術体験を求めていましたが、改めて、その卓抜した独創性と完成度の高さに惜しみない賛辞を贈ると共に、これだけの傑作が再演されずに埋もれてしまうのは非常に勿体ないことなので、どこかの大劇場(オン・ブロードウェイ)で採り上げて貰えないものかと熱望します。是非、このチームでの次回作も期待したいです。
 
 
▼映画「国宝」
マスコミなどで話題になっている映画「国宝」が去る6月6日(お稽古の日)から全国公開されましたので映画館で鑑賞しましたが、上野のTOHOシネマズはほぼ満席の大入りでした。日本では民法の制定による土地の単独相続(家父長制)から金銭の分割相続(平等主義)への移行などにより家制度が崩壊しましたが、歌舞伎界を始めとする伝統芸能の世界では土地や金銭ではなく看板(アウラ)を単独相続する家制度(世襲)が残っている特殊な世界と言えます。この点、野球などのスポーツ界は看板ではなく成績(数字)にアウラが生まれるので「世襲」は成立しない分野とも言え、その意味で以下の囲み記事で触れている長嶋茂雄さんは成績(数字)をドラマで彩って背番号3番という看板で国民を魅了した国宝級の稀有な才能であったと言えるかもしれません。未だ公開されたばかりでありネタバレしないように映画の感想などは自粛したいと思いますが、5代目坂東玉三郎さん(人間国宝)が14代目守田勘彌さんの部屋子になったのが6月6日であり、その後、14代目守田勘彌さんの養子になり「芸」で身を立て坂東玉三郎(空席)の名跡を襲名したことを思い出しましたが、永井荷風の小説「腕くらべ」の世界観とも重なって虚実皮膜の間に宿る真を堪能できる映画でした。E.リンカーンが「Where there is a will,there is a way」という名言を残していますが、「道」とは自(おのずか)ら拓かれているものではなく自(みずか)ら拓くものであって、それは歩む前から見渡せるようなものではなく試行錯誤しながら直向きに歩んできた後を振り返ったらできているものであり煩悩に身を焦がす修羅の道であるということが描かれているように感じられ、上記のブログの枕で簡単に触れた「血」(遺伝によるムラ)と「芸」(努力によるムラ)で凌ぎを削る芸道の実相について色々と考えさせられる見応えのある映画ですので、是非、没入感に優れた映画館での鑑賞をお勧めしておきます。なお。歌舞伎という古典劇と映画という現代劇が重なり合う劇中劇で見られる吉沢亮さんの演技にも注目ですし、田中眠さんには何者かが憑依しています。「まだ足りぬ 踊り踊りて あの世まで」(6代目尾上菊五郎)という辞世の句に滲み出ているような芸に生きることの凄みを堪能できる観応えのある映画です。kokuhou-movie.com
 
▼20世紀の偉大なアウラ(訃報)
去る6月3日に読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが逝去されたという訃報が飛び込んできましたが、長嶋さんの「野球とは人生そのものです」という言葉を体現するかのように享年89才(野(8)球(9)の才)の天寿を全うされました。長嶋さんは千葉県佐倉市臼井出身(生家跡)で、長嶋茂雄さんのご両親やお兄さんが永眠されているお墓の家紋を拝見すると「丸に違い鷹の羽紋」なので(お墓の場所はプライバシーに配慮し、また、他の檀家さんに迷惑がかかるのて秘匿)、大蔵氏流(能楽の祖・秦氏を源流として佐賀県武雄市武雄町大字永島で発祥し、朝廷の国庫である「大蔵」の管理・出納を務めたことからその職名を名乗った由緒ある氏族)である可能性が考えられます。長嶋さんは地元の小中学校から千葉県立佐倉高等学校野球部→立教大学野球部→読売巨人軍を経てその引退後も国民的な英雄として愛されましたが、千葉県立佐倉高等学校は佐倉藩校「佐倉藩学問所」を前身として創設された伝統校で、その敷地内には佐倉藩が蒐集した歴史的に貴重な蔵書を中心に展示している鹿山文庫が併設されており、長嶋さんの貴重な遺品なども展示されています。長嶋さんの名言「メークドラマ」は1996年の新語・流行語大賞を受賞していますが、長嶋さんのように国民を魅了する物語(ファクション)を仕掛けて空前の野球ブームを巻き起こしてしまう規格外の才能は見掛けなくなり、ファクトフルネスのみが重用される味気ない時代になってしまいました。因みに、千葉県佐倉市臼井は、通算勝率96.2%という歴代最高記録を誇り空前の相撲ブームを巻き起こして江戸時代最強の力士と謳われた雷電爲右衛門臼井宿の甘酒茶屋「天狗さま」の看板娘だった妻・おはん(八重)と共に晩年を暮した場所であり、雷電爲右衛門と妻・おはん(八重)のお墓も安置されています。最後に、改めて、長嶋さんの生前の偉業を讃えると共に、その逝去を悼んで、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。