
▼「この世界のムラを再定義する」(ブログの枕)
前四回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」についてごく簡単に触れましたが、今回は、この世界の「ムラ」を再定義するという視点から、脳の多様性(ニューロ・ダイバーシティ)についてごく簡単に触れてみたいと思います。今回の参議院選挙では外国人政策が主要な争点の1つになり、トランプ2.0の反DEI政策などとも相俟ってエモーショナルな論調が目立っていた印象を受けますが、これらを一様に排外主義的な傾向と決め付けるのは乱暴であるとしても、例えば、オーバーツーリズムの問題について外国人旅行者を「受け入れる側」の準備不足に起因する問題も外国人旅行者の問題にスリ替えて語ろうとするプリミティブな反応などを見ると、些か問題の本質を取り違えて気分に流され易い傾向があるように感じられ、流言飛語に踊らされることなく冷静に問題を整理して木目細かい議論が必要ではないかと感じます。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間は富の獲得と分配を効率化するためのインフラとして「集団」を形成し、その脅威となる他の集団から自らの「集団」を守ることで自らの生存可能性を高めるという生存戦略をとってきましたが、例えば、アリは自らの「集団」の内外の判断基準として「匂い」という直感的な識別子を用いるのに対し、人間は「アイデンティティ」という非直感的な識別子を用いることで、より効率的な富の獲得と分配を可能にする大規模な集団を形成できるようになった一方で、アイデンティティという拡張性(流動性)のある識別子を用いることで自らの「集団」の内外の判別が曖昧(相対的な関係性)になり争いを生じ易くなる傾向が生まれ、上述のような諸問題も(グローバリズムや労働力不足などを背景として)アイデンティティの再定義が必要になったことに伴うストレスと捉えることができるかもしれません。昔から日本はイングループ・バイアス(集団のアイデンティティに馴染む同質的な人を好み、集団のアイデンティティに馴染まない異質な人を疎んじる傾向)が強く、それが最近の日本凋落の原因の1つ(脳科学者・中野信子さん曰く「日本は優秀な愚か者の国」)として指摘されていますが、その再定義には社会的な議論の成熟を待つ必要がありそうです。この点、これまでのように「コミュニケーションを重ねれば分かり合える」(即ち、認知バイアスを強化すればお互いの違いを同質化できる)という旧来型の短絡的な発想に飛び付くことは危険で(脳科学者・茂木健一郎さん曰く「分かり合えるという思い込みを止めること」)、お互いの違いを大らかに許容することができる幅広い教養を培うことが重要であり、その素養を培うために芸術に期待される役割は益々大きくなっているように感じます。
▼アイデンティティの拡張性(流動性)とマイノリティの位置付け近現代以降のマイノリティの歴史を紐解くと、1948年に国連総会で世界人権宣言が採択され、1950年代からアメリカの公民権運動が活発になったことなどを契機としてマイノリティに対する人権意識が高まりました。その後、1992年に国連総会でマイノリティ権利宣言が採択されたことによりアメリカのような多様性を前提とする統合型社会の理念(多文化主義)が広く支持され、国連に少数者問題に関するフォーラムが設置されてマイノリティ権利宣言の具体的な実践を促すための様々な取り組みが継続されています。アイデンティティの拡張性(流動性)という意味では米国(多文化主義)>仏国(普遍主義)>日本(血統主義)ということになりそうですが、後述するとおりトランプ2.0の反DEI政策ではアイデンティティの拡張性(流動性)の揺り戻しが企図されています。
国 社会 マイノリティ 傾向 米国 出生地
主義多文化
主義統合型 多様性
多様な移民区別容認
権利保障差別が表面化 仏国 普遍
主義同化型 普遍性
一様な国民区別否認
平等主義差別が潜在化 日本 血統主義 同質型 同質性
同質な国民区別不存
ネグレクト排外主義的傾向
尊王攘夷※1 米国はトランプ大統領令により出生地主義を不法移民などには認めないと制限※2 仏国は米国のような完全な出生地主義ではなく一部に日本のような血統主義も採用※3 独国は歴史的な経緯から米国(多文化主義)と仏国(普遍主義)の中間的な位置付け※4 再掲表:建国の理念とマイノリティーの位置付け
社会 区別に肯定的 区別に否定的 包摂的
inclusion米国
多文化主義仏国
普遍主義排除的
exclusion日本
排外主義的南ア
アパルトヘイト時代

上述のとおり今回の参議院選挙で主要な争点の1つになった外国人政策とトランプ2.0の反DEI政策は、一見、ポピュリズムの台頭に位置付けられる同じような社会現象に見えますが、その社会的・文化的な背景には大きな違いがあるように思われます。この点、アメリカは多様な出自や宗教を持つ移民が契約により合衆(integration)し、出自や宗教などの属性によりマジョリティの権威を認めつつマイノリティの人権も尊重する統合型社会(多様性=属性を前提とするのでマイノリティに対する差別が表面化し易い社会)であるのに対し、フランスはフランス革命を契機にして国民が普遍的な価値観のもとに共和(assimilation)し、出自や宗教などの属性によりマジョリティやマイノリティを区別することなく全ての国民は平等であるとする同化型社会(普遍性=本質のみを前提として多様性=属性を重視しないのでマイノリティに対する差別が表面化し難い社会)という建国理念の差異があるように思われます。そのため、従来、アメリカではマイノリティに対する保護政策はマイノリティの人権保障の一環と捉えられてきた一方で、フランスでは全ての国民は平等であるという普遍的な価値観に反する差別的な優遇と捉える傾向がありました。今回のトランプ2.0の反DEI政策はアファーマティブ・アクションやポリティカル・コレクトネスのラディカルな推進によりマジョリティの権威が不当に侵害されている社会的な状況(例えば、キリスト教以外の宗教的マイノリティに配慮して「メリー・クリスマス」を「ハッピー・ホリデーズ」に言い換えるなど、ノイジー・マイノリティがサイレント・マジョリティを抑圧する風潮など)を逆差別と捉えたことに伴う揺り戻しと言えるかもしれません。これに対し、日本では、国民が出自や宗教などの属性をほぼ同一としていたことなどを背景として調和(conformity)し、昔からアイヌ民族などのマイノリティは存在していたものの、マイノリティを強く意識する必要がない同質型社会(同質性を前提とするのでマイノリティという概念が希薄な社会)であり、歴史上、マイノリティを包摂してきた経験に乏しいことなどが影響して排外主義的な傾向に陥りやすいと言われています。このようにマイノリティの問題は主に社会的少数者である人種の問題として捉えられてきましたが、最近では社会的少数者であることから生きづらさを抱えている人(人種に限らず、性別、年齢、病気、障害、左利き、妊婦、ひとり親家族なども対象)の問題として捉え直し、全ての人が能力を高めて社会的、経済的、政治的に取り残されないようにするための取組みとして概念拡張されています。この点、ニューロ・ダイバーシティでは、従来であれば発達障害と捉えられてきたものを、脳科学の発達を背景として脳や神経の多様性(能力)として捉え直し、社会から排除するのではなく合理的な配慮のもとに社会に包摂する考え方です。人類が最初に個々人の脳の働きに違いがあることに気付いたのは紀元前1600年頃(古代エジプト人)と言われていますが、その後、他人の脳の働きと顕著な違いを持つ人を悪魔(魔女)と見做していた暗黒時代を経て、1998年にオーストラリア人社会学者のジュディ・シンガーがニューロ・ダイバーシティという言葉を使ってパラダイムシフトを仕掛けました。従来は自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如多動症(ADHD)、限局性学習症(SLD)、チック症、吃音などは発達障害と認識されていましたが、例えば、自閉スペクトラム症(ASD)はシリコン(バレー)症候群とも言われるとおり自閉症を持つ人が高度な繊細さ、強力な論理的・分析的思考、綿密な検査能力などの能力特性を備えてシリコンバレーで優秀なプログラマーとして活躍している事例に象徴されるように科学技術分野で卓越した業績を挙げる人が多いことが分かっており、また、V.ゴッホやP.ピカソなどは注意欠如多動症(ADHD)の傾向があり、さらに、L.ダヴィンチ、T.エジソン、A.アインシュタインやS.ジョブズなどは限局性学習症(SLD)の傾向があることが指摘されており、これらの脳や神経の多様性(最近では民族や文化の多様性を含む)は他者に劣った弱みとして作用する可能性ばかりではなく他者に優れた強みとしても作用する可能性が認識されており、その強みを社会的に活かすための取組みとしてストレングス・モデルが注目を集めています。合理的な配慮(平等から公平へ嵩上げするための配慮←トランプ2.0の反DEI政策ではアファーマティブ・アクションを廃止)を必要としないまでも、誰しも脳の多様性(ムラ)を備え、それに応じた弱みと強みを持っていますが、その強みを社会的に活かすためには自分はどのようなマイノリティの特性(脳の多様性)を持つのかを自己研究しておくことが必要かもしれません(以下の囲み記事を参照)。日本はジェンダーギャップ指数(世界経済フォーラム(WEF)が公表している2025年版「Global Gender Gap Report」)で世界148ケ国中118位とG7最下位であり、同じ文化圏にある韓国(101位)や中国(103位)の後塵を拝する結果になっていますが、日本でもダイバーシティ経営の推進を積極的に取り組みつつあります。この点、今回の参議院選挙で女性の社会進出が少子化問題の原因の1つになっているような印象を与える発言を行ってマスコミからバッシングされている政治家がいましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、欧米では法律上の婚姻関係になくても内縁関係があれば税金、相続や社会保障などを受けられるように法律を改正したことで婚外子が増加して出生率が改善したという報告がありますので、単純に女性の社会進出が少子化問題の原因であるかのように捉えるのは昭和ノスタルジーに彩られたエモーショナルな議論(ふてほど)であり、少子化問題の原因を矮小化し、その本質を取り違えていると言えるかもしれません。個人的には、何かを犠牲にしなければ子供を持てない状況を改善するために知恵を尽くしたいです。
▼ニューロ・ダイバーシティの思想的な拡張性ニューロ・ダイバーシティの思想は、マジョリティの視点(絶対主義的な価値観、マクロな世界観)から「違い」を「正常/異常」として捉えるのではなく、マイノリティの視点(相対主義的な価値観、ミクロな世界観)から「違い」を「多様性」として捉える点に特徴的な違いがあります。前者が父性的な原理であるとすれば、後者は母性的な原理と言えるかもしれませんが、右派又は左派という二元論的な議論に終始することなく、この世界の「ムラ」をどのように捉えてどのように再定義していくのかという複眼的な視点を持って議論する必要がある問題ではないかと思います。個人的には、(還元主義的に過ぎるとの批判を受けるかもしれませんが)この世界の「ムラ」の殆どが詰まるところ電子の結合パターンに過ぎないとすれば、それに認知バイアスを手掛りとした価値序列を設けて人工的な線を引き、その一部を劣位に扱おうとするセンティメンタリズムには何ら説得力や共感を覚えません。
世界の捉え方 ニューロ・ダイバーシティ 思想性 視点 世界観 違い 対象 多様性 マジョリティ 絶対的
マクロ正常
異常-
(排外主義的)古典的
パターナルマイノリティ 相対的
ミクロ多様性 原義 脳
神経認知 現代的
リベラル拡張 民族
文化認知型
価値観※前回のブログ記事で、マクロな世界はムラの演出が比較的に単純、ミクロな世界はムラの演出は複雑になる傾向がある旨を述べましたが、ニューロ・ダイバーシティ―でも同じような傾向を持つと捉えることができるかもしれません。▼夏休みの自由研究:あなたのマイノリティ・レポート誰しも脳の多様性(ムラ)を備えており、それに応じた弱みと強みを持っていますが、その強みを社会的に活かして行くためには、自分はどのようなマイノリティにカテゴライズされるのかを自己研究しておくことも大切かもしれません。。
マイノリティの特性(脳の多様性) 弱み 強み ものの管理が苦手である 臨機応変な対応ができる 落ち着きがなくじっとしていられない 行動力・好奇心が旺盛である 計画が立てられない 柔軟に対応する行動力がある 勘違いしやすい 先入観がなく独自の視点を持てる 不器用でスルーできない 細部への注意力が高く丁寧に対応できる 変化が苦手である 一貫性と安定感を持ち慎重に取り組める パニックになりやすい 感受性豊かで他人の気持ちに敏感である ネガティブなことばかり考えてしまう リスク管理や問題点の察知に長けている 空気が読めない 周囲に流されず自分の考えを貫ける なかなか調子がでない 深い洞察や思索ができる 感覚が人と違う 独特な感性や美意識、創造性を持つ 体のコントロールが苦手である 頭の中でのイメージ力や空想力が高い 疲れやすい 自分の限界に敏感で自己管理できる スムーズに言葉が出ない 言葉以外の表現に長けている 読み書きが苦手である 直感的・視覚的に理解する力が強い
▼サマー・リサイタル2025「スザンナの秘密」/「ルクレツィア」
【演題】新国立劇場オペラストゥディオ・オペラ研修所
サマー・リサイタル2025「スザンナの秘密」/「ルクレツィア」
【演目】E.ヴォルフ=フェラーリ オペラ「スザンナの秘密」(1909年)
O.レスピーギ オペラ「ルクレツィア」(1935年)
【出演】オペラ「スザンナの秘密」(ピアノリダクション版/原語上演)
<伯爵ジル>小野田佳祐(Bar/第27期)
<伯爵夫人スザンナ>渡邊美沙季(Sop/第26期)
<サンテ(黙役)>宇井晴雄(俳優/演劇研修所賛助)
オペラ「ルクレツィア」(ピアノリダクション版/原語上演)
<声>後藤真菜美(Mez/第26期)
<ルクレツィア>有吉琴美(Sop/第27期)
<セルヴィア>吉原未来(Mez/第28期)
<ヴェニリア>島袋萌香(Sop/第27期)
<コッラティーノ>矢澤遼(Ten/第27期)
<ブルート>長倉駿(Ten/第28期)
<セスト・タルクィーニオ>青山貴(Bar/第4期賛助)
<ティート>上田駆(Bar/第28期)
<アルンテ>田中潤(Bar/第28期)
<スプリオ・ルクレツィオ>中尾奎五(Bar/第26期)
<ヴァレリオ>小野田佳祐(Bar/第27期)
【演出】粟國淳、(助手)上原真希
【指揮】松村優吾
【ピアノ】岩渕慶子、髙田絢子
【照明】黒柳浩之
【音響】横山友美
【衣裳コーディネーター】加藤寿子
【舞台監督】野本広揮、(助手)渡邊真二郎、佐々木まゆり、森川美里
【ヴァ―カルテクニカルコーチ】浜田理恵
【音楽スタッフ】石野真穂、小埜寺美樹、瀧田亮子、木下志寿子
谷池重紬子、原田園美、星和代
【ディクション指導】エルマンノ・アリエンティ
【オペラ研修所長】佐藤正浩
【制作】新国立劇場
【日時】2025年7月27日(日)14:00~
【会場】新国立劇場 中劇場
【一言感想】

ヴラヴィー!今日は新国立劇場オペラ研修所が毎年夏に開催しているサマー・リサイタル2025で20世紀に創作されたオペラ2作品が採り上げられるというので聴きに行ってきましたが、歌、器楽、演出(照明などを含む)がバランスよく融合し、それぞれの作品の世界観を体現する総合芸術の醍醐味を感じさせる充実した舞台を楽しめましたので(世辞抜き)、以下にそれぞれの作品について簡単に感想を残しておきたいと思います。これだけ上質な舞台を僅か3,850円で鑑賞できてしまう「高コスパ」に加え、1作品60分以内というリーズナブルな上演時間(個人的には、人間の集中力はウルトラディアンリズム(レム睡眠などに代表される約90分の周期で繰り返される体内リズム)に規律されており、どのような舞台や映画などでも1作品90分以内に収めるのが望ましいという持論を持っています)に収まる「高タイパ」な公演に好感しました。近年、若者のオペラ離れが懸念されていますが、このパッケージの公演なら現代の若者にも受け入れ易く、かつ、満足感も高いのではないかと思います。因みに、新国立劇場オペラ研修所は1998年に世界に通用するプロのオペラ歌手を養成する研修機関として開設され、高倍率の選抜試験を潜り抜けた将来を嘱望される有能な14名の研修生が国内外の一流講師陣による発声法、歌唱法や演技法の実技、外国語の授業、ANAスカラシップによる海外研修などの実践的なカリキュラムを通してオペラ歌手として必要不可欠な素養を習得し、その成果を実践する機会としてサマーリサイタル(ピアノリダクション版の公演)、リサイタル(オムニバス形式の公演)、春公演(フルオーケストラ版の公演)が開催されています。
①オペラ「スザンナの秘密」
中劇場の回り舞台を居間(社交)と寝室(秘密)に2分割し、居間(社交)で繰り広げられる嘘と寝室(秘密)で繰り広げられる真の狭間で揺れ動く夫婦関係の機微が軽妙洒脱に描かれていました。前半は緊張していたのかやや歌や演技に固さのようなものが感じられましたが、後半になるにつれて歌に感情が乗り演技も洗練されていったように感じられました。バリトンの小野田佳祐さんが演じる伯爵ジルとメゾ・ソプラノの渡邊美沙季さんが演じる伯爵夫人スザンナによる、嘘で疑心暗鬼に陥るぎこちない二重唱と真に触れて疑心暗鬼が晴れる素直な二重唱の対比が面白く感じられ、歌、器楽、演出が呼吸感良く融合する生き生きとした舞台が展開されました。舞台セットの背景色を黒基調にすることで客席後方からもタバコの煙(夫婦関係のメタファー)を視認し易い工夫が施されており、嘘で煙に巻く関係から真に触れて煙(水)に流す関係へと一転する夫婦の機微(滑稽さ)が分かり易く描写される面白い舞台に感じられました。なお、本日の公演は教育的な配慮や運営的な制約などの止むを得ない事情からピアノリダクション版の公演になっているものと了見したうえで、あくまでも個人的な嗜好の問題として、作曲家が予定していない響き(使用言語や楽器編成などを変更したもの)による公演は違和(さながらオイスターソースの代わりに醤油で間に合わせてしまう不誠実さ)を禁じ得ませんが、本日の公演に限って言えば、松村優吾さんの歌心のある指揮と岩淵慶子さんと高田絢子さんのニュアンス豊かなピアノ連弾伴奏によりピアノリダクション版のビハインドを殆ど感じさせない好演を楽しむことができ、却って、ピアノ連弾伴奏の活舌の良さにより楽曲の構造がすっきりと浮き立って、その音楽的な魅力を際立たせる効果を生んでいたように感じられました。ヴラヴィー!
②オペラ「ルクレツィア」
第一場では、セスト・タルクィーニオを演じるバリトンの青山貴さんが圧倒的な存在感を示す重厚な歌唱が白眉で、タルクィーニオの野心を大きな影で表現する照明演出も出色でした。これに続いて、軍人を演じる男性歌手陣が妻の貞節について勇ましく歌い合う吸引力のある歌唱に魅了されましたが、冒頭から3,850円では不当廉売ではないかと思わせる上質な舞台を楽しめました。ギリシャ悲劇のコロスよろしく物語を俯瞰しながら観客に語り掛けてくるレチタティーヴォ的な役回りとしてメゾソプラノの後藤真菜美さんが声を担当し、さながら劇中劇のようなドラマチックな歌唱、朗唱で観客をグイグイと物語世界に引っ張り込む表現力が舞台を引き締めていましたが、声がオケピで物語を俯瞰しながらその場面を回想するように透過スクリーン越しに歌手陣が演技する演出は舞台を弛緩させない気の利いたもの(最近で言えば、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」などでも効果的に使用されていた人気の演出法)で、今回の2回公演のみでは勿体ない完成度の高い舞台になっていました。第二場では、ルクレツィアを演じるソプラノの有吉琴美さんと侍女を演じる女性歌手陣が他愛のない日常を歌い合うところに、タルクィーニオがルクレツィアを手中にしようと訪れますが、タルクィーニオの威厳を体現する青山さんとクレツィアの気品を体現する有吉さん(ソプラノ・ドラマティコ?)が圧倒的な歌唱で拮抗し、これに呼吸感良く松村さん、岩淵さん、高田さんによる音楽及び後藤さんの声が劇に彩りを添えながら密度の濃い舞台が展開されました。それにしても青山さんを相手にして一歩も引けを取らない有吉さんの圧倒的な歌唱力には舌を巻きましたが、スター歌手の資質を持つ今後の活躍が楽しみな逸材です。タルクィーニオに強姦されたルクレツィアの顔を照らす照明がルクレツィアの絶望の深さを物語る演出効果が出色で、非常に充足感の高い舞台を楽しめました。ヴラヴィー!第三場では、松村さんの歌心ある指揮、岩淵さん、高田さんの繊細なピアノ伴奏による好サポートを得て、有吉さんが夫への愛のうちに自決を選ぶルクレツィアの絶望の深さと気高さを好演し、軍人を演じる男性歌手陣がルクレツィアの復讐を誓う緊迫感のある歌唱で劇的な終幕になりました。ヴラヴィー!研修カリキュラムの都合上、再演は難しいのかもしれませんが、この2回公演だけで終えてしまうのは非常に勿体ない完成度の高い舞台だと思われるので、オペラファンを増やす意味でアーカイブ配信などをご検討頂けると嬉しいです。これほどクオリティーの高い舞台を楽しめるのであれば、(20世紀以降に創作された作品が採り上げられるのであれば)来年も観に来たいと思っています。
▼新作オペラ「ナターシャ」
【演題】日本人作曲家委嘱作品シリーズ第3弾
オペラ「ナターシャ」(世界初演)
【作曲】細川俊夫
【台本】多和田葉子
【演出】クリスティアン・レート
【振付】キャサリン・ガラッソ
【出演】<ナターシャ>イルゼ・エーレンス(Sop)
<アラト>山下裕賀(Mez)
<メフィストの孫>クリスティアン・ミードル(Bar)
<ポップ歌手A>森谷真理(Sop)
<ポップ歌手B>冨平安希子(Sop)
<ビジネスマンA>タン・ジュンボ(Bass)
<ビジネスマンB>ティモシー・ハリス(俳優)
【演奏】<Cond>大野和士
<Orch>東京フィルハーモニー交響楽団
<Chor>新国立劇場合唱団
<Sax>大石将紀
<Egt>山田岳
<Elc>有馬純寿
【ダンス】山中芽衣、浅沼圭、上田舞香、星野梓
天野朝陽、石井丈雄、郡司瑞輝、森井淳
中島小雪、亀井惟志、浜野基彦、松田祐司
【美術】クリスティアン・レート、ダニエル・ウンガー
【衣裳】マッティ・ウルリッチ
【照明】リック・フィッシャー
【映像】クレメンス・ヴァルター
【合唱指揮】冨平恭平
【音楽ヘッドコーチ】城谷正博
【舞台監督】髙橋尚史
【日時】2025年8月11日(月・祝)14:00~
【会場】新国立劇場 大劇場
【一言感想】ネタバレ注意!

ヴラヴィー!!今日は、新国立劇場で音楽史の金字塔の1つになるであろう作曲:細川俊夫さん、台本:多和田葉子さんによる新作オペラ「ナターシャ」の世界初演を鑑賞してきましたので、その歴史の生き証人の1人として(他日公演がありますので、あまりネタバレしない範囲で)ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。音楽(音響)、言葉(音声)及び演出が一体になって、生と死を抱く母なる海(+月)に現代の時代性を「鏡映」して深淵な世界観を描き出す傑作で、その中に織り込まれている数々の問い掛けが時に波濤になって激しく打ち寄せ、時に小波になって静かに語り掛けてくるような大きな作品に感じられました。果たして、人類は、未だ母なる海に愛されているのでしょうか。なお、お恥ずかしながら夏休みは軍資金が心許なくなる季節であり、本日は貧民席(天井桟敷)での鑑賞になりましたが、後述の囲み記事でも触れたライブ・エレクトロニクスやビジュアル・アートの演出効果は低層階席の方が感得し易いのではないかと思われますので、(当日券の有無は会場にご確認頂きたいのですが)他日公演を鑑賞される予定の方は低層階席を奮発されることをお勧めしておきます。また、パンフレットには西南学院教授の柿木伸之さんが過去の細川さんの作品群と絡めながらオペラ「ナターシャ」の解説を掲載されていますが、これがオペラ「ナターシャ」の地獄のすり鉢構造の中に過去の細川さんの作品群を紐付て深堀りして行くような秀逸な内容になっており(柿木さんにもヴラヴォー!)、オペラ「ナターシャ」の鑑賞を深める意味で、開演前に、その部分だけでもご一読されておくことをお勧めしておきます。(以下、ネタバレ注意!)
〇序章(第一部「海」、第二部「デュエット」)
旧約聖書創世記(第1章第2節及び第3節)の「始原の海」をイメージして作曲されたそうですが、これを現代的に捉え直せば、「始原の海」とは、①宇宙の構造が形成された後、②生命の誕生がアレンジされた場所(熱エネルギー「地球」+有機物スープ「海」)であり、③生物の繁栄がコーディネイトされた仕掛(大気と海の揺籃「月」+生物の多様性「有性生殖」)であると解することができるかもしれません。これらのイメージを作品にプロジェクションしながら鑑賞しましたが、本日のプロダクションでは生物を育んだ「海」と「月」をキー・アイコンにしてビジュアル・アートとサウンド・アートを効果的に組み合わせた示唆に富む舞台になっていました。開幕すると、舞台上には複数の人々が横たわり、それらの人々を覆い包むように透過スクリーンに波のビジュアル・アートが映し出され、その海面に鏡映された月が波に洗われて揺らいでいましたが、生と死を抱く「海」を象徴する幻想美に彩られた舞台に魅了されました。会場全体を取り囲むように設置された24chのスピーカーから波が揺らぐサウンド・アートと共に、人々の息の音(人間は息を吐いて生まれ、息を吸って死ぬと言われますが、息を吐く呼気は生のメタファー、息を引き取る吸気は死のメタファーであり、この一息生死の刹那を紡ぎながら親から子、子から孫へと絶えることなく受け継がれて行く生命の営みを象徴するもの)が幾重にも重ねられましたが、「月」の引力の影響を受けて生まれる波により地球の自転速度にブレーキがかけられたことで生物の繁栄を可能にする穏やかな地球環境が生まれたと考えられており、その波のリズム(凡そ4~6秒の往復)は人間の心拍のリズムと一致し、これは呼吸のリズムとも連動しており、その呼吸のリズムから音楽や言葉が生まれたと言われていますので、その意味では「海」と「月」は音楽や言葉の母とも言え、始原の海が体現する「母性」がビジュアル・アートで「海」と「月」、サウンド・アートで「波」と「息」により重層的に表現され、音楽(音響)、言葉(音声)及び演出が有機的に絡み合いながら深淵な世界観を描き出す総合芸術の醍醐味が感じられる充実した舞台が出色でした。第一部の非楽音(ノイズ)を使ったサウンド・アートが表象する混沌とした世界(自然)と第二部の楽音を使った音楽が表象する秩序のある世界(人工)が対置され、弦のグリッサンドなどにより生み出される音程や音量のグラデーションが「音のトンネル」として秩序(ムラ)のある世界が生まれる様子を巧みに表現していましたが、この秩序(ムラ)のある世界(人工)が混沌とした世界(自然)を侵食しながら七つの地獄(現世地獄)も生んだ緊張関係にあると言えるかもしれません。第二部ではメゾ・ソプラノの山下裕賀さんが演じるアラト(津波で母を亡くした日本人男性)が母なる「海」への呼び掛けを日本語で歌い、ソプラノのイルゼ・エーレンスさんが演じるナターシャ(災厄で祖国を破壊されたウクライナ系ドイツ人女性)が母なる「海」と交信するシャーマニックな歌をウクライナ語とドイツ語で歌いましたが、この場面で吹かれるフルートの甲高い音は能管のヒシギよろしく「息」から立ち上がる神降しの音を体現しているようであり、息から音楽(魂振りの楽)が生まれる様子を連想させる印象的なピースになっていました。また、アラトとナターシャがいる「海辺」は生と死を抱く「海」と接して此岸と彼岸を境界する場所を象徴しており、能「二人静」の前シテの采女(此岸)と後シテの静御前(彼岸)の相舞やオペラ「二人静」のソプラノの少女ヘレン(此岸)と能楽師の静御前(彼岸)の二重唱よろしく生と死が鏡映関係で重なり合う世界(さながら量子力学の重ね合わせ)を体現しているようにも感じられました。そこにバリトンのクリスティアン・レートさんが演じるメフィストの孫がドクターウェアを着用して登場し(何故、病院という設定なのかについて演出家のクリスティアン・レートさんは敢えて明確な回答を避けられているようでしたが(後述)、個人的には、病院は「海辺」と同じく此岸と彼岸を境界する場所であり、人間の健康被害は自然環境の破壊を映す鏡でもあるためではないかと考えます。)、新型コロナウィルスでお馴染みの防護服(此岸と彼岸を隔てるバリア)を着用した病院スタッフがアラトとナターシャを七つの地獄(現世地獄)を巡る心の旅へと連れ出しました。
〇七つの地獄巡り
アラトとナターシャはメフィストの孫に誘われ、神学が規律する「人間の本能」に由来する七つの大罪(色欲、暴食、強欲、憤怒、怠惰、嫉妬、傲慢)と、これにダンテが神曲で追加した「人間の理性」に由来する四つの大罪(異端(現代的に捉え直すと反社)、暴力、詐欺、裏切り)が招来した七つの地獄(現世地獄)を巡る心の旅が始まりました。
▽第一場「森林地獄」
打楽器が奏でる空虚五度の荒涼とした響きが支配するなか、枯れ木を携えたコーラス隊が「木のない森」を歌いながら登場しましたが、さながら森のレクイエムと言った厳粛な雰囲気を湛える吸引力のある舞台に惹き込まれました。森林の慟哭でしょうか、オーケストラが大きなうねりを伴う緊迫した音楽を奏でるなか、枯れ木が立ち並ぶ異様さがビジュアル・アートにより印象的に描き出されていました。その後、枯れ木に水滴が落ちるビジュアル・アートが映し出され、再び、波のサウンド・アートが流されましたが、森林が力強く再生して行く生命力のようなものが表現されているようで未来への一縷(滴)の望みが予兆されているように感じられましたが、ここで空虚五度から完全五度への解決が試みられていたのか否かを聴き分けることはできませんでした。僕のような浅学菲才の聴衆が初聴の曲を細部までを聴き分けることは困難を伴いますので、いまから音盤のリリースが待たれます。
▽第二場「快楽地獄」
大石将紀さんのアルトサックスと山田岳さんのエレキギターがロック・バラード調のノイジーで耽美的な音楽を演奏するなか、その音楽に合わせて華麗なダンスが舞われました。そこにソプラノの森谷真理さんと冨平安希子さんが演じるポップ・シンガーがショッキング・ピンクのドレスを着用して登場し、退廃美に彩られたポップスを妖艶に歌う印象的なシーンになっていました。その奇抜な舞台は聴衆の羞恥心を擽りアイロニカルな印象を与えるインパクトがあるもので、森林地獄の空虚な響きとは対照的に濃厚な色彩感を放つ独特の感興を誘う音楽が出色でした。この点、単にデフォルメされた表現が生み出す陳腐なアイロニーとは異なり、その独特の感興に巧妙に織り込まれているアイロニカルな風情が薫り立つ洗練された至芸が魅力で、非常に面白い舞台を堪能できました。海中を漂うクラゲとプラスチックゴミが映し出されるシニカルなビジュアル・アートも面白く、コーラス隊が白いビニールで舞台を覆いながらオーケストラがプラスチックの乾いた音(ノイズ)を奏でる現代社会のサウンドスケープを体現する舞台は母なる「海」から人間に対する痛烈な異議申し立てとして聴衆の五感に訴え掛けてくるインパクトのある舞台になっていました。
▽第三場「洪水地獄」(第一部「嘆きの歌」、第二部「祈りの二重唱」)
オーケストラが「嘆きの歌」を演奏するなか、水中に沈む人間の顔(聴衆の顔の鏡映をイメージさせるもの)が映し出され、ダンサーのリボンダンスに合わせて水が渦巻きながら全てを飲み込んで行くインパクトがあるビジュアル・アートが映し出されました。スピーカーから宗教音楽のような荘厳な曲が流れ、津波で母を亡くしたアラトと母なる海と交信するナターシャが共振しながら日本語とドイツ語による「祈りの二重唱」が歌われました。
▽第四場「ビジネス地獄」
現代社会は近代のイギリスで生まれた社会システム(ロンドン型都市モデルや株式会社制度など)がベースになっていますが、そのことを象徴するようにイギリス人ビジネスマンが登場して、オフィスビルの四角い窓が無機質に並ぶビジュアル・アートが映し出され、舞台上を四角い升目で区切った複数のパーテーションの中で無個性なビジネスメン達が忙しなく働いているシニカルな舞台になってしました。そのビジネスメン達と同期するようにデジタル調のミニマル音楽が忙しなく演奏され、ビジネスメン達は「じゃらじゃら」「ばりばり」などのオノマトペを歌いながら貪欲に利潤を追求する姿が先鋭的に描かれていました。そこにゴンドラに乗った成金趣味の中国人ビジネスマンが登場し、アラトが中国人ビジネスマンをボクシングで打ち負かすユーモラスなシーンも描かれていましたが、20世紀に欧米で揶揄された日本人ビジネスマンのステレオタイプはそのまま21世紀に中国人ビジネスマンのステレオタイプに置換され、フィクショナルな芸術作品の中で負け組になった日本が勝ち組になった中国を打ち負かして憂さを晴らす社会の浄化システムがシニカルに描かれていました。最後に浮浪者に身をやつしたイギリス人元ビジネスマンが登場し、近代のイギリスで生まれた社会システムが必ずしも人間を幸福にしてこなかったことを暗示する印象的なシーンになっていました。
▽第五場「沼地獄」(第一部「沼の音楽」、第二部「眠りの音楽」)
原子炉から黒い噴煙が立ち昇る不気味なビジュアル・アートが映し出され、オーケストラが下行形の音型を繰り返しながら汚染物質のようなものが湖沼に沈殿して行くビジュアル・アートが流されました。また、プラカードを持った環境活動家がヒトラー風の演説でデモ隊を先導しながら暴徒化する様子が舞台演出されていましたが、その泥沼の戦い(執着)から抜け出して束の間の安らぎ(放下着)を得たアラトとナターシャが穏やかな「眠りの二重唱」を歌いました。
▽第六場「炎上地獄」
火紛が飛び散るビジュアル・アートと共に、山火事の炎を連想させるサウンド・アートが流され、オーケストラが緊迫した音楽を奏でるなか、アラトが悲壮感を湛えた嘆きのアリアを歌いました。その後、ワイヤーで宙吊りにされたメフィストの孫が登場し、炎に包まれながら怒りのアリアを歌う迫力の舞台になっていました。これまでワイヤーで宙吊りになれながらアリアを歌ったオペラ歌手がいるのか知りませんが、(ミュージカルは兎も角としても)オペラでは新鮮な演出に感じられました。これに続くアラトとナターシャの二重唱が美しいピースになっており、また、ナターシャによる嘆きのアリアはI.エーレンスさんがシルクのような清澄な歌声で繊細に紡ぐ寂寥感を湛えた歌唱が出色で、その恍惚感を覚える美しいアリアは歌劇の魅力が際立つこのオペラの最大の聴き所になっていたと思います。ヴラヴァー!フルートが息の音を奏でると、ナターシャは海に鏡映する月のビジュアル・アートの中にうずくまり、母なる「海」への回帰を予兆させる印象的なシーンになっていました。
▽第七場「旱魃地獄」(第一部「地獄の底」、第二部「始原の海」)
オーケストラがストイックな音楽を奏でるなか、アラトは旱魃でナターシャへの愛も枯渇してしまうと嘆きますが、スピーカーから35ケ国語による「海」という言葉が囁かれ、波や息のサウンド・アートと共に母なる「海」が回帰し、やがて全ての音が静寂へ回収されると、その静寂から新しい音楽や新しい言葉が生まれようとしている予兆(希望)が描かれていました。海に鏡映して逆立ちするバベルの塔(人間の傲慢さを象徴するもの)のビジュアル・アートが映し出され、愛で結ばれたアラトとナターシャが二重唱「新しい言葉は静けさ、あなたと2人で辿り着いた」「ここから私たちは、何を見るの?」を歌いましたが、その後、光(希望のメタファー)の中に人々の影が消え入る静かな終幕になりました。海に鏡映して逆立ちするバベルの塔の頂上は人間の限りない欲望(幸福)を象徴していると同時に地獄の最深を体現するもの(不幸)であり、此岸と彼岸を境界する「海辺」のような場所であることが印象的に表現されているように感じられましたが、果たして、七つの地獄(現世地獄)を巡る心の旅を終えた聴衆は始原の海からどのような新しい音楽や新しい言葉を見出し、どのような新しい世界(希望)を描き得るのか一人一人の知性が試されているということなのだろうと思います。なお、終演後に開催されたアフタートークで司会の林田直樹さんがC.レートさんに海に鏡映する逆立ちするバベルの塔の演出意図を質問されていましたが、それを演出家に語らせてしまうことは観客の自由な解釈の余地を奪い、芸術鑑賞の醍醐味を減殺してしまう憾みがあります。個人的には、正解を求める「検索」型のアプローチではなく、解釈を遊ぶ「思索」型のアプローチの方が芸術鑑賞の幅を広げて、その感動を深くすることにつながるのではないかと思いますので、「答え合わせ」を行うのではなく、聴衆がそれぞれの立場で芸術表現を多角的に捉え、その鑑賞を豊かにするための手掛りを与えてくれるキュレーションの役割を学識者に期待したいと思っています。このオペラは鑑賞の度に異なった表情を見せてくれる大きな器を持った作品に感じられますので、是非、新国に限らず他の劇場を含めて再演を期待したいです。因みに、日本には極楽へと導く七つの地獄巡りもありますので、今度の正月休みは1年の疲れを洗い流す温泉沼にハマりながら怠惰な正月を過ごしてみようかと計画しています。
▼三谷文楽「人形ぎらい」
【演目】三谷文楽「人形ぎらい」
【作・演出】三谷幸喜
【監修・出演】吉田一輔
【作曲・出演】鶴澤清介
【太夫】竹本千歳太夫、豊竹呂勢太夫、豊竹睦太夫、豊竹靖太夫
【三味線】鶴澤清介、鶴澤清志郎、鶴澤清丈'、鶴澤清公、鶴澤清充、鶴澤清方
【人形遣い】<陀羅助>吉田一輔、吉田簑太郎、吉田簑悠
<源太>吉田玉佳、吉田玉路、吉田玉征
<老女形>吉田玉翔、吉田玉誉、吉田玉延
<お福>桐竹紋秀、吉田玉彦、豊松清之助
<近松門左衛門>吉田玉勢、吉田玉誉、吉田玉延
<三谷幸喜>吉田一輔
【囃子】望月太明社中
望月太意作、望月太明十郎、藤舎次生
【日時】2025年8月16日(土)16:30~
【会場】PARCO劇場
【一言感想】ネタバレ注意!

ヴラヴィー!!文楽にも喜劇はありますが、文楽を見て腹を抱えて笑ったのは初めての体験でした。文楽の魅力をそのままに、これを現代的にアップデートすることに見事に成功している極上の舞台を堪能できました。江戸の近松に悲劇を書かせたら右に出る浄瑠璃作者はいないとすれば、令和の三谷に喜劇を書かせたら右に出る浄瑠璃作者はいないと断言しても、決して言い過ぎとは思えない稀代の傑作でした。人格を持った人間の俳優よりも人格を持たない文楽の人形の方が客の心にうつり易く、それぞれの文楽人形のキャラクターが滲み出てくるような義太夫の情緒纏綿軽妙洒脱な語りと文楽人形に現代的な命を吹き込むことに成功している人形遣いの革新が奏功して、文楽人形ならではのおかしみを醸し出す現代文楽の真骨頂と言いたくなるような名舞台を楽しめました。これならば若年世代の文楽ファンが増えることは必定で、文楽の未来は明るいと確信させてくれるものがありました。他日公演がありますので、ネタバレしない範囲で簡単に感想を残しておきたいと思います。(以下、ネタバレ注意!)

近松門左衛門の代表作として三大仇討物(曽我兄弟の仇討、伊賀上野の仇討、赤穂浪士の討入)と共に三大心中物(曽根崎心中、心中天網島、冥途の飛脚)や三大姦通物(堀川波鼓、大経師昔暦、鑓の権三重帷子)が人気ですが、第一作の三谷文楽「其礼成心中」は近松門左衛門の心中物の傑作「曽根崎心中」をベースに三谷節が冴え渡るアレンジが加えられた傑作として人気を博していますが、第二作目の三谷文楽「人形ぎらい」は武士の面目にかけて妻と間男を成敗する「妻敵討」を描いた「鑓の権三重帷子」(三大姦通物にして三大仇討物と共に近松の仇討物にも挙げられる1作で映画にもなっています)とモリエールの戯曲「人間ぎらい」を素材にして、三谷さんが人間の業を笑いに変えてしまう極上のセンスを存分に発揮して現代的な魅力を湛えた新作文楽の名作を生み出しました。黒沢映画などを観ていても感じることですが、三谷さんの作品は単純な物語構成の中に登場人物のキャラクターを際立たせることで分かり易くも彫りの深い表現が生まれ、それが物語に吸引力を生んで観客のハートを鷲掴みにしてしまう不思議な魔力を備えているところに魅力があるのではないかと思います。冒頭、三谷幸喜の文楽人形が前座として挨拶(ご本人は姿を見せず音声は録音)して開幕になりました。劇中劇として近松文楽「鑓の権三重帷子」から数寄屋の段が上演され、三谷文楽「人形ぎらい」の登場人物である文楽人形「源太」が男伊達として知られる笹野権三(鑓の権三)、文楽人形「老女形」が浅香市之進の女房おさゐ、文楽人形「陀羅助」が女房おさゐに横恋慕する川側伴之丞を演じますが、楽屋に戻って人形立てに掛けられた「源太」「老女形」「陀羅助」(いずれも演目の役名とは別に文楽人形のかしらにつけられている名前で、謂わば文楽人形の本名)の3体の文楽人形が漫談のような軽妙なトークを交わし、文楽人形「源太」は主役を張る二枚目の人形で男伊達を鼻に掛ける自信家(「老女形」と恋仲)、文楽人形「陀羅助」は脇役に甘んじる三枚目の人形で劣等感に苛まれながら主役に憧れる卑屈家(「老女形」に横恋慕)、文楽人形「老女形」は「源太」と恋仲にありながら陀羅助の気持ちを弄ぶ美魔女というキャラクター設定が行われました。全体を通して、噺家も色を失うような語り芸の極致と言うべき義太夫の語りの力は筆舌に尽くし難いものがあり(会場でご堪能下さい)、三体の文楽人形を一人で語り分けながら、見る見るうちに三体の文楽人形のキャラクターが立ち上がって眩い光彩を放ち出す始末で、公私ともに不愛想で知られる僕でさえも「にやけ顔」(大人が本気で楽しいと感じているときに出す表情)になって行くのを覚え、本日は休憩なしの2時間の公演でしたが時を忘れて舞台に没入できました(萌)。そんな「陀羅助」は自分が演じる川側伴之丞を主人公にするように「近松門在衛門」(亡霊)に直談判しますが(このような荒唐無稽な設定を笑いというオブラートに包んで成立させてしまうイリュージョンは三谷マジックと言うほかなく、冒頭から舞台に呑まれて何でも「あり」と思える頭に変えられていました。)、「近松門左衛門」はこの浄瑠璃は実話を題材としており、また、「陀羅助」は醜男なので主役はとても無理だと断り、それぞれの文楽人形には分というものがあると諭して消え失せました。「陀羅助」は失意のうちに楽屋へと帰りましたが、「源太」が文楽人形の命と言える大切なかしらをネズミにかじられ、その修復にも大失敗して舞台に立てない容姿となったことに絶望して失踪してしまったことで「陀羅助」に思わぬ好機が巡ってきましたが、この舞台を弛緩させないテンポ良い物語展開は観客の予想を心地よく超克しながらドーパミンの分泌を刺激し続ける巧みなもので、三谷さんの筆致に文楽人形と共に観客の心まで躍らされてしまう名舞台に魅了されました。舞台に穴を開けられないことから、「源太」の代役として「陀羅助」を主役の笹野権三(鑓の権三)に抜擢して「老女形」と稽古しますが、「老女形」は「陀羅助」が醜男なので芝居が乗らないと愚痴を零すので、「陀羅助」は主役の夢を断念せざるを得ないと悟らされました。「老人形」から「源太」を連れ戻すように頼まれた「陀羅助」と「お福」(陀羅助に仄かな恋心を寄せるブスな文楽人形)は「源太」を探しに出ましたが、「陀羅助」が通天閣から大阪の街を見下ろすと新大阪駅に向かう「源太」を発見し、その後を追いかけました。人形の命である顔をダメにされた「源太」は人形町という人形のパラダイスがあるという噂を信じて向かおうとしましたが、途中で力尽きた「源太」は人形町行きを断念して三人遣い(黒子)に自分を置いて楽屋に戻るように話すと、三人遣い(黒子)は「源太」を置き去りにして立ち去ろうとする場面が興味深かいものでした。本来、文楽は三人遣い(黒子)という現実の存在は舞台に存在しないものと仮定して文楽人形を操ることで虚構の世界を成立させる芸能ですが、敢えて、三人遣い(黒子)という現実の存在を舞台に存在するものとして登場させたうえで、その虚構の世界の中で文楽人形と共演させてしまうという試みが奏功していました。既に僕(観客)の心には「源太」に対する「うつり」(エンパシー)が生まれていることをはっきりと感じられ、人形遣い(黒子)から置き去りにした「源太」が人形遣い(黒子)から独立した生きた存在として写るという不思議な芸術体験をしましたが(次回のブログの枕で触れる拡張自己のうちの象徴的拡張)、三谷マジックによって笑いのオブラートで包みながら「源太」に魂を吹き込むこと(観客の心に「うつり」を生むこと)に成功している三人遣い(黒子)の真価を堪能できる見応えのある場面でした。「陀羅助」と「お福」は「源太」に追い着くために一計を案じ、近所の子供からスケードボードを借りてきましたが、「陀羅助」はスケートボードを器用に乗り熟して高難度のトリックを連発していましたが、文楽人形にはこんなアクロバティックな動きも可能なのかと舌を巻き、文楽人形の表現可能性を大幅に拡張することに成功した意欲的な試みに惜しみない賞賛を送りたいと思います。あまりに破天荒な舞台をきっちりと見せてしまう三人遣いの至芸に会場は大爆笑でした。その一方で、スケードボードを乗り熟せない「お福」はスケードボードを手で漕ぎながら後を追うというオチまで付いており、こんなに笑った文楽公演は初めての経験でした。最後は「陀羅助」が「源太」に人形町は幻でお前が生きる場所は文楽小屋にしかないと諭して連れ帰り公演を再開しましたが、「陀羅助」はいつも巾着を被っていた常連客のお爺さん(死亡)が座っていたB列3番目の席に今日は若い観客が瞳を輝かせながら舞台を食い入るように見ている姿を発見し、これが役者にとっての冥利だと悟りいつも以上に芝居に熱が入るという非常に後味の良い終幕となりました。ヴラヴィー!!第一作、第二作の再演を熱望すると共に、今から次回作の公演を心待ちにしています。是非、三谷文楽で新しい文楽の名作の山を築くことを期待したいです。
▼新作オペラ『ナターシャ』創作の現場から~細川俊夫・大野和士・有馬純寿が語る~2028年8月11日(月・祝)から2025年8月17日(日)まで新国立劇場の日本人作曲家委嘱作品シリーズ第3弾としてオペラ「ナターシャ」(作曲:細川俊夫さん、台本:多和田葉子さん)が世界初演されますが、過去のブログ記事で触れた2025年5月15日(木)に開催された多和田さんのトークイヴェントに続いて、2025年7月21日(月・祝)の海の日に因んで細川さん、大野和士さん(指揮)、有馬純寿さん(電子音響)、宮木朝子さん(尚美大准教授)のトークイヴェントが開催されます。過去のブログ記事でも触れたとおり、2019年に大野さん、細川さん、多和田さんの間で新作オペラを創作する話が持ち上がったそうなので、コロナ禍を挟んで足掛け5年以上の創作期間を費やした大作となります。このオペラの登場人物はウクライナ出身ドイツ人女性のナターシャ(ソプラノ/ウクライナ語、ドイツ語)、福島県出身日本人男性のアラト(メゾ・ソプラノ/日本語)、メフィストの孫(バリトン/ドイツ語)で、ナターシャはシャーマンの資質があり海の声を言葉に翻訳できる能力を持っているという設定だそうです。また、このオペラの大まかなプロットについて紹介があり、ゲネシス(創世記)やダンテの神曲などに着想を得ており、メフィストの孫に導かれてナターシャとアラトが7つの地獄(森林地獄、快楽地獄、洪水地獄、ビジネス地獄、沼地獄、炎上地獄、干ばつ地獄の現世地獄)を巡るという物語だそうです。多和田さんの作風である多言語性、多声性を体現するようにドイツ語と日本語の異言語コミュニケーションや最大35ケ国語が登場する多言語オペラが特徴になっており、自然から切り取られたロゴス(意味、論理、理性)としての言葉から自然(海を含む)と直結しているピュシス(音響、感性、本能)としての言葉へと濾過されたものとして扱われているのではないかと推測します。細川さんとしては初の試みだそうですが、エレキギターやアルトサックスなどを使ってロック音楽、エレクトロニクス音楽やミニマル音楽などを採り入れて作曲しているそうで、言語面だけではなく音楽面も多言語化が図られている懐の広い作品になっているようです。有田さんによれば、新国立劇場の大劇場を地獄のすり鉢状構造に見立て1階から3階まで24chのサラウンドスピーカーを設置し、通常の前後左右を基軸とする二次元的なサラウンド音響空間ではなく、上下の基軸を追加した三次元的なサラウンド音響空間を作ること(多次元インスタレーション)を検討しているそうですが、オケピで器楽を奏で、舞台で歌手が歌うという古典的な舞台表現を拡張する試みであり、どのような芸術体験を仕掛けてくるのか大変に楽しみです。神(救い)のない時代に人類はどのように現世地獄を巡り、どのような光明を見出し得るのか、芸術を受容する聴衆の知性も試されていると言えるかもしれません。現状、日本で歴史に残るような世界初演に接することは困難なので、この機会を逃す手はありません。チケットはこちらからお早目に!(売切御免)▼文楽のアップデート三谷文楽「人形ぎらい」を記念して、三谷幸喜さんと人形遣いの吉田一輔さんによる「ミニ文楽入門講座」が公開されています。文楽にも新作ブームが到来しており、三谷文楽「人形ぎらい」以外にも、ゲーム「祇(くにつがみ):Path of the Goddess」とのコラボレーションとして新作文楽「山祇祭祀傳 巫女の定の段」が話題になっています。この他にも、最近では、アニメ「ONE PIECE」とのコラボレーションとして新作文楽「超馴鹿船出冬桜」や和洋折衷の題材を扱った新作文楽「ゴスペル・イン・文楽~イエス・キリスト~」など話題に事欠かず、新しい文楽から目が離せません。「革新とは、単なる方法ではなく、新しい世界観を意味する」(P.ドラッカー)の名言のとおり、これまでの文楽の魅力を損なうことなく、しかし、これまでの文楽では考えられなかった魅力を追加して現代の時代性へと拡がりを持つ世界観を描く新作が増えてきたことは大変に歓迎したい潮流です。▼メトロポリタン歌劇場 2025-26シーズンメトロポリタン歌劇場の2025-26シーズンが公表されましたが、昨年の新作オペラ4公演に続いて、今年も以下に掲げる新作オペラ3公演が採り上げられる大変に羨ましい状況です(但し、METライブビューイングで新作オペラが採り上げられるのか分かりませんので、昨年と同様に日本では臍を噛むことになるかもしれません)。過去のブログ記事でも触れましたが、メトロポリタン歌劇場ではアメリカ国内外で初演された新作オペラや現代オペラをリサーチし、その中からメトロポリタン歌劇場の上演に相応しい作品を選んでレギュラーシーズンにかけることを専門とするアーティスティック・チームが存在するそうですが、日本のオペラ界でもミュージカル界と同様にオフ・ブロードウェイで上演された作品のうち優れた作品を選んでオン・ブロードウェアで採り上げることで業界全体を盛り上げて行くような社会的な仕組みが出来ても良さそうです。現状、日本では新作オペラ( ≠ 新制作)の中から優れた作品を選りすぐり、それを幅広い観客に紹介するマッチング・システムが未整備又は脆弱な印象を否めず、実質上、新作オペラは再演の機会がないままに使い捨てにされている状況があるのではないかと思います。良いものを作るだけではなく、良いものを選りすぐり、それを幅広い観客に紹介することで次の世代に受け継いで行く契機とするための取組みが必要ではないかと思います。【来シーズンのMET初演】

