
▼ブログの枕「この世界のムラを編む①」
前七回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」、「社会心理学:自己拡張」、「認知心理学:心のフレームワーク」とリベラルアーツ擬きを試みてきましたが、今回のブログの枕では、これらを総括する視点から、この世界の「ムラ」を編むと題してムラの正体(複雑性理論)についてごく簡単に触れてみたいと思います。過去のブログの枕では、宇宙誕生の物語として「量子理論」(均質な原始宇宙:ミクロな世界観)→「対称性の破れ」(非均質な相転移:ムラ)→「相対性理論」(宇宙構造の誕生:マクロな世界観)を踏まえたうえで「複雑性理論」(ミクロからマクロまでをシームレスにつなぐ創発)の諸相として幾つかの具体的なテーマを採り上げてきました。人間の世界理解の枠組みは、大まかに、宗教的世界観→単純系科学(還元的・ヒエラルキー的なアプローチ:対象を分解し、その構成要素を取り出す手法)→複雑系科学(全体的・ホラルキー的なアプローチ:対象の相互作用や関係性に着目する手法)へと射程や精度を増しながら発展してきましたが、単純系科学では世界を構成する「部分の総和は全体になる」(秩序、確定性)という考え方がベースにありますが、複雑系科学では世界を構成する部分を理解しても、それらの部分の相互作用や関係性から創発する異質な特性(非線形ダイナミクス)を理解することはできず、世界を構成する「部分の総和は全体を超える」(秩序+カオス+ランダム、不確定性)という考え方がベースにあります。例えば、物質などの無機的組織は環境の変化に応じて自律的に適応することはありますが、その組織化(ムラ)の法則は変化しない単純系の特性(部分を効率的に制御しながら全体の組織を維持する秩序化の特性)を持っているのに対し、生物や社会などの有機的組織は環境の変化に応じて自律的に適応しますが、その組織化(ムラ)の法則も変化し得る複雑系の特性(部分の相互作用や関係性により創発して自己組織化する秩序化と乱雑化の双方の特性)を持っているという特徴的な違いがあります。このように世界は、①単純系(秩序):環境の変化に応じて適応しても、その組織化(ムラ)の法則は変化しないので「部分の総和が全体になる」安定的なシステム(即ち、因果関係が一対一で対応する線形の法則性)、②複雑系(カオス):環境の変化に応じて適応し、その組織化(ムラ)の法則を変化しながら因果的に創発するので「部分の総和は全体を超える」不安定なシステム(即ち、因果関係が一対多で対応する非線形の法則性)、③複雑系(ランダム):環境の変化に応じて適応し、その組織化(ムラ)の法則を進化しながら偶発的に創発するので「全体が部分の総和を超える」不確定なシステム(即ち、因果関係は不確定的・確率的になる非線形の法則性)がダイナミックに相互作用しながら生滅流転を繰り返しています。この点、20世紀まで支配的であった物質主義的な世界観(人間の知覚を前提とした環世界)では物質を確定的な存在として捉えるのに対し、21世紀以降に支配的になった複雑性理論の世界観では対象が物質(個体)のように観察できるのか又は現象(流体)のように観察できるのかなどは観察者のスケールや視点などにより異なり得ると捉える点に大きな違いがあり、全ての物理現象は固定(分節)ではなく過程であり、運動であり、流れであり、変化である(連接)と考えられています(すべてのものは固定した実体や本質を持たないという仏教の空性思想に近い概念)。即ち、上記①~③のレベルは互いに独立して分離しているのではなく、それぞれのレベルが1つの全体を不可分に構成し、それぞれのレベルが相互作用しながら融合している(ホラルキー)と考えられています。例えば、人間の身体はあるスケールでは1つの個体として捉えられますが、同時に別のスケールでは分子雲として捉えられ、これらは因果的ではなく同時性として存在するものの(粒子と波動の二重性は上記①~③の状態の重なり合い)、現在の技術ではこれらを同時に捉えることは不可能と考えられています。観測者のスケールなどにより上記①~③の状態の重なり合いのうちの1つの状態が観察(分節)されますが、その他の状態の重なり合いも同時的に存在しており、これらが相互作用(連接)していると考えられています。この点、量子もつれは離れた場所に2つの量子があるのではなく(そのように分節的に観察できるだけで)、それらの量子が量子場の中で重なり合っているので(場全体が連接しているので)、1つの量子を操作すると別の量子も一緒に操作することになるという人間の知覚を前提とする限り直感的に理解し難い複雑な世界の実相の中で、人間も宇宙の根本原理や地球のバイオマスと連接し、それらに溶け込みながら、これらと相互作用して揺らいでいるムラであるとイメージすることができ、人間はそのムラの諸相の一部を知覚し、(神という都合の良いブラックボックスを使うことで)それが世界の全てであると信じてきたと言えるかもしれません。
▼複雑性理論で見えてくる世界の実相単純性理論では「全体=部分の総和」として古典物理学的な世界観(神の絶対秩序、確定性)を捉えているのに対して、複雑性理論では「全体>部分の総和」として現代物理学的な世界観(宇宙の相対秩序、不確定性)を捉えているという特徴的な違いがありますが、複雑性理論はミクロ(量子力学によって記述される極小の世界)の相互作用(秩序とカオスの交錯:均質性)からマクロ(相対性理論によって記述される極大の世界)のムラ(秩序:非均質性)が生まれる様子(創発)をシームレス(階層的)に見渡して、世界を解像度高く捉えることができます。秩序(ムラ)は、散逸構造(自己組織化)により非均質性を増して、また、カオス(ムラの増幅)やランダム(ムラの創造)の揺さ振りにより複雑性や多様性を増しますが(正のフィードバック)、その一方で、エントロピー増大の原則(ムラの拡散)により均質性を増しており(負のフィードバック)、その間で揺らぎながら生滅流転を繰り返しています。
世界の実相 単純系 複雑系 秩序 カオス ランダム 法則性 決定論
線形・安定決定論
非線形・不安定確率論
非線形・非持続調和性 予測可能 予測困難 予測不能 創発性 ✕
単純性〇
複雑性△
多様性特質性 非均質
効率性相転移
適応性均質
適応性具体例 惑星 天気 進化 世界観 還元主義
分節・要素全体論
連接・関係物理学 ニュトン力学 相対性理論 量子力学 ※HTMLでは複雑な表組みが難しいので多少の正確性は犠牲にしています。▼複雑系を表現するコンテンポラリー音楽ひと口に、コンテンポラリー音楽(世界大戦後の新世界を前提とする音楽)と言っても様々な特徴を持つものがありますが、複雑性理論の視点からクラシック音楽(世界大戦前の旧世界を前提とする音楽)と対比するため、それぞれの音楽に特徴的な傾向を二項対立で整理しています。この点、音楽を分節的に捉えているという意味で線形的な思考に陥っていますが、クラシック音楽は世界の一部(マクロな世界)を効率的に表現することは得手としていますが、コンテンポラリー音楽と異なり世界の実相(ミクロな世界からマクロな世界まで)をダイナミックに表現することには限界がありますので、その意味でも旧世界に閉じる分節から新世界へ開く連接にシフトするコンテンポラリー音楽の革新性が求められる時代になっていると言えるかもしれません。
分節点 クラシック音楽 コンテンポラリー音楽 思想性 デカルト的 スピノザ的 世界観 二元論
秩序
理性的一元論
秩序+カオス+ランダム
自然的表現 形式的
構造的
因果律流動的
創発的
同時性受容 作曲家の意図
演奏者の再現聴衆の参加
環境との共創音楽観 世界を分節化
理解する音楽世界を一体化
体験する音楽※コンテンポラリー音楽は理解できないという声を聞くことがありますが、必ずしも、人間の知覚を前提にした世界観(環世界)を表現することを企図していないので直感的に捉え難いという面があるのかもしれません。この点、人間の知覚を前提にした世界観(環世界)に閉じ籠もっていたいという嗜好性があれば別論ですが、世界の実相(環境世界)に迫る面白さに触れるためには観客の側が教養を深めて知性、感性を磨く必要があるかもしれません。
▼ART歌舞伎~DEEP FOREST~
【演目】ART大歌舞伎~DEEP FOREST~
【出演】中村壱太郎(歌舞伎俳優)
花柳源九郎(日本舞踊家)
花柳梨道(日本舞踊家)
藤間礼多(日本舞踊家)
野村太一郎(能楽師狂言方)
【演奏】<箏・二十五弦箏>中井智弥
<津軽三味線>浅野祥
<笛>藤舎推峰
<太鼓>山部泰嗣
【日時】2025年11月8日(土)19:00~
【会場】観世能楽堂(ライブ配信)
【一言感想】

歌舞伎俳優の中村壱太郎さんが歌舞伎の革新を仕掛けるART歌舞伎の第一作「ART歌舞伎~花のこゝろ~」に続く第二作「ART歌舞伎~DEEP FOREST~」が公演されましたが、非常に人気が高く早々にチケットが完売してしまいましたので、オンライン配信を視聴しました。もともと歌舞伎とは「傾く」を語源としており「型破り」の革新性を芸の本質にしていると思いますが、歌舞伎と能楽を比較すると「歌」「舞」の要素は共通していると思いますが、能楽の「技」(様式美)に対して歌舞伎の「伎」(創造美)に特徴的な違いがあるのではないかと思います。本日の公演を一口で言うと、歌舞伎の源流である能楽の様式を参照しながら、歌舞伎+能楽+現代邦楽で歌舞伎の革新を仕掛けた意欲的な公演に感じられました。冒頭はスピーカーから森の音、雷、雨、歌声などが聴こえ、浅野祥さんが豊年万作を歌う民謡(津軽民謡のようでしたが、何という民謡かは分かりません)と和太鼓、津軽三味線、笛、筝による現代邦楽が演奏され、能楽や歌舞伎のルーツに遡り、神事としての芸能の原点を意識させる舞台演出になっていました。そこへ笛と筝による精妙な伴奏と共に橋掛りから植物の妖精に扮した御幣を手にしたワキ1人と榊を手にしたワキツレ2人が登場し、和太鼓と津軽三味線が激しく囃すなかをワキが歌舞伎の荒事を連想させる激しい舞と雄叫びを上げながら睨みを効かせると、これに誘われるようにワキツレ2人も激しい舞を舞った後、笛の精妙な伴奏に乗せて榊を手にしたワキが神妙な舞を舞いました。その後、三味線、筝、笛、和太鼓による表情豊かな伴奏と共に鈴を手にして面を付けたワキツレが三番叟を連想させる舞を舞い、邦楽アンサンブルが能楽囃子を連想させる気魄の籠った伴奏と共にワキとワキツレが急の舞を舞い、さながら序破急の型破りのような舞台が展開されました。その後、花柳源九郎さんがナレーションで森の民による神事と共に四神が降臨するという舞台設定を語り、青い照明と共に青龍が登場して叙情や情熱が交錯する筝の伴奏と共に女形(おそらく中村壱太郎さん)の艶やかな舞を舞い、これに続いて赤い照明と共に朱雀が登場して流麗な笛の伴奏と共に優美な扇舞を舞い、これに続いて白い照明と共に白虎が登場して激しい津軽三味線の伴奏と共にキレのある舞を舞い、ダークな照明と共に黒色の装束の玄武が登場してリズミカルな和太鼓の伴奏と共にミニマルで緊張感のある舞を舞うと、最後に豊年万作を齎す春、夏、秋、冬を司る四神が入り乱れての群舞になりました。人間の知覚(環世界)を越えた世界の実相(環境世界)を直観し、それを得も言われぬ「神」というフィクションとして設え、これを畏敬する人間の知性として芸能が営まれてきたことに思いを巡らせながら楽しみました。特別ゲストの澤村精四郎さんのナレーションを経て、ART歌舞伎楽団が中井智弥さんが作曲されたノクターン(歌舞伎「刀剣乱舞」より)や清経(ART歌舞伎「花のこゝろ」より)などの作品を演奏し、多彩な情感が移ろい行く情緒纏綿とした演奏に魅了されました。後半は、安珍・清姫伝説を題材にして能楽と歌舞伎のミクスチャーしたディープフォレストが公演されましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、安珍・清姫伝説(本朝法華経記の紀伊國牟婁群悪女や道成寺縁起など)は熊野詣に向う途中で仮宿をとった家の娘・清姫に見染められた奥州白河の若僧・安珍が仏に帰依する身の上からその好意を断ると、清姫は蛇体になって安珍の後を追い道成寺の梵鐘の中に隠れていた安珍を焼き殺すという悲劇(現代風に言うとストーカー殺人事件)が伝えらえていますが、これは本朝法華経記が書かれた平安時代には夜這いなどが横行する性に奔放な時代であったことから全国から熊野詣に訪れる男達が旅先で地元の若い女性達を辱しめることなどがないように男に弄ばれた女の情念の恐ろしさを蛇に化体して脚色した伝説ではないかと推測されます。安珍・清姫伝説を題材として能「道成寺」(観世信光作)が創作され、さらに人形浄瑠璃「日高川入相花王」(竹田小出雲作)や歌舞伎「京鹿子娘道成寺」(近松門左衛門作)などに翻案されています。果たして、森の守人としてワキとワキツレが登場して安珍・清姫伝説を物語ると出囃子と共に橋掛りから蛇の隈取りのようなメイクと赤い装束に鱗文様の烏帽子を被ったシテが登場し、三味線と民謡で歌舞伎の女形らしい艶っぽい序の舞が舞われ、やがて能管と和太鼓が激しく囃すなかを急の舞へと移りましたが、やがて中井さんの持ち前の美声及び耽美な箏の調べと共に優美で情熱的な歌舞伎舞踊が披露されました。その後、能管が禍々しく吹き荒らすと舞台が赤い照明(愛のメタファー)から青い照明(憎のメタファー)に一変し、篠笛と筝の伴奏と共に白い装束に鱗模様の帯姿に転じますが、そこへ(清姫の心に巣食っている?)隻眼の鬼(憎を生む執心のメタファー)が登場して、これに清姫が打ち勝つと赤い装束(愛のメタファー)へと戻って、やがて読経と共に清姫の魂は浄化されて行くという印象的な舞台に魅せられました。どこかアニメ「鬼滅の刃」を連想させるところがありますが、神仏不在の現代にあって他力本願(他力による魂の救済)を主題とする怨霊鎮魂の物語を超克し、自力本願(自力による魂の救済)を主題に採り入れることで現代人も共感し得る自己実現の物語にアップデートしている点に革新性が感じられ、ディープフォレスト(自分の心の中の深い森)に分け入って本当の自分に巡り合うプロセスを表現した舞台に感じられました。どのように歌舞伎を革新して行くのか、次回作にも期待したいです。
▼三島由紀夫生誕100周年記念フィリップ・グラス「MISHIMA」
【演題】三島由紀夫生誕100周年記念フィリップ・グラス「MISHIMA」
-オーケストラとバレエの饗宴-
【演目】フィリップ・グラス
①ヴァイオリン協奏曲第2番「アメリカン・フォー・シーズンズ」
②ピアノとオーケストラのための協奏曲「Mishima」
<Dans>上野水香(東京バレエ団ゲストプリンシパル)
青山季可(牧阿佐美バレヱ団プリンシパル)
逸見智彦、京當侑一籠
(牧阿佐美バレヱ団プリンシパルCA)
【舞台美術】横尾忠則
【監修】三谷恭三(牧阿佐美バレヱ団芸術監督)
【演奏】<Cond>柳澤寿男(京都フィル・ミュージックパートナー)
<Ohrc>京都フィルハーモニー室内合奏団特別交響楽団
<Vn>川井郁子
<Pf>滑川真希
【日時】2025年11月14日(金)19:00~
【会場】東京オペラシティ コンサートホール
【一言感想】

今年は三島由紀夫の生誕100年、没後55年(命日:11月25日)のアニバーサリーですが、現代でも三島文学は世界中の作曲家や芸術家に多大な影響を与え続けています。10月27日に開催された第38回東京国際音楽祭で漸くタブーが破られて映画「MISHIMA」が日本初上映されて話題になっていますが(僕はかなり昔にインターネットで海外版を視聴していますが)、この映画で使用されているP.グラス作曲のピアノとオーケストラのための協奏曲「Mishima」(ピアニストはグラス弾きとして有名な滑川真希さん)と三島由紀夫をテーマにした横尾忠則さんの舞台美術(映像)及び堀内充さんのバレエをコラボした舞台があるので鑑賞することにしました。一曲目のヴァイオリン協奏曲第2番「アメリカン・フォー・シーズンズ」はP.グラスがA.ヴィヴァルディ―の合奏協奏曲「四季」にオマージュを捧げた作品で、各楽章のどれが春、夏、秋、冬に対応するのかは聴き手の自由に委ねられています。個人的には、第一楽章:冬、第二楽章:春、第三楽章:夏、第四楽章:秋をイメージしながら鑑賞しましたが、ART歌舞伎の前半に登場した四神降臨の舞ともイメージが重なって古今東西を問わず四季に抱くイメージには共通したものが感じられます。最近の異常気象で穏便な季節の移り変わりを体現する四季から極端な季節の移り変わりを体現する二季へと移行しつつありますが、我々の子孫が春や秋の素晴らしい季節感を音楽のみからしか感じることができない時代が来ないように現代人の責任として取り組まなければならない問題です。先ず特筆すべきは川井さんが奏でるヴァイオリンの音色の瑞々しさで、東京オペラシティーの豊かな残響にヴァイオリンの純度が高い透徹の響きが澄み渡るもので白眉でした。各楽章はカデンツア風の技巧的な独奏パートとソロを含む各パートが緊密に呼応する合奏パートで構成されていますが、第一楽章では世界をモノトーンに変える冬の到来を告げるようなメランコリックな演奏が展開された後、通奏低音の推進力ある演奏と共にソリストとオーケストラのバランスが良く協奏し、さながら氷面を滑るような流麗な演奏が展開されました。第二楽章は生物が春の到来を待って息を潜めている様子を表現したものでしょうか幽けき音と低音の重苦しい音から開始されましたが、満を持したように瑞々しい高音で叙情的な音楽が奏でられ、グリッサンドやアルペジオが生物の息吹を表現しているように感じられました。やがて川井さんが鳥の囀りのような音楽を奏でると、ソリストとオーケストラが多彩な音色で春の季節感を表現しているように感じられました。第三楽章はさながら夏の重苦しい空気とジリジリと焼き付けるような陽射しが肌を刺す雰囲気を表現したものでしょうか重音による分厚い響きが支配的になり、キーボードが激しいリズムを刻む緊迫感のある演奏が展開されて、思わず熱中症アラートを出したくなるような重圧感のある演奏が展開されました。第四楽章は落ち葉が舞い散る様子を表現したものでしょうか、螺旋形の音型が忙しなく重ねられ、また、秋の収穫祭の様子を表現したものでしょうか、躍動感あるリズムでダンス風の音楽が展開されました。やがて木枯らしを思わせるような下降音型が繰り返されながらアッチェレランドして急速に季節が深まって行くように曲が締め括られました。演奏会のレパートリーに加えられても良さそうな聴き易い音楽なので、今後、演奏機会が増えてくれることを期待します。二曲目のピアノとオーケストラのための協奏曲「Mishima」ですが、第一楽章「燃えゆ鳳凰」は1950年に実際に発生した金閣寺放火事件が題材になっている小説「金額寺」がテーマになっていますが、上野水香さんが舞う金閣寺のシンボルである鳳凰の精と京當侑一籠さんが舞う主人公の若僧・溝口のデュエットが展開され、溝口が鳳凰の精の美しさに圧倒されて絞め殺してしまうルサンチマンがバレエで表現されていました。グロッケンが鳳凰の輝き、チューブラーベルが金額寺の荘厳さを表現し、その圧倒的な美に打ちのめされる溝口の動揺を滑川真希さんが躍動するピアノで巧みに表現しているように感じられました。鳳凰の精と溝口のダンスが繰り広げられるなか、三島由紀夫の決起を象徴するような緊迫したドラムトールが加わって、その完成されたことによった生命力を失った美を再生させるために完成された美の破壊への衝動に駆り立てられる心情が巧みに表現されているようでした。第二楽章「ふたり」は小説「鏡子の家」がテーマになっていますが、横尾忠則さんが三島由紀夫をアイコンにしたポップアート(映像)をバックスクリーンに投影し、また、浅川さんが粒際立った硬質なタッチでキビキビとドラマチックな演奏を展開しましたが、(作曲意図はいざ知らず)戦後日本や三島さんがサブカルチャーやグローバリズムなどの潮流に翻弄されていた様子が表現されているように感じられ、敗戦が生んだ退廃と虚無(上述の仏教の空性理論に擬えられますが、それは全てのものが再生(創発)される境界域でもあるもの)の中から新しい日本の美が再生される儚い期待のようなものが表現されているように感じられました。第三楽章「オマージュ」は小説「豊穣の海」がテーマになっていますが、ミニマルな音型(部分)が相互作用しながら複雑に交錯して全体を変容して行くような演奏が展開され、さながら複雑性理論の世界観を体現している音楽に感じられて刺激的でした。母なる海は生と死の輪廻の象徴であり、美は死や破壊を経て虚無の海へと至り、やがて再生するという美学が体現されているようで感慨深く鑑賞しました。因みに、後述する特別公演「志ん輔 蝉の会」で採り上げられている落語「しじみ売り」では新橋芸者が登場しますが、三島さんの小説「橋づくし」には新橋芸者が描かれており、また、三島さんが決起した1970年11月25日の前日に最後の晩餐として新橋の料亭「末げん」で鳥鍋(晩餐「わ」のコース)を食したという話も有名で、あの界隈には多彩な歴史が刻まれています。
▼特別公演「志ん輔 蝉の会」
【番組】①五銭の遊び(初演)
②しじみ売り(初演/共演:淡座)
③芝浜
【噺家】古今亭志ん輔 師匠
【音楽】落語、三味線、ヴァイオリン、チェロのための「しじみ売り」
(世界初演)
<作曲>桑原ゆう
<三味線>本條秀慈郎
<Vn>三瀬俊吾
<Vc>竹本聖子
【囃子】金山はる
【前座】三遊亭歌きち
【日時】2025年11月24日(祝・月)14:00~
【会場】音楽の友ホール
【一言感想】

来年末まで紀尾井ホールが休館のため、今回は神楽坂にある音楽の友ホールでピアノの椅子を踏み台に使った特設の高座(さすがにピアノの上ではありませんでしたが)が設けられました。前座の三遊亭歌きちさんが三遊亭の持ちネタである古典落語「薬缶」を口演された後、古今亭志ん輔師匠が(古今亭は三遊亭から独立した一門であり「三遊」の亭号にオマージュを捧げる意図があったのか、これに「古今」の亭号を織り交ぜて)「遊」をテーマにした古典落語三席(そのうち一席は淡座との共演による「今」を織り込む心意気)を口演されました。
①古典落語「五銭の遊び」
ある男が「五銭で女郎を買った」と友達に自慢します。家でゴロゴロしていると母親から五銭を貰ったので、懐の二銭と併せて七銭を持っておでん屋へ行き二銭のこんにやくを食べ(こんにゃく1個が二銭(=112円)だとすると五銭は300円程度)、その帰りに女郎が声を掛けてきた。男は「これしか金を持っていない」と片手を示すと、女郎はそれを五銭ではなく五十銭と勘違いして「残りは何とかする」と男を女郎屋に誘います。その後、女郎屋の主人が宵勘(江戸っ子は「宵越しの銭を持たない」ことから宵のうちに勘定を求める風習)に来ると、男は懐から五銭を出す。主人はたった五銭で女郎遊びをするとは厚かましいと呆れると、男は「いいや、銅貨には穴が開いているから厚くない」と頓珍漢な答えをするとサゲがつきます。志ん輔師匠の愛嬌のある語り口と相俟って、男の間抜けに女郎屋の主人が拍子を狂わせる「遊び」と「狡さ」の間に生まれる笑いを楽しめました。落語の枕で志ん輔師匠は志ん生師匠からよく「遊べ」と言われたそうですが、過去のブログ記事で触れたとおり「遊ぶ」(=「足」+「歩」)とは自己のアイデンティティを外界へアウトリーチする心理過程(自己を外界へ解放して自己を外界と同化する拡張自己的な営み)であるのに対して、「学ぶ」(=「真似」+「舞」)とは外界を自己のアイデンティティにアレンジする心理過程(外界から学習したことを身に付けて自己を充実させることで自己を外界と異化する自己拡張的な営み)と言えますので、「遊ぶ」と「学ぶ」は硬貨の裏表の関係にあり「遊び」が「学び」を深めるということなのかもしれません。落語界では兄弟子が弟弟子を奢る習慣があるらしく、飲み屋で「兄さん!」と言われて奢ったところ実は兄弟子だったという経験も少なくないのだとか。「誤解によって愛は始まり、理解によって愛は終わる」と言いますが、現代にも古典落語「五銭の遊び」の精神が息衝いていると言えるかもしれません。
②古典落語「しじみ売り」
義賊・鼠小僧次郎吉改は茅場町で魚屋「和泉屋」を営む次郎吉に扮して汐留の船宿で飲んでいたところ、雪空を貧しい少年がしじみ売りにやってきました。次郎吉は不憫に思ってしじみを全て買い取り、その少年から身の上を聞くと、盲目の母と病気の姉を抱えていること、姉は新橋芸者の小春(下掲写真の「金春」との掛詞か)で馴染客(遊び)の質屋若旦那の庄之助と駆け落ちしたこと、庄之助は博打(遊び)で30両の借金を抱えて途方に暮れていたところ義侠心のある若者(鼠小僧治郎吉)が通り掛り50両の小判をくれて二人で家へ帰れと諭されたこと、役人が御金蔵破りの小判だとして庄之助を捕らえそれが原因で姉が病気になったことなどが語られました。次郎吉は自らの過去の行いが少年一家を不幸にしたことを知り、その侠気から不正をばらすと奉行を脅して庄之助を解放させるという人情噺(悪で悪を懲らしめる義賊譚)です。過去のブログ記事で簡単に感想を書いた古典落語「猫定」とも因縁深いネタですが、過去のブログ記事で触れたとおり未だ日本人の意識に「社会」はなく「世間」しかなかった時代に、法よりも人情が人々の心を支配していた江戸の気質を現代に伝えています。この噺には淡座の音楽が添えられていましたが、三味線やチェロが繰り返して奏でていた3音のモチーフは鼠小僧治郎吉の「忍び足」を表現したものでしょうか、これにヴァイオリンのフラジョレットが加わって鼠小僧次郎吉の雲霞過客とした生き様を体現するような音楽が添えられていましたが、志ん輔師匠が話芸達者に描く活き活きとしたデッサンに、淡座の音楽が淡い彩りを添えながら噺の情感を豊かに広げていくような印象の舞台を楽しめました。
| 金春屋敷跡(東京都中央区銀座8-7-11) 芝浜の雑魚場跡(東京都港区芝4-15-2) 木挽町三座(東京銀座5丁目~6丁目の昭和通り沿い界隈) |
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| ①江戸切絵図築地八町堀日本橋南絵図:落語「しじみ売り」の噺の舞台は汐留ですが、昔は汐留川を挟んで新橋と汐留橋が橋掛されており、新橋親柱がその名残を現代に伝えています。古地図では新橋の近くに金春屋敷がありましたが、この落語にも登場する新橋芸者は金春座に奉公する女性が芸を身に着けてそれを売りにしたことから誕生しています。 | ②金春屋敷跡:銀座(新橋寄り)には徳川幕府の御用能楽師である金春太夫の拝領屋敷がありましたが、金春座に奉公していた女性が唄や舞などの諸芸を身に付けて金春芸者(新橋芸者)になり、そのハイカラな気質から金春色(ターコイズブルー、新橋色)を好んだと言われています。昔、銀座唯一の銭湯である金春湯の看板は金春色を使用していました。 | ③芝浜の雑魚場跡:名作落語「芝浜」は魚屋の某が芝の魚市場で革財布を拾いますが、江戸時代から芝の漁師は薩摩藩邸近くに魚市場を立て雑魚を商っていたと言われておりその地には雑魚場跡の碑が残され、往時の面影を伝えています。因みに、芝の海側が芝浦、芝の陸側が芝浜と地名を区別していましたが、現在では芝浦に地名が統一されています。 | ④木挽町三座跡:現在の歌舞伎座の向いには木挽町三座(山村座、河原崎座、森田座)があり、この近くには金春座の能舞台の他に徳川幕府の奥絵師であった狩野画塾がありましたが、現在はグランドバッハが建設され、バッハも使ったジルバーマンが展示されています。なお、1714年に山村座が発端となって江島生島事件が勃発しています。 |
③古典落語「芝浜」
酒好き(遊び)が高じて商売が傾き掛けている魚屋の熊さんは、ある日、酔い覚ましのために芝浜の海で顔を洗っていると、その海底に50両もの大金が入っている革財布が落ちているのを発見しましま。早速、革財布を拾って家に持ち帰り妻に報告し、祝杯をあげていると気持ちが良くなって寝入ってしまいます。熊さんが目を覚まして革財布のことを妻に尋ねると、妻から「革財布なんて知らないけど、夢でも見ていたのではないか。」と惚けられ、熊さんは夢だったのかと落胆したショックから断酒して商売に精を出すようになります。それから3年後、妻は「本当は夢ではなく革財布はある。あの後、奉行所に革財布を届け出たが落とし主が現れなかったので革財布が戻ってきた。」と真実を告げて祝杯をあげようと謝りますが、熊さんは「また夢にされるのが怖い。」とサゲがつき、その後も断酒を続けて商売に成功するという人情噺で、志ん輔師匠の酔狂芸が堂に入る面白い一席を楽しめました。談志師匠の酩言に「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ。」とあり「落語とは人間の業の肯定である。」と舌鋒鋭く言い放っていますが、夫のダメっぷりを見抜いている妻の優しい嘘が夫の性根を叩き直し、しかも革財布を奉行所に届け出てマネロンしたうえで酒の夢を真の夢に変える機転を効かせる器量良しの妻から愛想を尽かされなく慕われる熊さんの男冥利に尽きる心温まる噺でした。世評に「講談を聴くとタメになる、落語を聴くとダメになる。」とありますが、「遊び」(買う、打つ、飲む)にまつわるタメになる落語三席でした。
▼田中悠美子音楽実験室2025〜義太夫三味線音響エクスペリメンタル
【演題】田中悠美子音楽実験室2025〜義太夫三味線音響エクスペリメンタル
―日本の伝統楽器・義太夫三味線の音響世界を今に解き放つ―
【演目】①佐原洸 連歌Ⅴ(義太夫三味線とエレクトロニクス)
<義太夫三味線>田中悠美子
<Elc>佐原洸
②藤倉大 Jiai(慈愛/地合)義太夫三味線のための
~ロングバージョン(義太夫三味線ソロ)
<美太夫三味線>田中悠美子
③田島浩一郎 タブローの方法
(義太夫三味線とサックスとジェネレーティブ AI)
<義太夫三味線>田中悠美子
<Sax>菊池成孔
<GenAI>田島浩一郎
④向井響 乙女椿~義太夫三味線とライブエレクトロニクスのための
(義太夫三味線とエレクトロニクス)
<義太夫三味線>田中悠美子
<Elc>向井響
⑤義太夫三味線✕ピアノ✕ベース
・Blue in Green
・義太夫節「本朝廿四孝」~「奥庭狐火の段」より
・Slaves mass
・My Funny Valentine
・St.Thomas
<義太夫三味線>田中悠美子
<Pf>林正樹
<Bass>瀬尾高志
<Sax>菊池成孔
⑥田中悠美子 I was here(2004)
<義太夫三味線>田中悠美子
<Pf>林正樹
<Bass>瀬尾高志
【DJ】安達楓 日本の声の記録(開演前)
【企画・主催】田中悠美子
【制作】福永綾子(ナヤ・コレクティブ)
【日時】2025年11月24日(月・祝)18:00~
【会場】晴れたら空に豆まいて
【一言感想】

昨年、第24回佐治敬三賞を受賞されて益々と勢いに乗る女流義太夫三味線奏者・田中悠美子さんのライブを鑑賞するために代官山駅前のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」に伺いました。ライブエレクトロニクス、コンテンポラリー、ジャズなどをコラボレーションしたジャンルレスな音楽に義太夫三味線の情趣が加わることで立ち上がってくる独特の世界観が非常に魅力的に感じられる舞台で、「実験室」と銘打たれていますが委嘱初演も含めて斬新ながら完成度の高い音楽を楽しめました。個人的な印象では「襲の色目」の美意識のようなものが感じられ、それぞれのジャンルの持ち味を「混ぜる」というよりも「和える」という感触に近く、それぞれの特徴を活かしながら、それらの特徴がバランス良く重なり合うことで生まれる妙味を堪能できました。
① 連歌Ⅴ
パンフレットには「舞台上の奏者は水にまつわる表現などのごく限られた音素材に基づく演奏を行う。」としたうえで、「伝統と現在のアコースティックとエレクトロニクスという二つの領域を行き来しながら、伝統の未来を見据えて創作した。」と解説されています。パンフレットを読まずに鑑賞しましたが、人間の認知特性として、単に音だけを記憶に留めることは困難で何らかのナラティブの形式でしか記憶に留めることしかできませんので、個人的な妄想として、エネルギーの励起(粒状のムラ)が下降形のリズムを繰り返しながら、やがて時空間の広がりを作って行くようなイメージで聴いていました。エネルギーの励起(粒状のムラ)は義太夫三味線の水の表現を参照したものでしょうか、過去のブログ記事でも触れたとおり水は氷⇄水⇄蒸気と相転移し易い性質を持っていますので、それに近いイメージを想起できていたかもしれません。佐原洸さんはIRCAMでライブエレクトロニクスを学ばれた時代の嚆矢とも言うべき存在なので、今後の活躍から目を離せまん。
②Jiai(慈愛/地合)
パンフレットには「僕にとって初めての義太夫の太棹三味線の作品で(中略)義太夫節の古典は不条理な悲劇が基本だと教わったので、「暗さ」というのがキーワードと思って、ダークなオーラを帯びたイメージで書きました。」と解説されています。琵琶のようなダイナミックな撥裁きによる力強い表現と三味線の特徴を示す繊細かつ情緒豊かな表現を織り交ぜた義太夫三味線の特徴を活かした技巧的に難しい?曲調に感じられ(但し、19世紀のようにヴィルトゥオジティをひけらかすような陳腐さはなく)、義太夫三味線の表現可能性を色々と試みている習作のような性格も持つ面白い作品に感じられました。
③タブローの方法
パンフレットには「本作は、生成AIでつくり出したトラックに対して、義太夫三味線(田中悠美子)とサックス(菊地成孔)が即興演奏で介入する形式をとっています。ここで用いられる「タブロー」という語は、絵画のことではなく、論理学で形式的照明や自動定理証明で用いられるタブロー法(tableau method)を指しています。」と解説されています。冒頭、街のサウンドスケープが流され、そこにコーラスの歌声が重ねられましたが、それを遠景に捉えながら義太夫三味線が一音一音と情感を込めて紡いで行く一音成仏の世界観を体現するような演奏で始まりました。これにサックスやキーボードが即興的に呼応しながら演奏が展開されて行きましたが、宇宙が構造である以上は万物(諸現象を含む)には何らかの法則性がありますが、AIの「計算」(電気的な反応)と人間の「情動」(電気的+化学的な反応)という異なる法則性を掛け合わせて音場を協創して行くような面白い作品に感じられました。
④乙女椿
ヴラヴィー!パンフレットには「女流義太夫である竹本寿々女さんの声をコンピュータに学習させ、そこからジェネレートされた新しい浄瑠璃の「声」と、リアルタイムでエフェクトをかけた義太夫三味線の音で、新しい浄瑠璃の形を想像」し、「機械から発せられる息遣いを一切持たないその「声」と、奏者の呼吸によって自由に間とテンポが決定される三味線の間で、大きく揺れる音楽を立ち上げようと考えた。」と解説されています。義太夫三味線の弦を糸で擦って電気ノコギリのようなノイズを発生させ、そのノイズをライブエレクトロニクスを使って拡散することで猟奇的な音場を作り出し、これに竹本寿々女さんの語りの声がコラージュされてエルドリッチな雰囲気が醸し出されているように感じられましたが、義太夫節のエッセンスの1つである「情念」のようなものが立ち込める異次元の舞台を顕在させることに成功しているように感じられました。義太夫三味線の音にエフェクトをかけてアコースティックな世界とエレクトロニクスな世界のハイブリッドな音響空間が体現する亜空間に義太夫節の語り(言葉)が持つ「意味」(理性)ではなく、その「音素」(本能)が体現している情念のようなものが亜空間を漂っているようで、義太夫節のエッセンスを使った現代的な音楽表現へとアップデートされているような斬新な舞台に魅了されました。拙ブログでも何度か感想を書いていますが、向井響さんは向井航さんと共に日本の若手現代作曲家の中で最も注目される逸材であり、今後もフィーチャーして行きたいと思っています。
⑤義太夫三味線×ピアノ×ベース
ヴラヴィー!パンフレットには「昨年に続いて今回もジャズの演奏家との共演を試みます。」と解説されていますが、義太夫三味線の田中悠美子さんと、ピアノの林正樹さん、ベースの瀬尾高志さん、サックスの菊池成孔さんというビッグネームとの異色の組合せによるセッションが行われました。ジャズと義太夫三味線のコラボレーションは初めて聴きましたが、いずれもソウルフルな音楽ということもあり非常に相性がよく、ジャズのグルーヴに義太夫節の情趣がプラスされた心を強く揺さぶる独特な聴感が斬新で面白く感じられました。とりわけピアノの林さんが義太夫節の興に感応して即興的に絡んで行く閃きに満ちたパートは出色でした。また、スタンダードナンバーであるMy Funny Valentineでは菊池さんのサックスや瀬尾さんのベースが奏でるメランコリックな雰囲気が心に沁み、これに義太夫三味線の情緒纏綿とした語りが加わることで、心の襞が複雑に絡み合う味わい深い情趣が立ち込める演奏に魅了されました。ジャズの感想を書いてみるというのも野暮なことだと思うので、是非、ご興味がある方は田中悠美子さんのライブにお運び頂いてその場の雰囲気を体感して下さい。極上の音楽と酒に酔い痴れ、人生に溺れさせてくれるような素敵なライブなので自信をもってオススメしておきます。
⑥I was here
パンフレットには「物語の情景や登場人物の生活・感情まで、迫力たっぷりに、時には細やかに表現する義太夫三味線。その本来の文脈を離れて、楽器から醸成される響き、余韻、噪音、倍音を下がる試み。」と解説されています。原曲は義太夫三味線のソロ曲ですが、本日はジャズトリオ編成にアレンジして演奏されました。冒頭、エイジレスな田中さんが艶っぽい声で「春は鶯、夏は蝉、秋は虫、冬は木枯らし、雪の音」と四季を彩る季節の音を詠いましたが、このジャズトリオ版では義太夫三味線、ピアノ、ベースが叙情豊かな演奏を展開して、途中、ピアノやベースによるアドリブが挟まれるなど、原曲の世界観が拡張されていました。原曲を水墨画に例えるとすれば、ジャズトリオ版は彩色画と形容することができるかもしれませんが、それぞれの味わいが感じられる面白いピースでした。

▼シンポジウム「能楽研究の国際発信と今後の展望」去る10月11日(土)~12日(日)に法政大学市ヶ谷キャンパスにおいて野上記念法政大学能楽研究所の主催で "A Companion to Nō and Kyōgen Theatre" 刊行記念シンポジウム「能楽研究の国際発信と今後の展望」が開催され、そのうちPart2を拝聴しましたので、その概要を備忘録として簡単にサマっておきたいと思います。【講題】Part2:現代に生きる能楽 ―ジャンルを超えて―【講目】①越境する能―戦前 ディエゴ・ペレッキア(京都産業大学准教授)②越境する能―戦後 横山太郎(立教大学教授)③ラウンドテーブル「演出・技法・トレーニング」横山太郎(立教大学教授)ディエゴ・ペレッキア(京都産業大学准教授)山中玲子(法政大学能楽研究所教授)高桑いづみ(東京文化財研究所名誉研究員)リチャード・エマート(武蔵野大学名誉教授・シアター能楽創設者)ジョン・オグルビー(法政大学講師・シアター能楽トレーニングディレクター)モニカ・ベーテ(中世日本研究所所長)【日時】10月12日10:00~12:30【概要】西洋では世紀末のジャポニズムの潮流に乗り歌舞伎の受容よりも能楽の受容が先行していたそうですが、当初は能面や衣装などのマテリアル・カルチャーが注目され、徐々に演能などのパフォーマンス・カルチャーへと関心が移って行ったそうです。1916年にW.イェイツさんが能楽の特徴を採り入れた戯曲「鷹の井戸」を初演して話題になり、逆に、これを題材にして横道万里雄さんが1949年に能「鷹の泉」、1967年に能「鷹の姫」、2017年に梅若玄祥さんとコーラス・グループ「アヌーナ」がケルティック能「鷹姫」、坂本龍一さんと高谷史郎さんが舞台「LIFE-WELL」などに翻案しており、能楽の受容は国境を越えて深化しました。この点、明治維新以後の日本国内における能楽の受容は3つの時代に区分することができ、【第一期:1900年代】1905年に吉田東伍さんが世阿弥の芸道書「風姿花伝」を発見して観阿弥や世阿弥が正当に評価され、【第二期:1940年代】第二次世界大戦後に西洋近代を乗り越える機運が高まる中で日本人のアイデンティティとして能楽が積極的に受容され、【第三期:1980年代】ポストモダンの潮流の中で能楽は古臭いとして低迷期を迎えるという時代の大きな流れがあったことが紹介されました。また、1950年代から三島由紀夫さんが戯曲集「近代能楽集」を執筆、武満徹さんと観世寿夫さんが草月アートセンターで現代音楽と能楽(能舞)を融合する活動、2000年以降には細川俊夫さんと青木涼子さんが現代音楽と能楽(謡)を融合する活動などが注目されていることが紹介されました。伝統的な能楽はオワコンであるというネガティブな世評もあるなかで、アニメ、メディアや言語などをクロスオーバーするオルタナティブなアプローチが盛んになっている現状が紹介されましたが、上述のとおり物質主義的な世界観から複雑性理論の世界観へとパラダイムシフトする中で芸術表現の器として顕在劇としての能楽の潜在力に期待したいと思います。いつまでも世阿弥頼みでは本当にオワコンになってしまうと懸念しますが、能楽のエッセンスを活かしながら現代的にアップデートすることに成功すれば大化けするかもしれないキラーコンテンツたり得る大器を持っているのではないかと期待しています。▼Synthetic Natures「もつれあう世界:AIと生命の現在地」銀座のシャネル・ネクサス・ホールでAIアートとエコロジーを融合する展覧会「Synthetic Natures」(もつれあう世界:AIと生命の現在地)が開催されているので仕事帰りに立ち寄ってみました。AIを使って有機生命体とその進化を探求するアルゼンチン人のヴィジュアル・アーティストであるソフィア・クレスポさんとエンタングルド・アザーズさんが生命と環境の「もつれ合い」(エンタグルメント)をテーマにAIを使って創作した作品が展示されています。生命と環境の「もつれ合い」(相互作用、連接)によって秩序とカオスの境界域に新しい秩序が立ち上がる複雑系の創発を表現している作品群で、複雑性理論の「全体>部分の総和」という命題をAIを使って人間の知覚を超克して美的に表現し、新しい世界観を拓いてくれる大変に興味深く刺激的な展覧会でした。ご興味がある方は美術手帳に詳しい解説がありますので、ご一読頂くと鑑賞が深まると思います。







