大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

【新年の挨拶②】現音 Music of Our Time 2025(ルイジ・ノーノ✕イサオ・ナカムラ)とアンサンブル・ノマド第86回定期演奏会と古事記・総合芸術舞台「一粒萬倍 A SEED」とモルゴーア・クァルテット第56回定期演奏会と「この世界のムラを運ぶ」 <STOP WAR IN UKRAINE>

 
▼ブログの枕「この世界のムラを運ぶ」
謹賀新年。少し気は早いですが、正月は多忙を極めますので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」と二回に分けて新年の挨拶を投稿します。2026年は「老驥櫪に伏すとも志千里に在り」という意気込みで1年を駆け抜けて行きたいと思います。前9回のブログの枕では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」、「社会心理学:自己拡張」、「認知心理学:心のフレームワーク」、「複雑系科学:複雑性理論」、「アンスロズオロジー」とリベラルアーツ擬きを試みてきましたが、「ムラ」シリーズの最終回(第10回)として、来年の干支である「午」(馬)に因んで、この世界の「ムラ」を運ぶと題して流通革命(2026年問題)についてごく簡単に触れてみたいと思います。前回のブログ記事でも触れたとおり、古代日本には馬は生息しておらず、古墳時代中期(5世紀頃)に朝鮮半島から渡来人が馬を日本へ持ち込み、6世紀頃までには日本全国へ普及したと考えられています。古代から馬は、「労働」(馬力)、「移動」(持久馬)や「軍事」(駿馬)などの幅広い分野で「人間の限界」を超えるための優れたパートナーとして重用され、「人」、「物」や「情報」(ムラ)の流通を革新する神の力を宿す特別な存在として神聖観されてきました。この点、世界中で「人間の限界」を超える特別な力に神秘を感じて馬を神霊の乗り物であると捉えるようになり、ギリシャインドでは太陽神が乗る車を引く聖獣とされ、また、中国では黄河から河図(八卦)が刻まれた龍馬が現れたという龍馬伝説(緯書)として敬われました。日本でも神前に馬を祈願奉納する習慣が根付き、それが現在でも「絵馬」を奉納する風習として残されています。前回のブログ記事でも触れたアンスロズオロジーよろしく、仏教では修行者が自らの煩悩を馬に擬えて上手にコミュニケーションをとりながらコントロールすることができるようになれば涅槃の境地に至ると説かれていますので、読経、写経や座禅などと同様にホースマンシップは自らの心を澄ませる仏教的な宗教実践と似たところがある、即ち、馬の直観に触れること(拡張自己)で人の心を養う相互作用(自己拡張)が期待できるということなのかもしれません。その意味で馬が神霊の乗り物であるというイメージは観念的なものに留まらず実利に叶うものと捉えることができるかもしれません。20世紀を象徴する第一次産業革命(蒸気機関と機械化)及び第二次産業革命(電力と大量生産)により「人」、「物」や「情報」を運ぶための流通手段として馬に代わって自動車、鉄道、飛行機などが新たに登場し、その後、21世紀を象徴する第三次産業革命(デジタルとコンピュータ)及び第四次産業革命(サイバーとAI、フィジカルシステム)により「情報」を運ぶための流通手段として自動車、鉄道、飛行機や船に代わってインターネットやAIなどが新たに登場し、流通革命がダイナミックに進展しました(現在は「物」と「情報」が結び付いた流通革命3.0から、それを高機能化した流通革命4.0へ移行するフェーズ)。これに伴って「物の流通」では2024年問題(ドライバー不足)を克服するための物流効率化法改正、「人の流通」では労働市場を流動化して労働力不足を解消するための労働関連法制定又は改正、「情報の流通」では情報の健全な流通を促進するための情報流通プラットフォーム対処法改正などが行われています。そんななかカリフォルニア大学のスチュアート・ラッセル教授が2023年7月にジュネーブで開催されたITUのAIサミットでAIの学習データ枯渇を問題提起して話題になりましたが、2026年までにチャットGPTのような大規模言語モデルが学習するための高品質テキストデータが枯渇し、AI開発の進歩が鈍化する可能性(2026年問題)が指摘されています。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間は「知覚」(現在の情報:経験)と「記憶」(過去の情報:知識)を組み合わせて認知し、学習しますので、自ら学習しながら学習データを増やし続けることができますが、AIは「記憶」(過去の情報:知識)のみにより学習し、モデルを生成しますが、自ら学習しながら学習データを増やし続けることは難しい(但し、RLHFなどの例外もあり)と言われています。そこで、現存する限られた学習データを有効活用するためにアルゴリズムの改良や特定の分野に専門特化したモデルの開発などにより質の向上を図ることが考えられています。また、現存する限られた学習データを二次利用する合成データ(既存の学習データを加工して別の学習データを合成)の生成やマルチモダール学習(テキスト、画像、音声などの異なる種類の学習データの組合せ)の採用などが考えられていますが、学習データに偏りが生まれるなどのデータ汚染の問題が懸念されています。さらに、技術的に課題は多いですが、人間と同様にAIに「知覚」(現在の情報:経験)を仕掛けるためにロボティクス(物理的な経験)やシュミレーション(仮想的な経験)を組み合わせることで自律的に学習データを増やし続けることができるようにすることなどが検討されており、これらの対策によってAI開発の進歩が鈍化する可能性は大幅に低減できると考えられています。そもそもデータ(情報)とは世界の構造のムラ(秩序)をパターン化(表現)したものでしかなく、データ(情報)そのものは中立的なものですが、これに人間が「知覚」(現在の情報:経験)と「記憶」(過去の情報:知識)を組み合わせて意味(セマンティクス:分節)を観念しているに過ぎませんので、その文脈で言えば、人間の認知世界は実態のないもの(仏教の空性理論の世界観に相似するもの)と捉えることもできるかもしれません。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間が「知覚」(現在の情報:経験)と「記憶」(過去の情報:知識)を組み合わせて観念している意味(セマンティクス:分節)を採集し、資本主義の回路に組み込んでいる典型がターゲティング広告であり、サイバー上では人間の可処分時間や注意を奪い合う仁義なき戦いが繰り広げられています。このように現実の世界とはデータ(情報)から構成され、そのデータ(情報)に意味を観念して新しい価値観、人間観、自然観や世界観(リアリティ)を創造しており、その実態のない観念としての意味が実態のある世界(世界の構造=ムラ)に揺さぶりを仕掛けていると言え、人間は実態のない意味に囚われて一生をかけて必死にムラに群がる不思議な存在(ムラ)と言えるかもしれません。因みに、血液型による性格診断が根強い人気ですが(バーナム効果)、人間の血液型はA型、B型、O型、AB型の4系統、猫の血液型はA型、B型、AB型の3系統、ゴリラに至っては約90%がB型の1系統、残り約10%がO型、A型の2系統に分類されます。これに対して、馬の血液型はA型、C型、D型、K型、P型、Q型、U型の7系統あり、これと組み合わせる赤血球抗原のパターン(例えば、Aa型、Ab型、Ac型など)も多様なので実に約3兆通りの血液型が存在すると言われています。この点、人間は赤血球抗原のパターンが少なく約数千万通りの血液型しか存在しないので、仮に血液型による性格診断が有効であるとすれば、馬は人間以上に個体差への肌理細かい配慮が必要な繊細な生き物と言えるかもしれません。なお、人間の血液型はA型、B型、O型、AB型の4系統(これにRh型を追加)が一般に知られていますが、これは輸血などの医療的な観点から重要な意義を持つ血液型に便宜的に集約されているだけで(さながら血液型の全音階)、上述のとおり実際には人間の血液型(=赤血球抗原)は数千万通り存在している(さながら血液型の微分音)と言われています。この点、自分の正確な血液型を知るためには遺伝子検査が必要になりますが、それによって自分の体質なども分かるそうなので、やはり血液型に応じた何らかの特徴的な傾向はありそうです。
 
▼2026年問題
最近、人間が制作した音楽や画像よりもAIが生成した音楽や画像を鑑賞している時間の方が長いような気がしますが、既にAIが人間を凌駕するレベルに達しつつあるように感じます。2026年以降は自律的にタスクを実行するAIアシスタントが登場して労働市場が大きく変容することが予想されており、人間をマネジメントする能力よりもAIをマネジメントする能力の方が重要視される時代に移行しつつあるように感じます。また、AIがサイバー空間からリアル空間(自動運転、ロボット、IoTなど)に急速に浸透し、AIの普及に伴う爆発的なエネルギー需要が新たな社会課題として顕在化することが予想されていますが、これらの新しい社会課題もAIが最適解を見付けてくれるのではないかと思います。2025年は本ブログ記事の末尾に貼付しているMVの歌詞「君は不要だと囁くアルゴリズム♬」という時代が到来する予兆のようなものが感じられる年でしたが、2026年はその時代の潮流が更に加速度的に進展する年になるかもしれません。別のMVの中でAIによって花の色が白から赤に一瞬で切り替わる場面がありますが、人間の知覚では白い花に見えていても他の生物には別の色に見えており、人間が知覚している白い花も実態がないバーチャルなものであって、その意味では何をもってリアルと言い得るのかAIが生成する世界観と人間の脳が生成する世界観に大差はないと言えるかもしれません。これからは何でも人間がやらなければ気が済まなかった人間中心主義の時代から、馬だけではなくAIとの異種間共生も模索する時代がやってきつつあるということかもしれません。
学習データ 枯渇時期 影響範囲 追加要因
高品質データ 2026年 大規模言語M 著作権保護
低品質データ 2030年
~2050年
汎用言語M API制限
プライバシー
視覚データ 2030年
~2060年
画像・動画 著作権保護
プライバシー
 
▼ルイジ・ノーノ✕イサオ・ナカムラ
【演題】ルイジ・ノーノ✕イサオ・ナカムラ
【演目】①ヘルムート・ラッヘンマン Interieur Ⅰ(1996年)
     <Perc>高瀬真吾
    ②ルイジ・ノーノ
         Risonanze erranti(1986/87年)
     <Cond>イサオ・ナカムラ
     <C-Alt>福原寿美枝
     <Fl>木ノ脇道元
     <Tb>橋本晋哉
     <Perc>大場章裕、大家一将、神田佳子
           窪田健志、新野将之、藤井里佳
     <Elc>有馬純寿
【対談】長木誠司×イサオ・ナカムラ
【日時】2025年12月23日(火)19:00~
【会場】日暮里サニーホール
【一言感想】
L.ノーノの晩年の傑作「リソナンツェ・エッランティ」を日本初演するというので鑑賞してきました。しかも、L.ノーノの弟子であり盟友として親交が深かったH.ラッヘンマンの作品をカップリングする気の利きようで食指が動きました。
 
①Interieur Ⅰ
個人的な印象では、H.ラッヘンマンは「伝統の否定」(前衛)から「伝統の異化」(ポスト前衛)へと革新した作曲家として語られることが多いですが、特殊奏法などの作曲(演奏)技法は表現手段に過ぎないという立場を鮮明にして「方法」の探求から「世界観」の表現へと音楽を深化した作曲家であり、そこに大きな魅力を感じます。客は新しい調味料や新しい調理法に舌を巻くのではなく、その料理が体現している世界観を味わうものであって、その世界観を体現するための手段として新しい調味料や新しい調理法は意義を持つに過ぎないと思います。その文脈で言えば、この曲はH.ラッヘンマンが「伝統の異化」から「世界観」へと音楽表現を深化させるための重要な基盤を確立した時期の作品と言え、「世界観」を表現するための音楽的な語彙を磨き上げた作品と位置付けることができるかもしれません。この曲は1966年に打楽器奏者の中村功さんによって日本初演されていますが、本日は中村さんがR.ノーノの曲を、また、中村さんの弟子である高瀬真悟さんがR.ノーノの弟子であるH.ラッヘンマンの曲を演奏しました。演奏者を取り囲むようにマルチ・パーカッション(ビブラフォン、マリンバ、ティンパニー、トムトム、トライアングル、シンバル、タムタム、テンプルブロック、カウベル、ハイハット、アンティークシンバルなど)が配置され、パーカッションのインテリアと形容できる多彩な音響で空間装飾されましたが、何らかの明確な文脈(分節)をもった音の集積から構成される「定規で描ける世界観」(線形思考、人工美:神や王の絶対秩序を基調とする第一次世界大戦までの音楽)とは異なって、時折、秩序付けられた構造(フラグメント)が見え隠れはしますが、それらが因果を結ぶことはなく、マルチ・パーカッションが奏でる皮、木、金属の多彩な音響がカオス又はランダムに配置され、それらが音質、音色、密度や組合せなどを変化させながら多様な関係性で彩る「定規で描けない世界観」(非線形思考、自然美:自然の相対秩序を基調とする第二次世界大戦以降の音楽)を体現する音楽に感じられました。この点、マルチ・パーカッションが紡ぐ多彩な音響を調度品に擬えて言えば、さながら数寄屋造りに見られる「取り合わせの美」を体現するような音響空間が出現し、マルチ・パーカッションの多彩な音響を「混ぜる」(均質)や「整える」(人工)こと(自ら=みずから)ではなく「和える」(異質)や「活かす」(自然)こと(自ら=おのずから)から生まれる精妙で味わい深い趣きを味わい尽くすような作品の面白みを堪能できました。この作品の魅力を組み尽くすように多彩な表情を紡ぎ出すことに成功していた高瀬さんの秀演が出色でした。
 
②Risonanze erranti
打楽器奏者の中村功さんは、L.ノーノが求める「大きい音」を発見するための「音探し」に協力し、その研究成果をもとにしてRisonanze errantiが創作されたそうです。ミニ・トークで中村さんから貴重な創作秘話を伺うことができましたが、そこからL.ノーノの「音探し」の趣意を個人的に推し量ってみると「音を創作する」というよりも「音を発見する」というアプローチに近かったのではないかと推測されます。即ち、単に撥を振り上げて打楽器を強く叩くことから生まれる大きい音はそれが生まれる前から演奏者の身振りを介してエネルギーの凝縮や発散が視覚的に伝わってきますが、そうではなく音そのものから立ち上がる大きな音を感じるために聴衆からは見えないように撥をしならせて打楽器を叩くことで音そのものから生まれる大きな音が聴覚的に伝わることに成功したのではないかと思われ、それがL.ノーノが求めていた「大きな音」だったのではないかと感じます。さて、この曲はコントラルトという希少な声域と10台のスピーカーを使用したライブエレクトロニクスという特殊な編成を必要とするために演奏機会が少なく、世界初演から40年を経て漸く日本初演が実現しました。静寂からコントラルトの幽き声(但し、言葉(意味)で世界を分節する前の、感覚で世界と連節することにより自然の揺らぎと共鳴しているような音響)が発せられると、突然、打楽器の「大きな音」に遮られて静寂へと回収されていきます。再び、静寂からコントラルトの幽き声が発せられると、これにチューバやフルートが感応しますが、打楽器の「大きな音」に遮されて静寂へと回収されて行くことを繰り返しました。作曲意図は兎も角として個人的には、静寂(無:対称性)からムラ(有:対称性の破れ)が励起し、やがてそのムラ(有:対称性の破れ)がエントロピー増大の原則によって散らばりながら静寂(無:対称性)へと回収されて行く様子がイメージされ、非常にストイックな音響が生む凝縮(緊張)と発散(弛緩)の繰り返しによって演出される研ぎ澄まされた澄んだ空間にライブエレクトロニクスによる浮遊感のある残響がたゆたう幻想的な世界が広がり、対称性の破れ(生命を含む物質が励起・自己組織化)と対称性(生命を含む物質が基底状態へと回帰)を繰り返す生滅流転する宇宙の根本原理を体現しているような面白い音楽に感じられました。
 
 
▼アンサンブル・ノマド第86回定期公演
【演題】アンサンブル・ノマド第86回定期公演
    まなざし、あるいは差異の煌めきvol.3 :振り返るまなざし
【演目】①ヴィクトル・ウルマン 弦楽四重奏曲第3番(1943年)
     <1stVn>甲斐史子
     <2ndVn>大鹿由紀
     <Va>迫田圭
     <Vc>菊地知也
    ②ヴィクトル・ウルマン 
            オペラ「アトランティスの皇帝」(1943年)
     <オーバーオール皇帝>須藤慎吾(Br)
     <ラウドスピーカー>小森輝彦(Br)
     <死神>大塚博章(Bass)
     <ハルレキン>升島唯博(Ten)
     <兵士>澤原行正(ten)
     <少女>青木エマ(Sop)
     <鼓手>手羽明恵(Sop)
     <Cond>佐藤紀雄
     <Vn>甲斐史子、大鹿由紀
     <Va>迫田圭
     <Vc>菊地知也
     <Cb>佐藤洋嗣
     <Fl>木ノ脇道元
     <Cl>菊地秀夫
     <Ob>南方総子
     <Sax>坂口大介
     <Tp>東川理恩
     <Perc>宮本典子、上野美菜
     <Pf>中川賢一
     <Cemb/Harm>小坂圭太
     <Gt/Banj>土橋庸人
【演出】稲垣聡
【アーティスティック・アドヴァイザー】升島唯博
【コレペティトゥール】村上寿昭、矢田信子
【字幕】水野明人
【舞台監督】加藤和美
【美術】稲垣聡
【制作】田尾直史(NHKアート)、加藤工房
【プロデューサー】花田和花子
【日時】2025年12月28日(日)14:00~
【会場】東京オペラシティーリサイタルホール
【一言感想】
今年は新作オペラをフィーチャーしてきましたが、その年の最後を締め括るに相応しいV.ウルマンのオペラ「アトランティスの皇帝」を聴きに行きました。毎年、年末年始は第九やニューイヤーなど正月のTV番組のようなツマラナイ演奏会が並ぶなかで、このような真心のある演奏会を開催して頂けるアンサンブル・ノマドには足を向けて寝られません。辛うじて、日本も捨てたものではないと思えます。因みに、過去のブログ記事でも紹介しましたが、現存するV.ウルマンの音楽はナチス・ドイツが「退廃音楽」の烙印を押したことで、皮肉にも、その芸術的な価値を歴史に刻印することになりましたが(謂わば、ナチス・ドイツが授与した20世紀最大の音楽賞)、かつてデッカ・レーベルがV.ウルマンの音楽などを「退廃音楽シーズ」としてリリースして話題になったことを思い出します。
 
〇弦楽四重奏曲第3番
ユダヤ人作曲家のV.ウルマンは1942年にナチスが「模範ユダヤ人居住地」という表向きの名目で設けたテレジン強制収容所に収監され、そこで弦楽四重奏曲第3番やオペラ「アトランティスの皇帝」などを作曲していますが、1944年にアウシュビッツ強制収容所に移送される直前に友人に自筆譜を託したことでV.ウルマンの作品は後世に伝えられ、上述のとおりデッカ・レーベルから「退廃音楽シリーズ」としてリリースされて注目を集めました。V.ウルマンはA.シェーンベルクの弟子でしたが、A.シェーンベルクが十二音技法を確立する以前の調性の拡張(その到達点としての汎調性、無調性)を模索していた時代に師事しており、その影響はV.ウルマンの作風(後期ロマン派+表現主義)に色濃く現れているように感じられます。さすがはアンサンブル・ノマドが誇る弦セクションでして、4人がバランス良く主張し合いながら有機的に絡み合う構成感のあるアンサンブルを堪能することができました。冒頭で溜息を連想させるメランコリックなモチーフ(溜息のモチーフ?)が揺蕩い、時折、気分の高揚のような燃焼を見せるものの直ぐに気分の沈み込みのような下降音形に回収されることを繰り返しますが、V.ウルマンの収容所でのメンタリティーが生々しく表現されているようで、その絶望的な境遇に思い遣られました。やがてエッジの効いた鋭い響きによるテンションの高いアンサンブルが展開されましたが、その動揺が過ぎ去って、再び、チェロが溜息のモチーフを奏で出すとアンサンブル全体に陰鬱とした雰囲気が広がり、収容所での理不尽な境遇が偲ばれるピースに感じられました。その後、ヴィオラが半音階風の重苦しいモチーフを奏でると、そのモチーフを対位法的に絡み合わせながら心の襞を紡ぐような内省的なアンサンブルが展開されました。最後は溜息のモチーフがユニゾンで提示され、それが変容しながらクライマックスを築く、ナチスに抗うために心を鼓舞する悲壮な覚悟のようなものが感じられる終曲になりました。V.ウルマンはナチスのプロパガンダのために作曲したのではなく自らの精神を保ちナチスに抗うために創作を続けたと言われていますが、そのことが実感できる曲に感じられ、その意味ではV.ウルマンの白鳥の歌と言い得る1曲と言えるかもしれません。因みに、V.ウルマンは1944年10月18日にナチスによりアウシュビッツ強制収容所のガス室で虐殺されていますが、その精神がV.ウルマンの作品の中に息衝いていることを感じさせてくれる好演を堪能できました。なお、ナチスがユダヤ人を大量虐殺した理由について簡単に触れておくと、中世以来の宗教的反ユダヤ主義(キリストの処刑を求めたというスティグマ)を背景としてドイツ啓蒙主義が孕んでいた普遍主義と民族主義という矛盾に科学的人種主義(偽科学)が付け入り、それを奇貨としたナチスが第一次世界大戦敗戦に伴う社会不安のスケープゴートとしてユダヤ人を恰好の標的にしたものと個人的には理解しています。例えば、第九の合唱に見られるように善き市民を自称する人々が屯して声高に理想を唱え、それを善きものとして無批判に受け入れて熱狂するような感傷的な態度が最も危険なもの(同調圧力が成立し易い風土に象徴される感化され易い民族性を持つ日本人はとりわけ)ではないかと感じます。
 
〇オペラ「アトランティスの皇帝」
このオペラはV.ウルマンがテレジン強制収容所に収監されていた1943年に収容所で出会ったペーター・キエンが創作した台本に作曲したものですが、ナチスは暴君に対する痛烈な批判を内容とするものなので最終リハーサル後に上演禁止にしました。このオペラのプロットは、死神がアトランティスの皇帝の横暴な振舞いに腹を立て死神の職責を放棄して誰も死な無い世界になりましたが、それによって死の恐怖を拠り所として民衆を統治していたアトランティスの皇帝の権力基盤は脅かされることになりました。その一方で、民衆は死ねない人生の苦しみを嘆いて反乱を起こし、アトランティスの皇帝は自らの命と引き換えに死神の職責を全うするように死神にお願いするという荒唐無稽なものです。死は恐怖ではなく苦しみからの解放であるという強い精神を持つことでナチスが民衆支配の拠り所としていた圧政を無力化できるというメッセージ性が含まれているように感じられ、しかも死神がアトランティスの皇帝の圧政から民衆を救済するという逆説的な皮肉(死神=救世主)も込められているように感じられました。本日は演奏会形式の公演かと思っていましたが、簡素な舞台セット、衣装、美術、照明などが設けられ、演出も施される舞台上演形式の公演になっていました。現代オペラには「歌」らしいものが殆どないものも少なくなく(さながら麵がないラーメンのようなもの)、久しぶりに「歌」を堪能させてくれる「歌劇」としての現代オペラを楽しめ、また、そのことを十分に堪能させてくれる歌手陣のクオリティーの高さは特筆に値するものがあったと思います。アンサンブル・ノマドは歌手陣にぴったりと寄り沿いながらドラマチックに音楽をドライブする好演で魅了し、器楽から歌劇まで幅広いジャンルを巧みに熟す懐の広さを示していました。このオペラは収容所での上演という制約を踏まえた小編成のオーケストラになっていますが、音型による動機(ファンファーレ:皇帝のモチーフ、跳躍音型:ハルキンのモチーフ、ドラムロール:戦争又は軍隊のモチーフ、下降音型:死のモチーフなど)に加えて音色(楽器)による動機(金管、ドラムやハーモニウムは権力や権威のメタファー、サックスやバンジョーはナチスが退廃的と形容した新世界のメタファー、チェンバロは死のメタファーなど)が重要な働きを担っているように思われ、旧世界を象徴するバロック、宗教音楽(管弦楽)、調性音楽と対照する形で新世界を象徴するジャズ、軍楽(吹奏楽)、無調音楽という時代の価値観の交錯が巧みに音楽に織り込まれているように感じられました。冒頭はバリトンの小森輝彦さんが扮するラウドスピーカー(レチタティーヴォのような役割)が舞台設定を物語る前場(イントロダクション)を経て第一場に入りましたが、生のメタファーであるテノールの升島唯博さんが扮するハルキン(白を基調とする衣装)による時代の闇に色目を使う道化振りとソプラノの天羽明惠さんが扮する鼓手(赤を基調とする衣装)によるA.ヒトラーの演説を彷彿とさせる威圧振りが印象的に対比され、これに死のメタファーであるバスの大塚博章さんが扮する死神(黒を基調とする衣装)の凋落振りが加わって、この時代の価値倒錯を象徴的に描く場面になっていました。上述のとおり歌手陣のクオリティーが高く、ブラックユーモアを感じさせるアイロニカルな音楽を交えながら、それぞれの配役のキャラクターが際立つ雄弁な歌唱に魅了されました。また、このオペラではサックスが象徴的な楽器として使用されていますが、サックス奏者の坂口大介さんが奏でるジャズテイストの音楽が風刺的な彩りを添え、V.ウルマンの心意気を感じさせるピースになっていました。第二場はオーケストラのドラマチックな伴奏と共にバリトンの須藤慎吾さんが扮するアトランティスの皇帝(偽善のメタファー)と死神(真理のメタファー)が倒置される迫力の二重唱が聴き所になっていました。チェンバロによる死を象徴する下降音型が印象的に使用され、また、後半では皇帝のモチーフ(絶対性を意味する完全五度?)が死のモチーフ(冥界を連想させる下降音型)に覆い尽されて皇帝の威厳(偽善)が死の普遍性(真理)に回収されていく様子が音楽的に巧みに描写がされているなど細部に亘って音楽的な創意が尽くされているV.ウルマンの職人気質に感じ入りました。間奏曲を経て第三場ではテノールの澤原正行さんが扮する兵士(ブルーを基調とする衣装)とソプラノの青木エマさん(ピンクを基調とする衣装)が扮する少女が鼓手の妨害を退けて戦場での殺し合いを止めて愛し合うことの素晴らしさを歌う場面では「歌劇」としての魅力を湛えた耽美的な歌唱を存分に堪能することができましたが、この音楽的なメッセージを舞台に乗せることが叶わないままアウシュビッツ収容所に移送されたV.ウルマンの無念に思いを馳せると一層と心に沁みるピースに感じられました。なお、敢えてジェンダーカラーを使って男女の愛を表現する演出は当時の時代感覚を反映するものだと思いますが、それがユダヤ人に対するジェノサイドと同じくマイノリティに対するネグレクトという別の現代的なメッセージ性を内包する場面にも見える演出が興味深かったです。第四場では民衆の反乱(真理への希求)とアトランティスの皇帝(偽善)による死神(真理)との和解が描かれていましたが、生のメタファーであるハレルキン、鼓手、アトランティスの皇帝が憎悪と不寛恕がなくならなければ平安は訪れないと歌う三重唱が出色でした。アトランティスの皇帝は鏡の向こう側の死神と向かい合いますが、ヴィオラのデモーニッシュな伴奏とオーボエの寂寥感が漂う叙情的な伴奏に乗せて死は人生の悩みや苦しみを取り除いて安らぎを与えてくれると歌い、死神とアトランティスの皇帝の和解が印象的に描かれていました。V.ウルマンが抗し難い運命を前にしてもなお気高く生きる様子が伝わってくるピースでしたが、現代でもナチスによるユダヤ人に対するジェノサイドと同じようなことが世界で繰り返されており、日本でも見られるマイノリティに対するネグレクトや排外主義的な潮流など現代の時代性に通底するテーマを備えた現代オペラに感じられ、もっとこのオペラの真価に光が当てられて再演機会が増えても良いのではないかと感じます。
 
 
 
🐎🐎🐎 うまくはこぶ 🐎🐎🐎
 
 
▼古事記・総合芸術舞台「一粒萬倍 A SEED」
【演題】古事記・総合芸術舞台「一粒萬倍 A SEED」
【作・演出】松浦靖
【音楽監督・作曲】由有、織川ヒロタカ
【演目】日本の創生と五穀豊穣の物語
    第一幕
     第一場 序章
     第二場 はじめのはじまり
     第三場 天の御心
     第四場 天の浮橋
     第五場 国生み
     第六場 黄泉の国
     第七場 黄泉比良坂
     第八場 三貴神の誕生
     第九場 スサノオ
    第二幕
     特別演奏・語り~一つの思い・渋沢栄一と盟友篇
     第十場 暗黒世界・天の岩戸隠れ
     第十一場 アメノウズメの舞~天の岩戸開き
     第十二場 スサノオと食の神・オオゲツヒメ
     第十三場 五穀の起源
     第十四場 アマテラス
     第十五場 一粒萬倍
     第十六場 天の御心
【出演】<能>武田文志(アメノミナカヌシ)
    <日本舞踊>藤間翔(イザナギ)
          藤間掬美奈(イアザナミ・オオゲツヒメ)
          花柳茂義実(カムムスヒ)
    <ボールルームダンス>金光進陪(スサノオ)
    <現代舞踊>大橋美帆(波・シコメ・アメノウズメ)
          百世(波・御柱・光)
          小川麻里子(波・シコメ)
          久保田朱沙(波・御柱・闇・アマテラス)
    <小鼓>望月左武郎(長唄囃子)
    <大鼓>重草由美子
    <篠笛・能管>鳳聲晴久
    <大鼓>由有(太鼓プロジェクト「indra-因陀羅-」)
        奈々星悠華(太鼓プロジェクト「indra-因陀羅-」)
        悠華(太鼓プロジェクト「indra-因陀羅-」)
    <尺八>櫻井咲山
    <箏>日吉章吾
    <Vn>柳垣智子
    <Vc>谷口賢記
    <Acc>増井裕子
    <Tp>原朋直
    <法螺貝>園部浩誉
    <語り>鈴木ともみ
【衣装】押元須上子、松浦真渡、高橋はぎ乃、帯刀映美
【ヘアメイク】木村三喜
【スチール】新井勇祐
【グラフィックデザイン】宰田伸太郎 ほか
【日時】2025年1月10日(土)12:00~
【会場】観世能楽堂
【一言感想】
「初春(新年)が明ける」「皆既日食(天岩戸)が明ける」ことにより新(恵み)がるための環境が整うので「芽出たい」(メデタイ)になりますが、一粒萬倍を寿ぎ、その恵沢を祈念し、感謝する芸能の原点に触れる正月に相応しい舞台がありますので鑑賞する予定にしています。なお、松濤から銀座に移転した新しい観世能楽堂に伺うのは初めてでしたが、ウナギの寝床のような細長い会場にすることで脇正面席を減らし、正面席及び中正面席を増やして、中正面席の視界を確保するためにシテ柱をなくしてしまうという独特な構造になっていましたが、ハードに加えてソフトの革新にも期待したいと思います。
 

土地に刻まれた伝統と革新
(銀座駅)

新しい観世能楽堂
(GINZA SIX)

ワイン専門店「エノテカ」
(GINZA SIX)
 
過去のブログ記事(, , )で古事記と風姿花伝の関係について簡単に触れましたが、古事記はギリシャ神話よろしく「古代の王権支配の歴史を神格化したもの」と捉えられ、古代日本の支配状況(造化三神を含む五柱の別天津神)とその系譜(神世七代)をファンタジックに物語り、その後、地方勢力(国津神)の国譲りで実現した中央勢力(天津国)による国家統治の正統性を天孫降臨や天の岩戸隠れ(天の岩戸隠れとは太陽が月(=天の岩戸)に隠れる皆既日食のこと)などの神話に仮託して詩的に綴ったものと思われます。諸兄姉のお叱りを覚悟で寅さんの啖呵売口上を借りれば「物の始まりが1ならば、国の始まりが大和の国、島の始まりが淡路島。泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、博打打ちの始まりが熊坂の長範。」に続けて「力による現状変更でシマを拡げるヤクザの始まりが神武東征。」(ドンロー主義よろしくジンロー主義)と言えるかもしれません。さて、パンフレットには、古事記の詩的な表現(一粒)からどのようにインスパイアされ、この作品へと実を結んだのか(萬倍)に触れられています。少し長い抜粋になりますが、この作品の鑑賞にあたり重要なイメージ共有と思われますのでご紹介しておきますと「『古事記』の冒頭、天と地が二つに分かれた時に姿を現わしたのは、独り神・アメノミナカヌシです。続いて現れた二柱の神と合わせ、これらの神は世界の根源を司る「造化三神」と呼ばれます。その後、五柱の独り神を経て夫婦の神々が誕生し、十六・十七番目の夫婦神・イザナギとイザナミによって、ようやくこの国が形作られました。なぜ国生みまでにこれほど多くの物語が必要だったのでしょうか。実はこの過程は、一粒の「もみ」が成長する姿と重なっているのではないでしょうか。最初の神アメノミナカヌシを「種」とし、そこから「根」が張り「芽」が出る生命の躍動を「造化三神」にたとえているのではないでしょうか。やがて芽が伸び、葉が広がり、夫婦神という「稲の花のおしべとめしべ」が受粉することで、満倍の実りをもたらす稲穂となります。」と続けられています。上記を踏まえ、個人的な理解として全二幕十六場を4つのテーマに分けて簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
第一幕第一場から第一幕第三場までは天地開闢によって顕在した天之御中主神(アメノミナカヌシ)が体現する天の摂理(万物の根源)が描写されている場面でしたが、ちびっ子にも直感的に理解し易いように説明するとすれば、過去のブログ記事でごく簡単に触れたとおり、原始の宇宙は「対称性」(エネルギーの+と-が均等に打ち消し合いながら揺らいでいるようなイメージ)から「対称性の破れ」(エネルギーの+と-が不均等になってエネルギーのムラ(物質)が生じるようなイメージ)が起こり、そのムラが急速に増加して宇宙に構造(時空間と生物を含む万物)が誕生しましたが、丁度、宇宙の根源を体現する天之御中主神(アメノミナカヌシ)、天(陽、男)を体現する高御産巣日神(タカムスヒノカミ)、地(陰、女)を体現する神産巣日神(カミムスヒノカミ)は上記の宇宙論を造化三神に仮託(擬人化)して詩的に表現したものと捉えることができるかもしれません。青い照明のもと、躍動感のある太鼓の伴奏に乗せて現代舞踊の4人の女性ダンサーが扮する波が躍動感のあるダンスを展開しましたが、丁度、原始の宇宙で対称性から対称性の破れ(ムラ)が励起する様子が表現されているように感じられました。その後、赤い照明のもと、能楽囃子の精妙な伴奏に乗せて観世流シテ方能楽師・武田文志さんが扮する天之御中主神(アメノミナカヌシ)が国家「君が代」(古今和歌集の和歌)を謡い、これに続いてお祓いを象徴するものでしょうか能楽囃子や太鼓が三番叟のようなリズムを奏でるなかを静々と序の舞を舞う趣きのある美しい舞台になりました。
 
第一幕第四場から第一幕第七場までは伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が体現する地の摂理(男女や生死などの陰陽思想)を描写されている場面でしたが、ピンクの照明のもと、国生みを象徴するものでしょうか筝、篠笛、太鼓、尺八、Vn、Vcなどが短いリズムパターンを繰り返すミニマル風の音楽(さながらT.アデスの「In Seven Days」)を伴奏するなか日本舞踊の藤間翔さんが扮する伊邪那岐命(イザナギノミコト)と藤間掬美奈さんが扮する伊邪那美命(イザナミノミコト)が男女の情を交わすような優美な舞で魅了し、日本人の死生観を象徴する伊邪那美命(イザナミ)の死(穢)と伊邪那岐命(イザナギノミコト)の冥界下り(カタバシス)に伴う忌(禊、祓)などが日本舞踊の型、躍動感のあるダンス、邦楽やクラシックだけではなくロックやタンゴなどを織り交ぜたジャンルレスな音楽表現や照明効果などを使った多彩で劇的な舞台を楽しめました。
 
第一幕第八場から第二幕第十一場までは須佐之男命(スサノオノミコト)が体現する地(人)に働き掛ける実践業(剣、農、言(=人の心を詠う和歌の祖))と、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が体現する天(神)に働き掛ける信心業(神楽(=神の心を誘う芸能の祖))が対照的に描写されている場面でしたが、C.ベーカー張りのいぶし銀のトランペットの伴奏に乗せて第一幕と第二幕の幕間に近世日本から近代日本をスクラップ&ビルドした渋沢栄一の思想(著作「論語と算術」など)に触れる朗読劇が挟まれましたが、これは天鈿女命(アメノウズメノミコト)が体現する天に働き掛ける信心業→論語、須佐之男命(スサノオノミコト)が体現する地に働き掛ける実践業→算術に対応するものであり、古代から近世までの日本の文化的な礎を築いた須佐之男命(スサノオノミコト)と天鈿女命(アメノウズメノミコト)、近代から現代までの日本の経済的な礎を築いた渋沢栄一が対照されていたのが非常に面白く感じられました。ボールルームダンスの金光進陪さんが扮する須佐之男命(スサノオノミコト)や現代舞踊の大橋美帆さんが扮する天鈿女命(アメノウズメノミコト)によるフラメンコやタンゴを彷彿させる情熱的なダンス、光のメタファーである白い衣装と闇のメタファーである黒い衣装のダンサーが天の岩戸隠れをアーティスティックに描写するダンスなどテンションの高いドラマチックな舞台を楽しめました。
 
第二幕第十二場から第二幕第十六場まで
大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)の地と天照大神(アマテラスオオミカミ)の天がもたらす恵沢としての一粒萬倍(五穀豊穣)を寿ぐ場面でしたが、地球上の有機物の多くは光エネルギー(太陽)を化学エネルギーに変換する光合成生物(五穀)が作り出しており、人間は生命活動のためのエネルギー源(糖など)として有機物を摂取し、また、生命維持のための素材源(水やミネラルなど)として無機物を摂取して生きています。須佐之男命(スサノオノミコト)は大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)が振る舞う食物を「穢れ」として忌み嫌い、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)を殺してしまう場面ですが、能楽囃子の伴奏に乗せて、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)が須佐之男命(スサノオノミコト)を饗応する様子を序の舞で表現していましたが、須佐之男命(スサノオノミコト)が大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)が振る舞う食物を「穢れ」と認識し(破)、赤い照明のもと、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)を殺してしまう様子を乱拍子による急の舞(フラメンコ風の激しいダンス)で表現する序破急の構成をとる舞台が展開されました。過去のブログ記事で簡単に触れたとおり、古事記には古代日本の楽器として「琴」「笛」「鼓」「鈴」などが記録されていますが、このうち「琴」「笛」「鈴」を使った伴奏に乗せて日本舞踊の花柳茂義実さんが扮する神産巣日(カムムスヒ)が大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)から五穀の種(一粒)を生み出す様子が舞で表現され、五穀を象徴する草木の作り物が舞台に設えられました。これに続いて現代舞踊の久保田朱沙さんが扮する天照大神(アマテラスオオミカミ)とダンサー2人が稲穂を手にして天の恵沢が遍く大地に降り注ぐ様子を華麗なダンスで表現し、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、天鈿女命(アメノウズメノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)及び神産巣日(カムムスヒ)が揃い、それぞれに五穀豊穣(萬倍)を寿ぎました。壁面に稲穂が映し出されたのか印象的でしたが、天の岩戸隠れの場面では影を大きく投影するなど照明演出も効果的であったと思います。最後は、五穀を象徴する草木の作り物、小鼓方の望月左武郎さんが唄う長唄囃子に乗せて天之御中主神(アメノミナカヌシ)が舞い納め、やがて長唄囃子の唄が現代語に転じることで神話の世界から現代の世界へ回帰して終演となりました。ちびっ子にも理解し易いように比喩的な表現も交えて付言すると、「天地創造」とは「対称性」(真空は「無」ではなく「空」でありエネルギーが揺らいでいる状態)から「対称性の破れ」(エネルギーのムラ)を生じる状態であり、「破壊」とは「対称性の破れ」(エネルギーのムラ)がエントロピー増大の原則により「対称性」(エネルギーの揺らぎ)を回復する方向へ向かう状態(穢れ)を意味しますが、現代の科学では「無」から「有」が生まれるのではなく「空」から「有」が生まれることしか分かっておらず、その意味では生命現象は宇宙を支配するエネルギーの変化のダイナミズムに位置付けられ、それを古代人は直感して神話に仮託してロマンチックに物語ったと捉えることができるかもしれません。
 
 
▼モルゴーア・クァルテット第56回定期演奏会
【演題】ルイジ・ノーノ✕イサオ・ナカムラ
【演目】①ヨーゼフ・ハイドン 弦楽四重奏曲第39番「鳥」
    ②コジモ・カロヴァーニ オーロラ(2019年)
    ③ペトリス・ヴァスクス 弦楽四重奏曲第4番(1999年)
【演奏】モルゴーア・クァルテット
    <1stVn>荒井英治
    <2ndVn>戸澤哲夫
    <Va>小野富士
    <Vc>藤森亮一
【日時】2026年1月23日(金)19:00~
【会場】東京文化会館小ホール
【一言感想】
社会人が平日の演奏会を聴きに行くことは非常に困難を伴いますが、正月早々から面白そうな演奏会があるので、万難を排して聴きに行く予定にしています。過去ばかりに目を向けている握り金玉の若者が多いなかで、一時代を築いた腕に覚えがあるお父さんたちが革新に挑戦する心晴れするような演奏会に心惹かれています。長年に亘って在京オケでトップを務められたきた方々なので演奏のクオリティーは折り紙付きですが、どんな世界観を聴かせてくれるのか大変に楽しみです。
 
 
舞台を鑑賞後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
▼2026年度武満徹作曲賞 ファイナリスト決定
2025年7月12日(日)に開催予定の武満徹作曲賞の審査員でドイツ人現代作曲家のイェルク・ヴィトマンさんによる譜面審査(25ヶ国112作品)の結果、以下の4名がファイナリストに選ばれました。おめでとうございます。世界中から数多くの作品が応募され、国際色豊かなファイナリストが選ばれていますので、世界レベルの権威ある作曲賞と言えるのではないかと思います。その意味でファイナリストとしてノミネートされるだけでも大変に栄誉なことではないかと思います。
ズーイー・タオ(アメリカ) If
松尾研志(日本) 管弦楽のための変奏曲
ゾーホー・ツイ(中国) 最後の賭け
ジェヒョク・チェ(韓国) 超新星
 
▼来年の抱負(AIポップな時代の波に乗る)
2025年は「新作」をフィーチャーしてきましたが、2026年はもう少しステップアップして、21世紀のアウラを追い求めて古い認知バイアスを打ち破り新しい世界観を拓いて行くためにAIポップな時代の波に乗ってみたいと思います。未だに芸術音楽と商業音楽という化石化した境界(分節思考)にしがみ付いて時代の波に乗り遅れている旧世代を軽やかに嘲笑し、その境界(認知バイアス)をポップに超克(連接)してコンプリケーティッドされた世界をシンプルに編んで行く新世代は次の時代を視界に捉え始めているように感じますが、2026年はこの時代の革新に時めいて人生にもうひと華咲かせてみたいと夢焦がれています。以下には2025年に運ばれてきた新しい世界のムラを貼っておきますので、音楽と共に歌詞や映像が体現している時代感覚や新しい世界観をご堪能下さい。人類が本格的にAIと歩み始めた時代の足音に耳を澄ませながら時代の大変革期のダイナミズムに興奮を覚えています。何でも人間が行わなければ気が済まなった人間中心主義の時代は過去のものとなり、AIの台頭も相俟って「方法」(スキルとその優劣を評価するコンクール)が重視された時代から「世界観」(コンセプトとその面白さを賞賛するアート賞)が重視される時代へと加速度的にシフトしており、そこにはプロとアマ、芸術と商業や人間とAIなどの境界は意味を持ちません。