大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

映画「レディ・マエストロ」

元号が令和に改まってから最初の更新となります。さて、何やら日本音楽コンクールが滑稽なことになっているようなので、少し触れておきたいと思います。基本的にコンクールの運営方針はコンクールの主催者の自由に委ねられるべき問題ではありますが、日本音楽コンクールに限っては国営放送である日本放送協会が主催者の1社となっており、その公共的な性格から国民(かつ、受信料を納める契約者)の立場として簡単に個人的な所感を述べてみたいと思います。先日、日本現代音楽協会が日本音楽コンクール事務局に対して日本音楽コンクール作曲部門の運営方針に関する抗議を行い、それに対して日本音楽コンクール事務局が木で鼻を括ったような回答を返送したことから再度の抗議再々度の抗議に発展しているようです。2018年3月6日付毎日新聞東京版夕刊の8面に「日本音楽コンクール 作曲部門を大改革」と題する記事が掲載されていますが、その記事では以下の3点の理由から日本音楽コンクール作曲部門の第1予選及び第2予選だけでなく本選会についても従来の公開演奏審査を中止して譜面審査のみに改めるという趣旨のことが掲載されています(以下、2018年3月6日付毎日新聞東京版夕刊の8面より要旨抜粋)。
 
①本選の演奏において譜面通りに演奏されないことが起こり得る。
②譜面審査の点数と、演奏を聴いての点数に開きが出る場合がある。
③作曲部門の本選に残った作品を全曲演奏すると、指揮者、オーケストラや演奏団体の起用、パート譜の作成等、膨大な費用がかかる。
 
この点、上記③のみが理由として掲載されていれば、敢えて、この話題を採り上げるつもりはありませんでしたが、上記①及び上記②を主要な理由として掲載しており(名目上は審査の公平性を担保するということのようですが)、その内容にあまり合理性が感じられませんでしたので異論を挟みたくなりました。言うまでもないことですが、「音」にして表現することを前提とする音楽は実際に響いている「音」(無音を含む)がすべてのはずで、実際に「音」にすることなく譜面のみで審査することは、例えれば、実際に料理を試食することなく、そのレシピだけを見て料理の良し悪しを論評しているような不誠実さが感じられます。作曲家は初演時に演奏者と協力しながらどのように「音」にして表現することができるのかを問われており、それによって作品の評価が定まるのであって、どんなに優れている作品でもそれを実際に「音」にして表現することできなければ「画餅」でしかなく音楽的な価値を見出すことはできません。本選会ではプロの演奏家に演奏を依頼し、作曲家はその演奏能力の限界(「現実」)も踏まえながらどのように自らの創作意欲(「理想」)に叶う作品として仕上げることができるのか、リハーサル等を通じて実際に「音」にして表現することができるのかという技量(作曲家と演奏家が分業された時代から不可避的に内在する課題)も問われるべきであって、(芸術家に限らず全ての職業に共通して)それが他人からお金を頂戴するプロとして求められる責任(資質)だと思います。上記の新聞記事には「ある応募作品に譜面審査で低い評価をした審査員が、当該曲が本選で演奏された際の審査では高い点数をつけ(その逆もある)、評価点数に予選と本選で極端な違いの生じることがあった。」と掲載していますが、このことは審査員が譜面審査のみでは作品の魅力(真価)に十分に気付き得ない虞があり公開演奏審査等を経て初めて作品の魅力(真価)に気付くことがあり得るということの証左であって、寧ろ、譜面審査だけではなく公開演奏審査も実施して多面的かつ慎重に作品を評価する必要性が高いと言うべきではないかと思います。また、(これもまた芸術家に限らず全ての職業に共通して)社会的な分業体制を前提としてどのように「理想」と「現実」の間に生じるギャップに折り合いをつけながら作品(商品やサービス)の質を高めていけるのかという次元で勝負し、評価されているのであって、寧ろ、上記の新聞記事のように「理想」と「現実」の間にギャップを生じる可能性があるのであれば、作品の再現性に濃淡があり、また、作品が作曲家と初演者の手を離れて行くとしても、それが「音」にして表現することを前提としているものである限り、作曲家が演奏家と協力しながら実際に「音」にして表現するプロセスも評価の対象から除外すべきではなく、安易に流されて、実際に「音」(無音を含む)にすることなく譜面のみで審査して順位(一種の社会的信用を生む効果)を付けてしまう姿勢は無責任の誹りを免れないのではないかという憂慮を覚えます。なお、(上記のとおり実際に「音」にして表現するプロセスも評価の対象から除外すべきではないと思いますが)もし上記③のコスト面の問題が大きいのであれば、例えば、現代音楽の演奏困難性を克服し、かつ、コストを抑制する観点からは、次善の対応として、コンピュータを利用した公開演奏審査の併用等を検討しても良いのではないかと思います。いずれにしても日本音楽コンクール事務局は主催者の1社に国営放送である日本放送協会が含まれている点を踏まえれば、もう少し真摯な姿勢で十分な議論と説明責任を尽くす社会的な責任があるのではないかと思います。
 
人類は近代合理主義の大いなる恩恵を享受すると共に、その大いなる代償も支払わされてきたことを忘れてはいけないと思います。「無駄を省くこと」(≒ その人にとって苦しいこと)と「手間を惜しむこと」(≒ その人にとって楽なこと)は似て非なるもので、人間は「手間を惜しむ」ために「無駄を省く」という尤もらしい口実を挙げて大きなロスを招くという失敗を繰り返してきた苦い歴史があります。今年で34年目を迎えますが、1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故(ボーイング747)もその大きな代償の1つで航空機の単独事故としては史上最多の犠牲者を数えましたが(飛行機事故をリアルに感じ、空の安全に関心を持てるように再現映像を紹介します。)、未だ人類にとって「過去」のことにはなっていません(注)。その後も大小様々な航空機事故が後を絶たず、つい最近も、2018年10月29日にライオン・エア610便墜落事故(ボーイング737MAX)及び2019年3月10日にエチオピア航空302便墜落事故(ボーイング737MAX)が発生したことは記憶に新しく、この事故によって数多くの方が犠牲になられています(飛行機事故をリアルに感じ、空の安全に関心を持てるように再現映像を紹介します。)。衷心より犠牲者の皆様のご冥福をお祈り申し上げます。現在、事故原因を調査中ですが、いずれの事故もオートパイロット・システム「MCAS(エムキャス)」(航空機の機首が上がり過ぎると前方への推進力を失って墜落するので、自動的に航空機の抑角を検知して前方への推進力を失わないように機首を下げるシステム)の誤作動による可能性が高いのではないかと言われています。この背景には、航空機のランニングコスト(燃費や保守費等)を抑制するために、エンジンを3基又は4基から2基に減らしてその分をエンジンの大型化で補うようになったことで、エンジンを翼の下に設置することが難しくなり翼の前に設置するように設計変更されました。しかし、これによって航空機の機首が上がり易くなってしまったことから、その不都合を解消するために開発されたのがオートパイロット・システム「MCAS(エムキャス)」です。エアバス社(仏国)との航空機の開発・販売競争を背景として、ボーイング社(米国)が経済性を優先するあまり無理な開発を続けたことにより発生した事故である可能性が指摘されています。現在も、日本航空123便墜落事故の犠牲者のご家族が中心となり「8・12連絡会」(旧ホームページ)や「いのちを織る会」等が空の安全を含む安心・安全な社会の実現に向けた活動を続けられており、また、日本航空でも日本航空123便墜落事故を風化させずにその教訓を空の安全に活かすための継続的な取組みとして安全啓発センター(羽田)を開設して一般に公開しています(注)。秋は祝日が多いので、子供たちを連れて昇魂之碑への慰霊登山(以下に写真で紹介するとおり駐車場から昇魂之碑までは800Mで登山道が整備されていますので登山装備は必要なく普段着で十分です。)や安全啓発センター(羽田)の見学に出掛けられてみてはいかがでしょうか。とりわけ御巣鷹の尾根には犠牲者の墓碑が建てられ、ご家族や親類、友人の方々の切ない想いが詰った特別な場所であり、その真心に触れるだけで何か得るものがあるのではないかと思います。また、この周辺は自然豊かな観光地でもありますので、子供たちを伸び伸びと遊ばせるのにもお勧めです。なお、日本航空123便墜落事故の犠牲者のご家族が「パパの柿の木」という絵本を出版されており、子供たちが日本航空123便墜落事故を理解し、そこから何かを学び取るための教材として最適です。
 
①昇魂之碑(御巣鷹の尾根)群馬県多野郡上野村楢原323−8
慰霊の園群馬県多野郡上野村楢原2218
③祈りの碑長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢1046-5
【①昇魂之碑駐車場(御巣鷹山の登山道入口)】
楢原郵便局から昇魂之碑駐車場までは神流川沿いの舗装道を南下して車で約20分。昇魂之碑駐車場から昇魂之碑までは徒歩で約800m。御巣鷹山の登山道が整備されていますので、緩やかに続く階段をゆっくり登って片道20分程度です。
【①すげの沢のささやき】
当時、米国・国家運輸安全委員会委員長・ジム・バーネット氏の言葉がすげの沢のささやきとして刻まれています。昭和から平成、令和へと時代は移ろいますが、この言葉は決して事故のことを風化させてはいけないという思いを強くします。"It is my hope that the memories of those who died on that mountain side and every other crush site across seven continents will forever water our efforts to prevent these things from happening."
【①昇魂之碑】
昇魂之碑の裏側にある救助活動の起点(墜落地点)となったバツ岩、昇魂之碑の表側にあるバツ岩と向かい合う位置にある峰に日本航空123便の機体後部が接触したU字溝が未だに当時の傷跡を残しています。また、バツ岩の裏側には操縦士3名の墓があります。バツ岩の近くにある沈黙の木は事故の爪痕を現代に残し、その周辺には御巣鷹茜観音と慰霊碑遺品埋設場所などがあります。このような事故を繰り返さないためにも、決して事故のことを風化させてはならないと思います。
【①すげの沢】
この場所で4名の生存者の方が発見されています。なお、御巣鷹の尾根には犠牲者の方が発見された場所にその方の墓碑が建立されていますが、その場所はご家族の方の想いが詰められたご家族のための特別な場所であり、また、ご家族の方は新しい生活を営まれていますので、そのプライバシーに最大限配慮する趣旨から、敢えて、その墓碑の写真は掲載しておりません。なお、すべての犠牲者の墓碑をゆっくり歩いて巡ると一周約1時間30分です。
【②慰霊の園
慰霊の園には両手で合掌している形を象ったモニュメントが建てられていますが、合掌の隙間から直線で約10kmの先に昇魂之碑があります。当時の救出活動の記録等が展示されている資料館もありますので、こちらにも立ち寄られることをお勧め致します。現在も続く地元の方々の献身的なご努力には頭が下がります。
【③祈りの碑】
昇魂之碑の近くに軽井沢スキーバス転落事故の現場があり、そこに軽井沢スキーバス転落事故JR福知山線脱線事故笹子トンネル天井板落下事故の犠牲者のご家族らが事故の風化防止と交通安全を願って祈りの碑を建立されています。なお、JR福知山線脱線事故では日本航空123便墜落事故で御尊父を亡くされた歯科医師の方が検視で協力され、その実話が「尾根のかなたに~父と息子の日航機墜落事故」というドラマになっています。また、笹子トンネル天井板落下事故の犠牲者のご家族による悲痛な訴えがあります。著作権の使用許諾を得ているのだろうと思いますが、その前提で、この訴えは重く受け止めなければならないと思いますのでリンクしておきます(注)。
(注)安全啓発センター(羽田)は、2005年に日本航空国土交通省から重大インシデントの発生に対する業務改善命令を受けたことを契機として設置され、既に約24万人超の方が見学に見えられているそうなので関心の高さが伺えます。僕が安全啓発センター(羽田)を見学した際に応対して下さった日本航空の社員の方は日本航空350便墜落事故(1982年及び日本航空123便墜落事故(1985年)が発生した当時に羽田空港で旅客サービスを担当されていた方でしたが、現在、日本航空の社員の約95%が日本航空123便墜落事故後に入社した社員で占められているそうなので、当時のことを知る数少ない社員による非常に貴重な証言(体験)を伺うことができ、この事故をどのように事故後に入社した社員に伝えて教訓として活かして行くことができるのかに心を砕かれている姿勢がよく分かりました。その一方で、2018年10月28日、日本航空の副操縦士がロンドン・ヒースロー空港で基準値を超えるアルコールが検知されて逮捕されるという事件が発生しており、日本航空アンカレッジ墜落事故(1977年の教訓(この事故を契機として操縦士のアルコール検査を開始)が十分に活かさていないと言わざるを得ず、今後、日本航空は安全・安心の取組みをどのように実質化して信頼回復できるのか深刻な問題を抱えていますパイロットの飲酒は時差やストレスなど色々な理由があるようですが、どのような事情があるとしても翌日にフライト予定があることを知りながら飲酒してしまうのは、その時点でパイロットとしての適性や資質(体質を含む)に欠けていると言わざるを得ません。感傷的な態度で根拠なく人間を信頼するばかりではなく、謙虚な姿勢で人間の限界(脆弱性)を見極めて「脱」人間的な対策とその対策の信頼性を高めて行く取組みにも期待したいです(談志の名言)。
 
-->ここから本題
 
【題名】映画「レディ・マエストロ」(原題:De dirigen/The conductor)
【監督】マリア・ペーテルス
【脚本】マリア・ペーテルス
【撮影】ロルフ・デケンズ
【演奏】バス・ヴィーヘルズ指揮/オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団
【出演】<アントニア・ブリコ>クリスタン・デ・ブラーン
    <フランク・トムセン>ベンジャミン・ウェインライト
    <ロビン>スコット・ターナー・スコフィールド
    <メンデルベルク>ハイス・ショールテン・ヴァン・アシャット
    <コンサートマスター>ピーター・バーシャム ほか
【感想】
丁度、若手指揮者の登竜門である第56回ブサンソン国際指揮者コンクールで沖澤のどかさんが優勝したというニュースが飛び込んできましたが、今日は女性指揮者のパイオニアであるアントニア・ブリコの半生を描いた映画「レディ・マエストロ」の簡単な備忘録(但し、この映画は公開されたばかりなので内容に触れることは控えます。)を残しておきたいと思います。先日、小泉進次郎氏の育休取得宣言が話題になりましたが、現代はジェット旅客機やマスメディアの普及によって急速にグローバル化が進展したことで文化の地域的な独自性が損なわれ文化の均質化が顕著になる一方で、インターネットの普及に伴って標準化の時代(近代)から個別化の時代(現代)へと変化し、徐々に地域の格差や男女の性差等(カテゴリー)から個人の個性等(ユニーク)が重視されるようになり、人々の意識、社会の制度や技術の革新等から男性だけではなく女性も自分らしいやり方で社会進出し易い環境が整いつつあります。しかし、未だ家事・育児の負担率は女性の方が高いというデータも存在しており(夫婦共働きのデータを見ても同じ傾向を示しており)、また、2019年7月にアメリカ・バークレー市議会で性差別的な表現として「マンホール(man+hole)」を「メンテナンスホール(maintenance+hole)」、「マンパワーman+powar)」を「ヒューマンエフォート(human+effort)」等に改める条例が制定されるなど、依然として社会(とりわけ文化)の中に男女の性差別的な因習等が残っていることも現実です(尤も、皇室典範の改正論議など、あらゆる分野について男女の性差をなくすことについては社会的な議論がありますが、ここでは深入りしません。)。アントニア・ブリコが活躍した1900年代の前半は歴史的及び社会的に女性差別的な風潮が色濃く(完全な女性参政権が認められたのは、アメリカでは1920年、イギリスでは1928年、日本では1945年。映画「未来を花束にして」)、女性が社会進出することに対する社会的な理解(同性である女性からの理解を含む)がなく、また、女性が社会進出するにあたっては男性的なやり方しか受け入れられないなど、非常に厳しい社会環境にありました。この映画に描かれているアントニア・ブリコの逆境(但し、個人的な家庭環境の問題を除く。)は、女性指揮者のパイオニアとしてのアントニア・ブリコに特有の問題ではなく、現代でも直面し得る問題(女性だけではなく男性にも当て嵌まるもの)が多く描かれていますが、上述のとおり当時の社会環境を踏まえれば、アントニア・ブリコは非常に強い社会的なストレス(不条理)を感じていたと思われ、強靭な意志力がなければそれらに抗って乗り越えて行くことは困難であったことは想像に難くありません。ご案内のとおりクラシック音楽キリスト教音楽として発展してきた歴史的な経緯がありますが、キリスト教会ではイブ(女性)が蛇にそそのかされて禁断の果実を食べ、それをアダム(男性)に分け与えたことから女性は男性に比べて罪深く、また、月に一度不浄な血を流すと考えられていたことからキリスト教会への立ち入りを禁止され、又はキリスト教会で歌うことを禁じられていた時期がありましたので(第一コリント14章34~35「婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼女らは語ることが許されていない。だから律法も命じているように服従すべきである。/もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは婦人にとって恥ずべきことである。」)、キリスト教会では男性のみが歌うことが伝統となり、ソプラノパートを歌う男性歌手としてカストラートボーイ・ソプラノ)も誕生しました(映画「カストラート」)。このような歴史的な経緯によってクラシック音楽界では伝統的に男性優位の状態が続くことになりましたが、1900年代の後半になって漸くオーケストラの演奏者として女性が採用されるようになります(ザビーネ・マイヤー事件)。しかし、上述のような歴史的な経緯から指導的な役割を担う指揮者や作曲家への女性の進出は社会的に認められず(指揮者や作曲家に必要な体力、空間把握力や論理的思考力等は女性に比べて男性が優位しているという理由を挙げるものもありますが、これらは女性を排除するための後付けの理屈)、被指導的な役割を担う演奏者のみに女性の進出が認められてきました。例えば、今年で生誕200年を迎えたクララ・シューマンは作曲を得意としていましたが(クララ・シューマンの作品はフランツ・リストロベルト・シューマンに高く評価され、ピアノ曲等に編曲されています。)、当時は女性の作品というだけで社会的に正当な評価を受けられず、37歳のときに作曲家からピアニストへと転向して成功しています(映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」)。映画「レディ・マエストロ」では音楽家を志し胸にコルセットを付けて男装している女性・ロビンが登場しますが、当時は音楽界に限らず文学界でも同様の状況があり、ショパンの恋人であったジョルジュ・サンドも男性名で文学作品を発表していました(映画「ショパン 愛と哀しみの旋律」)。
 
女性作曲家列伝 (平凡社選書 (189))

女性作曲家列伝 (平凡社選書 (189))

 
性別に関係なく人間には様々なタイプがいますので紋切型に性差で論じることはナンセンスですが、一つの特徴的な傾向として捉えれば、一般的に、男性は「システム脳」(論理力に優れ、問題解決型思考)、女性は「共感脳」(観察力に優れ、共感形成型思考)が多いと言われています。この点、なでしこジャパンの元監督・佐々木則夫さんは男性の選手には戦術的なアドバイス(問題解決型)が有効であるのに対し、女性の選手には戦術的なアドバイスよりもその選手を必要とし期待しているというメッセージを送ること(共感形成型)の方が有効だと語っています。また、企業でも男性管理職はリーダーシップを発揮したがるタイプが多いのに対し、女性管理職は「リード(独奏)」ではなく「フォロー(伴奏)」に重点を置いて強力なリーダーシップではなく共感形成を通じて組織をまとめあげて行くタイプが多いと言われています。女性指揮者・三ツ橋敬子さんが何かのインタビューに答えているのを読んだことがありますが、現代では昔のようにカリスマ性で楽団員をグイグイと引っ張って行くタイプ(上命下達)の指揮者は持て囃されず、楽団員と対話を重ねながらその意向を汲み上げて楽団のポテンシャルを引き出して行くタイプ(下意上達)が持て囃されているそうです。その意味では、現代のように個人の個性等(ユニーク)が尊重される時代にあっては男性的な問題解決型思考よりも女性的な共感形成型思考の方が組織運営に有効であると言えるかもしれません。映画「レディ・マエストロ」に描かれている家庭環境(家族の理解、家庭の経済力等)、社会偏見(キャリアと家庭の選択、機会の平等、ヘイトスピーチ等)やセクハラ問題などの逆境は、女性指揮者のパイオニアとしてのアントニア・ブリコに特有の問題ではなく、現代でも直面し得る問題(その多くが女性だけではなく男性にも当て嵌まるもの)と言えます。この映画の中でアントニア・ブリコがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューするシーンが女性の社会進出の難しさを象徴するエピソードとして印象的に描かれていますが、師匠のカール・マック(ハンブルクフィルハーモニー管弦楽団指揮者)からアドバイスされた強力なイニシアティブで楽団員を統率して行く男性的なやり方が楽団員から猛反発を買います。上述のとおり、一般的に、男性はリーダシップを発揮したがるタイプが多く他人(女性に限らず男性を含む)からコントロールされること(とりわけ他人から誤りを指摘されること)を嫌う傾向があると言われていますので、往々にして共感形成を促す女性的なやり方の方がスムーズに行くケースも少なくないのではないかと思われます。当時、アントニア・ブリコは辣腕を奮って強力なイニシアティブで楽団員を統率して行く男性的なやり方で演奏会を成功に導いていますが、その苦労や困難は女性であるが故に一入のものであったことは想像に難くありません。この問題は女性だけではなく男性にも当て嵌まり、また、現代にも通じる普遍的なものなので、組織(人間関係)の縮図であるオーケストラと指揮者の関係を通じて色々と考えさせられる映画でした。(ネタバレしないように、これ以上は踏み込んで書かないことにします。)
 
一人になりたい男、話を聞いてほしい女

一人になりたい男、話を聞いてほしい女

 
最後に、誰が数えたのか知りませんが、現在、世界で活躍している女性指揮者は30名程度だそうですが、僕が思い付く限りで現役の常任指揮者等として活動している女性指揮者を紹介してみたいと思います(順不同)。こうして見ると女性指揮者は男性指揮者に劣らぬ活躍振りですし、撲が経験した限りで女性指揮者の演奏は男性指揮者の演奏と比べて何ら遜色がありませんので、昔、まことしやかに語られていた女性指揮者は男性指揮者に比べてオーケストラを指揮するために必要な体力、空間把握力や論理的思考力等が劣るという説が失当であること(性差ではなく個差)が既に実証されていると言って過言ではありません。

【主要な外国人の女性指揮者】

シモーネ・ヤング:世界で初めて女性指揮者としてウィーン国立歌劇場及びウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、世界のメジャー・オーケストラや歌劇場で指揮する華々しいキャリアの持ち主。現代の女性指揮者の中では傑出した存在。

マリン・オールソップ小澤征爾さんの弟子で、ボルティモア交響楽団の首席指揮者。小澤征爾さんの弟子には将来有望な若手指揮者が数多く育っており楽しみです。

カリーナ・カネラキスショルティ指揮者コンクールに優勝。ベルリン放送交響楽団の首席客演指揮者、オランダ放送フィルの首席指揮者。

ミルガ・グラジニーテ=ティーバーミンガム交響楽団音楽監督

ヨウ・エイシ(葉詠詩):香港小交響楽団の音楽総監督。

アロンドラ・デ・ラ・パーラクイーンズランド交響楽団の首席指揮者。

ソン・シヨン:京畿フィルハーモニックオーケストラの芸術監督兼常任指揮者。

チェン・メイアン:シカゴ・シンフォニエッタ音楽監督

アヌ・タリ:サラソタオーケストラの音楽監督

ナタリー・シュトゥッツマンオルフェオ55の芸術監督

シャン・ジャン:世界で初めて女性指揮者としてニュージャージ交響楽団音楽監督

ジョアン・ファレッタバッファロー・フィルとヴァージニア交響楽団音楽監督

スザンナ・マルッキヘルシンキフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者。

イヴ・クウェラー:オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨークの桂冠指揮者(元音楽監督)。

ベアトリーチェ・ヴェネツィ:オーケストラ・スカルラッティ・ヤングの首席指揮者、プッチーニ音楽祭首席客演指揮者、アルメニア国立交響楽団の副指揮者。

シーヨン・ソン:サー・ゲオルグショルティ国際指揮者コンクールで優勝。ソウルフィルハーモニー交響楽団のアソシエイト・コンダクター。 

アグニェシュカ・ドゥチマルヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者コンクールで名誉賞を受賞。世界で初めて女性指揮者としてスカラ座に登壇。

クレール・ジボー:世界で初めて女性指揮者としてミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮。

エマニュエル・アイム古楽系指揮者、チェンバロ奏者。バロックアンサンブル”Le Concert d'Astrée”を結成して指揮活動を開始、最近ではベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して話題に。

 

【主要な日本人の女性指揮者】

松尾葉子小澤征爾さんの弟子で、ブザンソン指揮者コンクールで女性初の優勝。セントラル愛知交響楽団の特別客演指揮者。

西本智美:イルミナートフィルハーモニーオーケストラの芸術監督兼首席指揮者、ロイヤルチェンバーオーケストラの音楽監督兼首席指揮者。

新田ユリ:愛知室内オーケストラの常任指揮者。

田中祐子オーケストラ・アンサンブル金沢の常任指揮者。

三ツ橋敬子小澤征爾さんの弟子で、アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで女性初の優勝、アルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで第2位。

齋藤友香理小澤征爾さんの弟子で、ブザンソン国際指揮者コンクールで観客とオーケストラが選ぶ最優秀賞。

石﨑真弥奈ニーノ・ロータ国際指揮者コンクールで優勝(聴衆賞)。

沖澤のどかブザンソン指揮者コンクールで優勝、東京国際音楽コンクールで女性初の優勝。 

富田淳子陸上自衛隊第14音楽隊1等陸尉、自衛隊初の女性指揮者。

 

【その他】

アルベナ・ダナイローウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で女性初のコンサートマスター(VPOの楽団員は1990年までドイツ系オーストリア人又は旧ハプスブルク帝国支配地域出身の男性で占められていましたが、1997年から女性楽団員を採用し始め、現在では楽団員の約10%が女性楽団員になっています。)
 
♬ 「In My Hand」
日本航空123便墜落事故で犠牲になった日本人の実業家の父と、英国人のバレエダンサーの母の間に生まれ、現在、英国で活躍しているヴァイオリニスト・ダイアナ湯川さんが亡父の鎮魂のために作曲した「In My Hand」をご紹介します。なお、お姉さんは英国で活躍しているピアニスト・キャシー湯川さんです。
 
♬ 「エナジー風呂」(Energy Flo)
坂本龍一の「Energy Flow」に、②U-zhaanが演奏するインド伝統楽器「タブラ」が持つ独特の風情を組み合わせて、③これに現代音楽の作曲技法であるループ・ミュージックやミュージック・コンクリート等を採り入れながら、④環ROY鎮座DOPENESSによるラップ・ミュージックと融合することで、文明社会の日常的な気だるさのようなものを醸し出す軽妙ポップな作風に仕上げられた面白い作品になっています。裏付けのある確かな弛緩とでも言うべきような圧倒的な何かを感じます。 (【参考】ラップ文化とタブラ文化の歴史オサライ「BUNKA」
 
♬  マクドナルド+ブックオフ+ファミリーマートでミニマル音楽(略して「マクド・ブッファ」)
マクドナルド、ブックオフファミリーマートのCMソングを素材にして現代音楽の作曲技法であるミニマル・ミュージックに仕立てた面白い作品を紹介します。「日常」の中にも価値あるものは溢れており、それをどのように活かして面白さを見出して行けるのかは才能です。音楽で何を表現するのかは多様になっており、時代が音楽に求めるものも大きく変化しています。既に評価が定まった古いものだけに価値を見出すのではなく、現代に芽吹き、息衝いているものを的確に捉えて新しい価値を理解する感性や教養が問われる時代であることを痛感します。もっと世の中を面白いと感じられるように精進せねば...。