大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

映画「津軽のカマリ」

f:id:bravi:20191006095057j:plain5インチの狭い世界の中にしか人生を見出せなくなった現代人。平成の時代になってから駅構内等を行き交う人々が何かに取り憑かれたように一斉に5インチのスマホ画面を覗き込み、その人生に疲れ切ったような顔がスマホ画面の光に照らし出されてまるで亡霊のように浮かび上がっている光景を気味悪く感じるようになってから久しいような気がします。そのような状況のなか「歩きスマホ」「ながら運転」(自転車を含む)による事故が増加して社会問題化していますが、昨年11月から鉄道各社及び通信各社が「やめましょう、歩きスマホ。」キャンペーンを展開していた成果が出始めて来たのか、令和の時代になってから駅構内やその他の公共施設等で「歩きスマホ」をしている人の姿がめっきりと減っている光景(公共安全)を見るにつけて、そう言えば、昭和の時代に街中でよく見かけた道端で立ち小便をしているおじさんの姿が平成の時代になってからコンビニエンスストアの普及も手伝ってめっきりと減った光景(公共衛生)とよく似ているなと目を細めて関心しております。日本は自由主義の国なのでらの意思のみにって行動することを妨げられないことが保障されていますが、それは無制限、無制約に認められている訳ではなく、他人に迷惑をかけない範囲(即ち、他人の自由を不当に侵害し又はその可能性があるものとして法律やその他の社会規範で禁止し又は制約していることに違反しない範囲 ≒ 社会性)でしか認められていません。この範囲を逸脱して行動する人達のことを、社会性する人達ということで「反社会的勢力」と呼んで社会から追い出そうとしています。しかし、「歩きスマホ」が減ってラッシュ時等に他人と衝突してしまう危険等が減ったと安堵していたのも束の間、最近、目を丸くしてしまうような光景に触れて心を痛めています。幼児と手を繋いで並んでエスカレーターに乗っていた若いお母さんの後ろから、エスカレーターを歩いて昇ってきたおじさんがその若いお母さんの横を無理に通り抜けようとして肩に接触し、その若いお母さんがバランスを崩して危うく大事故につながり兼ねない場面に出くわしました。一般的に、エスカレーターでは片側の一列(関東では左側、関西では右側)に寄って乗り、反対側の一列はエスカレーターを歩いて昇る人のために空けておくというのが社会の暗黙の不文律として蔓延していますが、日本ではエスカレーター事故が絶えない状況(日本エレベーター協会によれば、駅構内やその他の公共施設がバリアフリー化の一環としてエレベーターの設置を推進したことなどを背景として、エスカレーター事故が420件/年(平成10年度)から1475件/年(平成25年度)へと約3倍に急増)を受けて2004年頃からエレベーターメーカー及び駅やその他の公共施設の施設管理者がエスカレーターを歩いてはいけないというルール(社会規範)を定めて啓蒙教化に力を入れています。エスカレーターを歩いて昇る習慣は1944年頃(第二次世界大戦中)にロンドンの地下鉄で混雑緩和のために考案され、それが全世界に広がったものと言われており、海外では日本とは正反対にエレベーターを歩いて昇る人のために片側に寄って乗るように指導している地域もあります。しかし、最近、ロンドン交通局がラッシュ時にエスカレーターの片側に寄って乗る場合とエスカレーターの両側に乗る場合とでどれくらいエスカレーターの運転効率に差が生じるのかを実験したところ、エスカレーターの片側に寄って乗る場合は1時間あたりの利用者数が約2,500人、エスカレーターの両側に乗る場合は1時間あたりの利用者数が約3,500人と全く正反対の結果(前者に比べて約30%も運転効率がアップし、エスカレーターの片側に寄って乗る場合は混雑緩和どころか混雑増加につながってしまう結果)が公表されました。その理由として、日本でもラッシュ時の風物詩になっていますが、エレベーターの片側に寄って乗ろうとする人が多いので片側だけに長蛇の列ができ、反対側はガラガラになってしまうことでエスカレーターの運転効率が著しく低下してしまうそうです。この点、日本では、単に運転効率の問題だけではなく、幼児、老人やハンディーキャップがある人等は保護者や介護者が横に付き添ってエスカレーターに乗る必要があることや、ハンディーキャップがある人の中にはエスカレーターの片側(関東では右側、関西では左側)にあるベルトしか掴めない人がいること、更に、エスカレーターの片側だけに荷重が加わることで動作不良による事故の原因となり得ることなど、ハンディーキャップがある人への合理的な配慮やエスカレーターの耐久性等も考慮したエスカレーターの安全確保が考えられています。イギリスで生まれた近代合理主義が破綻を迎えようとしているなか、寧ろ、このような日本の安全確保に関する思慮の行き届いた考え方を世界へ発信していく必要があるのではないかと感じます。僕もCO2の少女に負けないように、敢えて、エスカレーターの右側に立ち止まって乗る運動(ラッシュ時を含む)を細々と展開していますが、少しづつでも、そのような人が増えてマジョリティになること(ハンディーキャップがある人も暮らし易い懐の広い社会が実現すること)を願いたいです。なお、1人前の社会人と言えるためには適切な時間管理は基本中の基本と言えますが、それでも時間管理が儘ならないという人は(急いでいるからと言って狭い了見で「あおり運転」をしてはいけないのと同様に)他人に迷惑をかけないようにエスカレーターではなく階段を利用するなどの分別、良識を期待したいところです。どのような社会を子供達の世代に残して行けるのか、先ずは身近なところから考えてみたいと心掛けています。
 
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さて、ハンディーキャップがある人のなかには、とりわけ芸術文化の分野で秀でた才覚を開花させる人が多く誕生し(この背景には江戸時代に目にハンディーキャップがある人達に対する幕府の社会福祉政策として「当道座」に所属している男性(検校、別当、勾当、座頭)や「瞽女座」に所属している女性が琵琶、三弦、筝等の職業の専有を許されていたことなどが挙げられます。)、例えば、近代筝曲の祖・八橋検校など日本の芸術文化史に欠くことができない著名人が輩出しています。....ということで、今日は津軽三味線の名人・高橋竹山(故人)の半生を描いたドキュメンタリー映画「津軽のカマリ」について備忘録を残しつつ、津軽三味線の源流となった越後瞽女にして無形重要文化財小林ハル(故人)や杉本シズ(故人)について少し触れておきたいと思います。因みに、映画「座頭市」は江戸時代に千葉県飯岡を縄張りにした侠客・飯岡助五郎の子分として実在した人物茨城県笠間出身の座頭の市)をモデルにしていますが、そのなかで津軽三味線の伴奏による津軽民謡「津軽じょんがら節」(演歌歌手・松村和子)が登場します(このシーンは松村和子の歌唱力が津軽じょんがら節の魅力を際立たせていることに加えて、1階の喧騒と対比された2階の静寂のなかで水の音(雨、水筒)、金属の音(刀の身)、木の音(刀の柄、柱)、座頭市が足で刻むリズム等によって座頭市が生きる「音の世界」(音が構築する多層で立体的な世界)が見事に描き出されている点で出色です)。また、TVシリーズ「座頭市物語」第23作では瞽女(女優・浅丘ルリ子)が登場します。なお、勝新太郎が主演した座頭市シリーズは海外での評価も高く、勝新太郎以降に別の俳優によるリメイク作品が数多く作られていますが、いずれも駄作続きで大変に残念です。
 
【題名】映画「津軽のカマリ」
【監督】大西功一
【撮影】大西功一
【出演】高橋竹山(初代)
    高橋竹山(二代目)
    高橋哲子(孫)
    西川洋子(最初の弟子)
    八戸竹清(弟子)
    高橋栄山(弟子)
    須藤雲栄(民謡歌手)
    高橋竹童(最後の内弟子) ほか
【感想】
「破れ単衣に、三味線抱けば、よされ、よされと、雪が降る・・・♩」の名フレーズで始まる演歌「風雪ながれ旅」(歌手:北島三郎、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹)は、津軽三味線の名人・高橋竹山をモデルとして作詞されたものです。高橋定蔵(高橋竹山)は2歳のときに麻疹を患って失明し、生きるために東北地方や北海道で門付け(民家の門口に立って三味線を弾いては米などを貰うこと)をしながら放浪しますが、冒頭フレーズの僅か26文字で津軽の身を割くような厳しい冬や地吹雪と共に、高橋定蔵(高橋竹山)の壮絶な人生やその生き様までもが伝わってきます(映画「竹山ひとり旅」)。歌詞の中で登場する「よされ」とは東北民謡の囃し言葉に由来しますが、「世去れ」「余去れ」にも通じる語感から凶作の口減らしで「世を去れ」「余り者は去れ」という意味の方言として使われるようになり、やがて人の泣き声、雪が降る様子や三味線の音の擬声語や擬態語としても使われるようになりました。これを踏まえて改めて冒頭フレーズを見ると、高橋竹山の境遇と世間の世知辛さ(世去れ)とが相俟って非常に重々しく含蓄のある言葉として心を捉えます。 
 
津軽三味線 超高音質リマスターアルバム

津軽三味線 超高音質リマスターアルバム

 
津軽三味線は、岩木川の河原(青森県五所川原市金木町神原)に住む船頭・三太郎の息子・仁太郎(仁太坊)により生み出されました(映画「NITABOH」)。仁太郎(仁太坊)は、生まれて間もなく母を亡くし、さらに、8歳のときに天然痘を患って失明しますが、生きる術を身に着けるために越後瞽女・タマナに三味線の手解きを受けます。その後、11歳のときに父・三太郎が水難事故で亡くなったことから、日々の糧を得るために三味線で門付けをしながら身を立てる決意をします。仁太坊は、他のボサマ(青森県では門付けをしながら日々の糧を得る盲目の旅芸人のことを坊様=ボサマと呼んでいました)よりも目立つようにより大きな音で派手な技を求めるようになり、瞽女が使う細棹の三味線ではなく義太夫が使う太棹の三味線に持ち替えて撥を叩きつけるように弾く「叩き三味線」を生み出し、オリジナルの三味線芸を確立します(津軽三味線の原型)。やがて仁太坊の弟子で「曲弾き三味線」(超絶技巧を織り交ぜた三味線の独奏)を生み出した白川軍八郎の弟子(仁太坊の孫弟子)で演歌歌手・三橋美智也が「津軽三味線」と命名してリサイタルで三味線を演奏したことで全国へと広がります。なお、津軽三味線の源流となった越後瞽女は、静御前のように歌舞音曲を披露しながら各地を流浪する旅芸人であったことから「御前」(ごぜん)が訛って「瞽女」(ごぜ)と呼ばれるようになり、新潟県上超市で座元制(親方が家を構えて弟子を養女に入れ、複数の親方が集まって「座」を作り、そのうち修業年数の一番長い親方が座元となって座に所属する瞽女を統率する仕組み。親方は弟子を養女に入れることで一生同じ家(世襲型)で生活するのが特徴。)を中心にして組織された「高田瞽女映画「ふみ子の海」)や、新潟県長岡市で家元制(大親方が瞽女屋を構えて、そこで修行して免許を受けた親方が各地で弟子をとって「組」を作り組に所属する瞽女を統率する仕組み。大親方から免許を受ければ独立(のれん分け型)して弟子をとるのが特徴。)を中心にして組織された「長岡瞽女映画「瞽女GOZE」2020年春公開予定)が注目されるようになります。瞽女には厳しい掟があり、その中で最も重い罪とされたのは男性と関係を持つことで、この罪を犯した瞽女は仲間から離れて「はなれ瞽女映画「はなれ瞽女おりん」)として一人で生きていかなければなりませんでした。仁太坊が三味線の手解きを受けた越後瞽女・タマナには娘がいたと言われていますので、はなれ瞽女であった可能性があります。維新後の近代化、戦後の高度経済成長やマスメディアの発達等を契機として越後瞽女を支えていた社会体制が崩壊又は大きく変容したことで瞽女は廃業を余儀なくされますが、1955年(昭和30年)にウィーン国立音楽大学教授にして古楽奏者の草分け的な存在であるエータ・ハーリヒ=シュナイダー(チェンバロ奏者)が高田瞽女・杉本キクイの瞽女唄を聴いて「雅楽奏者は現代人なので古典音楽の精神が伝わって来ないが、高田瞽女瞽女唄と同じように古い生活を守っている」と感激したという逸話が残され、1970年(昭和45年)に高田瞽女・杉本キクイは国の無形文化財に指定されます。また、1987年(昭和53年)に長岡瞽女小林ハルも国の無形文化財に指定されますが、当時、オペラ歌手を目指していた竹下玲子は小林ハル瞽女唄を聞いて弟子入りを決意しています。現在、高田瞽女瞽女唄は小竹勇生山小竹栄子月岡祐紀子等が伝承し、また、長岡瞽女瞽女唄は竹下玲子萱森直子金川真美子等が伝承しています。作家・三島由紀夫の言葉を借りれば、文化とは「血みどろの母胎の生命や生殖行為」(「文化防衛論」より)から生み出される生々しく残酷な側面を持つものであって、決して現代の教養主義で持て囃されている一切の血生臭いものを抜き去った剥製のようなものではないことを、小林ハル高橋竹山の生涯やそれを体現する音楽が思い出させてくれます。
 
鋼の女 最後の瞽女・小林ハル (集英社文庫)

鋼の女 最後の瞽女・小林ハル (集英社文庫)

 
「泣きの十六、短かい指に、息を吹きかけ、越えてきた・・・♩」演歌「風雪ながれ旅」より)と歌われていますが、高橋定蔵(高橋竹山)は16~17歳頃からボサマとして門付けをしながら東北地方や北海道を放浪し、1933年(昭和8年)に三陸海岸を巡業していたときに昭和三陸地震(規模:M8.1、津波:海抜28.7m)で被災して高橋定蔵(高橋竹山)が宿泊していた宿が津波で全壊するなか命からがら裏山へ避難して一命をとりとめます。このときに津波対策として築かれた潮防堤は1960年(昭和35年)のチリ地震で威力を発揮しますが、2011年(平成23年)の東日本大震災津波が潮防堤を超える映像なので閲覧注意)では津波を食い止めることができずに甚大な被害が発生したことは未だ記憶に新しいところです。その後、高橋定蔵(高橋竹山)は津軽民謡の大家・成田雲竹の伴奏を務めて名声を博し(高橋竹山と改名)、やがて津軽三味線の独奏者としての地位を確立して日本だけではなく海外でも高い評価を受けるようになりますが(「彼の音楽は、まるで霊魂探知機でもあるかのように、我々の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」(ニューヨークタイムズ評))、高橋竹山が奏でる津軽三味線からはオイストラフが奏でるヴァイオリンを彷彿とさせるような揺るぎない大きな音楽が聴こえてきます。1998(平成10年)に高橋竹山は87歳の生涯を終えますが、現在、その後進として二代目高橋竹山西川竹苑高橋栄山高橋竹味八戸竹清高橋竹音高橋竹子高橋竹大高橋竹童等が活躍し、また、その孫・高橋哲子津軽民謡の歌手として活動しています。
 

正調民謡の店 甚太古】(2019年12月30日閉店予定)

囲炉裏のあるお座敷で青森の雪景と絶品の郷土料理を楽しみながら、高橋竹山の最初の弟子・西川洋子(竹宛)さんによる三味線の生演奏が聴ける店(青森県青森市安方1丁目6−16) 

 
「音の出るもの、何でも好きで、カモメ啼く声、ききながら・・・♩」演歌「風雪ながれ旅」より)と歌われていますが、生前に高橋竹山が「津軽のカマリ(匂い)がわきでるような音をだしたい」と語っていたことが映画「津軽のカマリ」のタイトルになっています。この映画の中で高橋竹山が山野を巡り津軽の自然に耳を傾けていたことを二代目高橋竹山が回想するシーンが登場しますが、「津軽のカマリ(匂い)」とは高橋竹山が全身で感じていた津軽の自然(心象風景)のことを意味し、そこから得られるインスピレーションが高橋竹山津軽三味線)の独特の音楽性を育む重要な源泉になっていたことを伺わせるエピソードとして紹介されています。上述のとおり津軽三味線は目にハンディーキャップを負った人の芸能として誕生していることから基本的に楽譜を使用せず、師匠から弟子へと口頭又は実演により伝承され、それ故に一定の決められたフレーズ以外は演奏者のインスピレーションで自由に変化させ又は即興しながら演奏するスタイルが採られ(ソウルフルな音楽)、同じ楽曲でも演奏者により又は演奏する都度にその構成や内容が異なり(楽譜に縛られない音楽)、それが津軽三味線の大きな魅力の1つ(再現性よりも即興性)となっています。その意味では津軽三味線はジャズに近い演奏スタイルと言え、近年では津軽三味線とジャズ等とのコラボレーションも盛んに行われています。しかし、このように表現可能性が広がっている一方で、現代は高速移動手段の発達、マスメディアやインターネットの普及、経済の成長とグローバル化等を背景として社会の規格化・均質化が進み(効率的で平等な社会の到来)、その結果としてローカル性(独自性)や時代のムラ(多様性)のようなものが損なわれ、「津軽のカマリ(匂い)」のような独特の個性や質感等が生まれ難い環境になってしまったことは非常に残念です。尤も、このような近代合理主義の副作用を嘆いていても始まりませんので、現状の良い面を肯定的に捉えれば、2002年から義務教育で和楽器を使用した伝統音楽の教育が開始され(これに伴って邦楽コンクールも開催されるようになり)、また、表現スタイルが多様化し、和楽器の改良や新しい和楽器の開発等が活発に行われていること(動物愛護への対応を含む)などを背景として、様々な和楽器ユニットが注目され、そこで模索される新しい音楽や表現スタイル(創意工夫から創造されるオリジナリティ)の可能性に期待が集まるなか、それを契機として伝統音楽への関心(温故知新から発見されるオリジナリティ)も徐々に高まりつつある状況は歓迎すべきことであり、今後も若い世代による意欲的な活動を応援していきたいと頼もしく感じています。
 
【参考】伝統音楽の失われた100年とその復興

(1)文明開花と文化主義による欧化政策

「音樂取調成績申報書」(1884年、音楽取調掛から文部卿へ提出)より抜粋
本邦俗曲ハ古来識者ノ為ニ放擲セラレ擧ケテ之ヲ無学ノ輩ノ手ニ委スルヨリ音樂ノ本旨ニ悖人事至底ノ用途ニ歸シ随テ野卑ニ流レ其歌曲ノ成立ハ今日最モ下流ノ極ニ達セリ是ヲ以テ其弊害勝テ言フベカラザルモノアリ試ニ其一二ヲ述ベンニ俗曲ノ淫奔猥褻ナルハ風教ノ酖毒ヲ為ス是其一也,俗曲ノ旋律淫風ヲ極ムルハ士人ノ趣味ヲ淫俟ニ導キ爲メニ雅正善良ナル音樂ノ振興ヲ妨害スル是其二也,俗曲ノ淫邪ナルハ誘惑ノ途ヲ開キ徳教ノ涵養ヲ妨害スル是其三也,外交日新ニ際シ彼此ノ文物相融通スルノ今日ニ在テナホ此ノ如キ音曲ノ盛ニ行ハルヽハ國家ノ体面ヲ毀損スル是其四也
☞ 音楽取調掛による日本音楽の分類: 雅楽天皇、寺社、武士が嗜む音楽(雅楽、声明、普化尺八等の宗教音楽、能楽、筑紫筝、薩摩琵琶等の教養音楽)、俗楽:庶民が嗜む音楽(箏曲長唄、三味線、浄瑠璃、民謡、流行歌、童謡等の大衆音楽) 、淫楽:俗楽のうち三味線、浄瑠璃など男女の色恋沙汰を歌う音楽。 
☞ 「俗曲」の例:江戸端唄「梅は咲いたか」は江戸時代に流行した俗謡で花柳界の芸妓達を季節の花や貝に喩えて浮名を流す客の浮気心を三味線の伴奏に乗せて艶っぽく歌うお座敷唄。季節の花や貝を隠語として男女関係の機微を匂わす小粋な歌詞や色香などを「淫奔猥褻」「淫風」「淫邪」と形容。 

「音樂利害」(1891年、神津專三郎著)より抜粋
樂記ニ鄭衛ノ音ハ亂世ノ音ナリ,桑間,濮上ノ音ハ亡國ノ音ナリトハ,淫聲ニ世ヲ亂シ,國ヲ亡スノ理アルヲイヘリ,今ノ妓樂,三線浄瑠璃ハ,遙ニ古ヘノ鄭衛,桑間,濮上ノ淫聲ニ過クベシ
☞ 「鄭衛」「桑間」「濮上」:春秋時代の中国の国名又は地名で、これらの国又は地域では儒教が理想とする礼の音楽ではなく男女の出会いなどを扱った謡が流行(「桑間濮上之音、亡國之音也」(礼記))。
☞ 「淫聲」:性行為のときに発する声
<文明開化に対する明治時代の文化人の批評>
夏目漱石は、文明開化の危さを「日本の現代の開化は外発的である」と看破したうえで「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」と批判し(「現代日本の開花」より)、「伝統音楽の失われた100年」とでも形容すべき悲劇を予見。 
<文化主義に対する昭和時代の文化人の批評>
三島由紀夫は、文化主義の危さを「市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧すること」と看破したうえで「文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向」と批判し、「近松西鶴芭蕉もいない昭和元禄」を「華美な風俗」ばかりが氾濫する「見せかけの文化尊重」だと悲観(「文化防衛論」より)。

「動物愛護及び管理に関する法律」(1999年、改正法)より抜粋
第44条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、二年以下の懲役又は二百万円以下の罰金に処する。(中略)
4 前三項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
 一 牛、、豚、めん羊、山羊、、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
☞ 三味線の胴に張ってある皮:野良猫の皮(細棹三味線、中棹三味線)、野良犬の皮(太棹三味線)の皮。
☞ 大鼓、小鼓に張ってある皮:馬の皮。
☞ 改正法の付帯決議:日本の伝統芸能に係る三味線等の製造に支障をきたさないよう、伝統文化の保護の行政とも連携して、都道府県等に引き取られ殺処分に付されている犬及びねこの活用などにおいて適切な配慮がなされるよう措置すること。(但し、現在では保健所で殺処分された野良猫や野良犬の皮の使用も中止。) 
<動物愛護政策に対する平成時代の文化人の批評>
永六輔は、動物愛護法改正を受けて「古典芸能は、みんな三味線を使うじゃないですか。プラスチックで作ると、全然音が違う。日本の伝統芸能を守るためには、どうしても猫の皮が必要」と必要性を説いたうえで、「保健所が処分する野良猫は相当数にのぼっているのだから、矛盾」と許容性に関する問題を提起し、「僕は、「伝統芸能にかかわる三味線、太鼓、鼓など楽器の製造に使う場合は、これに当てはまらない」という付則をつけなさい、という運動をしています」と自らの立場を表明(「WEBサイト」より)。
☞ 現在は楽器に使用する皮の殆どを輸入に頼るか又は(音色は落ちますが)合成皮が使用されているのが実態。最近ではエレキ三味線など新しい表現スタイルに適した楽器の改良と併せてエレクトリック三味線など動物愛護に配慮した新しい楽器の開発も活発。その一方で、三味線の年間製造数は18,000棹(1970年)から3,400棹(2017年)まで落ち込み(全邦連)、三味線の製造技術の伝承が危機的な状況。


(2)グローバル化によるアイデンティティの回復

「教育課程審議会答申」(1998年7月29日)より抜粋
中学(音楽) 我が国の伝統的な音楽文化の良さに気付き、尊重しようとする態度を育成する観点から、和楽器などを活用した表現や鑑賞の活動を通して、我が国や郷土の伝統音楽を体験できるようにする。
☞ これを契機にして邦楽コンクールが開催されるようになり若い邦楽演奏者を育成する気運。それに伴って和楽器ユニットの活躍が活発化し、その活動が注目されるなど邦楽ブームの兆し。
 
【資料】
津軽三味線の系譜 ※以下の画像をクリックすると拡大表示
 
津軽三味線にゆかりの地(CDを片手に史跡を巡る音楽の旅) 
信濃追分 高田瞽女 長岡瞽女
碓氷関所跡碓氷峠の入り口にある安中藩の碓氷関所跡(群馬県安中市松井田町横川573)で、日本で最初のマラソン大会である安中藩の「遠足」を題材とした映画「サムライマラソン」の舞台。碓氷峠は片峠で上野国から信濃国へ向かう中山道は上り坂のみで、軽井沢バス転落事故の現場(長野県北佐久郡軽井沢町1045−1)。 信濃追分発祥の地碑碓氷峠を越えた追分宿跡(分去れ長野県北佐久郡軽井沢町大字追分559)の左方が中山道(至、滋賀県)、右方が北國街道(至、新潟県)、後方が中山道(至、東京都))にある信濃追分発祥の地碑(長野県北佐久郡軽井沢町大字追分1155−8)。碓氷峠を越える際に唄われた馬子唄が信濃追分節で、越後瞽女により津軽に伝わって津軽三味線を発祥する契機となっています。追分宿跡には枡形の茶屋と呼ばれる「つがるや」(長野県北佐久郡軽井沢町大字追分568)の歴史的建造物(ほぼ原型のまま現存)等があり。なお、左方の中山道方面へ行くと信州味噌(安養寺味噌)発祥の地である安養寺長野県佐久市安原1687)があり、安養寺味噌(信州味噌)で作った安養寺ラーメン麺匠文蔵本店)が名物。 高田瞽女・杉本シズの墓/善念寺(新潟県上越市東本町3-2-51 には、高田瞽女の墓が安置されています。高田瞽女は弟子を養子にして相伝されたので、同じ墓に杉本シズの師匠・杉本キクイ(無形文化財)を含む高田瞽女の先代3名の菩提も弔われています。  瞽女ミュージアム高田/善念寺の近くにある瞽女ミュージアム高田(新潟県上越市東本町1-2-33)では、高田瞽女の文化を保存し、現代に伝えています。2020年春に映画「瞽女GOZE」の公開も予定されています。 長岡瞽女・小林ハル(無形文化財)の墓小林ハルさんが晩年を過ごした胎内やすらぎの家(新潟県胎内市熱田坂881−86)を背にして胎内フィッシングセンターを右手に見ながら道沿いに進むと左手の私設の墓地に小林ハルさんの墓があります(地図)。また、胎内やすらぎの家の敷地内には瞽女顕彰碑が建立されています。また、小林ハルさんの生涯を描いた映画「瞽女GOZE」が2020年春に公開予定であり、さらに、瞽女唄ネットワークが長岡瞽女唄を保存し、その伝承を支援するための取組みを行っています。
津軽三味線
仁太坊之里碑青森県五所川原市金木町神原の出身で、はぐれ越後瞽女の後に付いて三味線を学んで津軽三味線創始者した仁太坊(本名、秋元仁太郎・1857年(安政4年)~1928年(昭和3年)の生誕地で、津軽三味線発祥の地(青森県五所川原市金木町神原桜元29)になります。この近くには津軽三味線会館青森県五所川原市金木町朝日山189-3)があり、その向かいには同地が生誕地である太宰治のミュージアムがあります(映画「太宰治」が現在公開中)。 仁太坊生誕150周年記念碑/仁太坊生誕150周年祈念碑(青森県五所川原市金木町神原小泉126ー77)。仁太坊ははぐれ越後瞽女に影響を受けながら津軽三味線に特徴である「叩き奏法」を編み出します。 津軽三味線発祥之地碑文豪・太宰治青森県五所川原市金木町の出身で、津軽三味線発祥之地碑(青森県五所川原市金木町芦野234−219)がある芦野公園には太宰治の銅像もあります。 三味線塚津軽三味線の祖・仁太坊を顕彰した三味線塚(青森県五所川原市金木町川倉七夕野426−1)です。現在、津軽三味線の名人・高橋竹山の半生を描いた映画「津軽のマガリ」が上映されています。
高橋竹山顕彰碑津軽三味線の名人・高橋竹山青森県平内町小湊の出身で、平内町歴史民俗資料館(青森県弘前市西茂森1-23-8)には高橋竹山顕彰碑が建立されています。現在、高橋竹山の半生を描いた映画「津軽のカマリ」が公開されていますが、その音楽(演奏)の“凄さ”に圧倒されます。なお、現在、民族資料館では「初代高橋竹山資料展示」が行われ、実際に高橋竹山が使用されていた三味線や尺八等が展示されています。
 
【おまけ】
♬ 映画「津軽のカマリ」(津軽三味線高橋竹山
映画の予告編に収録されている高橋竹山の演奏を一聴すれば、(ジャンルを問わず)音楽を好むものであれば、その音楽(演奏)の“凄さ”に圧倒されるはずです。いくつか音源が残されているとは言え、高橋竹山の生演奏に触れる機会に一度も恵まれなかった不遇が心から悔やまれてなりません。
 
♬ 映画「瞽女GOZE」(2020年春公開予定)
2005年(平成17年)に105歳の生涯を閉じた最後の瞽女小林ハル無形文化財)の生涯を描いた伝記映画です。なかでも小林ハルの子供時代を演じた川北のんの熱演には目を見張るものがあり、その迫真の演技によって小林ハルの壮絶な人生をまざまざと突き付けられているようで打ちのめされます。
 
♬ 映画「海山 たけのおと」(都山流尺八:ジョン・海山・ネプチューン
尺八に人生を捧げたジョン・海山・ネプチューン(カリフォルニア出身、千葉県鴨川市在住)を題材としたドキュメンタリー映画「海山 たけのおと」が公開中です。1977年に都山流尺八の師範免許を取得して「海山」の号を受け、1980年にはアルバム「BAMBOO」が文化庁芸術祭優秀賞を受賞しています。