大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

オペラ「マルコムX」(MET初演)とオペラ「アマゾンのフロレンシア」(MET初演)とオペラ「ニングル」(作曲家・渡辺俊幸/藤原歌劇団)とミュージック・シアター「PSAPPHA」(加藤訓子)とナラティブを生きる < STOP WAR IN UKRAINE >

▼ナラティブを生きる(ブログの枕単編)
ウサギとカメ、北風と太陽、オオカミ少年などの寓話が世界中で親しまれているイソップ物語(紀元前6世紀の古代ギリシャ時代にトルコ人奴隷・イソップが生きるための知恵や権力者への戒めを物語るために自然物を擬人化して創作した約700話の寓話)は現代の大人の鑑賞にも耐え得る含蓄がありますが、日本では江戸時代初期にイソップ物語を日本語に翻訳した「伊曾保物語」(イソップに関する伝記:29話、イソップが創作した寓話:65話)が発刊されました。この伊曾保物語に収録されている「蝉と蟻」と題する物語は、フランスでは「蝉」に馴染みが薄いので「キリギリス」に変更され、日本では虫の音に感心が深いことから「蝉」が「キリギリス」のほかにも「コオロギ」「バッタ」「コガネムシ」などに変更されており、その土地の生態系が物語に色濃く影響を与えています。一般には「蟻とキリギリス」に翻案された物語が知られており、キリギリスは蟻が冬籠りに備えて食料の備蓄に勤しむ姿を尻目にヴァイオリンを弾いて遊び暮らし、冬に食料がなくなって蟻に助けを求めるというストーリー展開ですが、その結末には、①蟻はキリギリスに食料を分け与えることなくキリギリスは死ぬ(原典)、②蟻はキリギリスに食料を分け与えてキリギリスは改心する(日本の教科書に採用された規範性を尊重する20世紀的な結末)、③蟻はキリギリスに食料を分け与えることなくキリギリスは自らの生き様を語って悔いなく死ぬ(多様性を尊重する21世紀的な結末)などのバリエーションがあります。上記の③の結末には生活の安定を重視する擬人化した蟻と人生の充足を重視する擬人化したキリギリスがそれぞれのナラティブを生きる姿が描かれていますが、(蟻の倫理感は横に置くとしても)現代は世界を革新し得るキリギリス的な考え方が評価される傾向があると言われています。
 
▼ストーリーとナラティブの違い
物語の種類 視点 主体
ストーリー オフ・ステージの視点
(三人称)
他者の物語
ナラティブ オン・ステージの視点
(一人称/二人称)
自分(達)の物語
 
▼認知とナラティブの関係
知覚(推論)
セイリエンス・ネットワーク(SN)
仮説の筋道(プロット)
情動による反応(無意識的)
(入力)↕(修正)
記憶(検証)
セントラル・エグゼクティブ
ネットワーク(CEN)

収束型の論理思考
最適解の模索
アイディアの創造
デフォルト・モード
ネットワーク(DMN)

発散型のナラティブ思考
可能性の模索
アイディアの創発
↓(出力)
認知(判断、行動)
大脳皮質系ネットワーク
ナラティブの生成
感情運動系ネットワーク
感情による行動(意識的)
 
人間の脳はナラティブ形式でエピソード(時系列の事実)を編集し、記憶しますが、そのエピソードを過去、現在、未来を結ぶ1つの筋道(プロット)として自分の世界観や人生観の中に上手く組み込んで納得のゆくナラティブに仕立てることで、人生の目的、意義や統一性などを基礎付けるアイデンティティ(人格)を形成すると考えられています。この点、不安症の人は、その不安を納得のゆくナラティブに仕立てることができずに、アイデンティティ(人格)に綻びが生じて精神的に不安定になる状態(トラウマ)に陥ると考えられています。人間の脳は無意識的にナラティブを紡ぐ性質を備えていますが、過去のブログ記事で触れたとおり、①知覚(推論):感覚器官が体の内外から情報を受け取ると脳が仮説の筋道(プロット)をシミュレーションし、②記憶(検証):その仮説の筋道(プロット)と過去の記憶を照合して、③認知(判断、行動):それらの間に発見されたミスマッチを修正(最もプリミティブな例として錯視)して「現実」(ナラティブ)を仕立てると共に(これは「差分」と言い換えることもできるもので、その差分の大きさに比例して脳の報酬系が活性化)、それに適応した感情を作り出して必要な行動を促します(過去のブログ記事で触れたとおり、①の段階で情動を生成して必要な反応を促します)。人間の脳は過去の記憶を使い回すことで認知の効率化及び省力化を図っていますが、さながらパソコンがキャッシュを使って画面表示する仕組みに似ています。この点、人間の脳が認知に利用する情報は、感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量よりも人間の脳が仕立てるナラティブの情報量の方が約10倍も多いと言われており、人間の脳は前者(生の情報)よりも後者(ナラティブの情報)を重視するように設計され、人間の脳が認知する「現実」(ナラティブ)は生の情報を忠実に反映したものではない(虚実皮膜の間ファクション)と考えられています。過去のブログ記事で触れたとおり、その科学的な知見が具象絵画から抽象絵画への潮流を生み出したと言われています。ところで、L.ダ・ヴィンチ、A.アンシュタインやS.ジョブズなどの歴史上の偉大なイノベーター達はアイディアの創発だけではなくアイディアの創造にも秀でた才能を発揮した点で共通していると言われていますが、「アイディアとは既存の要素の組み合わせ以外の何ものでもない」(J.ヤング)と言われているとおり、デフォルト・モード・ネットワークの発散的な思考(直感)により過去に存在しなかった既存の要素の組み合わせを閃いて生まれたアイディア(創発)をセントラル・エグゼクティブ・ネットワークの収束的な思考(論理)により磨き上げながら実行性のある精度の高いナラティブ(創造)に仕立てることができる能力(成果を生み出せる力)こそが真のクリエイティビティーと考えられています。J.ルーカスが映画「スター・ウォーズ」の製作にあたってインスピレーションを受けた神話学者J.キャンベルの古典的名著「千の顔をもつ英雄」では古今東西の神話や民話を比較分析して一定の共通する原形とそのバリエーションに分類できることを考察したうえで、その原形は人間が持つ無意識の欲求や恐怖などの集合的無意識が象徴的に表現されたものであると結論付けています。この集合的無意識を背景として前近代(~18世紀前半)までは「神」「宗教」「封建」などの絶対的な価値観が社会のナラティブ(唯一の物語=教義)として信奉されていましたが、やがてこの社会のナラティブの矛盾又は破綻が意識されるようになると、これに代わって近代(18世紀後半~20世紀後半)には「科学」「自由」「民主」などの相対的な価値観が社会のナラティブ(大きな物語:規範性)として選択され、その後、この社会のナラティブ(大きな物語=規範性)の綻びが目立つようになって、現代(20世紀後半~)では「個性」などの相対的な価値観が個人のナラティブ(小さな物語:多様性)として確立されるようになりました。なお、日本の昔話(例えば、竹取物語など)では、冒頭はオフ・ステージの視点(三人称:客観的、過去形)からストーリーを物語り、次第にオン・ステージの視点(一人称又は二人称:主観的、現在形)に移ってナラティブとして物語るようになりますが(複式夢幻能でも同じような物語構造を持っています)、再び、結末はオフ・ステージの視点(三人称:客観的、過去形)に戻ってストーリーを物語るという構成をとるものが多いと言われていますが、過去のブログ記事で触れたとおり、日本では自分(主体)と相手(客体)との間に共同視点を持ち主観的な視点(一人称又は二人称)から「無分別」に世界を捉える特徴があり(一元論的な世界観)、これが禅(瞑想)では自然と同化した呼吸状態になること(一元論)を目指し、また、浄土真宗(念仏)では阿弥陀如来と同じ境地になること(一元論)を目指すという特徴になって現れているとおり、この母性原理(母子が肉体的に一体であるように主客の別がない世界観)の文化が諸芸万般に息衝いています。閑話休題。人間の脳がナラティブ形式でエピソードを編集し、記憶するのは、エピソードを因果関係として捉えることで可能な限り偶然に支配される状況を排除して生存可能性を高めるためであると考えられていますが、人間の脳は他者のナラティブを吸収し、咀嚼して自分のナラティブを再構築することで更に生存可能性を高めるための集合知により高度な進化を遂げました。しかし、その一方で、自分のナラティブと現実との間のギャップは大きなストレス(生存可能性を低下させる可能性がある状態)を生じて、それが脳内で反芻されると認知的不協和に陥る可能性があると言われていますが(ネガティブ・スパイラル)、現代はSNSを通じて自分のナラティブと相反する他者のナラティブに触れる機会(現実)が増加し、自分のナラティブと他者のナラティブの衝突が生まれ易くなったことで生き難さを感じる時代になっていると言われています。この点、小説の読書と社会的認知能力の間には相関関係があると言われており、例えば、小説「ハリーポッター」を読んだ子供達は社会的マイノリティーに対する寛容度が高いという調査結果が公表され、小説の読書がナラティブの柔軟性を培うために有用であると考えられています。また、過去のブログ記事で触れたとおり、S.ジョブズは瞑想を実践していたそうですが、瞑想により無我の境地に至ることで「脳のおしゃべり」(ナラティブの生成やネガティブ・スパイラル)を停止し、ナラティブの呪縛から心を解放して心を整える作用があると言われており、詠唱(オスティナート又はミニマル音楽)にも同様の効用があると考えられています。さらに、酒や薬には脳の機能を麻痺させることで「脳のおしゃべり」を停止する効用がありますが、これらを多用すると中毒症状を引き起こす危険があります。これらに加えて、人間の脳は自分の記憶(個人により偏向している知識)をベースとして仕立てられたナラティブ形式の世界観(認知パターン)をフィルターとして現実を創造していますので、例えば、日本では警察官による職務質問のあり方のような社会問題も発生しています。これらの問題を克服するために、上述のとおり人間の脳をハッキングしてナラティブの柔軟性を培うためのソーシャル・エンゲージメント・アートなどが注目されており、オペラ「デット・マン・ウォーキング」やオペラ「マルコムX」(以下に簡単な感想を掲載)などもその文脈に位置付けることができるかもしれません。その一方で、2019年にオックスフォード大学は世界約70ケ国でSNSを使って国内外の世論操作(ナラティブの書換え)が試みられているという調査結果を公表して警鐘を鳴らし、また、最近ではフィル・ターバブル(アルゴリズム)、ステルス・マーケティング(インフルエンサー)、ディープ・フェイク(生成AI)、認知戦(敵対勢力のナラティブ操作)などに関心が集まっており、さらに、カルト教団やテロリストは人間の脳が偶然に支配される状況を排除することで安心する性質があることに付け込んで尤もらしい因果関係を説いて洗脳する陰謀論ナラティブや被害者ナラティブなどが深刻な社会問題になっています。このような状況を踏まえ、世界中にどのようなナラティブが拡散されているのかを収集し、その影響を監視すると共に、(表現の自由との関係で言論統制は困難だとしても)不適切なナラティブに対抗する手段を講じるためのナラティブ・ネットワーク技術の開発が盛んになってきています。現代は自分のナラティブを生きているのか又は他者のナラティブを生かされているのか分からない時代になってきていますが、少なくとも、自分の知らないところでナラティブを操作されるのではなく、自分のアイデンティティ(人格)に基づく主体的な選択により自分のナラティブを決定する権利及び知恵は確保したいものです。夜空に輝く星々をナラティブで結んで星座を物語るように美しい人生を紡いで行きたく、そのために芸術の力を借りたいと思っています。
 
 
▼オペラ「マルコムX」(全三幕英語上演)
【題名】オペラ「マルコムX」(MET初演)
【作曲】アンソニー・デイヴィス
【台本】クリストファー・デイヴィス、トゥラニ・デイヴィス
【演出】ロバート・オハラ
【美術】クリント・レイモス
【衣装】デデ・アイテ
【照明】アレックス・ジェインチル
【振付】リッキー・トリップ
【プロダクション・デザイン】イー・ウン・ナン
【出演】<Bar>ウィル・リバーマン(マルコム役)
    <Sop>リア・ホーキンズ(ルイーズ/ベティ役)
    <Mez>レイアン・プライス=デイヴィス(エラ役)
    <Bass-Bar>マイケル・スムエル(レジナルド役)
    <Ten>ビクター・ライアン・ロバートソン
                    (エライジャ/ストリート役)
                               ほか
【指揮】カジム・アブドラ
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
【感想】ネタバレ注意!
今回のMETライブビューイングではマルコムXの自著「マルコムX自伝」を題材にした映画「マルコムX」(1992年)でマルコムXの妻ベティ・シャバズ役を演じたアメリカ人女優のアンジェラ・バセットさんがナビゲーター役を努めましたが、メトロポリタン歌劇場では「観客は共感できる意義深い現代オペラを求めて」いることから、オペラの未来を培うために2023/24年シーズンではジェイク・ヘギーのオペラ「デットマンウォーキング」、アンソニー・デイヴィスのオペラ「マルコムX」、ダニエル・カターンのオペラ「アマゾンのフローレンシア」の現代オペラ3作品を上演することになったと語っていましたが、総裁のP.ゲルブさんが率いるメトロポリタン歌劇場の並々ならぬ本気度を粋に感じると共に(現代オペラはゼロから舞台を作り上げて行かなければならないためにオフシーズンに仕込む必要がある関係からシーズン冒頭で現代オペラ3作品が連続上演されるのではないかと推測されます。)、やや時代に取り残されてしまっている感覚しかない極東の島国から指を咥えて垂涎の眼差しを注いでいます。ところで、アメリカン・アフリカンを題材にしたオペラと言えば、アメリカ人作曲家ジョージ・ガーシュウィンのオペラ「ポーギーとベス」(1935年)が有名ですが、当時のアメリカでは人種分離法(1876年~1964年)に象徴される深刻な人種差別が社会に蔓延していましたので(映画「グリーンブック」の時代)、オペラに黒人歌手が起用されることはありませんでした。しかし、1954年にアメリカ最高裁が人種分離は憲法違反であるという画期的な判断を示すと、メトロポリタン歌劇場では1955年に初めてヴェルディーのオペラ「仮面舞踏会」で黒人歌手を起用しました。その後、1963年に公民権法の制定に尽力していたJ.ケネディー大統領が暗殺されましたが、1964年に人種分離法が廃止されて公民権法が制定されました(映画「ミシシッピー・バーニング」の時代)。しかし、公民権法の制定後も人種差別は解消されず、1965年にマルコムX(当初は白人差別や暴力主義など過激な黒人解放運動で黒人と白人を「分離」すること(黒人分離主義)により黒人の人権確立を提唱していましたが、聖地メッカを巡礼した経験などから人種を越えた平等思想に転向)が暗殺され、また、1968年にキング牧師(非暴力主義の公民権運動で黒人と白人を「統合」することにより黒人の人権確立を提唱)が暗殺されたことで、人種差別の根本的な解決が困難になりました。時代は下って、2020年5月に白人警察官が黒人を射殺するマイケル・ブラウン射殺事件が勃発したことを契機として全米にBLM運動が広がり、メトロポリタン歌劇場でも2020年6月に人種差別に反対する声明を発表したのは記憶に新しいところです。このような経緯を経て、2021/22年シーズンにメトロポリタン歌劇場で初めて黒人作曲家テレンス・ブランチャーさんのオペラ「Fire Shut Up in My Bones」が上演されたことを皮切りに、2022/23年シーズンに同じく黒人作曲家テレンス・ブランチャードさんのオペラ「チャンピオン」が上演され(以下の囲み記事で紹介していますが、第66回グラミー賞オペラ部門を受賞しました)、そして、2023/24年シーズンにはアフリカン・アメリカンやアメリカン・インディアンを題材にしたオペラの作曲に注力し、2020年にピューリッツア賞を受賞した白人作曲家兼ジャズピアニストのアンソニー・デイヴィスさんのオペラ「マルコムX」(1985年に初演されていますので、上記の映画「マルコムX」よりも先に作品化されていたオペラ)が上演され、オペラ「マルコムX」にも出演しているバリトンのウィル・リバーマンさんやソプラノのリア・ホーキンズさんなど卓抜した歌唱力を誇るスター級の黒人歌手が人気を博するようになっています。なお、アメリカの人種差別問題とパレスチナ紛争を一諸くたにすることはできませんが、当時の黒人が置かれていた不遇と現在の(テロリズムに関与していない一般の)パレスチナ人が置かれている不遇が重なって心に迫るものがありました。表面上は異なる事象に見えても、その根底にある人間の心理には共通するものがあるかもしれません。METライブビューイングの公開期間が終了するまで感想を控えていましたが、記憶に残っている範囲で簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
 
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このオペラはアポロシアターの伝統やアフロフューチャリズムの思想を採り入れた舞台になっており、宇宙船のモチーフ(記録映像など時代状況を映すモニターとしても兼用)が舞台セットに設えられ、また、アフリカや宇宙を想起させる奇抜なデザインの衣装が目を惹きましたが、人種差別に抵抗する黒人解放運動のスローガン(バック・トゥ・アフリカ:母国アフリカへ帰ろう)に登場する大型船ブラック・スター・ラインをアフロフューチャリズムの思想でフィルタリングして宇宙船に見立てたものと思われます。この点、最近でもガーナ政府がBLM運動を契機として人種差別に苦しむアメリカン・アフリカンに帰還を呼び掛けていましたが、その意味で、このオペラは黒人解放運動の歴史と共に現代の時代性を反映するタイムリーな問題を取り扱っているように感じられます。このオペラではジャズドラマーのジェフ・テイン・ワッツさんやジャズトランペットのアミール・エルサファーさんなどの一流のジャズプレーヤーがメトロポリタン管弦楽団に加わって、ジャズシンガーのビリー・ホリデーと親交がありジャズに傾倒していたことでも知られるマルコムXの時代に隆盛を極めたスウィング、ビバップ、フリージャズなどの即興演奏を採り入れたジャズテイストの音楽が展開されており、もはやオペラ、ミュージカル、現代音楽やジャズなどのジャンルの垣根が意味を持たない時代であることを強く印象付けられました。このオペラはマルコムXの生涯を全三幕(13場)で描いており、1931年から1946年までの大恐慌時代に人種差別や貧困に苦しだ少年期を描く第一幕(3場)、1946年から1963年までのイスラム教団(NOI:ネーション・オブ・イスラム)に入団して黒人解放運動に邁進した青年期を描く第二幕(5場)、1963年から1965年までのイスラム教団を脱退して聖地メッカを巡礼した経験などから考え方を変えた晩年期を描く第三幕(5場)から構成されていますが、過去に実在した人物なので劇的な効果を狙うよりも史実を歪曲しないように十分に配慮した禁欲的な舞台作りになっており、アリア(音楽)よりもレチタティーヴォ風の詠唱(言葉)を主体として物語を進行する楽劇のようなスタイルがとられている印象を受けました。冒頭の序曲では、フリージャズとポストミニマル音楽が融合されたような音楽が奏でられるなか、この宇宙船から白装束の宇宙人(ダンサー)が登場して少年期のマルコムXを取り巻きながら踊りましたが、大型船ブラック・スター・ラインが白人と黒人を「分離」していた当時のアメリカから当時のアフリカ(シオン=約束の地)へ黒人を運ぶための船(空間軸)であるとすれば、さながらこの宇宙船は白人と黒人が「統合」した現代のアメリカから人種差別の意識がない未来のアメリカへ黒人を運ぶための船(時間軸)であることを印象付ける演出に感じられ、単にSF的な要素を演出に採り入れたものというよりも現代的なメッセー性が込められた舞台になっているように感じられました。これに続く第一幕では、1931年(マルコムX6歳)、バイクによる黒人狩り、KKK(白人至上主義)による黒人襲撃、黒人をターゲットにした冤罪事件などが日常的に頻発し、ミシガン州で黒人解放運動に尽力していた父アール・リトルも轢死(不審死)しましたが、火の照明と銃声の効果音のなか、黒人社会を覆う恐怖や絶望を陰鬱とした重圧感のある合唱で歌うシーンが印象的でした。1941年、マルコムXは、母ルイーズが父リトルの死を契機として精神を病んだことからボストン州の異母姉エラに引き取られ、ストリートギャングに囲まれた少年期を過ごしましたが、サックス、ベース、ドラムなどから構成されるジャズバンドが当時流行していたスウィングジャズを即興演奏し、それに合わせて都会風に洗練された衣装の黒人達(ダンサー)がスウィングダンスを披露しました。このオペラではミュージカルのように歌手が歌と踊りを兼任するのではなく、あくまでもオペラとして歌手とダンサーは分けられていましたが、そこに添えられている音楽はジャズテイストの現代音楽ではなくジャズそのものであり、ジャズの伴奏に乗せて歌われるアリア(クルーナーやスキャットなどではなくベルカントのスタイル)を聴くのは初めての体験だったので非常に新鮮で感じられました。その後、ビバップのご機嫌な演奏に乗せて、博打やドラックなどに溺れながら奔放に暮らす黒人の生き様や黒人と一緒になってリンディーホップを踊る白人の姿など、黒人文化が華開いてアメリカ社会に浸透していた様子が描かれており、この時代の空気感が音楽とダンスで生き生きと表現されていました。その一方で、警察官は治安維持の名目で罪のない黒人を連行する様子が描かれており(上述のとおり、日本でも警察官による職務質問のあり方が問題になっています)、人種分離法がアメリカ社会に暗い影を落としていた時代状況が鋭角なリズムの音楽と共に緊迫感を持って表現され、当時(又はBLM運動などに見られる現代)のアメリカ社会の明暗の対比が印象的に表現されていました。1946年、マルコムXは警察官に逮捕されて収監れますが、その不安と恐怖が支配する心理的な動揺を音楽で描写するなか、マルコムX役のバリトン歌手W.リバーマンさんが黒人が報われないアメリカ社会を憾み、それが白人に対する憎悪として増大していく様子を歌う雄弁な情感表出が見事でした。インターミッションを挟んで第二幕では、黒人囚達が刑務所の中で不協和音に彩られた哀愁の満ちた嘆きの合唱を歌う場面が印象的で、この時代の黒人社会を覆う空気感が伝わってくるようでした。マルコムXは刑務所に面会に訪れた実弟からNOIへの入団を勧められ、1953年に刑務所を仮出所してからNOIの教祖エライジャ・ムハマドと対面する場面ではイスラム教の神アッラーを讃えるアリアと合唱が圧巻でした。この点、9.11以降はアメリカ社会にイスラム教信者やアラブ民族に対する反発が強まっていると聞いていましたが、このようなアリアと合唱がニューヨークの中心地にあるメトロポリタン歌劇場で歌われていることに驚きを禁じ得ず、現代のアメリカ社会の懐の広さを感じさせましたが、今回の公演では終演後にブーイングされているお客さんもいましたので一部のアメリカ人にはセンセーショナルな舞台と受け取られていたのかもしれません。因みに、1986年にニューヨーク・シティー・オペラで初演された際には冷静に受け止められていたようです。SNSの普及によりお互いの考え方の違いが明確になることで新しい対立を生む原因になっていますが(コミュニケーションをとれば問題が解決すると考えるのは短絡的)、その一方で、民族、宗教や文化などを超えて人々の考え方に触れられるようになったことでお互いの考え方の違いが本質的なものではないことも実感できるようになっている時代を反映しているのかもしれません。その後、アフリカの民族衣装とアフロフューチャリズムの思想に彩られた奇抜なデザインの衣装を着た黒人がジャズの演奏に乗せて(ジャズダンスの源流である)アフリカンダンスを踊る場面が見せ場になっており、アフリカン・アメリカンのアイデンティティのようなものが強く感じられました。文献上、人類最古のダンスは約8千年前の古代エジプトのベリーダンスと言われていますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、約20万年前にアフリカ南部(ボツワナ)に住んでいた女性がミトコンドリア・イヴと考えられていますので、文献には残されていませんがアフリカンダンスに人類最古のダンスの源流があると言えるかもしれません。マルコムXはNOIに入団してマルコム・リトルからマルコムXに名前を改め(マルコムXの先祖が黒人奴隷としてアメリカへ強制連行される際にアメリカ人にも発音し易いリトルに姓を改められ、アフリカでの姓が分からなくなったことから「リトル」を「X」に変更)、そのスポークスマンとして黒人解放運動に邁進します。マルコムXは、約2千万人のアフリカン・アメリカンは1つの国の中に捕らえられたもう1つの国であり自由と平等を勝ち取ると演説してますが、この2つの国が統合されずに分離している状況を象徴するように不協和な音楽が奏でられるなか、オペラ・カーテンには「X」の文字が大きく映し出され、マルコムXが「X」という十字架を背負って生きて行かなければならない運命にあったことを印象付ける演出になっていました。1963年、公民権法の制定に向けて尽力していたケネディー大統領が暗殺されると、マルコムXは黒人の白人に対する憎悪が生んだ事件であると過激な声明を公表したことで(マルコムXは黒人と白人を分離する黒人解放運動を展開しており、ケネディー大統領やキング牧師が目指していた黒人と白人を統合する公民権運動には批判的な立場)、NOIの関与を疑われ兼ねないことを懸念した教祖エライジャ・ムハマドとの間で確執が生じ、マルコムXはNOIを脱退しました。インターミッションに続く第三幕では、1963年、教祖エライジャ・ムハマドがマルコムXは黒人に対する裏切り者であると訴えると、これを信者達が復唱しながら教化されていく様子が緊迫感のあるミニマル音楽と共に印象的に描かれていました。妻ベティ・シャバズ役のソプラノ歌手L.ホーキンズさんがNOIによるマルコムXの暗殺を恐れて聖地メッカへの巡礼を勧めるアリアでは豊かな質感のある美声で感情の襞を肌理細かく歌い上げる繊細な歌唱力に魅了されました。1964年、マルコムXは聖地メッカを巡礼しますが、ラマダンランプが吊り下げれる幻想的な舞台セットが設えられ、トランペットがアラビア音階を奏でるなか、イスラム教の神アッラーに祈りを捧げる厳粛な合唱が歌われました。マルコムXは白人、黒人やその他の有色人種が分け隔てなく平等に祈りを捧げる姿に感銘を受けてイスラム教スンニ派に改宗して、マルコムXからエル・ハジ・マリク・エル=シャバーズに改名しました。1964年、マルコムXはニューヨークでアフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)を設立し、奴隷制は奴隷ではなく反抗者を作るだけだと訴えかけるように歌いましたが、これは不当な人権侵害に苦しむ人々が後を絶たない現代へのメッセージが込められているのかもしれません。1965年、序曲の音楽が再現され、白装束のダンサーと少年期のマルコムXが取り巻くなか、マルコムXは演説の最中に凶弾に倒れて閉幕となりました。上述のとおり唄い物(音楽)というよりは語り物(言葉)に近い性格のオペラなので音楽的な好みは分かれるかもしれませんが、BLM問題やパレスチナ問題などのタイムリーな問題があるなかで色々なことを考えさせるソーシャルエンゲージメントな作品でした。
 
 
▼オペラ「アマゾンのフロレンシア」(全二幕スペイン語上演)
【題名】オペラ「アマゾンのフロレンシア」(MET初演)
【作曲】ダニエル・カターン
【台本】マルセラ・フエンテス=ベレン
【演出】メアリー・ジマーマン
【美術】リッカルド・エルナンデス
【衣装】アナ・クーズマニッチ
【照明】T.J.ガーケンズ
【プロダクション・デザイン】S.ケイティ・タッカー
【振付】アレックス・サンチェス
【出演】<Sop>アイリーン・ベレス(フロレンシア・グリマルティ役)
    <Bass-Bar>グリア・グリムスリー(船長役)
    <Bar>アッティア・オリヴィエリ(リオロボ役)
    <Sop>ガブリエラ・レイエス(ロサルバ役)
    <Ten>マリオ・チャン(アルカディオ役)
    <Mez>ナンシー・ファビオラ・エレーラ(パウル役)
    <Bar>マイケル・チルディ(アルバロ役)  ほか
【指揮】ヤニック・ネゼ=セガン
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
【感想】ネタバレ注意!
METライブビューイングの現代オペラ第3作目を聴きに行く予定にしています。視聴後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、ライブ映画の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
先日、METライブビューイングでメキシコ人作曲家ダニエル・カターンさんのオペラ「アマゾンのフロレンシア」(1996年)を観てきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。メトロポリタン歌劇場でメキシコ人作曲家のオペラが上演されるのは初めてのことであり、また、スペイン語のオペラが上演されるのは1926年にM.ファリャのオペラ「はかなき人生」が上演されてから実に約100年振りだそうです。このオペラの台本を執筆したメキシコ人作家マルセラ・フエンテス=ベレンさんは、1982年にノーベル文学賞を受賞したコロンビア人作家ガルシア・マルケスさんの薫陶を受けましたが、G.マルケスさんのマジック・リアリズム(非現実なことを現実的なことのように描く表現手法で、2018年に芥川賞を受賞した小説「百年沼」もG.マルケスさんの影響を受けてマジック・リアリズムを採り入れた作品として話題になりました)に彩られた小説「百年の孤独」や小説「コレラの時代の愛」などにインスパイアーされ(最近、この小説へのオマージュとして小説「コロナの時代の愛」が出版されました)、このオペラの台本を執筆したそうです。フロレンシア役のソプラノ歌手A.ペンスさんはメキシコ系移民、ロサルバ役のソプラノ歌手G.レイエスさんはニカラグア系移民、アルカディオ役のテノール歌手M.チャンさんはグアテマラ系移民、しかも今回のMETライブビューイングのナビゲーターを務めたテノール歌手R.ヴィリャソンさんはメキシコ系移民の血を引いていることも考え合わせると、この公演はラテンアメリカ・オペラの華々しい世界デビューと言えるかもしれません(近い将来、ジャパン・オペラの世界デビューにも期待したいですぅ💖)。
 
コレラの時代の愛 (字幕版)

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  • ハビエル・バルデム
Amazon
 
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このオペラは、アマゾンの熱帯雨林の奥地マナウスにあるアマゾナス歌劇場で伝説的な歌姫フロレンシア・グリマディの歌を聴くために蒸気船エルドラド号に乗って旅する乗船者達の人間模様を描いた物語ですが(日本人にもアマゾン川クルーズ旅行は人気があります)、この物語にはアマゾン川流域に生息する色とりどりの生物(動植物)が登場すると共に、天災や疫病に乗船者達の運命が翻弄される様子が描かれており、さながらアマゾンの熱帯雨林の中では人間は他の生物と同じく大河(大自然)に浮かぶ小船のようなものであることを強く印象付けられました。過去のブログ記事でも触れたように人間中心主義的な考え方を背景とする近代合理主義(デカルトの機械論的自然観、ラモーの機能和声などを含む)の行き詰まりが認識されるようになり、また、過去のブログ記事でも触れたように自然尊重主義的な考え方を背景として人間界と自然界の対称性の回復が急務であるという問題意識が芽生えたことなどにより、人間と自然を非連続的に捉える二元論的な世界観ではなく人間と自然を連続的に捉える一元論的な世界観が見直されていますが、この舞台は人間と自然を連続的に捉える一元論的な世界観を強く意識させるものになっていました。第一幕では、アマゾン川の流れ(人生のメタファー)を描写するようにマリンバ、ハープ、木管、弦楽が次々と波の音型を奏でるなかを乗船客達(合唱)がアマゾンの眩い陽光のように華やかに歌い、人間の姿に化体したアマゾン川の精霊のリオロボ、蒸気船エルドラド号の船長、伝説的な歌姫フロレンシアを調査している研究者のロサルバ、倦怠期にある老夫婦のアルバロとパウル、幻のエメラルド・バタフライを追ってアマゾンで行方不明になった恋人のクリストパルトを探して旅する伝説的な歌姫フロレンシが、それぞれのキャラクター設定を歌いながら乗船しました。D.カターンさんは新ロマン主義の作曲家で、オペラ歌手の見せ場であるアリアや重唱をふんだんに盛り込んだ伝統的なオペラのスタイルを踏襲し、分厚いハーモニーで登場人物の「情緒」(古い脳をハッキング)を彩るなかをメロディアスな旋律に乗せて登場人物の「感情」(新しい脳をハッキング)を叙情的に歌わせながら、緻密な描写表現や色彩豊かなオーケストレーションなどと共に物語をドラマチックにドライブしていく古式ゆかしい作風のオペラという印象を受けました。まるでプッチーニのオペラを彷彿とさせる曲調は親しみ易さを感じさせましたが、その一方で、どうしても調性音楽は既聴感(予定調和)がつき纏うことから、やや「差分」の不足が感じられたことも正直に告白しなければなりません。それでも自然へのオマージュを感じさせる色彩豊かな舞台(セット+衣装)は文字とおり出色のものでしたし、久しぶりにロマンチックで美しいオペラを堪能することができました。アマゾンの熱帯雨林を表現した深緑の壁(アマゾンの川幅が蛇行しながら変化する様子を表現するために可動式)とアマゾンの川面を表現した海碧の床を基調として、物語の展開に合わせて青色のキジ(ダンサー)、赤色のピラニア(ダンサー)、赤色の猿(マリオネット)、緑色のカメレオン(マリオネット)、緑色のワニ(マリオネット)、黄色の草(セット)、ピンクの花(ダンサー)などが登場する極彩色の舞台が目を惹きましたが、アマゾン川にはピンク色のイルカ(学名:Platanista spp.で登録されている絶滅危惧種)が生息しているなど前回のブログ記事でも触れた生物多様性を育む生みの母であることを強く感じさる舞台でした。リオロボは、伝説的な歌姫フロレンシアの美声を讃えてまるでアマゾン川のアマゾネスであると歌いますが、アマゾンという地名はインカ帝国を征服したスペイン帝国がインカ帝国には勇敢な女戦士が多かったことからギリシャ神話に登場する女戦士アマゾネス(ハーモニーを司る女神ハルモニアーの子孫)に準えて命名したもので、女戦士アマゾネスは弓矢を番うときに邪魔になる右の乳房を切り落としていたこと(「a」(否定)+「mazos」(乳)=乳無し)に由来すると言われています。最近の発掘調査では紀元前の女戦士のものと思われる武装具と一緒に埋葬されている若い女性の遺骨が多数発見されており、ギリシャ神話に登場する女戦士アマゾネスは実在していたと考えられています。蒸気船エルドラド号(床に甲板の手すりだけを置いた簡素なセット)がマナウスに向けて出航すると、歌姫フロレンシアが恋人クリストパルトとの出会いを反芻するアリアが歌われましたが、ソプラノ歌手A.ベレスさんの繊細なニュアンスに富む美声による憧憬感を讃えたアリアが聴きどころになっていました。これに続く、蒸気船エルドラド号の船長とその甥アルカディオの二重唱では、パイロットになる夢を諦めきれていない甥のアルカディオが叔父の船長に人生の航行が侭ならないと歌いますが、蒸気船エルドラド号の操船で頭がいっぱいの船長にはその真意が伝わらない典型的な(叔)父子関係が描かれていました。これに続く、若いカップルの二重唱では、パイロットになる夢を捨てきれないアルカディオと作家になる夢を捨てきれないロサルバがお互いの夢を語り合って意気投合する様子が歌われました。黒子が操るアマゾン川の川面から顔を覗かせるマリオネットのワニは、さながら夢(獲物)を求めて彷徨う若いカップルを象徴しているようでした。これに続く、老夫婦の二重唱では、アルバロとパウルが相手の欠点ばかりが鼻に付いてお互いを許せなくなっていることを吐露し、倦怠期の老夫婦の縮図とも言える人生の行詰りが歌われました。黒子が操るシャンパンを奪うマリオネットの赤い猿は、さながら面の皮(悪知恵)ばかりが厚くなり何かを求めてばかりの老夫婦を象徴しているようで、若いカップルが抱く人生の希望と老夫婦が抱える人生への諦嘆が印象的に対比されていました。人生色々ですが、色とりどりの動物達のダンスを挟んだ後に、船長は歌姫フロレンシアに恋人クリストパルトが消息を絶った経緯を話し、それを聞いた歌姫フロレンシアは絶望して気を失いましたが、船長役のバスバリトン歌手G.グリムスリーさんが歌姫フロレンシアの悲運を嘆く重厚で迫真に満ちるアリアがその悲劇性を一層と深いものにしていました。やがて蒸気船エルドラド号は嵐に遭遇しましたが、青い衣装のダンサーが高波を模倣し、黒子が蒸気船エルドラド号の甲板の手すりを大きく揺さぶることで、小船(人生)が高波(運命)に翻弄されていく様子がダイナミックに表現されるなか、船長、歌姫フロレンシア、ロサルバ、老夫婦の緊迫感が漲る五重唱と低弦の凄みを効かせたオーケストラ伴奏が圧巻でした。毎度のことではありますが、冒頭からY.ネゼ=セガンさんの手際良い手綱裁きとこれに適確に答えるメトロポリタン管弦楽団がハーモニーを芳醇に響かせながらメリハリを効かせた色彩豊かな演奏で物語をドラマチックに展開し、音そのものにドラマ性が感じられる劇場付オーケストラの真骨頂とも言える好演に唸らされました。アマゾン川の精霊であるリオロボが呪術的な祈りを捧げて嵐を鎮めましたが、蒸気船エルドラド号はエンジンが故障して漂流し、アルバロは船外に投げ出されて行方不明になりました。第二幕では、嵐を生き延びた歌姫フロレンシアが恋人クリストバルへの愛を募らせるアリアを歌いましたが、若いカップルはイガミ合う人生は送りたくないと結婚にはネガティブな考え方を持っていることを吐露し、現代の若者の縮図も言える心境が歌われました。その一方で、パウルはアルバロを失った後悔と共に自分でも気付かなかったアルバロへの変わらぬ愛を歌います。再び、蒸気船アルドラド号はマナウスへ向けて出航しますが、アルバロが奇跡的に生還してパウルと再会を果たし、長年の蟠りが溶けてお互いの愛を確かめ合いますが、この強引な舞台展開はオペラ的(音楽>物語)なものであり、リアリティーに徹する映画に慣れ親しんでいる世代(物語>音楽)にとっては違和感(チープな印象を与えるもの)を禁じ得なくなっていることは仕方がありません。ロサルバは自由な人生に憧れて愛に躊躇していましたが(前回のブログ記事でも触れた人口減少の原因の1つ)、歌姫フロレンシアは愛こそが人生の夢を叶えてくれるものであることを歌うと、ロサルバはアルカディオの愛を受け入れることを決意して結ばれ、お互いに助け合いながら夢を目指すと高らかに歌い上げました。やがて蒸気船エルドラド号はマナウスに到着しましたが、マナウスはコレラが流行していたことから下船を禁じられ(2020年2月に横浜に寄港した大型クルーズ客船とは逆のパターン)、歌姫フローレンシアは恋人クリストバルへの愛を歌いながら蝶に変身し(即ち、その美声に蝶の翼が生えて、その心音が)恋人クリストバルのもとへ飛び立つという幻想的なエンディングで終演になりました。非常に美しくドラマチックなオペラでしたが、強いて難点を挙げるとすれば、甘美でドラマチックなアリアや二重唱が連続して叙情に傾き過ぎたことで、却ってカタルシスが薄くなってしまう憾みがありました。また、歌姫フロレンシアだけではなく他の6人の登場人物も主役級の扱いがされている関係で舞台展開が忙しなくなっていた印象を否めなかったので、演劇的な側面を重視したオペラとして鑑賞するよりも音楽的な側面を重視した歌曲(コンサート形式)として鑑賞する方が、この曲の魅力が感得し易いのではないかとも感じられました。様々な困難はあると思いますが、オペラの未来を培うために世界中から現代オペラの名作を探し出して積極的に採り上げるメトロポリタン歌劇場の取組みから目を離せませんし、来シーズンにも大いに期待したいと思っています。このようなメトロポリタン歌劇場の取組みが奏功し、昨シーズンのチケット売上げは約5%も上昇すると共に、聴衆の平均年齢は6歳も若返り、約90%が個人からのものである寄付金の額なども約30%も上昇するなど、P.ゲルブさんを筆頭にしたメトロポリタン歌劇場の工夫と情熱が沢山のオペラファンの共感を生んで困難な道を切り拓いている姿に大いに勇気付けられます。
 
 
▼オペラ「ニングル」(全二幕日本語上演)
【題名】オペラ「ニングル」(世界初演)
【原作】小説「ニングル」(倉本聰著)
【作曲】渡辺俊幸
【台本】吉田雄生
【演出】岩田達宗、三浦奈綾(演出助手)
【美術】松生紘子
【衣装】下斗米大輔
【照明】大島祐夫
【振付】古賀豊
【監督】郡愛子(総監督)、伊藤潤(舞台監督)
【出演】<Ten>海道弘昭(夫、丸太才三役)
    <Sop>別府美沙子(妻、丸太ミクリ役)
    <Bass>久保田真澄(かつら、勇太、ミクリの父、米倉民吉役)
    <Bar>須藤慎吾(夫、米倉勇太役)
    <Mez>丸尾有香(妻、米倉かや役)
    <Sop>佐藤美枝子(スカンポの母 米倉かつら役)
    <Sop>中桐かなえ(かつらの娘 米倉スカンポ役)
    <Bass>杉尾真吾(かやの弟、坂本米介役)
    <Bar>江原啓之(ニングルの長役)
    <Ten>黄木透(村人、信次役)
    <Sop>佐藤恵利(村人、信子役)
    <Ten>脇坂和(村人、田中役)
    <Ten>嶋田言一(医者、堺役)
    <Bar>馬場大輝(井戸屋、湊役)
    <Bar>飯塚学(井戸屋の子分、藤倉役)  
    <Danc>木原凡、田川ちか、友部康志、西田知代 ほか
【指揮】田中祐子(副指揮:諸遊耕史、鏑木蓉馬)
【演奏】東京フィルハーモニー交響楽団
【合唱】日本オペラ協会合唱団(合唱指揮:河原哲也)
【日時】2024年2月10日(土)14:00~
【会場】めぐろパーシモンホール
【感想】ネタバレ注意!
作家・倉本聰さんの小説「ニングル」を現代作曲家・渡辺俊幸さんがオペラ化したので聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、(現代オペラの公演に珍しく既にチケットは3公演とも完売しているようですが)公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日はオペラ「ニングル」(作曲家・渡辺俊幸/藤原歌劇団)のワールドプレミアを鑑賞してきましたが、満席の会場でスタンディング・オベーションになる大成功でした。渡辺さんのオペラ作品は哲学者の鈴木大拙さんと哲学者の西田幾多郎さんの友情を描いたオペラ「禅~ZEN~」(2022年)に続く2作目ですが、とりわけオペラ「ニングル」は現代の時代性を色濃く反映した現代人にも共感できる充実した内容を備えており、日本での再演と共に世界の歌劇場での上演(世界デビュー)を期待したいです。このオペラの原作になっている小説「ニングル」は、1984年に作家・倉本聰さんが北海道富良野市に作家及び俳優の養成所「富良野塾」を開設し(現在は同塾の卒業生達が「富良野GROUP」として活動)、自然と共生しながら生活するために使っていた湧き水が森林伐採を原因として枯渇したことを契機に、人間が生きて行くうえで欠かせない森と真剣に向き合うようになり、1985年にアイヌ・ユーカラ(民話)に登場する森の小さな住人「ニングル」(妖精ではなく小人)に仮託して森林伐採に警鐘を鳴らすための作品を発表し、1994年に富良野塾3作目の舞台「ニングル」として初演されたものです。倉本さんが「金がなければ暮らしていけない。だが、森がなければ生きていけない。」と語っていますが、G7環境相会合で石炭火力全廃に消極的な姿勢を示した日本の立場と重なって、この言葉が我々に突き付ける意味を色々と考えさせられました。さて、オペラ「ニングル」は前二幕(24場)で構成されていますが、大まかに筋書きを追いながら簡単に感想を残しておきたいと思います。第一幕では、照明が落とされた暗闇の中でウィンドマシンによる風切り音だけが聴こえてくる寂寥とした音景(サウンドスケープ)が富良野の大自然へと観客を誘い、このオペラの重要なテーマでもある「自然の声を聴く」という意識の覚醒が人間の思考に大きく影響を与えるもの(人間中心主義から自然尊重主義への発想の転換を促すもの)であることを強く印象付けられる演出になっていました。これに続いて暗闇に灯る淡い照明の内(アイヌコタンの囲炉裏?)で米倉民吉(祖父)と米倉スカンポ(孫)が故・米倉かつら(スカポンの母)の思い出やアイヌ・ユーカラを物語るシーンでは、ハープ、フルート、ブロッケンが奏でる素朴で叙情的な音楽が牧歌的な風情を湛え、自然と共生する慎ましやかな人間の営みが描き出されていましたが(知里幸恵さんのアイヌ神謡集の序文を彷彿とさせる場面)、自然との共生(慈愛)と文明的な発展(狂気)の相剋(対比)が物語を劇的に展開していきました。20世紀(モダニズム)の人間界と自然界を非連続的なものと捉える二元論的な世界観を背景にして人間界が自然界を侵食(ニッチの拡大と独占)してきた時代から、21世紀(ポストモダン)の人間界と自然界を連続的なものと捉える一元論的な世界観を背景にして人間界と自然界の対称性の回復を志向する時代へと移り変ろうとしていますが、この冒頭シーンでは20世紀(モダニズム)に切り捨てられてきた価値観を取り戻し、それを現代と調和させる必要性を感じさせる現代から未来へ向けてのメッセージが込められているように感じられました。米倉勇太と坂本かやの結婚式のシーンでは土俗民謡を連想させる快活な音楽によるミュージカル風の華々しい合唱及びダンスが圧巻で、その後、米倉勇太、丸太才三及び米倉スカンポが森の中を散策しながら農地開拓のための森林伐採に対する違和感を語り合いますが、絞太鼓(小説では木太鼓)の調べに乗せて顕れたニングルが「森を伐るな。伐ったら村は滅びる。」と警告するシーンでは、ニングルが森の声であることを象徴するようにマリンバとハープによる叙情的な音楽が奏でられました。マリンバには主に中南米産のローズウッド(樹齢200年~400年)が使用されていると聞いたことがありますが、(森の声を連想させる音楽的な効果に加えて)どのように自然との共生と文明的な発展との折り合いを付けて行くことができるのかという現実的な問題も意識させる効果があったように感じられました。なお、このオペラ全編を通してハープの豊かな音色を活かした叙情的なピース(ハープと歌、マリンバ、オーボエやフルートなどとの多彩なアンサンブル)が聴きどころになっていたと思います。このシーンの舞台セットになっていたロープ(枝)に紐(葉)を吊るしてライトアップ(時間や季節により森が見せる緑色、青色、白色などの彩りはまるで藤棚のような鮮やかさ)した樹木のモチーフは富良野の大自然が生む神秘的な美しさを湛えるもので息を呑みましたが、この樹木のモチーフを日本建築の丸窓障子を覗う丸く切り取られた借景として設え、この丸窓障子を境界にして舞台奥に広がるニングルが住む自然界(又は彼岸)と舞台手前に広がる人間界(又は此岸)を対置し、その境界を挟んで展開されるハイブリッドな舞台演出が面白く感じられました。やがてバンダのコーラスの清澄で幻想的な響きに誘われるようにニングルの長が登場して切迫感のある音楽と共に「森を伐るな。伐ったら村は滅びる。」と警告しますが、上述のオペラ「アマゾンのフロレンシア」でも触れたとおりアマゾンをはじめとする世界各地の森林伐採とこれが一因と考えられている気候変動が深刻な環境問題を引き起こしている状況と相俟ってニングルの長の言葉が迫真を持って心に響きました。2025年の大阪関西万博では「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマにしていますが、個人的には、木造リングなどの建造物は環境破壊の象徴のような印象しか受けないのでどのような未来社会をデザインしているのか計り兼ねます。その後、米倉民吉と米倉スカンポの前に顕れた故・米倉かつらの御霊が森を再生させることの重要性を説く慈愛に満ちたアリアが聴きどころになっていました。農地開拓を推進したい米倉勇太(米倉は経済の豊かさを比喩する名字)と対立して孤立感を深めた丸太才三(丸太は自然の豊かさを比喩する名字)は森林伐採に反対する意見を新聞に投書したことで農地開拓を推進したい村人達との間で衝突しますが、村人達による力強い男性合唱が纏う狂気(父子が肉体的に一体ではなく主客の別がある父性原理:自然の支配)と、米倉かつらの御霊による包容力のあるアリアが纏う慈愛(母子が肉体的に一体であり主客の別がない母性原理:自然との調和)が印象的に対比されていました。この騒動のなか、米倉勇太が「森がなければ生きていけない」ことを頭で理解しながらも「金がなければ生きていけない」という現実との狭間で悩む姿には現代人が陥っているジレンマが描かれており、観客も身につまされる共感を生むピースになっていました。その後、ドラムロールの激しい音と大太鼓の打撃音で森が伐採される様子が暴力的に描写され、森やそこに棲む生き物が傷付けられて行く様子が真っ赤な照明で表現されていましたが、森林が培ってきた貯水能力が破壊されたことで村を自然災害が襲うようになり、緊迫感のあるリズムや激しい上下運動を伴う音楽で豪雨による鉄砲水が田畑を壊滅する様子を描写し、また、井戸水が枯れて渇水に苦しむ村人の様子などが描かれ、丸太才三はニングルの警告が正しかったことを悟ります。しかし、丸太才三は、丸太ミクリや米倉勇太から生活のために森林を伐採するように懇願されて断り切れず、自ら伐採した樹木の下敷きになって死んでしまいます。丸太才三の葬式のシーンでは自責の念に駆られて後悔する丸太ミクリのアリアが涙を誘うもので、僕の周囲の席からすすり泣きの声が漏れていました。その後、米倉勇太は、丸太才三がニングルから教えて貰った場所から井戸水が湧き出したことで、ニングルの警告を無視して丸太才三を裏切ったこと(勇太=ユタ=ユダ?)を深く後悔しますが、米倉勇太の前にニングルの長(カムイ)が顕れて「森の声を聴け」と熱唱するなか、オーケストラと合唱が力強いユニゾンにより自然と人間が主客の別なく一体になって調和(ハーモニー)する姿を音楽的に表現し、このオペラ一番の聴かせどころと言える感動的なピースになっていました。この辺までくると僕の周囲の席からはすすり泣きの声が止まらなくなり、米倉民吉の犠死と米倉スカンポの奇蹟、米倉勇太と米倉かやの間に授かった森の再生を担う赤ちゃんの誕生などの感動的なピースを経て、再び、ウィンドマシンの風切り音が聞こえてくる静かな終演を迎えました。銀のしずく降る降るまわりに、金のしずく降る降るまわりに....知里幸恵さんがアイヌ神謡集に掲載している一節ですが、銀のしずくが舞台に舞う演出は感動的でした。現在、映画「アイヌのうた」が公開されていますので、このオペラの感動を深くする意味でも必見です。客席では盛大な声援が飛び交うスタンディング・オベーションになりましたが、メトロポリタン歌劇場総裁P.ゲルブさんが仰るとおり「観客は共感できる意義深い現代オペラを求めて」いるということを実感しました。渡辺さんの音楽は抜群の音楽的なセンスを感じさせる着想豊かなもので「旋律の泉」という愛称はヴェルディーの専売特許ではないことを印象付けられましたが、豊潤なハーモニーと絢爛たるオーケストレーションによる色彩豊かな音楽に魅了されました。ライブを一聴しただけでは音楽の細部まで聴き取ることは難しく、再演や音盤を繰り返して聴くことで新たな発見などがあり更に感動を深くすることができるかもしれません。この公演は指揮者・田中祐子さんの第29回五島記念文化賞オペラ新人賞受賞に伴う研修成果発表も兼ねていましたが、東京フィルハーモニー交響楽団との相性がよく歌、音楽、演出をバランスよく調和して一体感のある舞台を作り出し、伴奏に徹して歌を引き立てるところ、前面に出てオーケストラを歌わせるところ、ドラマチックに曲調を展開させるところなどの切り替えも洗練されていて舞台に淀みないテンポと求心力を生みんでいたと思います。また、田中さんは「間」の使い方が絶妙に上手く、それが劇的な効果を生んでいたと思います。指揮者・小澤征爾さんの訃報に接して気分が沈んでいましたが、中堅・若手の指揮者の中から田中さんを含む優れた指揮者が出てきており頼もしく楽しみでもあります。なお、終演後のアフタートークでは、渡辺さんから、旋律を顧みずに音響のみを重視する潮流が生まれた結果として観客離れが起きている現状を踏まえつつ、あらゆるジャンルの音楽に接する機会に恵まれた初心者から音楽通までの多様な現代の観客に対して管弦楽を鳴らすというオーケストラ音楽の長所を活かしながら面白いと感じて貰える新しい音楽を創作しなければならない難しさがあったという趣旨の苦労話を吐露されていました。個人的には、音楽の受容シーンが多様になっている現代にあって旋律のない音響のみの音楽が価値のないものとは考えませんが、何らかの「世界観」(目的)を表現するための音楽であり、それを表現するための「方法」(手段)であって欲しいと感じています(「世界観」(目的)>「方法」(手段))。そのうえで旋律は必須でないとしても、賢しらに、これを顧みようとしない偏狭とした態度には病的なものを感じます。
 
 
ミュージックシアター「PSAPPHA」
【題名】ミュージックシアター「PSAPPHA」
【演目】クセナキス ルボンa.b.
    クセナキス 響・花・間
    クセナキス プサッファ
【振付】中村恩恵
【出演】<Perc>加藤訓子
    <Dnc>中村恩恵
【日時】2024年2月11日(日)13:00~
【会場】横浜赤レンガ倉庫1号館ホール
【感想】
加藤訓子さんと中村恩恵さんのコラボレーションによるミュージックシアター「鍵」が非常に面白い公演だったので、クセナスキの打楽器独奏曲「プサッファ」にフィーチャーされている古代ギリシャの詩人サッフォー(レズビアンの語源となったレスポス島出身で十番目のムーサと呼ばれた女性)の世界観を描いたミュージックシアター「PSAPPHA」を鑑賞に行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日は、横浜赤レンガ倉庫1号館ホールでミュージックシアター「PSAPPHA」を鑑賞してきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。昔の新港エリアは赤レンガ倉庫と横浜ワールドポーターズしかない寂しい場所で、2022年8月にはコロナ禍の影響でブルーノート系列のジャズクラブ「モーション・ブルー・ヨコハマ」(横浜赤レンガ倉庫2号館)が閉店してしまいましたが、この数年間で新港エリアには複数の商業施設などが整備され、今日は三連休や中国の春節なども重なって訪日外国人を含む大変な人出となる賑わいでした。丁度、横浜赤レンガ倉庫1号館ホールから横浜港大さん橋に寄港していた日本最大の大型クルーズ客船「飛鳥Ⅱ」が見えましたが、来年、これを上回る大きさの大型クルーズ客船「飛鳥Ⅲ」が完成する予定なので楽しみです。さて、このシアターピースはI.クセナキスが作曲した2つの打楽器独奏曲「ルボンa.b.」及び「プサッファ」、大阪万博(1970年)の鉄鋼館で使用されたI.クセナキスが作曲した電子音楽「響・花・間」とサウンド・インスタレーションを使用したダンス及びオーディオ・ビジュアルとのコラボレーションにより古代ギリシャの詩人サッフォー(レズビアンの語源となったレスポス島の出身で十番目のムーサと呼ばれた女性)の世界観を描いた作品です。先ず、一曲目に演奏された打楽器独奏曲「ルボンa.b.」ですが、過去のブログ記事でも触れたとおり、音楽の専門教育を受けていなかったI.クセナキスは師匠のO.メシアンから和声法ではなく既に専門教育を受けている数学や建築学を作曲に活かすようにアドバイスされ、この曲でも数学の群論(a:クラインの四元群、b:正六面体群)の演算に基づくサイクルを使った音型(リズム)の組合せによって作曲されています....と言ってもさっぱり分からないと思いますので、音楽によるルービックキューブのようなものをイメージすれば分かり易いと思います。aの楽章とbの楽章のいずれの楽章も、曲の前半部分では群論の演算に基づくサイクルを使って音型(リズム)を変化させて行く収束型の論理思考(ルービックキューブ初心者の脳内)が展開され、曲の後半部分では群論の演算に基づくサイクルから解放されて前半で生み出された音型(リズム)の組合せを直感的に変化させて行く発散型のナラティブ思考(ルービックキューブ習熟者の脳内)が展開され、音楽表現の可能性を模索し行くような曲想になっています(因みに、一定の成果を上げることが求められる競技では、再び、この可能性を収束型の論理思考で磨き上げて洗練させることでビックキューブを数分内に完成させることができるプロフェッショナルの脳へ昇華させます)。この曲はaの楽章とbの楽章のいずれの楽章から開始しても良いとされており、今日はbの楽章(バスドラムX1、トムトムX1、トゥンバX1、ボンゴX2)から開始され、次いでaの楽章(バスドラムX2、トムトムX3、ボンゴX2、ウッドブロック)の順番で演奏されていましたが、加藤さんはバスドラムのアクセント(強奏)によりリズム構造を際立たせながら音型(リズム)の反復と変化を繰り返し、それが次第に複雑さと躍動感を増しながらパルス音から文脈を持った歌へと変化して行くような演奏が面白く、人類が自然音の模倣から音楽や言葉(そして詩)を紡ぐようになった進化の歴史をイメージしながら没入感の高い演奏を楽しむことができました。I.クセナキスは日本の能楽に興味を持っていたそうで、加藤さんは能楽師・観世流シテ方の中所宜夫さんとのコラボレーションにより2015年にaの楽章、2021年にbの楽章に舞を採り入れた舞台を公演されているそうですが、今日の公演でも能楽の気魄、間や留拍子などのエッセンスを感じさせる演奏が聴かれ、リズムと舞から構成される能楽を意識した舞台になっていたように感じられました。過去のブログ記事でも触れたとおり、舞踊(ダンス)は自然信仰(アニミズム)を背景として人ならぬ者との交流を試みる宗教的なパフォーマンスが起源と言われており、日本では「舞」(回転運動)を「神迎え」、「踊」(上下運動)を「神送り」と捉えていますが、詩人サッフォー出身のレスポス島に因んでオルフェオとエウリディーチェの物語をインスパイアしたものでしょうか、照明を使って舞台を闇の空間(彼岸)と光の空間(此岸)に区切り、中村さんが闇の空間から光の空間へ顕在して呪術的な舞踊(ダンス)を披露し、ウッドブロックの響きと共に中村さんの身体に人らぬ者が憑依(交流)するようなパフォーマンスを見せた後に、やがて光の空間から闇の空間へと消え失せるというストーリー性を感じましたが、まるで複式夢幻能を見るような幻想的な舞台を楽しめました。その後の幕間に挟まれたサウンド・インスタレーションでは奥幕に映し出された文字(ギリシャ文字でしょうか?近視用のメガネを忘れたので何が書かれているのか見えませんでしたが、涙のメタファーでしょうか??)が零れ落ちるなかを加藤さんがレインスティックを使って潮騒の音を描写し、中村さんがまるで水中を渡るようなゆっくりとしたパフォーマンスを見せていましたが、お恥ずかしながら、浅学菲才の軽輩には何を意図したもの(レスボス島ミュティレネの渡守・ファオンとの悲恋に関係したもの?)なのか解題できませんでした。これに続く電子音楽「響・花・間」では、ホールを取り囲む複数のスピーカーと黄色、赤色や青色の光によるヴィジュアル・アートを使って立体的で多彩なオーディオ・ビジュアル空間が出現し、加藤さんと中村さんが能楽の運びのように音もなく舞台のセッティングを変更していく様子が興を増す効果を生んでいたと思います。その後の幕間に挟まれたサウンド・インスタレーションでは加藤さんがハングドラムを使って妖美な音色を紡ぎ出し、ホールを取り囲むスピーカーからは詩人サッフォーの詩の断章と思われる言葉がぶり切れに聴こえてきましたが、ここでも無教養が祟り不覚にも何を意図したものなのか解題は侭なりませんでした。この解題は次回の再演までの宿題にしたいと思っています。最後の打楽器独奏曲「プサッファ」では6つの楽器(うち、3つは木又は皮、3つは金属)を使用する以外には楽器指定はりませんが、これはリズム構造のみを重視して音色はリズム構造を組成する1つの素材として扱われていることによるものと言われています。詩人サッフォーの詩に見られる官能性を体現したものなのか土俗的なエネルギーや野趣を感じさせる迫力の演奏でしたが、その一方で、決して粗や卑に流されてしまうことなく、サッファーの詩の音韻構造をフィーチャーしたと言われるリズム構造を明晰に表現する繊細さや慎重さも兼ね備えている隙のない演奏を楽しめました。また、打楽器の鋭い響きに反応してマリオネットのようにリズミカルに展開される舞踊(ダンス)は打楽器との呼吸感がよく、打楽器のリズムとダンスが一体となった舞台を楽しめました。動もすると味気ない無機質に陥り易い前衛音楽にポストモダン的な感性を照射することで前衛音楽の新しい魅力を発見する機会になる有意義な取組みのように感じられますので、今後も注目していきたいと思っています。
 
 
▼第66回グラミー賞の結果
WOWOWがグラミー賞の生中継を開始してから一度も欠かさずに観ていますが、もはや規範性を重視して「上手さ」(方法)を競うモダニズムを象徴するコンクールにはあまり興味がなく、多様性を重視して「面白さ」(世界観)を讃え合うポスト・モダンを象徴するグラミー賞などのジャンルレスな芸術賞に時代の趣味は移っており、これらの芸術賞の受賞作品だけではなくノミネート作品を含めて最新のトレンドをジャンルレスにキャッチアップできるので大変に興味深く視聴しています。今年は、以下のとおりクラシック部門の殆どの部門で現代音楽に関係する作品が受賞しており、日本国内の状況だけを見ていると時代の潮流を読み誤りそうです。日本にも、こんな芸術賞が欲しいですな。
【オーケストラ部門賞】
ロサンジェルス・フィルハーモニー@G.ドゥダメルのバレエ音楽「アデス」(作曲:T.アデス)
【オペラ部門賞】
メトロポリタン管弦楽団@Y.ネゼ=セガンのオペラ「チャンピオン」(作曲:T.ブランチャード)
【合唱部門賞】
ヘルシンキ室内合唱団@N.シュヴェケンディークの合唱曲「ルコネッサンス」(作曲:K.サーリアホ)
【室内楽部門賞】
ルームフル・オブ・ティースのアルバム「ラフ・マジック」(作曲:C.ショウほか)
【独奏部門賞】
Y.ジャンXルイヴィル管弦楽団@T.エイブラムスのアルバム「アメリカン:プロジェクト」(作曲:T.トーマス)
【独唱部門賞】
J.ブロックXフィルハーモニア管弦楽団@C.ライフのアルバム「ウォーキング・イン・ザ・ダーク」(作曲:J.アダムズほか)
【作曲部門賞】
 
▼ミュージカル映画ブームの再燃
2024年2月9日からミュージカル映画「カラーパープル」が公開され、また、2024年3月22日から松竹ブロードウェイシネマ「ピアノ 2Pianos 4Hands」も公開される予定になっていますが、新作のオペラだけではなく新作のミュージカルの上演も活発になっており、その題材は現代人でも共感できる現代の時代性を反映したものが増えてきていますので、これから新作のオペラ、ミュージカルやシアターピースなどの中から、次世代に受け継がれる名作が続々と誕生してくると思いますので、大いに注目していきたいと思っています。