大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

調布国際音楽祭ワークショップ「新しい音楽を作る」とオペラ「チャンピオン」(MET初演)と拙ブログの立ち位置<STOP WAR IN UKRAINE>

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▼拙ブログの立ち位置(今回はブログの枕はお休み)
月刊誌「レコード芸術」が2023年7月号(6月20日発売)をもって休刊します。僕の周囲にはクールな反応も多いですが、個人的には現代音楽に関する最新の情報に触れることができる殆ど唯一の公器として大変に重宝していましたので残念でなりません。が、営利企業である音楽之友社の決定には重いものがあります。音楽評論家の沼野雄司さんが文藝春秋7月号に『「レコード芸術」存続を望む』と題する記事を寄稿されていますが、採算性のない雑誌の存続を求めるという無理な主張(単なる署名活動)ではなく、この公器が担ってきた社会的な役割を再生するためのサスティナブルなソリューションを模索する苦衷が綴られています。詳しい内容は文藝春秋7月号の記事(原文)をお読み頂きたいのですが、以下のような問題意識(概要)が示されており色々と考えさせられます。
 
①音楽家のモチベーション
日本国内で販売された全ての音盤を評論家が批評するコーナーが音楽家のモチベーションになっている点
【個人的な所感】上述の利点と共に、昔から、売れる音盤が一部に偏ってしまうという弊害も指摘されてきました。この点、音楽家のモチベーションを醸成するという観点で言えば、現代はメディアや活動が多様化していますので音盤に限らない幅広いメディアや活動を対象とする音楽賞のようなものを充実させる取組みも有効ではないかと思います。
 
②音盤データのアーカイブ
全ての国内で発売された新譜に関する情報がアーカイブとして蓄積されている点
【個人的な所感】私企業の企業努力だけに頼るのは社会インフラとして脆弱ではないかと思います。この点、現在、国立国会図書館等がナレッジセンターとしての機能を強化しており、音源、音楽資料や映像資料を含む知的財産のアーカイブの収集及び公開に積極的に取り組んでいますので、そのような取組みにも期待したいです。
 
③音楽関係者が交わるハブ
ファン、評論家、アーティスト、レコード会社が交差する場になっている点
【個人的な所感】現代音楽に関する最新の情報に触れることができる殆ど唯一の公器がなくなってしまうのは手痛いです。この点、そのような機能の一部分でも月刊誌「音楽の友」等で代替されることを期待したいですが、これからの情報流通のハブとしては紙媒体を前提としたシンプレックスなマスメディアよりも電子媒体を前提としたインタラクティブなナノメディアの活用に期待したいです。
 
なお、月刊誌「モーストリー・クラシック」が2023年8月号(6月20日発売)で20世紀の音楽を特集していますが、このようなウブな雑誌でも現代音楽が採り上げられるようになったことは歓迎したい潮流です。しかし、既に死んでいる作曲家(しかも数多くの重要な作曲家も漏れている)ばかりが採り上げられて現代に生きて活躍している作曲家が(インタビュー記事等の中で僅かに登場するほかは)殆ど採り上げられていないのは残念でなりません。20世紀(インターネット普及前のアナログ時代)と21世紀(インターネット普及後のデジタル時代)では時代状況が一変しており、21世紀に生きている現代人にとって20世紀に活躍した既に死んでいる作曲家の作品にも増して21世紀の時代性を表現し得る現代に生きて活躍している作曲家の作品の重要性を看過することはできません。この点、20世紀以前の「歴史」しか語れず、21世紀以降の「現代」を語り「未来」を見通すことができない日本人の縮図(アナログ時代に世界を席巻し、デジタル時代に世界から取り残された日本の凋落)を見ているようで歯痒さを感じます。尤も、この雑誌にそこまでの役割を求めるのは些か酷かもしれませんので、浅学無能な不甲斐ない身の上ですが、拙ブログでは現代に生きて活躍している芸術家の作品やこれを実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきたいと志を立て、言葉を編む「大言海」(大槻文彦)や音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」(僕)と改名することで、果てしない後悔へと船出する決意表明としています。
 
 
▼オペラ「チャンピオン」(全二幕原語上演)
【題名】オペラ「チャンピオン」(MET初演)
【振付】カミール・A・ブラウン
【美術】アレン・モイヤー
【衣装】ポール・ダズウェル
【照明】ドナルド・フォールダー
【映像】グレッグ・エメダー
【出演】<Boy-Sop>イーサン・ジョゼフ(少年期のエミール・グリフィス
    <Bas-Bar>ライアン・スピード・グリーン
                         (青年期のエミール・グリフィス
    <Bas-Bar>エリック・オーウェンズ(老年期のエミール・グリフィス
    <Sop>ラトニア・ムーア(エミールの母/エメルダ・グリフィス)
    <Mez>ステファニー・ブライズ
                   (ゲイバーの店主/キャシー・ヘイガン)
    <Ten>ポール・グローブス(帽子屋の店主/ハウウィー・アルベルト)
    <Bar>エリック・グリーン(対戦相手/ベニー・キッド・パレッド)
                                   ほか
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
    <Ba>マット・ブリューワー
    <Gt>アダム・ロジャース
    <Dr>ジェフ・テイン・ワッツ
【料金】2500円
【感想】ネタバレ注意!
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①MET改革について
先日、久しぶりにMETライブビューイングのオペラ「チャンピオン」を観てきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。冒頭、メトロポリタン歌劇場総裁のP.ゲルブさんから挨拶があり、「現代の観客に共感して貰えるように新しい作品の上演に注力しており、その取組みによって若く多様な客層が増えてきている。」とMET改革の手応えを語っていたのが印象的でした。2020年3月11日にWHOが新型コロナウイルス感染症パンデミック(世界的大流行)を宣言したことを受けてメトロポリタン歌劇場も2020年シーズンから約1年半に亘る閉鎖を余儀なくされましたが、その後、2021年シーズンから再開すると、その復帰第一作としてMET初の黒人作曲家であるテレンス・ブランチャーの「Fire Shut Up in My Bones」(2019年世界初演)が上演されて話題になり、マシュー・オーコインの「エウリディーチェ」(2020年世界初演)やブレット・ディーンの「ハムレット」(2017年世界初演)など新しい作品のMET初演を皮切りとして2022年シーズンにはケヴィン・プッツの「めぐりあう時間たち」(新作オペラの世界初演)やテレンス・ブランチャードの「チャンピオン」(2013年世界初演)、2023年シーズンにはジェイク・ヘギーの「デッドマン・ウォーキング」(2000年世界初演)、アンソニー・デイヴィスの「マルコムX」(1985年世界初演)やダニエル・カターンの「アマゾンのフロレンシア」(1996年世界初演)など新作オペラを含む新しい作品のMET初演を次々に打ち出すなどMET改革に向けた攻めの姿勢を崩していません。先日、P.ゲルブさんは日本の新聞社のインタビューに答えて「オペラ界はいま、大きな転換期に入った。劇的に変わらなければ、この芸術は生き残れないだろう。」という危機意識を語ったうえで、最近ではMET改革が奏功して「総裁就任時、観客の平均年齢は60歳代だったが、現在は52~55歳。1回券の購入客に限れば45歳まで下がっている。」と語っていましたが、今後も世界のオペラ界に革新の風を吹かせる先導的な役割を担ってくれることを大いに期待したいと思います。これに対して、新しい作品を上演する資金的な余力がないのか新国立劇場の来シーズンはクラシック一色の演目に逆戻りしてしまったことは本当に残念でなりません。その意味では日本人の豊かなオペラ受容を支えるためにMETライブビューイングの存在意義は益々大きなものになっていると言えそうです。
 
②作品背景について
テレンス・ブランチャードは、ウィントン・マルサリスらと並ぶ現代を代表するジャズ・トランぺット奏者兼作曲家としてグラミー賞を7回受賞し、映画「ブラック・クランズマン」(2018年)及び映画「ザ・ファイブ・ブラッズ」(2020年)でアカデミー作曲賞にノミネートされるなど不動の名声を獲得していますが、2022年1月にMET初の黒人作曲家としてオペラ「Fire Shut Up In My Bones」がMET初演されて話題になり、その好評を受けて2023年4月にT.フランチャードのオペラ「チャンピオン」がMET初演されました。このオペラは実話がベースになっていますが、主人公のウェルター級及びミドル級元世界王者エミール・グリフィスアメリカ領ヴァージン諸島の出身で19歳のときにニューヨークに出て帽子職人の見習いをしながらボクサーを目指しました。1962年、当時のウェルター級世界王者ベニー・パレットに挑戦しますが、12ラウンドでダウンしたB.パレットが昏睡状態に陥って10日後に死亡した事件(パレット事件)が発生して社会的に大きな問題になりました。試合前の計量でB.パレットがE.グリフィスに対してゲイを蔑むスラング「faggot」で挑発したと言われており(因みに、楽器のファゴットとは綴り(fagotto)が異っています。)、それが原因ではないかなど様々な憶測を呼ぶことになりました。なお、当時、同性愛は精神疾患アメリカ医師協会)と考えられており、また、イリノイ州以外のアメリカの全州で犯罪とされていましたが、晩年、E.グリフィスはバイセクシャルであることをカミングアウトし、この事件によって不眠症になるなど悩み苦しんだことを告白しています。このオペラは10年前に初演されてから再演が繰り返されている人気作ですが、ヴェリズモ・オペラの伝統を受け継いでLGBTQ、DVや認知症など現代的な問題を採り上げながら自分の居場所を求めて生きる現代人の等身大の姿を描いており、神話、英雄や貴族など時代錯誤な題材を取り扱ったオペラ・セリアとは異なって現代人でも共感できる観応えのあるオペラになっています。上述のとおりT.ブランチャードはW.マルサリスらと共に現代を代表するジャズ・トランペット奏者兼作曲家ですが、ジャズ界の一部からは伝統を重視する音楽性を捉えて革新性や自由度に欠けるという批判もありますが(この点はクラシック音楽界にも同じような批判が当て嵌まるかもしれませんが)、このオペラではジャズとクラシックを巧みに融合し、オペラ・セリアのようにスター歌手のための派手なアリアを重視するのではなく、ミュージカルのように歌以外の演技やダンス等の表現力も重視して、ジャズ、ブルース、ポピュラーやミニマルミュージック等の語法を効果的に採り入れながらレチタティーボ風の朗誦によって複雑な舞台を分り易く展開し、また、登場人物の内心を吐露するアリアでは映画的な演出を効果的に利用するなど、新しいものと旧いものとが違和感なく融合している舞台になっています。エミールの前半生を描いた第1幕ではジャズ・テイストのリッチな音楽と多彩なダンスの魅力に溢れ、エミールの後半生を描いた第2幕では共感性の高い物語に惹き込まれる内容になっています。因みに、METのホームページによれば、5月13日公演はY.セガンに代わって日本人指揮者の渡辺健翔が振っているようです。
 
③第一幕について
老年期のエミールはボクサーとして活躍していた時代の後遺症(パンチドランカー)が祟って認知症を発症し、トラウマになっている過去の記憶がフラッシュバックとして蘇り又は幻覚を見るようになりますが、自室に籠る老年期のエミールを2階、フラッシュバックとして蘇る少年期及び青年期のエミールを1階に分けて演じることで、少年期、青年期及び老年期のエミールが重層的に絡み合う複雑な舞台をまるで映画を観ているかのように視覚的に分り易く演出しています。老年期のエミールが認知症のために靴の片方を靴箱ではなく冷蔵庫に入れてしまう場面で歌われるマイ・シューズの歌が、このオペラ全編を貫くモチーフになっています。マイ・シューズはエミールの思惑とは異なる方向に歩み出す人生又は運命のメタファーとして表現されていますが、マイ・シューズはどこへ向かおうとしているのか、自分の居場所はどこにあるのかという漠然とした不安を歌うことで老年期のエミールの不安定な精神状態を印象付けています。昨年、Y.セガンらと共に来日したバス・バリトンのE.オーウェンズはMETのベテラン歌手ですが、老年期のエミールの心の綾を円熟味のある歌唱によって繊細で人間味豊かに表現し、この公演を成功に導く好パフォーマンスを見せています。このオペラでは複雑な場面展開を分り易く進行するためにダンスやリングアナウンスを節目に挟ませるという演出上の工夫が凝らされていますが、ジャズのリズムに乗せたバーバリズム風のダンスと場面展開を告げるリングアナウンスが挟まれた後、スーツケースを持った青年期のエミールが登場して自分以外の何者かになるためにニューヨークへ旅立つと若き野心を歌い、老年期のエミールは自分以外の何者にもなり得ないと人生を達観した老境を歌います。青年期のエミールは帽子のデザイナー、野球選手又は歌手になることを夢見ていますが、帽子のデザイナーは女性のメタファー、野球選手は男性のメタファー、歌手はどちらでもない性のメタファーとして歌われているのではないかと思われます。青年期のエミールはニューヨークのハーレム街で自分を捨て色々な男と浮名を流す奔放な生き方をしている母のエメルダと再会します。母のエメルダは、当初、青年期のエミールを遊び友達と勘違いしてマイ・ベイビーと色仕掛けしてきますが、実は色々な男との間で設けた沢山いる子供達のうちの1人(son of a bitch)であることに気付くと子供を捨てるような愚母であることを後悔してマイ・ベイビーと母性を歌います。母のエメルダは青年期のエミールを連れ立って帽子屋店主のアルベルトに帽子のデザイナーとして息子を雇うように懇願しますが、帽子屋店主のアルベルトは青年期のエミールの体格が良いことに着目してボクサーとして養成しようと考えます。第二幕で描かれていますが、母のエメルダに捨てられた少年期のエミールは虐待により体を鍛えられますが、帽子のデザイナー(女性のメタファー)になりたいという内心とは裏腹に、体格が良いこと(外見)からボクシングの道(男性のメタファー)に進むことになります。ボクシング事務所(1階)の場面では、ジャズのリズムに乗せて練習生(トゥッティ)によるボクササイズ風のダンスと母のエメルダによる韻を踏んだラップミュージック風の歌による躍動感のある舞台が展開されますが、自室(2階)に籠る老年期のエミールがマイ・シューズの歌を歌いながらエミールの人生が思わぬ方向へ歩み出そうとしていることを暗示する演出効果の高い舞台を楽しむことができました。ゲイバー(1階)の場面では、ゲイバー店主のヘイガンが夜の歓楽街の魅惑を歌い、ゲイバーの客(トゥッティ)によるホモセクシャルなダンスと合唱の華やかな舞台が展開されますが、彼らに心を開く青年期のエミールの回想として、母のエメルダに捨てられた少年期のエミールは仕事場でブロックを持ち上げさせられる虐待を受けたことで体が鍛えられたという辛い経験を歌い、自室(2階)に籠る老年期のエミールがブロックを持ち上げる少年期のエミールと同じ姿勢をとりながらその辛い経験をユニゾンで歌うことで、その少年期の記憶がトラウマになっていることを印象付けるという優れた演出が出色でした。少年期のエミールを演じるボーイ・ソプラノのE.ジョセフの清澄な歌声は老年期のエミールを演じるバス・バリトンのE.オーウェンズの力強い低声との対比でその美しさが一層と際立ち、この情感豊かなでリリカルなアリアが大きな聴き所になっています。試合前計量の場面では、青年期のエミールは母のエメルダ、帽子屋店主のアルベルト、大勢の新聞記者(トゥッティ)がいる前で対戦相手のパレッドからゲイを蔑むスラングで挑発を受けて一色触発になりますが、後日、これがパレット事件の原因になったのではないかと憶測を呼ぶことになりました。青年期のエミールが、世間は外見で人を判断するが、それとは異なる人格が内面で作られており、自分とは何者なのかと内心の葛藤を歌うアリアも大きな聴き所になっています。青年期のエミールを演じるバス・バリトンのL.グリーンはボクサーに見える身体に仕上げるために30kgも減量したそうですが、彼自身もストリートギャングが蔓延る街で母親から虐待を受けながら育ち受刑歴がある経験を活かして演技力豊かな歌唱で青年期のエミールの繊細さから自暴自棄に陥る粗暴さまでを見事に演じ分ける好パフォーマンスを見せています。試合の場面では、青年期のエミリーと対戦相手のパレットのファイトが(決して暴力的な表現にならないように)ジャズの演奏に乗せてダンス風に表現されていますが、母のメリンダ、帽子屋店主のアルベルト及び老年期のエミールによる三重唱及び観客による合唱の熱狂と相俟って隙のない緊迫感のある場面にまとめられており、このオペラの再演が繰り返されていることを得心させる非常に充実した舞台を堪能できました。
 
④第二幕について
老年期のエミールは対戦相手のパレットの幻覚に咎められて罪の意識に苛まれますが、この場面ではミニマル・ジャズによる緊迫感のある音楽が効果的に使われています。息子のルイスは幻覚に苦しむ老年期のエミールを気遣い、明日、対戦相手のパレットの息子のパレットJr.に会いに行こうと誘います。カーニバル風のダンスを挟んで、パレット事件後の青年期のエミールはボクサーとして成功を納めて派手な暮らしを送っていますが、妻のセイディとの結婚式で酔いが廻ると人生を恨む本音を吐露して、既に人生が狂い始めていることを印象付けています。その姿を見た母のエメルダは子供を捨てる愚母であった過去に対する罪の意識を歌いますが、ソプラノのL.ムーアの歌唱力のみで聴かせる(僅かに伴奏が添えられていますが、事実上の)無伴奏独唱によるアリアによって却って歌に訴求力が感じられました。帽子屋店主のアルベルトは、対戦相手のパレットが前回の試合のダメージで頭が痛いと言っていたことを思い出し、エミールは殺人者の汚名を着せられているが本当の死因が何であったのか分からないと歌いますが、現代的な題材を取り扱う作品では様々な配慮も欠かせません。老年期のエミールはある日全てを手に入れ、ある日全てを失うと歌いますが、この頃から青年期のエミールにはパンチドランカーの症状が出始めており、母から愛されなかった青年期のエミール、夫から愛されなかった妻のセイディ、事件への罪の意識に苛まれる老年期のエミール、子供への罪の意識に苛まれる母のエメルダがそれぞれの人生模様を歌う四重唱が大きな聴き所になっています。結婚後もゲイバーに通う青年期のエミールはゲイバーで知り合った客と浮名を流しますが、ゲイバーから出たところで鉄パイプを持った若者達に襲撃される場面があり、この時代の時代感覚を印象的に描いています。老年期のエミールは暗の世界で「俺が男を殺しても、世界は許してくれた。だが、俺が男を愛すると、世界は俺を殺したがる。」と歌いますが、息子のルイスによって光の世界へと導かれて、対戦相手のパレットの息子のパレットJr.と対面を果たします。老年期のエミールは対戦相手のパレットの息子のパレットJr.に赦しを請いますが、対戦相手のパレットの息子のパレットJr.は決して自分から逃れたり隠れたりすることはできないので自分を許すことができるのは自分だけであると歌うと、これに呼応するように出演者全員が舞台上に登場して、人生の最後は自分一人だけであり、その最後に自分を許すことができるのは自分だけだと歌い、老年期のエミールと対戦相手のパレットの息子のパレットJr.が抱きしめ合います。この場面では少年期のエミールを演じたボーイ・ソプラノのE.ジョセフのソロが白眉でしたが、子供に歌わせることで聴衆の涙を誘う演出は非常に計算高くも(僕のような涙脆い年配者には)極めて効果覿面であったことを告白しなければなりません。最後に、老年期のエミールがマイ・シューズを歌いながら、人生は自分が意図していない方向に歩み出してしまうものだが、その勝敗に拘らず、最後に自分を許せるのは自分だけであると歌う非常に強いメッセージ性を持った作品であり、ドラマティックな悲劇も救済もない人生の真実の姿が説得力をもって胸に迫まってきます。日本はG7で最も自殺率の高い国ですが、現代人の生きる力を養うことも芸術の重要な社会的な役割の1つであることを感じさせてくれる作品でした。これまでは現代人が抱えている心の問題や社会的な課題など現代的なテーマはミュージカルやポピュラー音楽の独断上でしたが、漸くオペラでも現代的なテーマを取り扱う作品が増えてきたことは歓迎したい潮流ですし、今後もこのような潮流を先導するMET改革に期待したいと思っています。因みに、METの初日公演は普段の客層とは異なって若く多様な客層が目立ち、客席も熱狂的だったそうです。そんな未来に拓かれた活力のある社会(芸術を含む)を次世代に残したいものだと強く感じています。
 
 
▼調布国際音楽祭「新しい音楽を作るVol.2」
【演目】三谷峰生 35.7℃
    フィリップ・シートン Shigeruの戦争
    出会ユキ SEIGAIHA2023
【演奏】<Com>金子仁美
    <Com>細川俊夫
    <Com>藤倉大
    <司会>鈴木優人
    <Fl>上野由恵
    <Va>成田寛
    <Hr>福川伸陽
【日時】6月24日16時00分~
【料金】3000円
【一言感想】
https://chofu-culture-community.imgix.net/2023/02/CIMF_emblem-B_2023_221228_2-1.png?auto=compress%2Cformat&width=365&fit=crop&crop=entropy
来る6月24日(土)から7月2日(日)までの間、調布国際音楽祭が開催されます。初日のワークショップに参加することにしましたので、後日、簡単に感想を書きたいと思いますが、音楽祭の宣伝のために予告投稿しておきます。なお、この音楽祭では、最近、ブームになっているゲーム音楽のオーケストラコンサートが開催されるなど新しい試みにも挑戦していますので、ご都合の付く方はお運び下さい。
 
-->以下、後日追記
 
クラシック音楽界に革新の風を吹かせている鈴木優人さんがエグゼクティブ・プロデューサーを務める調布国際音楽祭のオープニングを飾るワークショップ「新しい音楽を作るVol.2」に参加しましたので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。今日は、現代音楽の鑑賞を深めるためのヒントを探るために、現代作曲家がどのように着想を得て作曲し、それを表現するための表現方法(音楽語法、楽器選定、奏法、表現として成立するために聴衆に伝わる(>伝える)ための工夫等)をどのように発想し、それを演奏者とのリレーションの中でどのように音(音楽)に変換するのか、そして、何より聴衆の立場から現代音楽を鑑賞する際の視点(手掛り)となり得るような新しい引出しを増やしたいという思いで参加しました。なお、本日、アドバイザーとして参加されていた現代作曲家の細川俊夫さんも7月10日に国立音大作曲科の学生を対象としたワークショップ(一般公開)を開催される予定ですが、クラシック音楽の受容と同様に現代音楽の受容にあっても、その鑑賞を深めて豊かな芸術体験を得るためには、ある程度、受容者側からのアプローチ(作曲家の考え方や楽曲に関する知識等を得ること)が有用又は必要であると考えます。偶に芸術鑑賞に知識は必要ないという考え方も聞きますが、人間は「知覚」(現在の情報)と「記憶」(過去の情報)の組合せを増やすことでしか認知を広げ又は深めることはできませんので、とりわけ新しい芸術作品の鑑賞にあたっては、ある程度、その芸術作品に関する知識を得ることは必要的であり、その鑑賞を深めて豊かな芸術体験を得るためには受容者側の努力も欠かせません。ワークショップに参加した若手の現代作曲家毎に、①作品の演奏、②作曲家の楽曲解説、③アドバイザー及び演奏者を交えた議論、④その議論を踏まえた作品の再演という順番で進行しましたので、以下にその概要を簡単に残しておきたいと思います。
 
◆三谷峰生 35.7℃
①編成:
ヴィオラ1、ホルン1
②キュレーション(要旨):
主催者から約3分程度の楽曲にまとめるように指示があったそうですが、その制限時間内で、風呂を題材として34℃(冷めた湯)と40℃(温かい湯)の中間温度で人体の表面温度と言われる35.7℃をテーマとし、仕舞湯→思考停止→混沌→水紋→空想→羊水という入浴体験を音楽的に表現したものであることが譜例を使って解説されました。
③アドバイザー及び演奏者の議論(要旨):
● 楽曲解説の必要性について
どれくらい作曲意図が受容者に分かった方が良いのかという問題提起が行われたうえで、入浴体験を音楽的に表現していることから、プログラムノートに作曲意図が示され、それを連想しながら聴取するのが効果的ではないかという指摘がありました。
【個人的な所感】
今日は楽譜が投影されていましたので音楽受容の手掛りとすることができましたが、プログラムノートや楽譜もなく上述の作曲意図を音のみから理解することは困難だと思います。もちろん、そもそも作曲意図が(全て又は正確に)伝わる必要があるのかという問題はありますし、敢えて作曲意図を曖昧にし又は作曲意図を誤解させるという表現手法もあり得ると思いますが、それにしても何の手掛りも与えられないというのは些か乱暴ではないかと思います。プログラムノート等が自由で多様な音楽受容を制約してしまう可能性はあるとしても、聴衆がその鑑賞を深めて豊かな芸術体験を得るためには、プログラムノート等は有用又は必要なコミュニケーションツールではないかと思います(後述)。
● 楽器の使用方法について
音楽制作ソフト(Logic)を使って作曲しているそうですが、三谷さんからアコースティック楽器では出せない音を作り出すことを1つのテーマとしているという趣旨のコメントがありました。これに対し、アコースティック楽器を使用して音を出すという選択肢を排除せずにその可能性も含めて作曲活動に取り組むと更に音楽表現の可能性が広がるのではないかという趣旨のアドバイスがありました。また、もっと楽器の響きを融合させる工夫、音楽の文脈を分り易くするためにメリハリのあるコントラストをつける工夫などがあると良いのではないかという趣旨のアドバイスがありました。
【個人的な所感】
アコースティック楽器を使用した音楽受容は「聴覚器官で知覚される空気振動」を前提としたものですが、過去のブログ記事でも触れたとおり、空気振動以外の方法を使ってコミュニケーションをとっている植物や微生物の存在や、人間の知覚能力(環世界)では及ばないマクロ世界(宇宙)やミクロ世界(量子)の存在(環境世界)が解明されてきており、これらの世界観を音楽的に表現するためにはアコースティック楽器だけで十分なのかという問題があると思います。また、J.ケージも指摘しているとおり、西洋のアコースティック楽器は調性音楽を演奏するために様々な改良を加えてきた歴史がありますが、それ故に調性音楽以外の音楽を演奏するには不向きであるという限界もあります。さらに、現在、VR技術(ボイス・トゥ・スカル技術など)では「聴覚器官で知覚される空気振動」を媒介せずに音を脳に直接送信する方法が開発されており、近い将来、アコースティック楽器を使わない方法によっても音楽を受容できる時代が到来すると言われています(アコースティック楽器が不要になるという意味ではありません)。その意味では、アコースティック楽器では出せない音を作り出し又はアコースティック楽器では不可能な音楽表現の可能性を探求することは、これからの時代の「新しい音楽」を生み出すための有意義な活動であると思います。
 
◆フィリップ・シートン Shigeruの戦争
①編成:
フルート1、ヴィオラ1、ホルン1
②キュレーション(要旨):
主催者から約3分程度の楽曲にまとめるように指示があったそうですが、その制限時間内で、調布市に在住していた漫画家の故・水木しげるさんの著作「総員玉砕せよ!」「コミック昭和史」を題材とし、それらからインスピレーションを受けて前奏曲・密林の行進曲→美しい天然→攻撃の直前・唯一の生存者を作曲したことが譜例及び漫画の挿絵を使って解説されました。
③アドバイザー及び演奏者の議論(要旨):
● 楽想について
SHIGERUのモチーフが随所に登場し、戦争の音楽というよりも水木しげるのキャラクターを表現した音楽という楽想を持っており、ホルンの特殊奏法によって風、いびきや無言歌を表現するなど非常にユニークな楽想であることが評価されていました。
【個人的な所感】
ホルンによる風の描写表現では、マウスピースのカップ(口先)ではなくシャンク(根本)から息を吹き込むことで風の音を出しているそうですが、演奏者の楽器や奏法に関する知識を採り入れながら楽想を音に変換して行く創作活動のホットな現場を垣間見るようで面白く感じられました。
● 音楽とメディアアートについて
水木しげるさんのことを知らないと理解できない作品なのかという問題提起が行われ、シートンさんから戦争と戦争音楽について学会で発表する予定がありますが、その際には漫画の挿絵を投影しながら演奏する予定であるとのコメントがありました。なお、演奏者から漫画の挿絵を見たことで音楽的なイメージが豊かになったという意見があった一方で、漫画の挿絵を投影することで音楽がBGMになってしまう懸念があるという意見もありました。藤倉さんから個人的なスタンスとして音楽家は音のみで勝負すべきであって映像に頼るのはどうかという意見も出されました。
【個人的な所感】
YouTubeやSNSの普及により音楽の流通や受容が大きく変化しましたが、このような影響もあってか最近の現代音楽は楽曲の内容やアーティストのポートレイトを視覚的に表現したミュージックビデオを公開するものが多く、それが音楽作品の一部を構成しています。このワークショップで藤倉さんの音楽観を初めて知りましたが、(作曲家としての基本的な心構えのことを仰られているのだろうとは思いますが)意外に古いタイプの作曲家ではないかという印象を受けました。現代音楽にはタイトルが付されているものが多く、これも(音楽との関連性の有無に拘らず)音以外の要素による聴衆への働き掛けになり得るものであり、その意味ではタイトルもミュージックビデオ(漫画の挿絵を含む)も媒体が異なるだけで同じ性格又は機能を有するものではないかと思います。この点、藤倉さんの作品にもタイトルが付されているものが少なくないですが、どのように整合性ある捉え方をされているのか詳しい話を伺ってみたい気もします。さらに、最近ではパフォーマンスアートやインスタレーション等と組み合わされた音楽作品も珍しくなく、その表現態様は広範かつ多様なものになっていますが、藤倉さんの考え方ではこのような表現態様はどのように位置づけられているのかなども話を伺ってみたい気がします。これからの時代の「新しい音楽」にとって、果たして、従来の音楽概念(純音楽や劇伴音楽等のカテゴライズを含む)が有効なのかという点も含めて考えさせられます。
 
◆出会ユキ SEIGAIHA2023
①編成:
フルート1、ホルン1
②キュレーション(要旨):
主催者から約3分程度の楽曲にまとめるように指示があったそうですが、その制限時間内で、邦楽を題材とし(但し、邦楽から引用した楽曲を西洋音楽の語法に置換)、フルートを笙、ホルンを篳篥に見立てた音取→青海波(源氏物語)→笙合竹→終曲を作曲したことが譜例を使って解説されました。(出会さんは笙の奏者
③アドバイザー及び演奏者の議論(要旨):
● 楽想について
メシアンクセナキスに和声法ではなく専門の数学や建築学を利用して作曲してはどうかとアドバイスしたことを引き合いに出し、西洋音楽の語法に置換したことで雅楽の魅力がなくなってしまっているのではないかという問題提起がありましたが、これに対し、出会さんから作曲意図として雅楽らしさを出したい訳ではないとのコメントがありました。
【個人的な所感】
これまでの邦楽器を使って西洋音楽西洋音楽の語法を使った音楽)を奏でるというパターンと逆転し、西洋楽器を使って邦楽を奏でるという着想は面白いと思いました。但し、アドバイザーからの問題提起のとおり邦楽を西洋音楽の語法に置換してしまったことで邦楽の世界観が失われ、西洋楽器で西洋音楽を奏でるのとあまり差異がなくなってしてしまった点は勿体ないと感じられました。メシアンも作曲していますが、西洋楽器を使って邦楽の世界観を表現するような「新しい音楽」(温故知新)を期待したいです。
● プログラムノートについて
藤倉さんからプログラムノートを書くことに抵抗があるという趣旨の意見が出されました。
【個人的な所感】
聴衆の立場から言えば、現代音楽のような新しい語法による初聴の曲をプログラムノートもなく受容することは困難です。クラシック音楽でも作曲家のライフイベントや考え方、楽曲解説等の知識を前提として鑑賞が成立しており、ホールに響いている音だけを頼りに鑑賞している聴衆は殆どいないのではないかと思います。これまで現代音楽が受容されて来なかった大きな理由として、現代作曲家が聴衆に作品を受容して貰うための工夫を尽くしてこなかったことも一因として挙げられるのではないかと思います。人類は突然変異によってミラーニューロンを獲得し、他者との高度なコミュニケーション(芸術を含む)が可能になりましたが、日常生活の中の簡単なサインであれば理解することはできても、(一部の天才でもない限り)音楽のような複雑な抽象表現を音のみによって受容できるだけの認知能力は人間には備わっていないと思います。
 
最後に、演奏者が作曲家の説明を直接聴くことで音楽のイメージがより豊かに広がったと仰っていましたが、作曲家の楽曲解説並びにアドバイザー及び演奏者の議論が行われた後の再演を聴くと作曲意図が音としてより明瞭に表現されているように感じられ、音楽的な魅力が増したことが実感できました。今年度に入ってから現代音楽を採り上げる演奏会の数が各段に増えた印象があり、しかも現代音楽を採り上げている演奏会の客入りが(演奏会により濃淡はありますが)好調な傾向が見られますので、やはり聴衆(とりわけ若い客層)は新しいものを求めているということかもしれません。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.24
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼テッド・ハーンの「ベンチからの音」から「声の出し方」(2014年)
アメリカ人現代作曲家のテッド・ハーン(1982年~)は、この曲で2018年にピューリッツァー賞にノミネートされています。この曲は米国最高裁判所の口頭弁論にインスピレーションを受けて合唱、エレキギター及びドラムのためのカンタータとして作曲されましたが、その後も社会性の高いテーマを取り扱った作品でグラミー賞ピューリッツァー賞にノミネートされており、現在、最も注目されている若手の現代作曲家です。YouTubeやSNSの普及で音楽がジャンルレスに融合する潮流が現れ、インディーズクラシックなどクラシックとジャズの垣根が崩壊した作品も生まれており、そのような時代の文脈の中に上述のT.ブランチャードやT.ハーン等も位置付けられます。ある1つのジャンルで音楽を語ることがナンセンスな時代になり、幅広いジャンルの耳やボキャブラリーが必要になっています。
 
▼ステファニー・エコノモウの「アサシン・クリード・ヴァルハラ~ラグナロクラグナロクの始まり」(2022年)
アメリカ人現代作曲家のステファニー・エコノモウ(1990年~)は、2023年の第65回グラミー賞から新設されたゲーム音楽部門で最初の受賞者になりました。これまでのグラミー賞ではプロの音楽関係者がサウンドトラックを評価していたのに対し、ゲーム音楽部門では音楽受容の変化を踏まえてメディアやインフルエンサー等が実際のゲームの中で流れる音楽を評価する点で大きく異なっています。前回のブログ記事で紹介した映画「Tar」でモンスターハンター狩猟音楽祭が採り上げられ、調布国際音楽祭でもアナザーエデンのゲーム音楽が演奏されますが、最近、ゲーム音楽が演奏文化の大きな潮流になりつつあり。それが聴衆からも支持されている実態があります。インタラクティブな個衆社会にあって、いつまでも貴族趣味よろしくハイカルチャーと気取ってみたところで時代遅れと見限られるだけかもしれません。
 
▼小出稚子の「植物組曲」シリーズより「ギターのための3つの小品」(2009年)
日本人現代作曲家の小出稚子(1982年~)は、第17回芥川作曲賞受賞(2007年)、第18回出光音楽賞(2008年)、アリオン賞(2011年)等を受賞しています。また、2016年に現代作曲家・尹伊桑の出身地で開催された統営国際音楽祭のアジア作曲家ショーケースゲーテ賞及び聴衆賞を受賞し、昨年にはBBCRadio3の委嘱作品により「揺籠と糸引き雨」がBBC交響楽団によって世界初演されるなど、世界的に活躍している期待の俊英です。この動画は、2007年からジャンルレスに新しい音楽の世界を探索し、挑戦することを意図して開催されているテッセラ音楽祭「新しい耳」において、小出稚子と共に第18回出光音楽賞を受賞しているギタリストの大萩康司が「植物組曲」シリーズより「ギターのための3つの小品」(2009年)を演奏した模様(2019年)を収録したものです。