大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

染田真実子チェンバロ・リサイタルと黒川侑ヴァイオリン・リサイタルとファジル・サイ2023(服部百音)と両国アートフェスティバル2023(西陽子、山田岳、林正樹)と画餅に描かれているもの<STOP WAR IN UKRAINE>

▼画餅に描かれているもの(ブログの枕短編)
今回は公演数が多くなりましたので、ブログの枕は短編にしています。さて、今年の中秋の名月は9月29日(金)ですが、過去のブログ記事でも触れたとおり、中国から「玉兎」伝説が日本に伝来し、月を意味する「望月」が「餅付き」を連想させることから、月では兎が薬草ではなく餅を付いているという伝説にアレンジされて一般に広まりました。そのためか日本人には月の表面の模様(玄武岩が黒く見えている部分)が餅を付いている兎の姿に見えてきますが(認知バイアス)、どうやら外国人にはカニの姿や女性の姿などに見えるそうなので、「眼に見えているもの」(知覚)と「脳に見えるもの」(認知)の間には文化や時代などに彩られたレトリック(ルビンの壺)がありそうです。因みに、770年前の1253年9月29日(月)(新暦)に曹洞宗の開祖・道元禅師が示寂されましたが、道元禅師の仏教思想書「正法眼蔵」には「画餅」の巻があり、唐の香厳禅師の言葉「画餅は飢えを充たさない」(即ち、仏教典(=画餅)を理解する(=眺める)だけでは修行を成就する(=飢えを充たす)ことは適わないという戒め)を引用して「画餅」は一生食することは適わない(即ち、一生修行である)という教えが説かれていますが、既に中世の日本にはコンセプチュアル・アートが存在していたと言えるかもしれません。P.ピカソは「芸術は私たちに真実を気付かせる嘘である」という名言を残していますが、「眼に見えているもの」(知覚→認知)を描く写実主義(伝統)を経て、「脳に見えるもの」(認知→認識)を描く印象主義、キュビズムやフォービズム(モダン)から「心で見るもの」(認識→想像、創造)を描くコンセプチュアル・アート等(ポスト・モダン)に至る現代アートの潮流(具象→抽象)は世界の見方に関する気付きを現代人に与えてくれています。前回のブログ記事でも触れたC.ボードレールは、F.ドラクロワの絵画を「何が描かれているかではなく、色彩だけで彼の絵は分かる」と評して現代アートの萌芽を予兆しましたが、過去のブログ記事でも簡単に触れたとおり、ルネサンス以降の伝統である「眼に見えているもの」(知覚→認知)をそのまま描く「写実主義」(アカデミズム)はカメラの普及によってその存在意義が問い直されるようになり、チューブ絵具の誕生によって屋外で絵を描くことが容易になったことで被写体を纏う光や空気感などを捉えて自然的なイメージを描く「印象主義」(モネなど)、1枚のキャンバスに複数の視点を共存させて描かれたP.セザンヌの絵画「りんごとオレンジ」などから影響を受けて被写体を一点透視図法ではなく多視点で捉えて描く「キュビスム」(ピカソなど)や印象主義のような光学に基づく自然な色使いではなく色と音の関係など人間の共感覚などに基づく人工的な色使いにより被写体の創造的なイメージを描く「フォービスム」(マティスなど)などがフランスで誕生し、カメラで写すことができない「脳に見えるもの」(認知→認識)を描くようになりました。過去のブログ記事でも簡単に触れましたが、教会、宮廷、貴族(ブルジョア)が築き上げ、これを継承してきた中近世的な社会体制を破壊した第一次世界大戦の勃発によって中立国のスイスに逃れていた芸術家達の間で教会、宮廷、貴族(ブルジョア)が築き上げ、これを継承してきた中近世的な価値観を破壊する芸術運動「ダダイズム」が盛んになり、その影響を受けた現代アートの父・M.デュシャンが「」(レディーメイド)を発表してモノを創作することからコンセプトを創作することに美術の領域を拡張しました。また、S.フロイトによる無意識の発見などを背景として、人間が戦争するのは人間の心の中に原因があると捉えられるようになったことで(A.アインシュタイン&S.フロイト「ひとはなぜ戦争をするのか」)、絵画の関心は人間の外側にある物質世界(具象)を描くのではなく人間の内側にある精神世界(抽象)を描くことに移り、オートマティスム、コラージュ、アンサアンブラージュ、デペイズマンなどの手法を使って人間の心の中に抑圧された無意識を描く「シュールレアリスム」(ダリなど)がフランスで誕生し、さらに、第一次世界大戦後に世界の政治、経済及び文化の中心がヨーロッパ(中近世的な社会体制、貴族社会)からアメリカ(近現代的な社会体制、大衆社会)へと移行するなか、シュールレアリスムの影響を受けてアクションペインティング、カラーフィールドペインティングなどの手法を使って人間の心の中に抑圧された感情を描く「抽象表現主義」(ポロックニューマンなど)がアメリカで誕生しました。なお、抽象絵画の父・W.カンディスキー(フォービズムの影響を受けたドイツ表現主義)は、抽象絵画の画家でもあった無調音楽の父・A.シェーンベルクと親交がありましたが、1911年1月1日に開催されたニューイヤーコンサートでシェーンベルクの「3つのピアノ曲」及び「弦楽四重奏曲第2番」を聴いて主音がなく音色や音響が変化するだけの無調音楽に衝撃を受けたことで具象絵画から抽象絵画へ踏み出すことを決意し、その後に完成した十二音技法の音列を絵画の形態や色彩の関係性に捉え直した新しい表現方法(シュルレアリスムの影響)を模索しました。因みに、現代作曲家・P.ブーレーズは、W.カンディスキーと親交があった抽象絵画の画家・P.クレーから影響を受けたと言われています。
 
▼芸術認知症に陥らないためのハイブリッドな脳
抽象絵画は、写実絵画と比べ、鑑賞者が作品を知覚するだけで認知(受容)することは難しく、鑑賞者が作品を記憶(過去の経験や知識等の教養)に照らして解釈することで認知(受容)することが可能になると言われています(現代音楽は、クラシック音楽と比べ、この傾向が強いと思わます)。この点、過去のブログ記事で触れたとおり、鑑賞者は記憶(過去の経験や知識等の教養)を充実させて芸術家の認知世界(非共有世界)に対する想像力を育むことで自らの認知世界(共有世界)を芸術家の認知世界(非共有世界)へ拡大することが可能になりますが、鑑賞者の記憶(過去の経験や知識等の教養)が不十分なために芸術家の認知世界(非共有世界)に対する想像力を育むことが困難な場合には、「これは芸術なのか?」という類のプリミティブな反応に陥り易いと言われており(芸術認知症)、近年、そのギャップを埋めるための存在としてキュレーターの役割が注目されています。ハイブリッドな脳にバージョンアップできなければ、画餅に描かれているものを心眼で見破ることは適わず、そのような未熟な修行僧にとって道元禅師はキュレーターのような存在だったと言えるかもしれません。
認知
(未知の予測)
知覚
(現在の情報)
記憶
(過去の情報)
写実主義
(人間の外側)
知覚
(芸術家側の因子)
記憶
(鑑賞者側の因子)
抽象主義
(人間の内側)
知覚
(芸術家側の因子)
記憶
(鑑賞者側の因子)
 
1950年代頃から深刻化した東西冷戦の対立(朝鮮戦争、ベルリンの壁建設など)を背景として、若者による社会的な権威に対する反発からカウンター・カルチャーが隆盛しました。これに伴って、芸術の形式美(フォーマリズム)を重視して芸術の自律性を追求するモダニズム的な考え方は自由な芸術表現の足枷になると認識されるようになり、より自由な芸術表現を求めて芸術表現の空間性(ex.中世日本の「置き合わせ」文化)や鑑賞者との関係性などを重視して芸術の他律性を採り入れながら芸術表現の可能性を広げるポスト・モダン的な考え方が台頭し、「イズム」(モダニズムに基づく規格化された価値観を背景として「上手さ」が持て囃された時代)から「アート」(ポスト・モダンに基づく多様な価値観を背景として「面白さ」が重視される時代)を志向する現代的な潮流が誕生しました。これにより芸術の形式美(フォーマリズム)の呪縛から芸術表現を解放する潮流が生まれ、抽象表現主義の影響から伝統的な芸術の形式美ではなくパフォーマンスなどを重視して人間の心の中に抑圧された感情を描く「パフォーマンス・アート」(カプローなど)がアメリカを中心に生まれますが、創作物(造形芸術)よりも創作行為(時間芸術)を重視する性格が強く音楽(時間芸術)への接近が見られるようになり(例えば、フルクサスのパフォーマンスや音響彫刻など)、ジャンルレスなどの現代的な潮流へ受け継がれています。また、現代心理学の父・W.ヴントを嚆矢とする心理学の発展により芸術の心理的な側面の研究が進んだことで鑑賞者の関与なく芸術表現は成立しないと考えられるようになり、パフォーマンスや感情などの芸術家の主体性を可能な限り排除してシンプルな形式を反復しながら鑑賞者との関係性により芸術表現が完成する「ミニマル・アート」(ジャットなど)や芸術の形式ではなくコンセプトを重視しながら鑑賞者との関係性により芸術表現が完成する「コンセプチュアル・アート」(コスースなど)がアメリカを中心に生まれ、芸術表現への関与を「芸術家>鑑賞者」ではなく「芸術家<鑑賞者」として鑑賞者の主体性を重視する傾向が強くなりました。
 
▼フォーマリズムからの解放(多様なアートの誕生)
過去のブログ記事でも触れましたが、東西冷戦の対立(朝鮮戦争など)の深刻化を背景にイズムなど社会的な権威に反発するカウンター・カルチャーとしてヒッピ文化が隆盛し(S.ジョブズもヒッピー)、権威主義的なフォーマリズムの呪縛から芸術表現を解放する潮流が本格化しましたが、その世代がIT革命の思想的な基盤(例えば、管理者を置かない分散型ネットワークの発想など)を築いて、現代の多様な社会(多様なアートを含む)が誕生しています。
種類 表現 主体
フォーマリズム 形式美を重視 芸術家の主体性
  イズム(冷戦)
への反発
   
パフォーマンス
アート
パフォーマンス 芸術家の主体性
      心理学の影響
ミニマルアート シンプルな形式
の反復
鑑賞者の主体性
コンセプチャル
アート
コンセプト 鑑賞者の主体性
 
上述のとおり第一次世界大戦の勃発やダダイズムの影響によって人間の外側にある物質世界(具象)ではなく人間の内側にある精神世界(抽象)を表現するようになりましたが、本格的な消費社会(大量生産・大量消費型のアメリカ式資本主義)の到来によって再び人間の外側にある物質世界(具象)を表現することが見直されるようになりました。このような背景から、芸術の主題や素材の呪縛から芸術表現を解放する潮流が生まれ、これまで芸術の主題や素材として扱ってこなかった大衆文化を象徴する工業製品(廃棄物を含む)やイメージなどを即物的又は即興的に表現する「ネオ・ダダ」やその影響を受けた「ポップ・アート」(ウォーホルなど)などがアメリカで生まれ、ハイカルチャー(貴族文化)とローカルチャー(大衆文化)、オリジナルと模倣、イメージと意味などのボーダー(既成概念)を破壊しましたが、これは「グラフィティ・アート」、「マイクロ・ポップ」、「ネオ・ポップ」や「ナラティブ・アート」などの現代的な潮流へと受け継がれています。なお、「ネオ・ダダ」は、作曲家のジョン・ケージに影響を与え、音響を即物的(文脈から切り離された表現素材)及び即興的(創作者の作為から切り離された偶然性)に捉えた「4分33秒」などを生み出す契機になりました。その後、1990年代頃から東西冷戦の終結(ソビエト連邦崩壊、ベルリンの壁崩壊など)、グローバル社会の進展やインターネットの普及などを背景として、ボーダーレスやインタラクティブなどの新しい視点を採り入れる潮流が生まれ、芸術家と鑑賞者のボーダーを越えて芸術家と鑑賞者や鑑賞者相互のコミュニケーションそのものを芸術表現として捉える「リレーショナル・アート」、実用と娯楽のボーダーを越えて社会問題や政治問題に関するメッセージなどの実用表現を芸術表現として捉える「ソーシャルエンゲージ・アート」、文化のボーダーを越えて西洋中心の芸術観を見直し第三世界の芸術を尊重する「マルチ・カルチャリズム(多文化主義)」、メインカルチャー(貴族文化及び大衆文化のマジョリティ)とサブカルチャー(マイノリティ)を含むジャンルのボーダーを越えて複数のジャンルに跨った芸術表現を行う「アート・コラボレーション」などの現代的な潮流が生まれました。また、情報革命(IT、AIなど)を背景として、アートとテクノロジーを融合する潮流が生まれ、SNS、VR、AI、NFTやメタバースなどのデジタル環境が整備されるのに伴って、「サウンド・アート」、「スメル・ラボ」、「メディア・アート」(ビデオ・アート、インスタレーション・アート、インタラクティブ・アート、デジタル・アート、生成AIアート、バイオ・アートなどを含む)などの現代的な潮流が生まれています。現在はあらゆるボーダー(モダニズム)が取り除かれて混沌としている時代状況(ポスト・モダン)から、古いものと新しいものを再構成して多様な現代アートを育む時代(オルタナティブ・モダン)へ移行しつつあると言われています。
 
▼現代アートの泥酔沼(歴史編)
芸術は社会を映す鏡ですが、歴史的な潮流と絡めながら現代アートの歴史を大まかに俯瞰してみました。現代アートにインスパイアされた現代作曲家、現代音楽にインスパイアされた現代アーティストは数多いですが、それらを網羅的に併記することは紙片の都合から難しいので、別の機会に一覧してみたいと思います。
年代 アート 音楽
18世紀 産業革命
19世紀 写実主義 クラシック
1839年 カメラの発売 録音技術の発明
<世界の価値>
伝統から革新(モダニズム)へ
1860年 印象主義 ドビュッシー
1900年 キュビスム ストラヴィンスキー
フォービズム ヒンデミット
1914年 第一次世界大戦(中近世の社会体制の破壊)
ダダイズム(中近世の価値観の破壊)
現代アートの父・デュシャンの「泉」
<美術の対象>
人間の外側の世界(具象)から人間の内側の世界(抽象)へ
1920年 ドイツ表現主義 シェーンベルク
シュルレアリスム
1939年 第二次世界大戦
<世界の中心>
ヨーロッパ(貴族社会)からアメリカ(大衆社会)へ
1940年 抽象表現主義 シェーンベルク
1950年 東西冷戦の対立(朝鮮戦争、ベルリンの壁建設)
カウンター・カルチャーの隆盛(社会権威への反抗)
消費社会の到来
<美術の潮流>
イズム(モダニズム)からアート(ポストモダン)へ
1950年 形式からの解放
パフォーマンス・アート
ミニマル・アート
コンセプチュアル・アート
ケージ
ライリー(山梨県民)
主題、素材からの解放
ネオ・ダダ
ポップ・アート
1990年 東西冷戦の終結(ソビエト連邦・ベルリンの壁崩壊)
グローバル社会の到来(一極集中から多極分散へ)
情報革命(IT、AI) など
1990年 リレーショナル・アート
ソーシャルエンゲージ・アート
マルチ・カルチャリズム
アート・コラボレーション
テクノロジー・アート など
(略)
※上表の年代は、便宜上、大まかな目安を記載しており厳密ではありません。
 
▼現代アートの陶酔沼(鑑賞編①)
現代アート作品の写真を掲載する訳には行きませんので、実際の現代アート作品を鑑賞しながら現代アートの歴史を俯瞰することができるDIC川村記念美術館をご紹介しておきます。本当にここは日本なのかと驚くような充実した収蔵品の数々で、DIC川村記念美術館に足を運ぶ度に自分なりの新しい発見があり意識を変えられるのを感じます。
DIC川村記念美術館(千葉県佐倉市坂戸631
DIC川村記念美術館:20世紀以降の現代アート作品を中心に収蔵している日本を代表する美術館です。神の芸術とも言うべき四季折々の自然(庭園)も鑑賞できます。 ランプシェード(エンドランス天井):和菓子ではなく、DIC川村記念美術館のエントランス天井にあるランプシェードです。84枚の布を縫製して作られています。 立礼式茶席和菓子作家・ 坂本紫穗さんの監修で夏休み期間中の企画展「ジョセフ・アルバースの授業」に因んで「色彩演習」と題した創作和菓子が提供されていました。  収蔵品カタログ:ロスコ・ルームが有名ですが、レンブラント、モネ、ピカソ、シャガール、カンディスキー、ポロック、ステラ、藤田嗣治など鼻血が出てきそうです。
 
▼現代アートの陶酔沼(鑑賞編②)
2023年9月1日から映画「ウェルカム トゥ ダリ」が日本で公開上映中ですが、英米を拠点としているアート専門オンライン新聞「The Art Newspaper」によれば、資金不足により「the makers of the film Dalíland were unable to afford to license any of Dalí’s art 」(抜粋引用)とのことなので、ダリのコレクションで世界的に有名な「諸橋近代美術館」(福島県)とセットで鑑賞することをお勧めします!視聴後に無性にダリの絵を見たくさせられる映画です。徐々に気候も穏やかになってきていますので、福島を訪ねて、福島で遊んで、福島を食べて、芸術、観光、食欲の秋を満喫してみるのも良いかもしれません。
 
▼染田真実子チェンバロ・リサイタル
【演題】染田真実子チェンバロ・リサイタル「はなだま」(東京公演)
【演目】①久木山直 Falling Water 
               Flowing Flowers(委嘱作品)
    ②藤倉大 Jack(委嘱作品)
    ③カイヤ・サーリアホ Jardin Secret Ⅱ
    ④トリスタン=パトリス・シャル
       Camarette Fermentations(日本初演)
    ⑤松宮圭太 One up(委嘱作品)
【演奏】<Cem>染田真実子(①②③④⑤)
    <Rec>森本英希(④)
    <Elc>有馬純寿、松宮圭太(③⑤)
【場所】チャボヒバホール
【日時】2023年9月8日(金)19:15~
【一言感想】
過去のシリーズ「現代を聴く」でもご紹介しましたが、僕が知る限り、現状、日本国内で古楽器を使用した現代音楽の演奏(新作委嘱を含む)を精力的に行われている演奏家は指折りしかいませんが、その草分け的な存在として関西を本拠に活動しているチェンバリスト・染田真実子さんの名前を挙げることができます。今日は染田さんが東京で演奏会を開催されるというので、台風13号に伴う避難指示が出され、各所で道路が冠水していましたが、決死隊となって聴きに行くことにしました。今回の演奏会を聴いた全体的な印象としては、染田さんがチェンバロの伝統を踏まえながら、その伝統の枠を越えてチェンバロという楽器の表現可能性を新しい領域へ拡張して行く野心的な取組みが非常に斬新で面白く感じられ、とりわけアコースティック(アナログ)とエレクトロニック(デジタル)の境界を越えたハイブリッドな楽器としてのチェンバロという楽器の新しい表現可能性とその魅力に触れられたことは大収穫で、今後もその活動に注目して行きたいと思っています。なお、①②③はモダンピッチ(440Hz)、④⑤はバロックピッチ(415Hz)で演奏されました。因みに、染田氏の発祥地は奈良県宇陀市室生染田(旧、大和国山辺郡染田村)と言われていますが(一般に名字は地名が由来で、水田の土壌が衣服を赤く染めることに因んだ地名だとか)、を金色にめるりを予感させる充実した演奏会でした。
 
①久木山直 Falling Water 
               Flowing Flowers(委嘱作品)
久木山直さん(1958年~)は、MusicToday国際作曲コンクールや日本音楽コンクールなどに入賞された経歴を持ち、テレビ番組の音楽制作にも携わられているのでご存知の方も多いと思いますが、染田さんが桐朋音大でソルフェージュを学んだ際の指導教官だったそうです。現在も、桐朋音大洗足音大尚美学園聖徳大学などで後進の指導にあたられています。さて、プログラム・ノートには、チェンバロの響きを持続させながら停滞でも進行でもない揺れ動く時間の流れを表現したという趣旨のことが書かれています。チェンバロにはピアノのように離鍵してもダンパーを弦から上げておくためのダンパーペダルやソステヌートペダルに相当する機構がなく、離鍵すると直ぐにダンパーが下りて弦の振動を止めるので、基本的にチェンバロに豊かな残響を期待することはできません。そこで、久木山さんは同じ音型を反復することでチェンバロの響きに持続感を与えながら、その上声部を微かに変化させることで揺れ動く時間の流れを現代的に表現するように工夫したとのことです。左手は同じ音型を反復しながらしっかりとした安定感のある響きの土台を築き上げ(物理的な時間の流れ)、右手がゆっくりとしたテンポで短いフレーズを微かに変化させながら奏で、時折、そこに現代的な響きも織り交ぜて停滞でも進行でもないたゆたうような重層的な時間の流れ(文化的な時間の流れ)が表現されているように感じられました。
 
②藤倉大 Jack(委嘱作品)
チェンバロの発音機構の1つであるジャック(Jack)が題名になっていますが、ジャックはプレクトラム(昔は鳥の羽軸で作られた爪でしたが、現代はプラスチックで作られた爪)が設置されている木製の棒のことで、演奏家が鍵盤を押すとジャックが持ち上がってプレクトラムが弦を撥いて発音する仕組みになっています。これまで藤倉さんはバロック・フルート協奏曲「緑茶」(2021年)(バロック・フルート(フラウト・トラヴェルソ)+バロック弦楽器+ハープシコード(+テオルボ))を作曲した際にチェンバロの基本的なことについて学んだそうですが、ジャックを作曲するにあたっては染田さんから細かいアドバイスを受けながら作曲したそうです。一言で感想を言えば、撥弦楽器の特徴が十分に活かされた「爪(プレクトラム)」(又はジャック)を強く意識させる曲調に感じられ、撥弦楽器に特有のノイズを効果的に使ったアナログな響きから、エッジの効いた粒際立ったデジタルな響きまで多様多彩な響きを楽しむことができました。非常に楽想が豊かで、音色、音域や奏法もバリエーションに富んでいて飽きさせず、チェンバロの表現可能性に挑戦しているような意欲的な作品に感じられました。前回のブログ記事で現代音楽の受容環境(課題感)について触れたとおり、一夜限りの関係ではなく繰り返し聴いてみたいので音源があれば購入したいのですが、染田さんは音源をリリースされる予定はないでしょうか。
 
③カイヤ・サーリアホ Jardin Secret Ⅱ
過去のブログ記事でも触れたとおり、今年6月2日にフィンランド人作曲家のカイヤ・サーリアホさんが急逝されましたが、その早世を悼んで世界中で追悼公演が開催されており、日本でもK.サーリアホさんの作品が演奏会で採り上げられる機会が増えています。前回のブログ記事で触れたオーストリア人作曲家のオルガ・ノイヴィルトさんと共に、世界をリードする女性作曲家として注目され、コロナ禍の2021年に能「経正」及び能「羽衣」を題材にしたオペラ「Only the Spund Remains ~余韻~」が日本初演されたことは記憶に新しいところです。K.サーリアホさんはヘルシンキ大学で造形美術を学んだ経験があり音と色の共感覚を持っていたそうですが、音楽を視覚的に着想してスケッチを描きながら曲の構想を具体化していくという独特な作曲手法を採り入れ、その構想と音素材の組合せなどによって作曲していたと言われています。この点、K.サーリアホさんは音素材として音高に着目する機能和声は限界に達していることから、これに替わる音素材として音色に着目する作曲手法(Jardin SecretⅠ)や、リズムに着目する作曲手法(Jardin SecretⅡ)を考案し、この曲が誕生しています。この曲は、チェンバロ、エレクトロニック、声(K.サーリアホさんの肉声)が様々なリズムで絡み合いながら音場を形成して行きますが、視覚的、空間的な音場を形成している印象が強く、その楽曲の構成感や音素材の音響効果に劇性を感じさせる面白さがありました。後年、能を題材にしたオペラを作曲したのが頷けます。
 
④トリスタン=パトリス・シャル
       Camarette Fermentations(日本初演)
この曲には、Camarette Fermentations(カマレット発酵)という題名が付けられていますが、オーガニック・ワインの生産地として知られ、ワイン・ツーリズムの人気観光地でもあるカマレット(フランス)のワイン醸造所を舞台にした作品で、歌劇、楽劇ならぬ器劇とでも言うべき新しいジャンルの音楽劇のように感じられました。冒頭、リコーダー奏者の森本英希さんがリコーダーを演奏しながら入場し、会場(ぶどう畑?)の周囲を見回したり、楽譜(ワイン樽?)の周りを周回したり、また、染田さんも腕を突き上げたり(ぶどうの収穫?)、掌を顔に当てたり(ワインの香りを嗅ぐ?)などのパフォーマンスを随所に挟みながら演奏が展開されていきました。途中、森本さんと染田さんが床に膝を付きながら演奏する場面がありましたが、これは発酵又はミサ(キリストの血)をイメージしたパフォーマンスだったのでしょうか。森本さんと染田さんが言葉を発する場面があり、本日は作曲家の了解を得てフランス語ではなく関西弁で実演されましたが、音楽やパフォーマンスだけでは抽象的なイメージしか伝わって来ませんので、この歌がない器劇を鑑賞するにあたっての有効な手掛りとなっていました。最後は森本さんと染田さんが足踏み(ぶどうの足踏み?)をしながら退場しましたが、レストランでワインでも楽しみながら鑑賞したくなる愉快な作品でした。カマレット産のワインは、まろやかな渋味のある香り豊かで肉厚な風味が特徴なので(肉料理にぴったり!)、ご興味のある方はお試しあれ。酒に音楽に人生に酔い給え(C.ボードレール)。
 
⑤松宮圭太 One up(委嘱作品)
松宮圭太さん(1980年~)は、第8回武生作曲賞、第8回デステロス作曲コンクール第3位などを受賞しており、現在、最も注目されている若手作曲家の1人です。この曲はチェンバロとエレクトロニックのための作品ですが、エレクトロニックはサラウンド・スピーカーではなくチェンバロの響板に振動スピーカーを圧着してチェンバロの弦を共鳴させるというハード面でのハイブリッド楽器を実現するための初の試みで、図らずも、この歴史的な事件とも言える演奏会に立ち会った生き証人の1人になりました。この曲の題名である1UPとはコンピュータゲーム用語ですが、松宮さんはゲーム音楽も手掛けられる作曲家で、この曲ではチェンバロの音楽書法(レジスターによる音色の変化、アーティキュレーションや装飾音による表情の変化などを利用したアナログな書法)とゲーム音楽の音楽書法(三角波、矩形波、パルスやノイズなどによる音色の変化、高速アルペジオによる疑似和音の生成などを利用したデジタルな書法)を採り入れたソフト面でのハイブリッド音楽まで実現しています。このように古楽(アコースティック)と現代(エレクトロニック)を深層で融合する斬新な試みによって、アコースティックな響きとエレクトロニックの響きの境界が曖昧になり、これらが混然一体となって1つのハイブリッドな世界観を表現している非常に面白い音楽体験を楽しめ、チェンバロの異次元の表現可能性を堪能できました。ヴラヴィー!それにしても最近の若手芸術家は、過去の概念、習慣や伝統に縛られることなく、幅広い教養と柔軟な発想で面白いことを考えているなと感心させられます。新しい芸術表現が生まれようとしているホットな現場に立ち会っているような興奮を禁じ得ません。今後も集中的にウォッチして行きたいと思っています。
 
 
▼B→C バッハからコンテンポラリーへ 254黒川侑
【演題】B→Cバッハからコンテンポラリーへ254黒川侑
【演目】①J.S.バッハ ヴァイオリン・ソナタ第4番ハ短調
    ②カイヤ・サーリアホ トカール
    ③ヤニス・クセナキス ディクタス
    ④J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調
    ⑤ロディオン・シチェドリン エコー・ソナタ
【演奏】<Vn>黒川侑(①②③④⑤)
    <Pf>秋元孝介(①②③)
【場所】東京オペラシティー・リサイタルホール
【日時】2023年9月12日(火)19:00~
【一言感想】
1998年から東京オペラシティ文化財団の主催事業としてバッハのバロック音楽(BachのB)と現代音楽(ContemporaryのC)からプログラムを構成するソロリサイタル企画「B→Cシリーズ」が開催されていますが、個人的には「のだめカンタービレ」的なものに愛想を尽かし始めた2010年頃から転機を迎え、その火種がアフターコロナに本格化した初演ブームとして華開して現代音楽を取り巻く状況が一変したように感じます。「B→Cシリーズ」の過去の出演者や演目を紐解いてみると、このような日本における現代音楽の受容が黎明期から過渡期を経て成長期へと至る道程の一端を伺い知ることができて非常に興味深いです。関東地方では、サントリーホール、両国門天ホール及びトーキョーコンサーツ・ラボなどと共に、東京オペラシティが質及び量ともに現代音楽を育む中心的な役割を担う殿堂と言えるのではないかと思います。今日は音楽の父・バッハのDNAがコンテンポラリー音楽にどのように昇華しているのか、その一端が感じられる趣向が凝らされた演目を楽しむことができましたが、中世日本から伝わる「置き合わせ」の文化のセンスを感じさせるヴァイオリニスト・黒川侑さんの企画力にも唸らされました。
 
①J.S.バッハ ヴァイオリン・ソナタ第4番ハ短調
現代作曲家から常に参照され、多大な影響を与え続けているJ.S.バッハの音楽には時代の風雪に揺らぐことのない圧倒的な存在感や説得力がありますが、もはや多くのことが語り尽くされている感があり、今更、J.S.バッハの音楽の感想を書くのは気が引けますので、以下の②及び③の演目との関連で若干触れる程度に留めます。
 
②カイヤ・サーリアホ トカール(2010年)
J.S.バッハのヴァイオリン・ソナタ第4番は1人目の妻と死別した年に作曲されており、第一楽章の哀切な鳴き節はK.サーリアホさんへの追慕の情を湛えているようで聴かせるものでした。また、消え入るような弱音のあしらいやモダン・ピアノによる演奏の利点を活かした立体的な音響構築などピアニスト・秋元孝介さんの伴奏は細部への配慮が行き届くもので出色でした。J.S.バッハのヴァイオリン・ソナタ第4番第二楽章ではJ.S.バッハが得手とする半音階進行が登場しますが、K.サーリアホさんはスペクトル学派第二世代に位置付けられ、中心音と半音や微分音との間の揺れを音素材として和音を構成する作曲手法を採り入れていたことから、J.S.バッハの半音階進行の現代的な進化系として捉えることもできるかもしれません。さて、この曲の題名になっているトカールとはスペイン語で「触れる」という意味ですが、ヴァイオリンとピアノが有機的に絡み合う造形美ではなくヴァイオリンとピアノが繊細に触れ合う印象美が魅力的に感じられました。ヴァイオリンは抑揚の効いたポルタメントやデュナーミク、ハーモニクスなどを精妙に操りながらアールを感じさせる流線的な響きを奏で、また、ピアノは微かに変化する色彩感を感じさせる点描的な響きを奏でながら、それらの異なる音像のイメージが重なり合って1つの世界観を描き出し、さながら抽象絵画を鑑賞しているような印象深い演奏を楽しむことができました。
 
③ヤニス・クセナキス ディクタス(1979年)
J.S.バッハは数字の宗教的な意味などを意識して作曲していたことが指摘されていますが、音楽の専門教育を受けていなかったI.クセナキスは師匠のO.メシアンから和声法ではなく既に専門教育を受けている数学や建築学を作曲に活かしてはどうかというアドバイスを受けて、トータル・セリエリズムに対するアンチテーゼとしてコンピューターによる確率論を使って建築よろしく音楽を設計して作曲するストカスティック・ミュージックという作曲技法を考案するなど、J.S.バッハと同様に数字を意識した作曲を行っていました。因みに、2025年の大阪・関西万博に関する話題を耳にするようになりましたが、1970年の大阪万博では鉄鋼館でI.クセナキスの電子音楽「響-花-間」(委嘱作品)が使用され、また、ドイツ館でK.シュトックハウゼンによる電子音楽のライブ演奏が行われ、さらに、現代作曲家のP.スカルソープやB.ツィンマーマンなどの作品も使用されるなど最新の現代音楽の博覧の場にもなっていたようで、日本の戦後復興の勢いを感じさせるアバンギャルドに彩られた刺激的な催しだったようです。果たして、パビリオン建設でモタついている現在の凋落日本が前回の万博を越える斬新なものを世界に発信できるのか注目されます。さて、この曲の題名になっているディクタスとはヒンディー語で「2つの本性から作られた1つの人格のようなもので二重の実在を意味」しているとのことですが、「状態の重ね合わせ」(量子物理学)のようなものを意味しているのかその語感はよく分かりません。I.クセナキスは、ブラウン運動(気体や液体を構成している分子は常に振動しており、人間はこの分子の振動を熱として知覚し、この分子の振動が激しくなるほど熱さを感じますが、気体や液体の中に含まれている微粒子がこの分子の振動に衝突して不規則な運動を繰り返す現象)の確率論に着想を得てこの曲を作曲しましたが、冒頭のピアノの硬質な響きは気体や液体の分子の振動を表現したものであり、これに呼応するヴァイオリンがグリッサンド、重音、スタッカートなどによりこの分子の振動に影響されて活性化されるブラウン運動を表現したものに感じられ、ポリリズムなど複雑なリズムを使って物質の状態が複雑に変化して行く様子が音楽的に表現されています。黒川さんは老練巧みな手綱捌きで銘器グァルネリ(1742年製)を手懐けて、そのパワフルなサウンドを効果的に活かしながら、この難曲を変幻自在にドライブする解像度の高い演奏を展開し、これに秋元さんがセンシティブかつスリリングに呼応する精妙なアンサンブルを楽しめました。さながら数理モデルを見るような冷徹な美しさとスリリングに展開される活性状態が同居しているような饒舌な演奏を堪能できました。
 
④J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調
現代作曲家から常に参照され、多大な影響を与え続けているJ.S.バッハの音楽には時代の風雪に揺らぐことのない圧倒的な存在感や説得力がありますが、もはや多くのことが語り尽くされている感があり、今更、J.S.バッハの音楽の感想を書くのは気が引けますので、以下の⑤の演目との関連で若干触れる程度に留めます。
 
⑤ロディオン・シチェドリン エコー・ソナタ(1984年)
R.シチェドリンの妻はバレリーナ・M.プリセツカヤで、チェリスト・M.ロストロポーヴィチなどの献身的な尽力により世界的な知名度を得て行きました。無伴奏ヴァイオリンのためのエコーソナタは、J.S.バッハの生誕300年を記念して作曲された音楽で、既にヴァイオリニスト・M.ヴェンゲーロフらが音盤をリリースしていますので日本でも知名度が高い演目です。個人的には、R.シチェドリンが作曲した「24の前奏曲とフーガ」(1963年/1970年)を好物にしており(この曲はJ.S.バッハの没後200年を記念して開催された第1回国際バッハ・コンクールに優勝したT.ニコラエワの演奏を聴いたD.ショスタコーヴィチが触発されて作曲した「24の前奏曲とフーガ」(1951年)に倣って作曲されたもの)、どなたか演奏会で採り上げて頂けないものかと切望している1曲です。さて、エコー・ソナタは、冒頭でソロ・ヴァイオリンが主題を提示し、その主題が9つに変奏されてエピローグを迎えるという構成になっていますが、第7変奏でJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番からフーガがレファーされ、また、エピローグで無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番からアンダンテ及び無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番からガボットがレファーされていますが、このレファーされた部分以外にも随所にバッハのエッセンスのようなものが感じられます。デュナーミクや重音などを巧みに利用した空間的な広がり(遠近的なエコー効果)を演出するだけではなく、現代的な響きの中にバッハのイディオムが変形又は変質されて織り込まれているような印象を受けるという意味で時間的な広がり(重層的なエコー効果)をイメージさせる音楽になっている点が興味深く、そのような多様なエッセンスを纏綿と表現し尽す黒川さんの辣腕に舌を巻くような圧巻の演奏を楽しむことができました。「B→Cシリーズ」はコンセプチャルな企画なので、本日の演目はその企画意図を意識してどのような理由や視点などから選曲したものなのかを含めて簡単なレクチャーなどがあると、一層と楽しみが広がると感じます。
 
 
▼FAZIL SAY 2023
【演題】FAZIL SAY 2023 SAY PLAY SAY
【演目】①ファジル・サイ 無伴奏ヴァイオリンのための「クレオパトラ」
    ②ファジル・サイ
          ヴァイオリン・ソナタ第2番「イダ山」(日本初演)
    ③ファジル・サイ ピアノ・ソナタ「ニューライフ」
    ④ファジル・サイ ピアノ曲「3つのバラード」
    ⑤ファジル・サイ ピアノ曲「パガニーニ・ジャズ変奏曲」
    ⑥ファジル・サイ ピアノ曲「サマータイム変奏曲」
    ⑦ファジル・サイ ピアノ曲「トルコ行進曲・ジャズ変奏曲」
【演奏】<Pf>ファジル・サイ(①③④⑤⑥⑦)
    <Vn>服部百音(①②)
【場所】紀尾井ホール
【日時】2023年9月14日(木)19:00~
【一言感想】
度々、来日して精力的に演奏活動を行っているトルコ人作曲家兼ピアニストのファジル・サイさんですが、2023年2月に新盤「J.S.バッハ ゴルトベルク変奏曲」をリリースしたことに伴って「FAZIL SAY 2023」を開催することになり、新作の日本初演もあるというので聴きに行くことにしました。個人的には2008年にすみだトリフォニーホールで開催された「ファジル・サイ プロジェクト in Tokyo 2008」爾来のライブになります。なお、ヴァイオリニスト・服部百音さんは2009年(当時10歳)にヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールを史上最年少で優勝し、現在は桐朋音大院に在籍して研鑽を積まれていますが、作曲家の服部良一(曾祖父)、服部克久(祖父)、服部隆之(父)の血筋を汲む毛並みの良さに留まらず、その演奏に接すると音楽に対して妥協を許さない覚悟や凄みのようなものまで伝わってきます。なお、⑤⑥⑦のクラシック音楽のジャズ変奏は、サイさんが自家薬籠中とするレパートナリーで過去に数多くの演奏会で採り上げられていますので感想を割愛します。
 
①ファジル・サイ 無伴奏ヴァイオリンのための「クレオパトラ」
この曲は2011年のアンリ・マルトー国際ヴァイオリン・コンクールの課題曲として委嘱され、フランス人ヴァイオリニスト兼作曲家のA.マルトーへのオマージュとして、A.マルトーの24のカプリースより第10番「間奏曲:第5ポジションのための練習曲」を参照して作曲されています。アラビア音階風のオリエンタルな響きが特徴ですが、東西文化が交錯するアラブ・中東のエキゾチックな風情を湛えているような独特のあしらいの左右のピッチカートやコル・レーニョ、また、クレオパトラの波乱に満ちた人生を象徴するような時に妖艶で時に峻烈な表情豊かなアルコやハーモニクスなど多彩な技巧を駆使してアラビアの独特な世界観が描かれています。服部さんはまるでクレオパトラが憑依したかのような集中力の高い演奏でアグレッシブに音楽をドライブし、複雑なリズムを明晰かつ闊達に操る雄弁な演奏で会場を魅了していました。会場にはちびっ子の姿も目立ちましたが、とても刺激になる演奏だったのではないかと思います。なお、過去のブログ記事でも触れましたが、この曲の標題になっているクレオパトラ(カエサルの死後、紀元前41年にトルコでアントニウスと結婚)は世界で最初にアイラインやアイシャドウを使用した人と言われていますが、本日の服部さんはマラカイト(弘雀石)をイメージさせるグリーンを貴重とする華やかなドレスだったので、クレオパトラのアイラインを意識した衣装かもしれません。おそらくこの曲は服部さんのレパートリーに加えられているのではないかと思いますので、次の再演の機会も心待ちにしたいと思います。
 
②ヴァイオリン・ソナタ第2番「イダ山」(日本初演)
ヴラヴィー!この曲は、2019年にマスコミ報道されて問題が明るみになったイダ山の鉱山採掘事業による環境破壊に対する抗議のための音楽であり、上述したソーシャルエンゲージ・アートの1種と言えるかもしれません。1993年にイダ山は国立公園に指定されましたが、その後、2010年にトルコ政府はカナダの採掘会社に約9000万ドルでイダ山の採掘権(主に金や銀)を与え、これまでに鉱山採掘のために約20万本以上の木が伐採され(トルコ政府から許可された伐採本数の約4倍だそうです)、また、鉱山採掘に使用された約2万トンのシアン化物や水銀などによって深刻な土壌汚染が発生しているそうです。さて、第一楽章は「自然の破壊」、第二楽章は「傷ついた鳥」、第三楽章は「希望の儀式」という標題が付されていますが、この未曽有の環境破壊を世界(次世代を含む)に告発し、その抗議の意志を歴史的に刻印する意義を持った正しく現代に息衝いている音楽です。この点、日本でも神宮外苑の再開発問題が社会的な議論になっていますが、これに反対する日本の芸術家も多いと聞いていますので、果たして、どのような表現で抗議しようとしているのかウォッチしてみたいと思っています。第一楽章ではサイさんがピアノでトーンクラスターのような低音群を破壊的に連打して採掘機による掘削を描写し、これに服部さんが自然が泣いているような哀愁を湛えたヴァイオリンで歌い添う印象的な始まりになっています。サイさんと服部さんが切迫したリズムで打撃音、反復音や跳躍音などを繰り返しながら際限のない環境破壊を迫真的な表現で描写し、やがて自然の死を告げるように服部さんが物悲しくも不気味なハーモニクスを奏でると、全てが死滅した荒涼とした音世界が眼前に広がり息を呑みましたが、このような明確なイメージを音楽的に共有できる説得力のある表現力に脱帽してしまいます。第二楽章では服部さんが鳥の鳴き声を生き生きと可愛らしく描写していましたが、サイさんが物憂げな不協和音を漂わせて鳥たちに迫る災禍を効果的に暗示していました。再び、採掘機の音が鳴り響くと、鳥の鳴き声がか細く消え入るという印象的な終わり方になっています。耳障りの良いヒューマニズムという感傷と傲慢がもたらす災禍に対する自戒の念を強くするという意味でも、服部さんが鳥の鳴き声を可愛らしく描写していたのは効果的であったと思います。第三楽章ではヴァイオリンとピアノの快活なパッセージが続きますが、これはイダ山の鉱山採掘事業による環境破壊に対する抗議を表現したものに感じられ、再び、服部さんが鳥の鳴き声を奏で出してイダ山に自然が戻ってくるという明るい未来が暗示されています。エピローグではピアノの独奏が静かに聴衆に語り掛けてきますが、その音楽的なメッセージに心を澄まされる感動的な終曲になっていました。是非、再演を待ち望みたいです。なお、平成11年生まれの服部さんは9月14日が誕生日だそうで、サイさんがハッピーバースデーを演奏し、花束をプレゼントするというサプライズがありました。サイさんに誕生日を祝って貰えるとは羨ましい...。
 
③ファジル・サイ ピアノ・ソナタ「ニューライフ」
この曲は、新型コロナウイルス感染症のパンデミック禍で作曲した音楽で、新型コロナウィルスのパンデミック禍を表現したものだそうです。2023年5月5日にWHOは新型コロナウイルス感染症に関する「国際的な公衆衛生上の緊急事態」の宣言は終了すると表明しましたが、未だその脅威は消えていないとして、現状、パンデミック(世界的大流行)の宣言は継続しています。第一楽章のイントロダクションではピアノ・ソナタ第2番「イダ山」やアンコールとして演奏されたピアノ曲「ブラック・アース」でも見られたピアノの内部奏法(ピアノの弦を手で撫でる、弾く、押さえるなど)が使用され、新型コロナウィルスが人間の遺伝子を乗っ取って感染する様子を描写したものに感じられました。これに続くアレグロでは主題と変奏が展開され、人間に感染した新型コロナウイルスが変異しながら感染を拡大して行く脅威を描写したものに感じられました。第二楽章のペザンテでは重々しい印象の曲が展開され、パンデミック禍の不不確実性や不安に苛まれた時代の空気感を印象的に表現したうで、静寂な印象の曲に変わり、ロックダウンによって人影がなくなった閑散とした街並みを印象的に表現しているようでした。第三楽章のフィナーレではリズミカルで感興に乗じた快活な音楽が展開し、漸く日常生活を取り戻した希望が表現されているようでした。近年、人類とウィルスの闘いが本格化してきた背景として、南北間の経済格差を解消するために北半球の資本を投入して南半球の開発を急速に進めた結果、これまで自然界に閉じ込められていた未知のウィルスが人間界に侵入し易くなったことが触れていますが、この曲は単にパンデミックの記憶を綴るというだけではなく、ピアノ・ソナタ大2番「イダ山」でも表現されているとおり、自然と人間がどのように対称性を取り戻し、調和して行けるのかという現代的な課題を浮き彫りにしているようにも感じれ、色々と考えさせられる音楽でした。
 
 
▼第8回両国アートフェスティバル2023
【演題】第8回両国アートフェスティバル2023
    <第4夜>映画と音楽、そして対話~音楽から映画を照射する
【演目】①西陽子 ゴッホへの手紙(委嘱作品)
    ②山田岳 シャドウランズの踊り子(委嘱作品)
    ③田中慎太郎 Echoes of the Phamtom Palace(公募作品)
     ※2台のピアノのための公募作品「山本純ノ介賞」受賞
    ④RINA 父親からの贈り物(公募作品)
     ※2台のピアノのための公募作品「佐藤利明賞」受賞
    ⑤林正樹 解放(委嘱作品)
【演奏】<箏>西陽子(①)
    <Gt>山田岳(②)
    <Pf>吉森信(①)、川村恵里佳(②)、山田剛史(③④)、
        入川舜(③④)、林正樹(⑤)、田中信正(⑤)
【対談】現代作曲家 山本純ノ介
    映画研究科 佐藤利明
【場所】すみだトリフォニーホール小ホール
【日時】2023年9月15日(金)19:00~
【一言感想】
現代音楽の殿堂・両国門天ホールの主催で第8回両国アートフェスティバル2023が開催されていたので聴きに行くことにしました。今年のテーマは「映画と音楽、そして対話」ですが、映画研究家・佐藤利明さんを芸術監督に迎えて「第一夜:ヨーロッパの映画」(筝とピアノ)、「第二夜:アメリカの映画」(ギターとピアノ)、「第三夜:日本の映画」(2台のピアノ)、「第四夜:音楽から映画を照射する」(筝とピアノ、エレキギターとピアノ、2台のピアノ)というシリーズ公演が開催され、各回とも「映画と音楽」という切り口による対談及びピアノを使った特殊編成による映画音楽の演奏が行われましたが、架空の映画のための委嘱及び公募の新作を演奏する第四夜を聴きに行くことにしました。過去のブログ記事でも触れたとおり、現代音楽の受容史は映画、テレビ及びゲームなどのメディアを抜きにしては語れませんが、これらのメディアを通して現代人の「耳」(脳の認知モデル)が鍛えられたことで、古い世代の「耳」(脳の認知モデル)とは異なり新しい世代の「耳」(脳の認知モデル)は前衛音楽の無調などに違和感がないハイブリッドな仕様へアップロードされています。過去のブログ記事でも触れましたが、一般的に伝統的な西洋音楽の調性を心地よく感じるのは「先天的に備わっているもの」(聴覚固有の形質)ではなく「後天的に備わったもの」(音楽的な経験)であることが分かっており、伝統的な西洋音楽と無縁な生活を送っている南米の先住民チマネ民族は協和音及び不協和音に対する快感又は不快感の区別が存在せず、協和音及び不協和音を同じように快いと感じているという研究結果も発表されています(イギリスの総合科学雑誌「Nature」(2016年7月発刊535号)より)。この点、上述のとおり人間の認知を公式化すると「認知=知覚記憶」になりますが、人間は生存可能性を高めるために自然界に存在する無数の選択肢の中から幾つかのパターンに絞り込んだ認知モデル(認知バイアスや世代間ギャップの素)を作り迅速な状況判断や未来予測を可能にしましたが(モダニズム的な仕組み)、その限界(殻)を破ることが創造や発明などにつながると考えられています(ポスト・モダン的な発想)。映画「ター」でも描かれていましたが、クラシック音楽界(教育現場を含む)の一部に残る権威主義的な体質は、古い世代が後天的に得てきた経験(知覚)によって形成された記憶に基づく認知モデルを絶対的なものであると過信し、その規範に当て嵌めて新しい世代が挑戦しようとしていることを評価し、これを改めさせようとする態度と言えるかもしれません。現在は変革の時代と言われ、芸術の分野に限らずあらゆる分野で、これまでの経験(知覚)によって形成された記憶に基づく認知モデルを懐疑し、その限界(殻)を破ることに挑戦することが求められていますが、アメリカ人などと比べるとドーパ民の割合が少ないと言われる日本人は保守的な傾向が強く革新的な発想が不得手なのかもしれません。海外と比べて日本では、新しい世代の作曲家及び演奏家の挑戦を聴きに行こうという古い世代の聴衆が少ない傾向があることに歯痒さを覚えます。
 
①西陽子 ゴッホへの手紙(委嘱作品)
架空の映画「ゴッホへの手紙」を構想し、その映画のために筝とピアノのための音楽を作曲したそうです。この映画は、心に虚しさを抱えた一人の少女がゴッホの自画像(この映画で想定されているゴッホの自画像がどれなのかは特定されていませんが、「耳を切った自画像」(1889年)には画中画として龍明鬙谷の浮世絵「芸者と富士」(1870年代)が描かれており、ゴッホのジャポニズム熱が窺い知れます。)にインスパイアされ、ゴッホが弟テオに宛てた手紙を紐解きながら、①ゴッホの自画像(テーマ曲の提示)、②アトリエ(アルル)、③浮世絵(江戸)、④星月夜(サン=レミ)、⑤ゴッホの自画像(テーマ曲の再現)(オーヴェル=シュル=オワーズ)を旅する白昼夢を見ますが、その白昼夢から目覚めた少女はゴッホに届くことのない手紙を綴って終曲するという構成になっています。今日は、西陽子さんが4面の筝(十三絃、十七弦、二十弦、二十五弦の4種類?)を並べて演奏し(因みに、宮城道雄がモダン・ピアノの88鍵を意識して八十弦の筝(宮城道雄記念館所蔵)を考案しましたが、現在では使用されていないようです)、吉森信さんがモダン・ピアノによる伴奏を努め、上記の5つのパートの間に西さんがゴッホがテオに宛てた手紙を抜粋して朗読するという形で進行しました。冒頭のテーマ曲を提示するパートは非常にメロディアスな曲調だったのでゴッホが精神を病む前の自画像を想定していたのかもしれません。その後、短いモチーフを繰り返すミニマル音楽風の曲が展開されますが、アトリエでのゴッホの創作活動の様子を描写したものかもしれません。次に、ジャポニズム(日本情緒)が漂う筝曲が演奏されますが、やがてピアノが筝曲の調子とは異なる西洋音楽を奏で出し、日本文化と西洋文化の交流(それぞれの特徴が融合して別のものになる「混ぜる」ではなく、それぞれの特徴が損なわれることなく調和する「和える」)が表現されていたと思われます。その後、ゴッホが精神を病むとノイズが多用される重苦しく音楽が奏でられますが、西さんが筝の弦に金属のようなものを当て独特の響きを生み出していたのが面白く感じられました。過去のブログ記事でも触れましたが、邦楽はクラシック音楽のように演奏家と作曲家の分離が進まなかったことが現代筝曲としての目覚ましい進化に大きく寄与しているように感じられます。再び、冒頭のテーマ曲が奏でられ、白昼夢から覚めた少女がゴッホへの手紙を綴って終曲しますが、現実と幻想を往還する循環形式による朗読劇の構成感や物語性、各々の場面のイメージを豊かにする斬新な音楽性が有機的に結び付いて表現効果を生んでおり、非常に完成度の高い作品に感じられました。
 
②山田岳 シャドウランズの踊り子(委嘱作品)
山田岳さんは、架空の映画を構想するにあたり、当世流行の生成AIを活用されたそうですが、既に多くの現代作曲家は楽曲のアレンジなど創作の一部に生成AIを活用しており、そのような作品を耳にする機会も多くなってきています。山田さんは「自分の想像力の外からの影響が惜しかったのでタイトルをAIに考えてもらうことにした」とのことで、生成AIが「シャドウランズの踊り子」というタイトルとこれに関連した短いプロットを作成し(但し、この曲は具体的なシーンを想定して作曲したものではないため、そのプロットは非公開)、それらに着想を得て作曲したそうです。因みに、僕が調べた限りでは、未だ日本国内では「シャドウランズ」(Shadowlands)という文字で商標登録されたものは存在していないようです。この点、生成AIの活用にあたっては知的財産権の侵害(タイトルでは商標権、コンテンツでは著作権など)が社会的な話題になっていますが、個人的には、生成AIの活用にあたって一番大きな問題であると感じている点は、知的財産権などの利害調整の問題というよりも、現状、生成AIが「英語」又は「英語文化圏」をベースに開発されており、生成AIを活用した創作の過程における思考そのものが「英語」又は「英語文化圏」による思考やそれに基づく最適解に画一化されてしまう虞があるのではないかという点にあるのではないかと感じています。日本文化は外国文化(外来語を含む)を柔軟に取り込んできた適応力に強みがあると言われていますが、その一方で、戦後の西洋偏重主義に基づく義務教育が齎した弊害とその反省を踏まえれば、生成AIを社会実装して行く段階で、日本語による思考や「英語」又は「英語文化圏」による思考に基づく最適解以外の選択肢の可能性が損なわれることがないような慎重な配慮が求められます。AIは人間から仕事やその他の何かを奪うものではなく、産業革命が人類を重労働から解放したように、AI革命は人類を労働そのものから解放し、新しい恵みを齎す可能性を秘めていますが、それだけに副作用も大きくなる可能性がありAIの社会実装にあたっては多面的な思慮が必要ではないかと思います。閑話休題。この曲の冒頭ではエレキギターを使って台詞のようなものを語り掛けてきていましたが、その後の中間部では映画で使用される特殊効果音へのオマージュとして実験的な面白い試みを聴くことができました。過去のブログ記事でも触れましたが、映画の特殊効果音はハリウッド界隈の専売特許ではなく、日本でも佐藤勝が映画「用心棒」の斬殺音(人が刀で斬られる音)や伊福部昭が映画「ゴジラ」のゴジラの鳴き声(コントラバスと動物の鳴き声を合成)などの特殊効果音が考案されて、これらがハリウッドにも採り入れられていますが、さながら映像はデッサン、音楽(特殊効果音を含む)は色彩と形容することができるかもしれません。今日の公演ではモダン・ピアノの響版とエレキギターのアンプやスピーカーが対抗するようにモダン・ピアノが斜めに配置されていましたが、それが劇的な効果を生み、当初、バラバラに聴こえていたモダン・ピアノのアコースティックな響きとエレキギターのエレクトロニックな響きが次第に融合して独特な音場を形成して行く非常に面白い演奏を聴けました。上述の他公演で初演された松宮圭太さんの「One Up」という作品では、チェンバロの響板にエレクトロニックの振動スピーカーを圧着してハイブリッドな音場を生み出す面白い演奏を聴きましたが、これと同じような効果がモダン・ピアノでも得られており、エレキギターの響きがモダン・ピアノの響きに取り込まれて、モダン・ピアノが時にアコースティックに振る舞い、時にエレクトロニックに振る舞う正しくハイブリッドな音世界を堪能できました。現代音楽を得手とするピアニストの川村恵里佳さんによる精妙な響きのあしらいが演奏効果を一段と高めていたと思います。過去のブログ記事で紹介した山根明季子さんの2台ピアノのための「eye glitch animated eye」(2021年に両国門天ホールで初演)も四分音ピアノを効果的に使って異次元の音世界を表現していましたが、この曲でもモダン・ピアノという楽器の表現可能性を十分に引き出した歴史的な事件とも言い得る意欲作であり、ピアノ音楽の可能性を探求する両国門天ホールの面目躍如たる公演であったと思います。是非、山田さんには、このユニークな音楽的アイディアを様々な音楽に応用して革新的な世界観を楽しませて貰いたいと期待しています。
 
③田中慎太郎 Echoes of the Phamtom Palace(山本純ノ介賞)
④RINA 父親からの贈り物(佐藤利明賞)
複数の公演の感想をまとめて投稿したことにより紙片の都合からごく短い感想に留めておきます。指揮者の故・山本直純さんをご尊父に持つ作曲家の山本純ノ介さんが公募作品の審査員として招聘され、冒頭で音楽から映像が浮かんでくるような作品を選んだという総評がありました。先ず、山本純ノ介賞は田中慎太郎さんの「Echoes of the Phamtom Palace」が受賞されました。この曲は映画「雨月物語」から着想を得て作曲したそうですが、早坂文雄さんが作曲した笙のハーモニーと能楽囃子、筝、三味線を組み合わせた印象的なテーマ曲へのオマージュとして合竹(笙の和音)を使用し、ミニマル音楽風の映画のシーンが蘇ってくるような幻想的な美しい曲に魅了されました。次に、佐藤利明賞はRINAさんの「父親からの贈り物」が受賞されました。この曲は映画「Life Is Beautiful」から着想を得て作曲したそうですが、ジャズピアニストでもあるRINAさんは中間部でブルーノート音階を効果的に使用してユダヤ人家族の悲惨な境遇を音楽的に表現していましたが、全体的に明るい曲調でメロディアスな印象の音楽が非常に聴き易く感じられました。演奏は現代音楽の演奏でも定評のあるピアニストの入川瞬さんと山田剛史さんでした。
 
 
【訃報】現代作曲家・西村朗さん
本日、現代作曲家・西村朗さんが9月7日に急逝されたという訃報が飛び込んできましたが、あまりに突然の早世に言葉がありません。西村さんがパーソナリティーを務めていたNHK-FM「現代の音楽」を愛聴していましたので、大きな喪失感に苛まれています。NHK-FM「現代の音楽」では「よく分かりませんね~」など西村さんの気さくな人柄が滲み出るコメントに吹き出していましたが、素人にも分かりやすい解説で現代音楽の魅力を伝えてくれ、世界観を広げてくれた僕にとって掛け替えのない貴重な芸術家の1人でした。昨年、道元禅師の仏教思想書「正法眼蔵」の梅華の巻にある「華開世界起」という思想から着想を得て作曲した「華開世界~オーケストラのための」(2020年)で第69回尾高賞を受賞し、これから益々の活躍が期待されていた矢先の不幸ということもあり本当に残念でなりません。衷心よりご冥福をお祈り致します。なお、9月17日及び24日に放送予定のNHK-FM「現代の音楽」は「追悼~作曲家・西村朗」と題して西村さんの主要作品を紹介しながら、西村さんを偲び、お別れするための特番になっており聴き逃せません。また、10月からのNHK-FM「現代の音楽」のパーソナリティーは、前回のブログ記事でも触れました現代音楽のエキスパート・白石美雪さんが引き継がれるそうなので、西村さんが種を撒いて芽吹かせた現代音楽ブームの潮流(華)を白石さんが美しく咲かせてくれること(開)を期待し、応援したいと思っています。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.28
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼カルロス・シモンのピアノ三重奏曲「be still and know」(2015年)
アメリカ人現代作曲家のカルロス・シモン(1986年~)は、現在、ジョン・F・ケネディ舞台芸術センターのレジデント作曲家で、最新アルバム「Requiem For The Enslaved」は1838年にジョージタウン大学で奴隷売買された272人の黒人を追悼する音楽として作曲され、2023年にグラミー賞(最優秀現代音楽作曲賞)にノミネートされて話題になるなど、現在最も注目されている若手現代作曲家の1人です。この曲は、テレビ司会者のO.ウィンフリーがインタビューで神の降臨を感じながら生きてきたと語ったことにインスピレーションを受けて作曲したものです。
 
▼ピアニスト:イム・ユンチャン/尹伊桑(ユン・イサン)のピアノ曲「5つの小品」(1958年)
韓国人ピアニストのイム・ユンチャン(2004年~)は、改めて紹介の必要はありませんが、2022年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで史上最年少優勝を果たした天才ピアニストで、現代音楽の演奏にも卓抜した才能を発揮して最優秀新人賞を同時受賞しており、次代を担うピアニストとして世界中から注目を集めています。イムは尹伊桑国際音楽コンクール(2019年)にも優勝していますが、この動画はその際に尹伊桑の「ピアノのための5つの小品」を演奏した模様を録画したもので、最新アルバムには尹伊桑の交響詩「光州よ、永遠に」(1981年)も収録されています。
 
▼ピアニスト:瀬川裕美子/ヤニス・クセナキスのピアノ曲「ヘルマ」(1961年)
日本人ピアニストの瀬川裕美子(1986年~)は、第7回ショパン国際ピアノコンクールアジア大学生部門金賞及び審査員特別賞等を受賞し、現在、画家パウル・クレーの造形思考をフィーチャーしたコンセプチャルな演奏会などを精力的に開催し、また、日本屈指のブーレーズ弾きとしても知られる最も注目されているピアニストです。2013年10月14日及び2024年1月27日に「『ブーレーズ:第2ソナタ』別様の作動」と題する興味深いリサイタル(サントリー芸術財団推薦)が開催されますので、これは聴き逃せません。なお、この曲は、I.クセナキスが弟子の高橋悠治に献呈して初演されています。