大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

オペラ「ドクター・アトミック」(METライブビューイング)と長谷川将山・尺八リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)と中井智弥・箏リサイタル2024~ETERNITY~と「笑」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「笑」(ブログの枕)
前回のプログの枕では古事記「天の岩戸」で天岩戸に隠れた天照大神(おそらくは月に隠れた太陽のこと)を慰めるために天鈿女命(巫女の元祖)が裸で踊るのを見て神々が大笑いし、その笑い声につられて天照大神が天岩戸から出て来られたという神話が「祭」の起源であると述べましたが、「笑」という漢字の造りを紐解くと、冠の部分の「竹」が両手を表し、脚の部分の「夭」が人の体を表す象形文字で、巫女が踊りで神を喜ばせる姿を表現しており、「よろこぶ」から転じて「わらう」(元々、わらうとは「箍が緩む」「木が緩む」ことを意味する言葉でしたが、そこから「気が緩む」に派生し、現代でも、その語感は「膝がわらう」という表現などに残されています。)を意味するようになりました。このような伝統を持つ日本では世界でも珍しく神に「笑」を奉納する祭事が発展して「笑」による神人合一が試みられてきましたが(母性社会:調和の論理)、例えば、現在でも山口県防府市には天下の奇祭と名高い「笑い講」という祭事が伝承されており、「世界お笑い協会」(日本ユネスコ協会連盟のプロジェクト未来遺産に登録)を設立して世界中の人々が笑顔で平和に暮らせるように笑いを広める運動を展開しています。過去のブログ記事でも触れたとおり、イタリアのベネディクト会が定めた「聖ベネディクトの戒律」(529年頃)は中世ヨーロッパ修道院の戒律のモデルになりましたが、その中で修道士に「沈黙」(神の声に心を澄ませて理性を働かせること)が求められたことから、修道士達はジェスチャーを使ってコミュニケーションをとるようになり、1760年にフランス人ド・レペ神父がそのジェスチャーを応用して聴覚障害者とのコミュニケーションをとるための手話を考案しました。この「沈黙」には理性を乱すと考えられていた笑いの禁止も含まれましたが(ルカによる福音書6章25節)、過去のブログ記事でも触れたとおり、中世ヨーロッパではローマ帝国がキリスト教(新興宗教)を公認するまではケルト文化が普及しており、その土着信仰であるドルイド教(既成宗教)に由来する夏の収穫を寿ぐ祝祭(例えば、ハロウィン祭の前身であるサウィン祭など)などの風習が民衆に広く浸透していたことから、それらの一部をキリスト教の暦の中に組み込んでキリスト教への改宗を促進する布教政策が採られ、それにより11世紀頃から徐々に笑いに寛容になったと言われています。これに対し、日本では古神道(既成宗教)の「遠神笑美給」(意味:遠い昔の神代のご先祖様、どうかお笑い下さい)という祝詞や、仏教(新興宗教)の弥勒菩薩(例えば、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像など)が人々を救済する深い慈悲を湛えている微笑みなどに象徴されているとおり、古くから神人共笑や笑門来福の思想が根付いており、大らかに笑いを信仰に採り込む伝統がありました。この点、古事記「天の岩戸」には(天鈿女命が)「神懸り為て、胸乳を掛き出し、裳の緒をほとに忍し垂れき。爾くして、高天原動みて、八百万の神共に咲(わら)ひ」という一文が登場しますが、「咲」という漢字の偏の部分の「ロ」を省略して、旁の部分の「关」だけを残して「笑」という漢字が誕生していることから、現代語の「咲く」と「笑う」の語源は同一になります。また、平安時代には「咲」という漢字の語感に「をかし」(愚か者を意味する「をこ(尾籠、烏許、痴)」を語源として面白いを意味)というニュアンスが含まれるようになりましたが、世阿弥が著した能の理論書「風姿花伝」の第四神祇には「天照大神、天の岩戸に籠り給ひし時、(中略)天の鈿女の尊、進み出で給ひて、榊の枝に幣を附けて、聲を挙げ、火處焼き、踏み轟かし、神憑りすと、歌ひ、舞ひ、かなで給ふ。その御聲ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。國土また明白たり。神たちの御面、白かりけり。その時の御遊び、申楽の始めと云々。」という一文が登場し、また、同じく「習道書」の狂言の役人の事には「をかし者、かならず数人の笑ひどめく事、職なる風体なるべし。笑みの内に楽しみを含むと云。是は、面白く嬉しき感心也。この心に和合して、見所人の笑みをなし、一興を催さば、面白く、幽玄の上階のをかしなるべし。昔の槌大夫が狂言、此位風なりし也。」という一文が登場します。世阿弥は狂言の滑稽な様子を「をかし」と表現していますが、天鈿女命(巫女の元祖)が裸で踊るのを見て神々が笑う顔が天照大神(太陽)の光に照らされて白くなって行く様子が「面白い」の語源であり、その面白さとはゲラゲラと大笑いするような情緒的なクスグリ笑い(例えば、一発芸人の笑いなど)よりも一段と品位が高い心に沁みるような深い笑いを意味し、それが狂言の「幽玄の上階のをかし」であるという趣旨のことを説いています。これによれば咲(わら)ひを生むをかしには「幽玄の上階のをかし」とそれ以外のをかし(情緒的なクスグリ笑いなど)があることになりそうです。過去のブログ記事でも触れたとおり、平安時代の二大美意識を体現するものとして「をかし」の文学と言われる枕草紙(自分の立場から対象に同情(理解)するシンパシーに彩られた客観的な美意識の世界)と「あはれ」の文学と言われる源氏物語(対象の立場から対象と共感(同化)するエンパシーに彩られた主観的な美意識の世界)の二大文学が生まれましたが、これと同様に「をかし」の芸能と言われる狂言(自分の立場から対象に同情(理解)するシンパシーに彩られた客観的な美意識の世界)と「あはれ」の芸能といわれる能(対象の立場から対象と共感(同化)するエンパシーに彩られた主観的な美意識の世界)の二大芸能が生まれました。なお、能楽狂言方大蔵流・四世山本東次郎さん(人間国宝)が「能や狂言の演技や表現は、現代の諸々の芸能のように、押し付けをしません。また観客の内面に踏み込んでいこうともしません。常に少なに演じて、多くの余白を残し、観客の心に受け継いでもらう。ここが能と狂言に最も共通した理念だといって良いと思います。観客の知性を重んじ、観客の心の中の想像性に任せる、観客の感性や美意識、想像力や知性を尊ぶからこそ、能も狂言も観客の内面に踏み込むことを避け、謙虚な演技表現に踏み留まるのです。」(山本東次郎さんの著書「狂言のことだま」より抜粋引用)と語られていますが、多様性の時代にあってマイナスの美学という意味合いを越えてあらゆる芸術や表現に妥当する優れた見識ではないかと思われます。
 
▼平安時代の美意識と芸能(「咲ひ」の視座から)
芸能 言葉 所作 風趣 性格

(韻文)

(抽象)
幽玄 あはれ
(悲劇)
狂言 科白
(散文)
仕草
(具象)
上階のをかし をかし
(喜劇)
 
生物で笑うのは人間のみと言われていますが(但し、チンパンジーはくすぐると笑うことが分かっています。)、何故、人間のみが笑うのかについては未だ解明されていません。人間の笑いを誘発する刺激には、①知覚(例えば、くすぐるなど)、②認知(例えば、ジョーク、ユーモアなど)、③感情(例えば、他人の声色、表情やミラーニューロンによる同情(笑いの伝染)など)の3つのカテゴリーがあると考えられています。この点、上記①については、例えば、同じ知覚でも他人からくすぐられると笑うのに自分でくすぐっても笑わないという不思議な現象がありますが、単に皮膚に伝わる知覚だけではなく、くすぐっている人の属性によって感じ方が異なるという実験結果が発表されています。人間の心理状態には、大まかに、テリック状態(交感神経が活発な高覚醒状態)とパラテリック状態(副交感神経が活発な低覚醒状態)の2つがあって、仮に同じ知覚であってもそれぞれの状態によって感じ方が異なると考えられています。テリック状態(例えば、自分でくすぐるなどの目的意識を持っている状態)でくすぐられても皮膚に伝わる知覚(刺激)は相対的に低くなる傾向(覚醒>知覚)があり、あまりくすぐったく感じられませんが、パラテリック状態(例えば、他人からくすぐられるなどの目的意識を持っていない状態)でくすぐられると皮膚に伝わる知覚(刺激)は相対的に高くなる傾向(覚醒<知覚)があり、かなりくすぐったく感じられるという感じ方の違いになって現れると考えられています。これと同様に、人間はテリック状態(例えば、上司に笑うなどの目的意識を持っている状態)又はパラテリック状態(例えば、親友に笑うなどの目的意識を持っていない状態)によって、前者ではノン・デュシェンヌ・スマイル(表情筋のうち頬骨筋の収縮よる口角の上昇と目尻の下降による愛想笑い)、後者ではデュシェンヌ・スマイル(表情筋のうち大頬骨筋の収縮よる口角の上昇と目尻の下降に加えて、眼輪筋の収縮による目の表情の変化による愛情笑い)という笑い方の違いになって現れます(俗に「目が笑っていない」という表現は、これらの違いを適確に表現したものと言えるかもしれません。)。また、上記②及び③の笑いについては、過去のブログ記事でも触れたとおり、人間の脳は「知覚」(現在の情報)と「記憶」(過去の情報)の組合せで「認知」(未来又は未知の予測)し、その結果から「感情」(身体反応)を生み出しますが、環世界(<環境世界)に迅速に反応して生存可能性を高めるために「知覚」X「記憶」=「認知」をパターン化した認知パターン(例えば、ニャン=猫、ガァオ=虎など)を生成して環世界の効率的な認知を可能にして迅速な判断及び行動に結び付けています。その反面として認知パターンという一定の尺度でしか環世界を認知することができなくなる傾向(認知バイアス)に陥り(執着)、多様に変化する環世界に柔軟に適応することが困難になるという欠点を内包しています。そこで、人間の脳は認知パターンを生成する一方で、古くなった認知パターンを解体して(例えば、飽きるという現象(放下)により古くなった認知パターンを使わなくなり忘却するなど)、新しい認知パターンを新たに生成すること(例えば、面白いという現象(想像創造)により新しい認知パターンに興味を抱いて記憶するなど)で認知の鮮度を保っています。人間にとって環世界の知覚は「負荷」(迅速に反応して生存可能性を高めるための刺激)になり、これに迅速に反応して生存可能性を高めるために認知パターンの「予測」に従って「出力」(エネルギー)を準備しますが、「笑い」とは人間が「負荷」に基づく認知パターンの「予測」により準備した「出力」と実際の結果との間に生じた誤差が「負荷」<「出力」(エネルギーの余剰)となった場合、それを無害な形で発散してバランスを図る現象(例えば、ガァオという鳴き声(負荷)が聞こて緊張(エネルギー)しましたが、実際は虎ではなく猫だと分かり(エネルギーの余剰)、ホッとして「笑顔」(エネルギーの発散)になるなど)と考えられています。これとは逆に、「驚き」とは人間が「負荷」に基づく認知パターンの「予測」に従って準備した「出力」と実際の結果との間に生じた誤差が「負荷」>「出力」(=エネルギーの不足)となった場合、それを迅速に補足して生存可能性を高めるための現象(例えば、ニャオという鳴き声(負荷)が聞こえて気にしていませんでしたが、実際は猫ではなく虎だと分かり(エネルギーの不足)、ドキッとして「吃驚(緊張)」(エネルギーの補足)するなど)ではないかと考えられています。この笑いの仕組みを「コメディー」を例に換言するとすれば、劇が進行するにつれて認知パターンの予測を裏切る意外な展開に驚き(負荷>出力)を覚え、その後、この意外な展開が解決(オチ)して笑い(負荷<出力)が生じるという過程を辿りますが、この負荷離脱の落差が大きいほど笑いが大きくなる傾向があります。また、これとは逆に、いつまでも意外な展開に対する解決(オチ)が不分明又は不十分であると負荷離脱に至らずに不快になります。現代音楽を鑑賞している一般客がブツブツ言いながら憤慨している様子を偶に見掛けることがありますが、これは意外な展開が解決(負荷離脱)して面白いという状態(負荷<出力)に至らずに不快感を深めているということなのかもしれません(ケース・バイ・ケースだとは思いますが、音楽家と一般客の片方又は双方に原因する現象です。)。因みに、「VACATION」(休暇)の語源は「VACCUM」(空っぽ)で心が空っぽになる状態を意味していますが、笑いは負荷離脱により瞬間的に心を空っぽにする効果(負荷<出力)があると言われており、西田幾多郎が提唱する「純粋体験」(雑念が払われて忘我の境地に至り、心が空っぽになること)も同様の状態を意味している考え方ではないかと思われます。詳しくは触れませんが、笑いは人間の免疫機能に良い影響を与える可能性があることが科学的に解明されており、日本に古くから根付く神人共笑や笑門来福という考え方は実利に叶ったものと言えるかもしれません。過去のブログ記事で触れたとおり、日本語では主語や目的語等を省略する傾向が顕著であり、それらを文脈から補う必要がある「ハイコンテクストな文化」(言語への依存度が低く文脈への依存度が高いコミュニケーション)と言われるのに対して、英語では主語や目的語等を省略することは殆どないので、それらを文脈から補う必要がない「ローコンテクストな文化」(言語への依存度が高く文脈等への依存度が低いコミュニケーション)と言われており、話し手と聞き手が共同視点を持つこと(ハイコンテクストな文化)を前提とする日本語のコミュニケーションは状況を再現する表現(例えば、彼は水をゴクゴクと飲んだ)によって聞き手に感覚的な理解を誘うオノマトペが発達しましたが、話し手と聞き手が共同視点を持たないこと(ローコンテクストな文化)を前提とする英語のコミュニケーションは状況を説明する表現(例えば、He gulped water)によって聞き手に論理的な理解を誘う動詞が発達しました。これらの違いは笑いの文化にも影響を与え、日本語のコミュニケーションではハイコンテクストな文化を背景として状況の再現(非言語的な要素)による感覚的な誤差(ギャグなど)によって笑いを誘う特徴を持っているのに対し、英語のコミュニケーションではローコンテクストな文化を背景として状況の説明(言語的な要素)による論理的な誤差(ユーモア、ウィットなど)によって笑いを誘う特徴を持っていると言われています。先日、某著名人が英米の笑いとの比較で日本の笑いの「質」を揶揄する発言(某著名人の個人的な嗜好に基づく認知バイアス)に及んで物議を醸していましたが、それぞれの人にとってその人の心が楽になる笑いがその人にとっての「質」の良い笑いであって、それを個人的な嗜好を越えて一般論として語るのはナンセンスであり、他人に笑顔を強要する厚顔無恥な言動と同じ類の野暮天に感じられます。全く笑えません。
 
▼笑いの仕組み(認知パターンの誤差と感情による調整)
認知パターンの誤差 感情による調整
「負荷」<「出力」
(エネルギーの余剰)
「笑い」
(エネルギーの発散)
「負荷」>「出力」
(エネルギーの不足)
「驚き」
(エネルギーの補足)
 
▼笑い(エネルギーの余剰)を生む類型
類型 誘因 結果
ギャグ 情緒的な言動(クスグリ笑い)で
「負荷」を抜く
笑わせる
ユーモア 論理的な言動(ネガティブな機知)で
「負荷」を抜く
笑わせる
ウィット 論理的な言動(ポジティブな機知)で
「負荷」を抜く
笑わせる
コメディー 虚構の状況で
「負荷」が抜ける
笑われる
嘲笑 現実の状況で
「負荷」が抜ける
笑われる
 
▼オペラ「ドクター・アトミック」(METライブビューイング)
【演題】METライブビューイング アンコール2024
【演目】ション・アダムズ オペラ「ドクター・アトミック」
    <Bas-Bar>ジェラルド・フィンリー(オッペンハイマー博士役)
    <Mez>サーシャ・クック(オッペンハイマー夫人役)
    <Bas-Bar>エリック・オーウェンズ(グローヴス将軍役)
    <Bar>リチャード・ポール・フィンク(エドワード・テラー役)
    <Ten>トーマス・グレン(ロバート・ウィルソン役)
【台本】ピーター・セラーズ
【演出】ぺーニー・ウールコック
【指揮】アラン・ギルバード
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
【会場】東劇
【一言感想】
今日はMETライブビューイングのアンコール上映としてジョン・アダムズさんのオペラ「ドクター・アトミック」を鑑賞してきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。このオペラの脚本はピーター・セラーズさんが担当していますが、オッペンハイマー博士を始めとするマンハッタン計画の関係者の手紙、日記、科学論文に取材し、また、オッペンハイマー博士が愛読していたジョン・ダンの詩を引用するなど、マンハッタン計画に関する実際の資料に基づいて可能な限り史事に沿った伝記的な内容になっています。第一幕の序曲では、舞台背景に元素周期表が表示され、当時の時代感覚を伝えるサウンドスケープ(機械音、エネルギー音、飛行機音、ラジオ音など)が流されました。その後、桝形の個室が縦横にミニマルに配列された3階建て舞台セットにマンハッタン計画の関係者の顔写真が掲出されましたが、その様子はさながらアルカトルズ刑務所の3階建ての独房を思わせる異様さが感じられるもので、プロメテウスの磔刑よろしくマンハッタン計画の関係者が歴史の裁き(人類を滅亡に導く「火」(=テクノロジー)を作り出した罪)によって刑務所に収監されているような印象すら与えさせるセンセーショナルなものでした。忙しなくパターンを変えながら繰り返されるリズムは風雲急を告げる時代の切迫感を感じさせるものであり、J.アダムズさんの真骨頂とも言うべき老練巧みな至芸が光る充実した音楽が聴かれ、そのリズムに乗せて人間は自然物を変形又は加工すること(一般に「生産」と言われる行為)しかできず、全く何も無いところから物質を創り出すことはできないが、物質をエネルギーに変換することで巨大な力が発生することを発見したことにより人間と自然の関係が大きく変わろうとしていること(これは地球環境破壊という現代的な問題への伏線)が歌われましたが、上述のとおりマンハッタン計画に関する実際の資料に基づいて可能な限り史事に沿った脚本が書かれている関係で歌劇というよりも台詞劇に近い印象を受ける舞台になっていたと思います。オッペンハイマー博士を始めとしたマンハッタン計画の関係者は日本への原爆投下にあたって人道上の配慮から日本への事前警告(降伏勧告を含む。)を検討していたようですが、原爆の威力を世界に示す視覚的な効果と国連主導による恒久平和の実現を優先するという判断に傾いて行った様子が描かれていました。この点、当時、技術的に不可能と考えられていた核分裂にナチス・ドイツが成功したことを受けて、アメリカは国運をかけて原爆の開発競争を勝ち抜くための極秘プロジェクトとしてマンハッタン計画を開始しましたが、当時、オッペンハイマー博士を始めとするやマンハッタン計画の関係者がどのような状況に置かれ、その状況が彼らの考え方にどのように影響を与えたのかをもう少し丹念に描いて欲しかったという憾みが残ります。その後、オッペンハイマー博士の妻が切々と平和を祈り上げるアリアやロスアラモスの核実験が荒天で危ぶまれる状況にあったことが切迫感のある音楽に乗せて歌われた三重唱などが聴き所になっていました。また、第一幕最後のオッペンハイマー博士のアリアが出色でして、原爆開発の重責を担う自らの立場と原爆開発が招来する大惨事に対する罪の意識の狭間で嘆き戸惑いながら神へ救いを求める悲痛な思いを切々と歌い上げ、その切り裂かれるような激しい心境が忙しなくパターンを変えながら繰り返されるリズムによって表現されており、さながらオッペンハイマー博士にプロメテウスの姿が重なり合うような迫真の歌唱が感動的でした。ヴラヴォー!第二幕の序曲では、ロスアラモスの核実験を直前に控えてオッペンハイマー博士の妻が不安な心情を歌うアリア(ジョン・ダンの詩を引用したもの?)に続いて、ネイティブ・アメリカンの女性が迫り来る不幸を暗示させるアリアを歌い継ぎましたが、映画「オッペンハイマー」ではネグられていた核実験で被爆したネイティブ・アメリカンの悲劇が丁寧に描かれていた点は好感を覚えました。核爆弾が招来する大惨事への懸念、核実験が荒天で危ぶまれる状況にあったことに対する懸念、軍関係者と科学者の思惑の違いから生じる軋轢、核爆発により大気発火する懸念、核実験の結果を賭ける一部の軽薄な関係者など、マンハッタン計画の関係者のそれぞれの思惑の違いが描かれていましたが、やや繰り返しが多く冗長に感じられる部分もありました。その後、オッペンハイマー博士と妻、その他のマンハッタン計画の関係者やネイティブ・アメリカンによる六重唱及びネイティブ・アメリカンの民族衣装を身を包んだトゥッティーの合唱により、それぞれの思惑の違いが交錯する複雑な状況と共に恒久平和に対する共通の願いが印象的に描かれていました。ロスアラモスの核実験の様子が描写された後、日本人女性の音声で「子供たちにお水を下さい。タニモトさん、助けて下さい。・・・」という言葉が日本語(英語字幕)で流されて終幕しましたが、映画「オッペンハイマー」(ページ最下欄の囲み記事)と同様に(興行的な制約からショッキングな描写は困難であったかもしれませんが)原爆投下の惨状を伝える内容は些か不十分な印象を否めませんでした。この点、第二次世界大戦中の帝国主義化した日本が理性を失って一億玉砕(民族自決)を唱える狂気的な状態にあったことが原爆投下の伏線を生んだという深い反省に立ちながら被爆国として原爆投下の惨状を世界に発信して行く意義を強く感じさせられると共に、核兵器の不使用、不拡散、不所持を推進するために必要な教養を育み続ける不断の努力が必要であると感じさせるオペラでした。なお、日本では芥川也寸志のオペラ「ヒロシマのオルフェ」(1959年)、保科洋のオペラ「はだしのゲン」(1981年)や錦かよ子のオペラ「いのち」(2015年)など原爆投下の惨状を題材にしたオペラが創作されています。
 
 
▼長谷川将山・尺八リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)
【演題】B→Cバッハからコンテンポラリーへ
    264長谷川将山(尺八)
【演目】①初代中尾都山 都山流本曲「慷月調」
    ②唯是震一 無伴奏尺八組曲第三番(1954/61)
    ③川島素晴 尺八(五孔一尺八寸管)のためのエチュード(2010)
    ④向井響 無伴奏尺八のためのパルティータ(世界初演)
    ⑤J.S..バッハ 無伴奏フルートパルティータイ短調
    ⑥坂東祐大 秘曲「象息之調」(世界初演)
    ⑦松村禎三 詩曲二番 ─ 尺八独奏のための(1972)
【演奏】<尺八>長谷川将山
【会場】東京オペラシティー リサイタルホール
【一言感想】
今日は長谷川将山・尺八リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)を鑑賞してきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。虚無僧は尺八を吹きながら托鉢したそうですが、本日の演目うち②~⑥は音楽によるパフォーマンスを意識した内容になっており、「ながらスマホ」よろしく現代にも通底するテーマ性があるように感じられました。なお、今日はチケットを自宅に忘れてしまい、完売公演なので当日券の販売予定もなく煮詰まりましたが、東京オペラシティーの主催公演でしたのでチケットセンターに連絡したところ、①身分証明書及び②マイページのチケット購入履歴の提示で入場させて頂くことができました。「笛吹けど踊らず」(語源:新約聖書のマタイによる福音書11章17節)という世知辛い時世ですが、情理に通じたスタッフの方の迅速かつ親切な対応に感謝いたします。
 
①初代中尾都山 都山流本曲「慷月調」
パンフレットによれば、「1903年に発表された都山流本曲の最初の作品。タイトルは「月に向かって慨嘆する調べ」を意味し、日露戦争の「日露戦争の戦勝祈願で観心寺を詣でた時に思い立ち、秋の名月を仰ぎながら作曲した」と解説されています。先日、JSPN第5回定期公演の感想を書いた際にも触れましたが(因みに、長谷川さんはJSPNの正会員)、尺八都山流の流祖・中尾都山は石清水八幡宮を崇敬していたことから、南北朝の動乱で南朝方に味方した楠木正成が戦勝祈願のために石清水八幡宮に植樹した楠木(樹齢約700年)の根元に初代・中尾都山の頌徳碑が建立されています。この点、初代・中尾都山は「江戸時代に虚無僧に独占されていた古典尺八曲に代わる新しい都山流本曲のレパートリーを次々生みだしました」が、楠木正成の孫である楠木正勝が虚無層の祖(楠木正勝は普化宗に入門して虚無と名乗り、虚鐸(尺八)を吹きながら(北朝方の偵察のために)全国各地を巡り歩いたのが虚無僧の語源)と言われており、初代・中尾都山が楠木正成の菩提寺である観心寺で都山流本曲の最初の作品であるこの曲を着想したというのは何か深い縁を感じさせます。因みに、能楽を創始した観阿弥は楠木正成の甥にあたり、その孫の観世元雅は(南朝方と通じていると疑われて)巡業先の伊勢で北朝方の斯波氏に暗殺されたと言われています。さて、冒頭は夜空に澄み渡る月光をイメージしたものでしょうか、尺八が奏でる音はその輪郭が朧げに滲んで、光と闇が柔らかく重なり合っているような風情を湛えた音楽が聴かれました。その後も、様々な音色や音質などをニュアンス豊かに吹き分ける表情に富む演奏が展開され、さながら尺八という楽器と演奏者の呼吸器官が一本の管としてシームレスにつながりながら多彩な音楽を紡ぎ出しているような息の楽器の真骨頂を感じさせる演奏に魅了されました。これと同じようなことをS.シャリーノさんがフルートの特殊奏法を使って表現されていますが、既に初代・中尾都山が1903年にこのような曲を創作していたとは驚きです。
 
②唯是震一 無伴奏尺八組曲第三番(1954/61)
パンフレットによれば、「十二音技法に基いた古典的な組曲。原曲はフルート独奏のために作曲されましたが、都山流の第一人者で人間国宝の初代山本邦山が尺八で演奏したことをきっかけに尺八作品として去れ改定され」たものと解説されています。尺八音楽には調性(五音音階)がありますが、機能和声のような絶対主義的な規律はなく相対主義的な多彩な音楽を特徴としているためなのか、個人的には、尺八というフィルターを通すことで十二音音楽(無調)に対する違和のようなもの(認知バイアス)が緩和されているような印象を受けました。また、尺八に特有の音の揺らぎは十二音音楽を無機質な音楽ではなく非常にニュアンスに富んだ表情豊かな音楽として聴かせてくれる効果も生んでいるように感じられました。その一方で、十二音音楽の特徴とも言える延音ではなく連音で聴かせる「おしゃべりな尺八」という風情があり、時折、尺八の音が言葉(歌詞)に聴こえてくる面白い作品でした。
 
③川島素晴 尺八(五孔一尺八寸管)のためのエチュード(2010)
パンフレットによれば、「「演じる音楽」とは「『演奏行為の共有体験化』を実現するためのメソッド」であるという作曲家の言葉にあるように、この作品もさまざまな演奏上のアクションによって構成されています。曲は(中略)14種類の楽想によって展開され、奏者の演奏行為を目の当たりにするうちに聴き手は自らが演奏しているような錯覚に陥るであろう」と解説されています。冒頭から甲高い鋭角の響きでインパクトのある始まりとなりましたが、ユリ、コロコロ、玉音、ムラ息などの尺八の基本奏法をベースとして、それらに西洋音楽のハーモニクス、トリルやスタッカートの奏法などを加味しながら様々な音色や表情などを生み出す特殊奏法が連続し、熱量の高いクライマックスを築くグルーブ感のある演奏を楽しめました。自ら演奏しているような錯覚に陥るか否かは個人差があるとしても、尺八の表現可能性を拡張する特殊奏法のエチュードとして楽しめました。
 
④向井響 無伴奏尺八のためのパルティータ(世界初演)
パンフレットによれば、「今回、息音のための前奏曲、イベリア半島に残るリズムと電子音楽のイメージから作られた架空の舞曲、そして私がずっと書きたかったボレロの3曲を尺八のパルティータに組み込んだ」と解説されています。パルティータは音楽家のヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者のガリレオ・ガリレイの父)が作曲した「パッサメッツォと5つのパルティ」(1584年)に淵源があると言われていますが、天文学よろしく多様性(変奏曲、組曲)を本質とする音楽様式です。前半は短管(尺寸不明。因みに、尺八という名前は標準的な尺八の長さである一尺八寸からきています。)を使って激しい吹き込みや足踏みなどによるリズミカルな舞曲風の音楽が展開され、中間は長管を使って息の音や声の音(歌又は何か言っているネコ)などが感じられる声楽風の音楽が展開されました。後半は短管を使って1管で2声部(対位法?)を演奏しながら小刻みで快活な演奏を楽しめました。
 
⑤J.S..バッハ 無伴奏フルートパルティータイ短調
尺八の奏法を駆使して音程感のある快速調の演奏が展開されましたが、フルートが奏でる流麗なカリグラフィーに対して尺八が奏でる淡麗枯淡な墨跡の風情が感じられる面白い演奏を楽しめました。B→Cシリーズなのでバッハの曲を1曲は演奏しなければなりませんが、これまでバッハの曲をモダンピアノで演奏する意義については語り尽されていても、バッハの曲を尺八で演奏する意義についてはあまり語られておらず、バッハの曲を含む西洋音楽を尺八で演奏する意義について色々と考えさせられます。
 
⑥坂東祐大 秘曲「象息之調」(世界初演)
ヴラヴォー!この曲が本日の白眉でした。パンフレットには「人間と象との精神的なつながりや象そのものの神秘性が尺八音楽の歴史に多大な影響を与えてきたことはよく知られている」と前置きしたうえで、「戦前ヨーロッパに遊学した鳴吹流師範の尺八奏者が残した手稿譜が、偶然にも昨年ドイツで発見され、今回復曲を施すことができた。作品は大きく象洞之段、鳴鼻之段、像息之段の三つの段から成り立っているが、それぞれはあたかも儀礼のように続けて演奏される。という奇妙奇天烈嘘八百の設定を元に作曲したシアターピース」であると解説されています。先日、柴田南雄さんの追分節考の生演奏を拝聴して感銘を受けましたが、その音楽が生まれ、育まれた土壌(文化や環境など)を顧みて、再び、その音楽に生々しい命を吹き込むことで、その音楽のエッセンスが現代に蘇る稀有な芸術体験に興奮と感動を禁じ得ませんでしたが、そのような傑作群に連なる作品のように感じられました。冒頭では照明が落とされた客席後方から長谷川さんが虚無僧よろしく尺八を吹きながら舞台に歩み寄る舞台演出(シアターピース)に惹き込まれましたが、かつてスパイ活動を行っていた虚無僧の尺八には毒矢が仕込まれていたと言われており、さながら尺八から毒矢を吹くように、時折、尺八を空中に向けて「ポッ・・ポッ・・」と息を吹く特殊奏法が尺八の素性来歴を伝えるもので面白く感じられました。舞台に上がると様々な長さの尺八(中継ぎを含む)を使いながら、(浅学菲才による不見識からどのような奏法なのか分かりませんでしたが)象の鳴き声を模倣したような音を発したかと思えば、その尺八を縦向きから横向きに持ち替えて横笛として吹くなど、縦笛が誕生してから横笛へと発展して行く笛の歴史を音楽的に遡る趣向のように感じられ、象の音、息の音、笛の音、声の音を往還しながら尺八という楽器の始原を訪ねて音楽の旅をしているような規格外の音楽に魅了されました。また、この曲ではパフォーマンスが効果的に使用され、尺八を演奏しながら舞台上に設えられた光の空間(スポットライトが当たる場所)と闇の空間(スポットライトが当たらない場所)を彷徨いながら、ジャーマンを思わせるジャンプ、回転、屈伸などのパフォーマンスが展開されましたが、音楽とパフォーマンスが有機的に連携して演奏者のパフォーマンスが音楽の意味(音楽に投影されている観客のプロジェクション)を次々と切り替えて行くような新しいタイプの音楽に感じられ、非常に面白い芸術体験になりました。尺八が自然の気を取り込みながら、どこか神懸かりしているような長谷川さんの熱演と相俟って、この世ならざる者(お釈迦様の乗り物である象はアジアでは神聖な動物とされていますが、もしかすると象の霊か?)が憑依しているようなシャーマニックな趣きが醸し出されて出色でした。実に面白い!
 
⑦松村禎三 詩曲二番 ─ 尺八独奏のための(1972)
パンフレットによれば、「「洋の東西を超越した一本の笛」という作曲家の言葉にあるように尺八という一楽器を通して無伴奏による単旋律楽器の可能性を追求した作品」と解説されていますが、上記③、④、⑥の新しい作品と比較すると、寧ろ、(洋の東西を超越した一本の笛にしても)尺八の特徴がよく表れている作品に感じられ、尺八という楽器が持つ細やかなニュアンスや美観が感じられる骨太の演奏を堪能できました。
 
 
▼中井智弥 箏・二十五絃箏リサイタル2024〜ETERNITY〜
【演題】中井智弥 箏・二十五絃箏リサイタル2024
    〜ETERNITY〜 in 東京
【演目】①宮城道雄 潮音
    ②中井智弥 あさきゆめみし
    ③中井智弥 夕霧の花
    ④中井智弥 蝋梅
    ⑤中井智弥 とこしえに
    ⑥中井智弥 蝉丸
    ⑦中井智弥 野宮
    ⑧中井智弥 時をこえて
    ⑨中井智弥 御代の寿
    ⑩中井智弥 剣はじめ
    ⑪中井智弥 勿忘草
    ⑫中井智弥 雨夜の月
    ⑬中井智弥 ノクターン
    ⑭中井智弥 花のように
【演奏】中井智弥(箏・二十五絃箏)①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭
    長須与佳(琵琶・尺八)⑥⑨⑩⑪⑬
    藤舎推峰(笛)②③④⑤⑨⑩⑪⑫⑬
    中島裕康(十七絃)①②③④⑤⑧⑨⑩⑬
    長谷川将山(尺八)③④⑤
【会場】ヤマハホール
【一言感想】
今日は新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」詩楽劇「沙羅の月」への楽曲提供などで注目されている筝演奏家兼作曲家の中井智弥さんが7枚目のアルバム「Eternity」のリリースに併せて中井智弥・箏リサイタル2024~ETERNITY~を開催されるというので聴きに行くことにしました。色々と現代邦楽を聴いてきてきましたが(拙ブログに感想を書いていない演奏会も多い)、中井智弥さんは正しく令和の宮城道雄と形容するに相応しい稀有な才能の持ち主に感じられ、非常に満足度の高いリサイタルを楽しむことができました。かなり演目数が多いので、それぞれの曲についてごく簡単に一言感想を残しておきたいと思います。因みに、ヤマハ銀座店に伺うのは久しぶりでしたが(昔は輸入盤CDを漁りによく通っていましたが)、売り場にはCDが殆ど陳列されておらず時世の移ろいを感じさせます。なお、現在、ヤマハ銀座店では「江戸の洋琴」という企画展を開催しており、ヤマハデザイン研究所が考案した木製ミニピアノ弾き箪笥」「隙き間」「音彩絵」「音机」が展示されています。効率ばかりが重視されて遊び(無駄)を許容しない時世ですが、効率から新しいものは生れ難く、このような遊び(無駄の蓄積)から新しいものが生まれてくると思いますので、時世の移ろいに挑戦するヤマハの息吹のようなものが感じられて興味深いものがありました。
 
①宮城道雄 瀬音
パンフレットには「当時、邦楽には低音を担当する楽器がなかったため音楽表現の幅を求めて宮城道雄が新しく十七絃を開発」と解説されています。因みに、宮城道夫記念館(建替中)には宮城道雄がピアノを意識して開発した八十絃筝が展示されており、いつかその演奏を聴いてみたいと願って止みません。因みに、二十五絃筝は初代・野坂操寿が開発しましたが(二十弦筝は二代目・野坂操寿、三十絃筝は宮下秀冽)、まるでハープのような芳醇な響きが魅力です。さて、この曲は利根川の風情を描いた作品ですが、曲全体は緩-急-緩のソナタ形式のような構成で、利根川の川面が陽光に煌めいているような光沢感のある響きや微風に揺らいでいるような強弱のある響きなど、まるで景色や風情を音でデッサンしているような情景感のある音楽が魅力です。二十五絃筝と十七絃筝が奥行きのある音響で繊細な彩りを添えて行く風趣溢れる演奏を楽しめました。
 
②中井智弥 あさきゆめみし
パンフレットには「詩楽劇「沙羅の光」委嘱作品。オープニング曲として笛・二十五絃でメインモチーフとなる光源氏のテーマを提示し物語の始まりを表現」と解説されていますが、本日の演目の②~⑤が詩楽劇「沙羅の光」に提供された曲です。十七絃筝のハーモニーの奥ゆきと二十五絃筝のハーモニーの拡がりが織り成す色彩豊かな演奏と叙情的なメロディーを情緒纏綿と奏でる横笛の美観極まる演奏が相俟って、光源氏と女房達の感情の移ろいが多彩に表現されており、その世界観に惹き込まれました。残念ながら、僕は詩楽劇「沙羅の光」を鑑賞する機会を逃してしまいましたが、源氏物語に感じる「色」が音楽的に表現されているような印象を受ける曲調で、さながら音楽による絵巻物を鑑賞しているような音楽に魅了されました。正しく「何度も繰り返して聴きたくなる」音楽であり、それが音楽の生命力だと思いますが、中井さんの稀有な才能とセンスに脱帽です。
 
③中井智弥 夕霧の花
パンフレットには「夕霧の義母紫の上への愛と父光源氏への怒り、また光源氏による妻紫の上への自由奔放な愛を歌っている」と解説されています。もともと歌曲として作曲されたそうですが、今日は夕霧を尺八、光源氏を横笛にアレンジして器楽曲として演奏されました。夕霧の花は深い黄昏を思わせる色調をしていますが、夕霧の義母紫の上に対する叶わぬ恋慕の情を表現したものでしょうか、二十五絃筝と十七絃筝が陰影を帯びた音楽を奏でるなか、尺八が心定まらぬ朧げな音色でメランコリックな音楽を奏でましたが、愛の形も様々であることを感じさせる面白い演奏でした。尺八の甲高い音は夕霧の光源氏に対する怒りを表現したものでしょうか、これとは対照的に二十五絃筝と十七絃筝が分散和音を掻き鳴らしながら光源氏の移り気な様子を表現しているように感じられ、多彩な人間模様が情感豊かに表現されている音楽を楽しめました。
 
④中井智弥 蝋梅
パンフレットには「道化役が演じるチャリ場と呼ばれるコミカルな場面のために作曲。原曲は光源氏と宮中の女房達との掛け合いが歌唱版で描かれるが、器楽版へ編曲。」と解説されています。非常に短いピースでしたが、二十五絃筝と十七絃筝がミニマルミュージック風の三拍子のリズムを繰り返すなか、笛と尺八が歌心溢れる演奏で華やかに吹き抜ける快演を楽しめました。
 
⑤中井智弥 とこしえに
パンフレットには「最終章で光源氏と紫の上が永遠の愛を歌う劇中歌。二重唱形式のメロディーを器楽曲として紫の上を笛、光源氏を尺八でアレンジしている」と解説されています。二十五絃筝と十七絃筝が情熱的な音楽を奏でるなか、尺八は愛情を湛えた叙情的な音楽を歌い、これに横笛はどこか寂寥感を漂わせる音楽で歌い添いましたが、これは移り気な光源氏に心を痛める紫の上の内心を映したものでしょうか、男女の機微が繊細に表現されているように感じられました。また、男女が情を通わす様子が高音と低音の重なり合いで美しく描かれていた部分が印象的でした。
 
⑥中井智弥 蝉丸
パンフレットには「能「蝉丸」より作曲(中略)生き別れた姉と偶然の再開を果たす。互いの境遇に涙するも二度と元に戻れないと悟る二人。その別れと葛藤を琵琶と二十五絃筝で表現した。」と解説されています。琵琶の長須さんは新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」の出語りで名演を披露して注目されましたが、この曲の冒頭に登場する平曲の弾き語りはどこか殺伐とした迫力を湛え、修羅道を彷彿とさせる凄味を感じさせる好演に完全に魅了されてしまいました。これとは対照的に、二十五絃筝は温もりのある音色で慈愛に満ちた音楽を奏で、この世の地獄(琵琶)と慈悲(二十五絃筝)という異なる世界観が重なり合う雄弁な演奏を堪能できました。日本文化は「混ぜる」文化ではなく「和える」文化と言われますが、それぞれの楽器が持つ魅力の違いを存分に引き出しながら、それらの魅力を損なうことなく1つの世界観として調和している名曲、名演でした。是非、機会を見付けて鑑賞されることをオススメしておきます。ヴラヴィー!
 
⑦中井智弥 野宮
パンフレットには「能「野宮」より作曲。舞台は哀愁に満ちた秋の嵯峨野。昔を懐かしむ六条御息所の深い切なさや、辛く悲しい恋の妄執といった心のうねりを優雅かつしっとりと描いた作品。」と解説されています。二十五絃筝が叙情的な音楽を奏でながら、繊細な音の揺らぎ、繊細な音の強弱や絶妙な間合いが生む緊張などを効果的に使って六条御息所が心を千々に惑わせながら、一途に想いを募らして行く女心を繊細に表現する詩情溢れる演奏に魅了されました。やがて六条御息所が悲恋に心を散らし、哀しみに暮れて行く巧みな心理描写が実に見事で心を打つ名曲、名演でした。是非、機会を見付けて鑑賞されることをオススメしておきます。ヴラヴォー!
 
⑧中井智弥 時をこえて
パンフレットには「新作歌舞伎「刀剣乱舞から月刀剣縁桐~」テーマ曲。刀剣男子と呼ばれる主人公達が歴史を守るため時代を活躍する物語と、日本の伝統楽器が古より伝わり現代で活躍する様子を描いた作品」と解説されていますが、本日の演目の⑧~⑫が新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」に提供された曲です。邦楽器大編成作品を二十五絃筝と十七絃筝にアレンジしたものだそうですが、2面の筝から立体感のあるリッチな音響を紡ぎ出し、刀剣男子の活躍を快活に表現する、どこか江戸の粋のようなものを感じさせる清々しい音楽を楽しめました。
 
⑨中井智弥 御代の寿
パンフレットには「同作中の序幕第三場、足利義輝が第13代将軍になった際の宴の場面にて出囃子で演奏した楽曲」と解説されています。華やかな音楽に乗せて二十五絃筝と十七絃筝が天下泰平を寿ぐ祝言を歌いながら、これに横笛と尺八がユニゾンで歌い添う昔風情が漂うオメデタイ音楽を楽しめました。却って古風な曲調がアクセントになり新鮮に感じられました。
 
⑩中井智弥 剣はじめ
パンフレットには「「御代の寿」に続き、刀剣男子らが足利義輝に所望され舞を披露した楽曲」と解説されています。二十五絃筝と十七絃筝が剣の由来を歌いますが、中井さんと中島さんが色気のある美声で歌舞伎役者に劣らぬ芝居気たっぷりの歌を披露し、さらに、尺八の長須さんが剣の由来を歌い継ぐ贅沢な舞台を楽しめました。邦楽は西洋音楽のように歌、器楽、作曲の分業化(モダニズム)が完全に進まなかったことが現代邦楽の発展(ポストモダニズム)に大きく寄与しているように感じられます。
 
⑪中井智弥 勿忘草
パンフレットには「同作第二幕第二場にて、足利義輝の妹・紅梅姫の三日月宗近への純粋な恋心を歌った楽曲」と解説されています。パンフレットに「1面1枚(筝と歌)」と記載されていましたが、筝を「1面」と数えることは知っていましたが、歌を「1枚」と数えるのは初聴で、自らの浅学菲才を恥じ入るばかりです。横笛と二十五絃筝が叙情的な音楽を奏でるなか、紅梅姫に扮する長須さんが艶やかな美声で切ない恋心をしっとりと聴かせてくれる歌唱を堪能できました。これはミュージカルの歌としても使えてしまいそうな美しくハートフルなピースでした。
 
⑫中井智弥 雨夜の月
パンフレットには「この世ではもう会えない人も雨夜の月のように何処か遠くには居るのではないか。そんな想いを笛と二十五絃筝の二重奏に託した作品。亡き母に捧げる。」と解説されています。二十五絃筝が哀愁を湛えるなか、横笛が静かに追慕の情に浸りながら、次第に悲しみを募らせて感情を高ぶらせて行くことを繰り返す様子を表現しているように感じられましたが、それは雨夜で姿が見えない月が潮(心)の満ち引きを誘っている様子と重なって、その切なさが心に沁みてくる感動的な音楽でした。「音楽を聴かされている」感覚よりも「自分の心を奏でられている」感覚を覚える作品で、本来、音楽とはどのようなものなのかという原点を思い出させてくれる名曲、名演でした。是非、機会を見付けて鑑賞されることをオススメしておきます。ヴラヴィー!
 
⑬中井智弥 ノクターン
パンフレットには「原曲の疾走感溢れる後半の夜明けを描いた部分を邦楽合奏用に編曲した。曲の後半、3/4拍子と6/8拍子のポリリズムが印象的に、耳に馴染むメロディーは5音階で作られている。」と解説されています。ポリリズムや5音音階が使用されていることもあり、どこか即興感のあるジャズテイストな音楽が展開され、ノクターンという言葉のイメージを良い意味で裏切って、二十五絃筝、十七絃筝、琵琶、横笛が丁々発止に渡り合うスリリングなアンサンブルを楽しめました。最近、多様な音楽ジャンルに食指を延ばしているブルーノート東京への出演もあり得るかもしれません。
 
⑭中井智弥 花のように
アンコールとして演奏されましたが、強弱や緩急などを巧みに使いながら繊細なニュアンスに富む詩情溢れる演奏に魅せられました。本日の演目はアンコール曲を含めて1曲1曲が充実した内容を持ち、心の襞を繊細に紡ぐ心理描写に優れた心に響く名曲が多い印象を受けました。今後、中井さんとその仲間達を集中的にウォッチしていきたいと思っています。
 
 
▼映画「オッペンハイマー」
映画「オッペンハイマー」(アカデミー賞受賞)はK.バード及びM.シャーウィンの共著「オッペンハイマー」(ピューリッツァー賞受賞)を原作として原爆の父・オッペンハイマー博士の栄光と苦悩を描いた伝記映画です。オッペンハイマー博士をギリシャ神話に登場するプロメテウス(ゼウスから火(=テクノロジー)を盗み、人間に与えたことが原因で磔にされ、永遠の苦しみを受ける罰に処された神)に擬え、1954年に第二次世界大戦後の冷戦を背景にしてソ連のスパイ容疑を掛けられたオッペンハイマー博士(オッペンハイマー事件)が非公開の聴聞会で尋問される様子を描きながら、第二次世界大戦下のアメリカで原爆開発の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」を成功に導いた栄光と原爆投下の惨状を聞かされた後の苦悩が時系列に沿って交錯しながら反芻されていきました。マンハッタン計画はナチス・ドイツが核分裂を成功させたことを契機としてアメリカの国運を掛けて原爆の開発競争を勝ち抜くために開始された極秘プロジェクトでしたが、アメリカが原爆を開発する前にナチス・ドイツが降伏したことから、原爆の実証実験を行う対象として日本が標的にされた経緯が描かれていました。当時のアメリカの科学者達の考え方としては、広島で原爆の威力を世界に示し、長崎で原爆の威力を背景として戦意を喪失させる意図があったそうで、これらを通して原爆の威力を世界中に印象付けた後に原爆を抑止力とする国連主導による恒久平和を目論んでいたことが描かれていました。但し、実際には、今日に至るまで原爆を抑止力とする国連主導による恒久平和は実現されておらず、科学史300年の成果として人類を滅亡させることができる兵器を生み出したという皮肉な事実のみが残される結果になっていることは否めません。この点、ウクライナ戦争における核兵器使用の脅威に象徴されるとおり、人間は状況の変化などによって簡単に考え方(決意)を変える弱い生物なので、核兵器の不使用、不拡散、不所持を促進するために必要な教養を育み続ける不断の努力が欠かせず、そのために芸術が果たすことができる役割は決して小さくないと感じます。なお、この映画では原爆投下の惨状を伝える内容は極めて不十分な印象を否めず、また、アメリカ国内の核実験で被爆したネイティブアメリカンの悲劇にも触れられていないなど、ややその描き方に偏りがある印象を否ませんでした。その意味では、少なくとも、前者については被爆国である日本から世界に発信して行く意義を強く感じさせる映画でした。