大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

特別上映:坂本龍一パフォーマンス記録映像「LIFE-WELL」と歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」と東京・春・音楽祭2024(ディオティマ弦楽四重奏団)と仇桜< STOP WAR IN UKRAINE >

▼仇桜(ブログの枕単編)
「明日ありと 思う心の 仇桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは」(親鸞)
を見ながら親鸞が浮世の儚さを桜に仮託して詠んだ和歌を思い出しましたが、日本人は散華の美に象徴されるように桜に多様なプロジェクション(投射)を見い出す独特な感性を持っています。この点、「をかし」の文学と言われる清少納言の「枕草紙」は客観的な美(シンパシー:自分の立場から対象を理解する同情)を描いているのに対し、「あはれ」の文学と言われる紫式部の「源氏物語」は主観的な美(エンパシー:対象の立場から対象と同化する共感)を描いていると言われますが、親鸞の和歌などを詠むにつけて日本人は「をかし」を超えて「あはれ」へと至る深い情趣を抱きながら桜を愛でていたように思われます。この点、「もののあはれ」「もののけ」「ものがたり」などの言葉には、「もの」(対象)に対する深い共感(プロジェクション)が含意されており、これを自らのナラティブに組み込んで慈しむ母性原理の文化(一元的世界観)が息衝いているように思われます。桜の花びらは春風や昆虫などを媒介として受粉を終えると新しい葉や花に栄養素を譲るために自ら散っていきますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、人類も進化の過程で子孫繁栄のために有性生殖を選択して自死のプログラムを実装するようになった有り様と重なります。後述するシネマ歌舞伎「刀剣乱舞」では「後の世の安寧」という台詞が何度か登場しますが、現代人の意識から希薄になりつつある「私」のためではなく「公」のために心を砕く美しい生き様が描かれていました(「美」という文字は神事の生贄となる「大」きな「羊」から構成)。この点、最近のニュースを見ていると、例えば、子育て支援策の負担増(私)ばかりが取り沙汰されて子孫繁栄(公)に資する傾聴に値する意見は乏しく、また、EVシフトが環境問題(公)から切り離されて単なる自動車メーカーの競争戦略(私)という矮小化された次元で語られる風潮など、現代人は随分と人間が小さくなってしまったものだと失笑を禁じ得ません。岸田政権は新しい資本主義の政策理念として「民間も公的役割を担う社会の実現」を掲げており、これを受けて経済同友会も新しい資本主義のモデルとして「共助資本主義」を提唱しています。今こそ、子孫繁栄(公)が仇桜とならないように真剣に社会変革に取り組まなければならない時機に来ているように感じます。近年、世界で頻発している大規模自然災害を踏まえて「公助」の限界と「共助」及び「自助」の重要性が再認識されるようになっていますが、一口に「共助」と言っても様々なスタイルのものがあり一様に論じることは難しく、「共助」の典型として「寄付」について簡単に触れてみたいと思います。コロナ禍、ウクライナ戦争、パレスチナ戦争や大規模自然災害などを契機としてクラウドファンディング、ふるさと納税、エシカル消費などに注目が集まり日本人の「寄付」に対する意識も高まってきていますが、イギリスの慈善団体「チャリティーズ・エイド・ファンデーション(CAF)」が毎年公表している「World Giving Index」(2023年)によれば、日本は世界人助け指数の総合ランキングで142ケ国中139位(寄付ラインキングで119位)と長年に亘り最下位層をキープしており、俄か仕込みでは越え難い文化や社会に根差した深い要因があるように思われます。日本の歴史を紐解けば、例えば、東大寺の大仏建立(現在の価値に換算して総工費約5000億円)は貴族や庶民の寄付とボランティアで賄われています。また、浪速八百八橋(大江戸八百八町のパロディー)は江戸幕府による御普請が僅か5%なのに対し、大阪の商人や町人が資金や資材を出し合った自普請が約95%にものぼっています。寺子屋は僧侶、神官、農民や大工などがボランティアで師匠(先生)を務め、京都の番組は自治組織として自治会費を徴収して活動しており、また、その他にもお布施、浄財、喜捨、寄進、勧進、寸志など、古くから日本にも様々な形で寄付やその他の共助が存在していました。しかし、これらの日本の寄付やその他の共助は江戸時代までの人口流動性があまり高くない時代を背景として近所や地域のつながりの中で育まれてきた文化(智慧)と言え、近所や地域などの狭いコミュニティー(=世間➞共助)の中での「分かち合い」の発想が息衝いていたのではないかと思われます。この点、例えば、日本のお中元やお歳暮に象徴される贈答文化は、密接な人間関係を背景として「もの」に仮託した「気持ち」を贈り合う習慣と言え、「気持ち」には「気持ち」で応える「お返し」の文化が育まれたと言えるかもしれません。このように「気持ち」を贈るものなので見ず知らずの他人に「もの」(寄付)を贈るという習慣は育まれ難かったものと思われます。明治維新や高度経済成長などを契機として日本が人口流動性の高い時代に移行すると近所や地域などの狭いコミュニティーから匿名性が高い広いコミュニティー(=社会➞自助)へ変貌し、これに伴って贈答文化は廃れ、お互いに「気持ち」がないのに建前で「もの」を贈り合うのは意味がないという合理的な考え方から企業でもお中元やお歳暮などの虚礼を廃止する風潮が広がりました。過去のブログ記事で子育てに関して触れたとおり、明治維新や高度経済成長などを契機として共助の基盤となっていた世間が急速に崩壊し、その代替的な機能を果たす新しい文化や制度などが整うことなく自助を前提とする社会へ移行したことが社会課題となって表出しているのではないかと思われます。もう1つ、日本で寄付が低調な理由として、日本人は平均的な行動から外れる目立った行動をネガティブに捉える心理(出る杭は打たれる、同調圧力などを生むユニゾン社会)が働いて、寄付しない者が寄付する者を「売名行為」と揶揄する蛮風が蔓延していることが指摘されています。これは東日本大震災や能登半島地震などでも取り沙汰されていましたが、仮に売名行為を意図したものであったとしても、それによって救われる人がいる限り、これを揶揄する行為は卑俗に過ぎる軽薄なものと言わざるを得ません。この点、上述のとおり日本で寄付が低調な要因の1つと考えられる人口流動性が高い時代という現代的な障壁を乗り越えるために、最近、SNSを利用して人々の属性に合わせたアプローチ(マッチング)を行い、バーチャルなコミュニティー(=世間、共助)を形成する試みが盛んになるなど、ソーシャルグッドな行動変容を促すために「ソーシャルマーケティング」という手法が注目を集めています。人々の不安や煩わしさを払拭して「気持ち」を醸成するための社会的価値を創造する(即ち、人々をバーチャルなコミュニティーに取り込み、人々のナラティブをハッキングすることで自分事にする)ことに加えて、これに対する「お返し」(クラウドファンディングのリターンやふるさと納税の返礼品など)という報酬を用意する(即ち、共感から共助や共創という強いつながりを生む)ことなどにより、脳内ホルモン(物質的な幸福を感じるエンドルフィンだけではなく精神的な幸福を感じるセロトニン)の分泌を促して多幸感を得易くする科学的なアプローチが試みられています。但し、このような手法は最近話題になっているSNSを利用した投資詐欺などに悪用されて深刻な社会問題になっており、強い光は濃い影を落とすという喩えのように現代の世相を色濃く反映しているものと言えるかもしれません。このように「寄付」という行為を通じて自らのナラティブ(私)を豊かに彩る共に、それによりソーシャルグッドを実現して子孫繁栄(公)にプラスになる好循環を社会に生み出す取組みは非常に有意義なものに感じられますので、自らも心掛けていきたいと思っています。以上は、以下の囲み記事の前振りでした。
 
「レコード芸術ONLINE」クラウドファンディング開始!!
2023年7月号で休刊した音楽誌「レコード芸術」がDX化して復活することになり、2024年4月10日から2024年5月20日までクラウドファンディングで支援を募っています。支援金額も然ることながら、どれだけ支援者数を集められるのか(反響)もマイルストーンになるのではないかと思います。あがる物価、あがらない収入の現実にこの世の不条理を感じている方も多いと思いますが、2000円から支援できますので、色々と考える前に、取り敢えず、支援してしまいましょう!Webサイトが立ち上がってしまえば、後は何とかなるはずです。個人的には、せっかくオンライン化するのですから音楽オンラインメディア「レコード芸術」が日本のメディアに留まらず世界のメディアとして注目されるようにワールドワイドな展開も視野に入れた取組みも期待したいと思っています。
 
▼特別上映:坂本龍一パフォーマンス記録映像「LIFE-WELL」
【演題】特別上映:坂本龍一パフォーマンス記録映像「LIFE-WELL」
【演目】LIFE-WELL(再編集版)(2013年)
【出演】梅若紀彰、野村萬斎、大倉源次郎、一噌隆之
    亀井広忠、小寺真佐人、坂本龍一 ほか
【演出】野村萬斎、坂本龍一、高谷史郎
【映像】高谷史郎
【上演】山口情報芸術センター(YCAM)
【上映】NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)
【日時】2024年4月6日
【一言感想】
昔、和泉流狂言師・野村萬斎さん、葛野流大鼓方・亀井広忠さん及び一噌流笛方・一噌幸弘さんの3人組が「橋の会」というユニットを結成して能楽の革新に取り組んでいた時代がありましたが、その取組みの成果が遺憾なく活かされている印象を受ける舞台作品でした。この舞台作品は2部構成になっており、第1部で狂言「田植」、舞囃子「賀茂 素働」、素囃子「猩々乱」という古典演目が革新的な演出で上演された後、第2部で能から影響を受けたアイルランドの詩人W.B.イェイツの戯曲「鷹の井戸」(1916年)とこれを翻案した横道萬里雄の能「鷹姫」(1967年)を融合した舞台「LIFE-WELL」、W.B.イェイツの詩「湖の島イニスフリー」の朗読(W.B.イェイツによる自作朗読の録音)が上演されました。前回のブログ記事でシアターピース「TIME」(坂本龍一、高谷史郎)の感想を簡単に残しましたが、既に、この舞台作品の中にシアターピース「TIME」へ昇華されるアイディアの多く見受けられます。因みに、4月7日にNHK総合で放送された「Last Days 坂本龍一最後の日々」では坂本さんが闘病生活の中で好んでいたという雨の音、風鈴の音、レースのカーテンなどが映されていましたが、これらはシアターピース「TIME」でも印象的に使われていました。この舞台作品は坂本龍一さんが20世紀(モダニズム)的な規範性(支配)を前提とした中心のある世界観から21世紀(ポストモダン)的な多様性(共生)を前提とした新しい時代の価値感への変遷を表現したオペラ「LIFE」(1999年)を起点とし、それを21世紀(ポストモダン)的な中心のない世界観(ノンリニアや不確定的な世界観)を体現するインスタレーション「LIFE」(2007年)へと進化させ、さらに、能楽とのコラボレーションにより様々なボーダーを越境する舞台「LIFE-WELL」(2013年)へと深化させています。第1部と第2部に一貫しているテーマは「水」であり、このテーマはシアターピース「TIME」へと受け継がれています。ハイブリッド空間を顕在させる能舞台の橋掛り、本舞台、四柱は照明とワイヤーのみで設えられ、また、能舞台の鏡板はスクリーンに松、海、雲の映像が投影されましたが、さらに、天井からはインスタレーション「LIFE」でも使用された9つの水槽が吊るされて人工的な霧と照明で空間を演出しており、能楽の特徴である見物のイマジネーションを引き出すマイナスの美学を活かしながらも現代的に舞台表現の可能性を拡張する革新的な設え(とりわけ第2部の演出で効果を発揮)となっており大変に興味深いものがありました。先ず、第1部から、狂言「田植」(能「賀茂」の替間狂言)は賀茂明神の神主が五穀豊穣を祈って早乙女達(氏子)に田植をさせる芽出度い曲ですが、賀茂川(下鴨神社糺の森よりも上流域を賀茂川、下流域を鴨川)から田に水を引く場面が出てきます。これに続く舞囃子「加茂 素動」では上賀茂神社の祭神(別雷神)が橋掛りではなく舞台の後方(鏡板)の暗闇から顕在して雷雨を呼び起こして神威を示しますが、天井から吊るされている9つの水槽から雷雲(人工的な霧)が湧き立ち雷光(照明)が走る様子が表現される迫力の舞台になっていました。因みに、地球上の水は蒸発と降水を繰り返して循環していますが、河川水は約10日間、大気水は約12日間、海洋水は約4000年間で全て入れ替わると言われており、また、人間の体も約1年間で体の全ての分子が別の分子に置き換わると言われています。昔から「流れる水は腐らない」「淀む水に芥溜まる」という言葉に表現されているとおり、絶え間なく変化し続けること(ベリクソンの弧が体現するピュシスの回復運動)が分解と合成のバランスを保ち常に蘇らせる(黄泉帰らせる)ということかもしれません。この点、禅語の「放下着」という言葉は執着が淀みを生じて心を腐らせることから執着を捨て心を清々しく保つことの大切さを説くものですが、日々の心の芥(執着)まで洗い流してしまうエナジー風呂の有難さが実感されます。素囃子「猩々乱」では能楽囃子と坂本龍一さんのピアノ即興の共演が披露されましたが、猩々は海に住む酒好きの妖精(酒の神様)なので酒造りには欠かせない「米」(狂言「田植」の題材)と「水」(舞囃子「加茂 素働」の題材)を強く結び付ける演目構成になっていたと思います。ピアノは屋根が外され、天井から吊るされている水槽の水面がピアノの響板に反射していましたが、さならがピアノは猩々が住む海でありピアノが紡ぐ音はシテの猩々を体現しているようでした。この共演は必ずしも相性が良いものではありませんでしたが、人間が認知し易いように有為不自然に同期(ロゴス)するのではなく、あるがままの無為自然に振る舞う非同期(ピュシス)が剥き出しにされた表現と言えるかもしれません。これに続く、第2部の舞台「LIFE-WELL」が出色でした。冒頭、舞台照明が落とされた暗闇の中で野村萬斎さんの朗読の声だけが聴こえ、「心の目以て見よ、枯れた井戸・・・」と語り掛けてきましたが、この暗闇が観客の感受性を研ぎ澄ませてイマジネーションのみで場を設えさせる舞台演出が顕在劇の魅力を十分に引き出す効果を生んでいたと思います。その後、舞台照明の薄明りに照らされた野村萬斎さんが間狂言の居語りよろしく戯曲を朗読し、同じく坂本龍一さんがピアノ即興で伴奏しましたが、協和音が確定的に描き出す作り出された空間ではなく不協和が不確定的に生み出す人知れぬ空間が観客のイマジネーションを異次元へと導く非常に完成度の高い舞台を楽しむことができました。因みに、音楽の三大要素と言われるメロディー、リズム、ハーモニーは人間が後天的に獲得した「認知モデル」(ロゴス)に過ぎませんが、メロディー、リズム、ハーモニーで魚(音)を切り身(音楽)にしなくても魚(音)そのものを味わう愉しみ方があることが聴衆にも認識される時代になっています。過去のブログ記事でも触れましたが、人間の脳は世界を認知し易くするために様々な対象などを抽象化して一般的な概念(言葉、記号や機能和声などの認知モデル)に仕立てていますが、その代償として、ある一定の視点のみから世界を捉えるようになり(ロゴスの呪縛=認知バイアス)、多様に変化する世界に柔軟に適応して生存可能性を高めることが難しくなるという欠点を内包しています。この点、人間の脳内にある神経伝達物資ドーパミンは認知モデルを創造する一方で、それを解体して新しい認知モデルを創造する働きも担っており、このような解体(分解)と創造(合成)をバランスしながら脳のクリエイティビティ(鮮度)を保つことが心を腐らせないための秘訣と言えるかもしれません。閑話休題。やがて暗闇の中に白い女面が浮かび上がりシテの鷹姫が顕在すると、天井から吊るされている水槽の水面が床に映し出されて井戸の水が顕在するという照明演出が出色でした。もし世阿弥が現代に生きていれば、このような「新しいもの」を貪欲に舞台に採り入れながら舞台を革新し続けていた(能には果てあるべからず)に違いありません。この舞台ではワキの老人は登場せず、野村萬斎さんによる朗読が井戸の水を飲むと永遠の命を得られるという言い伝えがあるので50年間も井戸の水が湧くのを待ち続けていると語りました。そこへ朗読者との二役を務める野村萬斎さんがゲルト神話の英雄・空賦麟(クー・フリン)に扮して登場し、ワキの老人は井戸の水は譲れないと空賦麟を追い払おうとしますが、大鼓の亀井広忠さんが暗闇の舞台に顕在し、大鼓の澄み渡る甲高い音と掛け声(鷹の鳴き声のメタファー)で囃すと、これに呼び覚まされるようにシテの鷹姫が低い唸り声を発しながら立ち上がりましたが、さながら大鼓は市井の女に憑依する鷹の霊を体現しているような演出効果を生んでおり鳥肌ものでした。能楽囃子の気魄が生み出す張り詰めた静寂(色即是空)には異界のエネルギー(空即是色)が満ち満ちているかのようであり、この世ならざる者を顕在させてしまう能の魅力、醍醐味が現代的な演出によって際立っている場面に魅了されました。やがて太鼓、小鼓、笛、地謡が入場し、これに坂本さんのピアノ即興が加わって、シテの鷹姫が舞いましたが、ピアノ即興が内部奏法を使った打楽器的な奏法により能楽囃子と緊迫感のある呼応が展開され、ピアノの内部奏法が生み出す多彩な音響が異界の風情を醸し出す音楽的な効果を生んでいました。また、ユニゾンで謡われる能の地謡に空賦麟の対位法的な声部が加わることで、まるでオペラの二重唱を思わせるようなパートは非常に面白く感じられました。能はシテの心情が歌舞で表現される舞台ですが、現代の時代性はシテもワキもなく、全ての人々の多様な心情が交錯しながら綾を織る時代なので、能の美学は活かしながらも、このようなオペラ的な表現様式も採り入れて現代の時代性を表現する新しい能の創作にも期待したいと思える非常に実りの多い舞台でした。やがて井戸に永遠の命が得られる水が湧くと、その水を巡ってシテの鷹姫と空賦麟が争いますが、その水と共にシテの鷹姫は消え失せます。まるで夢から覚めたように空賦麟と枯れた井戸のみが残されて、笛が寂び寂びとした調べを奏でて終曲となりました。その後、葦が生い茂る湖に浮かぶ小舟と人影の映像をバックにしてW.B.イェイツの詩「湖の小島イニスフリー」の朗読(W.B.イェイツによる自作朗読の録音)が流されました。この舞台作品にはシアターピース「TIME」の題材として使われていた夢十夜や邯鄲の枕に通じる人生の儚さが表現されているようでした。上杉謙信が中国の「枕中期」に準えて詠んだ辞世の句「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」という人生を凝縮した言葉が思い出される感慨深い芸術体験になりました。
 
 
▼歌舞伎シネマ「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」
【演題】歌舞伎シネマ「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」
【原案】「刀剣乱舞ONLINE」より
          (DMM GAMES/NITRO PLUS)
【脚本】松岡亮
【演出】尾上菊之丞、尾上松也
【出演】<三日月宗近>尾上松也
    <小狐丸/足利義輝>尾上右近
    <同田貫正国/松永大和之助久直>中村鷹之資
    <髭切/義輝妹紅梅姫>中村莟玉
    <膝丸>上村吉太朗
    <小烏丸>河合雪之丞
    <異界の翁>澤村國矢
    <異界の嫗>市川蔦之助
    <近習 山口左司馬>大谷龍生
    <弾正奥方 柵>中村歌女之丞
    <善法寺春清>大谷桂三
    <松永弾正>中村梅玉
    <審神者の声>中村獅童   ほか多数
【演奏】<筝>中井智弥(二十五弦)、中島裕康(十七弦)
    <琵琶・尺八>長須与佳
    <笛>藤舎推峯
    <長唄>杵屋佐陽助、杵屋喜三郎、杵屋己志郎、
        杵屋己津二朗、杵屋和五郎
    <三味線>和歌山富之、岡安喜三郎、今藤龍市郎
         柏要吉、杵屋直光
    <囃子>望月太左久、望月太左成、望月太喜十朗、望月徹
        福原貴三郎、堅田喜三郎、梅屋喜三郎、望月左喜十郎
        福原百七、福原友裕
【美術】前田剛
【照明】高山晴彦
【作曲】中井智弥、杵屋己太郎(長唄)、豊澤勝二郎(竹本)
【音響】土屋美沙
【立師】澤村國矢、中村獅一
【衣装】黒崎充宏
【日時】2024年4月6日
【一言感想】
近年の歌舞伎界は新しい時代の歌舞伎のあり様を模索すべくメタバース、初音ミク、アニメ、ゲームなどの新しい素材や現代邦楽の成果を大胆に採り入れながら伝統の革新を精力的に試みている印象を受けます。一時期、くすぐり笑い系やド派手演出系などの安直なウケ狙いに走る傾向も見られて辟易としていましたが、昨年に新橋演舞場で公演された新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」(尾上松屋、澤村國矢など)や新作歌舞伎「流白浪燦星」(片岡愛之助、尾上松也など)などでは歌舞伎の魅力を現代的にアップデートした洗練された舞台を楽しむことができました。今日は、そのうち新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」の舞台収録が歌舞伎シネマとして上映されるというので、久しぶりに映画観で鑑賞することにしました。ご案内のとおり、オンラインゲーム「刀剣乱舞」を題材とした作品で、既にミュージカル「刀剣乱舞」にも翻案されてますが、新作歌舞伎「刀剣乱舞」では歌舞伎の表現様式や伝統技芸と融合することで、より洗練された舞台になっていたと思います。世代交代が進む歌舞伎界にあって、歌舞伎界に新風を巻き起こしている歌舞伎俳優・尾上松也のセンスと才能に期待が集まっています。さて、簡単なあらすじは、西暦2205年、日本の歴史を改変ようと画策する者達は室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された「永禄の変」(西暦1558年~1570年)の首謀者である松永弾正を殺害して足利義輝を延命させるために時間遡行軍を編成して過去の時代へと送り込みますが、これを阻止して歴史を守護しようとする審神者(さにわ/古代神道の祭祀で神託を受けて、その神意を伝える者)は三日月宗近(国宝)、小烏丸(御物)、髭切(国指定重文)、膝丸(国指定重文/歌舞伎「土蜘」能「土蜘蛛」)、同田貫正国(市指定重文)、小狐丸(県指定重文/歌舞伎「小鍛冶」能「小鍛治」)の六振りの刀剣の付喪神(つくもがみ)を「刀剣男士」として過去の時代へ送り込みますが、三日月宗近は足利義輝の愛刀であった歴史を持つことから足利義輝の延命を阻止することに逡巡する様子が描かれています。付喪神とは、長年(九十九年でつくも)に亘って使ってきた道具類などの物が依代になり魂が宿った霊のことですが、精霊が物に憑り付くと人間に危害を及ぼす妖怪(例えば、提灯の付喪神である不落不落(ぶらぶら)などの物の怪)になると考えられていたことから、付喪神が成仏できるように長年に亘って使ってきた道具類などの物を埋葬する風習(例えば、人形供養文塚など)が生まれたと言われています。過去のブログ記事で触れましたが、人間の脳は外界の情報(感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量)を過去の記憶と照合しながら意味付けを行い、それによって創り出された意味付けを外界に投射し(即ち、物理世界と精神世界を重ね合わせ)、それにより自分が意味付けた外界(プロジェクション)を自分の人生観や世界観に上手く組み込んで仕立てたナラティブを生きていますが、付喪神は長年に亘って使ってきた道具類などの物に対する思い入れがプロジェクションとして醸成され、それを自らのナラティブに組み込んで物を埋葬するという風習が生まれたものと思われます。過去のブログ記事でも触れたとおり、大まかに、物語にはストーリー(シンパシー)とナラティブ(エンパシー)の2種類があって、本来、付喪神はナラティブ(エンパシー)として物語られていたものですが、現代人のナラティブに付喪神というプロジェクションを組み込むことは難しくなっていますので、現代ではストーリー(シンパシー)として物語られているものと割り切って受容されています。なお、このようにプロジェクションを他人のナラティブに巧妙に組み込むことで、消費行動に結び付けようとするのが広告宣伝であり、信仰に結び付けようとするのが宗教であり、社会変革などに結び付けようとするのがソーシャリーエンゲージメント・アートと言えるのではないかと思います。冒頭のシーンから、刀鍛冶の錬金のリズムを基調とする歌舞伎囃子に乗せて歌い舞う刀剣ダンスが展開され、単にエンターテイメント性が高いというだけではなく、その洗練された技芸に魅せられました。笙の音、音響(女声コーラス)及び照明(三日月宗近のイメージカラーである青を基調とするもの)が神憑りな雰囲気を演出するなかを審神者が顕現して、時間遡行軍の陰謀を阻止するために刀剣男士を呼び寄せますが、ここで刀剣男士の名乗り口上の見せ場となり、刀剣男子は剣舞を披露した後に時間遡行軍を追って永禄年間の京へ向かいました。名乗り口上で聞かれる五七調の粋な台詞回しは日本語ラップのようにリズミカルで歯切れの良いノリに通じる清新さがありますので、歌舞伎に馴染みがない若い世代にも受け入れ易い表現スタイルではないかと思います。箏を主体として歌舞伎囃子なども加わる特殊な編成の邦楽アンサンブルは、ゲーム音楽風のポップな音楽を粋に奏でる好演でした。場面は永禄年間の京へ移り、足利菊幢丸(室町幕府第13代将軍・足利義輝の幼名)と妹・紅梅姫が花見の宴に興じているところへ時間遡行軍が襲来して足利菊幢丸を連れ去ろうとしますが、そこへ刀剣男子(但し、尾上右近は足利菊幢丸と小狐丸、中村莟玉は紅梅姫と髭切の一人二役のために、この場面では4人のみのご愛嬌)が駆け付けて時間遡行軍を撃退します。足利菊幢丸は刀剣男士の勇姿を頼もしく思って家臣に取り立てたいと申し入れますが、時間遡行軍の陰謀を阻止する密命(史実に基づく永禄の変の成就)を帯びている刀剣男士は固辞します。これに続く、紅梅姫が三日月宗近に仄かな想いを寄せる場面では箏とポップ調の歌が織り成す叙情的な音楽の美しさが印象的で、また、足利菊幢丸と紅梅姫の兄妹の絆を確かめる場面から足利菊幢丸が松永弾正の力添えにより室町幕府第13代の将軍宣下を受けるために京へ上る場面まで舞台展開のテンポが良く弛緩することなく楽しめました。この舞台の観客には見巧者が多かったようで大向うの掛け声は絶妙な間合いによるものが多く、それが舞台のテンポを引き締めて役者を興に乗せる効果を生んでいたのではないかと思います。この世に恨みを抱く異界の翁と異界の嫗は室町幕府の乗っ取りを目論んで異界の魔物・禍獣(わざわい)の霊力で祈祷師・果心居士と娘・雲井姫に化けて足利義輝に取り入り、共通の利益を持つ時間遡行軍と協力することを申し合わせました。なお、初音ミクとの共演でも話題の「超歌舞伎」で注目を集めている澤村國矢の悪役振りには定評がありますが、その堂々たる役者振りは主役まで食い兼ねない存在感があるものであり、その大きな芸に惚れ惚れとしました。祈祷師・果心居士と娘・雲井姫は足利義輝を意のままに操って殺生禁断の聖地・石清水八幡宮で狩りを行わせますが、これを諫めた宮司・善法寺春清及び松永弾正の子・松永久直を処断するなど常軌を逸した振舞いに及ぶようになります。これを見兼ねた三日月宗近は松永久直に対して自分は未来から歴史を守護するために遣わされたものであり史実のとおり父・松永弾正に足利義輝を討つように説き伏せます。義太夫、三味線や笛が情緒纏綿とした叙情的な音楽を奏でるなか、松永久直の影腹による命懸けの訴えが奏功して松永弾正は足利義輝を討つ決意を固めますが、舞台セットの襖に描かれた高山水墨画が松永弾正の孤高な心情を象徴しているようで目を惹きました。刀剣男士は異界の翁、異界の嫗及び時間遡行軍を撃退しましたが、その後の幕間に演奏された薩摩琵琶(三日月の響孔は三日月宗近のメタファー)が白眉で、凄まじい情念のようなものが感じられる凄味の効いた迫真の弾き語りに魅了されました。これは名演です。ヴラヴァー!!異界の翁に操られて魔界の形相となった足利義輝は松永軍を蹴散らしますが、三日月宗近が異界の翁を退治するとその呪縛から説かれた足利義輝は正気を取り戻して自らの運命を悟り、筝と笛が叙情的な音楽を奏でるなか、足利義輝は三日月宗近と悲しい定めの刃を交えた後に桜と散って、その場には三日月宗近の刀剣のみが残されるという幻想的で美しい舞台を楽しめました。
 
 
▼東京・春・音楽祭2024
【演題】東京・春・音楽祭2024
    ディオティマ弦楽四重奏団
    シェーンベルク 弦楽四重奏曲 全曲演奏会生誕150年に寄せて
【演目】①弦楽四重奏曲第3番
    ②弦楽四重奏曲ニ長調
    ③弦楽四重奏曲第1番ニ短調
    ④弦楽四重奏曲第4番
    ⑤弦楽四重奏曲第2番嬰ヘ短調(ソプラノと弦楽四重奏版)
    ⑥プレストハ長調
    ⑦スケルツォヘ長調
    ⑧浄められた夜
【演奏】<Sq>ディオティマ弦楽四重奏団
        <1stVn>ユン・ペン・ジャオ
        <2ndVn>レオ・マリリエ
        <Va>フランク・シュヴァリエ
        <Vc>アレクシス・デシャルム
    <Sop>レネケ・ルイテン
【日時】2024年4月6日~オンライン配信
【一言感想】
今年はA.シェーンベルクの生誕150周年なので、A.シェーンベルクをフィーチャーした演奏会が数多く開催されています。その中でもシェーンベルクの弦楽四重奏曲のチクルスを一晩で聴けるという非常に珍しい演奏会が開催されるというので、東京・春・音楽祭に参加することにしました。日本では弦楽四重奏曲のチクルスと言えば、ハイドンからショスタコーヴィチまでの定番曲しか採り上げられない傾向が顕著なので、久しく弦楽四重奏曲のジャンルから遠のいていましたが、最近では現代音楽を採り上げる弦楽四重奏曲の演奏会が増えてきていますので歓迎すべき傾向です。その意味では、東京・春・音楽祭の現代音楽(20世紀の前衛+21世紀のコンテンポラリー)を採り上げている骨太の演奏会が充実しているので、非常に有意義な音楽祭と言えるのではないかと思います。一般に、シェーンベルクの作風は、Ⅰ期:調性音楽の時代(~1908年)、Ⅱ期:無調音楽(表現主義)の時代(1908年~1920年)、Ⅲ期:無調音楽(十二音技法)の時代(1920年~)の3つの時代に区分されますが、今日の演目は、①(Ⅲ期前半)と②(Ⅰ期前半)-(休憩)-③(Ⅰ期後半)-(休憩)-④(Ⅲ期後半)と⑤(Ⅱ期)-(休憩)-⑥⑦⑧(Ⅰ期)という構成になっており、前半ではⅠ期:調性音楽とⅡ期:無調音楽(表現主義)又はⅢ期:無調音楽(十二音技法)を対比し、後半ではⅠ期:調性音楽の珍しい初期作品などが演奏されました。非常に演目が多く、本日の演目は前半(①~⑤)に比重が置かれていたと思いますので、後半(⑥~⑧)の感想は割愛します。なお、ディオティマ弦楽四重奏団は、ジェーンベルクの弦楽四重奏曲全集のほかにも数多くの現代作曲家の作品の音盤をリリースしており、次代を担う最も重要な弦楽四重奏団の1つと言えると思います。因みに、日本でもお馴染みのアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏会も視聴しましたが、2日間に亘る演奏会で非常に演目数が多いので感想は割愛します。個人的には、2日目のH.ホリガー「Klaus-Ur」、T.ミュライユの「臨死体験」、Y.マレシュの「アントルラ」やY.ロバンの「Ubergang」などは再演の機会があれば、是非、聴きに行ってみたい作品でした。
 
▼シェーンベルク著「和声法:和声の構造的諸機能」の整理
概念 説明 主音
(機能)
和声進行
progression
転調などにより調性や調域を移行するが、やがて調性が確立する和声の動き(拡張調性) 求心的 明確
和声連鎖
succession
転調などにより調性や調域を彷徨い、いつまでも調性が確立しない和声の動き(浮動調性) 遠心的 不明確
 
▼概念のイメージ(子供たちのための)
概念 イメージ
調 音の横のつらなり
和音 音の縦のつらなり
和声 和音の横のつらなり
機能和声 機能(※4)に基づく和音の横のつらなり
調性音楽 広義 主音がある音楽(※1)
狭義 機能和声に支配されている主音がある音楽
無調音楽 主音がない音楽(※2)(※3)
※1:五音音階は機能和声に支配されていない主音がある音楽として広義の調性音楽の一種
※2:主音自体が使われていなくても音関係から主音の存在が感じられれば調性音楽の一種
※3:浮動調性でも主音の存在を感じるので完全に主音の存在を感じない十二音音楽を開発
※4:主な和音の機能(安定や不安定を繰り返す和音の横のつらなりによる音楽的な文脈)
 
 
 
 
 
 
〇弦楽四重奏曲第3番(Ⅲ期前半)と弦楽四重奏曲ニ長調(Ⅰ期前半)
A.シェーンベルクは、最初の妻・マティルデの不倫で結婚生活が破綻していた1908年に作曲した弦楽四重奏曲第2番で調性音楽から無調音楽(表現主義)へと作風を変化し、さらに、第一次世界大戦を挟んだ1927年に作曲した弦楽四重奏曲第3番で無調音楽(十二音技法)へと作風を深化しましたが、第一次世界大戦で神(教会)や王を中心とする秩序作られた世界観(主音を中心とする予定調和な調性音楽)が破綻し、新しい世界(中心のない世界観)を表現するための新しい音楽(主音のない音楽)が求められるようになったと言えるかもしれません。A.シェーンベルクは、Ⅰ期:調性音楽の時代及びⅡ期:無調音楽(表現主義)の時代は革新的な楽式や編成などを積極的に試み、Ⅲ期:無調音楽(十二音技法)からは伝統的な楽式や編成への回帰が見られ、これと無調音楽(十二音技法)の融合を試みましたが、弦楽四重奏曲第3番も伝統的な4楽章形式が採用されています。第1楽章冒頭で第2ヴァイオリンとヴィオラが8分音符を忙しなく奏でるオスティナー音型(5音音列)が全楽章を通して展開されますが、A.シェーンベルクが語っているとおりブラームスの作風(短いモチーフを展開、構成することで楽曲全体に統一感を生み出す動機労作)の影響を受けていると言われています。この曲は時代の影を映すように陰鬱とした圧迫感や絶望感が支配的ですが、ディオティマ弦楽四重奏団は現代風にアク抜きした聴き易い演奏で魅了してくれました。各パートがバランスの良く緊密な呼吸感で呼応する有機的なアンサンブルを展開し、シャープな切れ味や軽快なリズム感の風通しの良い演奏が魅力的に感じられました。無機質に傾き過ぎることなく、テンポ、デュナーミクや間などを巧みに操りながらメリハリを効かせた活舌の良い演奏は音にドラマ性を生んでおり血潮の通う十二音音楽を楽しめました。これに続く弦楽四重奏曲ニ長調(俗に弦楽四重奏曲第0番)はA.シェーンベルクが24歳で最初に成功を収めた出世作で、その充実した筆致に非凡な才能が感じられます。ディオティマ弦楽四重奏団は第3番とは対照的に1stヴァイオリンのイニシアティブのもとに内声を豊かに薫らせながら心の綾を紡ぐ歌心溢れる流麗、優美な演奏で楽しませてくれました。とりわけ第3楽章の憧憬感を湛えたロマン薫る演奏や第4楽章の華やかにクライマックスを築く構築感のある演奏が聴き応えがありました。
 
〇弦楽四重奏曲第1番(Ⅰ期後半)
1905年に弦楽四重奏曲第1番が完成しますが、伝統的な4楽章形式を単一楽章にまとめて主題が循環する革新的な楽式を採用することで楽曲全体に統一感を増しています。この曲では未だ調性が維持されていますが、1907年にロゼ弦楽四重奏団により初演された際には、弦楽四重奏曲ニ長調とは反対に観客が激しい拒否反応を示し、G.マーラーがA.シェーンベルクを擁護したと言われています。弦楽四重奏曲ニ長調(俗に弦楽四重奏曲第0番)と並べて聴くと、明らかに調性が曖昧になっている印象を受け、無調音楽(表現主義)を先取りするような浮動調性に特有の浮遊感が漂う捉えどころのない音楽(弦楽四重奏曲第1番)であること明瞭に感じ取れ、今日の演目の配列意図を十分に堪能できました。ディオティマ弦楽四重奏団は精緻なアンサンブルで時に精妙に時にドラマチックに音楽をドライブする表情豊かな演奏で飽きさせませんでした。因みに、1913年3月31日にA.シェーンベルクの室内交響曲第1番(4度の不協和音程を使用)が初演された際には大乱闘に発展しましたが、同じ1913年5月29日にI.ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」が初演された際にも大乱闘に発展しました。当時の観客は伝統的なクラシック音楽の認知モデルの枠組みを大きく逸脱する新しい音楽に接して動物的な拒否反応(人間の脳は生存可能性を高めるために外界の情報を瞬時に判断できるように抽象的な認知モデルを創り出しますが(例えば、ニャンという鳴き声が聴こえれば猫と瞬時に判断するなど)、この認知モデルからかけ離れる外界の情報(例えば、これまでに聴いたことがない得体の知れない動物の鳴き声など)は生存可能性を低める可能性があるものとしてネガティブな感情を引き起こしてこれを忌避しようとする本能的な反応)を示していると言えます。人類が長年に亘って創り上げてきた認知モデル(常識や伝統など)を軽んじることはできませんが、その一方で、それは人間の環世界を前提として創り上げられてきたものでありこれが何か絶対性、普遍性又は不変性を体現するものであるかのように盲信することは軽率かつ傲慢な態度であり、個人的にはその認知モデルを揺さぶり又はこれを破ろうとするところに芸術の存在意義や醍醐味があるのではないかと感じています。この点、過去のブログ記事でも触れたとおり、人類は約5億年前の認知革命により社会性を備えて血縁関係を超える集団生活を営み始めますが、大まかに、「神による支配」-(科学革命)→「人による支配」-(市民革命)→「法による支配」という3段階を経て現代に至っており、そのうち「法による支配」は20世紀までの規制強化による規範化された社会を経て21世紀からの規制緩和による多様化された社会へとパラダイムシフトしています。20世紀までの中心がある世界観が行き詰まり21世紀からの(インターネットに象徴されるように)中心のない世界観へ移行されるようになって、漸くA.シェーンベルクが志向したとおり調性音楽(主音のある音楽)は相対的な価値観に過ぎず、無調音楽(主音のない音楽)にも相応の価値があると容認(認知モデルが再創造)され、調性音楽(主音のある音楽)と共に無調音楽(主音のない音楽)も受容されるようになってきたと言えるかもしれません。
 
〇弦楽四重奏曲第4番(Ⅲ期後半)と弦楽四重奏曲第2番(Ⅱ期)
1934年にユダヤ人のA.シェーンベルクはナチス・ドイツの迫害から逃れるためにアメリカに亡命し、1936年に弦楽四重奏曲第4番を作曲しています。弦楽四重奏曲第4番は伝統的な4楽章形式を採用した十二音音楽ですが、所々で調性や拍節への回帰が感じられるのはアメリカを中心とする国際秩序の回復(解決)を希求したものでしょうか。ディオティマ弦楽四重奏団はテンション高く活舌の良い演奏を展開し、ユニゾン(全体主義のメタファー?)と対位法(民主主義のメタファー?)の対照などその音楽性が明瞭な分かり易い演奏を楽しめました。これに続く弦楽四重奏曲第2番はA.シェーンベルクが妻・マティルデの不倫で結婚生活が破綻していた1908年に無調音楽(表現主義)へ踏み出した記念碑的な作品ですが、伝統的な4楽章形式を採用しながらも第3楽章及び第4楽章はドイツ象徴派詩人シュテファン・ゲオルゲの詩を使って弦楽四重奏と声楽の融合を図る革新的な編成が試みられ、かつ、第4楽章では無調音楽(厳密には浮動調性)が展開されています。妻・マティルデとの結婚生活を表現したものでしょうか、第1楽章や第2楽章では後期ロマン派の叙情や情熱、時には諧謔などが入り混じる幸福感のある演奏が聴かれましたが、これにソプラノが加わる第3楽章では弦楽が心情描写をするなか「深きはこの悲しみ、われを暗く包み・・われよりこの愛を取り去り、われに御身の幸福を授けたまえ・・」とドラマチックな歌唱で緊張感が高まり、これに続く第4楽章では弦楽が無調性の陰鬱した音楽を弱奏するなか「私は感じる どこか他の惑星からの風を・・暗闇を抜けて顔たちが蒼ざめてゆく・・」とソプラノの弱唱が病的な美しさを湛えてホールを満たす余韻深い演奏を楽しめました。I.クセナキスは著書「音楽と建築」で十二音音楽に象徴される線的思考を批判して「雲の音」なる概念を提唱しましたが、A.シェーンベルクが無調音楽(主音のない音楽)を切り拓くことで調性音楽(主音のある音楽)という強靭な認知モデルを相対化することに成功したことは音楽史に燦然と輝く金字塔として偉大な功績であると共に、その晩年には再び調性も採り込むバランス感覚(調性を排除するという闇の絶対性に支配されることなく、調性と無調性の境を無くして相対化することで音楽を自由にする態度)を持った天才作曲家であったと言えるのではないかと思います。
 
☞ 第34回芥川也寸志サントリー作曲賞ノミネート作品決定
先日、第34回芥川也寸志サントリー作曲賞ノミネート作品が発表されました。武満徹音楽賞は日本国籍だけではなく外国籍を有する方も対象とするワールドワイドな賞であるのに対し、芥川也寸志サントリー作曲賞は「日本国籍を有する者」「2023年1月1日~12月31日に国内外で初演されたオーケストラ作品」を対象とするドメスティックな賞ですが、今回、ノミネートされている河島昌史さんの作品はバーゼル作曲コンクール2023にもノミネートされており(因みに、木村真人さんの作品が第2位、神山奈々さんの作品が第3位に入賞)、また、山邊光二さんの作品は2023年度武満徹作曲賞で第2位に入賞していますので、芥川也寸志サントリー作曲賞も世界レベルにある賞と言えると思います。来る8月24日に選考演奏会及び第32回芥川也寸志サントリー作曲賞を受賞した波立裕矢さんの新作初演もありますので大変に楽しみですが、時代の価値観は規範性(モダニズム)から多様性(ポスト・モダン)に移行しており従来のコンクールのように順位をつけることにあまり意味がなくなっていることを前置きしたうえで、以下のノミネート作品はいずれも日本の音楽界をリードする世界レベルにある作品(作曲家)であることが認められたと言えると思いますので、あまり順位は気にせず、それぞれのノミネート作品の魅力を堪能させて貰おうと思っています。なお、2024年8月22日から2024年8月29日まで「サントリーサマーフェスティバル2024」が開催されますが、せっかくのサマーフェスティバルなので、ホワイエでよく冷えたサントリービールでも飲みながらほろ酔い気分で楽しみたいと思っています。
 
〇石川健人 ブリコラ-じゅげむ(2023年)
 初演:2023年6月16日
 場所:東京藝術大学第6ホール
 
〇河島昌史 e→eⅣ(2022年)
 初演:2023年2月10日
 場所:ドン・ボスコ・バーゼル(バーゼル作曲コンクール
 
〇山邊光二 Underscore(2022年)
 初演:2023年5月28日
 場所:東京オペラシティ コンサートホール
               (2023年度武満徹作曲賞本選会
 
〇第34回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
【日時】2024年年8月24日(土)15:00~
【会場】サントリーホール 大ホール
【演目】波立裕矢 打楽器協奏曲(世界初演)
    上記のノミネート作品
【演奏】<Cond>杉山洋一
    <Perc>安藤巴
    <Orch>新日本フィルハーモニー交響楽団
【選考】<司会>白石美雪
    <委員>新実徳英、望月京、山本裕之
 
日本の作曲2020-2022年発刊
サントリー芸術財団が1969年から発刊している「日本の作曲」は、これまで10年毎に編纂されていましたが、最近の初演ブームを反映したものなのか、今後は3~4年単位で注目作品を選出する方針に切り替えられたそうで、先日、現在最も注目される日本の作曲家及び作品を選出した「日本の作曲2020-2022年」が公表されました。外国の作曲家及び作品が対象とされていないのは非常に残念ですが、さながら日本版グラミー賞現代音楽部門ノミネート作品と言った趣きがあり、最新の日本の現代音楽シーンを把握するには最適の指南書と言えいますので、これから現代音楽を攻略したいという諸兄姉にとって本書は良き羅針盤になるものと思います。もしサントリー芸術財団がなければ、日本の芸術文化は瘦せたものになっていたのではないかと思います。
 
現代オペラブームの到来
アメリカ人現代作曲家のジャン=カルロ・メノッティ(~2007年)のオペラ「ヘルプ!ヘルプ!宇宙人が襲ってきた!」(室内オーケストラ版/日本語上演)が今月末に武蔵野音楽大学で上演されます。アウトリーチ公演を含めて再演が続く日本でも人気が高い演目ですが、この公演も早々にチケットが完売してしまいましたのでチケットを入手できませんでした。定番オペラ(新制作を含む)に飽きている諸兄姉は多いと思いますので、最近の現代オペラブームは歓迎すべき潮流です。