大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

新年の挨拶②:現代音楽プロジェクト「かぐや」と東京都交響楽団定期演奏会(J.アダムズ)とJ-TRAD Ensemble MAHOROBAとタツノオトシゴの子育て<STOP WAR IN UKRAINE>

 
▼タツノオトシゴの子育て(ブログの枕単編)
謹賀新年。旧年中は拙ブログをご愛顧賜り、誠にありがとうございました。本年も旧倍のご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。さて、後漢書の李膺伝には黄河竜門の急流を鯉が登ると竜になるという故事が紹介されており、それが「登竜門」の語源になっていますが、この変革期(竜門)に挑戦する者(鯉登り)が時代(急流)を乗り越えて未来(大河)を拓くことができるという有難い教えです。竜(辰)は十二支で唯一の架空の動物ですが、タツノオトシゴ(竜の落し子)は天上の竜が海に産み落とした子の姿のように見えることから命名されたもので(下表写真)、その近縁種としてタツノイトコ(竜のイトコ)(相模湾などの温帯域に生息)やタツノハトコ(竜のハトコ)(南西諸島などの熱帯域に生息)なども存在します。近年、タツノオトシゴは観賞用や土産用などの目的のために乱獲されてきた影響からワシントン条約付属文書Ⅱで絶滅危惧種(学名:Hippocampusで登録)に指定されて取引が規制されていますが(但し、現在、日本はタツノオトシゴの絶滅危惧種の指定を留保していますので規制の対象外になっています)、前回のブログ記事でも触れたネイチャーポジティブ(30by30)を推進する観点からタツノオトシゴの養殖事業なども本格化しています。タツノオトシゴの寿命は3年と短く一生同じパートナーと連れ添って年に3回ほど出産しますが、タツノオトシゴは兎よりも多産なことで知られ、一度に約100~1000匹(但し、生存率は約1%)もの稚魚を産みます。その求愛と交尾は大変にロマンチックで、オスとメスが尾を絡めながら水中をクルクルと求愛のダンスを舞い、婚姻色と呼ばれる明るい色調に体を変色させます。オスには人間の胎盤に相当する育児嚢と呼ばれる袋がありますが、そこにメスが産卵管(ペニスのようなもの)を差し込んで産み付けた沢山の卵に受精させて、育児嚢の中で孵化した稚魚に栄養や酸素を供給しながらある程度の大きさに成長した後に出産します。このようにタツノオトシゴは、メスではなくオスが出産し、子育て(ワンオペ育児)を行っていますので、「イクメン」の大先輩と言えるかもしれません。タツノオトシゴのオスはワンオペ育児を熟すタフな生き物ですが、ヒトのオスは産後うつに陥るなど「父親2.0」(夫婦によるツーオペ育児)の行き詰りが社会問題として認識されるようになっており、現在では昔の子育ての知恵を借りて「父親3.0」(分散育児)が模索され始めています。この点、江戸時代には子供が親の家業を継ぐことや職住近接であったことなどもあって父親が育児に積極的に参加していたという記録があり、父親向けの育児本(林子平の「父兄訓」や山鹿素行の「父子訓」など)も人気がありました。人間の赤ちゃんは他の動物と異なり生れて直ぐに歩くことができないなど子育てに手間が掛かるのでワンオペ育児は難しいと言われていますが、江戸時代には血縁関係のある親族が近隣に居住し、また、仮親(名付け親、烏帽子親、守親、乳親、拾親、取上親、抱き親、行会親などの疑似的な親子関係を結ぶ者)、寺子屋(師弟関係)、子供のコミュニティー(子供組、若者組、娘組)や子守労働(ルイス・フロイスは日本の10歳前後の子供は赤子をおんぶして子守していると記録していますが、この習慣は昭和まで継続)など地域全体で子育てを支援する文化風土(ソフト面での子育て支援)が培われていたと言われています。過去のブログ記事でも触れたとおり、日本の子供達のウェルビーイングが相対的に低いこと(精神的幸福度はOECD38ケ国中37位)の理由の1つとして、学校以外のコミュニティーに参加する機会(自己実現を図る機会)が少ないことが挙げられていますが、江戸時代の子供達は現代の子供達に比べて多様なコミュニティーに参加する機会に恵まれていたと言えるかもしれません。明治維新後、1890年に民法が制定され、江戸時代までの農家や商家に残されていた母系相続や末子相続が庶民の蛮風として廃止されて儒教思想に基づく家父長制度が徹底されましたが、これが近代的な家族観に大きな影響を与えて、性別役割分業論が社会へ浸透し、それを前提にした女性に対する「良妻賢母」教育(大正時代初期に「母性」という言葉も誕生)が実践されました。その後、1974年の第二次ベビーブームに出生者数がピークを迎え、1985年に男女雇用機会均等法が制定されて女性の社会進出が進展するにつれて出生者数は大幅に減少して行きましたが、この背景には江戸時代に息衝いていた地域全体で子育てを支援する文化風土が衰退したことに加えて、血縁関係のある親族とも疎遠になる核家族化が進んで社会的に孤立し、自分の祖父母以外に子育てを支援してくれる人がいなくなったことで、女性が出産を断念せざるを得ない状況が生まれたことが日本の少子化傾向に拍車を掛けたことが指摘されています。また、乳幼児の死亡率の低下、避妊方法の進化、ライフスタイルの多様化や経済的な負担の増大などの環境変化を背景として、子供は「授かる」ものから自らのライフプランとして「選択する」ものへ意識が変化したことも指摘されています。この点、「父親1.0」は「男性は仕事、女性は育児」という近代的な父親像を背景とする考え方でしたが、「父親2.0」は女性の社会進出に伴って父親の育児参画の必要性が再認識されるようになり、2010年頃には「イクメン」ブームが到来しましたが、未だ母親中心の子育て支援であったことなどから、父親の子育てに関する知識不足、経験不足及び支援不足を原因とする行き詰りが認識されるようになりました。そこで、「父親3.0」では昔の子育ての知恵を借りて、子育てし易い環境を整えるために社会全体で育児を分担する「分散型育児」が見直され始めています。因みに、欧米では法律上の婚姻関係になくても内縁関係があれば税金、相続や社会保障などを受けられるように法律を改正したことで婚外子が増加して出生率が改善したという報告がありますが、女性が経済力を持つようになり子供は欲しいが結婚はしたくないというライフスタイルを尊重する少子化対策も必要かもしれません。これまで日本の保育所は「働く親のための施設」というネガティブな捉え方が主流でしたが、欧米の保育所は「幼児教育のための施設」と位置づけられ、単に両親の子育て負担を軽減するための施設に留まらず、子供がより良く育つように地域全体で子育てを支援するための施設であるというポジティブな捉え方が主流になっています。前回のブログ記事でも触れましたが、現代はあわい(間)を紡ぐことができる人材が不足していることが社会課題として認識されていますが、地域全体で子育てを支援する観点からあわい(間)を紡ぐことができる人材を育成するための幼児教育としてSTEAM教育が注目を集めており、両親の子育て負担の軽減だけではなく人材育成の戦略にレベルアップした子育て支援のあり方が模索されています。因みに、上述のとおり昔の日本の子守は「おんぶ」が主流でしたが、1986年頃から欧米のライフスタイルを採り入れて「だっこ」に主流が移り、現在ではベビーカー(1860年に福沢諭吉がアメリカから乳母車を持ち帰ったのが最初と言われていますが、江戸時代中期から日本には子連れ狼の大五郎が乗っていた箱車がありました。)が重宝されるようになっています。この点、赤ちゃんのミラーニューロンを活発に刺激して賢い子に育てるためには親と同じ目線で外界を見ることができる「おんぶ」が優れていると言われており、最近では欧米でもonbuhimo(おんぶ紐)が注目され始めています。今年は子育てし易い環境が整備されて行くと思いますので、余計なお世話ではありますが、今晩あたり求愛のダンスでもいかが💞
 
①江島神社(神奈川県藤沢市江の島2-6-15
②新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市片瀬海岸2-19-1
①江島神社(大鳥居)江島縁起によれば、昔から江の島は龍の住む場所と言われ、天から舞い降りた天女(弁財天)と5つの頭を持つ龍とが結ばれた五頭龍伝説が残されています。 ①江島神社(龍宮):1993年に相模湾を臨む岩屋洞窟(龍神伝説発祥の地)の真上にあたる奥津宮の隣に龍宮大神を祀る龍宮が建立され、全国各地から崇敬を集めています。 ①江島神社(山田検校斗養一像):山田流箏曲の祖・山田検校は江の島に逗留して代表作「江の島曲」を作曲し、その功績を讃える幸田露伴撰の顕彰碑と座像が建立されています。 ②新江ノ島水族館(タツノオトシゴ)新江ノ島水族館にはタツノオトシゴが展示されており(正月も営業)、近くに五頭龍伝説に登場する五頭龍を祀る瀧口明神社もあります。
 
▼現代音楽プロジェクト「かぐや」
【演題】現代音楽プロジェクト「かぐや」
【演目】①ユハ・T・コスキネン 筝曲「イザナミの涙」(世界初演)
    ②カイヤ・サーリアホ 弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」
    ③横山未央子 弦楽四重奏曲「地上から」(世界初演)
    ④ジョセフィーヌ・スティーヴンソン ソング・サイクル「かぐや」
            (世界初演)(原語(英語)上演・日本語字幕付)
    <原作>「竹取物語」及び与謝野晶子の詩に基づく
    <作曲>ジョセフィーヌ・スティーヴンソン
    <作詞>ベン・オズボーン
    <振付>森山開次
    <照明>大島祐夫
    <衣裳>増田恵美
【演奏】<ヴォーカル>ジョセフィーヌ・スティーヴンソン④
    <ダンス>森山開次④
    <箏>吉澤延隆①④
    <Vn>山根一仁、毛利文香②③④
    <Va>田原綾子②③④
    <Vc>森田啓介②③④
【場所】東京文化会館小ホール
【日時】2023年1月13日(土)15:00~
【一言感想】
フランス&イギリス人現代作曲家のジョセフィーヌ・スティーヴンソンさん(1990年~)、昨年他界されたフィンランド人現代作曲家のカイヤ・サーリアホさんと生前親交があったフィンランド人現代作曲家のユハ・コスキネンさん(1972年~)及び日本人現代作曲家の横山未央子さん(1989年~)の作品を採り上げる現代音楽プロジェクト「かぐや」を聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。なお、今回は作詞を担当されているベン・オズボーンさん(1994年〜)も現代作曲家として活動されていますので、以下のシリーズ「現代を聴く」で楽曲を紹介しています。
 
【追記】
 
ヴラヴィー!!今日は東京文化会館の舞台芸術創造事業の一環として開催された現代音楽プロジェクト「かぐや」を鑑賞してきましたが、現代音楽の公演には珍しくほぼ満席の盛会で、ソング・サイクル「かぐや」(ワールドプレミア)はスタンディング・オベーションになる大成功でした。最近、マンネリズムに陥っている閉塞感の漂う芸術界を捉えて芸術的限界点を迎えているという悲観的な意見も一部で耳にしますが、個人的には、これまでの芸術体験に照らして何と表現して良いのか分からないようなジャンルレスの芸術表現を鑑賞する機会が増え、これらの新しい芸術体験を生み出す革新的な作品に現代人の教養(心の豊かさ)を育み得る芸術表現の可能性を感じています。歴史上、それぞれの時代に相応しい新しい芸術表現が誕生してきたように、現代は時代の価値観、自然観、世界観などが大きく更新されていますので、それらを表現するために相応しい新しい芸術表現が求められていると思いますが、新年早々から確かな手応えが感じられる作品に接する機会に恵まれたという意味で大変に充足感の高い有意義な芸術鑑賞になりました。以下では各演目について簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①筝曲「イザナミの涙」(世界初演)
2021年に東京文化会館の舞台芸術創造事業の一環としてK.サーリアホさんのオペラ「Only the Sound Remains-余韻-」が日本初演されましたが、昨年6月に早逝されたK.サーリアホさんへのオマージュとして、前半にK.サーリアホさんの作品及びK.サーリアホさんと所縁の深い作曲家の作品が演奏されました。J.コスキネンさんはK.サーリアホさんの薫陶を受け、2004年に現代作曲家・細川俊夫さんの招待で武生国際音楽祭に参加して「Sogni di Dante」で武生国際作曲賞を受賞し、現在、愛知県立芸術大学客員教授を勤めているなど日本とも所縁の深い現代作曲家です。筝曲家・吉澤延隆さんとのコラボレーション作品以外に能声楽家・青木涼子さんとのコラボレーション作品などもあり、2012年に能声楽曲「Wayfaring Moon」を世界初演したのに続いて、今後、能「野宮」を題材にした室内オペラ「野宮」の作曲も予定されているそうなので、今から楽しみです。さて、筝曲「イザナミの涙」は、J.コスキネンさんが吉澤さんのために作曲した作品ですが、これまでJ.コスキネンさんが吉澤さんのために作曲した秋をテーマにした筝曲「薄氷」(2018年)及び春をテーマにした筝曲「天浮橋」(2020年)に続く三作目として冬をテーマにして作曲した新作で、今後、夏をテーマにした筝曲も作曲する予定があるそうなので、こちらも大変に楽しみです。筝曲「イザナミの涙」はグルックのオペラの題材などにもなっているギリシャ神話「オルフェオとエウリディーチェ」と物語が類似している古事記「黄泉の国」を題材として、松尾芭蕉が寒椿を詠んだ俳句「葉にそむく 椿の花や よそ心」(意訳:葉に背を向けて咲く椿の花は何とよそよそしく冷たいことか。但し、よく歌詞を聴き取れなかったので誤認の可能性もあり・・汗)を引用するなどJ.コスキネンさんの日本文化への造詣の深さを感じさせますが、イザナミを椿の葉、イザナギを椿の花に喩えてイザナミの心を芭蕉の句に込めて表現したものではないかと推測されます。J.コスキネンさんは古事記に現代的なテーマ性を見い出してイザナミの姿は人類に破壊された地球の姿を連想させると仰っていますが、国土や神々(即ち、自然)を生み、黄泉(=地下の泉)の国の神になったイザナミは地球そのものを象徴する存在と言えるかもしれません。筝の柔らかい調べに乗せたヨワ吟による唄と筝の力強い調べに乗せたツヨ吟による唄の対比がまるで彼岸(イザナミが住む世界)と此岸(イザナギが住む世界)の物理的又は心理的な距離を感じさせる奥行きのある演奏効果を生んでおり、ヨワ吟が囁き掛けるように「椿の花」を箏問う恋慕の情が儚げに薫る優美な曲に感じられました。古事記「黄泉の国」では、イザナミが「こんなに酷いことをするならば1日に1000人を殺します」と告げると、これに答えてイザナギは「それならば1日に1500人の子供を産ませよう」と袂を分かちますが、日本の人口統計(2022年)によれば、出生者数が約77.0万人(漸減基調)であったに対して死亡者数が約156.8万人(漸増基調)に上っており、イザナミの祟りが現実のものになろうとしています。前回のブログ記事でも触れましたが、何故、人類の祖先は無性生殖ではなく有性生殖を選択して死のプログラムを実装するようになったのか、その生命の営みの根源から認識し直すべき時期に来ている切実な問題であり、個人的には、筝曲「イザナミの涙」には地球環境破壊の問題と共に生命の根源に対する問い掛けが含まれているように感じられ、現代人の教養(心の豊かさ)を育むのに相応しい非常に含蓄深い曲であると感じ入りながら鑑賞しました。
 
②弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」(2006年)
1970年代にK.サーリアホさんはシベリウス音楽院で作曲を専攻して、その後、IRCAMで活動していましたが、当時はいずれの組織でも唯一の女性だったそうです。過去のブログ記事でも触れましたが、最近は女性作曲家の躍進(後述)が目覚ましくジェンダーフリーの社会浸透がある程度進んでいる印象を受けますが、今年のサントリー・サマーフェスティバルのテーマ作曲家に指定されたO.ノイヴィルトさんと共にジェンダーバイアス(脳が生成する認知パターン)に強かに抗いながら、その実力によって女性作曲家の社会的な地位の確立に貢献した歴史に残る逸材であり、後述する横山さんはその遺志を継ぐ嘱望された若手の現代作曲家の1人になります。K.サーリアホさんの弦楽四重奏に関する作品数は多くありませんが、弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」(2006年)は弦楽四重奏曲「睡蓮」(1987年)に続く第2作目で、このほかにも弦楽四重奏曲(原曲:弦楽合奏曲)「雪の花」(1998年)やソプラノと弦楽四重奏のための「景色」(1996年)などが存在しています。過去のブログ記事でK.サーリアホさんの作曲手法の一端について簡単に触れていますが、この作品は「旅立った人々に捧げられ・・(中略)・・ある種の思い出は夢の中で何度も姿を現し・・(中略)・・変化する思い出もあれば、なお鮮やかな場面として追体験できるものもある」こと(世界観:目的)に着想を得て、その世界観を表現するために音楽素材を「異なる形に変化するものもあれば、ほとんど変わらず、明らかにそれと分かる元の姿を保ちつづけるものもある」という一定の方法(その世界観を表現するための方法:手段)で扱ったという解説が付されていました。この曲の標題「テッラ・メモリア」は大地(テッラ)と記憶(メモリア)という意味ですが、楽器や奏法を巧みに操りながら多彩な音色、リズム、強弱、濃淡や音像(フォルムや間)などによって大地(現在、此岸)と記憶(過去、彼岸)が育む豊かな精神世界の対比と融合が表情豊かに表現され、ポスト・ミニマル風のモチーフの反復と変容を効果的に使って構成感、統一感のある楽曲にまとめられており、K.サーリアホさんの円熟味が感じられる磨き抜かれた筆致に魅了されました。この日のために特別に編成されたクァルテットは、フラジョレット、ポルタメント、トリル、スル・ポンティチェロなどの特殊奏法から生まれる演奏効果を十分に引き出しながら緊密で堀の深い構成感のあるアンサンブルを紡ぎ出していました。この曲は楽器相互の連携が重要なポイントになるのではないかと思いますが、内声が豊かに感じられるバランスの良さと心地よいテンションを生む絶妙な呼吸感によるアンサンブルを楽しめました。久しぶりにきちんと楽器を鳴らし切る歯応えのある現代音楽を聴いたような気がします。なお、日本では律令国家の誕生により男系社会が確立し、そのような時代背景の中で紫式部が執筆した源氏物語は中世のジェンダーバイアスを背景とするやんごとなき姫君達のシンデレラ・コンプレックスに彩られた世界観を描いていますが、日本人女性の社会的な地位の向上に尽力した津田梅子が2024年7月に発行される新紙幣に採用される時機にあることを踏まえると、いつまでも懐古趣味から抜け切れず時代錯誤感のある題材ばかりを採り上げている大河ドラマの視聴率(ネット配信を含む)が低迷しているのも頷けます。
 
③弦楽四重奏曲「地上から」(世界初演)
現代作曲家・横山未央子さんはシリベウス音楽院に留学してフィンランド人現代作曲家・V.プーラマさんに師事し、現在、シリベウス音楽院で非常勤講師を務められています。横山さんは学費が無料であることなどからフィンランド音楽院に留学することを決めたそうですが、日本と比べて、①フィンランドは現代音楽の演奏機会が多く(フィンランド音楽院の学位審査演奏会では委嘱新作を初演する気風があるそうですが、今年は東京藝術大学の学位審査演奏会でも委嘱新作が初演される予定があります)、②新作委嘱の支援が手厚いことに加えて、③観客が現代音楽の受容に積極的であることを挙げられていました。この点、毎年、飽きもせずに年末の第九や年始のニューイヤーには通う一方で新しい作品には関心すら示さない日本の観客の気質を見ていると、欧米人に比べてドーパミンの分泌量が少ない人の割合が多い日本人には現代音楽の受容は難しいのかもしれないと落胆を禁じ得ません。最近、日本でも現代音楽を採り上げる演奏会が増加してきたとは言え、未だに、その機会や客入りは相対的に少ないのが現状であり、観客の立場からフィンランドを含む欧米の状況を羨ましく思います。横山さんによれば、日本では委嘱新作の初演の度に「これが最後かもしれない」という不安な想いが常に付き纏っていたそうですが、現代音楽の演奏機会が多いフィンランドでは余計な雑念に煩わされることなく作曲に専念できる環境があるそうです。K.サーリアホさんは次の時代を担う若手の現代作曲家として横山さんにも目を掛けられ、この現代音楽プロジェクトに横山さんを推挙したのもK.サーリアホさんだったそうですが、今回は早逝されたK.サーリアホさんを地上から偲んで弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」を参照しながら横山さんの独自の作曲手法で弦楽四重奏曲「地上から」を作曲したそうです。打楽器的な特殊奏法を駆使してクァルテットを摩弦楽器ではなく打楽器のように扱う楽曲は非常にユニークで充実した内容を持つ作品でした。横山さんによれば、「テッラ・メモリアの構成やモチーフの使い方を自分なりに分析して書きました。たとえば、ベースラインのだんだん上昇していく動きや、チェロからヴィオラ、ヴァイオリンへと駆け上がっていく動き」などを参考にしながら作曲したと語られていましたが、弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」が線描画であるとすれば、弦楽四重奏曲「地上から」は点描画と言った風情があり、これまでも打楽器的な特殊奏法を使った様々な現代音楽を聴いてきましたが、それらの作品と比べても非常に着想が豊かで、それらの多彩な表現を駆使しながら緻密で構築感のある聴き応えのある音楽に感じられました。ジャズのコード進行こそ使われていませんが、ベースラインを追って行くとジャズのクァルテットを聴いているようなグルーブ感もあり、スリリングで面白い演奏が楽しめました。この曲では、洗濯ハサミ(木製3.5cm)で弦を挟む特殊奏法が使われていますが、非整数次倍音(自然音)で構成される音程感が不明瞭な金属のような響きを生む独特の効果を生んでいました。過去のブログ記事でも触れましたが、能の謡は声帯が閉じた状態(地声)で発声する非整数時倍音(自然音)を基調とするものですが、その意味で音に対する日本人的な感性も活かされている作品に感じられ、非常に興味深かったです。現在、弦楽四重奏曲「地上から」と一対になる作品(二連祭壇画)を構想されているそうなので、その作品と共に日本での再演が待ち望まれる秀作です。
 
④ソング・サイクル「かぐや」(世界初演)
今回の企画は2022年9月にフランスで森山開次さんがK.サーリアホさんのオペラ「Only the Sound Remains-余韻-」を公演した際に、それを鑑賞していたJ.スティーヴンソンさんを紹介されたことを契機として実現したものだそうです。J.スティーヴンソンさんは英国王立音楽院で作曲を学んだミレニアル世代の現代作曲家で、クラシック音楽とポピュラー音楽を1つの音楽と捉えたジャンルレスな音楽活動を行っていますが、方法(手段)よりも世界観(目的)を重視するポスト・モダン的な作曲姿勢が幅広い共感と支持を生んでいます。森山さんはJ.スティーブソンさんの印象から竹取物語を題材とすることを直感的に閃いたそうですが、J.スティーヴンソンさんはかぐや姫が平安時代の女性でありながら封建的な男性社会に屈することなく自分の意思を貫いた生き方に共感すると共に、B.オズボーンさん(日本の短歌にインスパイアされた詩「Tanka」を創作したこともある知日派)から与謝野晶子の詩を紹介されてかぐや姫と与謝野晶子の生き方が「女性の生きる強さ」(ジェンダーフリー)という点で重なり合うように感じ、また、B.オズボーンさんは竹取物語に「人間と自然の共生」「富と所有」(環境破壊)や「帰る場所の喪失」(移民問題)などの現代的なテーマ性を読み解いて、これらのテーマ性を意識して作品を創作されたそうです。この点、源氏物語第十七帖「絵合」にはかぐや姫が帝の后にならなかったこと(シンデレラ・コンプレックスと正反対の態度)をネガティブに評している部分があり、また、戦中の教科書ではかぐや姫の結婚拒否(求婚譚)を悪影響があるとして大幅にカットしていましたので、ジェンダーフリーの視点から竹取物語を現代的に再評価している点が注目されます。J.コスキネンさんの「イザナミの涙」はイザナミが地球(自然)を象徴する存在として環境破壊や人口減少の問題などを問い掛けてくる作品に感じられましたが、ソング・サイクル「かぐや」もかぐや姫が地球や女性の強さを象徴する存在として環境破壊やジェンダーフリーの問題などを問い掛けてくる作品に感じられ、両作品は共通する時代認識を持っており、現代の時代性と向き合いながら現代人の教養(心の豊かさ)を育むのに相応しい非常に充実した内容を備えているように思います。ソング・サイクル「かぐや」は特定の歌手が特定の役柄を演じるオペラやミュージカルとは異なって、ヴォーカルがキャラクターの声も担いながら物語の内側(オン・ステージの視点)と外側(オフ・ステージの視点)を往還し、ダンサーの身体表現及び器楽の音楽表現と共に物語を紡いで行く新しいスタイルの芸術表現のように思われます。J.スティーヴンソンさんはルネサンスのメランコリックな歌と21世紀の実験的なポップスの間に位置するスタイルを目指して作曲したと仰っていましたが、リリック・ソプラノを思わせるJ.スティーヴンソンさんの透徹な美声(クルーナー)はまるで月光が闇夜に澄み渡るようでもあり、その繊細な情感表出は圧倒的な恍惚感と共に歌(詩)の世界に惹き込み、自然と歌(詩)の言葉が心に沁み入ってくるような不思議な訴求力を持っていました。冒頭、弦楽器がさながら笙(竹製)のような響き(ハーモニー)を奏で、森山さんが芽吹きを待つ筍のように緑の着物を被りながら徐々に立ち上がって森の中に新しい生命が育まれる様子を表現されていましたが、これに「緑の壁の中で 静かに脈打つ 母の心臓の鼓動 共生のエコー」という歌(詩)が添えられ、照明効果も相俟って、かぐや姫が竹の精霊(日本風に言えば、八百万の神々)であるかのような幻想的な雰囲気を醸し出す美しい場面になっていました。筝の調べに乗せて森山さんが緑の着物を脱ぎ棄てこの世の美しさに触れ、生きる喜びを謳歌するように舞台を走り回りますが、その心象風景を詠むように与謝野晶子の俳句「ふたつ三つ わすられぬこと かきこして こゝろの上を はしりゆく人」(「明星抄」より)が日本語で歌われ、かぐや姫とそれを見守る与謝野晶子の姿が音楽的に重なり合っていました。やがて月の光の眩さが陰影を濃くするような照明演出があり、与謝野晶子の俳句「えもいはぬ はだかの少女 かぢとりて 船やるごとき 夏の夜の月」(「明星抄」より)が日本語で歌われた後に、「地球の半分で森が燃えている 木の葉が枯れるとき 木々が倒れるとき、海がせり上がるとき 根こそぎにしながら ひっかり返しながら 消し去りながら 地球が無と暗黒に屈指ようとするとき 月が昇る」という印象的な歌(詩)が続き、森山さんの地球が踠き苦しんでいる様子を激しいダンスで表現されていました。このピースはJ.スティーヴンソンさんの哀しみを湛えたひときわ美しいヴォーカル(大好き💘)が白眉で、かぐや姫(自然)の生命が尽きようとしていることを強く印象付ける叙情豊かな歌に魅了されました。自然を愛しむ心を育むことは芸術に期待されている重要な社会的な使命の1つであり、そのことを大脳新皮質(心の表層)に理解させるだけではなく脳幹や大脳辺縁系(心の深奥)に共感させられることが芸術の力であることを思い知らされました。ヴラヴィー!!この作品には政治的なメッセージは含まれていないそうですが、激しい打撃音を伴った「彼の愛を、黄金と武器で満たした」という歌(詩)は現代の時代性を色濃く反映しているように感じられ、これと対比するように、箏の調べは涙を描写したものでしょうか、森山さんが緑の着物を羽織って新しい生命の種が蒔かれようとしている様子を表現するなか、未来への希望が込められた「涙のしずくは、種子となり 落下しながら発芽する 来るべき春に向かって伸びる 月にかかる梯子」という歌(詩)が心に響きました。このピースではJ.スティーヴンソンさんが客席から舞台に向かって歌い掛けましたが、この物語は我々自身の物語であり、この歌(詩)は我々自身の願いであることを強く感じさせられる舞台演出であったと思います。謝野晶子の俳句の一部分「山の動く日きたる」(与謝野晶子の歌集「夏より秋へ」に収録されている「山の動く日きたる、 かく云へど、人これを信ぜじ」)が日本語で歌われ、再び、森山さんが緑の着物を被り芽吹きを待つ筍に変じると「あふれる自然が山肌を伝い 緑の幹をなぎ倒して流れる 森は常に変わり続けている 歩む足が種子を運び 新しい植物をもたらす」という歌(詩)が続き、自然の再生を願う終曲(我々自身のクレド)になっていたと思います。最後に、秋の句が挿入されたことで実りの秋(此岸と彼岸の境を越えて精霊などが地上に降り立つハロウィンを含む)を想起させると共に、かぐや姫を象徴する仲秋の名月を連想させる季節感は、この曲の叙情を一層と深いものにする効果を生んでいました。日本での再演を強く希望していますが、箏をギターに置き換えて演奏することができるようなので、世界各地で上演されることを願いたい秀作です。因みに、かぐや姫が月に昇ると言えば、東京文化会館小ホールの音響反射板「昇り屏風」は彫刻家・流政之さんの作品でタバコの箱の銀紙を折ったものがモチーフになっているそうです。この点、東京オリンピックの前後に整備された社会インフラは更新時期を迎えており、また、コンクリート打放しを含めて些か古びてきている印象も受けますので(東京文化会館の椅子が小さいのには泣かされます)、デジタル田園都市国家構想を踏まえて、これからの時代のコンサートホール(芸術受容)のあり方を含めた将来展望を考える時期に来ているのかもしれません。
 
 
▼東京都交響楽団 第993回定期演奏会Aシリーズ
【演題】東京都交響楽団 第999回定期演奏会Aシリーズ
    これは、事件だ!
【演目】①ジョン・アダムズ アイ・スティル・ダンス
                       (2019年/日本初演)
    ②ジョン・アダムズ アブソリュート・ジェスト(2011年)
    ③ジョン・アダムズ ハルモニーレーレ(1984/85年)
【演奏】<Cond>ジョン・アダムズ
    <Orch>東京都交響楽団
    <Sq>エスメ弦楽四重奏団
【場所】東京文化会館
【日時】2023年1月19日(金)19:00~
【一言感想】
現代最高峰のアメリカ人作曲家J.アダムズさんが日本のオケで自作を振るというので、この歴史的な事件に立ち会うために平日で時間的に厳しいのですが都響定演を聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
ヴラヴィー!!終演後、スタンディングオベーションになる盛会でした。新年から暗いニュースに心を痛めていましたが、これは吉兆かもしれません。大編成のオーケストラというキャンバスを使って変幻自在に律動するリズムを三次元的に織り込んで描かれる音楽の大伽藍に圧倒され、特殊な編成、奏法や調性などによる斬新な響きに彩られた絢爛たるオーケストレーションに魅了された極上のひとときを堪能できました。ロマン派の音楽を参照しながらも、それを大きく拡張又は逸脱して行く才気溢れる筆致に21世紀の新しい地平へと目を開かれる心地ちがして大変に満足度の高い演奏会でした。エスメSQは天衣無縫のグルーブ感で現代とロマンを自在に往還する見事な演奏でしたし、まるで1つの生き物のように振る舞う都響の合奏精度にも惜しみない拍手を送りたいと思います。ポスト・ミニマルの旗手として、その名を歴史に刻む現代最高峰のアメリカ人作曲家ジョン・アダムズさん(1947年~)は2005年に武満徹作曲賞審査員として来日する予定でしたが、当時、サンフランシスコ・オペラで予定されていたオペラ「アントニーとクレオパトラ」世界初演の日程が変更されたことから来日が中止になり、今回、漸く日本のオーケストラを指揮する機会が巡ってきたので、この機会に実演に接したく万難を排して聴きに行くことにしました。先日、英国の有名なオンライン音楽雑誌「Bachtrack」が「Classical Music Staristics 2023」を公表しましたが、例年に続いて2023年に世界で最も演奏された存命作曲家としてJ.アダムズさんがエントリーされており、世界中で不動の人気を博しています。なお、この統計結果には、昨年と対比して、以下のような特徴的な傾向が特記されていますので、その概要をご紹介しておきます。
 
①日本を含む世界で現代音楽の演奏機会が漸増傾向にあること。但し、日本では、EVの普及率やその他の国際指標などと同様に、欧米と比べると相対的に現代音楽(とりわけ21世紀に創作された音楽)の演奏機会が非常に少ない印象を否めません。
②女性作曲家の数とその作品が演奏される機会が漸増傾向にあり、今後の更なる躍進が期待されること。
③古楽・バロックの作品の演奏機会が漸減傾向にあること。但し、個人的には、古楽器や古楽奏法を採り入れた現代音楽に注目しており、その作品数も増えてきているように感じますので、徐々に、そのニューズがシフトして来ている現れではないかと思います。
④2023年に世界で最も演奏された存命作曲家として2018年に武満徹作曲賞審査員を務められた韓国人現代作曲家のチン・ウンスク(陳銀淑)さんがアジア人として初めてエントリーされていること。
 
①I Still Dance(2019年/日本初演)
この曲は青いメガネがトレードマークのサンフランシスコ交響楽団音楽監督であるマイケル・トーマスさんの在任25周年を記念し、そのパートナーであるスウィング・ダンサーのジョシュア・ロビンソンさんの「I Still Dance(今でも踊っているよ)」という言葉から着想を得て作曲されたものだそうですが、ダンス音楽というよりもトッカータ(あるフレーズを様々な音域や技巧を使って即興的に演奏する快速調の曲)に近い性格を持っています。エレクトロニックベース、エレクトロニックオルガンや和太鼓などの特殊な楽器を追加して音響的に拡張された大編成のオーケストラが統率のとれた推進力ある演奏で疾駆し、終曲まで弛緩することのなく躍動感が漲るパワフルな演奏は息を付く暇を与えません。冒頭から木管が波打つ定型的なリズムを繰り返すなかを弦楽、金管、打楽器が変化に富んだ鋭角なリズムで音楽に表情を作りながら展開するアンサンブルは、絢爛たる色彩豊かな響きに彩られ、和太鼓の凄みがその響きに厚みを増して秩序とカオスが同居しているような規格外の演奏に魅了されました。現代人の認知パターンを小粋に凌駕していく「差分」の連続が大量のドーパミンの分泌を促し、一気に脳内が沸点に達してしまう高揚感は中毒症になる魅力に溢れていました。
 
②ABSOLUTE JEST(2011年)
この曲は弦楽四重奏とフルオーケストラが協奏するという革新的な作品で(バロック時代の合奏協奏曲スタイルを拡張した弦楽四重奏と弦楽合奏が協奏するエルガー「序奏とアレグロ」などはありますが、弦楽四重奏とフルオーケストラが協奏する作品は他に思い当たりません)、軽快な弦楽四重奏と重厚なフルオーケストラをそれぞれの持ち味を損なうことなく調和させてしまう至芸に感嘆させられます。この曲ではベートーヴェンの交響曲第9番及び弦楽四重奏曲第16番のモチーフを引用し、交響曲第8番、ピアノソナタ第21番及びピアノソナタ第29番なども参照しながら作曲されており、ベートーヴェンの音楽的なエッセンスが随所に感じられますが、そこで体現されている音楽はベートーヴェンの音楽とは別次元にある21世紀の音楽へと大きく飛躍した独創性が感じられます。冒頭は神秘的に立ち込める霞の中から交響曲第9番のモチーフの幻影が浮かび上がり、このモチーフが様々に変形しながら繰り返され、これにクァルテットが緊密に呼応する密度の濃い演奏が展開されました。やがてクァルテットが弦楽四重奏曲第16番のモチーフを奏で始めると、今度はそれがオーケストラに伝染して丁々発止の大協奏が繰り広げられる燃焼度の高い演奏に腰を抜かしました。エスメ弦楽四重奏団は超絶技巧を難なく熟す信頼感のある演奏でオーケストラに気後れすることなく天衣無縫に振る舞う表情豊かな演奏をアグレッシブに展開し、とりわけカデンツァのグルーブ感のある演奏は秀逸なもので魅了されました。もはやジャズです。これに都響がフットワーク軽く緊密にコンビネーションする隙がない演奏に萌え焦げました。大向こうの席に座っていましたが、前曲と同様に、音楽の細部まで緻密に構築される熟練した至芸には目を丸くするばかりであり、その一方で、優等生的な演奏に収まることも良しとせず、理知的でありながらも絢爛たる発狂とでも形容したくなるような熱量の高い演奏には自作自演ならではの自家薬籠中のものとする奔放さが生み出す溌剌とした生命力が息衝いていて身を乗り出して演奏に食い入る始末でした。最後はチェレスタの神秘的な響きで締め括られて束の間の夢から覚めるという趣向がこの曲の味わいを一層と深いものにしてしました。至福。
 
③Harmonielehre(1984/85年)
この曲は日本でも演奏機会が多い人気演目です。この曲のタイトルは今年で生誕150年を迎えるアルノルト・シェーンベルクがマーラーに捧げた著書「Harmonielehe」(邦題:和声学)から採られていますが、A.シェーンベルクが調性システムを否定的に捉えて十二音音楽を大成したのに対し、J.アダムズさんは調性システムを肯定的に捉えてポスト・ミニマル音楽を大成したという意味で、J.アダムズさんの代表作にして作曲家としての節目になる重要な曲と言えるかもしれません。J.アダムズさんのA.シェーンベルク評を抜粋引用しておくと「私はシェーンベルクという人物を尊敬し、畏怖さえ感じていたけれど、十二音音楽の響きを心底嫌っていたことを正直に認めよう。彼の美学において作曲家は神であり、聴衆は聖なる祭壇に向かうような存在で、私には19世紀の個人主義を拗らせたものにしか見えなかった。シェーンベルクと共に「現代音楽の苦悩」は誕生し、20世紀にクラシック音楽の聴衆は急速に減少したことは周知の通りである。少なからず、新しい作品の多くが聴き苦しいものとなったからだ。」と辛辣に語っているとおり、この曲ではA.シェーンベルクが作曲した後期ロマン主義音楽は参照されていますが、その後に大成する十二音音楽は参照されておらず、ミニマル音楽と後期ロマン主義音楽を結び付けたポスト・ミニマル音楽を打ち出しています。J.アダムズさんがハーバード大学で師事したレオン・キルヒナーさんはA.シェーンベルクの弟子でありながら方法(手段)に拘泥しない作曲家だったそうですが、当時、十二音音楽(音列主義)と後期ロマン主義音楽(感情主義)の狭間で揺れるJ.アダムズさんの音楽的な方向性に影響を与えた方と言われています。個人的には、現代人の耳は十二音音楽にも慣らされており、十二音音楽を忌避していませんので、音楽を調性から「解放」するという態度は歓迎したいのですが、その一方で、音楽から調性を「排除」するという偏狭な態度には病的なものを感じます。現代は、規範性を重視する時代ではなく多様性を重視する時代に変化しており、方法(手段)よりも世界観(目的)が重視される時代になっていると思います。また、J.アダムズさんは学生時代にテリー・ライリーさん(現在、山梨県在住)の代表作「In C」を聴いて音楽の基本的な要素であるリズム、調性や反復を使ったミニマル音楽に感銘を受けたそうですが、今回のサントリーホール公演ではT.ライリーさんがJ.アダムズさんの楽屋を訪問するというサプライズがあったそうです。因みに、J.アダムズさんは映画音楽を作曲していませんが、映画「ミラノ、愛に生きる」は特別の許可を得てJ.アダムズさんの音楽を使用していますので、是非、ご興味のある方はご覧下さい。この曲の全体的な印象としては、J.アダムズさんの音楽の素性、来歴を語る音楽的な叙事詩のようにも感じられます。第1楽章は、ホ短調の和音による強烈な打撃音でモチーフが提示され、そのモチーフが変形しながら多彩な響きを増していきますが、これはサンフランシスコ湾の巨大タンカーがロケットのように飛び立つ夢から着想を得たものだそうです。やがて弦楽器の小刻みなリズムを繰り返しながら緊張感を持続していると、オーケストラがマーラー風の官能的、退廃的なロマンが薫る甘美な旋律を奏でますが、やがてクラリネットが妖婉なトレモロを奏でると、再び、弦楽器が小刻みなリズムを繰り返し、ミニマル音楽と後期ロマン音楽が結び付いてポスト・ミニマル音楽を高らかに歌い上げて、再び、ホ短調の和音による強烈な打撃音で締め括られる実に華々しくカッコイイ演奏に痺れました。この巨大タンカーはポスト・ミニマル音楽が化体したもので、それが宇宙の大海原へ船出しようとしていることを比喩的に表現したものではないかとも思われ、この曲はJ.アダムズさんがポスト・ミニマル音楽を大成して未知の世界へ船出するまでの壮大な叙事詩と言えるかもしれません。第2楽章は、「アンフォルタスの傷」という標題が付けられていますが、R.ワーグナーの楽劇「パルジファル」にも登場する聖杯王アンフォルタスは禁断のミンネに身をゆだねて神の怒りから癒えぬ傷を負う人物ですが、J.アダムズさんによれば「無力感と鬱に苦しめられている魂の病」を象徴しているそうなので、これは十二音音楽の呪縛に対する心情を吐露したものかもしれません。不協和音による陰鬱としたシリベウス風の音楽が展開され、トランペットが悲哀を帯びた旋律を奏でますが、やがてティンパニーが激しい連打を繰り返すとマーラーの交響曲第10番へオマージュが捧げられる印象的な終わり方になっています。第3楽章は、「マイスター・エックハルトとクエッキー」という標題が付されていますが、J.アダムズさんの愛娘エミリーさん(愛称:クエッキー)が神聖ローマ帝国時代の神学者マイスター・エックハルト(そのネオプラトニズム的な思想が教会軽視につながるとみなされて異端宣告を受けた人物)の肩に乗って星々と共に輝いているという夢を見たことから着想を得て作曲したそうです。M.エックハルトは調性システム、教会はA.シェーンベルク又はアカデミズム、愛娘エミリーさん(愛称:クエッキー)は未来を担う次世代、星々は後期ロマン主義以前の歴史上の偉大な作曲家達をそれぞれ象徴したものかもしれません。管楽器がミニマル音楽を繰り返し、弦楽器が後期ロマン主義音楽を奏でるポスト・ミニマル音楽が展開されますが、その後、神秘的な響きを増しながら様々な調性を巡って金管が高らかなファンファーレを奏でるとオーケストラがホ長調の輝かしい響きでポスト・ミニマル音楽の勝利を高らかに歌い上げて東京文化会館の残響が飽和状態に達する壮大なクライマックスの高揚感に打ちのめされました。前衛音楽の終焉が囁かれるようになってから久しく、20世紀のモダニズムを体現する「前衛音楽」と21世紀のポスト・モダンを体現する「コンテンポラリー音楽」が区別して語られるようになってきていますので、A.シェーンベルクの生誕150年を迎える節目に前衛音楽を前時代的な過去の音楽として捉え直すタイミングに来ているのかもしれないということを強く印象付けられる演奏でした。また、J.アダムズさんは日本に来てくれないかしら....。
 
 
▼J-TRAD Ensemble MAHOROBA
【演題】J-TRAD Ensemble MAHOROBA~春海の頌歌~
【演目】①本條秀太郎 雪火垂
    ②スメタナ(中村匡寿編曲) 
          連作交響詩「我が祖国」よりVLTAVA(モルダウ)
    ③本條秀太郎 俚奏楽 花の風雅
    ④本條秀太郎 春かもしれない海
    ⑤宮城道雄(浦部雪編曲) 春の海
    ⑥坂本龍一(福島諭編曲) Tong Poo
    ⑦松本真結子 Kagura ParaphraseⅡ(世界初演)
    ⑧一柳慧(中村匡寿編曲) ピアノメディア
【楽器】<三味線>本條秀慈郎①②③④⑤⑥⑦⑧
    <三味線/胡弓>本條秀英二①②③④⑤⑥⑦⑧
    <尺八>川村葵山①②③④⑤⑥⑦⑧
    <筝>木村麻耶(二十五絃箏)①②③⑤⑥⑦⑧
    <筝>吉澤延隆(十七絃箏)①②③⑤⑥⑦⑧
    <小鼓>堅田喜三郎⑧、山口晃太朗①②③④⑤⑥⑦⑧
【場所】川口総合文化センター リリア音楽ホール
【日時】2023年1月20日(土)15:00~
【一言感想】
J-TRAD Ensemble MAHOROBAの演奏会を聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
昔はコンサートゴアーとして鼻息荒く1日に2~3の演奏会を梯子することも珍しくありませんでしたが、昨日に続く連日の演奏会が骨身に染みる年齢になってしまいました。あまり無理はできません。さて、三味線演奏家の本條秀太郎さんが指導する若手演奏家の邦楽アンサンブル「MAHOROBA」は「アンサンブルの中での『洗練された音』の追求をモットー」として「日本の民族音楽としての『いま』の在り方を求めて現代音楽と伝統音楽の双方をレパートリーとし、時代に挑む音世界を展開する」ことを標榜していますが、伝統に根差しながらもそれに囚われることなく邦楽アンサンブルの表現可能性を意欲的に探求している活動が注目を集めています。少し演目数が多いので、各演目についてごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①雪火垂
新潟県の民謡を組曲にしたそうですが、パンフレットには楽曲解説などがなかったので、作曲意図を離れて個人的な妄想を膨らませると、「雪火垂」というタイトルから舞い散る粉雪が蛍の光のようにあちらこちらで儚く消え入る風情をイメージさせますが、冒頭、小鼓が強弱を叩き分けていたのは、その風情を描写したものでしょうか。琴、三味線、尺八が叙情的な旋律を織り上げながら風情ある景色を紡いで行く優美な小品に感じられました。
 
②連作交響詩「我が祖国」よりVLTAVA(邦楽編曲版)
尺八と箏が漣に煌めくモルダウ川の雄大な流れを描写的に奏でるなか、これに胡弓の叙情的な音色が加わって、邦楽編曲版ならではの独特の風情を生んでいました。この演奏会では演奏家によるMCがあり、本條秀慈郎さんの飾らない人柄が笑いを誘っていましたが、この曲の編曲を担当された中村匡寿さん(1986年~)はスメタナがロマンチックなハーモニーを書き込んでいて邦楽器とは決して相性が良いとは言えない点に苦労したと仰られていましたが、確かに、モルダウのように西洋絵画を象徴する面描は撥弦楽器や打楽器が主流の邦楽器には不向きかもしれず、同じく中村さんが編曲を担当された終曲のピアノメディア(リズムを主体とするミニマル音楽)のような日本絵画を象徴する点描や線描と比べると相性の違いがはっきりと感じられたという意味で大変に興味深く面白い芸術体験となりました。
 
③俚奏楽 花の風雅
今日のブログラムの前半は、第一曲の「雪火垂」で生まれた雫が第二曲の「モルダウ」で川になり、それが第四曲「春かもしれない海」、第五曲「春の海」で海に注がれるというコンセプトになっているそうです。個人的な妄想を膨らませて第三曲「俚奏楽 花の風雅」が挿入されている意義を読み解くとすれば、「俚奏楽」とは先述の本條秀太郎さんが日本音楽の新しい三味線音楽の一種(三味線音楽の源流である民謡曲が廃れ掛けている現状を憂い、その民謡曲に現代的な解釈と創作を加えて再生し、次の世代に承継して行く活動)として創始したものですが、ひと雫の志から芽生えた本條流という「流れ」がやがて大河になり大海へと開かれて行くことを祈念したプログラム構成になっているのではないかと感じました。第二曲と続けて演奏されたことで、邦楽器が持つ本来的な響きや風趣のようなものがより明瞭に感じられ、乙で吹かれる尺八の調べに日本的な叙情を鮮明に感じる面白さがありました。
 
④春かもしれない海(三味線、尺八、邦楽囃子編曲版)
宮城道雄さんが鞆の浦の海をイメージして作曲した筝曲「春の海」は本来は筝と尺八で演奏される曲ですが、これを三味線、尺八と邦楽囃子で演奏するためにアレンジが加えられた曲で、ユーモラスなタイトルが付けられていますが、基本的には、原曲に忠実な編曲になっており三味線曲「春の海」と言った風情があります。三味線の魅力を感じさせる逸品で、本当はこの曲の演奏を収録した動画をリンクできれば良いのですが、その代わりに映画「座頭市」で松村和子さんがじょんがら節を歌う場面をリンクしておきます。座頭市(盲人)の音に対する鋭敏な感性を印象的に描いている名シーンですが、松村さんの隠れなき名唱と相俟って現代人にも邦楽の魅力が十分に伝わるものではないかと思いますので、もし三味線音楽もいいなと感じられた方がいれば、是非、MAHOROBAの次回公演に足をお運び下さい。
 
⑤春の海
ヴラヴィー!!本日の白眉でした。筝曲「春の海」は三味線曲「春かもしれない海」のほかにもフランス人ヴァイオリニストのルネ・シュメーさんが尺八パートをヴァイオリン用に編曲して宮城道雄さんと共演した音盤が残されているなど、様々にアレンジされています。この曲は浦部雪さん(1991年~)が編曲されていますが、一応、編曲ということにはなっていますが、昨日のJ.アダムズさんの「アブソリュート・ジェスト」と同様に、筝曲「春の海」をフィーチャーしながらも全く新しい作品を創作したと言った方が良いような独創性を備えています。非常に着想が豊かで、異界の海に連れていかれたような面白い芸術体験になり興奮を禁じ得ませんでした。冒頭は冬から春にかけて表情を変えて行く海の様子が描かれたものでしょうか、尺八の厳しい息遣いや筝の陰影のある調べは冬の海をイメージさせるものでしたが、やがて春の海が奏でられると麗らかな春の海の景色が広がり、さながら邦楽囃子の鈴の音は春祭りの神事舞「三番叟」の鈴の音を連想させ、春を寿ぐ昔風情が生き生きと蘇ってくるようであり耳慣れた春の海が新鮮に感じられました。やがて調性感が曖昧になり音楽が浮遊し始めると、三味線のスリ(グリッサンド)や筝の特殊奏法(奏法名が分かりませんが、左手で筝の弦を撫でてピアノの内部奏法のような金属音を生む特殊奏法やプリペアド箏でしょうか非整数次倍音を生む特殊奏法など)によって異界の海に景色が一変し、まるで能楽囃子を彷彿とするように、尺八が能管の甲高い響きを奏で、三味線が小鼓の軽快なリズムで囃子立て、気魄を込めた掛け声を挙げてリズムを詰めながら急の舞(というより狂い舞)のような快速調の音楽が展開されましたが、再び、音楽が弛緩して諸国一見の僧が夢から覚めるように春の海が眼前に広がるという趣向に感じられ、複式夢幻能ならぬ複式夢幻音楽とでも言うべきハイブリッドな世界観を楽しむことができました。
 
⑥Tong Poo(邦楽編曲版)
この曲の編曲を担当した福島諭さん(1977年~)は、生前、坂本龍一さんと親交があったそうですが、この曲は坂本さん(YMO)の代表作でテクノポップのアップテンポな曲ですが、2024年5月10日に全国公開になる坂本龍一さんの最後のコンサートの模様を収録した映画「Ryuichi Sakamoto | Opus」ではスローテンポで演奏されているそうで、坂本さんが存命であればスローテンポの邦楽曲に編曲されたに違いないという想いからその曲調で編曲したそうです。この曲は坂本さんが中国音楽を参照しながら作曲したものと言われていますが、胡弓の哀愁漂う音色によってテクノポップの乾いた曲調から中国音楽を想起させる詩情豊かな曲調へと生まれ変わり、坂本さんがどのように中国音楽から着想を得て、それをどのようにテクノポップとして発展させていたのかを逆引きで追体験できるような面白い作品でした。
 
⑦Kagura ParaphraseⅡ(世界初演)
長野県出身の松本真結子さん(1994年~)は、地元の戸隠神社に伝わる太々神楽「巫女の舞」の陽音階と陰音階が織り成す独特の情緒に魅了され、その旋律をフィーチャーして作曲したそうです。巫女は、古事記「天の岩戸」で天照大神を慰めるために天の岩戸の前で舞った戸隠神社火之御子社の御祭神「天鈿女命」(天宇受売命)に由来し、宮廷や神社に仕えて神楽を歌い舞う女性(童女)のことですが、冒頭で筝曲家・木村麻耶さんが吉備楽の舞に伝わる歌詞を引用した唄を巫女よろしく清澄な声で祈り歌い、その後、邦楽囃子が神楽太鼓のリズムで祭り風情を彩るなか、その旋律をモチーフとして筝、三味線及び尺八が密度高く合奏する躍動感のある演奏が聴きどころになっていました。再び、木村さんが神を鎮めるように清澄な声で祈り歌って静かに終曲を迎えましたが、現代は不確実性の世相を背景として祈りの時代とも言われており、その時代性を映し出しているような面白い作品に感じられました。
 
⑧ピアノメディア(邦楽編曲版)
ピアノメディアは一柳慧さんがミニマル音楽を採り入れた曲として知られ、上記のJ.アダムズさんのポスト・ミニマル音楽に比べると、より厳格な書法によってモダニズム的な響きがするメカニカルな曲調ですが、同じ音型を繰り返す上声部(右手のパート)と徐々に変化する音型を繰り返す低声部(左手のパート)のズレが生む位相差が現代人の耳には心地よく感じられます。中村匡寿さん(1986年~)の編曲では、筝(二十五弦)が右手のパートを繰り返しながら、三味線と筝(十七弦)がスタッカートで右手のパートを奏でるなか、尺八が乙に吹く抒情的な節回しを添えていましたが、モダニズムの冷徹なマーシーンにポスト・ミニマルの人肌の温もりのようなものを添える現代的な味付けになっているように感じられ、単に邦楽編曲というだけではなく現代にアップデートされたピアノメディアを楽しむことができました。邦楽囃子が音楽を引き締めながら力強いクライマックスを築く熱演を堪能できました。上記のVLTAVAでも触れましたが、やはり邦楽器はリズミカルな曲調と相性が良いことを実感しました。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.32(完)
シリーズ「現代を聴く」は、2022年6月から1年半に亘って1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介してきましたが、この1年半で現代音楽を採り上げる演奏会が相当に増えてきており、演奏の感想とは別にコーナーを設ける意義が希薄になってきましたので、今後は演奏の感想(本文+囲み記事)でご紹介していきたいと思います。
 
▼ベン・オズボーンの「Between」(2022年)
イギリス人現代作曲家のベン・オズボーン(1994年~)さんは、作曲家、ソングライター、音響デザイナーとしてドイツを拠点に活動されていますが、イギリスの伝統的なフォークソングにインスパイアされ、エレクトロニカ、クラシック音楽やポップスなどを採り入れてメッセージ性を帯びた独特な感興を想起させる音響空間を創出する作品が魅力的に感じられます。現代音楽プロジェクト「かぐや」では作詞を担当されていますが、日本を含む諸外国の文学にも精通されており、オペラなどジョセフィーヌ・スティーヴンソンさんとのコラボレーション作品も数多く創作されています。この曲は3つの歌と2つのインストゥルメンタルから構成されるアルバム「Studies」に収録されていますが、前回のブログ記事で日本語の漢字「間」には「あわい」(AとBを含む間)と「あいだ」(AとBを含まない間)の2種類の意味があり英語の「Between」は後者の意味であることに触れたとおり、AにもBにも着地せずに心の中を揺蕩っているような浮遊感のある曲調に感じられ、非常に思索的で音楽性の高い作品はまるで沈香のように心を整えてくれる不思議な魅力に溢れています。この曲に挿入されている焚火の音が温もりを感じさせる効果を生んでおり、耳で聴く音楽を越えて体で感じる音楽と言えるかもしれません。
 
▼現音作曲新人賞本選会
今回は2023年12月21日に開催された現音作曲新人賞本選会の入賞者をご紹介します。おめでとうございます。なお、本選会を視聴して感想を書きたいと思っていましたが、時節柄、諸事多忙のために視聴することが叶わず、また、入賞者には若い方が多いことから未だYou Tubeなどで作品動画も公開されていないようなので、入賞者の名前のみをご紹介しておます。今後、機会を見付けて作品の演奏も聴いてみたいと思っています。
 
【優 勝】魯戴維(LU Daiwei) 「エル・タンゴ」
     <Cl>菊地秀夫
     <Sax>坂口大介
【聴衆賞】渡邊陸 「歯車」
     <Vn>甲斐史子
     <Pf>大須賀かおり
【入 選】川口孟 「刻刻 」
     <Cl>菊地秀夫
     <Sax>坂口大介
     相澤圭吾 「2本角アテンション」
     <Cl>菊地秀夫
     <Sax>坂口大介
     渡邊陸 「歯車」
     <Vn>甲斐史子
     <Pf>大須賀かおり