大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

演奏会「京都・国際音楽学生フェスティバル2023」と映画「Tar/ター」と「か゜~」(五十音図(古典)とその拡張(前衛))<STOP WAR IN UKRAINE>

▼五十音図(古典)とその拡張(前衛)(ブログの枕)
拙ブログのサイドバー「イヴェント情報」でもご紹介していますが、今年度に入ってから あ”~ 聴きに行きたいと思える食指が動く演奏会が増えてきた手応えを感じています。いわゆるクラシック音楽界にも本格的な革新の風が吹き始めている顕れであれば歓迎したい潮流です。将棋の格言に「名人に定跡なし」というものがあり、十七世名人・谷川浩司さんも「自分の常識を疑うことから新しい世界への挑戦が始まる」という名言を残されていますが、現在活躍している藤井総太さんの棋跡のように過去の遺産である「定跡」(古典の承継)に留まることなく新しい世界観を切り拓く「奇手」(前衛の革新)に将棋界の未来を期待したいですし、このことはクラシック音楽界にも同様のことが言えるのではないかと思います。この世界に普遍的なものがあり得るとしても不変なものはありませんので(諸行無常の摂理)、これからの時代は過去の音だけではなく未来の音も奏でられる素養を持った音楽家が益々求められ、また、それを受容し得る観客の幅広い教養と柔軟な感性が試されていると思います。さて、前三回のブログ記事で「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023」について触れましたが、敢えて触れずにおいた石川県に関連する話題に簡単に触れてみたいと思います。去る5月10日は「五十音図・あいうえおの日」でしたが、日本三大霊峰の1つである白山を祀る薬王院温泉寺石川県加賀市山代温泉18-40甲)の初代住職・明覚上人が日本語の「音」と「文字」を一致させるために著書「反音作法」(1093年)で「五十音図を発案したと言われており、丁度、これと同時代に(真言宗の開祖・空海によって?)「いろは歌」も発案されたと言われています。過去のブログ記事でも触れたとおり、日本は弥生時代まで無文字社会であり言霊信仰(神の音連れ)に象徴されるように文字ではなく音声によってコミュニケーションする社会でした。その後、5~6世紀頃(古墳時代)に仏教経典と共に漢字が伝来しますが、無文字社会の伝統を持つ日本人には漢字(文字)を習得することが非常に難しかった一方で、仏教経典の漢字を正確に発音しなければその御利益を得られないという考え方から難解な漢字(例、楝=あふち)を正確に発音するために別の漢字の発音(例、安不知)を当て字として付記する「万葉仮名」(意訳ではなく音訳=発音記号)が発達しました。これは意味ではなく音感を重視する当世流行の「キラキラネーム」のルーツやポケベルの語呂合わせ(例.0840=オハヨー)からiモードへ発展した文化的な素地になったと言えるかもしれません。やがて平安時代に唐の滅亡により遣唐使が廃止されると、中国から渡来した「漢字」とは別に、画数が多い「万葉仮名」と比べてより平易な「片仮名」(五十音図)や「平仮名」(いろは歌)が誕生して日本特有の和歌や物語などの文化(目で読むことを主体とする表意文字の文化ではなく、声に出して詠む又は語ることを主体とする表音文字の文化)が花開き、朝廷、貴族や僧侶ばかりではなく武士や庶民にも広く浸透して世界でも有数の高い識字率を誇る国になりました。このような時代背景を踏まえて、明覚上人は日本語の音韻体系を整理した五十音図(10行の子音+5段の母音の組合せ)を発案しましたが、これは「ア」(口を開いて最初に出す音=宇宙の元始)から始まって「ン」(口を閉じて最後に出す音=宇宙の収束)で終わるという世界観を表現し、「ア」と「ン」の間に全ての音(=宇宙の無限)が生じるという仏教思想を体現しています。この世界観は、寺院の仁王像の一方が「ア」(阿)の形に口を開いて、もう一方は「ン」(吽)の形に口を閉じていることでも表されています。なお、五十音図及びいろは歌は清音(≒ 協和音)のみから構成されていますが、これは奈良時代及び平安時代に朝廷、貴族や僧侶等の支配階層が日本語を独占して濁音等(≒ 不協和音)を殆ど使用していなかったことによるもので(和歌は清音のみで詠われ、濁音等で詠われることは殆どありません。)、鎌倉時代になると武士や庶民に片仮名及び平仮名が普及したことで日本語は大きく革新して、濁音等(≒ 不協和音)も使用されるようになりました。やがて室町時代になると「ヲ、オ」「エ、ヱ、ヘ」「ヒ、イ、ヰ」の発音の区別及び江戸時代になると「ヂ、ジ」「ヅ、ズ」の発音の区別がなくなるなど時代と共に日本語の発音は変化し、例えば、江戸時代には「江戸」を「イェド」(yedo)と発音していたことが西洋人の記録等から分かっていますので、現代では「イェ」(ye)という発音が「エ」(e)に収束したことになります。また、式亭三馬が著した滑稽本「浮世風呂」において東北では「が」を「か゜」又は「か゜゜」と発音すると記載しており(白圏=白抜き濁点で表記して、ガ行鼻濁音「ng」と発音します。)、非常に鋭敏な語感を持っていたことが窺えますが、この感性は五十音図(古典)では表現し切れない語感を伝えるために日本のマンガに見られる「あ”」や「ん”」などの革新的な表現(前衛)に受け継がれていると言えるかもしれません。さながら全音及び半音から構成される十二平均律(古典)では表現し切れない世界観を表現するために微分音(前衛)を使用する現代音楽の試みと似ていると言えます。因みに、NHK-FM「現代の音楽」のパーソナリティーである現代作曲家の西村朗さんによれば、「古典」に対し、その伝統を承継して発展した最先端にあるものを「前衛」と言い、その伝統を承継せず全く新しい境地を切り拓くものを「実験」と言うそうです。明治時代になると近代的な軍隊を組織する必要性から日本全国から集まる人々に軍の命令を正確かつ効率的に伝達するために各地の方言を矯正して標準語を普及させるための教材として「五十音図」が利用され、また、小学校の国語の教科書に五十音図が掲載されると共に、日本初の近代的な国語辞典「言海」で五十音順の配列が採用されたことなどにより五十音図を利用した日本語教育が普及して、現代でも子供や外国人が日本語を学習する際には五十音図を覚えることから始めます。その後、第二次世界大戦後になると天皇や軍部等が使用する言葉と庶民が使用する言葉の違いが民主主義の支障になると考え、GHQによる民主化施策の一環として「歴史的仮名遣い」から「現代的仮名遣い」に変更されています。これに伴って漫画「サザエさん」に登場する「磯野カツ➟磯野カツ」に変更され、「ラオ➟ラオ」「ビルング➟ビルディング」など身近な日本語の表記にも変化が生じました。なお、五十音図には英語の「V」の発音を表記することができる仮名がなく、福沢諭吉が「V=ヴ行」(例、VIVALDI=ヴィヴァルディ)、「B=バ行」(例、BACH=バッハ)と表記することを考案しましたが、2019年に在外公館名称位置給与法の一部が改正されて公文書等に記載する国名の表記方法として「ヴァ➟バ」「ヴィ➟ビ」「ヴ➟ブ」「ヴェ➟ベ」「ヴォ➟ボ」「ティ➟テュ」「チ➟チュ」に統一されることになり、これを受けて「ヴ行」の文字を使用している国名以外の名称(例、マンション名のヴィルヌーブ)も「バ行」に変更するか否かが話題になっています。個人的には、「ビバルディ」という表記ではその音楽の華々しさが損なわれてしまう野暮ったさのようなものが感じられ、今後も「ヴィヴァルディ」と表記することにしたいと思っています。現代の日本語は会社で報告書を書くための言語として機能性ばかりが重視されていますが、寧ろ、どうすれば和歌に詠まれ又は世阿弥が創作した謡曲に漂う詩情豊かな日本語の香気(人の心を染める言葉の力)を取り戻すことができるのかに心を砕くべきではないかと思っており、このような短絡的な法改正によって日本人の語感が貧しくなってしまうのは本当につまらないことだと感じています。その意味では常識に囚われることなく日本人の語感を拓いてくれる日本のアニメ文化には大いに期待したいと思います。さらに、2020年に高等学校学生指導要領が改訂されて、「現代文」という科目が廃止されて「論理国語」(論理的に書いたり、批判的に読んだりする資質・能力の育成を重視した科目)と「文学国語」(創造的に書いたり、情緒的に読んだりする資質・能力の育成を重視した科目)の選択科目制が採用されましたが、これは国際社会で生きて行くために必要なコミュニケーション能力を醸成するという観点から行われた有意義な改訂であると思われます。その一方で、「写実的な漢文、印象的な和歌」(過去のブログ記事でも触れたとおり、中国は有文字社会として共同視点を持たないことを前提としたローコンテクストな文化が発展したのに対し、日本は無文字社会として共同視点を持っていることを前提としたハイコンテクストな文化が発展しました。)という言葉に端的に表れていますが、日本語が日本特有の文化や国民性などを歴史的に育んできた側面があり、それが世界からも高い関心と評価を受けている現状を踏まえれば、単に言語の機能性や実用性だけに着目して日本語的な発想や思考方法等(日本人のアイデンティティ)を損なうことがないように十分に留意していかなければならないと感じています。因みに、薬王院温泉寺がある石川県加賀市は五十音図の発祥地であると共に九谷焼の発祥地としても知られており、その境内には五十音が書かれた九谷焼の陶板がはめ込まれた石段があります。この地を訪れた与謝野鉄幹は「山代の いで湯に遊ぶ 楽しさは たとえて言えば 古九谷の青」と詠んでいますが(過去のブログ記事で触れたとおり、「古九谷の青」(青手古九谷)とは青信号と同様に実際には緑色(エメラルドグリーン調)をしています)、昔から文化水準の高い刺激的な場所であったことが窺え、石川県の観光には欠かせない心も体も温まるホット・スポットになっています。式亭三馬の言葉を借りれば、東北弁で加賀は「かか゜」と発音するそうなので、早速、東北訛りが抜けない知人に電話して自分の耳で確かめてみたいと思っています。
 
▼加賀発祥の五十音図(古典)
過去のブログ記事で簡単にいろは歌に触れましたが、五十音図に使用されている片仮名(50文字)は画数が多い万葉仮名(上段)の側を略記したもの(下段)であり、いろは歌に使用されている平仮名(47文字)は画数が多い万葉仮名(上段)を易に書き崩したもの(下段)ですが、これが物語、和歌等の日本独自の文化へと昇華しました。なお、五十音図(片仮名)は日本語の音韻体系を「子音+母音」の組合せで整理した論理的な世界観を表現したものであるのに対して、いろは歌(平仮名)は真言宗の開祖・空海(?)が仏教の無常観を詠った情緒的な世界観を表現したものであると言われています。現代では、いろは歌は廃れ、五十音図は平仮名で記載されています。
 
【五十音図】
片仮名:万葉仮名の一部分
【いろは歌47文字】
平仮名:万葉仮名の書崩し
阿 伊 宇 江 於
ア イ ウ エ オ
安 以 宇 衣 於
あ い う え お
加 幾 久 介 己
カ キ ク ケ コ
加 幾 久 計 己
か き く け こ
散 之 須 世 曽
サ シ ス セ ソ
左 之 寸 世 曽
さ し す せ そ
多 千 川 天 止
タ チ ツ テ ト
太 知 川 天 止
た ち つ て と
奈 二 奴 禰 乃
ナ ニ ヌ ネ ノ
奈 仁 奴 祢 乃
な に ぬ ね の
八 比 不 部 保
ハ ヒ フ ヘ ホ
波 比 不 部 保
は ひ ふ へ ほ
万 三 牟 女 毛
マ ミ ム メ モ
末 美 武 女 毛
ま み む め も
也 伊 由 江 与
ヤ イ ユ エ ヨ
也   由   与
や   ゆ   よ
良 利 流 礼 呂
ラ リ ル レ ロ
良 利 留 礼 呂
ら り る れ ろ
和 井 宇 慧 乎
ワ  ウ  ヲ
和 為   恵 遠
わ     を


※上表は清音のみを記載し、濁音(ば)、半濁音(ぱ)、拗音(ゃ)、促音(っ)は記載していません。
※五十音図及びいろは歌には「ン/ん」(撥音)を含みません。
※「ヰ/ゐ」及び「ヱ/ゑ」は現代仮名遣いでは使用しません。
 
五十音図発祥の地碑
(あいうえおの郷 山代温泉)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/4a/2a2c52e133b49226248c103e872a8642.jpg
 
▼映画「Tar/ター」
【題名】映画「Tar/ター
【監督】トッド・フィールド
【製作】トッド・フィールド
    スコット・ランバート
    アレクサンドラ・ミルチャン
【脚本】トッド・フィールド
【撮影】フロリアン・ホーフマイスター
【美術】マルコ・ビットナー・ロッサー
【衣装】ビナ・ダイヘレル
【編集】モニカ・ウィリ
【音楽】ヒドゥル・グドナドッティル
【出演】<リディア・ター役>ケイト・ブランシェット
    <フランチェスカ・レンティーニ役>ノエミ・メルラン
    <シャロン・グッドナウ役>ナウニーナ・ホス
    <オルガ・メトキナ役>ソフィー・カウアー
    <セバスチャン・ブリックス役>アラン・コーデュナー
    <アンドリス・デイヴィス役>ジュリアン・グローバー
    <エリオット・カプラン役>マーク・ストロング
【料金】1900円
【感想】ネタバレ注意!
先日、映画「Tar/ター」を観てきましたので、ネタバレしない範囲内で、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。この映画は、C.ブランシェットが演じるリディア・ターが女性指揮者として初めてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任したという設定で(ご案内のとおり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に女性の団員は存在しますが、現時点で女性の首席指揮者が就任したことはありません。なお、この映画ではベルリン・フィルハーモニーホールと同じワインヤード(葡萄畑)型コンサートホールであるクルトゥーア・パラストを使用してドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団が出演、演奏しています。)、ジェンダー、ハラスメント、SNSなどの現代的な問題を採り上げながら指揮者の実像(但し、現在では民主的な指揮者(支援型リーダー)が多いという実態があるのに対して、この映画では些か前時代的とも言える独裁的な指揮者(支配型リーダー)像がベースになっています。)に迫るサイコスリラー風のフィクション映画です。この映画の中でターは作曲家が楽譜に込めた表現意図はその音楽を聴く者に対する問い掛けでもあるという趣旨のことを語っていましたが、この映画もクラシック音楽界が直面している諸課題に関する問い掛けが発せられているように感じます。未だ映画をご覧になられていない方もいるのではないかと思いますので、ストーリーを追うのではなく印象に残った場面のみを断片的に採り上げることにします(ご興味のある方は映画館等でご覧下さい)。この映画はソナタ形式のような構成になっており、映画の冒頭で、かつてターが採録したシピボ=コニボ族(南米アマゾンのウカヤリに棲む先住民)が歌う民族音楽「イカロ」(癒やし歌)をバックにしてクレジットタイトルが映し出され(提示部)、これがエンディングにおいてターがフィリピンで開催されたモンスターハンター狩猟音楽祭(?)でゲーム音楽を指揮するシーンと呼応して(再現部)、この映画に一貫したテーマ性を与えています。この民族音楽とゲーム音楽に挟まれる形で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者としてクラシック音楽界の頂点を極めた輝かしいキャリアとその後のスキャンダル(実際のクラシック音楽界にも多いハラスメント問題)により転落して行くターの半生が描かれています(展開部)。映画の前半では、マーラーの交響曲第5番を素材にしてターの音楽観や来歴などが語られますが、この曲は老年期の男性作曲家が美少年に魅了される映画「ヴェニスに死す」(1971年)の主題曲として使用されたことで有名になった経緯があり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートミストレスであるシャロン・グッドナウと同性愛の関係にあるターの人生を象徴するものとして使用されているように感じます。ターが学生を指導する場面では、伝統的な価値観を象徴するバッハやベートーヴェンの音楽を崇拝し、自分を殺して音楽に奉仕することが理想的な指揮者像であるという古い常識に凝り固まった権威主義的なター(「型通り」)と、多様性が尊重される時代を背景として、伝統的な価値観に違和感を覚えてバッハやベートーヴェンを顧みようとせず、自分本位に流される個人主義的な学生(「型無し」)のジェネレーションギャップが先鋭的に描かれていますが、伝統に根差しながらも常識に囚われることなく時代を革新する新しい音楽を表現できる「型破り」な音楽家(クラシック音楽界における藤井総太さんのような逸材)が現れ難い状況にあることを揶揄しているようにも感じられます。ターは指揮の傍ら作曲も手掛け、世界的に権威ある賞「PEGOT」(ulitzer、mmy、rammy、scar、ony)のうち、後者4賞を受賞して作曲家としても名誉ある地位を確立しているという設定で、作曲に行き詰まりを感じながら、その研ぎ澄まされた感受性のためにメトロノームや冷蔵庫などの音に過敏に反応し、夜には耳鳴り、暗闇では幻聴などの症状に悩まされるようになりますが、過去のブログでも触れたとおり、新しい世界観を拓くことができる稀有な才能は「創造」と「狂気」の狭間で発現されるものなのかもしれません。アパートで暮らすターは隣人の騒音(生活音=非楽音)などにより度々作曲を妨害されていましたが、逆に、その隣人からターの騒音(演奏=楽音)が煩いとクレームを受けるシーンがあり、ある音(楽音及び非楽音を含むサウンドスケープ)を聴く人の立場や環境などによってその音が持つ意義は様々であり得ることが印象的に描かれています。この映画の冒頭で、ターはシピボ=コニボ族が歌う「イカロ」について「伝える相手がいて歌になる」と音楽の原点を語っていますが、ターがスキャンダルによって転落するなかでL.バーンスタインがヤングピープルズコンサートで語った「音楽は私達を旅に連れて行ってくれる」という言葉を契機として音楽の原点に立ち返り、フィリピンで開催されたモンスターハンター狩猟音楽祭(?)でゲーム音楽を指揮しながらモンスターに仮装した子供達と共にゲームの世界へ旅立つ印象的なシーンで終わります。人生に正解がないように、この結末には様々な解釈があり得ると思います。なお、主演女優のC.ブランシェットは貫禄の演技で創造と狂気の狭間にある指揮者の光と闇を見事に演じ分けており、また、フィールド監督は指揮者のJ.マウチェリ(書籍「指揮者は何を考えているか」の著者として知られ、L.バーンスタインと親交があった方)による監修や業界関係者への丹念な取材などを重ねて指揮者の実像に迫り、クラシック音楽界が直面している諸課題に鋭くメスを入れる観応えのある映画にまとめており、もう一度観たくなるような一癖ある後味に仕上げる手腕は流石です。フィールド監督は「映画をどのように解釈するかについての権利は観客にあると私は考えている」と語っていますが、日本人はコンテンポラリー作品を含めて俄かに理解できないものに対して直ぐに心を閉ざしてプリミティブな反応を示す傾向が強いように感じています。現代は何事につけても「はっきりと分かること」「分り易いこと」が持て囃される時代ですが、正解を求めるのではなく多様な解釈を許容し又はこれまでにない新しい世界観を表現している漠然としたもの(受容者の認知レベルを越えるもの)を柔軟に受け入れて、その可能性に遊ぶ懐の広さ、包容力や幅広い教養のようなものが失われてしまっているように感じます。そのようなことを悶々と考えさせられるアクの強い映画ですが、センチメンタリズムに彩られた予定調和のヒューマンドラマとは異なって大人の視聴に耐え得る観応えのある内容を備えていますので一見の価値があります。因みに、現在、ターに最も近い女性指揮者と言えるS.ヤングが来週5月27日及び28日にBPOのデジタルコンサートホールでO.メシアンのトゥーランガリラ交響曲を指揮します。
 
 
▼演奏会「京都・国際音楽学生フェスティバル2023」
このフェスティバルは「音楽を通じた国際交流と若き音楽家たちの育成」を目的として京都で開催されるもので、今年はジュリアード音楽院、パリ国立高等音楽院、京都市立芸術大学及び東京藝術大学の学生が招聘されています。このフェスティバルの意義は学生に作曲を委嘱し、その作品を学生が演奏するという点にありますが、残念ながら、今年は外国の学生が作曲した作品のみが演奏され、日本の学生が作曲した作品は演奏されないようです。この点、昨年は、日本の学生が作曲した作品も演奏されているようなので、何らかの事情があったものと思われますが、是非、次回は欧米の学生が作曲した作品に加えて日本及び欧米以外の国々の学生が作曲した作品も幅広く採り上げられることを熱望します。また、このフェスティバルは教育目的のために開催されるためなのか第一次世界大戦以前に作曲された作品(クラシック音楽)を中心に採り上げているように感じますが、これからの時代は第一次世界大戦後に作曲された作品(現代音楽)の重要性が益々増してくると思いますので、もう少し現代音楽を採り上げて頂けると有難いですし、現代音楽と聴衆の橋渡しができる音楽家(現代音楽の魅力を発見してそれを観客に伝えることができるアナリーゼやプレゼンテーションの能力)の育成を行う取組みも重要ではないかと感じています。
 
【演目】①W.モーツァルト ディヴェルティメント変ホ長調より第6楽章
    ②L.ベートーヴェン セレナード二長調より第1楽章、第5楽章
    ③N.ハフナー(ウィーン国立大学学生)
            弦楽三重奏のための夢想(委嘱作品/世界初演)
    アンコール
    ④岡野貞一 童謡「故郷」(GAC編曲)
      演奏:京都市立芸術大学
      <Vn>都呂須七歩
      <Va>片岡紀楽々
      <Vc>柳澤明日花
    ⑤L.ベートーヴェン ヴァイオリンソナタ第5番ヘ長調「春」
                           より第1楽章
    ⑥J.マスネ タイスの瞑想曲
    ⑦F.クライスラー 愛の悲しみ
    ⑧F.クライスラー 愛の喜び
    ⑨L.フィアルディーニ(ミラノ・ヴェルディー音楽院学生)
              木の葉のカデンツァ(委嘱作品/世界初演)
    アンコール
    ⑩貴志康一 月
      演奏:東京芸術大学
      <Vn>武元佳穂
      <Pf>大野譲
    ⑪F.ハイドン 弦楽四重奏曲第67番ニ長調「ひばり」
    ⑫C.ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」序曲(J.ワイス編曲)
    ⑬A.ドヴォルザーク ピアノ五重奏曲第2番イ長調より第1楽章
    アンコール
    ⑭J.ブラームス ハンガリー舞曲第5番嬰へ短調(佐野秀典編曲)
      演奏:京都市立芸術大学&東京芸術大学の合奏
      <Vn>武元佳穂、都呂須七歩
      <Va>片岡紀楽々
      <Vc>柳澤明日花
      <Pf>大野譲
【場所】京都府立府民ホール アルティ
【日時】5月27日15時00分~(アーカイブ配信:5月29日~)
【料金】500円
【一言感想】
非常に演目数が多いので、一部の演目に限り一言感想を残しておきたいと思います。
 
③N.ハフナー 弦楽三重奏のための夢想(委嘱作品/世界初演)
④岡野貞一 童謡「故郷」(GAC編曲)
前菜の①モーツァルト及び②ベートーヴェンでウォームアップした後(これらの曲を聴いてもボンカレーの味を懐かしむようなイマサラ感がありますので感想は割愛します)、主菜の③弦楽三重奏のための夢想(委嘱作品/世界初演)が演奏されました。冒頭、この曲を作曲したウィーン国立音楽大学学生のN.ハフナーさんのMCがあり、この曲の簡単な解説が行われました。夢(想)は、個々人の日常生活における記憶、思考やイメージ等が入り混じりながら自分だけの世界を造り出すもので、その本質を音楽的に表現したものだそうです。完全四度と完全五度の安定した音程で「現実」と「記憶」を表現し、トレモロで「夢」を表現しているそうですが、聴衆を異なる精神状態に誘うことで何らかの心理的な変化を促すことを企図した作品だそうです。これまでも夢(想)をテーマとした曲は多く、ベルリオーズの「幻想交響曲」より第一楽章「夢、情熱」、サンサーンスの「アルジェリア組曲」より第三曲「夕べの夢想」、フォーレの歌曲集「3つのメロディ」より第一曲「夢のあとに」、ドビュッシーのピアノ曲「夢」、シュミットの交響詩「夢」、デュティーユのヴァイオリン協奏曲「夢の樹」などが挙げられますが、この曲は作曲家の夢(想)に対する主観的なイメージを表現したものではなく、脳科学や心理学等の最新の知見を踏まえて夢(想)に対する客観的なイメージを表現したうえで、聴衆の夢(想)に対する主観的なイメージを引き出すことを試みているという点で、かつてないユニークな曲想を持っています。いわば当世流行の参加型の聴取体験を促す曲ですが、過去のブログ記事で触れたとおり、聴衆の外部から明確なメッセージを伝えるオフ・ステージの視点ではなく聴衆の内部に働き掛けてメッセージを補完させるオン・ステージの視点を持つものであり、さながら禅や能楽の風趣すら感じさせる面白さがあります。人間は、一晩にレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しながら脳内で記憶の整理や消去等を行い、その過程で様々な記憶と思考、イメージ等とが組み合わせられることで夢を見ると言われており、このうちレム睡眠中に見た夢は目覚めても記憶に残っており、ノンレム睡眠中に見た夢は目覚めると記憶に残っていないことが分かっていますが、未だその詳細は解明されていません。この知識を踏まえて聴くと、この曲想をより把握し易くなるのではないかと思います。弦楽器の儚げな響きによって「現実」と「記憶」を表現する完全四度と完全五度の安定した音程と「夢」を表現するトレモロとが繰り返され、その響きが変容しながら様々な音楽的なイメージを伝え、一つの不思議な世界観を形作っており、耳で聴く音楽というよりも脳で感じる音楽と形容した方が良いかもしれません。カラードノイズが注目を集めている状況にも似ていますが、これまでのように耳で楽しむための音楽というレイヤーから脳に働き掛けて全身で感じるための音楽というレイヤーへと音楽の意義を深化させて聴衆に新しい聴取体験をもたらす試みとも言え、今後の活躍が大いに期待できる秀作と言えるのではないかと思います。アンコールとして、④童謡「故郷」(GAC編曲)が演奏されましたが、弦楽三重奏の魅力が引き立つ演奏で、高中低の弦三部がバランス良く絡み合い、すっきりとした見通しの良さを感じさせる優美なアンサンブルを堪能できました。
 
⑨L.フィアルディーニ 木の葉のカデンツァ(委嘱作品/世界初演)
⑩貴志康一 月
前菜の⑤ベートーヴェン、⑥マネス及び⑦⑧クライスラーでウォームアップした後(これらの曲を聴いてもボンカレーの味を懐かしむようなイマサラ感がありますので、感想は割愛します)、主菜の⑨木の葉のカデンツァ(委嘱作品/世界初演)が演奏されました。冒頭、この曲を作曲したミラノ・ヴェルディー音楽院学生のL.フィアルディーニさんのMCがあり、この曲の簡単な解説が行われました。L.フィアルディーニさんは俳句を勉強していたことがあるらしく、この曲は松尾芭蕉の俳句「尊がる 涙や染めて 散る紅葉」(明照寺の仏恩の有難さに零れる涙で舞い散る紅葉が滲んで見えます)に着想を得て作曲したそうです。因みに、この俳句は、松尾芭蕉が門弟の河野通賢(俳号:李由)が住職を務める明照寺へのオマージュとして詠んだものです。これまで俳句、俳諧に関する現代音楽として、J.ケージのピアノ曲「七つの俳句」、O.メシアンのピアノと小オーケストラのための「七つの俳諧」、湯浅譲二の合唱曲「芭蕉の俳句によるプロジェクション」、新実徳英の女性合唱とピアノのための「おくのほそ道」、箕作秋吉の歌曲「芭蕉紀行集」、柏木俊夫のピアノ曲「芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ」、細川俊夫のピアノ曲「ピエール・ブーレーズのための俳句ー75歳の誕生日にー」などが挙げられますが、この曲は俳句、俳諧の形式や言葉に着目するだけではなく、L.フィアルディーニさんが俳句の鑑賞を通して感じたイメージを音楽的に表現している点に特徴があり、外国人が松尾芭蕉の俳句の世界観をどのように捉えて表現するのか興味深いものがありました。ヴァイオリンはグリッサンドを効果的に使いながら息の長い持続音を繊細でメランコリック(落葉の風情)に奏でますが、これは紅葉の木の枝振りをイメージしたもの、時折、印象的に奏でられるピッチカートやトレモロは落葉をイメージしたものではないかと感じられました。また、ピアノは点描手法のような緊張感や色彩感のある浸透力ある響きで音楽に彩りを添えていましたが、これは涙をイメージしたものではないかと感じられ、ヴァイオリンとピアノが紡ぎ出す儚げな風趣は西洋的な幻想美とは異なる蕉風のさび、しおり、細み、軽みのようなものを感じさせる閑寂として気品のある曲想を楽しむことができる秀作と言えるのではないかと思います。最近では、イタリア人のI.ディオニシオさんが外国人の新鮮な視点で日本の古典を捉え直した著書「平安女子は、みんな必死で恋してた~イタリア人がハマった日本の古典」が話題になっていますが、是非、今後ともL.フィアルディーニさんには俳句、俳諧などに題材した作曲を期待したいと思っています。アンコールとして、⑩月が演奏されましたが、先日、ゼレンスキー大統領が来日したことを踏まえると趣向ある選曲と言えるかもしれません。かつて神戸東灘区にはロシア革命を逃れてウクライナ、リトアニアやロシアなどから日本へ移住してきた亡命音楽家が暮らしていた「深江文化村」という場所がありましたが(現在は阪神淡路大震災の被災でその殆どが倒壊)、そこで彼らから音楽を学んだ日本人のなかには貴志康一、大澤壽人、朝比奈隆、服部良一や山田耕作などがいます。それを映すように、この曲の提示部及び再現部では日本的な情緒が纏綿とする詩情豊かな演奏が聴かれ、これとは対照的に中間部ではスラブ舞曲風のリズミカルで高揚感のある演奏が聴かれましたが、これらの曲調を鮮やかに弾き分けるメリハリの効いた饒舌な演奏を楽しむことができました。
 
【演目】①J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番ト長調
            より1.前奏曲、4.サラバンド、6.ジーグ
    ②C.ドビュッシー 月の光
    ③G.フォーレ 悲歌ハ短調
    ④R.シューマン アダージョとアレグロ変イ長調
    アンコール
    ⑤C.サン=サーンス 動物の謝肉祭より白鳥
      演奏:パリ国立高等音楽院
      <Vc>ジャン=パティスト・メジェール
      <Pf>ニコラ・ブルドンクル
    ⑥J.S.バッハ ヴァイオリンソナタ第3番ホ長調より第1楽章
    ⑦N.パガニーニ 24の奇想曲より第24番イ短調
    ⑧j.マスネ タイスの瞑想曲
    ⑨G.プッチーニ 小さなワルツ
             ~ムゼッタのワルツ「私が町を歩くとき」~
    ⑩G.タルティーニ ヴァイオリンソナタト短調「悪魔のトリル」
    アンコール
    ⑪G.ガーシュイン 歌劇「ボギーとベス」より
             何でもそうとは限らない(J.ハインフェッツ)
      演奏:ジュリアード音楽院
      <Vn>ヴィレリー・キム
      <Pf>バロン・フェンウィク
    ⑫H.ベルリオーズ 序曲「ローマの謝肉祭」 (O.ジンガー編曲)
    ⑬J.ブラームス ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調
                      より第3楽章(佐野秀典編曲)
    ⑭R.ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
                    第1幕への前奏曲(佐野秀典編曲)
    アンコール
    ⑮J.シュトラウス ラデツキー行進曲(佐野秀典編曲)
      演奏:ジュリアード音楽院、パリ国立高等音楽院
         京都市立芸術大学、東京芸術大学
      <Vn>ヴィレリー・キム、武元佳穂、都呂須七歩
      <Va>片岡紀楽々
      <Vc>ジャン=パティスト・メジェール、柳澤明日花
      <Pf>ニコラ・ブルドンクル、バロン・フェンウィク、大野譲
【場所】京都府立府民ホール アルティ
【日時】5月28日15時00分~(アーカイブ配信:5月29日~)
【料金】500円
【一言感想】
非常に演目数が多いので、欧米日の混成からなる最後の全員合奏に限り一言感想を残しておきたいと思います。
 
⑭R.ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(佐野秀典編曲)
ヨーロッパ的な伝統を承継する前衛音楽の聖地フランスを代表するパリ国立高等音楽院の学生と、ヨーロッパ的な伝統と決別する実験音楽の聖地アメリカを代表するジュリアード音楽院の学生が参加しているにも拘らず、アンコール以外に現代音楽が一曲も採り上げられていないのは、正直、些か拍子抜けの印象を否めませんでした。大学のカリキュラムとの関係があるのかもしれませんが、アンサンブル力だけではなく個々の奏者が相当な奏力を備えていることが分かるだけに次世代を担う有能な若者が奏でる未来の音を聴いてみたかったのですが、その点は残念でなりません。....とは言え、佐野秀典さんによる編曲の妙味が活かされた面白い演奏を聴けましたので、R.ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(佐野秀典編曲)に限り一言感想を残しておきたいと思います。今日は管楽器及び打楽器のパートを2台のピアノで代用した室内楽編成に編曲された版が演奏されましたが、オーケストラの大伽藍とは異なるストイックな響きにより室内楽特有の小気味良い歌心溢れる演奏が聴かれ、また、内声の細部の動きまで明瞭に感じられる解像度の高い演奏で楽曲の構造美、構築美が浮き彫りとなる面白い演奏を楽しめました。2台のピアノが管楽器及び打楽器に負けない多彩な響きを紡ぎ出し、V.キムさんやJ.メジェールさんが主導するアピール度の高いアグレッシブな演奏が展開され、優等生的な巧さだけに納まらない溌剌とした息吹を感じさせる熱演を楽しめました。
 
【訃報】カイヤ・サーリアホさん、亀井忠雄さん
 
▼フィンランド人現代作曲家のカイヤ・サーリアホさん
6月3日に上記のアーカイブ配信を視聴していたところ、6月2日、フィンランド人現代作曲家のカイヤ・サーリアホさんが逝去されたという訃報が飛び込んできました。過去のブログ記事でもK.サーリアホさんが能「経正」及び能「羽衣」を題材にして創作したオペラ「Only the Sound Remains ~  余韻 ~」をご紹介し、また、英国の音楽サイト「bachtrack」が「2023年に注目すべき8人の女性作曲家」としてK.サーリアホさんをエントリーしていることを紹介しましたが、現在、世界からその活躍が最も期待されている現代作曲家が早世してしまったことは本当に残念でなりません。K.サーリアホさんの追悼公演としてオペラ「Only the Sound Remains ~  余韻 ~」の再演を期待したいですが、先ずは、衷心よりK.サーリアホさんのご冥福をお祈り申し上げます。
 
▼能楽師(葛野流大鼓方)の亀井忠雄さん(人間国宝)
昨日のK.サーリアホさんの訃報に続いて、6月4日、能楽師(葛野流大鼓方)の亀井忠雄さん(人間国宝)が逝去されたという訃報が飛び込んできました。亀井さんは2016年にカーネギーホールで開催された「グランド・ジャパン・シアター」で能楽を披露して話題になりましたが、最近、一時代を築いた芸術家の訃報が続いており時代の節目を感じます。既に、ご子息の能楽師(葛野流大鼓方)の亀井忠広さん、歌舞伎(田中流長唄囃子方)の田中傳左衛門さん及び田中傳次郎さんが各界でご活躍されていますので、そのことが何よりのご供養になるのではないかと思います。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.23
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。なお、毎回、外国人2名及び日本人1名をご紹介していますが、今回は外国人1名及び日本人2名(組)をご紹介してみたいと思います。
 
▼フランチェスコ・トリスターノの「トッカータ」(2022年)
ルクセンブルク人現代作曲家のフランチェスコ・トリスターノ(1981年~)は、フランスで開催されている現代音楽のみを課題曲とする第6回オルレアン国際20世紀ピアノコンクールで優勝(2004年)し、現在、ピアニスト&現代作曲家としてジャンルレスにクロスオーバーな活躍をしている現在注目されている期待の俊英です。2017年に故・坂本龍一のオファーで「GLENN GOULD GATHERING」に参加し、東京の心象風景を表現した作品「東京ストーリーズ」も話題になりました。この動画は、最新のアルバム「オン・アーリー・ミュージック」に収録されている1曲です。
 
▼チェンバリスト:染田真実子/藤井喬梓の「奈良組曲〜クラヴサンによる古都の七つの幻影」(2017年)
日本人チェンバリストの染田真実子(1988年~)は、オランダで開催された現代音楽国際コンクールで第2位(2015年)を受賞し、チェンバロによる現代音楽の演奏を中心に活動している期待の俊英です。過去のブログ記事でも書きましたが、ストイックな響きの古楽器と現代音楽の相性は非常に良いと感じており、新しいジャンルとして古楽器を使用した現代音楽に注目しています。この動画は藤井喬梓の「奈良組曲~クラヴサンによる古都」を世界初演したときの模様です。2023年8月31日及び2023年9月8日「染田真実子チェンバロリサイタルvol.4 はなだま」の演奏会は聞き逃せません。
 
▼田中慎太郎の「灯火」(2022年)
日本人現代作曲家の田中慎太郎(1988年~)は、音の肌触りや静けさをテーマにしてポストクラシカル、アソビエントや映像作品への楽曲提供等を中心にして活動している現在注目されている現代作曲家です。この動画は、アルバム「永遠と一日」に収録されている曲をフィディアス・トリオ(Vn:松岡麻衣子、Cl:岩瀬龍太、Pf:川村恵里佳)が演奏したものですが、この三重奏団はクラリネット三重奏の魅力を追求することを目的として主に現代音楽(日本初演や委嘱作品を含む)を演奏する団体として設立されていますので、併せて、この機会にご紹介しておきます。